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カテゴリ:兵庫の史跡・観光( 84 )

 

丹波国篠山城跡を歩く。 その7 ~河原町妻入商家群~

「その6」の続きです。

篠山城跡の西側城下町にやってきました。


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城下町の南東に位置する河原町は旧商家町で、東西約500mの通りに沿って江戸時代末期から昭和戦前期の土蔵が縦並びます。

一帯は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。


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入口には、「河原町妻入商家群」と記された大きな看板が。


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石碑もあります。


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商家群を歩きましょう。


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こちらは西坂家住宅

屋号は「錦屋」と言って、元は綿花栽培、醤油屋を営んでいたそうです。

主屋は入母屋造妻入の中2階建てで、間口は九間と篠山伝統地区では最も広い規模を有します。


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こちらは川端家住宅

表間口九間半の敷地に経つ入母屋造平入の町家で、主屋などは明治前期ごろ、離れは大正9年(1920年)に建築されたそうです。


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こちらは現在、鳳凰会館と呼ばれる地元公民館の建物ですが、元は明治12年(1879年)頃に建てられた南丹銀行の建物だったそうです。

その後、第百三十七銀行、神戸銀行の河原町支店となり、現在は公民館として利用されています。


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こちらは丹波古陶館

丹波焼を専門に扱う美術館です。


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こちらは能楽資料館


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郵便局も景観に合わせた作りになっています。


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その横には、「平尾竹霞生誕の地」と刻まれた石碑があります。


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平尾竹霞は篠山藩出身の南画家で、明治、大正、昭和初期に活躍した南画界の巨匠です。


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こちらは小林家住宅

屋敷は明治12年(1879年)頃の建築。

妻入、平入建築の組み合わせ。

町医者として昭和40年(1965年)まで開業していたそうです。


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こちらは高田屋住宅

建築年代は江戸時代後期で、商家群のなかでも最も古い建物です。

屋敷は一階東(左)側に通り土間をとおし、西(右)側に店の間、居間、座敷、中庭、離れ、土蔵を並べ、中二階には出格子窓やむし子窓を設けるという河原町妻入商家の典型的な形式となっています。

古くは「あかしや」を屋号として代々油類を中心に薬日用品、化粧品等の卸、販売等を平成15年(2003年)まで行っていたそうです。

その後、平成17年(2005年)に外観をガラス戸から格子に復元したそうです。


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平成30年(2018年)5月12日だったのですが、ちょうど「妻入商家春のれん」というイベント期間中だったようで、各商家の店先は小豆色や辛子色の暖簾で彩られていました。


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さて、全7稿に渡って篠山城とその周辺を歩いてきましたが、本稿でシリーズを終わります。




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by sakanoueno-kumo | 2019-12-29 18:59 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

丹波国篠山城跡を歩く。 その6 ~振徳堂跡・御徒士町武家屋敷群~

「その5」で紹介した南馬出の西隣に、かつての篠山藩の藩校「振徳堂」がありました。

現在、南馬出の土塁横に案内板のみが残っています。


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その案内板です。


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篠山藩9代藩主の青山忠朝は、寛延4年(1751年)に大坂の儒学者・関交平を聘招して藩の有志を学ばせ、その後、藩士の中で学問を志す者が多くなり、明和3年(1767年)に10代藩主の青山忠高がこの地に藩校「振徳堂」を創建し、翌年に教育方針である「學規」を定めました。

その後、「その4」で紹介した12代藩主・青山忠裕のときに学舎を増設して藩内の教育に力を入れるようになりますが、明治に入って廃藩置県後に廃校となりました。

しかし、その教育精神は、同じく「その4」で紹介した青山忠誠によって創設された篠山中年学舎(現在の兵庫県立篠山鳳鳴高等学校)に引き継がれていきます。


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振徳堂跡の北側には、篠山城西側の外堀が伸びます。


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こちらは西側隅から見た南側の外堀

ここを訪れたのは平成30年(2018年)5月12日。

水辺をマーガレットが彩ります。


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西側の外堀沿いには武家屋敷群が残っています。


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こちらはその説明板。


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篠山城の城下町は慶長14年(1609年)の築城時から10年ほどの歳月をかけて整備され、城を取り囲むように武家町が配置されましたが、その武家町の中でもさらに武士の身分によって住む場所が決められたそうで、西側には「徒士」という身分の武士が住んでいたため、「御徒士町」と呼ばれました。

