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カテゴリ:兵庫の史跡・観光( 68 )

 

築城400周年の明石城を歩く。 その10 <ライトアップ>

「その9」の続きです。

令和元年(2019年)6月1日から築城400年事業の一環として、本丸の櫓がライトアップされるという情報を知り、その初日、昼間に続いて再び明石城にやってきました。


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写真は明石公園南入口にあたる太鼓門

「その2」でも紹介しましたが、昼間とはまたぜんぜん雰囲気が違いますね。


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で、公園内三ノ丸の芝生広場にやってきました。


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左が坤櫓、右が巽櫓です。


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ライトアップが始まりました。


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三脚も立てずに撮影していますので、手ブレ、ご容赦ください。


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七色に七変化です。


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今風にいえば「城ナリエ」ですね。

ちょっと違うか。


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城のライトアップというのは各地で行われていますが、日本で最初の城のライトアップは、今から約440年前の天正9年(1581年)7月15日、織田信長による安土城のライトアップというのはあまりにも有名ですよね。

もちろん、電飾などない時代ですから、照明はすべて松明提灯でした。

『信長公記』によると、安土城の天主および惣見寺にたくさんの提灯を吊るさせ、また、お馬廻り衆を新道に配置し、または入り江にを浮かべさせて、それぞれに松明を灯させたと伝えられます。

また、ルイス・フロイス『日本史』には、安土城周辺の家臣の屋敷はすべて火をたくことを禁じ、色とりどりの豪華な美しい提灯で上の天守を飾らせたとあります。

そのライトアップされた城が琵琶湖の水面に映り、言いようもなく美しかったと。

当時の人々にとっては、見たこともない幻想的な光景だったでしょうね。


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現代のそれは、LEDによって色とりどりに演出されています。

でも、安土城を見た当時の人々のような感動はないかなぁ・・・。


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坤櫓です。


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巽櫓です。


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今年で築城400年を迎えた明石城ですが、実は、約400年前の元和年間(1615~1624年)は、空前の築城ブームだったので、令和元年(2019年)の今現在、築城400年を迎えようとしている城、城跡は全国にたくさんあるんですね。

なので、いろんな場所でこれから数年間に築城400年事業が計画されているようです。

これを機に、築城400年めぐりをしてみるのもいいかもしれません。


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さて、これで本当にシリーズを終わります。

最後に、この日に押したものではありませんが、日本100名城のスタンプを載せます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-09-07 01:30 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

築城400周年の明石城を歩く。 その9 <織田家長屋門・明石駅>

「その8」の続きです。

前回までで明石城内はすべて攻略しましたが、「その1」で紹介した中濠南西の西不明門(にしあけずもん)の南側に、古い屋敷門跡があります。


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この門は「織田家長屋門」といい、明石城築城当時から、歴代家老・重臣が住んでいた屋敷の門跡です。


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「織田家」「織田」は、あの織田信長の一族にあたる家系だそうで、代々明石藩家老を務めました。


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明石藩家老の織田家は、織田信長の叔父である犬山城主織田信康を祖とします。

信康は尾張統一を目指す甥の信長に領地を奪われ、信康の子・織田信清は信長に敵対して敗れますが、その子・津田(織田)信益は許されて信長に仕え、のちに豊臣秀吉に仕え、晩年は越前の結城秀康(徳川家康の次男)に仕えます。

信益の子・織田信勝は初代大野藩主の松平直良に仕え、その直良の子・松平直明が明石藩に移封となると、織田家も共に明石へ移り、以後、代々明石藩家老としてこの屋敷に居を構えていたそうです。


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長屋門は江戸時代から現存するもので、明石市の文化財に指定されています。


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もとは門の西側に棟割長屋4軒納屋2軒があったそうですが、昭和20年(1945年)の空襲で焼失し、門のみが残ったそうです。


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門に使用されている太鼓鋲、蝶番、飾り金具などは室町時代の様式で、明石城築城時に破城となった船上城の門を移築したと伝えられています。

明石城が今年築城400年なら、この長屋門も築400年ということになりますね。


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さて、これで明石城をすべて制覇しましたので、帰路につきました。

