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2019年 11月 09日 ( 1 )

 

天誅組の足跡を訪ねて。 その27 「鷲家古戦場~藤本鉄石 福浦元吉 戦死之地」

鷲家口の激戦地から3kmほど北上した鷲家にも、天誅組史跡が残されています。

まずは、幕府より命を受けて追討軍として出陣した津藩の陣所跡です。


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古い家屋の2階部分に看板が見えます。


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「天誅組史跡(油屋) 藤堂藩陣所跡」と記されています。

藤堂藩とは津藩のこと。

津藩の追討軍は、かつてここにあった油屋に陣を布き、天誅組の行く手を阻みました。


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家屋の横の植え込みには、「藤堂藩本陣跡」と刻まれた石碑が。


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そのすぐ側には、文政11年(1828年)建立と記された伊勢街道の道標があり、その上には常夜灯が設置されています。

ここ鷲家村は、江戸時代は紀州藩領で、伊勢南街道と佐倉峠を通って宇陀に出る道の交差点にあたり、かつては交通の要所として宿屋や店がいくつか軒を並べ賑わう場所だったそうです。

つまり、この道標は、天誅組の変のときもあったということですね。


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道路を挟んでその斜め向かいの郵便局の前には、「紀州藩本陣跡」と刻まれた石碑看板があります。


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石碑です。


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看板には、「大庄屋辻四郎三郎屋敷 紀州藩家老 天誅組追討軍総督山高左近 本陣跡」とあります。


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その近くには、「紀州藩軍役方頭取 金沢弥右衛門 陣所跡」と書かれた看板があり、その下には、「藤本鉄石 福浦元吉 戦死之地」と刻まれた石碑があります。


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藤本鉄石天誅組三総裁のひとり、福浦元吉はその従者でした。


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文久3年9月24日(1863年11月5日)に起きた鷲家口の決戦で、決死隊が囮となって壮絶な死を遂げていた隙きに、藤本はもうひとりの総裁・松本奎堂とともに敵中突破に成功します。

しかし、翌日の25日に松本とはぐれ、ここ鷲家の中心部から東へ約1kmの岩本谷という所に出ました。

そこで、紀州藩銃撃隊の的場喜一郎狙撃を受けますが、命中せず、肉迫して的場を討ち取りました。

しかし、そこで、もはや逃げられないと観念したのか、あるいは、仲間を残して自身だけ逃げるのを潔しとしなかったのか、伊勢街道を東へ逃れる計画を断念し、西の敵陣まで引き返し、ここ紀州藩の陣所に猛烈に斬り込みました。

不意をつかれた紀州藩軍は大混乱に陥りましたが、数十人いたという紀州兵に対して、こちらは藤本と福浦の2名

結局は多勢に無勢で壮絶な討死を遂げます。


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ここから東へ約1kmの岩本谷には、的場喜一郎を討ち取ったことを説明する看板がありました。


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藤本は死の前日、昼食のもてなしを受けた武木の庄屋大西家で、その好意に謝意を込めた辞世ともとれる和歌三首を短冊に記しました。


大君の 御たゝむきさす あむ置きて あきつはなきか 秋のみ空に

八咫(やた)からす 導けよかし 大君の 事しいそしむ 御軍(みいくさ)のため

雲をふみ 岩をさくみし もののふの よろひの袖に 紅葉かつちる



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by sakanoueno-kumo | 2019-11-09 23:49 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)