「徒士」とは、戦の際に馬に乗ることを許されずに徒歩で戦う武士のことで、いわば下級武士でした。

明治になって藩がなくなると、上級武士の多くは東京に移り住んだため武家町は衰退しましたが、御徒士町からの転出は少なかったため、武家屋敷群が残されるに至ったそうです。


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御徒士町武家屋敷群の南にある小林家長屋門


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茅葺きの入母屋造です。


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現地案内板によると、文化年間(1804年)頃、篠山藩12代藩主・青山忠裕がその老女・小林千枝の多年の労に報いるために修築した長屋門と伝えられるそうです。


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木造間口17.3m、奥行3.6mあるそうで、江戸時代後期に建てられた篠山市内に残る数少ない武家長屋建築のひとつとして、兵庫県指定文化財に指定されています。


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こちらは、中村家屋敷


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こちらは、城戸家屋敷


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こちらは、原家屋敷


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こちらは、佐藤家屋敷


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こちらの安間家屋敷は、現在、「武家屋敷安間家資料館」として一般公開されています。


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安間家史料館は天保元年(1830年)以降に建てられた武家屋敷で、平成6年(1994年)10月から翌年3月にかけて全面的な改修が行われ、史料館として一般に公開されたものです。


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安間家は「高12石3人扶持」の禄を得る下級武士だったそうです。


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屋敷内には、安間家に残された古文書や日常に用いられた食器類や家具を始め、その後、寄贈を受けた篠山藩ゆかりの武具や資料などが数多く展示されています。


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幕末の大ベストセラーとなった頼山陽『日本外史』があります。


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母屋は間口6間半(13m)、奥行7間半(15m)の曲屋で、部屋割りは正面に向かって左に玄関、右奥に庭園に面した8畳の座敷があり、玄関の奥には台所、座敷の奥には仏間、居間が続いています。

今の表現でいえば、4LDKでしょうか?

規模としては、篠山藩の標準的な下級武士の住宅だそうですが、けっこう広いですよね。


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母屋西側にある庭園です。

これもけっこう広い。


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庭から見た母屋。


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庭の片隅には土蔵があります。


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こちらは、玄関横の井戸


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さて、武家屋敷群を過ぎて外堀北西隅にやってきました。

これで、城跡をすべて巡りましたが、篠山城周辺の城下町は、「篠山伝統的建造物群保存地区」に指定されています。

あと1回だけ、城下町を歩きます。

つづきは「その7」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2019-12-28 08:17 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

丹波国篠山城跡を歩く。 その5 ~三の丸、外堀、馬出~

「その4」の続きです。

篠山城二ノ丸を出て、外堀に沿って歩きます。


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「その2」で紹介した北廊下門を出て、北へ歩きます。

振り返ると、石垣と二ノ丸大書院が見えます。


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大手門に架かる土橋の上から見た外堀です。

篠山城の内堀は復元ですが、外堀は往時のものです。

外堀は東西南北約400mあり、幅は約40mあります。


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外堀の北側には、かつて大手馬出がありました。

現在はたんば田園交響ホールとなっていますが、その敷地内の西側に、一部、土塁の痕跡が見られます。


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南に大書院の屋根が見えます。


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北側の外堀に沿って東へ進みます。


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雄大な川のようです。


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外堀北東の東門を出た東側には、東馬出跡が現存しています。


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「馬出」とは、城への通路を複雑にして出入口を守るための曲輪で、ここにあらかじめ兵馬を繰り出しておき、いざというときには馬出の門を開いて討って出るたまり場でもありました。


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篠山城には北、東、南の3ヵ所に馬出が設けられ、そのうち東馬出と南馬出が今も残っています。

これは、全国的にも珍しいそうです。


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案内板です。


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馬出は、戦国時代に主に東国で発達したと言われており、古くは、武田信玄が本拠としていた躑躅ヶ崎館に、その遺構が見られます。

