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カテゴリ:大阪の史跡・観光( 17 )

 

緒方洪庵の適塾をたずねて。 <後編>

<前編>の続きです。

建物内はひととおり見学したので、建物の外を歩いてみましょう。


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説明板によると、表屋の建物は寛政4年(1792年)の北浜大火後まもなくの建築と考えられ、元は町筋に面する商家の形であったようですが、その後、弘化2年(1845年)に緒方洪庵が買い上げた際に若干の改造が行われたと見られています。


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建物の東側に、庭のような空間があります。


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入口の看板。

文字が消えて読めない(笑)。


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庭というか、公園ですね。


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近代的なビルに囲まれ、今も残る町家風のたたずまい。

不思議な空間ですね。


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第二次世界大戦中の昭和17年(1942年)にこの建物は国に寄付されることになり、現在は大阪大学が所有、管理しています。

洪庵の子息や適塾門下生によって明治初期に設立された大阪仮病院大阪医学校が、やがて大阪帝国大学となり、現在の大阪大学医学部につながっているからだそうです。


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障子窓が開いているところが、前編で紹介した塾生大部屋です。


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続いて建物西側にやってきました。


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西側は広い公園になっていて、緒方洪庵の銅像が座しています。


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緒方洪庵は文化7年7月14日(1810年8月13日)、備中足守(岡山市足守)藩士・佐伯惟因(瀬左衛門)の三男として生まれました。

17歳のときに大坂に出て中天游の私塾「思々斎塾」に学び、21歳で江戸に出て坪井信道、宇田川玄真らに学ぶと、さらに26歳で長崎へ遊学して医学、蘭学を学び、29歳のときに大坂に帰って医業を開業しました。

このとき、同時に適塾を開きます。

同年、天游門下の先輩・億川百記の娘・八重と結婚し、のち6男7女をもうけました。

その後、医師として種痘の普及や天然痘の予防などに尽力し、日本における西洋医学の基礎を築くとともに、教育者としては、福沢諭吉大村益次郎など幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く育てました。


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人柄は温厚篤実を絵に描いたような人物だったようで、福沢諭吉曰く「誠に類い稀れなる高徳の君子なり」と評しています。


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故・司馬遼太郎氏が小学校の国語教科書用に書いた『洪庵のたいまつ』の冒頭で、司馬氏は洪庵について次のように語っています。


世のためにつくした人の一生ほど、美しいものはない。

ここでは、特に美しい生涯を送った人について語りたい。

緒方洪庵のことである。

この人は、江戸末期に生まれた。

医者であった。

かれは、名を求めず、利を求めなかった。

あふれるほどの実力がありながら、しかも他人のために生き続けた。

そういう生涯は、はるかな山河のように、実に美しく思えるのである。

(『洪庵のたいまつ』より)


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また、司馬氏の小説『花神』では、こうも言っています。


なぜ洪庵が医者を志したかというと、その動機はかれの十二歳のとき、備中の地にコレラがすさまじい勢いで流行し、人がうそのようにころころと死んだ。

洪庵を可愛がってくれた西どなりの家族は、四日のうちに五人とも死んだ。

当時の漢方医術はこれをふせぐことも治療することにも無能だった。

洪庵はこの惨状をみてぜひ医者になってすくおうと志したという。

その動機が栄達志願ではなく、人間愛によるものであったという点、この当時の日本の精神風土から考えると、ちょっとめずらしい。

洪庵は無欲で、人に対しては底抜けにやさしい人柄だった。

適塾をひらいてからも、ついに門生の前で顔色を変えたり、怒ったりしたことがなく、門生に非があればじゅんじゅんとさとした。

「まことにたぐいまれなる高徳の君子」と、その門人のひとりの福沢諭吉が書いているように。

洪庵はうまれついての親切者で、「医師というものは、とびきりの親切者以外は、なるべきしごとではない」と、平素門人に語っていた。

(『花神』より)


司馬さんはよほど洪庵に惚れ込んでいたようですね。


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ここ適塾で学んだ門下生たちが、のちに医学、兵事、政治など各方面で活躍し、そしてそれが現在の私たちの生活につながっています。

まさに、洪庵のたいまつはつながっているんですね。

先述した司馬氏の『洪庵のたいまつ』の文末は、こう結んでいます。


洪庵は、自分の恩師たちから引き継いだたいまつの火を、よりいっそう大きくした人であった。

かれの偉大さは、自分の火を、弟子たちの一人一人に移し続けたことである。

弟子たちのたいまつの火は、後にそれぞれの分野であかあかとかがやいた。

やがてはその火の群が、日本の近代を照らす大きな明かりになったのである。

後生のわたしたちは、洪庵に感謝しなければならない。

(『洪庵のたいまつ』より)


