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2019年 11月 01日 ( 1 )

 

天誅組の足跡を訪ねて。 その22 「鷲家口古戦場~宍戸弥四郎戦死の地」

鷲家口北側の県道16号線と220号線が交わる三叉路に、「天誅義士 宍戸弥四郎先生戦死之地」と刻まれた石碑があります。


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宍戸弥四郎は三河国刈谷藩出身の人物で、天誅組では副隊長格でした。

天誅組三総裁の一人である松本奎堂とは、竹馬の友だったといいます。

刈谷藩は小藩ながら譜代大名で、宍戸と松本は、譜代藩出身の勤皇志士という異色の経歴の持ち主でした。


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宍戸は旧藩時代、馬廻役に取り立てられ、のちに江戸に出て兵法を学び、3年後に帰国して藩兵の訓練につくしました。

その後、28才の時再び江戸に出て以来、関東各地を回って勤皇の志士と交わり、やがて自身も勤皇家となっていきます。


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天誅組には文人、学者、思想家などが揃っていましたが、宍戸のような兵学者は少なかったようで、宍戸は隊の合図係となりました。

以後、各地の激戦で法螺貝を吹き、前線の先頭に立ってきました。


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文久3年9月24日(1863年11月5日)、那須信吾を隊長とした決死隊の一員に加わって敵陣に切り込み大激戦を繰り広げますが、その後、このあたりに来て敵と戦っていた最中に足を滑らせて川に転落し、対岸によじ登ろうとしたところを、背後から彦根勢の一斉射撃を浴び、壮絶な最期を遂げました。


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彦根藩士がその遺骸を調べると、「埋葬代」としたためた肌付き金小判十両が縫い付けてあったといいます。

いつ死んでもいいように、自身が死んだあとの始末もちゃんと付けていたわけですね。

まさに、志士は溝壑に在るを忘れず。

武士道を体現した最期だったといえるでしょうか。


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遺骸は小川の明治谷墓地に埋葬されています。

辞世

「今はただ 何おかもはむ 敵あまた うちて死にきと 人のかたらば」




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by sakanoueno-kumo | 2019-11-01 19:51 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)