大阪冬の陣真田信繁(幸村)が大阪城の南東に築いたと伝わる「真田丸」も、いわば馬出曲輪の一種です。


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現在、馬出内は整備されていて、何も知らなければただの長閑な公園です。


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東馬出を出て東側外堀を南に下ります。


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外堀の南東まで来ました。

樹木が茂ってわかりづらいですが、あの木の向こうに天守台石垣があります。


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南側外堀に沿って西へ歩きます。


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外堀南東の南門の南に、南馬出跡が現存しています。


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入口には石碑と案内板があります。


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南馬出は東馬出のように公園整備されておらず、遺構がそのまま残っているといった感じです。


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馬出の周囲は高い土塁で囲われています。


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この南馬出は、現存する土塁馬出遺構としては日本唯一の貴重なものといわれています。


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南馬出の北側にある南門です。

外堀に架かる土橋となっています。


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土橋を渡って三ノ丸に向かってみます。


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三ノ丸に出ました。

「その1」で紹介した内堀南西隅の石垣が見えます。


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外堀に沿って北、東、南と歩いてきましたが、西側の外堀沿いには武家屋敷群が残っています。

つづきは「その6」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2019-12-27 02:33 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

丹波国篠山城跡を歩く。 その4 ~本丸・天守台~

「その3」の続きです。

篠山城二ノ丸跡から本丸跡に向かいます。


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写真は二ノ丸東側の本丸石垣です。

見てのとおり、本丸は二ノ丸より少しだけ高くなっているだけで、ほとんど並列のような感じです。


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本丸入口には石鳥居があります。

現在、本丸には青山神社が鎮座しています。


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青山神社は明治15年(1882年)に建立され、最後の篠山藩主・青山氏の遠祖・青山忠俊と、第12代藩主・青山忠裕が祭神として祀られています。

青山氏は譜代大名として幕府の要職を歴任した家柄で、なかでも忠裕は30年余り幕府老中を務め、その功績により篠山藩は5万石から6万石に加増されました。

また、忠裕は藩内の教育にも熱心だったそうで、篠山藩校「振徳堂」の学舎を増やし、学問を勧めたそうです。

そのことから、青山神社は学問の神様として信仰されていました。


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もうひとりの祭神・青山忠俊は、徳川家康の孫に当たる竹千代(のちの三代将軍・徳川家光)の傅役を務めた武将です。

しかし、忠俊はしばしば家光に諫言を繰り返したため、老中を免職されました。


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これ、もとは御神木だったのでしょうね。


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また、本丸内には、青山忠誠の頌徳碑があります。

青山忠誠は最後の藩主・青山忠敏の弟で、明治6年(1873年)に忠敏が死去し、忠敏に男子がいなかったことから、家督を継ぎました。

忠誠は明治9年(1876年)に私財を投じて私立篠山中学年舎をつくり、旧藩士の子弟教育に尽くしたそうです。

同校は明治17年(1884年)の中学校設備規則発布により廃校の方針となりますが、忠誠は基金を募り、翌年に私立鳳鳴義塾として存続をさせました。

また、東京にも進学の為の寄宿舎尚学館をつくり優秀な者は遊学させたそうです。

殿様の家柄で、明治以降にここまで旧家臣たちの教育に尽力した人は他に例を見ないかもしれませんね。

しかし、残念ながら忠誠は明治20年(1887年)に29歳という若さで没し、明治25年(1892年)に正四位を追贈されました。


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こちらは、同じく本丸跡にある青山忠誠公追慕碑

地元ではよほど敬慕されていたのでしょう。


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その説明板です。


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こちらは本丸跡の説明板です。

それによると、築城当初は現在の二ノ丸が本丸と呼ばれ、現在の本丸は、南東の隅に天守台があることから、特に殿守丸と呼ばれていたそうです。


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その天守台に行ってみましょう。


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天守台です。


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本丸から見た天守台はそれほど高さはありませんが、「その1」で見た内堀側の天守台石垣は、高さ17mあります。


