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カテゴリ:兵庫の史跡・観光( 61 )

 

雨の但馬路紀行 その2 「日本のマチュピチュ・竹田城跡」

但馬といえば、いま最も人気のスポットは、何と言っても竹田城跡ですよね。
いつの頃からか「日本のマチュピチュ」とか「天空の城」などと呼ばれて注目されはじめ、昨年はなんと来場者が50万人を突破したとか。
10年前は年間1万人ほどだったそうですから、ブームというのは恐ろしいものですね。
で、そういうわたしは、同じ兵庫県民でありながらまだ行ったことがなかったのですが、今回せっかく但馬まで来たので、ブームに乗っかることにしました。
ところが、この日は同じ兵庫県内で冠水被害が出るほどの大雨
寸前までどうしようか迷ったのですが、雨の場合の予定をまったく立てていなかったので、とにかく行ってみることに・・・。

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JR竹田駅と竹田城跡を結ぶシャトルバス「天空バス」です。
以前はマイカーで山頂近くまで登れたのですが、いまは交通費規制がかかって中腹まで。
このバスを利用すれば、歩く距離は最も短くてすみます。
といっても、この日は大雨、そのちょっとの距離でも歩くのは大変なほどで・・・。

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で、なんとか濡れながら城跡に辿り着いたわけですが、景色は濃霧に覆われてほとんど何も見えず、やはりこの天気での登山は無謀だったか・・・とガッカリしていたのですが、山頂についてすぐに雨がやみ、しばらくすると霧が晴れはじめて・・・。

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ついさっきまで数メートル先が霧で見えなかったのに、たった数分で外界まで見渡せるほどに回復しました。
ほとんど奇跡でしたね。

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標高約350mの山頂に築かれた竹田城は、室町時代の嘉吉3年(1443年)に但馬の守護大名で応仁の乱の西軍の総大将だった山名宗全によって築城され、太田垣光景が初代城主に任じられ、以後、太田垣氏が7代に渡って城主を務めました。
その間、但馬の要所であるがゆえ、たびたび標的となり戦火の舞台となりますが、天正5年(1577年)の羽柴秀吉による但馬攻めにおいて、秀吉の弟・羽柴秀長が陥落させて城主に納まります。

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このときの秀吉軍の但馬攻略の目的は、ひとつには中国の毛利氏に帰服する但馬諸将の掌握、そしてもうひとつは、竹田城主の管轄する生野銀山の確保だったと言われています。
この生野銀山から採れる豊富なが、のちの豊臣政権の財政を潤すことになります。
このとき銀山確保を最初に秀吉に進言したのは、ほかならぬ黒田官兵衛だったとか。
さもありなんですね。

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竹田城の石垣は、先日別稿で紹介した洲本城と同じ穴太積みで(参照:天空の城・洲本城 探訪記 その1)、出角部分は算木積みが用いられています。
穴太積みとは、大小の自然石を積み上げたもので、算木積みとは、石垣の出角部分において、長方体の石の長辺と短辺を交互に重ねて積んでいく技法です。
これにより、石垣の強度が増し、崩れにくくなるそうです。
現在残っている豪壮な石垣は、最期の城主となった赤松広秀が整備したものだと言われています。
その後、江戸時代に入って竹田城は廃城
平和な時代に入ると、城はの役目から政庁の役目へと代わり、そうなると、山城は不便ですからね。

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雲海です・・・・というのはウソで、ただの霧です(笑)。
でも、見ようによっては雲海に見えなくもなかったですよ。
雲海も霧も、どちらも水蒸気には違いなく、要は見る側の意識の持ちようで、これも自然の美だと思えば、幻想的な光景なわけで・・・。
無理がありますかね(笑)。

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夏草や兵どもが夢の跡・・・松尾芭蕉ですね。

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見学通路には黒いラバーが敷き詰められていました。
昨年、来場者が増えすぎてケガ人まで出たという報道がありましたが、滑り止めのための配慮でしょうか?
あるいは、来場者が増えすぎて、石垣の上の地表にあったが踏みつけられ、生えなくなってしまったと聞きますが、そのため、草の根で守られていた地表の土がむき出しになり、そのせいで水を多く含んだ土が膨張し、石垣が崩落の危機にさらされているとか。
その保護のための黒ラバーでしょうか?
世界遺産になった観光地もそうですが、ブームになるのも考えものですね。
かくいうわたしも、400年の歴史を踏み荒らしに来たひとりなんですが・・・。

