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カテゴリ:兵庫の史跡・観光( 84 )

 

桜満開の赤穂城を歩く。 その5 「水手門、塩屋門」

「その4」の続きです。

シリーズ最後は、赤穂城二ノ丸南側の水手門跡からスタートです。


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かつて赤穂城の南はヨシ原が広がる干潟に面していて、満潮時には海水が石垣に迫るほどだったそうです。

ここ水手門は、赤穂湾に出るための船着き場だったそうです。


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こちらはその説明板。


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現在、水手門の南には水堀があります。

海はこれより1km以上南。

往時とはまったく地形が変わってしまっています。

地面に見られる四角い礎石跡は、おそらく門の痕跡なんでしょうね。


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外から見た水手門跡です。

突堤の下に雁木があるのがわかりますね。

時代劇なんかを見てると、ああいった雁木の石段に船をつけてますよね。


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突堤は現在、城の外と中を結ぶのような役割になっていますが、往時の突堤は、防波堤の役割でした。


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突堤から見る石垣越しのが綺麗です。


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水手門を出て、城跡外周をぐるっと歩いて三ノ丸西側にやってきました。

写真は西隅櫓台跡の石垣。

往時はこの台の上に二重櫓があったそうです。

ただ、その横の石垣が無残に倒壊しています。


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こちらは西隅櫓台の少し北にある塩屋門跡

赤穂城搦手門にあたります。

枡形虎口の形状ですが、高麗門だけで櫓門はなく、奥に太鼓楼があったそうです。


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その案内板です。

古写真にその姿が見られます。


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説明板によると、元禄14年(1701年)3月14日に藩主・浅野内匠頭長矩が起こした刃傷沙汰で、その第1報を持った早水藤左衛門萱野三平と、そして切腹と赤穂藩の取り潰しを知らせる第2報原惣右衛門大石瀬左衛門が入ったのがこの門だったそうで、また、4月19日の城の明け渡しの日に、備中国足守藩第5代藩主の木下公定が通ったのも、この門だったそうです。


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塩屋門の片隅には、歌人・良寛の歌碑が。


山おろしよ いたくなふきそ しろたえの ころもかたしき たびねせし夜は


良寛が諸国行脚の途中、赤穂に立ち寄った際に詠んだ歌だそうですが・・・スミマセン、意味がわかりません(笑)。

和歌のわかる人、誰か解説してください。


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塩屋門とは真反対の三ノ丸東側にある、清水門にやってきました。

ここは、他の門とくらべて小さな門に見えます。


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説明板によると、元禄14年(1701年)4月19日、幕府に城を明け渡したあと、大石内蔵助良雄が退城したのがこの門だったそうです。


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清水門南側には、二重櫓が建っていた二ノ丸東北櫓台があります。

やけに石垣がきれいなので、たぶん復元かと思われます。


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その向かいには、米蔵をイメージしたという歴史博物館があります。


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清水門北側の堀と石垣です。

桜が綺麗ですね。


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で、城跡を1周して「その1」で紹介した大手門に戻ってきたのですが、この日は「春の義士祭」というお祭りの日だったようで、大手門から女性四十七士の行列が出来ました。

毎年4月の第2日曜日に開催されているそうです。

せっかくなので写真を掲載します。


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先頭を歩くのが大石内蔵助良雄とすれば、その後ろを歩く女性の槍の先に吊るされた白布の包が、吉良上野介義央の首でしょうね。


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思わぬパレードに遭遇したところで、赤穂城シリーズを終わります。

最後に、日本100名城スタンプを載せておきます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-02-22 02:03 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

桜満開の赤穂城を歩く。 その4 「元禄桜苑」

「その3」の続きです。

赤穂城本丸の東側にある厩口門を出て、二ノ丸南に向かいます。

写真は、本丸側から見た桜と厩口門の高麗門


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天気が曇りじゃなかったら、もっと綺麗だったでしょうね。


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門の外にも桜が見えます。


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こちらは本丸の外から見た厩口門。


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正保2年(1645年)に入封した浅野長直によって築かれた赤穂城ですが、浅野家は3代当主の浅野内匠頭長矩刃傷事件が起こり、改易となります。