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天守台に上がってきました。


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天守台は東西約18m、南北約20mあります。


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この天守台に天守が築かれることはありませんでした。

当初は建てる計画があったそうですが、築城途中に中止となったそうです。

その理由は、城郭が堅固すぎるということだったとか。

西国諸大名に対する抑えの拠点として幕府を守るために築城された篠山城ですが、それでも堅固すぎてはダメなんですね。


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その代わりに、天守台南東隅に二間四方(約3.6m四方)単層の隅櫓を配置し、東西と南北に土塀をめぐらせたそうです。


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その説明板です。


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天守台からの東の眺望です。

富士山のような形をした山が見えますが、あの頂上には、かつて八上城がありました。


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さて、本丸を制覇しましたが、篠山城シリーズをもう少し続けます。

続きは「その5」にて。



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by sakanoueno-kumo | 2019-12-26 00:40 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

丹波国篠山城跡を歩く。 その3 ~大書院~

「その2」の続きです。

篠山城二ノ丸にあった建物のなかで、ひとつだけ平成12年(2000年)に復元された大書院です。


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写真は南側から見た大書院。


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篠山城大書院は木造住宅建築としては非常に規模が大きく、現存する同様の建物の中では、世界遺産に指定されている京都二条城二の丸御殿遠侍に匹敵する建物だそうです。

たしかに、見た感じも似てますよね(参照:大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その2 ~二ノ丸御殿・二ノ丸庭園)。


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二条城の御殿は徳川将軍が上洛したときの宿所となった第一級の建物ということから考えれば、ここ篠山城の大書院は、一大名の書院としては破格の規模の建物といえるかもしれません。


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大書院入口は北側にあります。

唐破風をつけた車寄となっています。


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大書院は慶長14年(1609年)の築城当時に建てられたと考えられ、その後、約260年間に渡って藩の公式行事などに使用されました。


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篠山城の初代城主は徳川家康に築城を命じられた松平康重

康重は駿河国三枚橋城主・松平康親の長男と言われますが、一説には、家康の落胤とも言われています。

康重は篠山藩政の基礎を固めましたが、その後、和泉国岸和田藩に移封となります。

その後、藤井松平家2代、形原松平家5代、青山家6代が歴代城主を務め、明治を迎えました。


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明治維新を経て廃藩置県後に建物の多くは取り壊されましたが、ただひとつ大書院だけが残され、小学校や女学校の校舎として、その後は公会堂などに利用されていたそうですが、昭和19年(1944年)1月6日の夜、火災によって焼失しました。


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その後、篠山城跡は未整備のままでしたが、保存を望む声が持ち上がり、昭和31年(1956年)に国の史跡に指定されると、それを機に石垣の修理や発掘調査が実施され、平成12年(2000年)3月にこの大書院が復元されるに至ります。


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大書院を復元するにあたっては、古絵図、古写真、発掘などの総合的な学術調査が実施され、その成果に基づいて設計と建築が行われ、総工費約12億円かけたそうです。

復元された建物は平屋建てで北(妻側)を建物正面とします。床面積は739.33㎡、棟高は12.88mあり、屋根は入母屋造 、柿葺きとなっています。


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また、建物内部には襖絵などに囲まれた8つの部屋があり、その周囲に広縁が、さらにその外側には落縁が一段低く設けられています。


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上の写真は上段の間です。

パンフレットの説明書きによると、上段の間は、最も格式の高い部屋であり、幅3.5間(6.9m)の大床、その左手に付書院、右手に違い棚、帳台構が設けられています。

こういった座敷を飾るしつらえが整うのは大書院が創建された慶長頃のことと考えられているそうです。

この上段の間には、往事の雰囲気を再現させるため、江戸時代初期の狩野派絵師が描いた屏風絵を障壁画として転用しています。


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甲冑具足のレプリカが展示されています。


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構造模型です。


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さて、次稿では大書院を出て本丸を歩きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-12-25 00:07 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

丹波国篠山城跡を歩く。 その2 ~二ノ丸~

「その1」の続きです。

篠山城三ノ丸北廊下門から土橋を渡って二ノ丸に向かいます。


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写真は土橋を渡ったところにある表門跡


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両側には櫓台跡があります。

往時はこの上に櫓が渡る櫓門だったのでしょう。


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表門を過ぎると、見ての通り90度に曲がる枡形虎口になっています。


