人気ブログランキング |

2019年 09月 20日 ( 1 )

 

天誅組の足跡を訪ねて。 その3 「錦織神社」

「その2」で紹介した狭山藩陣屋跡から3kmほど南東の富田林市にある錦織神社に、天誅組顕彰碑があります。

テニスの錦織圭選手は「にしこり」と読みますが、錦織神社「にしきおり」と読みます。


e0158128_14320354.jpg


錦織神社という名称になったのは明治40年(1907年)だそうで、天誅組の時代には、水郡神社と呼ばれていたそうです。


e0158128_14320651.jpg


鳥居をくぐると、長い真っ直ぐな参道が目に入ります。

200mほどあるでしょうか?


e0158128_14334719.jpg


その参道の途中の脇に、その碑はあります。


e0158128_14395153.jpg


この碑は、天誅組に参加した河内勢を讃えたものだそうです。


e0158128_14395771.jpg


天誅組は、結成時の同志は38人で、そのうち18人が土佐脱藩浪士、8人が久留米脱藩浪士でしたが、その進軍の途上、続々と同志が増えていきました。


e0158128_14395457.jpg


この石碑には、天誅組に参加した河内勢の志士たちの名が刻まれています。


e0158128_14400034.jpg


なぜここに石碑が建てられたかというと、天誅組河内勢のリーダーで天誅組小荷駄奉行となった水郡善之祐が、かつてここ錦織神社(当時は水郡神社)の祠官だったからだそうです。

水郡善之祐は同じ年の足利三代木像梟首事件にも関与していたといいますから、なかなか過激な人物だったようです。

善之祐は天誅組を財政面で支え、当時13歳だった息子の英太郎もともに参加しました。

天誅組瓦解後は投降し、善之祐は京の六角獄舎処刑されますが、息子の英太郎は若年と言うことで命を救われ、戊辰戦争に従軍した後、明治維新後はアメリカへの留学を経て、大阪、和歌山、姫路などの地方裁判所の検事を歴任しました。

明治31年(1898年)、父子ともに贈正五位を賜ります。

善之祐辞世

「皇國のためにぞつくすまごころは知るひとぞ知る神や知るらん」


e0158128_14422709.jpg


中央の大きな顕彰碑の横には、「和田佐市碑」と刻まれた石碑があります。


e0158128_14423020.jpg


和田佐市は水郡善之祐の従者で、天誅組伍長として参戦。

水郡父子、森元伝兵衛と同じ甲田村の出身でした。

なぜ、この人の碑だけ単独で建てられているのかは、わかりませんでした。


e0158128_14461308.jpg


せっかくなので、社殿の写真もアップしておきます。


e0158128_14461755.jpg


本殿は天平18年(1368年)創建だそうです。

南北朝時代のものですね。

重要文化財に指定されています。


e0158128_14462122.jpg


主祭神は、建速素戔嗚命、品陀別命、菅原道真

でも、近年は錦織圭選手ファンの参拝が多いとか。

そのうち祭神に合祀されるかもしれません(笑)。



「天誅組の足跡を訪ねて。」シリーズの他の稿はこちらから。
   ↓↓↓

天誅組の足跡を訪ねて。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-09-20 00:53 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)