先日の稿で紹介した摂津の芥川山城主だった細川氏や三好氏のルーツとなる城が、徳島県にあります。
続日本100名城に選定された勝瑞城です。

県道松茂吉野線沿いに、「勝瑞城跡」と記された誘導板があります。
矢印は北側を誘導しています。

現在、勝瑞城跡は見性寺というお寺になっています。
見性寺は三好氏の菩提寺で、江戸時代にここに移され三好氏代々の墓を守ってきました。

入口には、「史跡勝瑞城趾」と刻まれた石碑と「西国守護三好長治公一族菩提所」と刻まれた石碑が並んで建てられています。
三好長治は、畿内の覇者となった三好長慶の甥です。

勝瑞城の築城時期は定かではなく、一説には、承久の乱のあった鎌倉時代とも言われますが、確認できる史料としては、室町時代に阿波国守護となった細川氏によって、遅くとも15世紀後半には築かれていたと考えられています。
もっとも、その頃は城というより守護所としての居館で、城郭として整備されたのは、天文22年(1553年)に下剋上によって覇権を握った三好氏の時代になってからと思われます。

以後、天正10年(1582年)に土佐の長宗我部元親の攻め滅ぼされるまで、三好氏3代の本拠となりました。

境内に設置された説明板です。

また、境内には、三好氏4代の墓が並んでいます。

左から、三好之長、三好元長、三好義賢、三好長治の墓石。
3番目の三好義賢が天文22年(1553年)に守護の細川持隆を殺害し、下剋上を果たしました。

同じく境内には「勝瑞義冢碑」があります。
「義冢」とは、戦で命を落とした名もなき兵の墓という意味です。
説明板によると、四国正学といわれた徳島藩儒官・那波魯堂(1727~89年)の撰だそうで、三好氏の盛衰と戦没者の慰霊文を記した貴重なものだそうです。


石碑の裏側に刻まれているのが、その慰霊文のようです。
わたしには、これを読解する力はありません。
勝瑞城は、京で本能寺の変が起きた2ヶ月後の天正10年(1582年)8月から9月にかけて、四国統一を目指す長宗我部元親と三好一族の十河存保の間の激戦の舞台となりますが、そのときの戦死者を追悼した慰霊文でしょうか?

境内には、遺構といえるようなものはあまり残っていないのですが、一角に少しだけ土塁跡と見られる場所が確認できます。

その説明板です。

見性寺の周囲には、水濠跡と思われる池で囲われています。

で、境内を出て県道松茂吉野線沿いに戻ると、今度は南側に向けて「勝瑞館跡」と記された看板があります。
行ってみましょう。

最近建てられたであろう新しい石碑があります。

以前、ここには鉄工所があったそうですが、平成9年(1997年)に協力を得て発掘調査を行ったところ、大量の土師器皿や国内外産陶磁器類、銭などが出土し、濠や礎石建物跡などが検出されたそうです。
そこで、平成11年(1999年)から本格的な発掘調査が行われはじめ、現在もなお、調査は続いています。




現場には、「発掘調査のあゆみ」と題した看板が設置され、調査の過程が紹介されています。

案内板です。

こちらは、濠跡と礎石建物跡の説明板です。

平成13年(2001年)には勝瑞城跡と勝瑞城館跡と合わせて国の史跡に指定され、更に、平成19年(2007年)には新たに発見された館跡の東側部分8800㎡が国の史跡に追加指定され、そして、平成29年(2017年)4月6日には、日本城郭協会から発表された続日本100名城に選定されました。
最後に、その続日本100名城のスタンプを載せます。

▲ by sakanoueno-kumo | 2019-07-11 00:26 | 徳島の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)