カテゴリ:京都の史跡・観光( 11 )

 

大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その4 ~本丸・天守台~

二条城本丸へは、二ノ丸御殿との間の内堀に架かる東橋を渡り、本丸櫓門(本丸東櫓門)から入ります。


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本丸櫓門は入母屋造、本瓦葺きの櫓門で、寛永3年(1626年)に徳川家光が造営した本丸内の建物のうち、天明8年(1788年)に起きた天明の大火で唯一焼け残った遺構だそうで、国の重要文化財に指定されています。


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寛永3年(1626年)9月の後水尾天皇(第108代天皇)行幸の際、そのときの木橋2階橋だったそうで、天皇は二ノ丸御殿内から橋の2階の畳廊下を通って、地上を歩くことなく天守まで行かれたといわれます。

その2階橋の一部は昭和5年(1930年)頃まで残っていたそうですが、その後、解体されたそうで、その部材は土蔵で保管されているそうです。


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木橋から北側の内堀を撮影。

前稿で紹介した鳴子門が見えます。


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こちらが南側の内堀。

前稿で紹介した桃山門が見えます。


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櫓門をくぐると、両側に櫓跡と思われる石垣があり、その向こうは枡形虎口になっています。


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枡形の奥には雁木があります。

これは往時のものではないような・・・。


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振り返って櫓門を見ます。

櫓の土塀には砲撃用の狭間が見えます。

この両側の石垣上にも櫓があったとすれば、防御は完璧

この門をくぐった時点で蜂の巣状態ですね。


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櫓門をあとにして、本丸庭園に向かいます。


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この庭園は明治29年(1896年)に明治天皇(第122代天皇)の指示によって造られたものだそうです。


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本丸御殿御常御殿です。


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現在の本丸御殿は、京都御苑今出川御門内にあった旧桂宮邸の御殿を、明治26年(1893年)から翌年にかけて本丸内に移築したもので、国の重要文化財に指定されています。


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創建当時の本丸御殿は、現存する二の丸御殿にほぼ匹敵する規模だったそうですが、天明の大火によって焼失してしまったそうです。

その後、本丸御殿は再建されませんでしたが、幕末に第15代将軍・徳川慶喜の住居として再建されました。

しかし、この御殿も明治14年(1881年)に撤去されました。


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こちらは、本丸御殿玄関です。

現在の本丸御殿は、玄関、御書院、御常御殿、台所及び雁之間4棟からなります。


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そして、本丸西南にある天守台を登ります。

かつてはここに天守がありましたが、寛延3年(1750年)に落雷焼失して以来、再建されませんでした。


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天守台には手すり付きの階段が設置されており、簡単に登れます。


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石垣は「打込み接ぎ」です。


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天守台の上です。

石垣の高さは18m、広さは427㎡だそうです。

かつてここにあった天守は、寛永3年(1626年)に伏見城から移設されたと考えられています。

屋根は5重、内部は地上5階、地下1階の構造だったと伝わります。


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天守台から本丸御殿を望みます。


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こちらは天守台から北側に見える本丸西門西橋です。


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こちらは天守台西側に見える土蔵


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そしてこちらは、南側内堀です。


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徳川家康によって築城された当時の天守は、こことは違う場所(城の北西部分)にあったといわれ、『洛中洛外図屏風』望楼型の5重天守として描かれています。

その天守は、ここに家光が天守を築いたとき、淀城移築されたと言われます。


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天守台を降りて、本丸西側の西門から外に出ます。


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見事に残る打込み接ぎの石垣。


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西門も東門と同じく枡形虎口になっています。


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西門の橋から見た天守台。


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さて、4稿に渡って紹介してきた二条城ですが、これですべて回りました。

大政奉還から今年で150年、その他にも、寛永3年(1626年)9月の後水尾天皇(第108代天皇)行幸、慶長16年(1611年)の徳川家康と豊臣秀頼の会見など、時を超えて歴史を刻んだその舞台は、いまでは世界文化遺産として世界中の観光客で賑わっています。


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帰りに二条城を次代へ保存・継承していくための募金「二条城一口城主募金」をしたところ、缶バッジクリアファイルなどの記念品をいただきました。

今日からわたしも二条城の城主です(笑)。







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by sakanoueno-kumo | 2017-11-11 00:31 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その3 ~内堀~

二条城二ノ丸庭園の西側には、内堀に囲われた本丸があります。

その本丸に登る前に、内堀沿いを歩いてみました。


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二ノ丸と本丸の間を通る内堀沿いの南北に、鳴子門桃山門という仕切門がになっています。

上の写真はを守っていた桃山門


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そして上の写真を守っていた鳴子門です。

ここから北回りに内堀を1周します。


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こちらが鳴子門。

寛永3年(1626年)頃の建築と言われ、国の重要文化財に指定されています。


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こちらは北側からみた鳴子門。

門の形式は正、背面に4本の控柱を立てた「四脚門」です。


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鳴子門を過ぎて東北から東側内堀と石垣を撮影。

向こうに見える櫓と橋は、本丸の正門東橋です。


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そして、北側内堀沿いに西へ進むと、ほぼ中央に北中仕切門があります。