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枡形を曲がったところに、また櫓台跡があります。

ここは中門跡で、ここも櫓門だったのでしょう。


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そして中門を過ぎると、またまた枡形になっています。

ダブル枡形虎口ですね。

これは堅固だ。


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後ろを振り返って見た中門跡です。

表門はもう見えません。


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そして中門から90度曲がったところにある鉄門です。

現在は簡易な冠木門となっていますが、現地の説明板によると、往時は東西の幅約5m、奥行き4.5mの大きさで、東側石垣の高さが4m、西側石垣の高さが4.5mあり、その上に櫓が乗せられた櫓門だったようで、門扉は、その名の通り鉄板が張られていたそうです。


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鉄門を入ると、目の前に平成12年(2000年)に復元された大書院入口があるのですが、ひとまず後回しにして二ノ丸を散策します。


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大書院南側に広がる二ノ丸跡です。


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説明板です。


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往時の二ノ丸は、大書院、小書院、中奥御殿、奥御殿、台所などの建物があり、築山をもつ庭園があったとされます。

それらの御殿群の周囲には、三層の櫓1棟、二層の隅櫓5棟と、それをつなぐように多聞櫓が配置されていました。


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前稿でも述べましたが、篠山城は慶長13年(1608年)に徳川家康松平康重に命じ、縄張り奉行藤堂高虎、そして普請総奉行池田輝政が務めて築城した城ですが、二ノ丸御殿は、江戸時代に何度か建て替えられたり増築されたりしていたようです。

しかし、大書院以外の建物は廃藩置県後に取り壊され、唯一残っていた大書院も昭和19年(1944年)に焼失し、すべてなくなってしまっていました。


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平成12年(2000年)に大書院は復元されましたが、それ以外の建物は立体的に復元できる資料がないため、現在発見されている6種類の間取図のなかで最も古い江戸時代中期頃の図面をもとに、地面に平面のみ復元整備しています。


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平面復元された地面には、部屋名を記した御影石が埋め込んでいます。


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南西の隅にある井戸です。


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二ノ丸南側にある埋門です。


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ここから、南側内堀の犬走りに降りられるのですが、今は通行禁止になっています。


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外側から見た埋門。

往時はここも櫓門だったそうですが、今は鉄門と同じく簡易な冠木門となっています。


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犬走りに降りる石段です。


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埋門櫓台石垣に、「三佐ノ内」と刻まれた刻印があります。

これは、普請奉行の池田輝政のものだそうで、池田三左衛門輝政の名を表しているそうです。


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二ノ丸南側の眺望です。


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こちらは二ノ丸西側の眺望。

三ノ丸広場でゲートボールをしています。


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こちらの写真は二ノ丸南側から北側を見たものです。

正面に見える建物が大書院です。


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二ノ丸の北東にやってきました。


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かつてここには、二層櫓があったそうです。


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一段高くなった隅には、その礎石跡のようなものがあります。


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北東隅櫓跡から北側の内堀を見下ろします。


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きれいに整備された犬走りが見えます。


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撮影場所を変えて、こちらが二ノ丸北東隅櫓台石垣

その下は内堀の犬走り。


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西側を見ると、大書院が見えます。

二ノ丸散策だけでめちゃくちゃ長くなっちゃいました。

「その3」では大書院に入ってみましょう。




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by sakanoueno-kumo | 2019-12-24 00:57 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

丹波国篠山城跡を歩く。 その1 ~内堀~

兵庫県篠山市にある篠山城跡を訪れました。

篠山城は江戸幕府開府後に徳川家康が築いた城で、当時、篠山盆地は大阪や京都から山陰、山陽への街道が通る交通の要衝地でした。


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江戸幕府を開いた徳川家康は、慶長13年(1608年)に松平康重を常陸国笠間城から丹波国八上城に移し、さらに、西国諸大名に対する抑えの拠点として新城の築城を命じました。

そして築かれたのが、ここ篠山城です。


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築城工事は西国15カ国20大名によって行われ、縄張り奉行を築城の名人で知られる藤堂高虎が、そして普請総奉行を同じく城づくりの名手として知られる池田輝政が務め、延べ8万人を動員して約半年という突貫工事で完成させたといいます。


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篠山城跡の見どころは何といっても高石垣

まずは内堀に沿って1周してみましょう。


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石垣は基本的に野面積みです。

関ヶ原の戦い後のこの時代は既に打込み接ぎの工法が主流となりつつあったと思うのですが、なぜか篠山城は古い工法の野面積みなんですね。

半年間の短期突貫工事だったからでしょうか?