写真はJR明石駅のホーム上からの北側の眺望です。

手前に見えるのが中濠その向こうに、本丸、二ノ丸、東ノ丸の高石垣が東西に長く伸びています。

以前は、本丸の櫓はここから見えていましたが、石垣は樹木に隠れてほとんど見えませんでした。

最近、その木が伐採されて、石垣が露出して見えるようになったんですね。


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左が坤櫓、右が巽櫓です。


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坤櫓にズーム。


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巽櫓にズーム。


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そして、こちらは二ノ丸と東ノ丸の高石垣です。


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さて、これで帰路についた私でしたが、ここを訪れたのは令和元年(2019年)6月1日だったのですが、ちょうどこの日から築城400年事業の一環で、夜に本丸の櫓がライトアップされるということを知りました。

せっかくなので、夜も見てみようじゃないかと思いたち、この日の夜、再び明石を訪れることにしました。

あと1回、「その10」に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2019-09-05 23:29 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

築城400周年の明石城を歩く。 その8 <薬研濠・桜濠・北ノ丸>

「その7」の続きです。

東ノ丸の東側虎口の北側には薬研濠が広がります。


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上の写真は明石公園の外(東側)から見た薬研濠。

向こうに見える石垣は、東ノ丸の東側虎口の石垣です。


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こちらは、反対側(西側)から見た薬研濠です。

というよりに近いですね。

薬研濠といっても、何もここで薬の研究をしていたわけではありません。

濠の底が薬研(薬草をすりつぶす器具)のようにV字型に深く掘られていることから、そう呼ばれています。


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石垣がきれいなのは、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災時の崩落し、その後、積み直されたためです。


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薬研濠の西の石段を降り、北ノ丸に向かいます。


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石段を降りると、東ノ丸北側の高石垣がそびえます。


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この高石垣も、阪神・淡路大震災で崩落し、積み直されています。


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北側には桜濠が広がります。

桜濠の北側が、かつての北ノ丸にあたります。


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このあたりは二ノ丸北側の高石垣。

東ノ丸の高石垣とつながっているので、どこからが二ノ丸下かという境界はありませんが。


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二ノ丸北西隅の石垣が一段高くなっているのがわかります。

あそのに、物見台的なものがあったのかもしれません。


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二ノ丸と本丸の間に石段があり、ここから二ノ丸、本丸に登れますが、おそらくこれは、往時からあった虎口ではないでしょう。


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そして、その西側が本丸下の石垣ですが、本丸北東の隅が、角を出さずに斜カットされています。

これは、この位置がちょうど城の鬼門にあたるからでしょう。


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鬼門とはもともと日本古代の陰陽道から生まれた考え方で、北東方向は鬼が出入りするとされ、万事に忌むべき方角とされました。

その対策として、古来、城や屋敷には、「鬼門除け」が施されます。

「鬼門除け」の方法は様々で、北東に不開門を設けたり、塀や石垣の北東部分を斜めに削ったり凹みを造ったりします。

これで、魔除けになると考えられていたんですね。


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本丸北側の桜濠は、東ノ丸や二ノ丸の北側より幅が広くなっています。


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本丸高石垣の下に、帯郭犬走りのような空間があるのですが、現在は立入禁止となっています。


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北ノ丸側の土塁です。


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明石城が元和5年(1619年)に小笠原忠真によって築かれたという話はこれまでの稿でも何度もふれてきましたが、城を完成させた忠真は寛永9年(1632年)に豊前小倉藩へと国替えになり、翌年に松平(戸田)康直が入城します。

その後は大久保氏、松平(藤井)氏、本多氏と城主がコロコロ代わりますが、天和2年(1682年)に越前国大野藩より松平直明が6万石にて入封してから、以後、10代185年に渡って松平(越前)氏が城を守り、明治7年(1874年)、最後の城主・松平直致の代に廃城令によって廃城となります。


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その後、城の保存を望む旧藩士たちが櫓の大部分を落札し、城の取り壊しを求める兵庫県との間で対立が起こったそうですが、明治14年(1881年)に神戸相生小学校(現在の湊小学校)の建築用材にあてるために本丸北東の艮櫓などが解体されましたが、旧藩士嘆願により、巽櫓坤櫓が保存されました。

明治16年(1883年)に城跡は明石町内の有志によって整備され私設公園となりますが、明治31年(1898年)に皇室の御料地として宮内庁所管となったため、公園は廃止されました。

