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2019年 12月 06日 ( 1 )

 

「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その8 <平野國臣・横田友次郎捕縛の地>

「その7」で紹介した黒田與一郎・中島太郎兵衛顕彰碑から北西に5kmほど、「その3」で紹介した山口護国神社から直線距離で35kmほど北上した養父市上網場に、「平野國臣捕縛地」と刻まれた石碑があります。


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文久3年10月13日(1863年11月23日)夜の生野破陣後、平野國臣は鳥取藩士の横田友次郎とともに城崎に向かいますが、その途中、上網場村の旅籠京屋豊岡藩兵捕縛されました。

ふたりは一旦、豊岡藩の獄に繋がれますが、年が明けた1月5日に身柄を姫路に護送され、11日に京都の六角獄舎に送られます。


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それから約半年後の元治元年7月19日(1864年8月20日)の起きた禁門の変(蛤御門の変)で、京のまちは火の海となりました。

「どんどん焼け」と呼ばれたその火の手は獄舎周辺まで迫り、火災に乗じて囚人が逃亡することを恐れた西町奉行所の役人・滝川具挙は、判決が出ていない状態のまま独断で囚人の処刑を断行します。

このとき斬首された囚人は37名

そのなかにいた生野の変のメンバーは、平野國臣、横田友次郎、本多素行、大村辰之助の4人でした。

<参照:六角獄舎跡(勤王志士平野國臣外十数名終焉之地)

彼らの遺骸は、13年後の明治10年(1877年)、京都の竹林寺に埋葬されました。

<参照:平野國臣以下三十七士之墓(竹林寺)


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平野國臣の勤王志士としとの経歴は長く、安政の大獄で追及を受けた僧・月照西郷隆盛とともに鹿児島へ逃れさせ、そのとき入水自殺を図った西郷を平野が助けたという話は有名です。

また、文久2年(1862年)には薩摩藩尊攘派の浪士たちと挙兵して攘夷断行を企てますが、一団は伏見寺田屋で捕えられ、平野は福岡藩で投獄されます。

いわゆる寺田屋事件ですね。

翌年に許されて上京し、学習院出仕に任ぜられますが、八月十八日の政変で京都を去り、その後、大和の天誅組に呼応して生野挙兵を画策します。


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これだけ輝かしい志士としての経歴を持ちながら、平野は後世にあまり知られてはいません。

生野挙兵メンバーのなかでは最も名前が売れているとは思いますが、いわゆる西郷隆盛大久保利通、木戸孝允の維新三傑をはじめ、維新を迎えることなく散っていった坂本龍馬高杉晋作、久坂玄瑞などと比べても、圧倒的に知名度が低い

その理由は、彼の出身が幕末にあまり目立たなかった福岡藩だったこともありますが、彼の志士としての運動を見るに、どれも中途半端で何事も成し得ていないところにあるように思います。

関西弁でいう「いっちょかみ」なんですよね。

この生野の変にしても、実質首謀者だったはずなのに、大和の天誅組の破陣を知るや途中から自重派となり、挙兵中止をうったえるも強硬派を抑えきれず、最後は逃亡してお縄につくという、無様な結末といえます。

もし、彼が西郷らと名を連ねるほどの一流の志士なら、はじめからこのような無謀な挙兵はしなかったでしょうから。

大和の天誅組の面々と同じく、所詮は二流の志士だったと。

手厳しいようですが。


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石碑には、平野の辞世の句が刻まれています。


見よや人 嵐の庭のもみじ葉は いずれ一葉も 散らずやはある


「その9」につづきます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-12-06 11:27 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)