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北西の出隅です。

算木積みの工法が用いられていますね。

「算木積み」とは石垣の出隅部分に用いられる技法で、長方体の石を交互に重ね合わせて積み上げられるため、強度が増します。


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内堀は、昭和の戦後に一度埋め立てられたそうで、その後、復元されたものだそうです。


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南西の出隅です。


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南側の石垣。


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上部に見える門は、二の丸へ通じる埋門

現在は通行禁止です。


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南東に見えるのは、天守台の高石垣。

高さは約17mあるそうです。

石垣下には、犬走りが見られます。

「犬走り」とは、石垣と堀の間や土手の斜面に設けられた細長い通路や平地部分のことで、犬が通れるくらいの幅しかない道という意味合いから、そう呼ばれます。


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こちらは南東から見た天守台石垣。


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出隅は算木積みになっていますね。


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こちらは、北東の石垣です。

ここにも犬走りがあります。

こちらは草が刈られてきれいに整備されています。


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とにかく石垣が見事です。


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表門横の櫓台石垣です。


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櫓台の説明板。


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北側の北廊下門にやってきました。

ここが三ノ丸から二ノ丸に続く大手筋になります。


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土橋前には昭和31年(1956年)に建てられた石碑があります。


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その横には案内板が。


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さて、土橋を渡って二ノ丸へ・・・と言いたいところですが、長くなっちゃったので、続きは「その2」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2019-12-22 00:36 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その9 <多田弥太郎顕彰之碑>

「その8」のつづきです。

「その3」で紹介した山口護国神社から直線距離で25kmほど北上したところに、「生野の変」で挙兵した志士のひとり、多田弥太郎終焉の地があります。

現在、その場所には顕彰碑が建てられています。


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場所は現在、養父市と豊岡市の市境にある浅間トンネルを抜けてすぐの豊岡市側にあります。

かつてこの浅間峠は、生野の天領と出石藩との国境でした。


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看板には、「勤皇志士多田弥太郎顕彰之碑」とあります。


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多田弥太郎は出石藩士の家に生まれ、大坂・江戸・京都で諸学を学び、帰藩して藩校弘道館の寮長を務めました。

外国船の出没に不安を抱いた多田は、長崎で高島流砲術を学び、その普及を試みるも、藩の旧勢力と対立し、9年間幽閉されます。

閉門を解かれたのち、尊王攘夷派の公家と接近します。

そして文久3年8月18日(1863年9月30日)に起きた八月十八日の政変を知ると、七卿落ちで京を追われた一行と三田尻で合流し、そこで平野國臣らの要請に応じ、同郷の高橋甲太郎、中条右京とともに生野の挙兵に参加します。


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生野の挙兵では節制方を務めました。

しかし、形勢が悪化すると、強硬派の河上弥市(南八郎)らに解散を促しますが、拒否されたため、総帥の澤宣嘉を説得し、本陣を脱出しました。

総帥がいなくなった生野本陣はまたたく間に破陣し、河上ら残党は翌日に壮絶な死を遂げたという話は、これまでの稿で述べたとおりです。


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生野本陣を脱出した多田は、山中で澤宣嘉一行とはぐれ、大阪・京都に逃亡、潜伏しました。

しかし、敗走から4ヶ月後、但馬国で出石藩士に発見され、元治元年2月28日(1864年4月4日)、駕籠で出石に護送される途中、浅間峠を越えて藩領に入った直後に刺殺されます。

享年39。

最期の言葉は「今に分かる」だったと伝わります。


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遺骸は藩命により獄に埋められ、父母、妻子、弟妹すべて禁固に処せられました。