城は一旦、お隣の播磨龍野藩主・脇坂安照の預かりとなりますが、その後、下野国烏山藩より永井直敬が3万3,000石で入封。

しかし、直敬はわずか4年で転封となり、代わって備中国西江原藩より森長直が2万石で入部。

以後、明治4年(1871年)の廃藩置県までの12代、165年間、森家が赤穂城主を務めます。


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説明板によると、この門が厩口門と呼ばれていたのは浅野家時代で、森家の時代には「台所門」と呼ばれていたそうです。


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その厩口門もしくは台所門から内堀に沿って南に向かいます。


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桜並木が見えてきました。

石垣が切れている部分は、前稿で紹介した刎橋門跡です。


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こちらが二ノ丸側からみた刎橋門跡。


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そのまま南に進むと、内堀最南端に隅櫓跡の石垣があります。

横矢掛けの形状をしています。


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本丸西側の二ノ丸は市民憩いの芝生広場公園として整備されており、元禄桜苑と名づけられた花見の名所となっています。


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この日は天気が良くなかったので、あまり花見客はいませんでしたが、たぶん、いつもはもっと賑わっているのでしょう。


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水面に映る逆さ桜


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晴れてたらもっと綺麗だったでしょうね。


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元禄桜苑の最北端には、「その2」で紹介した二ノ丸庭園に入る西仕切門があります。

ただ、二ノ丸庭園は整備中のため、平成29年(2017年)4月現在、この門はまだ閉じられたままです。


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元禄桜苑最南端には、南沖櫓台があります。


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土塁を登ってみました。

南沖櫓台の外側には、現在外堀が巡らされていますが、かつてはこの先はだったそうです。


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南沖櫓台から見た土塁と桜です。


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南沖櫓台の東側にある水手門跡の向かい側に、米蔵があります。

この米蔵の建物は復元で、現在は休憩所になっています。

説明板によると、古絵図や古文書によると、かつてこの場所に2棟ないし3棟の米蔵があったそうです。


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さて、本丸、二ノ丸と攻略しましたが、もう1回だけシリーズを続けます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-02-20 16:49 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

桜満開の赤穂城を歩く。 その3 「本丸」

「その2」の続きです。

いよいよ赤穂城本丸を攻めます。

写真は本丸門

発掘調査の遺構に基づき、明治時代の古写真絵図を参考にして平成8年(1996年)に総工費6億7,000万円をかけて完全復元したそうです。


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本丸門は枡形虎口の形状で、手前に高麗門、奥に櫓門が見えます。

大手門では高麗門だけが復元されていましたが、こちらは櫓門もあります。

やはり、高麗門と櫓門がセットで揃うと見事ですね。

THE城門!って感じです。


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説明板によると、奥の脇戸付櫓門一の門で、木造本瓦葺入母屋造り、幅13m、高さ11mあるそうです。

手前の高麗門が二の門で、木造本瓦葺切妻造り、幅4m、高さ6mだそうです。


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説明板には古写真が掲載されています。


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本丸門の左右に伸びる内堀です。


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一の門の高麗門をくぐると、枡形ニの門の櫓門が見えます。

枡形内は思った以上に狭く、これは攻めにくい。


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ニの門の横の石垣の上には狭間が並び、向かいには雁木があります。

ここに閉じ込められたら、上から撃たれ放題

まさに袋のネズミですね。


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櫓門をくぐると、櫓の内部無料公開の看板が。

これはラッキー。


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本丸側から見た櫓門です。


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そして、こちらがその内部。

往時はここに門番が詰めていたのでしょうが、今は史料展示コーナーになっています。


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櫓門から左右に伸びる土塀には、様々なかたちをした狭間があります。


