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平成最後の築城、145年ぶりに甦った尼崎城天守。

令和の幕が開ける1ヶ月ほど前の平成31年(2019年)3月29日、兵庫県尼崎市に2年間の建設工事をかけて完成した尼崎城の復興天守がグランドオープンしました。

まさに、平成最後の築城です。


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この天守は、家電量販店ミドリ電化(現・エディオン)創業者の安保詮氏が、「創業の地に恩返しがしたい」という意向で私財12億円を投じて再建を構想し、さらに市民らからも2億円近い寄付が集まって再建されたものです。

平成30年(2018年)11月30日に竣工すると、尼崎市に寄贈されました。


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尼崎城は元和3年(1617年)に徳川家の譜代大名、戸田氏鉄によって築城され、明治6年(1873年)の廃城令によって取り壊されるまで、250年以上、幕府の西国支配の拠点となった城です。


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尼崎城公園の北側には、その築城主の戸田氏鉄の顕彰碑が建てられています。


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そこには、往時の尼崎城の絵図も。


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かつて尼崎城があった場所は、現在は市街地となっていて、往時をしのぶ遺構はほとんど残っていません。

このたび天守が建てられた場所も、かつて天守があった場所より300mほど北に築かれました。

実際の場所には、現在、小学校があります。


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北側の門から城跡公園に入ります。


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天守北側です。

高さは約24mあるそうです。


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鉄筋コンクリート造ですが、一応、外観は古写真を元に造られました。


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ただ、左右を反転して附櫓の配置も変えちゃってるそうです。

理由は、「城らしさ」を演出するためということだそうですが、せっかく古写真が残っているんだから、忠実に再現してほしかったと思ってしまうのですが・・・。


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出来たばかりなので、濠の水がまだ澄んでいます。


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城の南側にやって来ました。


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わたしがここを訪れたのは、令和元年(2019年)5月25日。

グランドオープンしてからしばらくは、イベントが目白押しといった感じだったので、純粋に天守を見たいわたしとしては、熱りが冷めてから訪れようと思い、オープンから2ヶ月経ったこの日に満を持して訪れたのですが、まだ何かイベントをやってました。


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人がうじゃうじゃいて、天守の写真がうまく撮れません。

もう少し待てばよかった。


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日本各地の城跡に天守がありますが、そのほとんどが再建であることは周知のところだと思います。

江戸時代の城がそのまま残る「現存天守」は、世界遺産の姫路城をはじめ全国に12天守しかありません。

そのほかはすべて昭和以降に再建されたものですが、その中でも、「復元天守」「復興天守」「模擬天守」といった名称に分類されます。


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まず「復元天守」は、古写真や図面などの史料に基づいて、往時の天守を忠実に再現したもののことを言います。

その中でも、材料や工法もできるだけ忠実に、外観だけでなく内部の構造も再現したものを「木造復元天守」といい、これは、大洲城白河小峰城など、少ししかありません。

一方で、鉄筋コンクリート造などの近代の工法を用い、外観のみ忠実に再現したものを「外観復元天守」と呼びます。

名古屋城、岡山城などが該当します。


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次に、「復興天守」と呼ばれるものは、かつて天守はあったものの、その史料が乏しく、実際にあったものとはちょっと違う再建となった天守を言います。

大坂城小田原城がそうですね。


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最後に、「模擬天守」と呼ばれるものは、実際には天守がなかったはずの城にほかの城を参考にして天守を建てたもの。あるいは、天守が存在したけれど、実際の天守とは全く違うものを建ててしまったものなどをいいます。

岐阜城などがこれにあたります。


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では、尼崎城はどれにあたるか・・・。

一応、古写真などの史料をベースに再建されたものですが、実際にあった場所とは違うこと、また、上述したとおり左右反転したり附城の位置を変えたりしていることから、「復興天守」に該当します。

新聞やニュースなどでも、安直に「復元」といった言葉を使ってたりしましたが、実は「復元」ではないんですね。


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かつて天守があったとされる明城小学校の校庭のフェンス沿いには、明治21年(1888年)に建てられた石碑があります。


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明城小学校の住所に、かつてここが城の敷地内だったことの名残を見ることができます。


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尼崎城を築城した戸田氏鉄は寛永12年(1635年)に美濃国大垣藩へ転封となったため、戸田氏の城主は1代限りでしたが、その後、入部した青山幸成から青山氏が4代城主を務め、その後は桜井松平氏が廃藩置県まで7代城主を務めました。

