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2019年 10月 19日 ( 1 )

 

天誅組の足跡を訪ねて。 その15 「天誅組天ノ辻本陣跡」

文久3年8月17日(1863年9月29日)に櫻井寺(別稿:その11)で五条新政府を立ち上げるも、その翌日に起きた「八月十八日の政変」により、わずか1日で逆賊となってしまった天誅組

京で天誅組追討の命が下されたことが明らかとなると、解散抗戦か協議のすえ、徹底抗戦の道を選びます。

もう、代官らを殺しちゃってましたからね。

いまさら後戻りは出来なかったのでしょう。

そして櫻井寺を後にした天誅組は、南下して要害堅固な天ノ辻本陣を移すことを決め、20日にこの地に入りました。

現在、本陣が布かれた場所は、維新歴史公園として整備されています。


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総裁の吉村寅太郎は、地元の医師・乾十郎とともに尊皇の志の厚いことで知られる十津川郷士募兵を働きかけ、960人の兵を集めました。

そして8月24日、その960人がこの地に集結したと伝えられます。


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しかし、その十津川郷士たちも、自ら臨んで来援した志士ばかりではなく、半ば脅迫されて強制的に集められた者たちも多かったため、戦意に乏しかったといいます。

しかも、休息も食事もなく戦闘に参加せられるなどの苛烈な指揮だったため、玉堀為之進ら数名の十津川郷士が天誅組幹部に抗議しますが、ここ天の辻で斬首されています。

こうなると、もはや義軍とはいえませんね。

天誅組は単なる暴徒と化していました。


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公園内には、「天誅組本陣遺趾」と刻まれた石碑が建てられています。


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こちらの説明碑は、新しいもののようです。


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ここ天誅組天辻本陣のあった場所は、地元の豪商であり有力者であった鶴屋治兵衛の屋敷がありました。

鶴屋治平衛は、天誅組の求めに応じて快く自宅を提供したと伝えられ、その結果、鶴屋も天誅組と運命をともにすることになります。

本当に快く協力したのか、あるいは、のちの明治政府がそういうことにしたのかはわかりません。

公園内には、「義烈 鶴屋治兵衛翁碑」と刻まれた石碑があります。

揮毫は公爵・三条公輝

元勲・三条実美の三男です。


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公園内には、天誅義士の歌碑がいくつかあります。

こちらは、天誅組記録方の伴林光平の歌碑です。


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伴林光平の歌碑がもうひとつありました。


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こちらは、武器取調方の野崎主計の歌碑です。

野崎は吉村と乾の誘いによって来援した十津川郷士です。


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誰の歌碑かわからないものもあります。


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8月26日、天誅組は高取城を攻撃しますが、高取藩兵の銃撃を受けてあえなく敗退

その日の夜に吉村ら決死隊が再び夜襲をかけましたが、これも失敗に終わり、天誅組は再びこの地に退却しました。

そして、9月14日、紀州藩・藤堂藩の追討軍が迫ってきたため、天誅組はここ天辻本陣に火を放って放棄し、その後、十津川村の武蔵、風屋、上野地などに本陣を転々と移すことになります。




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by sakanoueno-kumo | 2019-10-19 11:55 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)