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カテゴリ:兵庫の史跡・観光( 57 )

 

黒田官兵衛の生誕地と伝わる播磨黒田城跡を訪ねて。

兵庫県西脇市に黒田官兵衛孝高生誕地と伝わる黒田城跡があります。

江戸時代に編纂された福岡藩主・黒田家の公式記録『黒田家譜』によると、官兵衛の祖先の黒田氏は近江国伊香郡(現在の滋賀県長浜市木之本町)の出自で、官兵衛の生誕地は姫路であると記されており、これが通説になっています。

ただ、これは実は確たる証拠はなく、『黒田家譜』の記述によるところが大きいのが事実です。

一方で、江戸時代に編纂された播磨国の地方史料などには、官兵衛やその父は多可郡黒田村(現在の西脇市黒田庄黒田)生まれとする記録が多数あり、江戸時代の播磨地区では、その説が広く認識されていたようです。


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現在、その跡地には「黒田官兵衛生誕の里」と刻まれた石碑が建てられています。


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最近建てられた石碑のように思えたので裏を見てみると、「平成二十六年NHK大河ドラマ軍師官兵衛放映祝碑」とありました。

なるほど、大河ドラマ誘致が決まって、にわかに建てられたもののようですね。


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駐車スペースに車を停めて、誘導表示に従って進みます。


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道中も官兵衛推しです。


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しばらく進むと、「姥が懐」と書かれた看板と「黒田官兵衛生誕地」と刻まれた石碑が建てられている場所に出ます。


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『播磨古事』によると、城山と黒田城下を流れる北谷川に囲まれた田畑の周辺が「姥が懐」と記されており、このすぐ近くにあった多田城(構居)に付随する邸宅跡だったと伝わるそうです。

官兵衛生誕地というのは、あくまで推測です。


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その説明板です。


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さて、城跡に向かって進みましょう。


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道中、とにかく官兵衛生誕地推しです。

大河ドラマ効果というのは絶大ですね。


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城跡本丸跡には現在稲荷神社が鎮座しており、登り口には鳥居があります。


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その横には、官兵衛の里と書かれた案内看板が。


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鳥居が連なる石段を登ります。


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頂上が見えてきました。


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どうやらここが本丸跡のようです。


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「黒田城跡」と記された木碑と説明板があります。


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説明板です。


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縄張り図。


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説明板によると、黒田氏は赤松則村(円心)の弟・赤松円光を先祖とする赤松庶流の一族で、観応2年(1351年)に円光の子・七郎重光が多可郡黒田城に移り、黒田七郎重光と名乗って初代となったそうです。

その後、9代・黒田治隆まで200年以上この地を拠点としますが、元亀3年(1572年)に丹波の赤井五郎、石原掃部助連合軍の突然の襲撃に敗れ、黒田城は落城しました。

一方、治隆の弟・孝隆は、それより早く姫路城主・小寺職隆の猶子(養子)となっており、御着城主・小寺政職家老になっていました。

この小寺官兵衛孝隆が、のちの黒田官兵衛孝高だと説明しています。


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本丸跡からの眺望です。


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本丸跡に鎮座する稲荷神社。


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こちらは、縄張り図にあった東郭です。


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黒田氏播磨国発祥説

通説とは大きく異なる説ですが、通説自体も根拠に乏しい分、こちらの説も、まったくの俗説といってしまうことも出来ないでしょう。

実際、官兵衛は播磨国で育ったことは間違いないわけですから、むしろ、近江国から流れて来たという説よりも、もともと播磨国発祥という説のほうが、見方によっては自然な気がしないでもないです。

官兵衛のみならずですが、中興の祖と呼ばれる戦国大名のそれ以前の出自というのは、けっこう曖昧で、後世に作られたものが多いですからね。




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by sakanoueno-kumo | 2019-04-20 19:54 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

但馬国守護大名山名氏の本拠、此隅山城登城記。 <後編>

前編の続きです。

西郭を跡にして、主郭を目指します。


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ここから主郭までの進路には、小さな郭跡とみられる削平地が連なっています。

いよいよ主郭近しといった感じです。


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傾斜がキツくなってきました。


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主郭の近くまで登ると、大きな岩がゴツゴツと行く手を阻みます。

足の短いわたしにはツライ(笑)。


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ようやく登りきり、広い削平地に出ました。

ここは主郭下の第2郭です。

のちの言葉で言う二ノ丸ですね。


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ここまで、麓から約30分ほどです。


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二ノ丸と主郭の間にある「切岸」です。

切岸とは、斜面を削って人工的に断崖とした構造で、斜面を通しての敵の侵入を防ぐために作られた防御壁です。


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その説明書き。


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そして、ここを登ると主郭です。

いざ!