戸田氏、青山氏、桜井松平氏、いずれも徳川家譜代大名です。

また、江戸時代を通して、兵庫県下で天守が許されていたのは姫路城と尼崎城の2城だけです。

わずか5万石しかない尼崎藩を、幕府がいかに重要視していたかが窺えますね。


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また、尼崎城が築かれる以前、この付近には尼崎古城(大物城)がありました。

織田信長に反旗を翻した荒木村重が籠もった城です。

尼崎古城を包囲した信長は、見せしめとして尼崎城近くの七松にて、村重の家臣の妻子122人の上、長刀によって処刑し、その他510余名の小者や女中たちも、枯れ草を積んだ家屋に閉じ込め、家もろとも焼き殺したといいます。

そのときのことは、5年前にここを訪れたときに起稿していますので、よければ一読ください(参照:荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その2 ~尼崎城跡~)。

5年前には、まさか尼崎城の天守が再建されるとは、思いもしませんでした。


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最後に、尼崎城築城記念マグネットとコースターです。

平成最後の築城なのに、「令和」とはこれ如何に?




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# by sakanoueno-kumo | 2019-08-15 12:54 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第30話「黄金狂時代」 ~実感放送~

 昭和7年(1932年)夏の第10回ロサンゼルスオリンピックに、日本はこれまで最も多い131名の出場選手を送り込みましたが、そのなかでも田畑政治総監督とする日本競泳陣の活躍は凄まじく、男子競泳6種目中5種目で金メダルを獲得します。とくに背泳ぎでは金銀銅すべてを日本人選手が獲得し、表彰台を独占しました。唯一金メダルを逃した400m自由形の大横田勉選手も銅メダル(競技前に胃腸炎を患っていたというのは実話のようです)。まさに、「水泳王国ニッポン」の異名が世界に轟いた大会だったといっていいでしょう。


 そんな現地の興奮を本国に伝えたのが、ドラマで描かれていた「実感放送」でした。当初、日本はこの大会で初めてのラジオ実況放送を計画していました。アメリカとの交渉でその許可も得ていたそうですが、ところが、直前になって放送が不可となってしまいます。その理由は、「開催国アメリカの国内放送も許可していないのに、外国である日本の実況放送は認められない」というものだったとか。では、なぜアメリカでも国内放送しなかったかというと、ラジオで放送すると、現地での観戦客の客足が遠のくという考えからだったようです。


これとよく似た話は日本にもあて、テレビ放送の草創期にも、プロ野球の実況放送を始めようとする計画が上がったのに対し、当初は、球場への客足が遠のくとして反対の声が多かったといいますし、今お騒がせの吉本興さんでも、芸人さんのラジオ出演を寄席に客が来なくなるという理由から拒んでいたといいます。しかし、実際には、それらのメディアを通すことによって、広く大衆の認知度が高まり、集客を大いに高める効果があるわけですが、まだこの当時は、ラジオの宣伝効果というものがそれほど理解されていなかったということでしょうね。


e0158128_11335181.jpg とにかく、競技の実況放送ができなくなりました。そこで、苦肉の策として行われたのが、競技を観戦したアナウンサーがその場でメモを取り、そこから車で15分ほどのところにあるスタジオに移動してから、あたかも実況しているように実感を込めて伝えるという方法。文字どおり「実感放送」だったわけです。放送時間は現地時間の午後7時から8時まで、日本時間は翌日の正午から午後1時までとなります。ちょうど昼休みの時間帯ということもあって、多くの国民がラジオに耳を傾けました。100メートル自由形で金メダルを獲った宮崎康二選手の決勝の実況の様子は、以下のようなものでした。


 各選手スタートラインに立ちました。さすがに場内は水を打ったような静けさになりました。ドンと号砲一発、場内は総立ちです。60m、宮崎、河石、高橋、グングン出てきました。そして6名並行しております。70m、宮崎グングン出てきました。半メートルも引き離しております。河石、シュワルツが続いております。80m、宮崎トップです。


 また、「暁の超特急」と呼ばれた吉岡隆徳選手の出場した陸上男子100m決勝では、実際には10秒ちょっとのレースにもかかわらず、実感を込めすぎて1分以上の時間がかかっていたというエピソードもあります。こうした放送が実況放送でないことは、事前に日本の聴取者にも知らされていました。しかし、それでも、日本国民はラジオの前に釘づけでこの放送を聴いたといいます。ロス五輪中盤の8月6日、アナウンサーは実況放送ではなく実感放送となってしまったことの詳しい経緯を説明したのち、最後にこう付け加えました。