ここ適塾は、近代日本のたいまつ発祥の地といえるかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2019-09-15 07:53 | 大阪の史跡・観光 | Comments(0)  

緒方洪庵の適塾をたずねて。 <前編>

大阪市内のオフィス街のど真ん中に、緒方洪庵が開いた適塾(適々斎塾)の建物が残されています。

緒方洪庵は、幕末における洋楽研究の第一人者として仰がれた医師、蘭学者で、「日本の近代医学の祖」と呼ばれる人物です。

洪庵は、天保9年(1838年)から文久2年(1862年)までの25年間、大阪・船場で塾を開き、幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く育てました。


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この建物は、弘化2年(1845年)に洪庵が町家を買い受け、適塾を拡張したときのものです。


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間口は約12mしかありませんが、奥行きは約40mあり、敷地面積は464㎡あり、木造2階建の建面積は285㎡、延床面積は417㎡あります。


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正面には昭和16年(1941年)に建てられた石碑があります。


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入口横の説明板です。


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玄関を入ってすぐの土間に、平面図が書かれた行灯看板があります。


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それでは、建物の中を見てまわりましょう。


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1階は主に教室に使われた表屋と、洪庵とその家族の住まいとなっていた主屋に分かれます。

教室は2部屋あります。


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教室の奥には、中庭があります。

この中庭より奥が、洪庵の居住スペースとなります。


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書斎です。

六畳間です。


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手前が八畳の応接間で、奥が十畳半+床の間の客座敷です。


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客座敷です。

奥に庭が見えます。


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前栽(庭)です。


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こちらは、客座敷の隣にある家族部屋です。

七畳ありますが、洪庵は6男7女の子供がいました。

まさか、ここで全員寝てたわけではないですよね。


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そして台所


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ここで塾生たちの飯を炊いていたのでしょう。


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台所の天井です。

煤けていますね。

150年以上前の煤でしょうか?


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台所から2階へ上がる階段があります。

この急な角度、階段というより梯子のようです。

でも、昭和の時代も、古い家屋はみな、こんな急な階段でしたよね。


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2階へやってきました。

上ってすぐにあるのは、女中部屋です。


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そしてこの六畳間は、ヅーフ部屋と呼ばれる部屋です。

その名称の由来は、塾生たちが使用したヅーフ辞書(長崎出島のオランダ商館長ヅーフが作成した蘭和辞書)だそうです。

適塾の教育システムの中心は蘭書の会読だったといいますが、その予習のために塾生たちはこのヅーフ辞書を使ったそうですが、当時、極めて貴重だったこの辞書は適塾にも一冊しかなく、塾生はヅーフ辞書が置かれていたこの部屋につめかけて奪い合って使用したといいます。


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そして、その奥にある大広間が、塾生大部屋です。


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洪庵は医学者でしたが、適塾門下生からは、医学のみならず様々な方面で活躍する人物が出ました。

もとは医学者でありながら、やがて幕末の政治活動に身を捧げて死んでいった橋本左内や、同じく医学者から兵学者に転身して維新十傑の一人となった大村益次郎、維新後、慶応義塾大学を創設した福沢諭吉、同じく維新後、内務省の初代衛生局長となった長與專齋などがいました。


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また、戊辰戦争で新政府軍に抗い、あの五稜郭に立て籠った大鳥圭介高松凌雲も適塾門下生で、大鳥はのちに明治の外交で活躍し、高松は五稜郭の戦いで箱館病院を開院し、敵味方を問わずに傷病兵を助けるという我が国最初の赤十字博愛精神を実践した人物で、これがやがて日本赤十字を生むことになり、その初代総裁には、同じく適塾門下生だった佐野常民が就きました。

まさに、幕末維新の錚々たるメンバーがここから巣立ったんですね。


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この大部屋で、門下生たちは寝泊まりしていました。

塾生1人一畳が使えましたが、毎月、成績のいい者から好きな場所を選べたようです。

出入口付近はみんなに踏まれて最悪だったとか。

福沢諭吉なんかは、きっと常にいい場所を確保していたんでしょうね。

福沢諭吉は後年、適塾時代を振り返り、「およそ勉強ということについては、このうえにしようもないほど勉強した」と述懐しています。

その理由は、向上心よりも、場所取りだったかも(笑)。


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大部屋中央の柱には、塾生がつけたと伝わる刀傷が無数に残っています。

秀才ぞろいの適塾でしたが、やはり武士の若者たちですから、血の気の多いやつもたくさんいたんでしょうね。


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さて、ひととおり建物内を見て回りましたが、次回、建物の外を歩きます。

<後編>に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-09-13 23:27 | 大阪の史跡・観光 | Comments(0)  