しかし、大正7年(1918年)、兵庫県が御料地を借り受けて県立公園を開設し、さらに昭和の初めに城跡全域が払い下げられ、現在の明石公園となりました。


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西側から見た桜濠です。

桜濠は長さ百三十五間(243m)、幅二十三間(44.4m)あり、本丸、二の丸、東の丸の背後を守る重要な堀として、城時に人工的に拡張されました。


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見上げると、本丸北側の石垣が見えます。


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そして、北ノ丸北西には、剛ノ池(往時は鴻ノ池と呼ばれていた)が広がります。

もともとこの地にあった自然池で、築城の際にこれを利用し、外濠の役目を果たしていました。

今は明石公園内の観光スポットとして、春は花見、秋は紅葉狩りなどで賑わっています。

さて、これで明石城跡をすべて攻略しましたが、まだ紹介したいものがありますので、もう少しお付き合いください。

「その9」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-09-04 23:29 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

築城400周年の明石城を歩く。 その7 <二ノ丸・東ノ丸>

「その6」の続きです。

「その5」で紹介した本丸東側虎口の「番ノ門」を出て、二ノ丸に向かいます。


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明石城は本丸と二ノ丸が土橋を挟んで同じ高さで並んでいます。

この構造を、学術的には「連郭式」と呼びますが、明石城の場合、三ノ丸1段下にありますから、「連郭梯郭混合式」という分類になります。

まあ、後世の学者さんが便宜上つくった分類で、往時の大名たちは知ったこっちゃない言葉ですが。


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明石城は西国諸藩に対する備えとして、元和4年(1618年)、江戸幕府2代将軍徳川秀忠小笠原忠真に命じて築かせた城です。

忠真の祖父は松平信康、つまり忠真は徳川家康の曾孫にあたる人物です。

秀忠は、忠真の舅にあたる本多忠政の指導を仰ぐことを命じ、また、普請費用として銀1000貫を与え、幕府から普請奉行を派遣するなど、築城を全面的に支えました。

それだけ、この明石城の築城を幕府が重要視していたことが窺えます。


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築城工事は急ピッチで進められ、元和5年(1619年)にほぼ完成しました。

この工事の速さは、一国一城令によって廃城となった近くの船上城、三木城、高砂城などの建築部材を解体再利用したためと言われます。

つまり、リサイクルの成果というわけですね。


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二の丸の広さは東西74m、南北60mあります。

その東側には、東西88m、南北69m東ノ丸が連なります。


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二ノ丸と東ノ丸をつなぐ「方ノ門」です。

喰違虎口となっています。


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東ノ丸側から見た方ノ門です。


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二ノ丸と東ノ丸の間は、低い石垣で仕切られています。

築城時は二ノ丸と東ノ丸をあわせて二ノ丸だったそうですが、のちに整備され、分割されたと考えられているそうです。


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東ノ丸の南側では、多くの人がベンチで景色を楽しみながら寛いでいました。


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東ノ丸からの南側眺望です。

下に見えるのが、「その2」で紹介した三ノ丸庭園

その向こうには、JR明石駅が見えます。


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西側を見ると、「その5」で登ってきた石段と、本丸南東の巽櫓が見えます。


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巽櫓をズーム。


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東ノ丸南東隅には、日の丸が掲げられていました。


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石垣で少し高くなっています。

どうやら、あそこも櫓台跡のようです。

登ってみましょう。


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長方形の石が敷かれていますが、その中に、礎石跡と思われる自然石があります。

縄張図を見ると、ここはかつて角櫓があったようです。


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南東を見ると、向こうに明石海峡大橋が見えます。


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東ノ丸東側に門跡が見えます。


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縄張図によると、ここは「真ノ門」とあります。


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真ノ門を出ると、喰違虎口となって「天ノ門」があります。

ここを出ると、城外に出てしまうのですが、まだ城の北側を歩いてないので、「その8」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-09-03 23:58 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

築城400周年の明石城を歩く。 その6 <本丸~天守台・人丸塚~>

「その5」に続いて本丸を歩きます。

本丸南西隅の坤櫓の北側に、天守台があります。


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天守台は小笠原忠真の築城時から存在していましたが、明石城には一度も天守が築かれることはありませんでした。


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この時代に築かれた城で天守台だけ築いたという例は他にもあり、その理由については、幕府に遠慮して建てなかったというものや、当時、大砲が主力兵力となりつつあり、その標的になりやすい天守は、時代にそぐわない無用の長物と考えられ始めていたから、とか、あるいは、経済的理由で、いつかは天守を建てるべく天守台だけ築いた、とか、様々な見方がありますが、定説はありません。