 然し皆さん、世界数十ヵ国参加のオリンピック大会の情況を、たとえスタジオからの実感放送とは云え、外国語を以て放送しているのは僅かに日本一国あるのみです。あるロサンゼルスの在留邦人は、日本の同胞諸君は何という仕合せであろう。競技後一時間余りでラジオに依り詳細な結果を知る事が出来るのですもの、と語っておりました。


 この実感放送は、その後、放送史上の一種の“伝説”となって語り継がれているそうです。

 


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# by sakanoueno-kumo | 2019-08-13 11:39 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

海に浮かぶ要塞、讃岐高松城を歩く。 その6 <外周、東の丸>

「その5」の続きです。

城跡公園の外に出てみましょう。


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写真は公園西入口です。

石垣の造りなどから見て、往時も何らかの門があったのでししょうが、説明書きなどがなかったため、詳細はわかりません。


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入口の右側(南側)の石垣が突起している部分には、かつて弼櫓があったそうです。


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入口横には「玉藻公園」と刻まれた大きな石碑があります。

讃岐高松城は、別名、「玉藻城」ともいいます。

その由来は、万葉集柿本人麻呂が讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことから、この辺りの海域を「玉藻の浦」と呼んでいたからだそうです。


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北西隅の簾櫓跡石垣です。


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公園北側の石垣です。

現在は東西に道路が走って歩道整備されていますが、往時は石垣の外はでした。

向こうに、「その3」で紹介した月見櫓、水手御門、渡櫓が見えます。


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西側を振り返ると、ホテルクレメント高松が見えます。


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さらに東に進んでもう一度振り向くと、月見櫓とホテルクレメント高松のミスマッチ


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北側に目をやると、海沿いに報時鐘が見えます。


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報時鐘とは、読んで字のごとく時を知らせる鐘楼

昭和55年(1980年)の再建です。


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さらに東に進むと、香川県県民ホールの敷地内に入るのですが、石垣たけはずっとつながっています。


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生駒氏に代わって寛永19年(1642年)に入城した初代藩主の松平頼重は、長い年月をかけて大規模な城の改修工事を行いました。

その際、縄張りを北方と東方に拡張し、新たに「東の丸」を設けました。


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現在、その東の丸があった場所には県民ホールが建てられていますが、石垣の遺構だけは、このようにホール敷地内に残されています。


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写真は「その1」で紹介した艮櫓がかつて乗っかっていた櫓台石垣です。


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丑寅(艮)とは北東の方角を指す言葉です。

ここが城の北東隅だったことがわかりますね。

延宝5年(1677年)築と伝わる艮櫓は、昭和40年(1965年)に当時の所有者であった旧国鉄から高松市が譲り受け、2年の歳月をかけて東の丸より旧太鼓櫓跡移設されました。


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説明書きの陶板が埋め込まれた石碑があります。


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石垣は艮櫓から更に南へ伸びています。


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石垣は艮櫓から60mほど南下した場所で終わっています。

ここで県民ホールの敷地が終わりなので、ここまでしか残せなかったのでしょうね。


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石垣の内側です。


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その南にある松平公益会の敷地内には、土塁跡と思われる遺構が残されています。


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その柵の前には、東の丸の説明板が。


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で、「その1」で紹介した東側の中濠に戻ってきました。

写真左側に見えるのが、艮櫓旭橋です。

6回に渡って巡ってきた讃岐高松城逍遥ですが、歩き疲れました。

そろそろ、讃岐うどん食べて帰ります。


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# by sakanoueno-kumo | 2019-08-09 01:01 | 香川の史跡・観光 | Comments(0)  

海に浮かぶ要塞、讃岐高松城を歩く。 その5 <本丸、天守台>

「その4」の続きです。

高松城二ノ丸本丸を結ぶ鞘橋を渡り、本丸へ向かいます。


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鞘橋を渡ると、喰違虎口となっています。


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振り返ると長さ16間(約30m)の鞘橋が。

前稿でも紹介しましたが、有事にはこの橋を落とすことによって本丸だけを守るようになっていました。

この構造は、防備に優れている一方で、一旦橋を落としてしまうと内部にいる人間は逃げ場を失ってしまう、という欠点があります。

もっとも、高松城の場合は海に面していることもあり、濠を通じて海上への脱出が可能でした。


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本丸、そして正面に見えるのが天守台です。

本丸の面積は狭く、御殿などの居住施設はなかったようで、多聞櫓で囲まれた天守があるのみでした。


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天守台の石垣は野面積みのようですね。

石垣は平成18年(2006年)から平成25年(2013年)にかけて解体修復工事が行われていました。


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上ってみましょう。


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天正期に建てられた生駒親正の時代の天守は、絵図古文書によると3重だったとされていますが、寛文9年(1669年)に初代藩主の松平頼重が改築した天守は、「南蛮造り」と呼ばれる3層4階+地下1階の天守だったそうで、四国最大の規模を誇っていたそうです。


