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2020年 02月 28日 ( 1 )

 

明智光秀と一族の菩提寺・西教寺。

先日より紹介してきた近江坂本城跡から北西約3kmの比叡山南東山麓に、西教寺という大きな寺院があります。

ここは、明智光秀とその一族の菩提寺です。


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西教寺縁起によると、創建は聖徳太子で天智天皇8年(669年)に西教寺の号を下賜されたと伝わります。

しかし、これは伝承に過ぎず、はっきりしているのは、室町時代、中興の祖であり天台真盛宗の宗祖である僧・真盛が入寺してから栄えるようになったようです。


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現在でも全国に450以上の末寺を持つ天台真盛宗の総本山です。


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元亀2年9月12日(1571年9月30日)、織田信長比叡山を焼き討ちにしますが、その際、ここ西教寺も焼失しました。

その後、比叡山焼き討ちの中心実行部隊として活躍した明智光秀が、近江国滋賀郡5万石を与えられて坂本城を築城します。

その目的は、比叡山延暦寺の監視と琵琶湖の制海権の獲得だったといいますが、ここ西教寺は、特に坂本城と近く、寺の復興にも光秀の援助があったといいます。


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光秀が戦死した部下の供養のため、西教寺に供養米を寄進した際の寄進状が、いまも寺に現存しているそうです。


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本堂です。

本堂は焼失の3年後に復興したそうで、焼失した旧本尊の代わりに、甲賀郡の浄福寺という寺から阿弥陀如来像を迎えて本尊としたそうです。

この阿弥陀如来像は現存し重要文化財に指定されていますが、この像がもとあった浄福寺については詳細不明だそうです。


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現存する本堂はその後改築されたもので、江戸時代中期の元文4年(1739年)の上棟だそうです。


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そして、その斜め向かいに、明智光秀とその一族の墓と供養塔があります。


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その説明板です。


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供花台には、明智家の桔梗の紋が。


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隅にある小さな墓石は、明智光秀の正妻・煕子の墓だそうです。

ただ、「煕子」という名前は、三浦綾子の小説『細川ガラシャ夫人』で広く知られるようになったもので、それ以前に知られていた光秀の室の名前は「お牧の方」でした。

司馬遼太郎『国盗り物語』では「お槙」でしたね。

実際のところ、確かな史料でその名前を確認することはできないようです。


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また、その死についても、天正4年(1576年)に病没したという説もあれば、天正10年(1582年)の坂本城落城の際に落命したという説もあり、諸説あって定かではありません。

また、生年も定かではなく、子についても細川ガラシャを含む3男4女をもうけたとされますが、それぞれ母は別であるという異説もあり、判然としません。

つまり、ほとんど謎の女性といっていいでしょう。

もっとも、この時代の女性については、織田信長の正室と伝わる濃姫もそうですが、ほどんど史料になるような記録が残っておらず、みんな謎の女なんですよね。


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月さびよ 明智が妻の はなしせむ


松尾芭蕉が光秀の妻の詠んだ歌です。

光秀が越前にいたころ、朝倉義景に仕えるも生活は貧しく、そんな中で連歌会の催しを光秀が担当することになったもののお金がなく、酒宴の用意に苦労する光秀をみかねた妻は、自分の黒髪を売って費用を工面したという伝承があります。

この逸話を越前丸岡に訪れた芭蕉が聞き、この歌を詠んだといわれています。


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こちらは、濃州妻木(明智)一族供養塔


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説明板によると、山崎の戦いから坂本城の攻防の戦乱のなかで、妻木城主・妻木廣忠の兄弟ら一族が討死し、一族郎党も多数討死しました。

天正10年6月14日(1582年7月4日)の坂本城落城後、明智一族に殉死した人々をここ西教寺に埋葬して供養したあと、6月18日、光秀の妻・煕子の墓前で廣忠は自刃したと伝わるそうです。

廣忠は煕子の実父だったといいます(諸説あり)。


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こちらは、光秀の辞世の碑です。


順逆無二門

大道徹心源

五十五年夢

覚来帰一元


読み下すと、

順逆二門に無し大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す

となります。

吉川英治の訳はこうです。


たとえ信長は討つとも、順逆に問われるいわれはない。

彼も我もひとしき武門。

武門の上に仰ぎかしこむはただ一方のほかあろうや。

その大道は我が心源にあること。知るものはやがて知ろう。

とはいえ五十五年の夢、醒むれば我も世俗の毀誉褒貶に洩れるものではなかった。

しかしその毀誉褒貶をなす者もまた一元に帰せざるを得まい。


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この漢詩は江戸時代の元禄6年(1693年)に書かれた『明智軍記』によるもので、山崎の戦いに敗れた光秀が、この詩を従士の溝尾庄兵衛に託して自刃したと伝えられているそうです。

光秀の死後100年以上のちの軍記物の出典ですから、光秀の辞世というのは眉唾ものですが。


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他にも、西教寺には戦国武将に関係した人の墓が多数ありました。

それはまた、別の機会に。


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西教寺墓園から東側を望みます。

琵琶湖の南湖が一望できます。


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南東に目をやると、坂本城跡が見えます。


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光秀もこうしてここから自身の城を眺めたかもしれませんね。




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by sakanoueno-kumo | 2020-02-28 22:23 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)