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櫓門から本丸の敷地を見下ろします。

コンクリートで整備された部分は御殿跡で、表御殿、裏御殿、台所の3ブロックに分かれます。

奥の緑の部分は庭園で、その左側に見える石垣が天守台です。


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御殿跡に降りてきました。


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本丸の案内図と説明板、御殿の見取り図です。


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地面には、その間仕切りを示した石盤が埋め込まれていて、たいへんわかり易い。


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コンクリートもただ敷き詰めているだけじゃなく、板間はの形状、畳の間はの形状をしていて、実にディテールにこだわった再現でした。


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そして、こちらが奥の天守台です。


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赤穂城は、正保2年(1645年)に常陸国笠間から入封した浅野長直が、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元年(1648年)より13年以上の歳月を費やし、寛文元年(1661年)に完成したものです。


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つまり、太平の世になってからの城で、この時代に築かれた城の多くは、徳川幕府への遠慮で天守が築かれませんでした。

赤穂城もその例外ではなく、天守台のみ築かれて、その上に天守が築かれることはありませんでした。


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天守台の上は芝生が敷き詰められています。

当初は5層天守の造営の計画もあったといいますが、それほど大きな面積ではありません。


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天守台から北側の御殿跡を見下ろします。

向こうに見えるのが二の門の櫓門。

往時は建物があったわけですから、門は見えなかったでしょうね。


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こちらは、天守台の西側にある表御殿大池泉と庭園です。

桜並木が見えるのは、本丸を囲う石垣内堀の外です。

天気が良かったら、綺麗な眺望だっただろうなぁ。


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天守台を降りて庭園を歩きます。

この池も、発掘調査に基いて復元されたものです。


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本丸南側にある刎橋門跡


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その名称のとおり、かつてここにははね上げ式の橋があったそうで、二ノ丸と通じていました。

向こうに見える桜並木は、二ノ丸です。


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さて、本丸をあとにして、「その4」は二ノ丸の桜を観にいきましょう。




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by sakanoueno-kumo | 2019-02-16 11:18 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

桜満開の赤穂城を歩く。 その2 「二ノ丸庭園」

「その1」の続きです。

赤穂城三ノ丸武家屋敷跡を過ぎて二ノ丸門を通る手前に、山鹿素行の銅像があります。

山鹿素行は赤穂藩初代藩主の浅野長直に千石で召し抱えられた儒学者、兵学者で、赤穂城の築城にも参画した人物です。


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説明板によると、赤穂城築城時には二ノ丸虎口縄張りを一部素行が変更したとされます。

だから、ここ二ノ丸門の前に銅像があるんですね。


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山鹿素行は家中で兵法を教え、あの大石内蔵助良雄も門弟のひとりだったといいます。

その後、大石たちが吉良邸討ち入りを成功させたことで、山鹿流「実戦的な軍学」という評判が立つことになったそうです。

その後、山鹿流兵法は幕末まで伝授され、吉田松陰松下村塾でも教材となりました。


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土台の銅板は漢文なので、よくわかりません。


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そしてここが、その二ノ丸門です。

今はただの道ですね。


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案内板です。

往時は切妻式櫓門が構えられていたそうです。


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こちらの案内板では、文久2年(1862年)12月9日に起きた文久事件が紹介されています。

文久事件とは、藩政改革を唱える急進派家臣の一派が、国家老の森主税と側用人の儒学者・村上真輔を赤穂城の門前で暗殺したことに端を発する事件で、その暗殺が行われたのが、この附近だったそうです。

本来は下級武士が藩の重臣を暗殺すれば大罪ですが、このとき、藩内の対立抗争の背景で急進派は賞賛され、逆に被害者であるはずの森主税や村上真輔の遺族が閉門の処分を受けることになります。

しかし、これを納得できない遺族たちは、事件から9年後の明治4年(1871年)2月30日、暗殺者たちが潜んでいた高野山に押しかけ、ついにそのをとりました。

世にいう「高野の仇討ち」です。

この事件がきかっけとなり、明治政府は「仇討ち禁止令」を発令するに至ります。

そのため、この事件は「日本最後の仇討ち」と言われているんですね。

高野の仇討ちといい忠臣蔵といい、赤穂は「仇討ち」のお国柄ですね。


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二ノ丸門を過ぎると、立派な土塀屋敷門が目に入ります。


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説明板によると、この門は家老の大石頼母良重屋敷門の復元だそうです。

