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2019年 12月 04日 ( 1 )

 

「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その7 <黒田與一郎・中島太郎兵衛顕彰碑>

「その6」で紹介した三国神社自刃した中島太郎兵衛と、その弟の黒田與一郎顕彰碑が、兵庫県朝来市和田山町高田あります。

このあたりに、かつて彼ら兄弟の生家がありました。


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国道9号線を北上していると、顕彰碑の誘導看板があります。


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看板の向こうに見える鳥居は、高田八幡神社のものです。


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その鳥居のすぐ横の階段を上ると顕彰碑があります。


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中島太郎兵衛と黒田與一郎兄弟の生家は、代々、和田山高田村の大庄屋でしたが、幕末当時、凋落傾向にあったといいます。

ふたりは早くから但馬における農兵組織化にむけて北垣国道らとともに奔走し、美玉三平、平野國臣らが但馬に入ると、彼らとともに農兵を討幕のために転換させるよう画策しました。


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文久3年(1863年)8月に朝廷と幕府から農兵組立が発令されると、9月5日に養父神社第1回農兵組立会議が行われ、9月19日の第2回農兵組立会議は中島太郎兵衛宅で行われました。

この会議には生野代官所役人らも出席していましたが、代官所役人らが退席したあと、別室で密談が行われ、10月の挙兵が決定されました。

いわば、生野の変の首謀者メンバーだったんですね。


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文久3年10月12日(1863年11月22日)に生野代官所占拠した彼らでしたが、本陣での役割は、兄・太郎兵衛が節制方、弟・興一郎が農兵徴集方だったようです。

長州藩士を中心として他藩の浪士が多かった生野挙兵メンバーのなかで、地元出身で土地勘のある彼らは、きっと大きな役割を期待されていたのでしょう。

ところが、生野挙兵はあっけなく破陣

ふたりは薩摩藩士の美玉三平とともに播磨国山崎の木之谷まで逃亡しますが、深手を負っていた兄・太郎兵衛は自刃し、兄を介錯した興一郎はそのあと自ら縛につき、京都六角獄舎に送られ、慶応2年2月9日(1866年3月25日)に獄中死します。

詳しくは「その6」で紹介しましたね。


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この顕彰碑は昭和15年(1940年)11月10日に建立されたそうです。

わたしに言わせれば、彼らは顕彰されるようなことは何もしていないんですけどね。

彼らがやったことは、暴挙を画策して失敗して死んだ、ただそれだけなんですけどね。

顕彰碑が建てられた昭和15年(1940年)は、皇紀2600年にあたります。

そんなプロパガンダの顕彰碑といえるでしょう。

「その8」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-12-04 23:18 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)