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カテゴリ:大阪の史跡・観光( 19 )

 

明治維新を血に染めた堺事件。 その2 「妙國寺・土佐十一烈士之墓」

「その1」で紹介した堺事件発祥の地碑から1kmほど西にある妙國寺で、くじ引きで決められた20人の土佐藩士が切腹することになりました。

現在、その境内には、切腹して果てた土佐藩士と、堺事件死亡したフランス水兵たちの供養塔が建てられています。


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事件から8日後の慶応4年2月23日(1868年3月16日)、ここ妙國寺の本堂庭前でフランス水兵に向けて発砲した土佐藩士の切腹が行われました。

急に降り出したのせいで2時間ほど執行が遅れましたが、居並ぶフランス関係者と日本側の立会いの元、順番に切腹が始まります。


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最初に切腹したのは、六番隊警備隊長の箕浦元章(猪之吉)

箕浦はみごとに横一文字に腹を切り裂くも、介錯人の切り込みが浅く、3度目の刃でようやく首が落とされたといいます。

一説には、箕浦は腹を切り裂いた直後、腹部に手を入れて自らの腸を取り出し、目の前で検分するフランス人に差し出して大喝したという話も残ります。

これが本当なら、介錯人が仕損じた理由もうなずけます。

その後も箕浦に続けとばかりに、深く切り裂いた口から内臓が外に飛び出すなど、凄まじいシーンの連続だったといいます。

そのあまりの凄惨さに、立ち会っていたフランス軍艦長アベル・デュプティ=トゥアールが恐れおののき、11人が切腹したところで、切腹に立ち会っていた外国局判事・五代友厚(才助)中止を要請し、ここで打ち切りとなりました。

偶然だったのかどうか、奇しくも事件で死亡したフランス水兵と同じ11人が切腹したことになります。

結果として、喧嘩両成敗、両者痛み分けという着地点になったわけですね。


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こちらが境内にある供養塔です。


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真ん中の碑には「南妙法蓮華経」、左の石碑には「土佐藩十一烈士之英霊」、そして右側の石碑には「佛国遭難将兵慰霊碑」と刻まれています。

これらは事件から50年後の大正5年(1916年)に建てられたものです。


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真ん中の碑の台には、切腹した11人の名前が刻まれています。


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フランス水兵の慰霊碑には、Themonument of the French martyrs(フランスの殉教者の記念碑)」と刻まれています。


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切腹した11人の亡骸は、妙國寺の向かいの宝珠院に葬られています。


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現在、宝珠院は幼稚園を兼ねており、わたしが訪れた土曜日は休日で、中には入れませんでした。

堺市のホームページによると、中に見える巨木の下に、11人の墓石が並んでいるそうです。


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宝珠院の前にある石碑です。


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一方、生き残った9人死ぬ覚悟だっただけに、突然の中止に納得がいかず、「死者の家族に合わす顔がない。この期に及んで死を免じられることは志士の恥じることとなる。」として、潔く腹を切ることを望んだといいます。

しかし、五代友厚は「フランス側がこれ以上の切腹を望まない以上、無駄に死ぬ必要はない」として、これを許しませんでした。

結局9人は、熊本、広島両藩預かりとなったのち、土佐に帰されました。


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その後、11人の墓標には多くの市民が詰めかけ「ご残念様」と参詣し、生き残った9人は「ご命運様」と呼ばれ、死体を入れるはずであった大甕に入って幸運にあやかる者が絶えなかったといいます。

周辺に残る石碑や道標が、参拝者が絶えなかった往時の様子をしのばせています。


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先日の稿で紹介した神戸事件と、この堺事件が、世界に日本の「ハラキリ」を広めるきっかけとなりました。

明治新政府最初の外交問題は、血まみれの決着となりました。




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by sakanoueno-kumo | 2019-12-14 00:57 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

明治維新を血に染めた堺事件。 その1 「堺事件発祥の地碑」

新政府軍と旧幕府軍が衝突した鳥羽伏見の戦いが終結した直後の慶応4年2月15日(1868年3月8日)、泉州・堺において、無断上陸したフランス兵と堺の治安を預かる土佐藩士衝突する事件が発生しました。

退去を要求するも聞き入れられず、ついには銃撃戦に発展。

フランス側に22人の死傷者を出す結果となりました。

後世に「堺事件」として知られる事件です。

折しもこの1ヶ月ほど前、神戸で同じような事件が起き(神戸事件)、この6日前にその当事者が切腹したばかりでした。


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現在、堺事件が起きた旧堺港跡には、事件を伝えるバカでかい石碑が建てられています。


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事の発端は15日昼ごろ、大坂から政府の許可なしで陸路、堺に入ろうとしたフランス兵を土佐藩士が大和川に架かる大和橋で阻止したことにはじまります。