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主郭です。

のちの用語でいえば本丸ですね。

此隅山城の主郭は標高140mの山頂にあり、南北42m、東西15mの細長い形をしています。


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此隅山城は但馬国の守護大名・山名氏の居城として、伝承では応安5年(1372年)頃に山名時義が築城したとされていますが、定かではありません。

応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱では、西軍の総帥となった山名宗全(持豊)の元に計2万6千の軍勢が集まったといいますが、それも、ここ此隅山城だったと伝えられます。


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此隅山城が古文書ではじめて確認できるのは、永正元年(1504年)夏のことで、山名致豊垣屋続成との抗争で、垣屋続成が山名致豊と田結庄豊朝の立て籠もる此隅山城を攻めたという記述が残っています。

しかし、戦国時代に入って山名氏はその勢力を失い、永禄12年(1569年)に織田軍の羽柴秀吉但馬侵攻によって但馬国の18の城が落とされ、そのとき、ここ此隅山城も落城しました。

この後、その後、秀吉軍と和睦した山名祐豊は、天正2年(1574年)にここから約3km南の有子山山頂に有子山城(参照:有子山城跡と出石城跡登城記。)を築いて本拠としました。

此隅山城は別名・子盗城とも言いますが、その「子盗」という名を山名祐豊が嫌って、次の城は「有子」城と名付けられたともいわれています。


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主郭からの眺望です。


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主郭に設置された説明書きと縄張り図です。

縄張り図を見ると、主郭を中心に、尾根伝いに四方に郭が多数連なっているのがわかります。

説明書きによると、尾根という尾根にこれだけ多数の郭を設けている例はあまりないそうです。

主郭はそれほど大きくはありませんが、縄張り全体で見ると、南北約750m、東西約1200mもあり、但馬国最大の大城郭だったことがわかります。


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下山しました。

此隅山城の遠景です。

なんか、カメラの設定が狂っていたようで、色が変になっちゃっています。


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南側に目を向けると、有子山城も見えます。


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山名氏はその後、祐豊の息子の山名堯熙のときに毛利氏方についたため、天正8年(1580年)の秀吉による第二次但馬征伐で再び攻撃を受け、有子山城は落城。

200年に渡って隆盛を誇った山名氏は滅亡しました。

栄枯盛衰は世の慣いです。




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by sakanoueno-kumo | 2019-04-19 00:30 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

但馬国守護大名山名氏の本拠、此隅山城登城記。 <前編>

先日の稿で紹介した有子山城、出石城から3kmほど北上したところに、此隅山城跡があります。

此隅山城は但馬国の守護大名・山名氏が有子山城に移る前に拠点としていた城で、有子山城と合わせて「山名氏城跡」として国の史跡に指定されています。


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登山口は兵庫県豊岡市出石町にある「いずし古代学習館」の裏側にあります。


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説明板と縄張り図です。


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登山道は見学者用に整備されているので、進路を迷うようなことはありません。


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此隅山城跡の城主・山名氏は、もとは新田氏の流れをくむ関東上野国の武士で、足利尊氏にしたがって室町幕府成立の騒乱で活躍します。

室町幕府の四職家で最大級の大名となった山名氏は、その一族が但馬、因幡、丹波、美作など日本全国66カ国中11カ国守護職を兼帯して「六分の一殿」と呼ばれました。

元中8年/明徳2年(1391年)の明徳の乱によって、一族の内紛を起こしたために一時衰退しましたが、嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で勢力を回復し、応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱では、山名宗全(持豊)西軍の総帥となりました。

但馬国はこの山名氏の根拠地であり、戦国時代まで一貫して山名氏が守護大名としてこの但馬国を治めました。


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道中、急勾配の道はロープが張られていました。

けっこうキツイ。


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主郭まで300mとあります。


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急勾配の道を登りきったところに、郭跡のような削平地があります。