三好長慶の本城、芥川山城攻城記。 その4 ~北出丸・南出丸~

「その3」で主郭まで攻略しましたが、続いて、主郭北西にある曲輪に向かいます。


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主郭北西にある細い道を下ります。


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主郭北側の一段下がったところにも、曲輪跡と見られる削平地があります。


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その周囲は、立派な土塁跡で囲われています。


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更にその北西にある曲輪に向かいます。

細い喰違虎口となっています。


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虎口を抜けて下ったところに、堀切土橋があります。


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土橋です。


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そして堀切です。


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土橋を渡ると、東西に長い削平地に出ます。


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縄張り図によると、「西郭」とか「北出丸」とか名称は様々ですが、要は主郭北西にある曲輪です。


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反対側(北西側)からみた北出丸です。


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で、一旦主郭に戻って、今度は主郭南西の曲輪に向かいます。


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ここが、南西にある曲輪。


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表示板には「田ノ丸」と書かれていますが、縄張り図には、「南郭」とか「南出丸」といった名称で紹介されています。


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ここは、北出丸のように樹木が伐採されていないため、それほど広さを感じませんが、縄張り図によると、北出丸と同じぐらいの広さがあるようです。


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さて、だいたいの曲輪は攻略したので、「その3」で紹介した主郭曲輪群と第2曲輪の間の分岐点に戻り、そこから今度は大手筋で下山することにしました。


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50mほど下山したところに、石垣の遺構が残っています。


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残念ながら中央が崩れてしまって両端のみかろうじてその姿を残していますが、かつては一列につながった立派な石垣の壁だったのでしょうね。


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崩れた部分の下には、石垣に使用されていたのであろう巨石が散乱しています。


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「その2」でもふれたとおり、この石垣は三好長慶の時代の石垣と考えられています。

日本の城郭建築に本格的に石垣が使用されるようになるのは、近世城郭に先駆けとなった織田信長安土城の築城以降と言われていますから、三好長慶の時代のものとすれば、当時とすれば、たいへん珍しいものだったに違いありません。


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大手筋を登ってきたら、目の前にドーンと石垣の城壁が現れる。

当時の近隣の武士たちは、この石垣に圧倒され、三好長慶に屈していったのかもしれません。


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その石垣の前の高い木が、軒並み大きく撓ってお辞儀していました。


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これも、おそらく平成30年(2018年)9月4日に上陸した台風21号による被害でしょうね。

これほどの大樹が弓のように撓っている姿は、なかなか異様な光景でした。


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さて、石垣を後にして下山しましょう。


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天文22年(1553年)から7年間に渡って、ここ芥川山城を本拠としていた三好長慶でしたが、永禄3年(1560年)に近くの河内飯盛山城(参照:飯盛山城)に居を移し、芥川山城には嫡男の三好義興を据えました。

しかし、3年後の永禄6年(1563年)に義興は22歳の若さで急逝

すると、あとを追うように長慶も永禄7年(1564年)に飯盛山城で没します。


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その後、芥川山城はしばらく歴史の記録から姿を消しますが、永禄11年(1568年)に織田信長が摂津に侵攻すると、この城に立て籠もった三好長逸らを追い落とし、信長配下の和田惟政を入城させます。

しかし、その和田惟政も翌年には高槻城(参照:高槻城)に移り、代わって重臣の高山友照が城主となりますが、天正元年(1573年)に高山友照の子・高山右近が和田氏を追放して高槻城主となったため、このとき、芥川山城は廃城になったのではないかと考えられています。


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と、歴史の話をしている間に、大手筋の登り口まで降りてきました。

石垣がありますが、これは明治以降の築かれたものだそうで、城跡とは関係ありません。


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麓から三好山を見上げます。

三好長慶によって畿内の覇者となった三好氏でしたが、長慶の死後は衰退の一途を辿ります。

栄枯盛衰は世の習い。

最後に、続日本100名城のスタンプを載せます。

スタンプを押したのは、この日より1年近く前でした。

大手石垣が描かれていますね。


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by sakanoueno-kumo | 2019-07-06 11:28 | 大阪の史跡・観光 | Comments(0)  

三好長慶の本城、芥川山城攻城記。 その3 ~主郭~

「その2」の続きです。

二之郭の北の細い道を西に進むと、急に視界が開けた場所に出ます。


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そこには、芥川山城跡ではなく「城山城跡」と刻まれた小さな石碑があります。


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石碑の脇には、南へ下る道があります。

どうやらこの道が大手道のようです。

ここが、大手筋ルート塚脇ルートの交差点になっているようです。


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石碑を過ぎると、主郭と二之郭を結ぶ細長い帯曲輪となっています。