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明石城の場合、本来南西隅に築かれるべき天守台が、あえて奥まった場所に築き、南西隅には坤櫓を設けていることから見て、当初から天守を築く予定はなかったのではないか、とも考えられているそうです。


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でも、だったら、そもそも天守台を築く必要もなかったんじゃないかと思っちゃうんですけどね。


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天守台上に登ってみましょう。


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天守台は上面の大きさが東西25m、南北20m、約152坪あり、5重の天守が乗る規模です。

これは熊本城の天守台と同じ規模なんだそうです。


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天守を建てるつもりがないのに、こんな立派な天守台を設けるでしょうか?


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天守台からみた坤櫓です。


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その西側を見下ろすと、三ノ丸居屋敷郭跡明石球場(現・明石トーカロ球場)が見えます。


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天守台から「その4」で紹介した稲荷郭を見下ろします。


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その向こうには、明石陸上競技場(現・きしろスタジアム)が見えます。

かつてあの場所には、山里郭がありました。

築城当時は樹林屋敷と呼ばれ、城主の遊興所があったと伝わります。


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さて、天守まで攻略しましたが、もう少し本丸を歩いてみましょう。


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本丸内には「人丸塚」と書かれた駒札と、鬱蒼と大樹が茂る小さな丘陵があります。

もともと本丸の位置には弘仁2年(811年)に弘法大師・空海が創建したと伝わる湖南山楊柳寺がありました。

人丸山の由来ともなった人丸塚の名は、仁和3年(887年)に僧・覚証柿本人麻呂の夢を見て、寺の背後の塚を「人麻呂塚(人丸塚)」と名付けたことにはじまります。

このときに寺号も月照寺と改めたそうです。


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時代は下って元和5年(1619年)、小笠原忠政による明石城築城の際、月照寺と柿本神社は移転させましたが、人丸塚は城の鎮守のためにそのまま残し、現在も本丸跡に残っています。


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その横には「横山蜃楼句碑」と記された駒札石碑も。


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横山蜃楼という人は明石の人だそうですが、すみません、よく知りません。

なので、駒札の説明書きをお読みください。


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ひととおり本丸を歩いたので、本丸北西の「見ノ門」から外に出てみます。


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ここにも、立派な櫓台石垣があります。

おそらく、往時はここに立派な櫓門があったのでしょうね。


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本丸外側から見た見ノ門。


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ここを下ると、「その4」で紹介した万ノ門に繋がります。

本丸を歩き終えたので、「その7」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-08-30 00:03 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

築城400周年の明石城を歩く。 その5 <本丸~巽櫓、坤櫓、艮櫓跡~>

「その4」の続きです。

いよいよ、明石城の主要部に向かいます。


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「その3」で紹介した南帯郭虎口に戻って、石段を登ります。


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石段を登りきったところが右にカーブしていて、食違い虎口になっています。

ここに、「大ノ門」という櫓門がありました。


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櫓門跡の石垣です。


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振り返ると、向こうに明石海峡大橋が見えます。


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大ノ門を過ぎると、東にまた櫓門跡の石垣がみえます。

ここは「番ノ門」という名称の門で、本丸の東側虎口です。


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番ノ門前から左(南)を見ると、巽櫓があります。


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番ノ門から本丸に入ります。


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番ノ門内側と巽櫓です。


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本丸です。

明石城の本丸は東西114.5m、南北116.4mのほぼ正方形で、面積は約1万ヘクタールあります。


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小笠原忠真の築城当時はここに本丸御殿があったようですが、寛永8年(1631年)、三ノ丸下屋敷台所より出火した火災により本丸にも火がまわり、消失してしまいました。

以後、本丸御殿は再建されず、藩主の居屋敷は三ノ丸に建てられ、本丸には四隅に櫓を建て直し、塀でつないだとされています。


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明治維新後は明石神社が創建され、その後も飲食店人形館などが設けられていましたが、現在は芝生の広場となっており、巽櫓坤櫓の2現存櫓として残されています。

では、その櫓を見ていきましょう。

まずは、本丸南東隅にある巽櫓です。


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巽櫓の大きさは、桁行五間(9.03m)、梁間四間(7.88m)、高さ七間一寸(12.53m)