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説明板が設置されています。


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郭を過ぎたところに、堀切跡らしき地形が見られました。


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さらに進むと、今度ははっきりと分かる堀切跡があります。


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その説明板です。


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さらに進むと、主郭西郭への分岐点があります。

まずは西郭に行ってみましょう。


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何やら説明板が見えます。


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土塁跡のようです。


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さらに尾根伝いに西へ向かいます。


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説明板らしきものが見えてきました。

どうやら、ここが西郭のようです。


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案内板です。

汚れててさっぱり読めない(苦笑)。


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西郭からの眺望です。


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西郭の真ん中には、大きな盛り土のコブがあります。

土塁?

何の遺構かよくわかりません。


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さて、引き返して主郭に向かいましょう。

続きは「後編」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2019-04-18 00:54 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

有子山城跡と出石城跡登城記。 その4 ~出石城~

「その3」有子山城跡をすべて攻略したので、下山して麓の出石城跡を散策します。

出石城は関ヶ原の戦い後の慶長9年(1604年)、有子山城主だった小出吉英が山頂の城を廃し、麓にあった居館を整備して出石城と命名し、幕府に居城として届けた城です。


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橋や城門は後世のものですが、石垣は江戸期のものです。

背後にそびえる山が、有子山です。


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城門の横に目を向けると、「続日本100名城選定」と印刷された横断幕が。


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城門をくぐると、西郭があり、そこから見た二ノ丸の石垣と西隅櫓が上の写真です。


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こちらが、その西郭


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二ノ丸に登る石段です。


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二ノ丸です。


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「二の丸跡」の石碑の背後に見えるのは、本丸西隅櫓です。

昭和43年(1968年)に建てられた模擬櫓


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二ノ丸東側を見上げると、本丸東隅櫓が見えます。

これも同じく昭和43年(1968年)の模擬櫓


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本丸西側の石垣と西隅櫓です。


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本丸に登ってきました。


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本丸といっても、最上段ではありません。

もともと有子山城の麓の居館だったところを改築した城ですから、籠城戦を想定して築かれてはいないんですね。


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本丸の背後には、高さ13.5mの高石垣がそびえます。

但馬地方の城跡では、最大級の石垣だそうです。


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東隅櫓です。


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西隅櫓です。


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江戸時代に入り、徳川幕府によって制定された一国一城令により、出石城は但馬国唯一の城郭となります。

やがて9代続いた小出氏は無嗣改易となり、その後、出石藩主は松平忠周から仙石政明へと引き継がれ、以後、廃藩置県まで仙石氏7代の居城となります。


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本丸には、その仙石氏の中興の祖である仙石秀久を祀った感応殿が鎮座します。


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本丸を出て、さらに上段の郭に向かいます。

その道中、本丸東側にある山里丸です。


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苔むした高石垣。


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そして最上段の郭。

ここには有子山稲荷神社が鎮座することから、稲荷郭と呼ばれます。


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社殿は江戸後期のものですが、有子山稲荷の始まりは、小出吉英が城内鎮護のために有子山城にあった稲荷社を移したものとも、旧領の岸和田の稲荷社の分霊を勧請したものともいわれます。


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稲木郭から本丸を見下ろします。


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稲荷郭から見た出石の城下町です。


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出石の城下町のシンボル、辰鼓楼も見えます。


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参道を通って下山しましょう。


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辰鼓楼です。

背後の有子山山頂に、有子山城本丸石垣がかろうじて見えますね。

辰鼓楼については、以前の拙稿を一読ください(参照:日本最古の時計台~辰鼓櫓~)。


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せっかく出石に来たので、出石そばを食べて帰りましょう。

最後に、続日本100名城のスタンプです。


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by sakanoueno-kumo | 2019-04-14 12:08 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

有子山城跡と出石城跡登城記。 その3 ~有子山城本丸・千畳敷~

「その2」の続きです。

有子山城を登り始めて約1時間、ようやく本丸(主郭)までたどり着きました。

眼前に現れたのは、見事な石垣


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450年近く前の野面積みの石垣です。

よくこんなに綺麗に残っていましたね。


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出隅は第3郭で見られた鈍角シノギ積みとは違って、直角になっています。

でも、強度の高い算木積みの技法は見られません。

でも崩れずに残っていたんですね。


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本丸北側の石垣は、ネットで保護されていませんでした。

その前に、「犬走り」のような狭いスペースがあります。

その下は崖になっています。


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本丸に登る23段の石段です。

虎口は幅約5mあります。


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本丸です。

広い!!

