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カテゴリ:香川の史跡・観光( 12 )

 

海に浮かぶ要塞、讃岐高松城を歩く。 その6 <外周、東の丸>

「その5」の続きです。

城跡公園の外に出てみましょう。


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写真は公園西入口です。

石垣の造りなどから見て、往時も何らかの門があったのでししょうが、説明書きなどがなかったため、詳細はわかりません。


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入口の右側(南側)の石垣が突起している部分には、かつて弼櫓があったそうです。


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入口横には「玉藻公園」と刻まれた大きな石碑があります。

讃岐高松城は、別名、「玉藻城」ともいいます。

その由来は、万葉集柿本人麻呂が讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことから、この辺りの海域を「玉藻の浦」と呼んでいたからだそうです。


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北西隅の簾櫓跡石垣です。


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公園北側の石垣です。

現在は東西に道路が走って歩道整備されていますが、往時は石垣の外はでした。

向こうに、「その3」で紹介した月見櫓、水手御門、渡櫓が見えます。


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西側を振り返ると、ホテルクレメント高松が見えます。


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さらに東に進んでもう一度振り向くと、月見櫓とホテルクレメント高松のミスマッチ


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北側に目をやると、海沿いに報時鐘が見えます。


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報時鐘とは、読んで字のごとく時を知らせる鐘楼

昭和55年(1980年)の再建です。


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さらに東に進むと、香川県県民ホールの敷地内に入るのですが、石垣たけはずっとつながっています。


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生駒氏に代わって寛永19年(1642年)に入城した初代藩主の松平頼重は、長い年月をかけて大規模な城の改修工事を行いました。

その際、縄張りを北方と東方に拡張し、新たに「東の丸」を設けました。


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現在、その東の丸があった場所には県民ホールが建てられていますが、石垣の遺構だけは、このようにホール敷地内に残されています。


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写真は「その1」で紹介した艮櫓がかつて乗っかっていた櫓台石垣です。


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丑寅(艮)とは北東の方角を指す言葉です。

ここが城の北東隅だったことがわかりますね。

延宝5年(1677年)築と伝わる艮櫓は、昭和40年(1965年)に当時の所有者であった旧国鉄から高松市が譲り受け、2年の歳月をかけて東の丸より旧太鼓櫓跡移設されました。


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説明書きの陶板が埋め込まれた石碑があります。


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石垣は艮櫓から更に南へ伸びています。


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石垣は艮櫓から60mほど南下した場所で終わっています。

ここで県民ホールの敷地が終わりなので、ここまでしか残せなかったのでしょうね。


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石垣の内側です。


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その南にある松平公益会の敷地内には、土塁跡と思われる遺構が残されています。


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その柵の前には、東の丸の説明板が。


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で、「その1」で紹介した東側の中濠に戻ってきました。

写真左側に見えるのが、艮櫓旭橋です。

6回に渡って巡ってきた讃岐高松城逍遥ですが、歩き疲れました。

そろそろ、讃岐うどん食べて帰ります。


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by sakanoueno-kumo | 2019-08-09 01:01 | 香川の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

海に浮かぶ要塞、讃岐高松城を歩く。 その5 <本丸、天守台>

「その4」の続きです。

高松城二ノ丸本丸を結ぶ鞘橋を渡り、本丸へ向かいます。


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鞘橋を渡ると、喰違虎口となっています。


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振り返ると長さ16間(約30m)の鞘橋が。

前稿でも紹介しましたが、有事にはこの橋を落とすことによって本丸だけを守るようになっていました。

この構造は、防備に優れている一方で、一旦橋を落としてしまうと内部にいる人間は逃げ場を失ってしまう、という欠点があります。

もっとも、高松城の場合は海に面していることもあり、濠を通じて海上への脱出が可能でした。


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本丸、そして正面に見えるのが天守台です。

本丸の面積は狭く、御殿などの居住施設はなかったようで、多聞櫓で囲まれた天守があるのみでした。


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天守台の石垣は野面積みのようですね。

石垣は平成18年(2006年)から平成25年(2013年)にかけて解体修復工事が行われていました。


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上ってみましょう。


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天正期に建てられた生駒親正の時代の天守は、絵図古文書によると3重だったとされていますが、寛文9年(1669年)に初代藩主の松平頼重が改築した天守は、「南蛮造り」と呼ばれる3層4階+地下1階の天守だったそうで、四国最大の規模を誇っていたそうです。


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その天守は、明治17年(1884年)に老朽化のため解体されています。