このとき、一旦フランス兵は抵抗せずに引き返しますが、午後3時ごろ、今度は海路から堺港に入ったフランス兵が、無断上陸して市内をうろついていました。

夕刻、近隣住民の苦情を受けた六番隊警備隊長の箕浦元章(猪之吉)と八番隊警備隊長の西村氏同(佐平次)らは、艦に戻るように説得を試みるも言葉が通じず、やむなく土佐藩兵はフランス水兵を捕縛しようとしました。

土佐藩兵とフランス水兵は小競り合いとなり、そのうちフランス水兵が土佐藩の隊旗を奪って逃走しようとしたため、焦った土佐藩の箕浦はとっさに発砲、双方銃撃戦となります。

結局、このとき死亡したフランス水兵は11人で、射殺のほか溺死者もおり、負傷者も入れると22人にものぼりました。

いずれも20代の若者だったといいます。

なお詳細な原因は話者ごとに食い違っており、フランス側は何もしないのに突如銃撃を受けたと主張しています。


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こちらの小さな石碑には、「明治初年仏人撃攘之処」と彫られています。


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この事件を重く見た在日フランス公使のレオン・ロッシュは、土佐藩に遺族への賠償金として15万ドル(7、8億円相当)の支払いや、発砲にかかわった全員の処刑を求めてきました。

これを受けた土佐藩前藩主の山内容堂は、たまたま京の土佐藩邸に滞在していた英公使館員アルジャーノン・ミットフォードに、藩士の処罰の意向をロッシュに伝えるように依頼しました。

この指示を受けた土佐藩上層部が事情を聴取したところ、29人の藩士「発泡した」と供述しました。

しかし、朝廷の岩倉具視、三条実美らは、フランスの要求には無理難題が多く隊士すべてを処罰すると国内世論が攘夷に沸騰する事を懸念し、処罰される者の数を減らすように要求します。

そこで、外国局判事・五代友厚(才助)らがフランス側と交渉し、隊士全員を処罰せず隊長以下20人切腹することが決まります。


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この20人の決め方ですが、箕浦元章(猪之吉)と西村氏同(佐平次)の隊長2人と小頭2人の計4人はすでに死罪が決まっていましたが、あとの16人は、なんとなんと、稲荷神社のくじ引きで決めることになったそうです。

生死をくじ引きで決めたっていうんですから、びっくりですね。

この時代の武士たちにとって、命は軽いものだったんですね。

もっとも、裁く側も裁かれる側も、納得していない処刑ですから、ある意味、くじ引きで決めたほうが恨みっこなしだったかもしれません。

藩も政府も、できれば助けてやりたい、でも助けられない。

なら、くじ引きが一番公平だったといえるかもしれませんね。


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こうして選ばれた20人は、2月23日、事件現場近くの妙國寺で切腹することに決まりました。

つづきは「その2」にて。


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ちなみに、この「堺事件発祥の地碑」の隣には、幕末の尊皇攘夷集団・天誅組に関する石碑が並びます。

この碑については、以前の当ブログ「天誅組の足跡を訪ねて」の稿で紹介していますので、よければ一読ください。




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by sakanoueno-kumo | 2019-12-13 01:01 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

緒方洪庵の適塾をたずねて。 <後編>

<前編>の続きです。

建物内はひととおり見学したので、建物の外を歩いてみましょう。


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説明板によると、表屋の建物は寛政4年(1792年)の北浜大火後まもなくの建築と考えられ、元は町筋に面する商家の形であったようですが、その後、弘化2年(1845年)に緒方洪庵が買い上げた際に若干の改造が行われたと見られています。


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建物の東側に、庭のような空間があります。


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入口の看板。

文字が消えて読めない(笑)。


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庭というか、公園ですね。


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近代的なビルに囲まれ、今も残る町家風のたたずまい。

不思議な空間ですね。


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第二次世界大戦中の昭和17年(1942年)にこの建物は国に寄付されることになり、現在は大阪大学が所有、管理しています。

洪庵の子息や適塾門下生によって明治初期に設立された大阪仮病院大阪医学校が、やがて大阪帝国大学となり、現在の大阪大学医学部につながっているからだそうです。


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障子窓が開いているところが、前編で紹介した塾生大部屋です。


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続いて建物西側にやってきました。


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西側は広い公園になっていて、緒方洪庵の銅像が座しています。


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緒方洪庵は文化7年7月14日(1810年8月13日)、備中足守(岡山市足守)藩士・佐伯惟因(瀬左衛門)の三男として生まれました。

17歳のときに大坂に出て中天游の私塾「思々斎塾」に学び、21歳で江戸に出て坪井信道、宇田川玄真らに学ぶと、さらに26歳で長崎へ遊学して医学、蘭学を学び、29歳のときに大坂に帰って医業を開業しました。

