人気ブログランキング |

2019年 11月 06日 ( 1 )

 

天誅組の足跡を訪ねて。 その24 「鷲家口古戦場~鍋島米之助・森下幾馬戦死の地・島村省吾捕縛地」

鷲家口古戦場から伊勢街道を1kmほど北上したところに、「天誅義士 鍋島米之助先生戦死之地」と刻まれた石碑があります。


e0158128_23060734.jpg


鍋島米之助は、文久3年9月24日(1863年11月5日)、那須信吾を隊長とした決死隊6名のうちのひとりです。

彼らは中山忠光率いる天誅組本隊を逃がすための捨て石として、彦根藩陣所に斬り込みました。


e0158128_23061047.jpg


説明板によると、敵弾を受けて負傷した鍋島は敵陣を突破してこのあたり「一ノ谷」まで進み、農家の納屋に潜んでいたところを翌朝発見されて密告され、駆けつけた藤堂藩の銃撃隊狙撃されてあえない最期を遂げたといいます。


e0158128_23061414.jpg


鍋島は土佐藩出身の郷士でした。

文久2年(1862)、脱藩して京都に入り、諸藩の志士と交わって尊皇攘夷運動に奔走し、やがて天誅組に加わります。

若い土佐藩の志士たちにとって、吉村寅太郎那須信吾ら歴戦の志士たちは憧れだったのでしょうね。


e0158128_23092807.jpg


鍋島米之助戦死の地碑のすぐ側には、別の説明板と誘導板がありました。

まず、説明板を見てみます。


e0158128_23120531.jpg


文久3年9月26日(1863年11月7日)、天誅組の森下儀之助、森下幾馬、山下佐吉、山崎吉之助の4名は、負傷して本隊と逸れていた吉村寅太郎の命を受けて、中山忠光率いる本隊のその後の様子を確認するため鷲家口までやってきますが、そのうち森下兄弟がこの谷を登り、頂上近くの紀伊街道(赤谷口)についたとき、なぜか兄の儀之助はに進み、弟の幾馬はに進みました。

左に進んだ兄は無事脱出できましたが、右を進んだ弟は、折から山狩中だった藤堂藩士西荘源左衛門の隊に遭遇し、その銃弾で戦死しました。


e0158128_23120869.jpg


その横にある誘導板は、島村省吾捕縛地に向かう標識です。

島村は土佐藩士で、天誅組では最年少の19歳でした。

鷲家口の決戦において、中山忠光の本隊とともに鷲家口を切り抜けましたが、かなりの深傷を負っていたため、このあたり「一ノ谷」の柴小屋で傷の養生をしていましたが、25日昼過ぎ紀州藩に捕えられました。

そのとき省吾は刀一本一両のほかは何も持っていなかったといいます。

のちに京都に送られ、文久4年2月16日(1864年3月23日)、京都の六角獄舎斬首されました。


e0158128_23121343.jpg


捕縛地はここから歩いて20分ほどと書かれていましたが、こんな山道を歩かなければならず、この日は天気も悪く時間もなかったため、断念しました。




「天誅組の足跡を訪ねて。」シリーズの他の稿はこちらから。
   ↓↓↓

天誅組の足跡を訪ねて。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-11-06 20:12 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)