大石頼母邸良重は大石内蔵助良雄の大叔父にあたる人で、浅野長直に重用され、長直の娘を妻に迎えて、ここ二ノ丸に屋敷をかまえていたそうです。


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平成10年(1998年)から3年ほどかけた二ノ丸発掘調査で屋敷跡の痕跡が多く見つかったそうで、その遺構に基いて復元されたそうです。


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門の横には、同じく復元された二の丸庭園の案内板がありました。

ここも、発掘調査をもとに平成14年(2002年)から約14年の歳月と約12億円をかけて修復したもので、ここを訪れた平成29年(2017年)4月現在もまだ整備中でした。


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門を潜ると、広大な庭園が広がります。


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「錦帯池」と呼ばれる池と、あずまやです。


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庭園は約1.5ヘクタールあるそうですが、わたしが訪れた1年前の時点では、4割に当たる約6,000㎡程度の公開でした。


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石垣に上ると、外堀が見下ろせます。


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北側の山には、「赤」の文字が。

夜にはイルミネーションで光るそうです。


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二ノ丸庭園の南を見ると、土塀の向こうにが広がります。

二ノ丸庭園は大石頼母屋敷門のあった東仕切門と、南側に通じる西仕切門があるのですが、平成29年(2017年)4月現在は、整備中のため西仕切門は開けられていませんでした。

なので、向こう側の桜並木に行く前に、本丸に向かうことにします。

続きは「その3」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2019-02-14 23:51 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

桜満開の赤穂城を歩く。 その1 「大手門~武家屋敷跡」

過日、播州赤穂城跡を訪れました。

赤穂といえば、「時は元禄15年、師走半ばの14日・・・」でお馴染みの赤穂浪士を誰もが思い浮かべるかと思いますが、あの浅野家の居城だった城です。

赤穂城は、正保2年(1645年)に常陸国笠間から入封した浅野長直が、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元年(1648年)より13年以上の歳月を費やし、寛文元年(1661年)に完成したものです。

わたしがここを訪れたのは平成29年(2017年)4月9日、桜が満開の赤穂城を歩きます。


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写真は大手門太鼓橋です。

昭和30年(1955年)に復元されたものだそうです。


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その北側には、同じく昭和30年に復元された隅櫓があります。


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大手門の高麗門をくぐります。

復元だからだと思いますが、扉がありません。


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門をくぐると、石垣で枡形が形成されています。


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おそらく、往時は櫓門があったのでしょう。

発掘調査で確認された礎石位置を示す板(白い四角の部分)が地面に埋め込まれています。


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石垣は切込み接ぎですね。


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枡形虎口を進むと、奥に番所跡があります。

櫓門を通る人を検問する門番が詰める場所で、今でいえばガードマンの詰所ですね。

その右側に見えるのが、外からの写真で大手門の横にあった隅櫓。


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桜が綺麗です。


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番所を過ぎて二ノ丸へ向かう途中に、武家屋敷跡が連なります。

まず目に入るのが、近藤源八宅跡長屋門


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「長屋門」とありますが、現存している建物は長屋部分のみで、門は残っていません。

じゃあ、なんで「長屋門」なんでしょう?


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内部から見た源八長屋門です。

たぶん、最近改修されたんでしょうね。

壁も瓦も綺麗です。


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近藤源八正憲は甲州流兵法の学者で、禄高1000石の重職を担っていました。

源八の父は赤穂城の縄張りを進めた近藤三郎左衛門正純で、源八の妻は、あの大石内蔵助良雄の叔母にあたるそうです。

浅野刃傷・赤穂藩改易時にはかなりの高齢だったと見られ、仇討ちの義盟には加わりませんでした。


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そして、こちらが大石内蔵助良雄邸長屋門です。

内蔵助については、ここで改めて説明するまでもないですよね。


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説明板によると、浅野家筆頭家老の大石家三代が57年にわたって住んでいた屋敷の正門で、主君・浅野内匠頭長矩刃傷事件を知らせる江戸からの急使がたたいたのも、この門だったそうです。