このとき、同時に適塾を開きます。

同年、天游門下の先輩・億川百記の娘・八重と結婚し、のち6男7女をもうけました。

その後、医師として種痘の普及や天然痘の予防などに尽力し、日本における西洋医学の基礎を築くとともに、教育者としては、福沢諭吉大村益次郎など幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く育てました。


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人柄は温厚篤実を絵に描いたような人物だったようで、福沢諭吉曰く「誠に類い稀れなる高徳の君子なり」と評しています。


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故・司馬遼太郎氏が小学校の国語教科書用に書いた『洪庵のたいまつ』の冒頭で、司馬氏は洪庵について次のように語っています。


世のためにつくした人の一生ほど、美しいものはない。

ここでは、特に美しい生涯を送った人について語りたい。

緒方洪庵のことである。

この人は、江戸末期に生まれた。

医者であった。

かれは、名を求めず、利を求めなかった。

あふれるほどの実力がありながら、しかも他人のために生き続けた。

そういう生涯は、はるかな山河のように、実に美しく思えるのである。

(『洪庵のたいまつ』より)


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また、司馬氏の小説『花神』では、こうも言っています。


なぜ洪庵が医者を志したかというと、その動機はかれの十二歳のとき、備中の地にコレラがすさまじい勢いで流行し、人がうそのようにころころと死んだ。

洪庵を可愛がってくれた西どなりの家族は、四日のうちに五人とも死んだ。

当時の漢方医術はこれをふせぐことも治療することにも無能だった。

洪庵はこの惨状をみてぜひ医者になってすくおうと志したという。

その動機が栄達志願ではなく、人間愛によるものであったという点、この当時の日本の精神風土から考えると、ちょっとめずらしい。

洪庵は無欲で、人に対しては底抜けにやさしい人柄だった。

適塾をひらいてからも、ついに門生の前で顔色を変えたり、怒ったりしたことがなく、門生に非があればじゅんじゅんとさとした。

「まことにたぐいまれなる高徳の君子」と、その門人のひとりの福沢諭吉が書いているように。

洪庵はうまれついての親切者で、「医師というものは、とびきりの親切者以外は、なるべきしごとではない」と、平素門人に語っていた。

(『花神』より)


司馬さんはよほど洪庵に惚れ込んでいたようですね。


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ここ適塾で学んだ門下生たちが、のちに医学、兵事、政治など各方面で活躍し、そしてそれが現在の私たちの生活につながっています。

まさに、洪庵のたいまつはつながっているんですね。

先述した司馬氏の『洪庵のたいまつ』の文末は、こう結んでいます。


洪庵は、自分の恩師たちから引き継いだたいまつの火を、よりいっそう大きくした人であった。

かれの偉大さは、自分の火を、弟子たちの一人一人に移し続けたことである。

弟子たちのたいまつの火は、後にそれぞれの分野であかあかとかがやいた。

やがてはその火の群が、日本の近代を照らす大きな明かりになったのである。

後生のわたしたちは、洪庵に感謝しなければならない。

(『洪庵のたいまつ』より)


ここ適塾は、近代日本のたいまつ発祥の地といえるかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2019-09-15 07:53 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

緒方洪庵の適塾をたずねて。 <前編>

大阪市内のオフィス街のど真ん中に、緒方洪庵が開いた適塾(適々斎塾)の建物が残されています。

緒方洪庵は、幕末における洋楽研究の第一人者として仰がれた医師、蘭学者で、「日本の近代医学の祖」と呼ばれる人物です。

洪庵は、天保9年(1838年)から文久2年(1862年)までの25年間、大阪・船場で塾を開き、幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く育てました。


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この建物は、弘化2年(1845年)に洪庵が町家を買い受け、適塾を拡張したときのものです。


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間口は約12mしかありませんが、奥行きは約40mあり、敷地面積は464㎡あり、木造2階建の建面積は285㎡、延床面積は417㎡あります。


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正面には昭和16年(1941年)に建てられた石碑があります。


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入口横の説明板です。


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玄関を入ってすぐの土間に、平面図が書かれた行灯看板があります。


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それでは、建物の中を見てまわりましょう。


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1階は主に教室に使われた表屋と、洪庵とその家族の住まいとなっていた主屋に分かれます。

教室は2部屋あります。


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教室の奥には、中庭があります。

この中庭より奥が、洪庵の居住スペースとなります。


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書斎です。

六畳間です。


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手前が八畳の応接間で、奥が十畳半+床の間の客座敷です。


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客座敷です。

奥に庭が見えます。


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前栽(庭)です。


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こちらは、客座敷の隣にある家族部屋です。

七畳ありますが、洪庵は6男7女の子供がいました。

まさか、ここで全員寝てたわけではないですよね。


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そして台所


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ここで塾生たちの飯を炊いていたのでしょう。


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台所の天井です。

煤けていますね。

150年以上前の煤でしょうか?