この門も南側にある南中仕切門になっていて、寛永3年(1626年)頃の建築と言われており、国の重要文化財に指定されています。


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西二ノ丸側から見た北中仕切門。

門は小ぶりで、背面の屋根だけが延びるという変わった構造で、門の上に立つ土塀と石垣に囲まれていることから、「埋門(うずみもん)」とも呼ばれるそうです。


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内堀北側の石垣です。


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そして、こちらは西北から撮影した内堀と石垣。

向こうに見える橋は、本丸西門に架かる西橋です。


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こちらは内堀西北にある土蔵(米蔵)です。


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そして、こちらは内堀西南にある土蔵(米蔵)

どちらも寛永3年(1626年)頃の建築と言われており、国の重要文化財に指定されています。


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先程から紹介するほとんどの門や櫓が寛永3年(1626年)頃につくられていますが、これは、寛永3年(1626年)9月の後水尾天皇(第108代天皇)行幸にあわせて造られたからです。

当時、上洛中だった第2代将軍徳川秀忠、第3台将軍徳川家光の招きに応じ、後水尾天皇が行幸しました。

秀忠の娘であり、天皇の中宮となった和子らと、5日間滞在したと伝わります。

徳川将軍家は天皇を迎えるにあたって、その2年前から城を現在の広さまで拡張し、天守行幸御殿、本丸御殿などを造営したと伝わります。


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そして、こちらが本丸西南にある天守台です。


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かつてここに5層の天守が建てられていましたが、寛延3年(1750年)の落雷によって焼失し、その後、再建されることなく現在に至っています。

後水尾天皇の行幸の際、天皇は天守に2回登ったと伝わり、天守に登られた天皇は、このときの後水尾天皇が唯一とされています。


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天守台のある西南から内堀沿いに東へ進むと、南中仕切門があります。

この門は、上に紹介した北中仕切門になった門で、作りもよく似ています。


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こちらは反対側からの南中仕切門。


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本丸東南から見た内堀と石垣。

向こうに見える石垣の出っ張ったところが天守台です。


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そして、この稿の最初に紹介した桃山門にやってきました。

門の向こうに小さく見えるのが、桃山門とになっている北側の鳴子門です。


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門を潜って北側から見た桃山門。

寛永行幸の際の絵図には大きな建物として描かれているそうですが、その後、それを改造して現在の門になったのではないかと考えられています。


さて、内堀を1周して、次稿、いよいよ本丸に登ります。








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by sakanoueno-kumo | 2017-11-10 00:13 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その2 ~二ノ丸御殿・二ノ丸庭園~

二条城東大手門から城内に入り、南側から二ノ丸御殿に向かいます。

写真は城内に設置された案内図です。


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南へ進むと、国の重要文化財に指定されている東南隅櫓が目に入ります。

「その1」では、外から見た東南隅櫓を紹介しています。


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そして、こちらが二ノ丸御殿入口にある唐門です。


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この唐門は、寛永3年(1626年)9月の後水尾天皇(第108代天皇)の行幸にあわせて造られたと伝わります。

二ノ丸御殿の正門にあたり、切妻造、檜皮葺四脚門で、その屋根の前後に唐破風が付きます。


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この唐門も昭和19年(1944年)に国の重要文化財に指定されています。

平成25年(2014年)8月に完成した保存修理では、檜皮の葺替え、飾金具の金箔貼直し、彫刻欄間の彩色の塗り替え、の塗り替えなどが行われ、往時の姿に蘇りました。


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門には長寿を意味する「松竹梅に鶴」や、聖域を守護する「唐獅子」など、豪華絢爛な極彩色の彫刻を飾ります。


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そして、唐門を潜って正面に見えるのが二ノ丸御殿

国宝です。


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二ノ丸御殿は、将軍上洛の際の居館として、徳川家康によって慶長8年(1603年)に造営され、その後、寛永3年(1626年)9月の後水尾天皇行幸に備えて、第3代将軍・徳川家光の代に改造が行われ、現在の姿となりました。


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御殿は全6棟の建物から成り、江戸初期に完成した住宅様式である書院造の代表例として、日本建築史上重要な遺構であり、江戸城、大坂城、名古屋城の御殿が失われた今日においては、国内の城郭に残る唯一の御殿群として、昭和27年(1952年)に国宝に指定されました。


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正面右側のいちばん手前の建物が、「車寄」と言われる正面玄関です。