東西42m、南北20mあります。


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前稿でもふれましたが、有子山城は但馬国守護の山名祐豊が築城した城です。

元来の山名氏の本拠は、ここから3kmほど北の此隅山城を居城としていましたが、永禄12年(1569年)の羽柴秀吉但馬攻めで落城し、その後、秀吉軍と和睦した山名祐豊が、天正2年(1574年)に標高321mの有子山山頂に有子山城を築いて本拠としました。

此隅山城は別名・子盗城とも言いますが、その「子盗」という名を山名祐豊が嫌って、次の城は「有子」城と名付けられたともいわれています。

しかし、祐豊の息子の山名堯熙のときに毛利氏方についたため、天正8年(1580年)の秀吉による第二次但馬征伐で再び攻撃を受け、落城しました。

その後、有子山城には秀吉の実弟・羽柴秀長が入り、そのとき、石垣の城に改修されます。

現在残る石垣の遺構は、秀長時代のものということになりますね。


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秀長時代の改修は、築城の名人として知られる藤堂高虎が関わっていたようです。

高虎の生涯を記した『高山公実録』に、「28歳、羽柴秀長の命により出石(有子山)に築城を命ぜられた」という記述があり、記録上、高虎が最初に手がけた石垣の城が、ここ有子山城だったのではないかと言われています。


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案内板が設置されています。


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心ない落書きが酷いです。


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本丸からの眺望です。


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雲が近い。


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麓をズームアップ。

出石の城下町のシンボル、辰鼓楼が見えます。

わたしの愛車も見えます(笑)。


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わたしの山城めぐりの必須アイテム(笑)。


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本丸南東を見下ろすと、大堀切があります。

幅28m、深さ12mあります。


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その向こう側には、千畳敷と呼ばれる有子山城最大の郭跡が見えます。

行ってみましょう。


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先ほどの大堀切の下です。

巨大なV字型になっています。

おそらく、往時はもっと深かったのでしょう。


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そして、千畳敷です。


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東西135m、南北50mもあり、但馬国の城郭では最大の郭だそうです。


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所々に建物があったとみられる礎石跡があります。


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庭園もあったとされているそうです。

この大きな岩は、その名残でしょうか?


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千畳敷から見た本丸です。


さて、これにて有子山城をすべて攻略しました。

「その4」では麓の出石城を散策します。




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by sakanoueno-kumo | 2019-04-12 01:03 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

有子山城跡と出石城跡登城記。 その2 ~有子山城二ノ丸・三ノ丸~

「その1」の続きです。

有子山城を登り始めて約40分、ようやく石垣の遺構までたどり着きました。


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写真は主郭から数えて6段目の第6郭の石垣です。


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こちらが縄張り図です。

有子山城は標高321mの山頂に主郭を置き、東西740m、南北約780mの大城郭です。


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手前の石垣が第6郭のもので、奥の上段に見える石垣が、第5郭の石垣です。

450年近く前の石垣ですが、綺麗に残っていますね。


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第6郭の上です。


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第6郭からの北側眺望。


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第6郭上から見た第5郭の石垣。

崩れないようにネットで保護されています。


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こちらは第4郭上です。

第4郭には石垣がありません。


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第4郭横の細い道を通って上の段に上がります。


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眼前に現れたのは、第3郭の見事な石垣。

思わず、「おお~!」と声が出ました。


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石垣の出隅が鈍角になっています。

この技法を「シノギ積み」と呼びます。

ネットが掛けられているのが、少し残念ですね。


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有子山城は天正2年(1574年)に但馬国守護の山名祐豊が築城した城です。

山名氏といえば、応仁の乱の西軍の総大将だった山名宗全が有名ですね。

祐豊は宗全から5代あとの当主でした。


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元来の山名氏の本拠は、ここから3kmほど北の此隅山城を居城としていましたが、永禄12年(1569年)の羽柴秀吉の但馬攻めで落城し、その後、秀吉軍と和睦した山名祐豊は、天正2年(1574年)に標高321mの有子山山頂に有子山城を築いて本拠とします。