その後、大正9年(1920年)に天守台上に松平頼重を祀った玉藻廟が建立されましたが、それも平成18年(2006年)から始まった天守台石垣の解体修復工事に伴い、解体されて御神体のみが移設されたそうです


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その平成の修復工事の際の発掘調査によると、地下1階部分から58個の礎石が発見されました。


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天守台上には、発掘調査時の説明板が設置されています。


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天守台上から北側を見下ろすと、「その4」で紹介した内濠水門、そしてその向こうには瀬戸内海が見えます。


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北西に目を移すと、二ノ丸鞘橋が見えます。


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天守台上からの眺めを堪能したあと、本丸を出て三ノ丸側から天守台を眺めました。


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石垣は野面積み、出隅は算木積みになっています。


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鞘橋と天守台。

天気がいいのできれいです。


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天守台と高層ビルの大いなるミスマッチ


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かつてあった天守は、最下重が萩城熊本城の天守のように天守台より出張り、最上重が小倉城岩国城の天守のように「唐造り」だったそうで、その様子は、解体される以前に写真におさめられているそうです。

高松市では、天守の復元を企画しているそうです。

「その6」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-08-08 00:55 | 香川の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

海に浮かぶ要塞、讃岐高松城を歩く。 その4 <水門、鉄門、二ノ丸>

「その3」の続きです。

高松城三ノ丸北側通路を西へ戻ります。

下の写真は、三ノ丸二ノ丸の間の内濠です。

向こうに見えるのは二ノ丸の石垣。


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前稿でも述べましたが、ここ高松城は、北は瀬戸内海に面し、残り三方を囲む濠には海水を引き入れた海城で、伊予国今治城、豊前国中津城と並んで、日本三大水城のひとつに数えられています。

この三ノ丸と二ノ丸の間の内濠は、北側の海とつながっていました。

ここが、海と濠をつなぐ水門となっています。


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水門です。

現在は水位調整するために開閉できるようになっていますが、往時はどのように水位調整していたかはわかっていません。

海水を引き入れた濠をもつ城は他にもありますが、100%海水というのは、ここ讃岐高松城だけだそうです。


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北側から見た内濠です。

向こうに見えるのは天守台石垣


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水門の横には、「高松藩松平家の泳法」と書かれた説明板があります。

生駒氏に代わって寛永19年(1642年)に入城した初代藩主の松平頼重は、「讃岐の国は、海辺の国なれば、水練は武道の一班たるべし」と、翌29年夏、藩士の今泉八郎左衛門盛行に命じ、お船蔵西の堀溜にて藩士に水練の指導をさせたとあります。

頼重自身も、入封の年の6月に城内の濠で泳いだという記録が残されているのだとか。


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また、前稿で紹介した水手御門の側にも「高松藩松平家の泳法」と書かれた説明板があり、それによると、「高松藩中興の祖」と呼ばれるほどの名君として伝わる5代藩主の松平頼恭は、幼少の頃より武芸全般に秀でていたそうで、特に水泳を好み、小姓たちを従えて水手御門より西まで往復二百間(約360m)を左下の片熨斗(水任流の左片熨斗)で泳いだという記録があるそうです。


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水門の西には、鉄門跡があります。


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鉄門は三ノ丸二ノ丸をつなぐ門で、その名の通り、往時には鉄板張りの門がありました。


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二ノ丸側から見た鉄門跡です。


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二ノ丸です。

向こうに見えるのが鉄門跡。


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こちらは、二ノ丸本丸を結ぶ唯一の連絡橋、鞘橋です。

この橋を落とすことによって本丸だけを守るようになっていたんですね。


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絵図などの史料によれば、築城当初からこの位置に橋がかけられていたことがわかるそうで、当初は「欄干橋」と呼ばれる屋根のない橋だったようですが、文政6年(1823年)の絵図には屋根付きの橋が描かれているそうで、江戸時代に改修が行われたことがうかがえます。


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現在の鞘橋は明治17年(1884年)の天守解体時に架け替えられたものと伝わっているそうで、大正期には橋脚が木製から石製に替えられたことが古写真で判明しているそうです。


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鞘橋から見た西側の内濠です。

正面に見えるのは、琴電琴平駅

左側が本丸で右側が二ノ丸です。


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本丸石垣は野面積み打込み接ぎの混在のように見えます。


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鞘橋から北西を見ると、「その2」で紹介した披雲閣庭園が見えます。


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そして南西に目をやると、天守台石垣が。

「その5」では、その天守台に向かいます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-08-07 00:23 | 香川の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