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しばらくしたら、また霧が濃くなってきました。
バスのりばに戻ると、また激しい雨が。
ほんの30分ほどでしたが、なんとも絶妙のタイミングだったようです。
ラッキーでした。
でも、もう一回、今度は晴れた日に来たいですね。

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そんなこんなで、その3につづく。

雨の但馬路紀行 その1 「ハチ北高原・ロッヂ野間」
雨の但馬路紀行 その2 「日本のマチュピチュ・竹田城跡」
雨の但馬路紀行 その3 「但馬の小京都・出石城跡」
雨の但馬路紀行 その4 「日本最古の時計台~辰鼓櫓~」
雨の但馬路紀行 その5 「近畿で最も古い芝居小屋~出石永楽館」
雨の但馬路紀行 その6 「桂小五郎潜伏の地、出石」
雨の但馬路紀行 その7 「出石そば打ち体験」

追記
2017年より日本100名城スタンプの収集をはじめました。

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by sakanoueno-kumo | 2014-08-23 00:33 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

雨の但馬路紀行 その1 「ハチ北高原・ロッヂ野間」

過日、お盆休みを利用して、兵庫県は但馬地方に1泊2日のプチ旅行をしてきました。
但馬地方とは、旧令制国におけるかつての但馬国のことで、兵庫県北部に位置します。
毎年、夏休みには旧友4家族でコテージやバンガローなどを借りてキャンプをするのが恒例となっており、もう20年近く続けているのですが、今年は全国的に大雨の2日間にぶつかってしまい、とくにおとなりの兵庫県丹波地方では、たいへんな冠水被害に襲われていたようで・・・。
そんな悪条件のなかでのキャンプでした。

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この日宿泊したのは、標高約700mのハチ北高原にあるロッヂ野間
ハチ北高原とは、標高1510mの氷ノ山、標高1221mの鉢伏山など兵庫の屋根と呼ばれる1000m超えの山々が連なる間にある高原で、冬はスキー場、雪のない春から秋にかけては、キャンプやパラグライダーなどのアウトドアのメッカとして人気です。

ただ、先述したとおり、この日は生憎の大雨。
周りは緑に囲まれた高原ですが、持参したバトミントンもバレーボールもキャッチボールの道具も、何ひとつ活躍することはなく・・・。

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それでも、なんとかロッジのガレージを借りてバーベキューは強行しました。
せっかく但馬牛を買い込んできましたからね。

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あと、花火スイカ割りも雨のなか無理やり強行。

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晴れていたら、満天の星空が観られるはずだったんですけどね。
あたりは大自然に囲まれた雄大な高原だったはずですが、気がつけば景色の写真をまったく撮っていませんでした。
だって、ロッヂからほとんど出ることもなかったわけで・・・。

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ひとつだけ良かったのは、高地のうえに雨だったため、外でバーベキューをしていても暑いということはまったくなく、部屋でも、エアコンなしでも寒いくらいで、避暑という意味では快適なひとときでした。
まあ、たまにはこういう年があってもいいのかなぁ・・・と。

そんなわけで、しばらく夏休みの備忘録にお付き合いください。
後日、その2に続きます。

雨の但馬路紀行 その1 「ハチ北高原・ロッヂ野間」
雨の但馬路紀行 その2 「日本のマチュピチュ・竹田城跡」
雨の但馬路紀行 その3 「但馬の小京都・出石城跡」
雨の但馬路紀行 その4 「日本最古の時計台~辰鼓櫓~」
雨の但馬路紀行 その5 「近畿で最も古い芝居小屋~出石永楽館」
雨の但馬路紀行 その6 「桂小五郎潜伏の地、出石」
雨の但馬路紀行 その7 「出石そば打ち体験」


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by sakanoueno-kumo | 2014-08-21 22:21 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(2)  