しかし、祐豊の息子の山名堯熙のときに毛利氏方についたため、天正8年(1580年)の秀吉による第二次但馬征伐で再び攻撃を受け、落城しました。

その後、有子山城には秀吉の実弟・羽柴秀長が入り、そのとき、石垣の城に改修されます。

現在残る石垣の遺構は、秀長時代のものということになりますね。


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第3郭下が本丸千畳敷の分かれ道になっています。

ここは、まず本丸を目指します。


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第3郭石垣の上です。


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こちらは第2郭石垣です。

少し崩れかけているように見えますが、虎口が枡形に折れ曲がっているようにも見えます。


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第2郭からの眺望。


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雲が低い。


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本丸、二ノ丸、三ノ丸といった用語は、豊臣秀吉の時代から使われ始める言葉ですが、それでいえば、この第2郭から第6郭が二ノ丸から三ノ丸に相当すると思われます。

さて、いよいよ主郭(本丸)と言いたいところですが、長くなっちゃったので次稿に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-04-10 22:36 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

有子山城跡と出石城跡登城記。 その1 ~有子山城登山道~

平成29年(2016年)4月6日に日本城郭協会から「続日本100名城」が発表されましたが、そのなかに、2つの城を1セットとして選ばれた城があります。

その城とは、兵庫県豊岡市出石にある出石城跡有子山城跡です。


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有子山城は標高321mの山上に築かれた山城で、出石城は、後の時代にその山の麓に築かれた平山城です。

有子山城は天正2年(1574年)に但馬国守護の山名祐豊が築城した城で、出石城は関ヶ原の戦い後の慶長9年(1604年)に小出吉英が築いた城です。

上の写真に写る石垣と櫓は出石城のもので、その背後にそびえる山頂に有子山城があります。


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出石城は以前にも訪れたことがあり、当ブログでも過去に紹介したことがあったので(参照:雨の但馬路紀行 その3 「但馬の小京都・出石城跡」)、この日は、まずは出石城をスルーして有子山城を目指しました。


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出石城東側にある有子山稲荷神社の朱塗りの鳥居をくぐって登ります。

鳥居は37、石段は157段あります。


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石段を登りきったところに、「史跡 有子山城跡」と刻まれた石碑が建てられています。

ここから有子山城跡への登山道です。


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案内板に書かれた登山ルートです。


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本丸まで980mとあります。


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写真では伝わりづらいですが、かなりの急勾配です。


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登山者用にロープが張られています。

この急勾配は、登りよりむしろ下山のほうが怖いかも。


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本丸まで850m

けっこう登ったつもりだったのですが、あまり進んでいません。


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本丸まで720m

こういう標識は、目安になるのでありがたいですね。


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残り500m


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このあたりから、郭跡とみられる削平地が見られはじめます。


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登り始めて約30分、中間地点に到達しました。

でも、説明書きには、ここから先はなだらかな道とあります。

それはありがたい。


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ここも郭跡とみられる削平地です。


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「続日本100名城選定」の幟が。

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しばらく進むと、井戸曲輪(水の手)と書かれた立て札があります。


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井戸曲輪は写真のように、急斜面に石垣が段になって形成されています。

パンフレットの説明書きによると、井戸曲輪は7段の石垣からなり、城内の飲料水を確保していたとあります。

この造りは全国的にもたいへん珍しいそうですが、この7段の石垣で、どうやって水を確保していたのでしょう?


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井戸曲輪から見る出石の町並みです。


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本丸までのこり240m

そろそろ城跡の縄張りに入ります。


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石垣が見えてきました。

・・・が、長くなっちゃったので、続きは「その2」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2019-04-09 23:35 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

