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2019年 11月 16日 ( 1 )

 

天誅組の足跡を訪ねて。 その31 「天誅組終焉之地_吉村寅太郎の墓」

シリーズ最後です。

足を負傷したために一行から遅れていた吉村寅太郎は、傷が悪化して歩行困難となり、駕籠に乗せられて運ばれていましたが、文久3年9月27日(1863年11月8日)、津藩兵に発見されて射殺されました。

吉村の死によって、他の兵たちも相次いで戦死するか捕縛され、ここに天誅組は壊滅しました。


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現在、吉村が討死した鷲家谷には、「天誅組終焉之地」と刻まれた大きな石碑が建てられています。


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ここを訪れたのは、平成30年(2018年)11月18日。

このシリーズを始めて、ここだけはどうしても彼らが死んだときと同じ紅葉の季節に来たいと思い、気候を見ながら満を持して訪れました。


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でも、真っ赤という状態ではなかったですね。

紅葉はその年の気温の変化などで変わるそうですから、この年は真っ赤に染まる条件ではなかったのかもしれません。


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石碑の背後には鷲家川があり、向こう岸にわたる橋があります。

この橋の向こうに、吉村寅太郎原瘞處があります。

「原瘞(げんえい)」とは最初に埋めたお墓という意味です。


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鷲家川です。


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橋を渡ると、説明板があります。

その向こうに、広い空間が見えます。


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ここが吉村の原瘞處です。

説明板によると、吉村はこの大きな岩の裏手の下流30m左岸の山際にあった薪小屋に潜んでいたところを、津藩兵の金屋健吉によって銃殺されたといいます。


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吉村寅太郎は土佐勤皇党出身で、その後、党を離脱して脱藩し、福岡藩士の平野国臣、久留米藩士の真木和泉、庄内藩士の清河八郎など、他藩の過激な尊攘派と深く親交します。

文久2年4月23日(1862年5月21日)に起きた薩摩藩士の同士討ち事件(寺田屋事件)の際には、それに連座して捉えられ、土佐に引き渡されて8ヶ月間投獄されますが、やがて政情が尊攘派に有利になると釈放され、藩から自費遊学の許可を得て京へ上ります。

同年8月、孝明天皇大和行幸に合わせて天誅組を結成し、公家の中山忠光を連れ出して五條へ向かうんですね。

しかし、ほどなく政情が尊攘派に不利になると、一転して逆賊となったわけです。


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吉村の遺体は村人の手によってこの岩の根元に埋葬され、土方直行筆によって墓碑が建てられましたが、明治29年(1896年)に「その26」で紹介した明治谷墓所改葬されたあとは、この碑は原瘞の碑として吉村を偲ぶ記念碑となっています。


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吉野山 風に乱るる もみじ葉は 

わが打つ太刀の 血煙と見よ


吉村の辞世です。

わたしは、幕末の志士たちの辞世の句のなかで、この吉村の歌がいちばん心に響きます。

なんという凄まじい辞世でしょう。

この歌の情景を知りたくて、わたしは紅葉の季節にここを訪れたかったんです。


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吉村の太刀の血煙です。


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天誅組のメンバーに吉村をはじめ土佐藩出身の志士たちが最も多かったのは、そのお国事情にあったといっていいでしょう。

幕末の土佐藩の事情は複雑でした。

いわゆる「郷士」と呼ばれる下級武士たちは熱心な尊皇攘夷運動の奔走しながらも、藩そのものは佐幕でした。

そのあたりが、長州藩の松下村塾系の若者や、薩摩藩の誠忠組の面々たちとは決定的に違ったところだったでしょう。

そんななか、あくまで一藩勤皇を目指した土佐勤皇党の首魁・武市半平太(瑞山)らは、結局は藩によって処刑され、藩に頼らず脱藩して奔走した吉村ら浪士たちも、そのほとんどが維新を見ることなく非業の死を遂げます。

彼ら土佐系の脱藩浪士たちが志を訴えるには、このような過激な道しか思いつかなかったのでしょうね。


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とはいえ、彼らがやったことは、どう考えても義挙とは言えず、単なるテロリズムでした。

義挙ではなく暴挙だったとわたしは思います。

妄信的に尊皇攘夷を唱え、幕府の役人というだけで何の罪もない代官を殺害して首を晒し、五條や吉野の民衆をも巻き込み、やがて自滅していった。

後世の二・二六事件における陸軍青年将校たちや、昭和の全学連のようなものだったでしょう。

天誅組をして「維新の魁」などと言う人がいますが、わたしは賛同できませんね。

ピュアなだけで大局観がなく、猪突猛進型青二才たちが起こした愚かしい事件と言わざるを得ません。


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幕末の一流の志士たちのとっては、「尊皇攘夷」富国強兵の術であり、倒幕の手段にすぎませんでした。

だから、明治維新が成立するや否や新政府は「攘夷」を捨て、「尊皇」は、新政府の公約だったため一応は形だけ残しましたが、後年の帝国主義の天皇制とは違って、多分に形式的なお飾りでした。

天皇は尊ぶべき存在ではあっても担ぐべき存在ではないことを、一流の志士たちはちゃんとわかっていたんですね。

ところが、二流以下の志士たちは、これをほとんど宗教のように信じ、狂気と化していった。

司馬遼太郎さんは海音寺潮五郎さんとの対談形式の著書のなかで、そんな尊攘志士たちを神道的な国粋主義者と定義し、次のように述べています。


「国粋主義者というのは、つきつめてしまえばロマンティシズムであり、それに多少の評価を与えるとすれば、これは美学であって、とてもとても政治の救済にはならないし、その方策もなにも持っていない。もっていないだけにその信奉者の心情は常に悲痛で、発するところ、必ず暴発といった行動になる。」


まさしく、天誅組のこと評しているかの記述です。


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また、同じく海音寺さんとの対談のなかで、司馬さんはこうも述べています。


「幕末維新の諸事件の中で、天誅組がいちばんおろかしい感じがします。」


手厳しいですが、わたしもそう思います。


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天誅組の変は、幕府が倒れて明治に元号が変わる5年前の出来事でした。

もう少し大局を観て待っていれば、もっと違った歴史上の役割が彼らにもあったかもしれませんが、一見、犬死にのように思える彼らの屍のひとつひとつの積み重ねの上に維新が成立したとするならば、彼らがここで死んだことも、歴史上のひとつの役割だったのかもしれません。

その意味では、天誅組の暴挙は、歴史の必然だったのかもしれませんね。


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気がつけば「その31」まで続きました。

この稿にて、「天誅組の足跡を訪ねて。」のシリーズを終わります。




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天誅組の足跡を訪ねて。



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by sakanoueno-kumo | 2019-11-16 00:38 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)