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2019年 07月 29日 ( 1 )

 

いだてん~東京オリムピック噺~ 第28話「走れ大地を」 その1 ~満州事変~

 「激動の昭和」とよく言われますが、その入口となったのは、昭和6年(1931年)9月18日に起きた柳条湖事件に端を発する満州事変といっていいでしょう。この事件後、日本の関東軍が主導となり、事実上の日本の傀儡国家・満州国を建国。これをきっかけに日本は国際連盟を脱退し、世界で孤立するとともに、国内は軍部独裁の方向に向かっていきます。いわば、昭和の日本がダメになったスタート地点です。


e0158128_19211734.jpg 清朝滅亡後、中華民国と呼ばれていた当時の中国は、誰が国を統治するかが定まらない不安定な状態にありました。のちに中華人民共和国を建国する毛沢東率いる共産党と、共産主義に反対する蔣介石率いる国民党が対立し、また、日本が駐留していた満州を支配していたのは、張作霖でした。日本はこの張作霖を支援して満州における権利を拡大しようとしていたのですが、やがて張作霖が日本の言うことをきかなくなり、蔣介石との戦いに敗れると、張作霖を無用の存在として、関東軍の謀略で列車ごと爆殺してしまいます。これが満州事変の3年前の昭和3年(1928年)6月4日に起きた「張作霖爆殺事件」。当初、この事件は中国人同士の政争と見せかけられていましたが、実際には日本の関東軍の陰謀だったことがわかります。しかし、首謀者の関東軍参謀の河本大作大佐は停職処分という軽い処分で済まされました。この事件とその後の政府の対応に激怒した昭和天皇は、当時の首相・田中義一を叱責し、田中内閣は総辞職します。しかし、このとき関係者を厳しく処罰しなかったことで、のちに軍部が政府のいうことを聞かなくなっていくんですね。


 この事件後、張作霖の息子・張学良が日本軍に強い恨みを持ち、父の敵だった蒋介石とタッグを組み、反日運動を激化させていきます。満州を支配するために張作霖を殺したはずが、逆にますます満州の権益は事件前より悪くなってしまいました。当然の報いといえます。


e0158128_19212164.jpg 張作霖爆殺事件の後、石原莞爾板垣征四郎という二人のエリート軍人が関東軍の参謀となります。この二人によって満州事変が計画されました。石原はこの時点で、いずれ東洋の代表である日本西洋の代表であるアメリカ戦争になることを予見し、その戦いに勝ったほうが世界の覇権国となり、そうなることで、以後、世の中から戦争はなくなるという持論を掲げていました。そしてその戦争に日本が勝つためには、どうしても満州を日本の領土にしなければならないと考えていたんですね。それまであったロシアからの国防論とは、少し違った観点での満州支配論でした。


 昭和6年(1931年)9月18日、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路の一部が爆破されました。いわゆる柳条湖事件ですね。当初、関東軍はこれを中国軍の犯行と発表します。日本国民のほとんどは第二次世界大戦終結までこれを信じていました。しかし、実際には、関東軍が自作自演したでっちあげの謀略だったというのは、現在では周知のところだと思います。関東軍はこの事件をきっかけに軍事行動に訴え、満州各地を次々と占領し、翌昭和7年(1932年)2月、関東軍は満州全土を制圧。3月1日に満州国の建国を宣言しました。


こうした日本軍の行動に対し、中国政府は、日本の満州での行動は不法であると国際連盟に訴えました。これを受けて国際連盟はリットン調査団を満州に派遣します。調査団は日本の満州における権益を認めながらも、軍事行動は自衛と認められないと結論づけます。この報告書を受けた国際連盟は、満州国建国は認められないとし、日本は占領地から引き上げるよう勧告します。これを受けた日本代表の松岡洋右は会議から退場、国際連盟を脱退しました。ここから、日本は戦争への道を突き進んでいきます。


 満州事変だけで長くなっちゃったので、明日、「その2」に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-07-29 19:22 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)