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2019年 07月 06日 ( 1 )

 

三好長慶の本城、芥川山城攻城記。 その4 ~北出丸・南出丸~

「その3」で主郭まで攻略しましたが、続いて、主郭北西にある曲輪に向かいます。


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主郭北西にある細い道を下ります。


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主郭北側の一段下がったところにも、曲輪跡と見られる削平地があります。


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その周囲は、立派な土塁跡で囲われています。


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更にその北西にある曲輪に向かいます。

細い喰違虎口となっています。


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虎口を抜けて下ったところに、堀切土橋があります。


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土橋です。


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そして堀切です。


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土橋を渡ると、東西に長い削平地に出ます。


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縄張り図によると、「西郭」とか「北出丸」とか名称は様々ですが、要は主郭北西にある曲輪です。


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反対側(北西側)からみた北出丸です。


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で、一旦主郭に戻って、今度は主郭南西の曲輪に向かいます。


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ここが、南西にある曲輪。


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表示板には「田ノ丸」と書かれていますが、縄張り図には、「南郭」とか「南出丸」といった名称で紹介されています。


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ここは、北出丸のように樹木が伐採されていないため、それほど広さを感じませんが、縄張り図によると、北出丸と同じぐらいの広さがあるようです。


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さて、だいたいの曲輪は攻略したので、「その3」で紹介した主郭曲輪群と第2曲輪の間の分岐点に戻り、そこから今度は大手筋で下山することにしました。


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50mほど下山したところに、石垣の遺構が残っています。


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残念ながら中央が崩れてしまって両端のみかろうじてその姿を残していますが、かつては一列につながった立派な石垣の壁だったのでしょうね。


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崩れた部分の下には、石垣に使用されていたのであろう巨石が散乱しています。


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「その2」でもふれたとおり、この石垣は三好長慶の時代の石垣と考えられています。

日本の城郭建築に本格的に石垣が使用されるようになるのは、近世城郭に先駆けとなった織田信長安土城の築城以降と言われていますから、三好長慶の時代のものとすれば、当時とすれば、たいへん珍しいものだったに違いありません。


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大手筋を登ってきたら、目の前にドーンと石垣の城壁が現れる。

当時の近隣の武士たちは、この石垣に圧倒され、三好長慶に屈していったのかもしれません。


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その石垣の前の高い木が、軒並み大きく撓ってお辞儀していました。


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これも、おそらく平成30年(2018年)9月4日に上陸した台風21号による被害でしょうね。

これほどの大樹が弓のように撓っている姿は、なかなか異様な光景でした。


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さて、石垣を後にして下山しましょう。


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天文22年(1553年)から7年間に渡って、ここ芥川山城を本拠としていた三好長慶でしたが、永禄3年(1560年)に近くの河内飯盛山城(参照:飯盛山城)に居を移し、芥川山城には嫡男の三好義興を据えました。

しかし、3年後の永禄6年(1563年)に義興は22歳の若さで急逝

すると、あとを追うように長慶も永禄7年(1564年)に飯盛山城で没します。


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その後、芥川山城はしばらく歴史の記録から姿を消しますが、永禄11年(1568年)に織田信長が摂津に侵攻すると、この城に立て籠もった三好長逸らを追い落とし、信長配下の和田惟政を入城させます。

しかし、その和田惟政も翌年には高槻城(参照:高槻城)に移り、代わって重臣の高山友照が城主となりますが、天正元年(1573年)に高山友照の子・高山右近が和田氏を追放して高槻城主となったため、このとき、芥川山城は廃城になったのではないかと考えられています。


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と、歴史の話をしている間に、大手筋の登り口まで降りてきました。

石垣がありますが、これは明治以降の築かれたものだそうで、城跡とは関係ありません。


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麓から三好山を見上げます。

三好長慶によって畿内の覇者となった三好氏でしたが、長慶の死後は衰退の一途を辿ります。

栄枯盛衰は世の習い。

最後に、続日本100名城のスタンプを載せます。

スタンプを押したのは、この日より1年近く前でした。

大手石垣が描かれていますね。


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by sakanoueno-kumo | 2019-07-06 11:28 | 大阪の史跡・観光 | Comments(0)