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その天守は、明治17年(1884年)に老朽化のため解体されています。

その後、大正9年(1920年)に天守台上に松平頼重を祀った玉藻廟が建立されましたが、それも平成18年(2006年)から始まった天守台石垣の解体修復工事に伴い、解体されて御神体のみが移設されたそうです


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その平成の修復工事の際の発掘調査によると、地下1階部分から58個の礎石が発見されました。


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天守台上には、発掘調査時の説明板が設置されています。


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天守台上から北側を見下ろすと、「その4」で紹介した内濠水門、そしてその向こうには瀬戸内海が見えます。


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北西に目を移すと、二ノ丸鞘橋が見えます。


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天守台上からの眺めを堪能したあと、本丸を出て三ノ丸側から天守台を眺めました。


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石垣は野面積み、出隅は算木積みになっています。


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鞘橋と天守台。

天気がいいのできれいです。


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天守台と高層ビルの大いなるミスマッチ


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かつてあった天守は、最下重が萩城熊本城の天守のように天守台より出張り、最上重が小倉城岩国城の天守のように「唐造り」だったそうで、その様子は、解体される以前に写真におさめられているそうです。

高松市では、天守の復元を企画しているそうです。

「その6」に続きます。




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# by sakanoueno-kumo | 2019-08-08 00:55 | 香川の史跡・観光 | Comments(2)  

海に浮かぶ要塞、讃岐高松城を歩く。 その4 <水門、鉄門、二ノ丸>

「その3」の続きです。

高松城三ノ丸北側通路を西へ戻ります。

下の写真は、三ノ丸二ノ丸の間の内濠です。

向こうに見えるのは二ノ丸の石垣。


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前稿でも述べましたが、ここ高松城は、北は瀬戸内海に面し、残り三方を囲む濠には海水を引き入れた海城で、伊予国今治城、豊前国中津城と並んで、日本三大水城のひとつに数えられています。

この三ノ丸と二ノ丸の間の内濠は、北側の海とつながっていました。

ここが、海と濠をつなぐ水門となっています。


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水門です。

現在は水位調整するために開閉できるようになっていますが、往時はどのように水位調整していたかはわかっていません。

海水を引き入れた濠をもつ城は他にもありますが、100%海水というのは、ここ讃岐高松城だけだそうです。


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北側から見た内濠です。

向こうに見えるのは天守台石垣


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水門の横には、「高松藩松平家の泳法」と書かれた説明板があります。

生駒氏に代わって寛永19年(1642年)に入城した初代藩主の松平頼重は、「讃岐の国は、海辺の国なれば、水練は武道の一班たるべし」と、翌29年夏、藩士の今泉八郎左衛門盛行に命じ、お船蔵西の堀溜にて藩士に水練の指導をさせたとあります。

頼重自身も、入封の年の6月に城内の濠で泳いだという記録が残されているのだとか。


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また、前稿で紹介した水手御門の側にも「高松藩松平家の泳法」と書かれた説明板があり、それによると、「高松藩中興の祖」と呼ばれるほどの名君として伝わる5代藩主の松平頼恭は、幼少の頃より武芸全般に秀でていたそうで、特に水泳を好み、小姓たちを従えて水手御門より西まで往復二百間(約360m)を左下の片熨斗(水任流の左片熨斗)で泳いだという記録があるそうです。


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水門の西には、鉄門跡があります。


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鉄門は三ノ丸二ノ丸をつなぐ門で、その名の通り、往時には鉄板張りの門がありました。


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二ノ丸側から見た鉄門跡です。


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二ノ丸です。

向こうに見えるのが鉄門跡。


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こちらは、二ノ丸本丸を結ぶ唯一の連絡橋、鞘橋です。

この橋を落とすことによって本丸だけを守るようになっていたんですね。


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絵図などの史料によれば、築城当初からこの位置に橋がかけられていたことがわかるそうで、当初は「欄干橋」と呼ばれる屋根のない橋だったようですが、文政6年(1823年)の絵図には屋根付きの橋が描かれているそうで、江戸時代に改修が行われたことがうかがえます。