その後方の大きな屋根の棟が、「遠侍」と呼ばれる二ノ丸御殿最大の建物です。

そこから左奥へ、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院と連なります。


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残念ながら、建物内は撮影禁止です。

なので、庭園側から外観を撮影。


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こちらが「大広間」の建物。

「大広間」は将軍が諸大名と対面した部屋で、二の丸御殿の中でもっとも格式の高い部屋です。

慶応3年10月13日(1867年11月8日)、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は、ここ大広間に在京している10万石以上の大名家の重臣を召集し、政権を朝廷に返上する意志を表明しました。

集まったのは、尾張、紀州、彦根、讃岐高松、姫路、庄内、加賀、阿波、筑前福岡、仙台、鳥取、肥後熊本、米沢、越前福井、備前岡山、薩摩、土佐、芸州広島、宇和島、会津、新発田など、40藩50余名でした。


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そして、その翌日の10月14日(1867年11月9日)、慶喜は政権を朝廷に返上する上表を呈し、翌15日に天皇が奏上を勅許します。

これにより、初代・徳川家康以来、征夷大将軍として164年にわたって保持していた江戸幕府が、さらには、源頼朝によって鎌倉幕府が開かれ以来、約700年続いた武士による政治は終わりを告げます。

平成29年(2017年)11月9日の今日は、大政奉還から150年の節目にあたります。

写真はありませんが、大広間内には上段の間に座する将軍の前で、裃姿の重臣たちが平伏するイメージが人形によって再現されていました。


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写真左が大広間、その向こうに見える棟が「式台」で、いちばん奥に見える建物が「遠侍」です。

「遠侍」は来殿者が控える場所で、慶長16年(1611年)に徳川家康豊臣秀頼と会見した際に使われた部屋と伝わります。


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こちらは大広間南西からの撮影で、向こうに見える棟は「黒書院」です。

「黒書院」は大広間に次ぐ公式の場で、将軍と徳川家に近しい大名や高位の公家などが対面した場所だそうです。


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大広間と黒書院前の庭園です。


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こちらは黒書院側から撮影した庭園と大広間。

慶喜の大政奉還の意思表示の際には、ああやって障子は閉ざされていたんでしょうね。


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多くの歴史を刻んだ二ノ丸御殿を後にして、本丸へ向かいます。






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by sakanoueno-kumo | 2017-11-09 00:01 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その1 ~外堀・城門~

平成29年(2017年)の今年は、大政奉還から150年にあたります。

京都では「大政奉還150年周年記念プロジェクト」と題したイベントが各所で行われていますが、大政奉還といえば、いちばんはやはりその発表の舞台となった二条城を訪れるべきでしょう。

というわけで、先日、朝から夕方まで二条城をみっちり歩いてきました。


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写真は東大手門前に設置された金屏風風の看板。

いまから150年前の慶応3年10月14日(1867年11月9日)、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が、政権を朝廷に返上する上表を呈し、翌15日に天皇が奏上を勅許します。

これにより、初代・徳川家康以来、征夷大将軍として164年にわたって保持していた江戸幕府が、さらには、源頼朝によって鎌倉幕府が開かれ以来、約700年続いた武士による政治は終わりを告げました。


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その前日の10月13日に、ここ二条城の二の丸御殿に上洛中の40藩の重臣を召集し大政奉還を発表しました。

その二の丸御殿に行く前に、まずは城の外堀に添って外周を歩きます。


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上の写真は東南隅櫓

国の重要文化財に指定されています。

堀川通を南から北上してくると、まず最初に目に入るのが、このです。


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現在に伝わる二条城は、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、上洛時の宿所として慶長7年(1602年)から翌年にかけて造営されたもので、東南隅櫓はその築城当初に造られ、寛永3年(1626年)に改修されました。

二条城には寛永期に建てられた隅櫓が本来四隅にありましたが、天明8年(1788年)に起きた大火によってそのうちのふたつが焼失してしまい、現在はこの東南隅櫓と西南隅櫓が残っているだけです。


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東南隅櫓から外堀沿いに西へあるくと、南門があります。

この南門は大正4年(1915年)に大正天皇(第123代天皇)の大典に備えてあらたに造られたもので、本来の城門ではないそうです。


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外堀に面した石垣

「打込み接ぎ」ですね。

慶長年間(1600年~1615年)に築かれた城は、この「打込み接ぎ」の工法が多いです。

現存する大坂城などに見られる「切込み接ぎ」は、大坂夏の陣以降の元和期に多用されるようになった工法で、また、関ヶ原の戦い以前は、自然石を積み上げる「野面積み」が主流でした。