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台所から2階へ上がる階段があります。

この急な角度、階段というより梯子のようです。

でも、昭和の時代も、古い家屋はみな、こんな急な階段でしたよね。


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2階へやってきました。

上ってすぐにあるのは、女中部屋です。


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そしてこの六畳間は、ヅーフ部屋と呼ばれる部屋です。

その名称の由来は、塾生たちが使用したヅーフ辞書(長崎出島のオランダ商館長ヅーフが作成した蘭和辞書)だそうです。

適塾の教育システムの中心は蘭書の会読だったといいますが、その予習のために塾生たちはこのヅーフ辞書を使ったそうですが、当時、極めて貴重だったこの辞書は適塾にも一冊しかなく、塾生はヅーフ辞書が置かれていたこの部屋につめかけて奪い合って使用したといいます。


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そして、その奥にある大広間が、塾生大部屋です。


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洪庵は医学者でしたが、適塾門下生からは、医学のみならず様々な方面で活躍する人物が出ました。

もとは医学者でありながら、やがて幕末の政治活動に身を捧げて死んでいった橋本左内や、同じく医学者から兵学者に転身して維新十傑の一人となった大村益次郎、維新後、慶応義塾大学を創設した福沢諭吉、同じく維新後、内務省の初代衛生局長となった長與專齋などがいました。


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また、戊辰戦争で新政府軍に抗い、あの五稜郭に立て籠った大鳥圭介高松凌雲も適塾門下生で、大鳥はのちに明治の外交で活躍し、高松は五稜郭の戦いで箱館病院を開院し、敵味方を問わずに傷病兵を助けるという我が国最初の赤十字博愛精神を実践した人物で、これがやがて日本赤十字を生むことになり、その初代総裁には、同じく適塾門下生だった佐野常民が就きました。

まさに、幕末維新の錚々たるメンバーがここから巣立ったんですね。


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この大部屋で、門下生たちは寝泊まりしていました。

塾生1人一畳が使えましたが、毎月、成績のいい者から好きな場所を選べたようです。

出入口付近はみんなに踏まれて最悪だったとか。

福沢諭吉なんかは、きっと常にいい場所を確保していたんでしょうね。

福沢諭吉は後年、適塾時代を振り返り、「およそ勉強ということについては、このうえにしようもないほど勉強した」と述懐しています。

その理由は、向上心よりも、場所取りだったかも(笑)。


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大部屋中央の柱には、塾生がつけたと伝わる刀傷が無数に残っています。

秀才ぞろいの適塾でしたが、やはり武士の若者たちですから、血の気の多いやつもたくさんいたんでしょうね。


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さて、ひととおり建物内を見て回りましたが、次回、建物の外を歩きます。

<後編>に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-09-13 23:27 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

三好長慶の本城、芥川山城攻城記。 その4 ~北出丸・南出丸~

「その3」で主郭まで攻略しましたが、続いて、主郭北西にある曲輪に向かいます。


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主郭北西にある細い道を下ります。


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主郭北側の一段下がったところにも、曲輪跡と見られる削平地があります。


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その周囲は、立派な土塁跡で囲われています。


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更にその北西にある曲輪に向かいます。

細い喰違虎口となっています。


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虎口を抜けて下ったところに、堀切土橋があります。


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土橋です。


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そして堀切です。


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土橋を渡ると、東西に長い削平地に出ます。


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縄張り図によると、「西郭」とか「北出丸」とか名称は様々ですが、要は主郭北西にある曲輪です。


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反対側(北西側)からみた北出丸です。


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で、一旦主郭に戻って、今度は主郭南西の曲輪に向かいます。


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ここが、南西にある曲輪。


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表示板には「田ノ丸」と書かれていますが、縄張り図には、「南郭」とか「南出丸」といった名称で紹介されています。


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ここは、北出丸のように樹木が伐採されていないため、それほど広さを感じませんが、縄張り図によると、北出丸と同じぐらいの広さがあるようです。


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さて、だいたいの曲輪は攻略したので、「その3」で紹介した主郭曲輪群と第2曲輪の間の分岐点に戻り、そこから今度は大手筋で下山することにしました。


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50mほど下山したところに、石垣の遺構が残っています。


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残念ながら中央が崩れてしまって両端のみかろうじてその姿を残していますが、かつては一列につながった立派な石垣の壁だったのでしょうね。


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崩れた部分の下には、石垣に使用されていたのであろう巨石が散乱しています。


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「その2」でもふれたとおり、この石垣は三好長慶の時代の石垣と考えられています。

日本の城郭建築に本格的に石垣が使用されるようになるのは、近世城郭に先駆けとなった織田信長安土城の築城以降と言われていますから、三好長慶の時代のものとすれば、当時とすれば、たいへん珍しいものだったに違いありません。


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大手筋を登ってきたら、目の前にドーンと石垣の城壁が現れる。