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現在の鞘橋は明治17年(1884年)の天守解体時に架け替えられたものと伝わっているそうで、大正期には橋脚が木製から石製に替えられたことが古写真で判明しているそうです。


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鞘橋から見た西側の内濠です。

正面に見えるのは、琴電琴平駅

左側が本丸で右側が二ノ丸です。


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本丸石垣は野面積み打込み接ぎの混在のように見えます。


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鞘橋から北西を見ると、「その2」で紹介した披雲閣庭園が見えます。


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そして南西に目をやると、天守台石垣が。

「その5」では、その天守台に向かいます。




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# by sakanoueno-kumo | 2019-08-07 00:23 | 香川の史跡・観光 | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第29話「夢のカリフォルニア」 ~ノンプレイングキャプテン・高石勝男~

 五・一五事件から約1か月後の昭和7年(1932年)6月、第10回ロサンゼルスオリンピックに出場する日本選手団が出発しました。このとき日本は陸上競技、水泳をはじめとして、体操、馬術、レスリング、ホッケーなど、開催国に次いで2番目に多い131名が出場しました。金栗四三三島弥彦2人だけで参加した第5回ストックホルムオリンピックから20年。日本のスポーツはここまで発展を遂げていたんですね。


 もっとも、このロサンゼルスオリンピックは、参加選手が非常に少なかった大会でもありました。その理由は、この3年前の昭和4年(1929年)10月にニューヨークのウォール街での株式大暴落に端を発した世界恐慌の影響で、選手の派遣を見送った国が続出したことによります。出場選手は4年前のアムステルダムオリンピック時の約半分にまで減ったとか。この時代、世界中で銀行の取り付け騒ぎ倒産があいつぎ、街には失業者があふれかえっていました。そんな世界情勢だったため、決して開催国アメリカでも歓迎する声ばかりではなく、スタジアムに向けて失業者のデモが行われることもあったようです。


 そんななか、日本はこれまでで最も多くの選手を派遣しました。といっても、当時の日本に他の国と比べて国力があったわけではなかったでしょう。当然、日本も世界恐慌の影響を受けていましたし、その低迷する経済が引き金となって中国大陸への進出を訴える声が強まっていき、ひいてはそれが、満州事変五・一五事件につながっていきます。さらに、外交的にも、満州国建国で日本は世界から孤立し始めた時期でもあり、はっきり言って、オリンピックなんかに行ってる場合じゃなかったはずだと思います。そんな殺伐とした時勢だからこそ、スポーツで明るい話題を作る必要があるとドラマの田畑政治は言っていましたが、たしかに、そういう側面はあったかもしれませんが、世界各国が選手の派遣を中止している世情を思えば、日本も、本当はそうすべきだったんじゃないかと。


でも、日本の長所なのか短所なのか、こういうとき、日本は頑張っちゃうんですよね。国民に無理強いしてでも、欧米列強に追いつけ追い越せで頑張る。その不屈の精神で、明治維新後の富国強兵政策でわずか40年で世界に肩を並べる軍事大国となり、また、昭和の大戦後も、敗戦の焼け野原からわずか40年ほどで世界一の経済大国になった。金栗と三島のストックホルムからの20年も、同じようにストイックに頑張ってきたんでしょう。一方で、不屈の精神で突き進むことしか知らない日本は、国が滅びの道に向かっていても、方向転換したり逆戻りすることができない。ちょっと立ち止まって、冷静に周りを見て、時には後退する勇気があれば、あるいは戦争を回避できたかもしれませんし、それが無理だったとしても、あそこまで長引かせずに戦争を終わらすことができたかもしれません。


e0158128_20353137.jpg 話がそれちゃいましたが、ドラマに戻って、今回はそのロサンゼルスオリンピック開催前の選手選考の話でしたね。主人公は、代表に選ばれながら出場できなかったノンプレイングキャプテン・高石勝男。かつては日本水泳界のエースだった高石が、後輩たちの急成長と自身の衰えの間で苦しむ姿が描かれていました。高石は8年前のパリオリンピックで、日本人競泳選手としてはじめて5位入賞を果たし、その4年後のアムステルダムオリンピックでは800m自由形リレーで銀メダル、100m自由形で銅メダルを獲得しました。そんな日本競泳界の先駆者といっていい選手だったわけですが、ロサンゼルスではピークを過ぎた感が否めず、そんな高石に、田畑は主将の任を託すも選手としては出場させない旨を宣告しますが、そんな田畑に、若手選手や松澤一鶴監督は、「高石に有終の美を飾らせてあげて欲しい」と懇願します。田畑は頑なに却下。「高石ではメダルを取れない」と。