天空の城・洲本城 探訪記 その2 〜黒田官兵衛の武勇伝ゆかりの地〜

昨日のつづきです。
洲本城の最初の城主だった安宅氏は、羽柴秀吉淡路討伐の際に滅ぼされたという話を昨日の稿でしましたが、その際、当時の洲本城主だった安宅清康を討ち取ったのは、今年の大河ドラマの主役・黒田官兵衛だったという説があります。
戦略家として名高い官兵衛ですが、この戦いでは珍しく自ら刀を振るって戦功を上げたといわれ、安宅清康は官兵衛が自ら手をかけた数少ない武将だったと伝えられます。
このとき使用した刀は、のちの「安宅切」と名付けられます。

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ただ、最近の研究では、秀吉の淡路討伐は天正9年(1581年)ではなく、天正10年(1582年)の誤りであったとも言われ、官兵衛は参戦していなかったとする説が浮上してきているようです。
たしかに、有岡城幽閉から救出されて間もない官兵衛が、自ら刀を振って武功をあげたという武勇伝は、少々無理があるようにも思えますね。

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江戸時代に入り、姫路城の城主だった池田輝政の三男・池田忠雄が淡路国の領主になったとき、洲本城は廃城になり、岩屋城由良成山城と拠点を移しますが、大坂夏の陣のあと、阿波国の蜂須賀至鎮が領主となり、その筆頭家老である稲田氏が城代となると、その後、ふたたび拠点を洲本城に戻します。
このときの移転は、「由良引け」と呼ばれるたいそう大規模な移転だったようです。

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このときより、洲本は淡路国の政庁として定められ、明治維新まで稲田氏が城代を務めます。
ただ、平時となった由良引け以降は山頂の城は使用されず、三熊山の麓に新しく築かれた城を居城としたそうです。
だから石垣の傷みが少なく綺麗に保存されているんでしょうね。

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天守からの眺めです。
この日は少しがかかっていたので残念ですが、空気が澄んだ日には、大阪は堺の紀淡海峡から大阪湾を経て神戸までの大パノラマを一望できるそうです。

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昨今、同じ兵庫県内にある竹田城が、「天空の城」として人気ですが、ここもある意味「天空の城」といえます。
あちらが雲海の上に浮かぶ城なら、こちらはまさに本物の海の上に浮かぶ城といったところでしょうか。
メディアの取り上げ方次第では、人気観光スポットになれるのではないかと。
竹田城のように観光客がいっぱいになる前に、一度足を運んでみられてはいかがでしょうか?

天空の城・洲本城 探訪記 その1 〜日本最大級の石垣と日本最古の模擬天守〜

追記
2018年4月6日より族・日本100名城スタンプラリーが始まりました。

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by sakanoueno-kumo | 2014-07-31 19:49 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(2)  

天空の城・洲本城 探訪記 その1 〜日本最大級の石垣と日本最古の模擬天守〜

過日、淡路島洲本市にある洲本城を訪れました。
洲本市は、淡路島の中核を担うまちで、小泉政権時代の「平成の大合併」で淡路市と南あわじ市が誕生するまでは、島内唯一の市だったところです。
淡路島東海岸に面する市の中心部は、大阪湾に流れる洲本川を中心に平野が広がり、古くから栄えてきました。
その市街地の南に位置する三熊山山頂に、まちを見下ろすように建っているのが、洲本城です。

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洲本城は、室町時代末期の大永6年(1526年)に、三好氏の家臣で紀州熊野水軍安宅治興が、この地に築城したことに始まります。
といっても、当時の安宅氏は同じ洲本市内にあった由良城を本拠としており、洲本城は島内8ヶ所に築いた支城のひとつに過ぎず、山頂の砦のようなものだったようです。

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それから約半世紀後の天正9年(1581年)、羽柴(豊臣)秀吉淡路討伐の際、安宅氏はあっけなく討ち滅ぼされて、城は仙石秀久に与えられました。
その後、高松城に転封となった仙石秀久に代わって、賤ヶ岳七本槍のひとりとして知られる脇坂安治が洲本城に入り、本格的な天守を築いたとされています。
脇坂安治は、先日紹介した龍野城の城主である脇坂家の始祖にあたる人物です(参照:播磨の小京都、龍野をたずねて その1「龍野城」)。
洲本城主となった脇坂安治は、淡路水軍を吸収し、24年間ここに在城しました。
その間、何度も城の増改築を実施したとか。

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ここ洲本城の見どころは広大な石垣で、同じ兵庫県内で今話題の竹田城に匹敵するほど状態のいい石垣が現存しています。