この「打込み接ぎ」は、石垣が進化する過渡期の工法といえます。


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そして、こちらが西南隅櫓

東南隅櫓と同じく慶長7年(1602年)から翌年にかけて造られ、寛永3年(1626年)に改修されました。

こちらも国の重要文化財に指定されています。


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二重二階の構造で、西と南に石落としが見えます。


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西南隅櫓と外堀です。


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西南隅櫓から北上すると、西門があります。

寛永年間(1624年〜1643年)に造られたといわれています。

大政奉還を発表したとき、徳川慶喜がこの西門から城外に出たと伝わるそうです。


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西面の外堀です。


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そしてこちらは北大手門

ここも東南隅櫓や西南隅櫓と同じく、慶長7年(1602年)から翌年にかけて造られて寛永3年(1626年)に改修されました。

ここも国の重要文化財に指定されています。


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東面の外堀。


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外堀を1周まわって東大手門に戻ってきました。

ここが二条城の正門です。


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現存の門は、寛文2年(1662年)頃に造られたと考えられています。

築城当時は現在のような2階建の櫓門でしたが、寛永3年(1626年)の後水尾天皇(第108代天皇)の行幸の際には、天皇を2階から見下さないようにとの配慮から、一重の唐門に建て替えられたと言われています。


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門幅13間におよぶ勇壮な門で、国の重要文化財に指定されています。


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東大手門は平成26年(2014年)10月から改修工事が行われ、今年(平成29年)3月に完成しました。

この日は、その記念として櫓内部を特別公開していました。


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櫓内部です。


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さて、外堀と門だけでずいぶん長くなっちゃいました。

次回に続きます。










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by sakanoueno-kumo | 2017-11-07 23:22 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)  

「本能寺の変」記念日に再考する歴史のターニングポイント <後編>

記念日を1日過ぎちゃいましたが、昨日の続きです。

今回は、現在の本能寺を訪れました。

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織田信長が横死した「本能寺の変」の7年後にあたる天正17年(1589年)、豊臣秀吉が行った都市計画の区画整理でこの地に移されました。

旧本能寺跡地からは、直線距離にして1.2kmほどに位置します。

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その後も、天明8年(1788年)1月30日に起きた「天明の大火」、そして幕末の元治元年(1864年)7月18日に起きた「元治の大火」によって消失し、現在の本堂は昭和3年(1928年)に再建されたものだそうです。

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境内には、信長の廟所があります。

「本能寺の変」から1ヶ月後に信長の三男・信孝が焼け跡から燼骨を収集し、本能寺跡に墓所を建てたそうですが、その後、同寺の移転とともに、墓所もこの地に移されたそうです。

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いままで数々の小説やドラマなどになってきた「本能寺の変」ですが、どの作品でも概ね同じ描かれ方で、本能寺を包囲した明智軍鉄砲隊で攻撃し、それを信長自身もをとって応戦するも、腕に銃弾を受け、やがて観念した信長は、殿舎に火を放たせて自刃する、というものですよね。

これまで何度も観てきたシーンですが、これがどれほど事実かといえば、複数の史料を元にした、かなり信憑性の高い描写のようです。

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まず、信長の史料として最も信頼されている『信長公記』の記述から。

「是れは謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚のところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候。」

有名な「是非に及ばず」の台詞は、ここに記されているものです。

「言うまでもない、戦うまでだ!」といった意味でしょう。

また、同史料によると、

「信長、初めには御弓を取り合ひ、二・三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の弦切れ、その後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、これまで御そばに女どもつきそひて居り申し候を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来たり候。
御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ候か。殿中奥深入り給ひ、内よりも御南戸の口を引き立て、無情に御腹めさる」


信長は、初めはで、弦が切れてからはで応戦したが、肘に槍傷を受けたため退き、女中たちを逃がし、御殿に火をつけて自害した・・・とあります。

『信長公記』の著者は信長の家臣だった太田牛一という人ですが、彼自身は本能寺にはいなかったものの、逃された女たちに取材して書いたものだそうです。

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また別の史料としては、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』に、次のように記されています。

「厠から出てきて手と顔を洗っていた信長の背中に、明智方の者が放った矢が命中した。信長はその矢を引き抜き、鎌のような武器(長刀)を手にしてしばらく戦ったが、明智方の鉄砲隊が放った弾丸が左肩に命中すると、自ら部屋に入って障子を閉じ、火を放って自害した」

『信長公記』と少し違うところもありますが、概ね同じストーリーですよね。

『信長公記』が書かれたのはフロイスの死後のことで、同じような描写が日本とヨーロッパで執筆されていることを思えば、ほぼ史実とみていいのでしょう。

炎の中に消えた信長が、どんな死に方をしたかは、想像するしかありませんが。

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写真は「本能寺の変」で命を落とした側近たちの慰霊塔

森蘭丸らの名前も見られます。

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日本史のなかには、その時代時代に数々のターニングポイントがありますが、その中でも、この「本能寺の変」いちばんの分岐点だったとわたしは思います。

天下分け目といわれる「関ヶ原の戦い」ですが、もし、西軍が勝っていたとしても、やはり豊臣政権は長続きしなかったでしょうし、となれば、結局は250万石を有する徳川家覇権が移っていた可能性が高いでしょう。