 なんか、妙にドラマチックに描かれていましたが、これ、当然のことですよね。部活動の3年生の引退試合じゃないんだから。国費で行くオリンピックですからね。過去の栄光は関係ないでしょう。あの北島康介選手だって、選手生命をかけて臨んだ最後のリオデジャネイロオリンピックは、選手に選ばれなかったですしね。いま結果を残した選手が選ばれる。当然のことです。


 ちなみに、この高石勝男は、その後、後進の育成に努め、昭和39年(1964年)の東京オリンピックでは水泳日本代表総監督となり、さらには、日本水泳連盟会長などを歴任し、紫綬褒章を受章します。その後もずっと、日本水泳界のノンプレイングキャプテンとして活躍したわけですね。



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# by sakanoueno-kumo | 2019-08-05 20:38 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(2)  

海に浮かぶ要塞、讃岐高松城を歩く。 その3 <水手御門、月見櫓、渡櫓>

「その2」の続きです。

高松城三ノ丸にある披雲閣庭園の北側通路を歩きます。


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通路北側は石垣が整然と並んでいます。

その向こうにが見えます。


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上ってみましょう。


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石垣を上って北側を見ると、すぐそこに瀬戸内海が見えます。

ここ高松城は、北は瀬戸内海に面し、残り三方を囲む濠には海水を引き入れた海城で、伊予国今治城、豊前国中津城と並んで、日本三大水城のひとつに数えられています。

海上から見るとその威容は素晴らしいものだったようで、明治時代には「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」と謡われたり、与謝野晶子によって「わたつみの 玉藻の浦を前にしぬ 高松の城竜宮のごと」と詠まれたりしています。


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東側に目をやると、櫓門が目に入ります。

向かって左から月見櫓、水手御門、渡櫓

すべて重要文化財指定です。


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こちらは、石垣の外からの撮影。


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月見櫓北ノ丸最北端に位置し、瀬戸内海を監視するためにつくられた隅櫓だそうで、「その1」で紹介した艮櫓とほぼ同時期に建てられたものと考えられているそうです。


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月見櫓は「到着を見る」という意味の「着見櫓(つきみやぐら)」が本来の名称で、藩主が江戸から船で帰ってくるのをこの櫓から望み見たことから名づけられたのだとか。


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水手御門は海に向かって開いた門で、藩主はここで小舟に乗船し、沖で御座船に乗換えて参勤交代等に出かけたそうです。

まさに、海に浮かぶ城門に見えたでしょうね。


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城跡公園内に戻って、城内側から見た月見櫓です。


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総塗籠造り3重3階、入母屋造、本瓦葺で、初重は千鳥破風、二重は唐破風の形を対象させています。


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こちらは、城内側から見た水手御門。

往時はこの門を出たらでした。


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その横につながる渡櫓

渡櫓は、生駒正親の築城時からあった海手門改修して建てられたと考えられているそうです。


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月見櫓、水手御門、渡櫓から東へまっすぐ進んだ突き当りの北東隅には、かつて鹿櫓があったそうですが、今は残っていません。


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その南側は北ノ丸跡となっていますが、わたしがここを訪れた平成31年(2019年)2月2日時点では工事中でした。


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振り返ると、水手御門が見えます。

その向こうに見える高層ビルは、ホテルクレメント高松です。

「その4」に続きます。




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# by sakanoueno-kumo | 2019-08-03 22:08 | 香川の史跡・観光 | Comments(0)  

海に浮かぶ要塞、讃岐高松城を歩く。 その2 <桜御門、三ノ丸(披雲閣)>

「その1」の続きです。

高松城三ノ丸にある桜御門跡です。

ここを抜けると、藩主の居住である披雲閣があります。


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櫓門台の石垣が残ります。

門は昭和まで現存していたそうですが、昭和20年(1945年)7月4日の高松空襲焼失してしまったそうです。

石垣には、焼けた跡が見られます。

7月4日といえば、終戦のわずか1ヶ月余り前ですよね。

この終戦ギリギリの段階で、日本各地に残っていた多くの城が焼失しました。

戦争は多くの人の命を奪いましたが、同時に、わが国の歴史的遺産も奪いました。

終戦の決断がもう少し早ければ、救われた命も、そして失わずにすんだ文化遺産もたくさんあったでしょうね。


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門を抜けると、目の前に見附石垣があります。


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その北側には、披雲閣が。


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披雲閣は寛文11年(1671年)頃に藩主の住居として建てられたといわれます。