当時の近隣の武士たちは、この石垣に圧倒され、三好長慶に屈していったのかもしれません。


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その石垣の前の高い木が、軒並み大きく撓ってお辞儀していました。


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これも、おそらく平成30年(2018年)9月4日に上陸した台風21号による被害でしょうね。

これほどの大樹が弓のように撓っている姿は、なかなか異様な光景でした。


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さて、石垣を後にして下山しましょう。


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天文22年(1553年)から7年間に渡って、ここ芥川山城を本拠としていた三好長慶でしたが、永禄3年(1560年)に近くの河内飯盛山城(参照:飯盛山城)に居を移し、芥川山城には嫡男の三好義興を据えました。

しかし、3年後の永禄6年(1563年)に義興は22歳の若さで急逝

すると、あとを追うように長慶も永禄7年(1564年)に飯盛山城で没します。


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その後、芥川山城はしばらく歴史の記録から姿を消しますが、永禄11年(1568年)に織田信長が摂津に侵攻すると、この城に立て籠もった三好長逸らを追い落とし、信長配下の和田惟政を入城させます。

しかし、その和田惟政も翌年には高槻城(参照:高槻城)に移り、代わって重臣の高山友照が城主となりますが、天正元年(1573年)に高山友照の子・高山右近が和田氏を追放して高槻城主となったため、このとき、芥川山城は廃城になったのではないかと考えられています。


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と、歴史の話をしている間に、大手筋の登り口まで降りてきました。

石垣がありますが、これは明治以降の築かれたものだそうで、城跡とは関係ありません。


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麓から三好山を見上げます。

三好長慶によって畿内の覇者となった三好氏でしたが、長慶の死後は衰退の一途を辿ります。

栄枯盛衰は世の習い。

最後に、続日本100名城のスタンプを載せます。

スタンプを押したのは、この日より1年近く前でした。

大手石垣が描かれていますね。


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by sakanoueno-kumo | 2019-07-06 11:28 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

三好長慶の本城、芥川山城攻城記。 その3 ~主郭~

「その2」の続きです。

二之郭の北の細い道を西に進むと、急に視界が開けた場所に出ます。


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そこには、芥川山城跡ではなく「城山城跡」と刻まれた小さな石碑があります。


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石碑の脇には、南へ下る道があります。

どうやらこの道が大手道のようです。

ここが、大手筋ルート塚脇ルートの交差点になっているようです。


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石碑を過ぎると、主郭と二之郭を結ぶ細長い帯曲輪となっています。


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主郭虎口

細い喰違虎口となっています。


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主郭部に登ってきました。

主郭は三段構造になっており、それぞれの名称はわかりませんが、一番下の段の曲輪を主郭南展望曲輪とでも呼びましょうか。


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展望曲輪からの南側の眺望です。


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遠くにあべのハルカスが見えます。


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こちらは、三好長慶が永禄3年(1560年)に芥川山城から移り住んだ河内飯盛山城のある飯盛山(参照:河内飯盛山城跡)。

ここ芥川山城跡とともに続日本100名城に選ばれています。


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展望曲輪から北を振り返ると、主郭が見えます。


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展望曲輪から主郭に登る虎口。

ここも喰違虎口となっています。


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登ってきました。

ここは主郭下段とでも名付けましょう。


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「桜広場」と書かれた看板があります。

ここを訪れたのは令和になる少し前の平成31年(2019年)3月9日。

桜の季節には少し早かった。


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主郭下段の北側には、いよいよ主郭があります。


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で、主郭に登ってきたのですが、いきなり視界に飛び込んできたのは、傾いた巨木


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そして、根こそぎ横倒しになった巨木もあります。


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「その2」の二之郭でもふれましたが、前年の平成30年(2018年)9月4日に上陸した台風21号で、大阪は各地でたいへんな被害を受けたのですが、おそらく、これはそのときの被害だと思われます。


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それにしても酷い。


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横にある祠は三好長慶を祀ったものだそうです。


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芥川山城の始まりは、戦国時代の永正年間(1504~1523年)に室町幕府の管領・細川高国が築いたとされています。

『瓦林政頼記』によると、「芥川ノ北ニ当リ、可然大山ノ有ケルヲ城郭ニソ構ヘ」と伝え、その普請は、「昼夜朝暮五百人、三百人ノ人夫、普請更ニ止時ナシ」と記されています。

かなり大規模な工事だったことがわかります。


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細川高国は室町幕府の政治をほしいままにしていた人物ですが、しかし、大永6年(1526年)に細川晴元高国打倒の兵を挙げると、享禄4年(1531年)に滅ぼされ、その後、天文2年(1533年)には代わって細川晴元が入城。

管領に就任して政権を掌握しました。


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しかし、それも長くは続かず、天文8年(1539年)には家臣の三好長慶によって晴元は京を追われ、以降、長慶は畿内で勢力を伸ばし、天文16年(1547年)には芥川山城も長慶の手に落ちました。