同じ明石にあった船上城から移築されたと伝わっており、一説には、船上城の天守だったとも言われています。


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「その2」で紹介した南面には窓がありましたが、西面、北面にはが1か所も設けられておらず、破風も南面には千鳥破風唐破風がありましたが、本丸側から見ると、西面の一重目と北面の二重目に千鳥破風があるのみです。

あくまで三ノ丸側から見上げる南面が巽櫓の顔ということでしょう。


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私が訪れたこの日は、築城400年記念とあって巽櫓の中が一般公開されていました。

中を見てみましょう。


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巽櫓の中です。


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階は一間半、2階は一間の武者走り(入側廊)が周囲をめぐります。

3階は1室のみで武者走りはないそうです。

ただ、この日公開されていたのは1階のみ。


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2階に上がる階段

というか、ほとんど梯子といっていい角度です。


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櫓は松材などの柱や梁によって支えられており、などは使用されていません。

平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災時に多くの石垣が崩落したにもかかわらず、櫓自体が倒壊しなかったのは、明治34年(1901年)の宮内庁による修理で、入側柱筋に加えられた筋違の効果によるものだったようです。


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外に出て、西側にある土塀内側の展望台から見た巽櫓です。


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そこから目を少し右(南)に向けると、遠くに明石海峡大橋が見えます。


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展望台から南側の三ノ丸を見下ろします。

その向こうに見えるのがJR明石駅


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そのまま西側に目を向けると、土塀の端に坤櫓が見えます。

その向こうに見えるのが、「その4」で紹介した明石球場(現・明石トーカロ球場)です。


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巽櫓と坤櫓を結ぶ土塀は、阪神・淡路大震災によって崩落した石垣を修復した平成12年(2000年)に、100年ぶりに復元されたものです。

向こうに見えるのは巽櫓。


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土塀には様々な形をした鉄砲狭間が。


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鉄砲狭間から三ノ丸を見下ろします。


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そして、土塀の最西端には、坤櫓があります。


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坤櫓は本丸南西隅に位置し、明石城内で最大規模の3重櫓です。

天守が築かれなかった明石城の天守代用として使われました。

櫓の大きさは、桁行六間(19.94m)、梁間五間(9.15m)、高さ七間二尺九寸(13.28m)あります。

伏見城から移築されたといわれています。

本瓦葺、妻部を南北に置く入母屋造りで、巽櫓が南を向いているのに対し、坤櫓は西を向いています。

その理由は、明石城には西国大名を監視する役割があったからだと考えられています。


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巽櫓と違って正面から見えない北面と東面にも窓があり、北面一重目には千鳥破風を配し、東面二重目には軒唐破風の上に千鳥破風を飾っています。

これを見ても、坤櫓が明石城の要の櫓だったことがわかります。


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残念ながら、坤櫓の中はこの日は一般公開されていませんでした。


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現存する櫓は巽櫓と坤櫓のふたつだけですが、かつて本丸にはあと2つ、艮櫓乾櫓がありました。


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現在、本丸北東の艮櫓跡には、その場所を示す駒札説明板が置かれています。


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説明書きによると、艮櫓は広さが五間(9.1㎡)あり、高さは六間一尺九寸(11.4m)であったといいます。

廃城後の明治14年(1881年)神戸相生小学校(現在の湊川小学校)の建築用材として取り壊されてしまったそうです。

また、本丸北西にあった乾櫓も、明治34年(1901年)に解体され、状態のよい木材や瓦の一部が巽櫓と坤櫓の補修材として転用されたそうです。


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さて、櫓だけでめっちゃ長くなっちゃいました。

次稿、もう1回本丸を歩きます。

「その6」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-08-29 00:03 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

築城400周年の明石城を歩く。 その4 <稲荷郭>

「その3」の続きです。

南帯郭最西端まで戻ってきました。


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写真は本丸の西側にある稲荷郭の石垣です。


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その稲荷郭に向かってみましょう。


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稲荷郭に向かう虎口の正面にそびえる高石垣は、天守台石垣です。

明石城は一度も天守は築かれませんでしたが、天守台は、小笠原忠真の築城時から存在していました。


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天守台は上面の大きさが東西25m、南北20m、約152坪あり、5重の天守が乗る規模です。