讃岐高松藩初代藩主の松平頼重の時代です。

そのときの建物は明治になって老朽化により解体され、その後、松平家第12代当主で貴族院議員も務めた松平賴壽によって大正6年(1917年)に再建されました。

当時のお金で15万円という巨費を投じての建築だったそうで、3年の歳月をかけたそうです。


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もっとも、江戸時代の披雲閣は、今の披雲閣の約2倍あったそうですが。


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現在の建物内には142畳敷大書院をはじめ、槙の間、松の間、蘇鉄の間など雅致を生かした各部屋があり、波の間には、昭和天皇・皇后両陛下が2度宿泊されたそうです。


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それにしても、桜御門が空襲で焼失したのに、ここはよく焼けなかったものですね。


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披雲閣の西側から北側にかけて、広大な庭園が広がります。


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この庭園も、大正3年から6年(1914~7年)にかけて披雲閣が建築された際に作庭されたものだそうです。


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庭園内には、昭和天皇・皇后のお手植えの松があります。

いずれも大正時代、皇太子、皇太子妃時代に植えられたものです。


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こちらが昭和天皇のお手植え。


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そしてこちらが香淳皇后のお手植え。


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石碑も建てられています。


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さて、披雲閣を過ぎたところで、「その3」に続きます。




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# by sakanoueno-kumo | 2019-08-02 00:46 | 香川の史跡・観光 | Comments(0)  

海に浮かぶ要塞、讃岐高松城を歩く。 その1 <艮櫓、旭橋、旭門、桜の馬場>

今回は香川県高松市にある高松城を歩きます。

高松城というと、羽柴秀吉の中国征伐で水攻めされた高松城を連想しがちですが、あちらは備中高松城で、現在の岡山県に位置します。

こちらは四国の讃岐高松城

瀬戸内海を挟んでちょうど向かい合わせるような場所に同じ名前の城というのも、ややこしいですね。

ただ、備中高松城は江戸時代に入って廃城になっていますから、二つの高松城が同時に存在した期間は短かったようです。


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現在、讃岐高松城は三重櫓など一部の建物と一部の石垣、堀が現存し、「玉藻公園」として整備されています。


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写真は城跡公園南東隅にある艮櫓中濠

艮櫓は、もともとは東の丸北東の隅櫓として建てられたもので、北東の方角のことを丑寅(艮)ということから、この名前になったそうです。

延宝5年(1677年)築といわれます。

昭和40年(1965年)に当時の所有者であった旧国鉄から高松市が譲り受け、2年の歳月をかけて東の丸より旧太鼓櫓跡のこの地に移されました。


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実は、ここ高松城を訪れるのは2度目で、5年前にも拙ブログで起稿したのですが(参照:雨の讃岐高松城を訪ねて前編後編)、そのときは出張ついでだったため時間があまりなかったのと、天気もだったのでゆっくり見れなかったのですが、この度は休日を利用して足を運び、じっくり数時間かけて歩いてきました。


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艮櫓の北側に橋と門が見えます。


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旭橋旭門です。

かつて大手門は城の南側にあったそうですが、寛文11年(1671年)頃、三ノ丸に藩主の居住である披雲閣が建てられたため、これを廃して新たに東に旭橋を架け、それを渡って旭門から出入りするようになったそうです。


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旭橋は濠に対して斜めに架かっています。

これは、横矢が掛かりやすくしているのだとか。

明治45年(1912年)に石橋に架替えられましたが、それ以前は木橋だったそうです。

旭橋から見た北側中濠

石垣は打込み接ぎです。


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旭門です。

ここから入場料200円が必要です。


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旭門を抜けると、枡形虎口となっています。


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こちらの石垣はきれいな切込み接ぎです。

かつては、枡形の北側には埋門が、南側には太鼓御門があったそうです。


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冒頭で紹介した艮櫓を城内側からみた写真です。


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ここ高松城は天正15年(1587年)に羽柴秀吉から讃岐一国17万3千石を与えられた生駒親正によって、翌16年(1588年)に築城が開始されました。