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長慶ははじめ、従兄弟の芥川孫十郎を城主にしますが、天文22年(1553年)、孫十郎に謀反の疑いありと判断した長慶は、孫十郎を退去させ、その後、自身が入城。

この城を畿内統治の本拠とすると、摂津を中心として山城、丹波、和泉、阿波、淡路、讃岐、播磨にまで勢力圏を拡大していきます。

畿内一円を支配した長慶による政権を、その拠点となったここ芥川山城にちなんで、「芥川政権」と呼ぶこともあります。


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山麓にあったものと同じ推定復元図の看板があります。

主郭には御殿が描かれていますが、発掘調査礎石等が発見されたそうで、御殿のような立派な建物があったことは確認されているそうです。


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主郭からの南の眺望です。


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標高183mの主郭での昼食はコンビニ弁当です(笑)。


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さて、主郭まで攻めてきましたが、まだ、全て攻略できていません。

「その4」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-07-05 00:10 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

三好長慶の本城、芥川山城攻城記。 その2 ~第2曲輪・東出丸~

「その1」の続きです。

芥川山城を登り始めて約30分、切通し虎口があります。

縄張り図によると、ここを抜けると第2曲輪となっています。


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「切通し」とは、丘などの土を掘削して造った道のこと。


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石垣の名残でしょうか?

虎口の脇には大きな石がゴロゴロ散在しています。


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虎口を過ぎると、左側(南側)が一段高くなっています。

縄張り図によると、「第2曲輪」「二之郭」「東出丸」などの名称で書かれていますが、まあ、とにかく登ってみましょう。


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曲輪の上に登ってきました。

登城前にネットで予習してきた際には、広い削平地だったはずなんですが、来てみると、大木が何本も根こそぎ倒れていて、散々に荒れ果てていました。


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わたしがここを訪れたのは、令和になる少し前の平成31年(2019年)3月9日。

この前年の平成30年(2018年)9月4日に上陸した台風21号で、大阪は各地でたいへんな被害を受けたのですが、おそらく、これはそのときの被害だと思われます。


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それにしても、酷いですね。

こんな大木が根っこから倒れるって、いったいどんだけ強い風だったのでしょう。


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九州や沖縄の方々と違って、関西はあまり大きな台風が上陸することはありませんでしたから、実際わたしも、あのときは初めて台風が怖いと思いました。


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曲輪の周囲は土塁で囲われています。


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その土塁のどこかの一角から降りたところに石垣の遺構があるはずなんですが、大木が倒れて視界が遮られている上に足元も悪く、なかなか見つけられません。


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下へ降りていけそうな土塁の切れ目をみつけました。

降りてみましょう。


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ありました。

見事な石垣の遺構です。


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苦労して見つけただけに、感動もひとしおです。


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芥川山城の始まりは、戦国時代の永正年間(1504~1523年)に室町幕府の管領・細川高国が築いたとされていますが、この石垣の遺構は、おそらく天正22年(1553年)に入城した三好長慶の時代のものと思われます。

しかし、それも定かではなく、専門家の見方では、この石垣は戦国時代の技術ではあり得ない組み方をしているそうで、現在でも議論になっているそうです。

ただ、三好長慶が永禄3年(1560年)にこの城から移り住んだ近くの河内飯盛山城でも同じ技術の石垣があるそうで(参照:河内飯盛山城)、そう考えれば、やはり三好長慶の時代の石垣と考えていいのかもしれません。


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日本で最初の石垣の城は近江の観音寺城(参照:観音寺城)と言われていますが、本格的に石垣の城が普及するのは、天正4年(1576年)に築かれた織田信長安土城からと言われています。

その20年近く前に、実は三好長慶がここに石垣の城を築いていた・・・。

そう考えながらこの石垣を見ると、なんだかロマンを感じます。


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さて、石垣を堪能したので、主郭に向かって進みましょう。

「その3」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-07-04 11:54 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

三好長慶の本城、芥川山城攻城記。 その1 ~登城道~

今回は大阪府下最大の規模を誇る芥川山城を攻めます。

芥川山城は阿波徳島から攻め上ってきた三好長慶が管領・細川晴元を追い落として入城し、畿内統治の本拠としていた城です。


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登城口近くの「塚脇」というバス停に、芥川山城の案内板や説明板が並んで設置されています。


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こちらの説明板では、「三好長慶が細川晴元を擁して入城」と書かれていますね。