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東西800m、南北600mに及ぶ総石垣造りの曲輪は日本最大級とも言われ、400年前の姿をそのまま残す遺構は全国でも貴重な存在だそうです。

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写真は、本丸へと続く大石段
斜面に築かれた階段状の登り石垣は希少で、他には、松山城彦根城にしか現存していないそうです。

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大小の自然石を積む穴太積が特徴です。

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現在の天守は模擬天守で、当時の天守よりはスケールダウンしたものだそうです。
もっとも、この模擬天守が建てられたのは、昭和天皇即位式を記念した昭和3年(1928年)のことで、模擬天守としては日本最古のものだそうです。
模擬といっても、年代を重ねれば、それはそれで価値が出るもので・・・。
プレミアのついたプラモデルのようなものでしょうか。

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長くなりそうなので、後日、その2に続きます。

天空の城・洲本城 探訪記 その2 〜黒田官兵衛の武勇伝ゆかりの地〜

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by sakanoueno-kumo | 2014-07-30 22:33 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

播磨の小京都、龍野をたずねて その5 「宮本武蔵修練の地・圓光寺」

最後に、播磨六坊のひとつである圓光寺を訪れました。

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播磨六坊とは、蓮如上人が播磨国に浄土真宗を広めるため、文明16年(1484年)に高弟6人が英賀(現在の姫路市南部)に派遣され、その高弟たちが建てた6箇所の寺のことです。
ここ圓光寺の初代当主は多田祐全ですが、残り5人の高弟と五坊を紹介すると、浄覚・光源寺(姫路市)、順念・光善寺(たつの市)、空善・法専坊(姫路市)、善祐・永応寺(赤穂市)、誓元・万福寺(赤穂市)となります。

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元は英賀を拠点としていたそうですが、天正6年(1578年)に羽柴(豊臣)秀吉の命により、この龍野に境内を賜ったそうで、そのとき、圓光寺と号したそうです。

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浄土真宗の開祖、親鸞の像です。

ここ圓光寺に残る伝承として、剣豪・宮本武蔵が慶長年間の一時期、この寺に滞在し、境内の道場で圓明流の師範として剣術指導をしていたと伝えられています。

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宮本武蔵の生涯は不明なところが多く、生年や出生地についても諸説ありますが、武蔵が書き残した有名な兵法書『五輪書』の「序」には、「生国播磨の武士」と記されており、それを元に、現在、高砂市説太子町説などが有力とされています(吉川英治『宮本武蔵』では、お隣の美作国生まれ説を採っていますが)。
ここ圓光寺との関わりは、圓光寺多田家家譜に残る7代目住職の多田半三郎頼祐の名が、圓明流系図のなかに記されており、それによれば、頼祐が武蔵のいちばんの弟子であったと記されているそうです。
これにより、武蔵と圓光寺は深く関わりがあったとされていますが、ただ、この圓明流系図は、武蔵から3代のちで頼祐の孫にあたる多田源左衛門祐久の代に書き記されたものだそうで、どこまで信憑性があるかは疑問とされているそうです。

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あくまで伝承の域を出ない武蔵と圓光寺のつながりですが、現地の説明看板では、「確かな足跡として知られています」と記されていました。
いいのかなあ(苦笑)。

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さて、そろそろこのへんで龍野シリーズを終わりにします。
たった1日だけ休めたGWのドライブ備忘録でした。

播磨の小京都、龍野をたずねて その1 「龍野城」
播磨の小京都、龍野をたずねて その2 「野見宿禰神社~聚遠亭」
播磨の小京都、龍野をたずねて その3 「童謡の里~三木露風の故郷」
播磨の小京都、龍野をたずねて その4 「龍野淡口醤油」


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by sakanoueno-kumo | 2014-07-25 21:04 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(2)  

播磨の小京都、龍野をたずねて その4 「龍野淡口醤油」

龍野城下を逍遥していると、面白いものを見つけました。
それがこれ↓↓↓

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醤油・もろみ自動販売機です。
ここ龍野は、千葉県野田市や銚子市に次ぐ、醤油の生産地なんです(千葉には業界1位、2位のキッコーマンヤマサがありますが、ここ龍野には業界3位のヒガシマル醤油があります)。
醤油のまちならではの光景ですね。
野田や銚子にもあるんでしょうかね?自動販売機。