これは熊本城の天守台と同じ規模なんだそうです。


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石垣は打込み接ぎ、出隅は算木積みですね。


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天守台のすぐ側に、坤櫓が見えます。

城内でいちばん大きな櫓だった坤櫓は、天守代用として使われました。


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で、その天守台石垣の西側に広がるのが、稲荷郭です。


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稲荷郭は本丸の西側に位置し、築城時は「西の丸」と呼ばれていたそうです。

「稲荷郭」という名称は、北端に稲荷の祠があったことに由来します。


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稲荷郭の北西隅には「文ノ櫓」、南西隅には「正ノ櫓」というふたつの二重櫓がありました。

写真は正ノ櫓跡です。


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礎石跡とみられる遺構が残っています。


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正ノ櫓跡から南を見ると、三ノ丸居屋敷郭跡明石球場が見えます。

現在は明石トーカロ球場という名称になっています。

高校野球の兵庫県大会や軟式高校野球の全国大会が行われている球場で、「もうひとつの甲子園」とも呼ばれる球場です。

かつてはプロ野球の公式戦も行われ、かの長嶋茂雄氏がジャイアンツに入団した年のキャンプ地でもありました。

近年はプロ野球の公式戦が行われることは少なくなりましたが、楽天の三木谷浩史オーナーの地元ということで、年1回程度、楽天主管の試合が行われています。


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正ノ櫓跡から見た稲荷郭跡。


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あずまやの向こうに見えるのが、天守台石垣です。


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角度を変えると、坤櫓が見えます。


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稲荷郭の西側は一段高くなっています。

かつてはここに多門櫓があったのでしょうか?


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稲荷郭の北側は、現在、林になっています。


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稲荷郭の広さは東西56m南北122mあります。

昭和27年(1952年)には、ここに演舞場が建てられたそうですが、昭和43年(1968年)に取り壊されました。


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稲荷郭東側の本丸石垣です。

本丸との高低差は約9mあります。


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稲荷郭北側の虎口です。

縄張り図では、「万ノ門」となっています。


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両側には、櫓門があったであろう石垣が残されています。


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万ノ門を出て、稲荷郭の北側から西側を歩いてみましょう。


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稲荷郭の西側石垣下です。


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見事な打込み接ぎの石垣が続きます。


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石垣の高さは、北が二間四尺(4.8m)、西が三間四尺(6.67m)、南が四間半(8.2m)あるそうです。


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出隅は算木積みになっていますね。


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排水口もあります。


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稲荷郭西南隅の正ノ櫓跡の石垣下です。


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その1段下にも、何かの台だったと思われる石垣があります。


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さてさて、今回もまた、稲荷郭だけで長くなっちゃいました。

次回、「その5」では、いよいよ本丸を歩きます。





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by sakanoueno-kumo | 2019-08-28 00:06 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

築城400周年の明石城を歩く。 その3 <南帯郭>

「その2」のつづきです。

三ノ丸東側の石段を登って、本丸に向かいます。


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写真左側は巽櫓

そこから西(右)に伸びている高石垣は、二ノ丸、東ノ丸の石垣です。


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数年前にここを訪れたときには、木が覆い茂っていてこんなに高石垣は露出していなかったのですが、築城400年事業の一環なのか、木が伐採されていて、いい感じのロケーションになっています。

ただ、私が訪れたこの日、たまたま絵を描きに訪れていた老翁が、「木がなくなってしまって、絵にならない」と嘆いておられました。

わたしのような城好きの者と、絵描きの方の見方は違うようですね。


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西側に目を向けると、巽櫓と坤櫓がそびえます。

櫓下の石垣は、三ノ丸から一段上の帯郭までが高さ5m、そこから櫓までが15mの計20mあり、東西の幅は380mあります。


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石段を上りましょう。


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このまま石段は二ノ丸、本丸へと続いていますが、その前に、その南下にある南帯郭を歩いてみましょう。


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東から西へ歩きます。


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手前が巽櫓、向こうに見えるのが坤櫓です。

こうして見ると、向きが違うのがわかりますね。

巽櫓は南を向いていますが、坤櫓は西を向いています。


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帯郭の幅は7~8mほどでしょうか?