しかし、時は過ぎて明治24年(1891年)、靖国神社に合祀されるとともに、明治政府より従四位を贈位されました。


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そして、大正14年(1925年)浅間坂に「贈従四位多田君隕命遺蹟碑」が建てられました。

それがこの碑です。


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もっとも、当初はこの場所ではなく旧街道にありましたが、昭和38年(1963年)に浅間トンネルが開通したことによって旧県道は廃道となり、その後しばらく石碑は放置されていましたが、昭和61年(1986年)11月にこの地に移されたそうです。


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墓標は、今でも峠の山中にあるそうです。


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反逆罪の大悪人が、ひとたび革命が起これば正義の忠臣として讃えられる。

政治犯というのはそういうものなんでしょうが、この生野の変天誅組の変などの「義士」と呼ばれる浪士たちは、どうも政治犯というレベルにも達しない稚拙なテロリストという印象でしかありません。

そんな彼らを合祀している靖国神社というところは、やはり、政治利用のために創設された偏った神社と言わざるを得ません。

というと、一部の方々からかなりお叱りを受けるでしょうが。


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現在の浅間トンネルです。

たぶん、あのトンネルの上あたりで、多田は殺されたのでしょう。

合掌。




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by sakanoueno-kumo | 2019-12-07 16:02 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その8 <平野國臣・横田友次郎捕縛の地>

「その7」で紹介した黒田與一郎・中島太郎兵衛顕彰碑から北西に5kmほど、「その3」で紹介した山口護国神社から直線距離で35kmほど北上した養父市上網場に、「平野國臣捕縛地」と刻まれた石碑があります。


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文久3年10月13日(1863年11月23日)夜の生野破陣後、平野國臣は鳥取藩士の横田友次郎とともに城崎に向かいますが、その途中、上網場村の旅籠京屋豊岡藩兵捕縛されました。

ふたりは一旦、豊岡藩の獄に繋がれますが、年が明けた1月5日に身柄を姫路に護送され、11日に京都の六角獄舎に送られます。


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それから約半年後の元治元年7月19日(1864年8月20日)の起きた禁門の変(蛤御門の変)で、京のまちは火の海となりました。

「どんどん焼け」と呼ばれたその火の手は獄舎周辺まで迫り、火災に乗じて囚人が逃亡することを恐れた西町奉行所の役人・滝川具挙は、判決が出ていない状態のまま独断で囚人の処刑を断行します。

このとき斬首された囚人は37名

そのなかにいた生野の変のメンバーは、平野國臣、横田友次郎、本多素行、大村辰之助の4人でした。

<参照:六角獄舎跡(勤王志士平野國臣外十数名終焉之地)

彼らの遺骸は、13年後の明治10年(1877年)、京都の竹林寺に埋葬されました。

<参照:平野國臣以下三十七士之墓(竹林寺)


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平野國臣の勤王志士としとの経歴は長く、安政の大獄で追及を受けた僧・月照西郷隆盛とともに鹿児島へ逃れさせ、そのとき入水自殺を図った西郷を平野が助けたという話は有名です。

また、文久2年(1862年)には薩摩藩尊攘派の浪士たちと挙兵して攘夷断行を企てますが、一団は伏見寺田屋で捕えられ、平野は福岡藩で投獄されます。

いわゆる寺田屋事件ですね。

翌年に許されて上京し、学習院出仕に任ぜられますが、八月十八日の政変で京都を去り、その後、大和の天誅組に呼応して生野挙兵を画策します。


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これだけ輝かしい志士としての経歴を持ちながら、平野は後世にあまり知られてはいません。

生野挙兵メンバーのなかでは最も名前が売れているとは思いますが、いわゆる西郷隆盛大久保利通、木戸孝允の維新三傑をはじめ、維新を迎えることなく散っていった坂本龍馬高杉晋作、久坂玄瑞などと比べても、圧倒的に知名度が低い

その理由は、彼の出身が幕末にあまり目立たなかった福岡藩だったこともありますが、彼の志士としての運動を見るに、どれも中途半端で何事も成し得ていないところにあるように思います。