その縄張り(設計)を行ったのは、藤堂高虎、黒田官兵衛、細川忠興など諸説あります。

いずれも当時の築城には必ず名前が出てくる面々ですね。

城は約3年かけて完成し、「高松」という地名も、このとき付けられたものだそうです。


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その後、寛永17年(1640年)に生駒氏は出羽国矢島藩に転封となり、寛永19年(1642年)に常陸国から北讃岐12万石の領主として入府した松平頼重によって改修されました。


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城跡公園内南にある桜の馬場です。

その名のごとく馬の調練場だった場所で、今でも十分広い芝生広場ですが、かつては現在の2倍ほどの面積があったそうです。


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その桜の馬場の東側にある中濠


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さてさて、今回もまた長くなりそうです。

「その2」に続きます。




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# by sakanoueno-kumo | 2019-08-01 07:28 | 香川の史跡・観光 | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第28話「走れ大地を」 その2 ~五・一五事件~

 「その1」の続きです。

 柳条湖事件発生時、日本の総理大臣は若槻禮次郎でした。若槻内閣は閣議で騒ぎを大きくせずに収取する不拡大方針を取りますが、これに軍部が抵抗し、若槻の制止を振り切って戦線を拡大します。さらには、閣内からも軍部支持の声があがり、閣僚からも見放されたかたちで総辞職に追い込まれます。もはやシビリアン・コントロールが機能していなかったことがわかります。


e0158128_19300703.jpg そのあとを引き継いだのが、犬養毅でした。犬養内閣は基本的には満州国の建国には反対の立場でしたが、引くところは引いて軍部との調和を図り、決して軍部との関係は悪くはありませんでした。しかし、昭和7年(1932年)5月15日、海軍青年将校によるテロ事件によって暗殺されてしまいます。世にいう「五・一五事件」です。


 この事件の背景は、昭和5年(1930年)に濱口雄幸内閣がロンドン海軍軍縮条約を締結したことにありました。この条約によって主力艦建造停止が延長され、英・米・日補助艦総保有量10:10:7となりました。この条約に不満を持った青年将校たちは、時の政府要人たちを殺害して軍部を中心とした政府をつくろうと画策します。犬養は政友会総裁であり、軍人たちにとっては、軍部の思いどおりにならない政党政治邪魔な存在だったわけです。


 事件当日は日曜日で、犬養は首相官邸にいました。襲撃犯たちは靖国神社に集合し、午後5時頃に官邸に乗り込み、犬養と面談します。犬養は床の間を背にしてテーブルに向って座り、そこで犬養の考えやこれからの日本の在り方などを話し始めましたが、「話せばわかる」という犬養に対して、「問答無用!」と叫んでズドン!・・・というのは有名な話ですね。犬養は頭部左側に銃弾を受けるも即死には至らず、駆けつけた女中に「いま撃った若者をもう一度連れてこい。よく話して聞かすから。」と語ったといいます。これも、ドラマで描かれていましたね。その後、犬養は次第に衰弱し、深夜になって死亡しました。


 殺されたのは犬養首相ひとりでしたが、襲われたのは、元老・西園寺公望、内大臣・牧野伸顕、侍従長・鈴木貫太郎ら天皇の側近三人で、また、警視庁、変電所、三菱銀行なども襲撃されましたが、いずれも被害は軽微でした。事件後、襲撃犯たちは自首しますが、どういうわけか彼らは当時の国民から人気があり、助命嘆願運動が各地で起こります。また、本来なら軍法会議にかけて厳重に処分しなければならないはずの軍部も、なぜか彼らに同情的で、それがまた、政府批判の世論を煽りました。そんな世論が加味されてか、のちに行われた裁判で、当初は死刑が求刑されましたが、結局、首謀者が禁固10年~15年、その他参加者は禁固4年という軽い刑で終わります。一国の首相を殺したのに・・・です。この甘い判決が、のちの二・二六事件につながったと考えても的外れではないでしょう。


 この五・一五事件によって、犬養が総裁を務める政友会は潰され、その後、海軍大将斎藤実総理大臣になります。犬養内閣は閣僚も政友会で固めた政党内閣で、日本は明治31年(1898年)の第一次大隈重信内閣以来30年以上、政党内閣できたのですが、五・一五事件によって政党政治は完全に息の根を止められてしまいました。斎藤内閣は「挙国一致内閣」といって、政党にこだわらず幅広く人材を集めた内閣をいいます。こうして、政府は軍部寄りになっていきました。ここから、軍の力が政治や言論を支配する、一種の恐怖時代に突入していきます。



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# by sakanoueno-kumo | 2019-07-30 23:11 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)