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門の前には、「史蹟 大石良雄宅跡」と刻まれた石碑が立ちます。


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大石家の邸跡には、現在、大石神社があります。

大石神社については、平成24年(2012年)の当ブログ(赤穂四十七義士を祀る大石神社に初詣。)の稿で紹介しておりますので、今回はスルーします。


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あと、建物は存在しませんが、城跡内には多くの武家屋敷跡があります。

全部を説明していたら終わらないので、写真のみ紹介。


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四十七士の片岡源五郎右衛門宅跡。


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同じく四十七士の間瀬久太夫正明屋敷跡。


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こちらも四十七士の磯貝十郎左衛門屋敷跡。


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こちらは脱落組の鈴田重八屋敷跡。


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こちらも脱落組の田中貞四郎屋敷跡。


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こちらは、最初から大石たちとは意見を異にしていた大野九郎兵衛屋敷跡。


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こちらは藩医の寺井玄渓屋敷跡。


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素性がよくわからない神尾専右衛門邸跡。


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武家屋敷跡だけでずいぶん長くなっちゃいました。

最後に武家屋敷公園の桜を紹介して、「その2」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-02-13 23:23 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

後藤又兵衛基次ゆかりの地をたずねて。 その3 「蛇塚~又兵衛田」

「その1」で紹介した周辺の後藤又兵衛史跡マップに「蛇塚」なるスポットが載せられていたので、足を運んでみました。


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これがその「蛇塚」です。

なにやら古墳跡のようにも見えますが、これが又兵衛ゆかりの史跡なんだとか。

以下、説明板の文章をそのまま引用します。


むかし、南山田の池田という所におった大蛇が田畑を荒らし回り、村人を苦しめていた。近くの城山に城があって、そこに後藤又兵衛が住んでいた。その近くの射場という所で弓の稽古をしていた又兵衛は、「拙者が退治をしてやろう」と言ったそうだ。

 やがて池田に大蛇が出た。又兵衛が、射場から弓を射ると見事に大蛇に命中して退治してくれた。しかし、大蛇は余りに大きかったので、頭の方を寺垣内に埋め、胴体を四畑に、尻尾は奥の谷へ埋めた。それでこの辺りを蛇塚というそうな。 (口伝により)


つまり、又兵衛が大蛇退治し、ここに埋めたんだそうです(頭か胴体か尻尾かはわかりませんが)。

ただ、又兵衛がこの地に住んでいたのは少年時代だったはずですから、にわかに信じがたい話ではありますけどね。

ていうか、そもそも大蛇自体が伝説ですけど。


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もう1ヶ所、又兵衛ゆかりの史跡を紹介。

南山田城跡の北側は、現在、田園地帯になっているのですが、その1角に、「又兵衛田」と呼ばれる田んぼがあります。


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以下、説明板の文をそのまま引用します。


「又兵衛田」

1611年(慶長16年)以降、姫路城の城主・池田輝政の配慮で後藤又兵衛の扶持米を作ったとされる田で、「又兵衛田」と言い伝えられてきた。

黒田家を出奔後の後藤又兵衛の命をつないできた貴重な田である。


晩年の又兵衛が、一時、播磨に戻ってきたとは知っていましたが、この地に戻ってきてたの?


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黒田官兵衛の元で武功を重ね、一時は大隈1万6千石もの大封を与えられていた又兵衛でしたが、新しい主君の黒田長政とそりが合わず、慶長11年(1606年)に黒田家を出奔してしまいまず。

それでも、又兵衛の武勇は天下に轟いており、細川忠興、福島正則、前田利長、結城秀康など名立たる大名から誘いがかかりますが、長政がしいた「奉公構」によって実現しませんでした。