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主郭虎口

細い喰違虎口となっています。


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主郭部に登ってきました。

主郭は三段構造になっており、それぞれの名称はわかりませんが、一番下の段の曲輪を主郭南展望曲輪とでも呼びましょうか。


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展望曲輪からの南側の眺望です。


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遠くにあべのハルカスが見えます。


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こちらは、三好長慶が永禄3年(1560年)に芥川山城から移り住んだ河内飯盛山城のある飯盛山(参照:河内飯盛山城跡)。

ここ芥川山城跡とともに続日本100名城に選ばれています。


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展望曲輪から北を振り返ると、主郭が見えます。


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展望曲輪から主郭に登る虎口。

ここも喰違虎口となっています。


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登ってきました。

ここは主郭下段とでも名付けましょう。


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「桜広場」と書かれた看板があります。

ここを訪れたのは令和になる少し前の平成31年(2019年)3月9日。

桜の季節には少し早かった。


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主郭下段の北側には、いよいよ主郭があります。


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で、主郭に登ってきたのですが、いきなり視界に飛び込んできたのは、傾いた巨木


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そして、根こそぎ横倒しになった巨木もあります。


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「その2」の二之郭でもふれましたが、前年の平成30年(2018年)9月4日に上陸した台風21号で、大阪は各地でたいへんな被害を受けたのですが、おそらく、これはそのときの被害だと思われます。


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それにしても酷い。


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横にある祠は三好長慶を祀ったものだそうです。


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芥川山城の始まりは、戦国時代の永正年間(1504~1523年)に室町幕府の管領・細川高国が築いたとされています。

『瓦林政頼記』によると、「芥川ノ北ニ当リ、可然大山ノ有ケルヲ城郭ニソ構ヘ」と伝え、その普請は、「昼夜朝暮五百人、三百人ノ人夫、普請更ニ止時ナシ」と記されています。

かなり大規模な工事だったことがわかります。


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細川高国は室町幕府の政治をほしいままにしていた人物ですが、しかし、大永6年(1526年)に細川晴元高国打倒の兵を挙げると、享禄4年(1531年)に滅ぼされ、その後、天文2年(1533年)には代わって細川晴元が入城。

管領に就任して政権を掌握しました。


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しかし、それも長くは続かず、天文8年(1539年)には家臣の三好長慶によって晴元は京を追われ、以降、長慶は畿内で勢力を伸ばし、天文16年(1547年)には芥川山城も長慶の手に落ちました。


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長慶ははじめ、従兄弟の芥川孫十郎を城主にしますが、天文22年(1553年)、孫十郎に謀反の疑いありと判断した長慶は、孫十郎を退去させ、その後、自身が入城。

この城を畿内統治の本拠とすると、摂津を中心として山城、丹波、和泉、阿波、淡路、讃岐、播磨にまで勢力圏を拡大していきます。

畿内一円を支配した長慶による政権を、その拠点となったここ芥川山城にちなんで、「芥川政権」と呼ぶこともあります。


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山麓にあったものと同じ推定復元図の看板があります。

主郭には御殿が描かれていますが、発掘調査礎石等が発見されたそうで、御殿のような立派な建物があったことは確認されているそうです。


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主郭からの南の眺望です。


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標高183mの主郭での昼食はコンビニ弁当です(笑)。


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さて、主郭まで攻めてきましたが、まだ、全て攻略できていません。

「その4」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-07-05 00:10 | 大阪の史跡・観光 | Comments(2)  

三好長慶の本城、芥川山城攻城記。 その2 ~第2曲輪・東出丸~

「その1」の続きです。

芥川山城を登り始めて約30分、切通し虎口があります。

縄張り図によると、ここを抜けると第2曲輪となっています。


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「切通し」とは、丘などの土を掘削して造った道のこと。


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石垣の名残でしょうか?

虎口の脇には大きな石がゴロゴロ散在しています。


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虎口を過ぎると、左側(南側)が一段高くなっています。

縄張り図によると、「第2曲輪」「二之郭」「東出丸」などの名称で書かれていますが、まあ、とにかく登ってみましょう。


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曲輪の上に登ってきました。

登城前にネットで予習してきた際には、広い削平地だったはずなんですが、来てみると、大木が何本も根こそぎ倒れていて、散々に荒れ果てていました。


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わたしがここを訪れたのは、令和になる少し前の平成31年(2019年)3月9日。

この前年の平成30年(2018年)9月4日に上陸した台風21号で、大阪は各地でたいへんな被害を受けたのですが、おそらく、これはそのときの被害だと思われます。


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それにしても、酷いですね。

こんな大木が根っこから倒れるって、いったいどんだけ強い風だったのでしょう。


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九州や沖縄の方々と違って、関西はあまり大きな台風が上陸することはありませんでしたから、実際わたしも、あのときは初めて台風が怖いと思いました。


