「その1」の続きです。
芥川山城を登り始めて約30分、切通し虎口があります。
縄張り図によると、ここを抜けると第2曲輪となっています。

「切通し」とは、丘などの土を掘削して造った道のこと。

石垣の名残でしょうか?
虎口の脇には大きな石がゴロゴロ散在しています。


虎口を過ぎると、左側(南側)が一段高くなっています。
縄張り図によると、「第2曲輪」「二之郭」「東出丸」などの名称で書かれていますが、まあ、とにかく登ってみましょう。

曲輪の上に登ってきました。
登城前にネットで予習してきた際には、広い削平地だったはずなんですが、来てみると、大木が何本も根こそぎ倒れていて、散々に荒れ果てていました。

わたしがここを訪れたのは、令和になる少し前の平成31年(2019年)3月9日。
この前年の平成30年(2018年)9月4日に上陸した台風21号で、大阪は各地でたいへんな被害を受けたのですが、おそらく、これはそのときの被害だと思われます。

それにしても、酷いですね。
こんな大木が根っこから倒れるって、いったいどんだけ強い風だったのでしょう。

九州や沖縄の方々と違って、関西はあまり大きな台風が上陸することはありませんでしたから、実際わたしも、あのときは初めて台風が怖いと思いました。

曲輪の周囲は土塁で囲われています。

その土塁のどこかの一角から降りたところに石垣の遺構があるはずなんですが、大木が倒れて視界が遮られている上に足元も悪く、なかなか見つけられません。

下へ降りていけそうな土塁の切れ目をみつけました。
降りてみましょう。

ありました。
見事な石垣の遺構です。

苦労して見つけただけに、感動もひとしおです。

芥川山城の始まりは、戦国時代の永正年間(1504~1523年)に室町幕府の管領・細川高国が築いたとされていますが、この石垣の遺構は、おそらく天正22年(1553年)に入城した三好長慶の時代のものと思われます。
しかし、それも定かではなく、専門家の見方では、この石垣は戦国時代の技術ではあり得ない組み方をしているそうで、現在でも議論になっているそうです。
ただ、三好長慶が永禄3年(1560年)にこの城から移り住んだ近くの河内飯盛山城でも同じ技術の石垣があるそうで(参照:河内飯盛山城)、そう考えれば、やはり三好長慶の時代の石垣と考えていいのかもしれません。

日本で最初の石垣の城は近江の観音寺城(参照:観音寺城)と言われていますが、本格的に石垣の城が普及するのは、天正4年(1576年)に築かれた織田信長の安土城からと言われています。
その20年近く前に、実は三好長慶がここに石垣の城を築いていた・・・。
そう考えながらこの石垣を見ると、なんだかロマンを感じます。

さて、石垣を堪能したので、主郭に向かって進みましょう。
「その3」に続きます。
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▲ by sakanoueno-kumo | 2019-07-04 11:54 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)