もし、後醍醐天皇が事を起こさなくても、遠からず鎌倉幕府滅亡していたでしょうし、もし、ペリー艦隊が来航しなくても、他国から何らかの圧力がかかって、結局は明治維新を迎えていたでしょう。

どれも、微妙な狂いは起きていたでしょうが、たぶん、似たような歴史を歩んだと思うんですね。

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ところが、この「本能寺の変」だけは、もし起きていなければ全然違う歴史を辿った可能性が極めて高いといえます。

信長が横死しなければ、当然、豊臣政権はなかったわけですし、となれば、のちの徳川政権も、言うまでもなく存在しません。

現代のわたしたち日本人の国民性は、ほぼ徳川期250年で形成されたといわれますから、もし、徳川政権時代がなければ、日本はずいぶんと違った国になっていたでしょう。

そう考えれば、「本能寺の変」が変えた歴史というのは計り知れないといえます。

一般に「明智光秀の三日天下」などと言われますが、たしかに明智光秀自身が天下人になることはありませんでしたが、天下を大きく変えたという意味では、歴史上なくてはならなかった希有な人物といえます。

ある意味、「天下人」といえるかもしれませんね。

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日本史に興味がない人でも、「本能寺の変」を知らない人はほとんどいないでしょう。

それは、それだけ歴史的に大きな出来事だったからだといえます。

人はこの出来事を400年以上もの長きにわたって語り継ぎ、人間の持つ「おごり」や、人の上に立つ者の「心得」を学び得てきたのかもしれません。

その意味では、後世のわたしたち道徳教科書として、大きな意味を持った歴史の必然だったのかもしれませんね。

温故知新です。




「本能寺の変」記念日に再考する歴史のターニングポイント <前編>



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by sakanoueno-kumo | 2016-06-03 01:40 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

「本能寺の変」記念日に再考する歴史のターニングポイント。 <前編>

本日6月2日といえば、日本史上最大のターニングポイントといっていい「本能寺の変」の起きた日です(現代の暦でいえば、6月21日にあたりますが)。

そこで、以前訪れた本能寺跡の写真を紹介しながら、本能寺の変をふりかえります。

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天正10年(1582年)6月2日、天下統一を目前にした戦国の覇王織田信長が、家臣の明智光秀の謀反によって殺害されました。

現在、その跡地には京都市立堀川高等学校、特別養護老人ホーム、本能寺会館などが建てられています。

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それ以前は、京都市立本能小学校がありましたが、平成4年(1992年)に廃校となり、その際に行われた発掘調査で、当時の遺構が発見されて話題を呼びました。

それまでは、地名からたぶんこのあたりだったのだろうといった推定でしかなかったんですね。

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また、平成19年(2007年)のマンション建設に伴う発掘調査では、本能寺の変において焼けたと思われる瓦や、「能」の旁が「去」となる異体字がデザインされた丸瓦が、堀跡の屁泥の中から見つかっています。

現在は、石碑や説明板が数か所に設置されています。

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備中高松城を攻めていた羽柴秀吉から援軍要請を受けた信長は、堀秀政、細川忠興、池田恒興、高山右近、中川清秀らに援軍を命じ、安土城徳川家康の饗応役を務めていた明智光秀にも出陣を命じます。

光秀は5月17日に坂本城、26日に亀山城に移り、27日には愛宕山に参詣、連歌師・里村紹巴と連歌会・愛宕百韻を催しました。

このとき光秀が詠んだ

「時は今 雨が下しる 五月哉」

という歌が、彼の謀反の決意を表したものだといわれています。

「時」「土岐」「雨が下しる」「天が下知る」と意味し、「土岐氏の一族の出身であるこの光秀が、天下に号令する」という意味合いを込めた句であるといいます。

そう言われればそうも思えますし、こじつけと言われればそうとも言えます。

実際、いつ、どのタイミングで光秀が謀反を決意したのかは、想像するしかありません。

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6月1日夜半、亀山城を進発した光秀軍は老ノ坂を東へ向かい、沓掛で全軍を小休止。

そこで、斎藤利三ら重臣に本能寺襲撃計画を打ち明けたといいます。

重臣の中には反対意見もあったといいますが、結局は全軍に「信長公が京で閲兵を望んでいる」と伝え、進路を京都に向かって東に取りました。

そして桂川を渡る頃、全軍に本能寺襲撃を下知します。

「敵は本能寺にあり!」と、言ったかどうかはわかりませんが。

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6月2日早暁、明智軍1万3千は本能寺を襲撃。

信長は弓と槍で奮戦しますが、森蘭丸をはじめ、わずかな供廻りの小姓たちの殆どが討死

信長も肘に槍傷を受けて退き、観念した信長は女達を退出させたあと、殿舎に火を放たせ、炎の中で自刃しました。

嫡子・織田信忠妙覚寺に投宿しており、変を知って討って出ようとしたが村井貞勝らがこれを止め、信忠は隣接する二条御所に立て籠りますが、光秀軍は御所に隣接する近衛前久邸の屋上から矢・鉄砲を撃ち掛け、信忠も抗戦敵わず自刃します。