関西弁でいう「いっちょかみ」なんですよね。

この生野の変にしても、実質首謀者だったはずなのに、大和の天誅組の破陣を知るや途中から自重派となり、挙兵中止をうったえるも強硬派を抑えきれず、最後は逃亡してお縄につくという、無様な結末といえます。

もし、彼が西郷らと名を連ねるほどの一流の志士なら、はじめからこのような無謀な挙兵はしなかったでしょうから。

大和の天誅組の面々と同じく、所詮は二流の志士だったと。

手厳しいようですが。


「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その8 <平野國臣・横田友次郎捕縛の地>_e0158128_19122600.jpg


石碑には、平野の辞世の句が刻まれています。


見よや人 嵐の庭のもみじ葉は いずれ一葉も 散らずやはある


「その9」につづきます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-12-06 11:27 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その7 <黒田與一郎・中島太郎兵衛顕彰碑>

「その6」で紹介した三国神社自刃した中島太郎兵衛と、その弟の黒田與一郎顕彰碑が、兵庫県朝来市和田山町高田あります。

このあたりに、かつて彼ら兄弟の生家がありました。


「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その7 <黒田與一郎・中島太郎兵衛顕彰碑>_e0158128_18582018.jpg


国道9号線を北上していると、顕彰碑の誘導看板があります。


「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その7 <黒田與一郎・中島太郎兵衛顕彰碑>_e0158128_18582697.jpg


看板の向こうに見える鳥居は、高田八幡神社のものです。


「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その7 <黒田與一郎・中島太郎兵衛顕彰碑>_e0158128_19034156.jpg


その鳥居のすぐ横の階段を上ると顕彰碑があります。


「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その7 <黒田與一郎・中島太郎兵衛顕彰碑>_e0158128_19034373.jpg


中島太郎兵衛と黒田與一郎兄弟の生家は、代々、和田山高田村の大庄屋でしたが、幕末当時、凋落傾向にあったといいます。

ふたりは早くから但馬における農兵組織化にむけて北垣国道らとともに奔走し、美玉三平、平野國臣らが但馬に入ると、彼らとともに農兵を討幕のために転換させるよう画策しました。


「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その7 <黒田與一郎・中島太郎兵衛顕彰碑>_e0158128_19034943.jpg


文久3年(1863年)8月に朝廷と幕府から農兵組立が発令されると、9月5日に養父神社第1回農兵組立会議が行われ、9月19日の第2回農兵組立会議は中島太郎兵衛宅で行われました。

この会議には生野代官所役人らも出席していましたが、代官所役人らが退席したあと、別室で密談が行われ、10月の挙兵が決定されました。

いわば、生野の変の首謀者メンバーだったんですね。


「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その7 <黒田與一郎・中島太郎兵衛顕彰碑>_e0158128_19035290.jpg


文久3年10月12日(1863年11月22日)に生野代官所占拠した彼らでしたが、本陣での役割は、兄・太郎兵衛が節制方、弟・興一郎が農兵徴集方だったようです。

長州藩士を中心として他藩の浪士が多かった生野挙兵メンバーのなかで、地元出身で土地勘のある彼らは、きっと大きな役割を期待されていたのでしょう。

ところが、生野挙兵はあっけなく破陣

ふたりは薩摩藩士の美玉三平とともに播磨国山崎の木之谷まで逃亡しますが、深手を負っていた兄・太郎兵衛は自刃し、兄を介錯した興一郎はそのあと自ら縛につき、京都六角獄舎に送られ、慶応2年2月9日(1866年3月25日)に獄中死します。

詳しくは「その6」で紹介しましたね。


「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その7 <黒田與一郎・中島太郎兵衛顕彰碑>_e0158128_19035739.jpg


この顕彰碑は昭和15年(1940年)11月10日に建立されたそうです。

わたしに言わせれば、彼らは顕彰されるようなことは何もしていないんですけどね。

彼らがやったことは、暴挙を画策して失敗して死んだ、ただそれだけなんですけどね。

顕彰碑が建てられた昭和15年(1940年)は、皇紀2600年にあたります。

そんなプロパガンダの顕彰碑といえるでしょう。

「その8」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-12-04 23:18 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)