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その自動販売機が設置されていたのは、老舗のカネヰ醤油株式会社倉庫の入口です。
レンガ造りの煙突や蔵は、明治初期に建てられたものだそうです。
元は龍野藩ゐ蔵を、明治2年(1872年)に譲り受けて出来た会社だそうで・・・。

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龍野の醤油はうす口醤油として知られています。
近くには、うすくち龍野醤油資料館なるところがありました。

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建物は、かつてヒガシマル醤油株式会社の本社だったものだそうです。

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龍野醤油は、天正15年(1587年)に円尾屋孫右衛門、天正18年(1590年)に栗栖屋横山五郎兵衛という人物によってはじめられたと伝わるそうで、その後、寛文6年(1666年)に円尾孫右衛門が創案して以降、うすくちが特色となったそうです。
400年以上の歴史を誇る醤油なんですね。

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上の写真は、明治時代の醤油蔵の帳場を再現したものだそうです。

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麹室です。

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こちらは仕込蔵

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そしてこちらは圧搾場だそうです。
「南方先生、ペニシリンにございます」という声が聞こえてきそうですね(笑)。
あれはヤマサ醤油でしたっけ?

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幕末時代、龍野藩9代藩主の脇坂安宅京都所司代の職にあったとき、この「龍野淡口醤油」販路拡大に力を入れたそうで、それにより、関西の淡口食文化が確立されたのだとか。
そういえば、京料理精進料理などに使われているのも、淡口醤油ですよね。
明治になって龍野藩の醤油蔵を因幡屋浅井弥兵衛が貰い受け、浅井醤油として創業。
それが、今日のヒガシマル醤油株式会社の前身だそうです。

わたしはヒガシマル醤油と聞けば、かつて関西ではおなじみだったTV番組『素人名人会』スポンサーだった企業として記憶しています。
西川きよしさんが司会で桂小文枝師匠(のちの5代目桂文枝)が審査員長の素人参加番組で、関西出身の40歳以上の人なら皆、知ってますよね。
いや~、懐かしい。

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話が脱線しちゃったので、龍野醤油の稿はこのぐらいで。
てなわけで、おみやげは「うすくちしょうゆ饅頭」でした(笑)。
あともう一回くらいつづきます。

播磨の小京都、龍野をたずねて その1 「龍野城」
播磨の小京都、龍野をたずねて その2 「野見宿禰神社~聚遠亭」
播磨の小京都、龍野をたずねて その3 「童謡の里~三木露風の故郷」
播磨の小京都、龍野をたずねて その5 「宮本武蔵修練の地・圓光寺」


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by sakanoueno-kumo | 2014-07-24 21:39 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

播磨の小京都、龍野をたずねて その3 「童謡の里~三木露風の故郷」

先週のつづきです。

龍野は、「童謡の里」とも呼ばれています。
というのも、日本人なら誰もが子供の頃に口ずさんだことがある童謡『赤とんぼ』の作詞者である詩人、三木露風の生まれ故郷だからです。

♪夕焼け小焼けの赤とんぼ 負われて見たのはいつの日か♪

聴いたことがないなんて人は、まずいないんじゃないでしょうか。

♪赤とんぼ 赤とんぼ 羽を取ったらアブラムシ♪

の方ではないので、くれぐれもお間違いのなきよう(笑)。

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龍野公園には「童謡の小径」という道があり、その入口には三木露風の歌碑があります。
『赤とんぼ』は、露風が北海道のトラピスト修道院の文学講師をしていた頃、母を想い、子供の頃の郷愁とはるかな故郷「龍野」を思い出して歌ったものだそうです。
大正10年(1921年)に童謡集『真珠島』に発表され、昭和2年(1927年)に山田耕筰が曲をつけました。

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以前は、この歌碑の前に立つとセンサーが反応して『赤とんぼ』のメロディーが流れるようになっていたそうですが、数年前に兵庫県西部を襲った台風被害時の落雷によって、いまは故障しているそうです。
誰か、修理代を寄付してあげてください(笑)。

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この五線譜は、山田耕筰の絶筆だそうです。

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歌碑の近くに建つ露風の銅像です。
似ているかどうかは知りません(笑)。

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坂を下った龍野城跡近くには、露風の生家が公開されていました。