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巽櫓台の石垣です。

打込み接ぎ、出隅は算木積みです。


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前稿でも述べましたが、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災により、両櫓とも傾いて石垣も広範囲にわたって崩落しましたが、その後、いったん両櫓を曳家(建物を解体しないで、そのまま移動する建築工法)して石垣を積み直し、櫓も修復され、平成12年(2000年)にその雄姿が蘇りました。


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こちらは、南帯郭西側から見た本丸高石垣です。


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坤櫓を見上げます。


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さて、元の石段まで戻って、今度は南帯郭を東に向かって歩きます。


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東側は、二ノ丸、東ノ丸の高石垣が続いています。


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その中央付近に、「松平若狭守直明公茶の水遺跡」と刻まれた石碑と、古い井戸跡があります。

松平直明は、天和2年(1682年)に越前国大野藩より転封となった明石藩8代藩主で、それまで明石藩は、初代の小笠原忠真以後、小笠原家1代、松平(戸田)家2代、大久保家1代、松平(藤井)家2代、本多家1代と、コロコロと藩主が代わって来ましたが、この松平直明以後、幕末まで松平(越前)家10代続きます。


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その直明が、城内で催されていた茶会の際に愛用していた井戸なんだとか。


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南帯郭の最東端までやってきました。


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西を振り返ると、東西に伸びる帯曲輪が一望できます。


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そこから、巽櫓と坤櫓をズームアップ。

この光景も、以前は木が茂っていて見れなかったロケーションです。


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さて、今回も南帯郭だけで終わっちゃいました。

なかなか進みません。

「その4」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-08-24 22:40 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

築城400周年の明石城を歩く。 その2 <太鼓門、三ノ丸>

「その1」の続きです。

明石城中濠南側中央の太鼓門から城内に入ります。


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太鼓門は現在、JR明石駅のすぐ北側にあり、明石公園の正門となっています。


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向こうに見えるのは本丸の坤櫓巽櫓です。

いずれも現存櫓で、国の重要文化財に指定されています。


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数年前に来たときは、太鼓門正面の石垣の上に木が茂っていたので、ここから坤櫓と巽櫓は見えなかったのですが、今はその木がなくなっていて、見えるようになっていました。

これも、築城400年事業の整備の一貫でしょうか?


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太鼓門は大手筋にあたりますが、大手門はここより300mほど南の外濠に面してありました。


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往時はここに長さ十一間(約20m)、幅三間(約5.5m)の木橋が架かっていたそうで、「太鼓門橋」と呼ばれていたそうです。

橋を渡った先には、正面に「定ノ門」と呼ばれる高麗門(一の門)がありました。


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その城門をくぐると、五間に八間の枡形虎口になっていました。

これは、今も遺構を残しています。


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太鼓門の石垣裏の雁木です。


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枡形虎口を過ぎると、かつての三ノ丸に繋がります。

往時は、ここに更に内濠があり、そのなかに居屋敷(下屋敷)があったとされています。


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目の前に坤櫓と巽櫓がそびえます。


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現在、三ノ丸の一部は芝生広場になっています。

この芝生広場から西側の明石球場にかけてが、往時の居屋敷郭でした。


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明石城のいちばんの見どころは、なんといってもこの坤櫓と巽櫓というふたつの現存櫓でしょう。

このふたつの櫓の下の高石垣は、高さ20m、東西幅380mあります。


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このふたつの櫓は、元和5年(1619年)の築城当時のものではなく、寛永8年(1631年)の火災後に再建されたものだそうです。


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明治に入ってからも、このふたつの櫓以外にもうひとつ乾櫓が残っていましたが、明治34年(1901年)の修理に際して乾櫓は解体撤去され、状態のよい木材や瓦の一部が巽櫓と坤櫓の補修材として転用されたそうです。


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平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災により、両櫓とも傾いて石垣も広範囲にわたって崩落しましたが、その後、いったん両櫓を曳家(建物を解体しないで、そのまま移動する建築工法)して石垣を積み直し、櫓も修復され、平成12年(2000年)にその雄姿が蘇りました。

このとき、両櫓をつなぐ土塀も、約100年ぶりに復元されました。


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坤櫓は明石城内で最大規模の3重櫓で、天守が築かれなかった明石城の天守代用として使われました。