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曲輪の周囲は土塁で囲われています。


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その土塁のどこかの一角から降りたところに石垣の遺構があるはずなんですが、大木が倒れて視界が遮られている上に足元も悪く、なかなか見つけられません。


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下へ降りていけそうな土塁の切れ目をみつけました。

降りてみましょう。


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ありました。

見事な石垣の遺構です。


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苦労して見つけただけに、感動もひとしおです。


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芥川山城の始まりは、戦国時代の永正年間(1504~1523年)に室町幕府の管領・細川高国が築いたとされていますが、この石垣の遺構は、おそらく天正22年(1553年)に入城した三好長慶の時代のものと思われます。

しかし、それも定かではなく、専門家の見方では、この石垣は戦国時代の技術ではあり得ない組み方をしているそうで、現在でも議論になっているそうです。

ただ、三好長慶が永禄3年(1560年)にこの城から移り住んだ近くの河内飯盛山城でも同じ技術の石垣があるそうで(参照:河内飯盛山城)、そう考えれば、やはり三好長慶の時代の石垣と考えていいのかもしれません。


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日本で最初の石垣の城は近江の観音寺城(参照:観音寺城)と言われていますが、本格的に石垣の城が普及するのは、天正4年(1576年)に築かれた織田信長安土城からと言われています。

その20年近く前に、実は三好長慶がここに石垣の城を築いていた・・・。

そう考えながらこの石垣を見ると、なんだかロマンを感じます。


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さて、石垣を堪能したので、主郭に向かって進みましょう。

「その3」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-07-04 11:54 | 大阪の史跡・観光 | Comments(0)  

三好長慶の本城、芥川山城攻城記。 その1 ~登城道~

今回は大阪府下最大の規模を誇る芥川山城を攻めます。

芥川山城は阿波徳島から攻め上ってきた三好長慶が管領・細川晴元を追い落として入城し、畿内統治の本拠としていた城です。


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登城口近くの「塚脇」というバス停に、芥川山城の案内板や説明板が並んで設置されています。


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こちらの説明板では、「三好長慶が細川晴元を擁して入城」と書かれていますね。

わたしが知るところでは、晴元は長慶に攻められて追い落とされたはずなんですが・・・。


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説明板には、縄張り図が記載されています。


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こちらは「芥川山城復元推定図」とあります。

これはわかりやすい。


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その下には、登城ルートの案内が。

登城ルートは2つあって、大手筋ルート塚脇ルートがありますが、この日は塚脇ルートから登り、大手筋ルートで下山するコースを選択しました。

ちなみに、芥川山城の山は現在、「三好山」と呼ばれています。

その由来が三好長慶であることは、言うまでもないでしょう。


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こちらは摂津峡の案内板。

このあたりは摂津峡と呼ばれる渓谷があり、桜や紅葉の名所として知られています。

この日は桜のシーズンより少し前の平成31年(2019年)3月9日。

桜のシーズンには花見客で賑わう摂津峡公園の駐車場に車を停めて城跡を目指します。


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その摂津峡公園の東側にある売店の横に、登山口につながる道があります。


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ここにも、バス停にあったものと同じ芥川山城復元推定図の看板が。


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売店の横を抜けて細い道を進みます。


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摂津峡の芥川です。


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この木橋を渡ります。

けっこう怖いです。


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3月なのでまだ緑が少ないですが、陽射しは春の陽気で心地いい日でした。


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で、しばらく集落の中を歩いて、城跡南東部の登城口にたどり着きました。

ここが、上述した塚脇ルートの登城口です。


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「三好山へ40分」とあります。


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登山道の脇には、まるで城跡の遺構のような石垣の段が広がりますが、これは、棚田の石垣です。


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古井戸のようです。


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古井戸を過ぎたあたりの登山道に立派な石垣が現れますが、これも、明治以降に築かれたもののようで、城跡の遺構ではありません。


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しばらく進むと、「池・曲輪群」と書かれた看板があります。


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その誘導に従って道脇に足を踏み入れると、たしかに曲輪跡と見られる削平地がいくつもあります。


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削平地には、古い墓石が複数並んでいますが、城とは関係ないのかな?