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露風の幼年時代の環境は、5歳のときに父の放蕩が原因で両親が離婚し、祖父に引き取られて育てられたそうです。
♪負われて見たのはいつの日か♪という詩は、きっと3、4歳の頃の母の背中の思い出なんでしょうね。
幼くして離別した母に対する慕情と、ふるさと「龍野」に対する望郷の思いが、国民的愛唱歌『赤とんぼ』を生んだ・・・と、パンフレットに書いてます(笑)。

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とにかく、街中が赤とんぼ推しで、いたるところに赤とんぼが見られます。

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龍野城郭内の衝立です。

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街灯の柱です(笑)。

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マンホールです(笑)(笑)。

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側溝の蓋です(笑)(笑)(笑)。

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市内にある松龍山如来寺の境内には、露風の筆塚がありました。
ここには、露風の遺愛の筆10本が納められているそうです。

正直、山田耕筰の名はよく知っていましたが、三木露風という名は、なんとなく聞いたことがある程度でした。
同時代の童謡の作詞家といえば、まず思い浮かぶのは北原白秋で・・・。
でも、『赤とんぼ』は、童謡のなかでも最もメジャーな童謡といってもよく、たしか、20世紀末に行われた21世紀に残したい童謡ランキングでも、ダントツの1位だったと記憶しています。
そんな、時代世代を超えて歌い継がれるキングオブ童謡が、ここ龍野を歌ったものだったんですね。
この日は、無意識に何度となく『赤とんぼ』を口ずさんでいたわたしでした。
2番以降の歌詞が曖昧でしたが(笑)。

てなところで、後日その4につづきます。

播磨の小京都、龍野をたずねて その1 「龍野城」
播磨の小京都、龍野をたずねて その2 「野見宿禰神社~聚遠亭」
播磨の小京都、龍野をたずねて その4 「龍野淡口醤油」
播磨の小京都、龍野をたずねて その5 「宮本武蔵修練の地・圓光寺」


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by sakanoueno-kumo | 2014-07-17 20:18 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

播磨の小京都、龍野をたずねて その2 「野見宿禰神社~聚遠亭」

龍野城跡の西側の小高い丘陵地は龍野公園として整備されており(たぶん、かつてはここも城の敷地内だったのでしょう)、そこを通る長い石段を登ると、龍野城主の脇坂家の始祖・脇坂安治を祀る龍野神社と、野見宿禰神社に向かう参道となっています。

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野見宿禰とは、垂仁天皇(第11代天皇)の時代(古墳時代後期)の出雲の人物の名で、『播磨国風土記』によると、相撲の神様埴輪の創始者とも言われています。天皇の御前で、大力無双を誇っていた当麻蹴速と力比べをして勝ったことが相撲の始まりといわれており、その宿禰が、大和から出雲に帰る途中に龍野の地で病死したため、この地に埋葬されたと伝わります。その際、出雲の人々が墓をつくるために野に立ち並び、揖保川から手送りリレーで石を運んだことから、この地を「立つ野」(龍野)と呼ぶようになったとか。もちろん、あくまで伝承に過ぎませんが、その元となる『播磨国風土記』は8世紀はじめに編まれたと言われる史料で、「龍野」という地名の持つ歴史の深さを教えてくれます。

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野見宿禰神社に行くには山道をかなり歩かねばならず、この日はあいにくの雨で足元がぬかるんでいたので、途中までで諦めました。
せっかくなので、看板だけ撮影。

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参道をそれた小高い丘を登ると、聚遠亭(しゅうえんてい)といわれる茶室庭園があります。
ここは脇坂家の上座敷跡で、龍野城下を一望できるたいへん眺めのいいスポットとなっています。

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写真は江戸時代後期に建てられた「浮堂」とよばれる茶室です。
龍野藩9代藩主・脇坂安宅京都所司代の職にあったときに御所が炎上する事件がおき、その際、その復興に功績があったそうで、孝明天皇(第121代天皇)から茶室を賜り、心字池上に浮堂として移築したものと伝わるそうです。

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浮堂の隣にあったこの建物は、裏千家家元15世千宗室が命名した本格的な茶室「楽庵」

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さらにその隣には、江戸時代中期に建設された脇坂家の別邸「御涼所」が並びます。

