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2019年 07月 08日 ( 1 )

 

いだてん~東京オリムピック噺~ 第26話「明日なき暴走」 ~人見絹枝~

 今回は「女いだてん」こと、人見絹江が主人公の物語でしたね。ドラマで描かれていたとおり、人見は日本人女性初のオリンピック出場選手にして日本人女性初のオリンピックメダリストとなった伝説の女性です。金栗四三日本マラソン界の先駆者なら、人見絹枝は日本女子陸上競技、ひいては日本女子スポーツの先駆者といっていいでしょう。しかし、「○○界のパイオニア」と言われる人たちの多くがそうであるように、彼女のアスリートとしての生涯も、決して順風満帆なものではありませんでした。


 人見絹枝は明治40年(1907年)年1月1日、岡山県の自作農の次女として生まれました。幼い頃から活発で身体が大きかった彼女は、岡山高等女学校に入るとテニスバレーボールなどでその才能を発揮しますが、一方、学業成績も優秀で、読書が好きな文学少女でもあったそうです。そんな彼女に両親は女子師範学校への進学を望んでいましたが、彼女のスポーツの才能を惜しんだ女学校の教師たちに熱心に勧められ、上京して二階堂体操塾(現・日本女子体育大学)に入学します。


 大正14年(1925年)10月に行われた岡山県女子体育大会に出場し、三段跳び世界記録を記録すると(現在非公認)、その後も次々に多種目で日本記録を樹立し、一躍日本女子陸上を牽引する存在となります。一方で、まだ女子スポーツへの偏見が厳しく、数々の批判にも晒されました。結婚して子供を生むことこそが女性の仕事だと考えられていたこの時代、女性がスポーツをすること自体が否定され、また、人見の実家にも「人前で太ももをさらすなど日本女性にはあってはならない」「日本女性の個性を破壊する」などといった文面の書簡が送られて来ていたといいます。「バケモノねえちゃん」と呼ばれていたかどうかはわかりませんが、それに近い罵声はあったかもしれませんね。当時、人見絹枝とともに日本女子陸上界のトップを走っていた寺尾正・文という姉妹がいましたが、彼女たちもアムステルダムオリンピックの出場選手候補にあがっていましたが、家族の意向によって出場は叶いませんでした。これも、女子陸上への世間の偏見が原因だといわれています。そんな時代だったんですね。


 ドラマでは描かれていませんでしたが、人見絹枝が国際大会の舞台で戦ったのはアムステルダムオリンピックが初めてではなく、その2年前の大正15年(1926年)にスウェーデンのイエテボリで開催された国際女子競技大会に日本からたった1人で出場し、彼女はこの大会で走り幅跳び立ち幅跳び優勝するなどの活躍を見せ、その名を世界に知られるようになりました。人見のオリンピック挑戦は決して井の中の蛙だったわけではなく、世界で通用した実績があっての挑戦だったわけです。


e0158128_22162429.jpg そして、迎えた昭和3年(1928年)夏のアムステルダムオリンピッにて、人見は女子の個人種目全て(100m、800m、円盤投、走高跳)にエントリーしました。残念ながら彼女が最も得意としていた走り幅跳びがなく、実質100m一本に絞っていたといいます。その100mで、まさかの準決勝敗退。オリンピックのプレッシャーというのは、今も昔も変わらない・・・というか、世間の風当たりが強かった人見選手にとっては、その重圧は今の選手の比ではなかったでしょう。ただ、ここで意気消沈してしまわないのが彼女のスゴイところで、翌日に行われた800m予選を通過し、さらにその翌日の8月2日に行われた決勝で、みごと銀メダルを獲得します。タイムは2分17秒6世界新記録。優勝したドイツのリナ・ラトケ選手とは胸差の同タイムでした。ドラマでは、100m敗退のあとに急遽800m出場を決めたように描かれていましたが、エントリーはしていたわけですから、出場する意思は最初からあったのでしょう。でも、本命はあくまで100mで、800mにはそれほど力を入れてはいなかったようです。しかし、結果はその800mで日本人女性初のメダリストとなった。あるいは、ドラマのように、100mが不本意な結果に終わったことが、彼女の800mの走りを生んだのかもしれません。


 ドラマでは、彼女のその後は描かれないようですね。ナレーションで語られていたように、彼女はオリンピック出場からわずか3年後の昭和6年(1931年)、24歳の若さでこの世を去ります。その直接的な死因は結核だったようですが、オリンピック後の彼女は、日本人女性初のオリンピックメダリストとして全国各地より依頼された講演会などで多忙な毎日を送るなか、国内外の競技会にも出場するなどのハードスケジュールをこなし、その疲労から体調を崩し、その無理がたたって死に至ったと言われています。世間の偏見に晒されていた彼女だけに、オリンピック後、一転して称賛される身となったことで、後進のためにその偏見をなくそうと必死で頑張っていたのかもしれませんね。師の二階堂トクヨは彼女の死を悼み、「スポーツが絹枝を殺したのではなく、絹枝がスポーツに死んだのです」という言葉を『婦人公論』に寄せています。


 紀行でも紹介されていたとおり、その後、陸上日本女子のオリンピックメダリストは、64年後の平成4年(1992年)のバルセロナオリンピック女子マラソンでの有森裕子選手まで待たなければなりません。その有森選手が銀メダルを獲得したのが、日本時間では人見のメダル獲得と同じ8月2日(現地では8月1日)だったという話も、不思議な縁です。また、日本人女子陸上の世界記録樹立というと、あの高橋尚子選手までありませんでしたし、トラック競技でいえば、世界記録もメダリストも未だ生まれていません。後にも先にも人見絹枝ただ一人の偉業ということですね。日本が誇る伝説のアスリートです。


 文学少女だった人見は、その死に際して、辞世の詩を詠んでいます。


 「息も脈も高し されど わが治療の意気さらに高し」


 彼女が息を引き取ったのは、奇しくも彼女が銀メダルを獲得した日と同じ8月2日でした。



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by sakanoueno-kumo | 2019-07-08 23:04 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)