日本の歴史が大きく変わった瞬間です。

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明智光秀の謀反に至る動機については野望説黒幕説、朝廷守護説、謀略説など様々な説が乱立していますが、どれも決定的なものはありません。

おそらく、永遠に歴史の謎でしょうね。

小説やドラマなどでは、もっともわかりやすい怨恨説で描かれることが多いかと思いますが、今年の新春時代劇『信長燃ゆ』では、朝廷黒幕説で描かれていましたね(参照:新春時代劇『信長燃ゆ』鑑賞記)。

これも、考えられなくもありません。

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ただ、変後の光秀の行動などを見ると、彼ほどの人物にしてはあまりにも無計画すぎる気がして、やはり、わたしは怨恨による衝動的な行動だったように思えてなりません。

光秀は、現代で言うところのうつ病状態だったんじゃないかと・・・。

まあ、これも想像の域を出ませんけどね。

長くなっちゃったので、明日に続きます。



「本能寺の変」記念日に再考する歴史のターニングポイント。 <後編>

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by sakanoueno-kumo | 2016-06-02 00:21 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

夏休み丹波路紀行 その3 「かやぶきの里・北村」

京都府は南丹市美山町にある山村集落『かやぶきの里・北村』に行ってきました。
ここはその名のとおり、今では珍しくなった茅葺き屋根の家屋が数多く残っているところで、現在50戸ある家屋のうち38棟が茅葺き屋根の建築だそうで、集落での茅葺き屋根数でいえば、世界遺産として有名な岐阜県白川郷、福島県下郷町大内宿に次いで全国第3位だそうです。

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その伝統的技法による建築物群を含めた歴史的景観の保存度への評価も高く、平成5年12月には国の重要伝統的建造物保存地区に選定されたそうです。

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田園風景と茅葺き屋根の集落の風景が、まるで1枚の絵画映画の1シーンを切り取ったかのようです。
実際にこの村は、何度か映画のロケ地にもなっているそうで、あのドラマシリーズ『水戸黄門』の最終回のロケ地にもなったそうです。

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われわれ都会人にとっては、こんな稲穂の絨毯を目にすることが少ないですから、たまにはこういった景色を見て目の保養が必要でしょうね。

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この昔懐かしいポストから見た景色が、絵葉書などにもなっているロケーションです。

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なかには資料館や店舗、民宿もありますが、白川郷と同じくそのほとんどが今も実際に生活されている住居だそうです。
ですから、茅葺き家屋の庭にハイブリッドカーを駐車している家もありました(笑)。
生活スペースが観光地になるってのは、どんな気分でしょうね。

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ここ北村は、谷間のゆるい傾斜地にあります。
地理的には昔の丹波国に属しますが、京都と日本海の玄関口の若狭小浜との中間に位置するので、建築や生活文化にはいろいろな地域の影響が見られるところだそうです。

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現存する茅葺き家屋は寛政8年(1796年)建築のものが最古だそうですが、19世紀中頃までに建てられた家屋が18戸と江戸時代に建てられたものが多く残っているそうで、歴史的価値が高いものばかりです。

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写っているのは私の妻ですが、彼女の身長は158センチほどです。
茅葺き家屋の高さは、現代の家屋でいえば3階建てくらいの高さはあるでしょうか。

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このパン屋さんの看板もなかなかレトロですね。
「西湖堂パン」とは、昔、京都のあった老舗のパンメーカーだそうです。

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集落内にある美山民俗資料館では、茅葺き家屋の内部の造りを見ることができます。
囲炉裏を囲んで、はいチーズ!

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縁側からみた茅葺き屋根の裏側です。

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風呂場です。
ここでおりょうは幕府の追手に気づき、裸で階段を上がって龍馬を助けに行きました・・・って、もちろんですよ(笑)。

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屋根裏に上がると小屋組の構造、屋根のふき方を見ることができます。
外から見る以上に広くて高く、屋根裏部屋というより、といってもいいほどです。

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村の外れにある観光客用のお食事処、手打ち蕎麦の「きたむら」です。
私が食した「地鶏せいろ」は、なかなか上品な味で美味でしたよ。

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最後にもう一度、ポストのところで記念撮影。
この日は気温35度を超える猛暑日だったため、集落を散策すること約2時間、さすがに汗びっしょりとなってしまいましたが、本来であれば山際で標高も高く、都会よりははるかに涼しいところだと思います。
ネットで調べてみると、このあたりの冬は京都でも有数の豪雪地域のようですね。
雪景色のなかの茅葺き家屋もまた風情があるんじゃないでしょうか。
集落には茅葺き家屋の民宿もあるので、今度は雪景色の季節に訪れてみるのもいいかもしれませんね(茅葺き家屋に泊まって囲炉裏で鍋料理ってのもいいかも)。