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池らしき場所がみあたりません。


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さらに進むと、「竪土塁」と書かれた案内板が。


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たしかに、これは立派な竪土塁です。


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竪土塁をすぎると、大きな堀切土橋が現れます。


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城跡らしくなってきました。


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土橋を渡ると、明らかな虎口跡があります。

ここから本格的な城郭の縄張りに突入するのですが、長くなっちゃったので、続きは「その2」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2019-06-29 08:38 | 大阪の史跡・観光 | Comments(0)  

摂津国茨木城跡を歩く。

先日の稿で紹介した高槻城跡から5kmほど南西あたりに、かつて茨木城がありました。

現在、茨木城があったとされる場所は、茨木市の中心地として宅地化されているため、その遺構を確認することはできません。


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茨木城は現茨木小学校付近の小字「本丸」「中土井」付近に中心があったと考えられており、現在、小学校の校門は茨木城の移築櫓門を模したという門が建てられています。


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寛文3年(1663年)に大和国小泉藩2代目藩主の片桐貞昌が、父の片桐貞隆の菩提寺として建立した慈光院(大和郡山市)の山門は、茨木城から移築された櫓門を茅葺きに変更したものと伝えられるそうです。

その門を模して、この茨木小学校の門が建てられました。


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城門の横にある小学校名の名盤は織部焼だそうです。


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片桐氏の家紋「片桐違い鷹の羽」です。


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茨木城の築城時期は定かではなく、一説には建武年間(1334年~1336年)に楠木正成によって築かれたとも言われますが、伝承の域をでません。

確かな史料に確認できるのは、戦国時代に摂津国を代表する国人の茨木氏が拠点としていたことです。

この茨木氏は、摂津守護の細川京兆家の被官でしたが、やがて守護家内部の権力抗争に巻き込まれ、文明14年(1482年)に茨木城は攻撃を受けて、茨木氏は没落しました。

以後、茨木城周辺は、京兆家当主の細川政元、守護代の薬師寺氏らによって支配されていたようですが、永禄11年(1568年)に織田信長が上洛したときの記録によれば、茨木氏は城主として復帰を遂げていました。


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元亀2年(1571年)、足利義昭を支える高槻城主の和田惟政と摂津最大の勢力を誇る国人・池田氏が衝突するなか、茨木氏は和田氏に与し、その戦いのなか、茨木城近くで起きた白井河原の戦いで破れ、滅亡しました。

その後、茨木城には荒木村重の配下についていた中川清秀が入りました。

荒木村重が織田信長に反旗を翻すと、中川清秀は信長に降り、その信長が本能寺の変で横死すると、直後の山崎の戦い羽柴秀吉について功をあげますが、翌年の賤ヶ岳の戦いで戦死ました。


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その後、豊臣政権時代は豊臣家の直轄地だったようですが、秀吉が死に、関ヶ原の戦い後は片桐且元が茨木城主となります。

もっとも、且元は豊臣秀頼の補佐役として大坂城につめていたので、実質的には弟の片桐貞隆が城主だったとも言われます。

その後、且元は周知のとおり、慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件から大坂の陣にかけて豊臣家と徳川家の間で翻弄され、やがて豊臣家と袂を分かつことになります。


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学校の敷地内には城跡を示す顕彰碑が建っていますが、この日は日曜日だっため学校は閉まっており、この角度からの写真しか撮れませんでした。


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裏面は外から撮影できました。

「昭和三年十月建立」とあります。


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付近を歩いてみると、T字路L字路が多く、十字路が少ない。

これも、城下町の名残でしょうか?


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このあたりの住所は「片桐町」です。

茨木城主の片桐氏からきた地名であることは間違いないでしょう。


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茨木小学校の南西にある茨木神社の東門は、かつての茨木城の搦手門を移築したものと伝えられます。


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そのことを説明した看板が設置されていました。


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茨木神社境内にある「黒井の清水」は、豊臣秀吉の茶会に使用された名水と伝わります。


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もう一つ、茨木小学校の北東にある妙徳寺の表門は、かつての茨木城の脇門を移築したものと伝えられます。

現在は幼稚園の入口でもあるようです。


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やがて江戸幕府が発布した一国一城令により、北摂津では高槻城だけが残され、大阪夏の陣の翌年の元和2(1616年)、茨木城は取り壊されました。




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by sakanoueno-kumo | 2019-06-28 01:45 | 大阪の史跡・観光 | Comments(0)  

北摂津、高槻城跡逍遥。

今回は、かつて北摂津にあった高槻城跡を歩きます。

江戸時代、高槻城は北摂津唯一の城郭として重要な役割を果たしていました。


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現在、高槻城の縄張りは市街地化によってその痕跡を見るのは難しくなっていますが、その敷地の一部が城跡公園として整備され、石垣などで演出されています。


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公園の入口に建てられた石碑です。


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その横に設置された説明板


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高槻城の歴史は古く、伝承では永祚2年(990年)に近藤忠範久米路山と呼ばれる小丘に築城したのが始まりとされていますが、史料が乏しく定かではありません。

その後、南北朝時代に入り、天平7年(1352年)の観応の擾乱において足利尊氏方についた入江左近将監春則が、高槻城に入って居城としたと伝わります。


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高槻城が文献に初めて登場するのは、大永7年(1527年)の桂川原の戦い山崎城に詰めていた薬師寺国長波多野稙通に攻められ、高槻城に逃亡した記録です。