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この日はあいにくの雨でしたが、晴れた日だと、雅やかな景観美が楽しめたことでしょう。
庭園には楓や桜の木が目立ち、おそらく、桜や紅葉の季節に来れば、いっそう綺麗でしょうね。

そんなこんなで、その3につづきます。

播磨の小京都、龍野をたずねて その1 「龍野城」
播磨の小京都、龍野をたずねて その3 「童謡の里~三木露風の故郷」
播磨の小京都、龍野をたずねて その4 「龍野淡口醤油」
播磨の小京都、龍野をたずねて その5 「宮本武蔵修練の地・圓光寺」




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by sakanoueno-kumo | 2014-07-10 19:33 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(2)  

播磨の小京都、龍野をたずねて その1 「龍野城」

2ヵ月ほど前になっちゃいましたが、なんとか1日だけ休めたゴールデンウィークのある日、兵庫県の西南部に位置する龍野を訪れました。
龍野のいまの正式名称は「たつの市」です。
たつの市は、小泉政権時代の市町村合併の際に、龍野市、新宮町、揖保川町、御津町が合併してできた市で、吸収合併のような印象を拭うため、ひらがなに改名したとか。
同じような理由でひらがなの自治体名にした例は、全国にもたくさんあるそうですが、なんとも残念な話ですよね。
いうまでもなく、地名の由来には歴史と風土が刻まれているわけで、ここ龍野に至っては、約1300年前の8世紀はじめに編まれたといわれる『播磨国風土記』にも確認される地名だそうで(同史料の中では「立野」)、そんな、いにしえより続いてきた名称を、それぞれの自治体の譲れない理由があったにせよ、軽々しく変えてしまっていいものだろうか・・・と思いますよね。
まあ、おそらくそんな議論は山ほどし尽くされて、それでもそこしか着地点がなかったんでしょうけどね。
残念な限りです。

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で、その龍野ですが、「播磨の小京都」と呼ばれる脇坂家5万3千石の城下町で、背後には小高い山々が連なり、市内中央を南北に清流・揖保川が流れ、白壁の土蔵や武家屋敷など風情ある家並みがつづく静かなまちです。
歴史的には、山陽道から因幡街道に抜ける交通の要衝の地として、古くから栄えてきました。
寛文12年(1672年)に信州飯田から脇坂安政が移封して以来、明治維新まで200年間、脇坂家の所領として続きました。
脇坂家とは、あの賤ヶ岳の七本槍のひとりとして知られる脇坂安治を始祖とする家ですね。
この日、まず訪れたのは、その脇坂安政が築城したという龍野城です。

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写真は隅櫓ですが、石垣のみが当時のもので、建物は昭和の再建です。
背後に見えるのは鶏籠山
もともとは、明応8年(1499年)に赤松村秀が鶏籠山の山頂に城郭を築いたのが龍野城(鶏籠山城)の始まりでしたが、天正5年(1577年)に羽柴秀吉によって開城され、それから約100年後に脇坂家が城主となったとき、山頂の城郭は放棄され、山麓居館部のみの陣屋形式の城郭になったそうです。
今年の大河ドラマ『軍師官兵衛』でも、前半たびたび龍野赤松氏が出てきましたが、あそこに出てきた龍野城は、山頂の城のほうということになりますね。

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本丸正面に復興整備された埋門です。

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本丸御殿です。
こちらも、昭和54年(1979年)に再建されたものです。

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隅櫓の下から撮影しました。

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向こうに見えるのは隣接する龍野小学校のプールですが、その入口はというと、

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龍野小学校水練場となってました(笑)。
景観を損ねないための配慮、頭が下がります。

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この日はあいにくの雨だったのですが、雨の城下町の風情もまた、おつなものでした。
まち全体が景観を大切にしていることがうかがえるつくりで、逍遥するにはいいところですね。
そんなわけで、少しばかり備忘録にお付き合いください。

後日その2につづきます。

播磨の小京都、龍野をたずねて その2 「野見宿禰神社~聚遠亭」
播磨の小京都、龍野をたずねて その3 「童謡の里~三木露風の故郷」
播磨の小京都、龍野をたずねて その4 「龍野淡口醤油」
播磨の小京都、龍野をたずねて その5 「宮本武蔵修練の地・圓光寺」

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by sakanoueno-kumo | 2014-07-09 19:56 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