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そんなこんなで、夏休みの丹波路紀行シリーズを終わります。
明日から9月ですが、今年は1日・2日が土日なので学生の夏休みは例年より長いそうですね。
まだまだ厳しい残暑が続きますが、そろそろ夏休み気分は終わりにして、秋に向けて気持ちを切り替えていきましょう。


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by sakanoueno-kumo | 2012-08-31 00:25 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

夏休み丹波路紀行 その2 「質志鍾乳洞」

船井郡京丹波町にある京都府唯一の鍾乳洞、質志(しずし)鍾乳洞に行きました。
昭和2年(1927年)に発見されたというこの質志鍾乳洞は、高屋川最上流部の標高約400メートルに位置し、洞の長さは約120メートル、入り口から最深部までマイナス25メートルと規模は大きくありませんが、竪穴型の珍しい鍾乳洞です。
発見された当時は鍾乳石石筍も多くあったそうですが、今ではその多くが折損、破壊されてしまっています。

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現地の観光客用の説明看板によると、はるか昔(約2億6千〜7千年前)このあたりは海の底だったそうで、貝殻やサンゴといった石灰質の生物の死骸が積もって堅い石灰岩が作られ、やがて陸地になると二酸化炭素を含む雨水により、何万年もかけて石灰岩が溶かされ、この鍾乳洞が出来たのだとか。
ここ京丹波町は京都府の中部にあり、日本海と瀬戸内海のほぼど真ん中あたり。
このあたりが海の底だったとすれば、その頃の近畿地方はほとんどが海だったのかもしれませんね。

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中に入るとひんやりとした空気に身体が包まれます。
この日は気温35度以上の猛暑日でしたが、洞の中は季節に関係なく8度から12度あたりの気温を保っているそうです。
ここまで来る道中はかなりキツイ山道を登ってきて汗びっしょりでしたから、その汗が一気に冷やされて気持ちいいのなんのって、天然クーラーですから節電も関係ありませんしね(笑)。

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大人は屈まないと潜れない狭い場所を進むと、ほぼ垂直にかけられた梯子を降りていきます。
これが結構ヘビーな梯子で、小さい子どもや高所恐怖症の人は無理かも。

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梯子を降りて写真を撮影していると、目の前を何か黒い物体が横切りました。
どうやらコウモリだったようです。
驚きました。

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ここが発見された当時、この辺りに住む古老たちが、はたしてこの鍾乳洞は何処まで続いているかと話題になったそうで、とりあえず犬と鶏を洞内に入れたところ、犬は途中で引き返し、鶏は3kmほど離れた大原神社の下の洞穴に出てきて大きな声で鳴いた・・・という伝承が残っているそうです(これも現地の説明看板に紹介されていた話です)。
犬と鶏にしてみれば迷惑な話ですけどね(笑)。

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どこがどう地蔵なのかよくわかりません(笑)。

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周辺は質志鍾乳洞公園としてキャンプ場やバーベキュー施設などがあり、釣り堀ではニジマス釣りが楽しめるようです(小さい子供はつかみ取りもできるようです)。
洞の中は涼しくて気持ちがよかったんですが、道中がハードな山道のため駐車場に戻ったときには結局汗びっしょりでした(笑)。
もう少し心地よい季節に訪れることをおすすめします。

そんなこんなで、もうちょっと続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2012-08-29 18:46 | 京都の史跡・観光 | Trackback(1) | Comments(0)  

夏休み丹波路紀行 その1 「府民の森ひよし」

お盆休みに京都府は南丹市に行ってきました。
南丹市は京都府の中部に位置する市で、小泉政権時代の市町村合併に伴い、船井郡園部町・八木町・日吉町、北桑田郡美山町が合併して2006年に誕生した新しい市です。
南丹の語源は丹波の南という意味で、丹波とは言うまでもなく、かつての丹波国のことですね。
丹波国は大きく分けて現在の京都府中部と兵庫県北東部の一部に分かれます(一部、大阪府北部も含まれます)。
明治維新後の廃藩置県によって令制国は廃止され、いくつかの編制を繰り返しながら今の47都道府県になりましたが、旧令制国の区分が複数の県に分かれてしまった例は珍しいんじゃないでしょうか(複数の令制国がひとつの県になった例はたくさんありますが)。
なぜそうなったかは詳しくは知りませんが、明治初年、中央集権体制を進める明治政府の大久保利通らによって、但馬・丹後を含め似通った地域性を無視して2府県に分けられたそうです(Wiki参照)。
そのため現在でも、京都丹波・兵庫丹波と分類されたりします。
今回訪れたのは、その京都丹波地方です。

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この日の宿は、日吉町の天若湖畔に広がる森林公園『府民の森ひよし』内にある宿泊施設。
ここ『府民の森ひよし』は、128ヘクタールの広大な森林公園で、美しい緑に囲まれて自然に親しむにはたいへん良い場所です。
ここを訪れたのは7年ぶり2度めのことでした。