「奉公構」とは、出奔した家臣を他家が召抱えないように釘を刺す回状を出すことで、豊臣政権によって始まった制度でした。

その後、又兵衛は京に流れて浪人生活となり、そして、慶長19年(1614年)に大坂と幕府の関係に暗雲が立ち込めると、大野治長の招きで大坂城に入ります。

そして、翌年の5月6日、道明寺の戦いにおける小松山の攻防戦壮絶な死を遂げるんですね。

大坂の陣では真田信繁(幸村)と並び称される英雄の又兵衛ですが、大坂城の浪人衆からは、又兵衛が最も慕われていたといいます。

あのまま自分を押し殺して長政に従っていれば、大隈1万6千石で穏やかな余生を迎えていたことでしょう。

でも、後世にはそれほど名を知られていなかったでしょうね。

又兵衛にとってどちらが幸せだったかはわかりませんが、自身の生き方を貫いた又兵衛の生き様に、後世のわたしたちは魅せられるのでしょう。


又兵衛関連の史跡は、大坂の陣シリーズでも紹介しています。

よければ一読ください。

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by sakanoueno-kumo | 2016-10-21 18:34 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

後藤又兵衛基次ゆかりの地をたずねて。 その2 「福田寺」

南山田城跡の公園から150mほど西にある福田寺を訪れました。

ここは、南山田城主・後藤家の菩提寺だそうです。


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後藤氏の出自は諸説ありますが、藤原氏の流れをくむ後藤基清の子、基重が、承久の乱の後に播磨国安田荘の地頭となったことに始まったといいます。


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その後、建武年間、播磨国の守護職・赤松則村(円心)の幕下であった後藤基明が、ここから2kmほど北にある春日山城の初代城主となり、時代は下ってその9代目にあたる後藤基信のとき、中国征伐に向かう羽柴秀吉によって城は攻め落とされました。

その後藤基信の弟が、後藤又兵衛基次の父・元国でした。


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山門の横に、最近建てられたと思われる「後藤又兵衛顕彰碑」と刻まれた石碑がありました。

その背後に見える森が、南山田城跡の公園です。


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高さは約2.5mあります。

やりの名手として知られた又兵衛にちなみ、やりの穂先の形に仕上げられたのだとか。


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石碑裏面の説明書きです。

「又兵衛400年祭」と記されているように、没後400年を記念して建てられたようですね。

2015年5月6日とあります。

又兵衛が討ち死にしたのは、大坂夏の陣大坂城が落城する1日前の慶長20年(1615年)5月6日、現在の住所でいえば大阪府柏原市で行われた道明寺の戦いにおける小松山の攻防戦でした。

石碑は、その400年後の命日に建てられたわけですね。

ちなみに、又兵衛は一般に「基次」の名で知られていますが、実は、当時の記録に「基次」と記された史料は存在せず、「正親」が実名だったようです。

真田信繁における「幸村」という名と同じく、「基次」も後世の創作と考えてよさそうです。


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境内です。


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本堂です。

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本堂裏の墓苑の一角に、「後藤又兵衛父母の供養塔」があります。


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又兵衛の父母の没年は定かではありません。

別所氏滅亡後は仙石秀久に仕えたといわれますが、この地に供養塔が残っていることを思えば、あるいは三木合戦時に落命したのかもしれませんね。

息子の又兵衛が有名にならなければ、父の名前すら後世に残らなかったかもしれません。


もう1回だけ続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-10-20 19:03 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

後藤又兵衛基次ゆかりの地をたずねて。 その1 「南山田城跡」

後藤又兵衛基次といえば、若き日は「黒田二十四騎」「黒田八虎」のひとりとして、晩年は大坂の陣の大坂方の武将として、真田信繁(幸村)と並び称される英雄として後世に人気の人物ですが、その又兵衛の生誕地と伝わる姫路市山田町を訪れました。


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といっても、ここを目当てに訪れたわけではなく、別の目的でこの道を通ったところ、たまたま「後藤又兵衛」と書かれたを見つけ、つい立ち寄った次第です。

こういう偶然を想定して、休日はいつもカメラを持参しています。

ただ、この日はあいにく小雨がパラつく天気で、暗い写真ばかりなのが残念ですが。


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看板にあった史跡マップを参考に、「南山田城跡」を目指します。