その後、天文22年(1553年)には三好長慶が入城した芥川山城の支城となっていたようで、入江春継が城主となっていましたが、永禄11年9月28日(1568年10月28日)、摂津に侵攻してきた織田信長によって芥川山城が落とされると、高槻城も無血開城に近いかたちで降伏しました。


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その翌年の永禄12年(1569)には、足利義明の功臣・和田惟政が信長の命によって高槻城に入り、近代城郭として整備します。

しかし、元亀4年(1573年)にその子・和田惟長と対立した高山友照、高山右近父子が、和田氏を滅ぼして城主となります。


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城跡公園内には、その高山右近像があります。


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右近は後世にキリシタン大名として知られていますよね。


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説明板によると、右近は天正2年(1574年)に高槻城の側に壮大な教会堂を建ててキリスト教の布教に努めたそうで、天正9年(1581年)には、イタリアの巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノを迎えて盛大な復活祭を催しています。

宣教師の記録によれば、領民2万5千人のうち1万8千人がキリスト教徒になったとか。


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しかし、天正15年(1587年)に豊臣秀吉が発した伴天連追放令によって行き場を失った右近は、領地、財産を捨てて諸国を転々としたのち、最終的にはマニラに逃れ、そこで非業の死を遂げたという話はあまりにも有名ですね。


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右近像の横には、天守台を模した空間がありましたが、これは復元ではなく模擬

往時の天守はこの場所からもう少し西にある高校の校舎のあたりにあったと考えられており、三重天守だったといいますから、もっと大きな天守台だったはずです。


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現在の公園は、かつての三ノ丸にあたります。


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公園内にある高槻市民族資料館

江戸時代中期に建築された建物を、ここに移築復元したものだそうです。


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高山右近の12年間の城主時代のあと、高槻城は豊臣家直轄領となり、さらに関ヶ原の戦い後は徳川幕府の直轄地となり、譜代大名が頻繁に交代して城主を務めますが、慶安2年(1649年)に永井直清が城主となると、以後、明治維新まで永井家が13代に渡って城主を務めます。


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その後、明治4年(1871年)の廃藩置県によって廃城となり、翌年には破却されてしまいますが、明治42年(1909年)から昭和20年(1945年)の敗戦までは、大日本帝国陸軍工兵第4連隊がこの地に駐屯していました。

現在、公園内にはそのことを示す石碑が建てられ、かつての営門跡が残されています。


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営門跡は平和のモニュメントだそうです。


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10世紀から20世紀までおよそ1000年ものあいだ、この地は兵の屯所だったということですね。

まさに、兵どもが夢の跡です。




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by sakanoueno-kumo | 2019-06-26 23:00 | 大阪の史跡・観光 | Comments(0)  

犬走りの代表的な城、岸和田城攻城記。 その3 ~二ノ丸~

「その2」のつづきです。

岸和田城大手門の北西には、かつての二ノ丸跡があります。

現在は二の丸広場として市民憩いの公園となっています。


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いまは芝生広場になっていますが、かつてはここに二ノ丸御殿がありました。

さらに昔の中世にまで遡ると、ここ二ノ丸が本丸だったそうです。


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岸和田城の歴史は古く、南北朝時代、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の建武の新政によって摂津国、河内国、和泉国の3ヵ国守護に任ぜられた楠木正成が、甥の和田新兵衛高家を和泉国の代官にし、この地に城を構えさせました。

それが岸和田城の始まりとされていますが、そのときの城は今より少し東にあったとされ、現在、岸和田古城跡として石碑と案内板が設置されています。

参照:太平記を歩く。 その64 「岸和田古城跡」

一説には、このあたりは、かつては「岸」と呼ばれていたのが、和田氏が代官となったことで「岸の和田氏」と呼ばれるようになり、やがてそれが「岸和田」という地名になったのだとか。

その後、和田氏の一族である信濃氏が岸和田に入り、その信濃氏の時代に新たに築かれた城が、現在の二ノ丸を本丸とした城だったと伝わりますが、別の説では、永禄年間(1558~1570年)頃の松浦肥前守、三好義賢らの時代とも言われます。

正確なことはわかっていません。


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二ノ丸公園東隅にはが再建されています。


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入口には「二ノ丸多聞」と書かれていたのですが、なんと中は公衆トイレ


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こちらは、伏見櫓跡


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説明板によると、かつてここには京都の伏見城から移築された伏見櫓があったそうです。

元和9年(1623年)に伏見城が廃城になった際、その建物が全国の主要な城に移築されて「伏見櫓」と名付けられましたが、ここ岸和田城にも移築されたということは、徳川時代になっても岸和田城は重要視されていたことがわかります。

現在、広島県の福山城にも、伏見櫓が残されています(参照:備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」)。


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こちらは二ノ丸公園内に建つ「心技館」という道場。

私が訪れたこの日も、中から剣道の練習をしている様子が聞こえていました。


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公園内にある皆吉爽雨の歌碑。

「城山へかつ天守へと登高す」


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同じく公園内に建つ岸和田の女流歌人・河野繁子の歌碑。

「めぐりつつ登り来りし高殿の俯仰の視野に花あふれたり」


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二ノ丸広場から望む天守です。


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二ノ丸公園西側に残るです。


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向かいに絵図が設置されていました。

二ノ丸を囲う堀は「百聞堀」と書かれています。

中堀にあたるのかな?