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この日一緒に宿泊したのは3家族12人
子供が幼い頃から毎年夏休みにはどこかのアウトドア施設に泊りにいくことを恒例としてきたのですが、いつの間にやら子どもたちも大きくなり、スケジュールを合わせるのもたいへんになってきました。
我が家の愚息も、高校生になってからはずっと野球部の練習があり不参加だったのですが、この夏はれて引退したため久々の参加です(もし甲子園にでも行っていたらここにはいなかったでしょうが・・・笑)。

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アウトドアといえばバーベキューですよね。
これも十数年ずっと続けてきましたが、炭加減などなかなか難しいものです。
あと、食材の量も毎年買いすぎちゃって大量に余っちゃうんですよね(汗)。
学習能力がありません(苦笑)。

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スイカ割りも毎年恒例です。
と言っても子供たちは大きくなり、小学生は二人だけ。
数年前までは最も盛り上がるイベントだったんですが、さすがにそろそろ限界かもしれません。

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もともと子供たちが小さかった頃、上げ膳据え膳の観光旅行よりも、自然の中に放牧しておもいっきり遊ばせてやったほうが子供たちにとっては良いと思って始めた夏キャンプでしたが(費用も安上がりですしね)、あと数年後には爺婆だけの老人会になりそうです(笑)。

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揃って記念撮影。
ここは宿泊費用も安く、子供連れや団体で泊まるにはたいへん良いところです。
例年はもう一家族いて、もっと大人数になるのですが、残念ながら今年は野暮用にて不参加、この3家族12人でした。
盆正月くらいのんびりと過ごしたいという人も多いと思いますが、こうして気心知れた仲間と賑やかな夏のひとときを過ごすのもいいもんですよ。

明日に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2012-08-28 23:58 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

中岡慎太郎の命日に訪れる、坂本龍馬、中岡慎太郎、遭難の地。

 本日、11月17日(旧暦)は中岡慎太郎の命日。前稿でも記述したとおり(参照:坂本龍馬の命日に再考する、龍馬と中岡慎太郎の暗殺犯の諸説。)、1867年(慶応3年)11月15日、京都・近江屋において坂本龍馬と中岡慎太郎が何者かの手によって暗殺された。龍馬はほぼ即死。慎太郎は蘇生し、2日間生き延び、一時は焼き飯を食べるほどの元気を取り戻していたというが、その後容態は悪化、17日に死去した。享年30歳。現在に伝わる襲撃時の様子は、蘇生した慎太郎が語ったものだといわれている。

 本日朝から、急な打ち合わせの仕事が入り、京都を訪れていた。せっかく京都に来たのだから、ちょうど中岡慎太郎の命日ということもあり、二人の受難の地・近江屋跡まで足を伸ばした。二人が暗殺された近江屋は、土佐藩邸用達の醤油商。京都市中京区河原町通四条にあった近江屋は現在は残っておらず、京都市内一番の繁華街となった四条河原町に、石碑がひっそりと立っている。

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 ここを訪れるのは今年2度目。2月に訪れたときも、拙ブログにて紹介させてもらった(参照:坂本龍馬、中岡慎太郎 遭難の地)。本日、訪れてみると、おそらく一昨日の龍馬の命日に誰かが供えたであろう献花が、石碑の横にあった。突然思いつきで訪れた私は何の用意もしておらず、ただ手を合わせただけだったが・・・。

 近江屋跡は、今はコンビニエンスストアになっている。店の中には当然、龍馬グッズの販売コーナーがあった。前回訪れたときはマグカップを衝動買いしてしまったが、今回もまた、衝動買いをしてしまった。

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 龍馬伝のボールペンシャーペン。せっかく来たのだから、何か買って帰らないといけないような衝動に駆られてしまうのは、その昔、観光地などで販売されていた記念ペナントと同じようなもので、金を捨てるようなものなのだが、わかっていてもまんまと店の思惑にハマって買ってしまう幼稚な私です。それにしても、龍馬グッズばかりで慎太郎のグッズがないのが不憫だ。

 以前も述べたことだが、ここは龍馬ファンにとっては聖地のひとつであるものの、京都市一番の繁華街に埋もれ、気づかずに通り過ぎてしまいそうな場所。私が写真撮影をしていると、通行人が初めて気づいた様子で石碑に目をやっていた。いくら市内繁華街のど真ん中とはいえ、龍馬暗殺の場所がコンビニというのはどうだろう。行政が買い取って保護することは出来なかったのだろうか。幕末の英雄・坂本龍馬の落命の地としては、あまりにも粗末な扱いに憤懣を感じる。何とかならないものだろうか・・・。

 とにもかくにも、大河ドラマ「龍馬伝」も、もうすぐ最終回を向かえる。


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-17 16:53 | 京都の史跡・観光 | Trackback(1) | Comments(4)