わたしが知るところでは、晴元は長慶に攻められて追い落とされたはずなんですが・・・。


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説明板には、縄張り図が記載されています。


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こちらは「芥川山城復元推定図」とあります。

これはわかりやすい。


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その下には、登城ルートの案内が。

登城ルートは2つあって、大手筋ルート塚脇ルートがありますが、この日は塚脇ルートから登り、大手筋ルートで下山するコースを選択しました。

ちなみに、芥川山城の山は現在、「三好山」と呼ばれています。

その由来が三好長慶であることは、言うまでもないでしょう。


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こちらは摂津峡の案内板。

このあたりは摂津峡と呼ばれる渓谷があり、桜や紅葉の名所として知られています。

この日は桜のシーズンより少し前の平成31年(2019年)3月9日。

桜のシーズンには花見客で賑わう摂津峡公園の駐車場に車を停めて城跡を目指します。


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その摂津峡公園の東側にある売店の横に、登山口につながる道があります。


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ここにも、バス停にあったものと同じ芥川山城復元推定図の看板が。


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売店の横を抜けて細い道を進みます。


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摂津峡の芥川です。


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この木橋を渡ります。

けっこう怖いです。


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3月なのでまだ緑が少ないですが、陽射しは春の陽気で心地いい日でした。


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で、しばらく集落の中を歩いて、城跡南東部の登城口にたどり着きました。

ここが、上述した塚脇ルートの登城口です。


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「三好山へ40分」とあります。


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登山道の脇には、まるで城跡の遺構のような石垣の段が広がりますが、これは、棚田の石垣です。


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古井戸のようです。


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古井戸を過ぎたあたりの登山道に立派な石垣が現れますが、これも、明治以降に築かれたもののようで、城跡の遺構ではありません。


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しばらく進むと、「池・曲輪群」と書かれた看板があります。


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その誘導に従って道脇に足を踏み入れると、たしかに曲輪跡と見られる削平地がいくつもあります。


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削平地には、古い墓石が複数並んでいますが、城とは関係ないのかな?


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池らしき場所がみあたりません。


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さらに進むと、「竪土塁」と書かれた案内板が。


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たしかに、これは立派な竪土塁です。


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竪土塁をすぎると、大きな堀切土橋が現れます。


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城跡らしくなってきました。


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土橋を渡ると、明らかな虎口跡があります。

ここから本格的な城郭の縄張りに突入するのですが、長くなっちゃったので、続きは「その2」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2019-06-29 08:38 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

摂津国茨木城跡を歩く。

先日の稿で紹介した高槻城跡から5kmほど南西あたりに、かつて茨木城がありました。

現在、茨木城があったとされる場所は、茨木市の中心地として宅地化されているため、その遺構を確認することはできません。


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茨木城は現茨木小学校付近の小字「本丸」「中土井」付近に中心があったと考えられており、現在、小学校の校門は茨木城の移築櫓門を模したという門が建てられています。


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寛文3年(1663年)に大和国小泉藩2代目藩主の片桐貞昌が、父の片桐貞隆の菩提寺として建立した慈光院(大和郡山市)の山門は、茨木城から移築された櫓門を茅葺きに変更したものと伝えられるそうです。

その門を模して、この茨木小学校の門が建てられました。


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城門の横にある小学校名の名盤は織部焼だそうです。


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片桐氏の家紋「片桐違い鷹の羽」です。


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茨木城の築城時期は定かではなく、一説には建武年間(1334年~1336年)に楠木正成によって築かれたとも言われますが、伝承の域をでません。

確かな史料に確認できるのは、戦国時代に摂津国を代表する国人の茨木氏が拠点としていたことです。

この茨木氏は、摂津守護の細川京兆家の被官でしたが、やがて守護家内部の権力抗争に巻き込まれ、文明14年(1482年)に茨木城は攻撃を受けて、茨木氏は没落しました。

以後、茨木城周辺は、京兆家当主の細川政元、守護代の薬師寺氏らによって支配されていたようですが、永禄11年(1568年)に織田信長が上洛したときの記録によれば、茨木氏は城主として復帰を遂げていました。


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元亀2年(1571年)、足利義昭を支える高槻城主の和田惟政と摂津最大の勢力を誇る国人・池田氏が衝突するなか、茨木氏は和田氏に与し、その戦いのなか、茨木城近くで起きた白井河原の戦いで破れ、滅亡しました。

その後、茨木城には荒木村重の配下についていた中川清秀が入りました。

荒木村重が織田信長に反旗を翻すと、中川清秀は信長に降り、その信長が本能寺の変で横死すると、直後の山崎の戦い羽柴秀吉について功をあげますが、翌年の賤ヶ岳の戦いで戦死ました。


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その後、豊臣政権時代は豊臣家の直轄地だったようですが、秀吉が死に、関ヶ原の戦い後は片桐且元が茨木城主となります。

もっとも、且元は豊臣秀頼の補佐役として大坂城につめていたので、実質的には弟の片桐貞隆が城主だったとも言われます。

その後、且元は周知のとおり、慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件から大坂の陣にかけて豊臣家と徳川家の間で翻弄され、やがて豊臣家と袂を分かつことになります。


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学校の敷地内には城跡を示す顕彰碑が建っていますが、この日は日曜日だっため学校は閉まっており、この角度からの写真しか撮れませんでした。


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裏面は外から撮影できました。

「昭和三年十月建立」とあります。


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付近を歩いてみると、T字路L字路が多く、十字路が少ない。

これも、城下町の名残でしょうか?