夏休み丹波路紀行2013 その5 「旧九鬼家住宅」

最後に、三田市街地にある旧九鬼家住宅を訪れました。
九鬼氏とは、九鬼久隆を初代とする三田藩主で、この旧九鬼家住宅は、その三田藩家老職の九鬼隆範の邸跡だそうです。
この日、本当は、同じ三田出身の人物で、日本人で初めてビール醸造に挑戦した蘭学者・川本幸民の邸跡を目当てに三田市街地に来たのですが、誘導看板にそって来たはずが、どういうわけか間違ってここに来てしまいました(笑)。
まあ、これも何かの縁と思い、立ち寄ってみることに・・・。

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九鬼氏は南北朝時代から続く名家で、戦国時代には志摩国鳥羽藩を拠点に水軍を統率し、豊臣秀吉の九州征伐や朝鮮出兵で水軍総督を務めた大名でした。
ところが、当時の鳥羽藩主・九鬼守隆の死後、五男の久隆と三男の隆季との間に家督争いが起こり、九鬼氏の水軍力を恐れた江戸幕府三代将軍・徳川家光は、この家督争いを理由に九鬼氏の石高5万6千石を分割。内陸の三田と綾部に移封させます。これにより九鬼氏は鳥羽の地と水軍を失い、宗家を三田に移し、廃藩置県までの約240年間、三田藩を統治することになります。

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九鬼隆範は幕末の天保6年(1835年)に越賀六兵衛隆影の二男として生まれ、 明治3年(1870年)に三田藩家老・九鬼伊織隆継に養子縁組で迎えられました。
翌年には神戸に出て砲術や測量術等を学び、東京横浜間鉄道工事や東京高崎間鉄道線路の測量等に従事し、日本の鉄道開発に貢献した人物です。
川本幸民の塾でも学んでいいたようですね。

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明治8年(1875年)頃に建てられた、全国でも数少ない擬洋風建築だそうで、兵庫県指定重要有形文化財に指定されています。
2階のベランダ部分と窓が洋風の作りで、母屋と道路に沿って建つ土蔵は純和風
商家の佇まいと洋風の造りが一体となった建物は、当主の九鬼隆範が自ら住宅として設計したものだそうです。
和洋折衷のデザインは、不思議な雰囲気ですね。

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中は、いわゆる一般的な日本家屋の造りでした。
でも、この日は公開されていませんでしたが、おそらく2階は洋風なんでしょうね。
明治初期の人たちにすれば、なんとも不思議な建物だったでしょうが、考えてみれば、現代では同じ家屋内に和室と洋室があるのは、何ら珍しくない設計です(外観の和洋折衷はあまり見かけないでしょうか)。
そう考えれば、ここは現代の日本人の住宅の“はしり”といえるかもしれませんね。

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子供たちの気を引いたのはこのテレビ
もちろん映りません。

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そしてもう一つ、子供たちのお気に入りだったのは縁側でした。
都会の子供たちにとって縁側なんて、「サザエさん」の中だけの世界ですもんね。
ただ、この九鬼家と磯野家の違いは、縁側の上にテラスがあるところです。
これも不思議なロケーションですよね。
でも、考えてみれば、縁側ってジャパニーズテラスですよね。
ここは建物南側ですから、どちらも同じ目的を持つ理にかなった造りということになります。
和洋テラスの融合ですね(笑)。

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結局、ここで日が暮れ始めたので、当初の目的だった川本幸民の邸跡には行きませんでした。
ここに来るまで九鬼隆範という人物のことはまったく知りませんでしたが、でも、きっと何かの縁でここへ引き寄せられたのでしょうね。
覚えておくことにします。

さてさて、それではこの辺りで夏休みシリーズを終わります。
今日は9月26日、明日から涼しくなるそうですね。
なんとか衣替えの前に終われてよかった(笑)。

夏休み丹波路紀行2013 その1 「丹波篠山渓谷の森公園」
夏休み丹波路紀行2013 その2 「お菓子の里丹波」
夏休み丹波路紀行2013 その3 「丹波竜化石工房ちーたんの館」
夏休み丹波路紀行2013 その4 「三田ガラス工芸館」
夏休み丹波路紀行2013 その5 「旧九鬼家住宅」


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by sakanoueno-kumo | 2013-09-26 23:15 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(4)