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内堀の西側にある駐車場の前に、岸和田藩薬園跡と書かれた説明板が設置されています。

かつてこの場所に岸和田藩第9代藩主・岡部長慎が命じて作らせた薬園があったそうです。


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また、岸和田城は、慶長20年(1615年)の大阪夏の陣の舞台のひとつにもなっています。

そのときの件については、以前の拙稿で紹介していますので、よければ一読ください。

(参照:大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11

最後に、続日本100名城のスタンプです。

やっぱ、スタンプにも犬走りが描かれています。


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by sakanoueno-kumo | 2019-06-22 00:05 | 大阪の史跡・観光 | Comments(0)  

犬走りの代表的な城、岸和田城攻城記。 その2 ~本丸~

「その1」の続きです。

岸和田城内堀北西の土橋を渡って本丸に向かいます。

土橋入口の左右に設置された行灯には、それぞれ「千亀利城」「猪伏山」という文字が書かれています。


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「猪伏山」とは岸和田城が築かれた丘の名称で、「千亀利城」とは岸和田城の別称です。


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大手櫓門は再建です。


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門をくぐると枡形虎口になっており、その隅に石碑が建てられています。


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碑文は漢文で、文末に「正五位勲五等舊臣 土屋弘 謹撰」とあります。

土屋弘とは、旧岸和田藩士の儒学者で、明治維新後は、堺県中属、堺県師範学校長、奈良師範学校長、華族女学校教授、東洋大学教授などを歴任し、教育の振興に尽くした人だそうです。


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内側から見た大手櫓門。


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大手門から本丸まではスロープ状の道になっていましたが、おそらく往時はこんなコースはなかったのでしょう。


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スロープの途中には、「岡部氏紀年碑」と刻まれた大きな石碑があります。

岡部氏とは、岡部宣勝を初代として明治維新まで13代続いた岸和田藩主の岡部氏のことです。


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本丸に来ました。

眼の前に美しい天守がそびえます。


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前稿でも述べたとおり、岸和田城を近世城郭として整備したのは、豊臣秀吉の叔父に当たる小出秀政でした。

そのとき築かれた天守は5層の大天守でした。


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ところが、その大天守は文政10年(1827年)11月20日の落雷によって焼失し、その後、幕府に復興願いを届出済みで、それによると3層の天守、2層の小天守とありますが、結局は再建されませんでした。

江戸時代後期には、もう天守など再建する必要はなかったのでしょう。

お金も掛かるし。


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現在の天守は、昭和29年(1954年)に市民の寄付や旧城主の子孫である岡部氏の要望などによって鉄筋コンクリートで再建されたものです。

もっとも、予算の都合で5層天守ではなく3層となりました。

なので、復元天守ではなく、史料に基づかない模擬天守です。


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でも、見ようによっては、落雷の焼失後に幕府に再建を願い出た3層の天守、2層の小天守の設計ともとれます。

江戸時代の再建計画が昭和になってやっと実現したといえるかもしれません。


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それでは、天守の中に入りましょう。


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天守の中は、おおかたの復元天守と同じく、岸和田藩にまつわる史料館となっています。


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岸和田城の縄張り模型が展示されています。

これは堅固です。


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最上階の展望台からの南西側の眺望です。

向こうに見える山脈を越えると、紀伊国(現在の和歌山県)です。


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こちらは反対側の北西の眺望。

向こうに大阪湾が見えます。


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展望台から本丸を見下ろすと、変わったデザインの庭が見えます。

この庭は「八陣の庭」といい、庭園設計の第一人者、重森三玲氏によって設計監督されたもので、室町時代以前の城郭平面図をもとに地取し、諸葛孔明八陣法をテーマに作庭されたものだそうです。

真ん中の巨石が大将で、周囲に天、地、龍、虎、風、雲、鳥、蛇が布陣されているそうです。

なぜ、岸和田城の庭に諸葛孔明なのかは不明。


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さて、天守まで制覇しましたが、次回、もう一回だけシリーズ続けます。

「その3」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-06-21 00:36 | 大阪の史跡・観光 | Comments(0)