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このあたりの住所は「片桐町」です。

茨木城主の片桐氏からきた地名であることは間違いないでしょう。


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茨木小学校の南西にある茨木神社の東門は、かつての茨木城の搦手門を移築したものと伝えられます。


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そのことを説明した看板が設置されていました。


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茨木神社境内にある「黒井の清水」は、豊臣秀吉の茶会に使用された名水と伝わります。


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もう一つ、茨木小学校の北東にある妙徳寺の表門は、かつての茨木城の脇門を移築したものと伝えられます。

現在は幼稚園の入口でもあるようです。


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やがて江戸幕府が発布した一国一城令により、北摂津では高槻城だけが残され、大阪夏の陣の翌年の元和2(1616年)、茨木城は取り壊されました。




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by sakanoueno-kumo | 2019-06-28 01:45 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

北摂津、高槻城跡逍遥。

今回は、かつて北摂津にあった高槻城跡を歩きます。

江戸時代、高槻城は北摂津唯一の城郭として重要な役割を果たしていました。


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現在、高槻城の縄張りは市街地化によってその痕跡を見るのは難しくなっていますが、その敷地の一部が城跡公園として整備され、石垣などで演出されています。


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公園の入口に建てられた石碑です。


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その横に設置された説明板


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高槻城の歴史は古く、伝承では永祚2年(990年)に近藤忠範久米路山と呼ばれる小丘に築城したのが始まりとされていますが、史料が乏しく定かではありません。

その後、南北朝時代に入り、天平7年(1352年)の観応の擾乱において足利尊氏方についた入江左近将監春則が、高槻城に入って居城としたと伝わります。


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高槻城が文献に初めて登場するのは、大永7年(1527年)の桂川原の戦い山崎城に詰めていた薬師寺国長波多野稙通に攻められ、高槻城に逃亡した記録です。

その後、天文22年(1553年)には三好長慶が入城した芥川山城の支城となっていたようで、入江春継が城主となっていましたが、永禄11年9月28日(1568年10月28日)、摂津に侵攻してきた織田信長によって芥川山城が落とされると、高槻城も無血開城に近いかたちで降伏しました。


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その翌年の永禄12年(1569)には、足利義明の功臣・和田惟政が信長の命によって高槻城に入り、近代城郭として整備します。

しかし、元亀4年(1573年)にその子・和田惟長と対立した高山友照、高山右近父子が、和田氏を滅ぼして城主となります。


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城跡公園内には、その高山右近像があります。


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右近は後世にキリシタン大名として知られていますよね。


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説明板によると、右近は天正2年(1574年)に高槻城の側に壮大な教会堂を建ててキリスト教の布教に努めたそうで、天正9年(1581年)には、イタリアの巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノを迎えて盛大な復活祭を催しています。

宣教師の記録によれば、領民2万5千人のうち1万8千人がキリスト教徒になったとか。


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しかし、天正15年(1587年)に豊臣秀吉が発した伴天連追放令によって行き場を失った右近は、領地、財産を捨てて諸国を転々としたのち、最終的にはマニラに逃れ、そこで非業の死を遂げたという話はあまりにも有名ですね。


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右近像の横には、天守台を模した空間がありましたが、これは復元ではなく模擬

往時の天守はこの場所からもう少し西にある高校の校舎のあたりにあったと考えられており、三重天守だったといいますから、もっと大きな天守台だったはずです。


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現在の公園は、かつての三ノ丸にあたります。


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公園内にある高槻市民族資料館

江戸時代中期に建築された建物を、ここに移築復元したものだそうです。


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高山右近の12年間の城主時代のあと、高槻城は豊臣家直轄領となり、さらに関ヶ原の戦い後は徳川幕府の直轄地となり、譜代大名が頻繁に交代して城主を務めますが、慶安2年(1649年)に永井直清が城主となると、以後、明治維新まで永井家が13代に渡って城主を務めます。


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その後、明治4年(1871年)の廃藩置県によって廃城となり、翌年には破却されてしまいますが、明治42年(1909年)から昭和20年(1945年)の敗戦までは、大日本帝国陸軍工兵第4連隊がこの地に駐屯していました。

現在、公園内にはそのことを示す石碑が建てられ、かつての営門跡が残されています。


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営門跡は平和のモニュメントだそうです。


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10世紀から20世紀までおよそ1000年ものあいだ、この地は兵の屯所だったということですね。

まさに、兵どもが夢の跡です。




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by sakanoueno-kumo | 2019-06-26 23:00 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)