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手前に見える森が、城跡のようです。


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城跡といっても遺構などはほとんど残っておらず、現在は公園として整備されています。


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公園内は広場になっており、北側から東側ののなかに、わずかに土塁っぽい遺構が残されています。


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公園内ある古い祠と、城跡の説明板です。


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南山田城の築城年代は定かではありませんが、又兵衛の父である後藤基国によって築かれたと伝えられます。

天正6年(1678年)に織田信長の命を受けた羽柴秀吉が播磨国に侵攻すると、三木城主・別所長治らがこれに反旗を翻し、別所氏の配下にあった後藤氏は、運命を共にします。

しかし、当時まだ幼かった基国の子・又兵衛は、姫路城代だった黒田官兵孝高に預けられました。

しかし、官兵衛が荒木村重によって有岡城幽閉された際、黒田家家臣一同の誓紙への署名を、又兵衛の叔父である春日山城主後藤基信が拒否したため、後藤氏一族は追放となり、又兵衛も黒田家を去ることになります。

その後は仙石秀久に仕えたといわれますが、確かではありません。


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公園の周辺は曲がりくねった道で囲われていて、かつての堀跡を思わせるロケーションです。


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ここは明らかに土塁跡でしょうね。


南山田城跡のその後は定かではありませんが、ここから2kmほど北にある又兵衛の叔父・基信の春日山城が秀吉軍によって攻め落とされたとき、共に落城したとみていいのではないでしょうか。

次稿では、又兵衛の父・母が眠る福田寺を訪れます。


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by sakanoueno-kumo | 2016-10-19 22:15 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

夏休み中播磨路紀行2016 その5 「書寫山圓教寺 ~後編~」

前稿に引き続き書寫山圓教寺です。

圓教寺の敷地内はあまりのも広大で、すべてをじっくり観光するには1日中かかるくらいの規模です。

この日は午後からの限られた時間での観光だったので、摩尼殿を訪れたあとは、その西奥にある有名な三之堂へ。


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摩尼殿から西へ向かう参道です。

豪壮な石垣群は、まるで城跡のよう。


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でも、城跡じゃないとわかるのは、石垣の上に無数の地蔵群が・・・。

なんとも神秘的な空間です。


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数分歩くと、有名な3つの堂の建つ空間にたどり着きます。

右側の建物が大講堂、左奥に見えるのが食堂(じきどう)、写真左に屋根の先端が少しだけ見えているのが、常行堂です。

いずれも室町時代の再建で、国の重要文化財です。

写真では伝わりにくいですが、目の前に広がる雄大な光景に、しばし言葉がでませんでした。


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こちらが、大講堂側から見た常行堂


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こちらは、食堂2階から見た常行堂


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こちらも、食堂2階から見た大講堂です。


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ここ三之堂は、映画やドラマのロケ地に何度もなっていますが、そのいちばん有名なものとしては、あのトム・クルーズ主演の『ラスト・サムライ』でしょうね。

トム・クルーズ演じる主人公のオールグレン大尉と、渡辺謙さんが演じる勝元の絡みのシーンは、ここ食堂で撮影されました。


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なんでも、映画スタッフがロケ地候補の姫路城の視察に訪れた際、近くのこの地に観光がてらに立ち寄ったところ、ひどく気に入られ、ロケ地に決まったそうです。

ということは、トムもあのロープウェイに乗って来たのかと思ったのですが、宿泊先の神戸からヘリでここまで着たそうです。

さすがは超スーパーハリウッドスターですね。

庶民的な謙さんは、たぶんロープウェイで来たんじゃないでしょうか?