但馬八木城跡登城記 その4 ~八木土城(八木古城)跡~

「その3」の続きです。

八木城本丸跡の北西にある防獣柵を出て、さらに北西に200mほど登ると、八木土城(八木古城)跡があります。


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登山道は尾根伝いですが、傾斜はけっこうキツイです。


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200mほど登ると、郭跡とみられる削平地にでます。

ここから、八木土城の縄張りです。


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こちらがその縄張り図。

八木土城は標高409mの山頂に主郭を置き、南北の尾根伝いに15の郭が連続する全長370mの山城です。

この縄張り図でいえば、上の削平地は第11郭にあたります。


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こちらは第10郭

写真左端(西側)に土塁跡が見られます。


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ここは第9郭

15ある郭のなかでいちばん広い空間です。


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その上の第8郭


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そして第7郭


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第6郭です。

ここも、左側に土塁跡が見られます。


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土塁伝いに第5郭に登ります。


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第5郭です。

入り口が食違い虎口になっています。


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第5郭にも、土塁跡がはっきりと残っています。


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第5郭のから見上げた主郭です。

上の縄張り図を見るとわかるように、第2~4郭は主郭の北側にあるため、この第5郭のすぐ上が主郭となっています。


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主郭です。

主郭は小規模で、16m×12mの楕円形をしています。

下の写真は主郭から見下ろした第5郭。


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これまでの稿でも述べてきたとおり、八木城の歴史は古く、伝承によると、康平6年(1063年)に前九年の役で功があった閉伊頼国が、源頼家から但馬国を与えられて八木の地に築城したのが始まりとされており、その後、閉伊を破った朝倉氏の流れをくむ八木氏15代300年のあいだ城主を務め、織豊時代に別所重宗・吉治が改修し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いのあと、廃城となりました。


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ここ八木土城は八木氏の時代の城跡と考えられており、八木氏の時代はここ八木土城と八木城が一連となった城郭であり、のちに別所氏が八木城に石垣を築いて独立させたため、城に分離したという説があります。

また、別の説では、八木土城は閉伊氏の時代の城で、八木氏の時代には、八木城が主城だったとも言われます。

いずれにせよ、鎌倉時代からの城として重要な遺構が残っていることから、平成9年(1997年)3月6日に、八木土城、八木石城を合わせて国の史跡に指定されました。


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さて、これにて但馬八木城をすべて攻略しました。

これにて登城を終わります。




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by sakanoueno-kumo | 2019-04-08 22:12 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

但馬八木城跡登城記 その3 ~石城本丸跡~

「その2」の続きです。

八木城二ノ丸跡(第2郭)から北西を見上げると、本丸跡(主郭)石垣がドドーーンと目に入ります。


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実に見事な石垣です。


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本丸跡に登る前に、石垣下を1周してみましょう。


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本丸南出隅の石垣です。

算木積みですね。

「算木積み」とは石垣の出隅部分に用いられる技法で、長方体の石を交互に重ね合わせて積み上げられるため、強度が増します。


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算木積みは天正年間(1573~1592年)ごろから見られ始めた技法です。


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その下には、説明板が設置されています。


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説明板によると、この南隅の算木積みの上に、隅櫓があったのではないかと想定されるそうです。


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石垣のアップです。


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本丸西側面は、見事な高石垣が続きます。


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この高石垣は40mに渡り、高さは8.6mあるそうです。


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写真ではわかりづらいですが、中央が「く」の字に折れ曲がっています。


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出隅ではなく、入隅に曲がっています。

わかるでしょうか?


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石垣は野面積みですね。


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反対側(北西側)から見た高石垣です。


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そこから曲がった北西部分の出隅です。

ここからは高さ2.5mの低い石垣になります。


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北西から西側面にかけて、低い石垣が鈍角の出隅で折れ曲がっていきます。

このような鈍角の積み方を「シノギ積み」といい、算木積みより古い技法です。


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北東から南東にかけては、写真のように石垣がフェードアウトしていてなくなっています。


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なので、ここから本丸上に登ります。


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本丸跡です。


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八木城の本丸は長軸47m短軸23mいびつな長方形をしています。

本丸の最も奥まった北西の2段の平坦地が天守台の想定地だそうですが、形が不整形なうえに建物跡の礎石や瓦などの跡も見つかっておらず、ここに天守のようなものがあったかどうかは定かではありません。


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「その2」でふれたとおり、八木城を300年以上守ってきた八木氏は、15代城主の八木豊信のときに羽柴秀吉軍によって攻略されますが、その後、八木氏は因幡若桜鬼ヶ城に移され、代わって八木城に入ったのは、三木合戦で死んだ別所長治の叔父・別所重宗でした。