櫓の大きさは、桁行六間(19.94m)、梁間五間(9.15m)、高さ七間二尺九寸(13.28m)あります。

伏見城から移築されたといわれています。


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もう少し近づいて、坤櫓を見上げます。

数年前までは、もっと木が覆い茂っていて、このように石垣は露出していませんでした。


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こちらは巽櫓です。


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巽櫓は本丸の南東端に築かれた3重櫓で、その大きさは、桁行五間(9.03m)、梁間四間(7.88m)、高さ七間一寸(12.53m)あり、坤櫓より少し小ぶりです。

同じ明石にあった船上城から移築されたと伝わっており、一説には、船上城の天守だったとも言われています。


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三ノ丸東側には、三ノ丸庭園が復元されています。


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説明板には、「武蔵の庭園」とあります。

武蔵とは、あの剣豪・宮本武蔵のことです。


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築城当時、小笠原忠真の客分として姫路にいた宮本武蔵が、明石城築城に伴う明石城下町の町割り(都市計画)を指導したと言われています。


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享保年間(1716〜36年)の地誌『明石記』には、「宮本武蔵ト云士町割有之ト云」とあり、小笠原家に伝わる『清流話』には、城内の庭園や藩主の御屋敷の建設を武蔵に命じたとされており、武蔵が何らかのかたちで築城事業に関わったことは事実だと考えていいのかもしれません。


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三ノ丸だけでめっちゃ長くなっちゃいました。

「その3」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-08-22 23:23 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

築城400周年の明石城を歩く。 その1 <中濠、東不明門、西不明門>

令和元年(平成31年)の今年、兵庫県明石市にある明石城築城400周年を迎えました。

そこで、過日、その400周年を記念して明石城をじっくり歩いてみました。


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現在、JR明石駅の北側にある明石公園内に、その一部が残っています。

上の写真はその明石公園の南東外周から見た

往時は三ノ丸の外を囲う中濠でした。

右側に見える石垣は三ノ丸の南東にある東不明門(ひがしあけずもん)の石垣です。


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石垣は打込み接ぎですね。


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では、その東不明門を見てみましょう。


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東不明門は、別名「明ノ門」とも呼ばれていました。


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枡形虎口

往時は2階建ての櫓門がありました。


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石垣の上に登ってみます。


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櫓台石垣の上から見下ろした枡形虎口。


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東不明門を抜けると、三ノ丸庭園に繋がります。

往時は、ここは家老屋敷への専用入口でした。

向こうに本丸の巽櫓が見えます。


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ひとまず城内には入らず、中濠に戻ります。


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中濠沿いに西へ歩きましょう。


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築城400周年を記念した看板が設置されています。


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中濠南中央の太鼓門が見えますが、大手門にあたるここはひとまずスルーして、さらに中濠を西へ向かいます。


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中濠の西の端まで歩いてきました。


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東を振り返ります。

中濠は東西550mほどあります。


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向こうに見えるのは、明石天文科学館の塔。

東経135度日本標準時子午線の直上に立つ塔です。

つまり、東は北海道から西は沖縄まで、日本の時刻はすべてここ明石の時刻に統一されているわけです。

ある意味、日本の中心地といっていい町です。


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中濠南西には、西不明門(にしあけずもん)があります。

現在は明石公園の駐車場入口となっています。


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1時間200円

良心的な値段です(笑)。


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枡形虎口の駐車場入口です(笑)。


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日本広しといえども、枡形の石垣を進む駐車場は、なかなかないんじゃないでしょうか。


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江戸時代の縄張図によると、往時はこの西不明門を入るとすぐに内濠があり、その中に居屋敷郭があったとされていますが、現在は明石トーカロ球場があります。

かつてはプロ野球の試合もときどき行われていた立派な球場です。


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さて、城外に戻って中濠沿い西側です。


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ここ明石城は、元和3年(1617年)に信州松本城主より初代明石藩主となった小笠原忠真が、元和5年(1619年)、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の命により、岳父にあたる姫路城主・本多忠政の協力を得て築城したものです。


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中濠西側は石垣がなく、土塁が南北に伸びています。


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西不明門から200mほど北上したあたりで中濠は終わっており、公園への入口があります。

でも、縄張図を見ると、中濠はもっと北まで続いており、こんな入口もありません。

おそらく、この入口は明治に入って公園整備された際に作られたものでしょうね。


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上の写真は江戸時代の縄張図です。

本稿はこのあたりで、「その2」では城内にお入ります。




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by sakanoueno-kumo | 2019-08-21 11:31 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)