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他にも、NHK大河ドラマでは平成15年(2003年)の 『武蔵-MUSASHI-』や、平成26年(2014年)の『軍師官兵衛』でもロケ地となっています。

宮本武蔵と圓教寺の関りについては記録に残っていませんが、武蔵と姫路の関りは深く、武蔵の養子となった宮本三木之の墓が、ここ圓教寺にあります。


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黒田官兵衛
と圓教寺の関係は、天正6年(1578年)、織田信長の命により播磨攻めを開始した羽柴秀吉に、ここ書写山に陣を布くよう勧めたのが官兵衛だったと伝えられます。

食堂には、そのときの羽柴秀長の家臣の落書きが残されていました。


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毎年夏の旅行で子供たちには何か体験学習をさせているのですが、今年はこの食堂で、なんと写経体験に挑戦。

写経は、本格的な般若心経と、初心者向けの簡易な花びら写経があります。

花びら写経は約10分程度でできるのですが、般若心経は1時間以上かかります。

ほとんどのメンバーは花びら写経を体験しましたが、一応、書道の有段者である中3のわが娘だけは、高校合格祈願をかけて般若心経に挑戦。

集中力と根気を要する作業です。


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トム・クルーズと渡辺謙さんが絡んだシーンと同じ場所での写経です。


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わたしも、花びら写経に挑戦。

筆をとる前に、まずは手を合わせて般若心経を唱えます。


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皆が無言で机に向かう姿は、なかなか貴重な光景です。


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前日に転んで肘と膝を怪我したOL1年生の彼女の願掛けは、「ケガをしない!」


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そして、わが娘の般若心経が完成。

果たして志望校合格のご利益があるか!

静寂に満ちた空間で、背筋を正して写経。

たまには、そういった非日常な時間を過ごしてみるのもいいですね。


圓教寺を後にすると、中播磨といえばやはり世界遺産の姫路城

最後に少しだけ足を運びました。


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姫路城については、以前たっぷりレポートしていますので、よければ一読ください。

  ↓↓↓

白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 


以上、2016年の夏休みレポートを終わります。



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by sakanoueno-kumo | 2016-10-14 18:57 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

夏休み中播磨路紀行2016 その4 「書寫山圓教寺 ~前編~」

西の比叡山と称される天台宗の古寺「書寫山圓教寺」を訪れました。

書写山は、姫路市の北部にある標高370mの山で、圓教寺はその山上にあります。


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山頂までは麓から登山すると1時間以上かかるそうで、この日はロープウェイで登ります。


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ロープウェイは黒田官兵衛キャラでラッピングされています。

2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』以降、姫路市周辺はこの官兵衛くんキャラでいっぱいです。


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ロープウェイを降りたらすぐ圓教寺というわけではなく、そこから20分ほどの登山です。

この日は8月13日の真夏日

私はこのところ休日は史跡めぐりばかりしているため、こういったシチュエーションは慣れているのですが、山に慣れてない人は、結構キツイかもしれません。

体力に自信のない人のために、バスもあります。

ちなみに私の妻は、迷わずバスに乗車しました。


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登山道途中の展望台からの眺望です。


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そこに設置されたベンチに、眺望の詳細な説明書きが・・・。

これって、落書き?

落書きとしては、かなりクオリティ高いです。

この説明(落書き)によると、ここから姫路城が見えるとのことでしたが、見えるような見えないような・・・。


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展望台で記念撮影。


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しばらく登ると、ようやく仁王門にたどり着きました。

ここから、書寫山圓教寺です。


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圓教寺は、康保3年(966年)に天台宗の僧・性空によって創建されたと伝えられ、花山法皇(第65代天皇)の勅願所となりました。

以後、後白河法皇(第77代天皇)や後醍醐天皇(第96代・南朝初代天皇)など多くの皇族が行幸、また勅願により建物の改築・改修、建立が行われています。


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有名な「摩尼殿」です。

書寫山圓教寺で画像をググったら、まずこの画像が出てきますね。


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摩尼殿の号は承安4年(1174年)に参詣した後白河法皇によるものだそうです。

摩尼殿は、京都の清水寺と同じ舞台造りとなっています。

たしかに似てますね。


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姫路の人は、「摩尼殿の舞台から飛び降りる」って言うんですかね?(笑)


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圓教寺は広大すぎて、とても一回では紹介できません。

次回に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-10-13 19:11 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)