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現存する八木城の遺構は、郭の配置や虎口の形状、石垣などの築城技法などから総合的に判断すると、天正13年(1585年)に城主となった別所重宗と、それを引き継いだ息子の別所吉治の時代に改修されたものであろうと推定されています。


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本丸上にも石仏があります。


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本丸北西のいちばん高いところ(天守台跡?)から見た南東です。


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本丸上から西側の高石垣を見下ろします。


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説明板がありました。


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こちらの写真は、「その1」で紹介した麓の八木城交流館のなかにあった八木城本丸の想像模型です。

右手前が算木積みの櫓台石垣で、その左に伸びているのが、くの字に曲がる高石垣です。

この模型と、上の実際の写真を見合わせれば、本丸の形状がよく理解できます。


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さて、これで本丸まで攻略できましたが、まだ、さらにここから西側の尾根伝いに登ったところにある八木土城(八木古城)跡が残っています。

「その4」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-04-05 22:31 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

但馬八木城跡登城記 その2 ~石城三ノ丸・二ノ丸跡~

「その1」の続きです。

「秋葉さん」と呼ばれる石仏を過ぎると、いよいよ縄張り図に描かれている本格的な城跡の遺構です。


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八木城は、西から東へ伸びる細長い尾根上に築かれており、東西340m、南北260mに及ぶ巨大な山城です。

標高303mの本丸から東方面に7段の郭があり、さらに北方向に6段、南方向に9段の郭があります。

この日の登山コースは東から。


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「秋葉さん」のあった土塁の上が、東面第6郭跡です。


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けっこう広い郭です。

ここは眺望もよく、物見櫓のような役割を果たしていたのかもしれません。


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説明板が設置されています。


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第6郭からの東南東の眺望です。

説明板によると、ここから但馬朝倉城が見えるとのことでしたが、木が覆い茂っていて視界が狭く、よくわかりませんでした。


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第6郭から第7郭を見下ろします。

削平地が段々になっているのがわかるでしょうか?


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第6郭から第5郭を見上げます。


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続いて第5郭から見た第4郭です。


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第4郭下から空を見上げます。

ここを訪れたのは平成30年(2018年)10月28日。

紅葉が始まりかけていました。


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第4郭跡です。

第4郭は八木城で最も大きな郭で、長さ66m、最大幅17mあります。


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本丸、二ノ丸、三ノ丸という用語は豊臣秀吉の時代から使われ始める言葉ですが、それでいうと、この第4郭あたりが三ノ丸に相当する郭と推定されます。


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第4郭跡の東先端には、「三ツ顔さん」と呼ばれる石仏があります。


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見上げると、陽の光をよく浴びている上の方が紅葉しています。

あと1週間ほど遅く来たら、もっと綺麗な紅葉が見られたかもしれません。


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「その1」でもふれたとおり、ここ八木城は但馬国守護大名の山名氏に仕える山名四天王に数えられた八木氏が、15代、300年以上に渡って守ってきた城でした。


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ところが、第15代城主の八木豊信の時代になると、但馬国の情勢が変わり始めます。

山名氏の勢力が次第に弱体していき、そんな中、織田氏毛利氏が但馬国に手を伸ばしてきました。

そのため、八木豊信は天正3年(1575年)11月から毛利勢の吉川元春と手を結びますが、織田信長の命を受けた羽柴秀吉軍の二度に渡る攻撃に屈し、降伏しました。

その後、豊信は羽柴軍に属して因幡国侵攻戦に参加し、秀吉から因幡智頭郡2万石を与えられて因幡若桜鬼ヶ城を任されますが、しかし、天正9年(1581年)に山名豊国から吉川経家鳥取城主が代わり、毛利氏の勢力が盛り返すと、若桜鬼ヶ城を守りきれずに消息不明となりました。

その後の詳細はわかっていません。


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八木城跡まであと100mとあります。


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第3郭跡です。


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そして、この防獣柵を超えると第2郭です。


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主郭(本丸)のすぐ真下にあたる部分で、のちの用語でいえば二ノ丸に相当する郭です。


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ここにも石仏があります。


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見上げると、本丸跡の石垣がドドーーンと目に入ります。

でも、長くなっちゃったので、本丸跡は「その3」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2019-04-04 22:38 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)