海に浮かぶ要塞、讃岐高松城を歩く。 その3 <水手御門、月見櫓、渡櫓>

「その2」の続きです。

高松城三ノ丸にある披雲閣庭園の北側通路を歩きます。


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通路北側は石垣が整然と並んでいます。

その向こうにが見えます。


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上ってみましょう。


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石垣を上って北側を見ると、すぐそこに瀬戸内海が見えます。

ここ高松城は、北は瀬戸内海に面し、残り三方を囲む濠には海水を引き入れた海城で、伊予国今治城、豊前国中津城と並んで、日本三大水城のひとつに数えられています。

海上から見るとその威容は素晴らしいものだったようで、明治時代には「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」と謡われたり、与謝野晶子によって「わたつみの 玉藻の浦を前にしぬ 高松の城竜宮のごと」と詠まれたりしています。


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東側に目をやると、櫓門が目に入ります。

向かって左から月見櫓、水手御門、渡櫓

すべて重要文化財指定です。


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こちらは、石垣の外からの撮影。


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月見櫓北ノ丸最北端に位置し、瀬戸内海を監視するためにつくられた隅櫓だそうで、「その1」で紹介した艮櫓とほぼ同時期に建てられたものと考えられているそうです。


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月見櫓は「到着を見る」という意味の「着見櫓(つきみやぐら)」が本来の名称で、藩主が江戸から船で帰ってくるのをこの櫓から望み見たことから名づけられたのだとか。


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水手御門は海に向かって開いた門で、藩主はここで小舟に乗船し、沖で御座船に乗換えて参勤交代等に出かけたそうです。

まさに、海に浮かぶ城門に見えたでしょうね。


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城跡公園内に戻って、城内側から見た月見櫓です。


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総塗籠造り3重3階、入母屋造、本瓦葺で、初重は千鳥破風、二重は唐破風の形を対象させています。


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こちらは、城内側から見た水手御門。

往時はこの門を出たらでした。


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その横につながる渡櫓

渡櫓は、生駒正親の築城時からあった海手門改修して建てられたと考えられているそうです。


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月見櫓、水手御門、渡櫓から東へまっすぐ進んだ突き当りの北東隅には、かつて鹿櫓があったそうですが、今は残っていません。


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その南側は北ノ丸跡となっていますが、わたしがここを訪れた平成31年(2019年)2月2日時点では工事中でした。


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振り返ると、水手御門が見えます。

その向こうに見える高層ビルは、ホテルクレメント高松です。

「その4」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-08-03 22:08 | 香川の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

海に浮かぶ要塞、讃岐高松城を歩く。 その2 <桜御門、三ノ丸(披雲閣)>

「その1」の続きです。

高松城三ノ丸にある桜御門跡です。

ここを抜けると、藩主の居住である披雲閣があります。


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櫓門台の石垣が残ります。

門は昭和まで現存していたそうですが、昭和20年(1945年)7月4日の高松空襲焼失してしまったそうです。

石垣には、焼けた跡が見られます。

7月4日といえば、終戦のわずか1ヶ月余り前ですよね。

この終戦ギリギリの段階で、日本各地に残っていた多くの城が焼失しました。

戦争は多くの人の命を奪いましたが、同時に、わが国の歴史的遺産も奪いました。

終戦の決断がもう少し早ければ、救われた命も、そして失わずにすんだ文化遺産もたくさんあったでしょうね。


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門を抜けると、目の前に見附石垣があります。


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その北側には、披雲閣が。


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披雲閣は寛文11年(1671年)頃に藩主の住居として建てられたといわれます。

讃岐高松藩初代藩主の松平頼重の時代です。

そのときの建物は明治になって老朽化により解体され、その後、松平家第12代当主で貴族院議員も務めた松平賴壽によって大正6年(1917年)に再建されました。

当時のお金で15万円という巨費を投じての建築だったそうで、3年の歳月をかけたそうです。


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もっとも、江戸時代の披雲閣は、今の披雲閣の約2倍あったそうですが。


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現在の建物内には142畳敷大書院をはじめ、槙の間、松の間、蘇鉄の間など雅致を生かした各部屋があり、波の間には、昭和天皇・皇后両陛下が2度宿泊されたそうです。


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それにしても、桜御門が空襲で焼失したのに、ここはよく焼けなかったものですね。


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披雲閣の西側から北側にかけて、広大な庭園が広がります。


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この庭園も、大正3年から6年(1914~7年)にかけて披雲閣が建築された際に作庭されたものだそうです。


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庭園内には、昭和天皇・皇后のお手植えの松があります。

いずれも大正時代、皇太子、皇太子妃時代に植えられたものです。


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こちらが昭和天皇のお手植え。


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そしてこちらが香淳皇后のお手植え。


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石碑も建てられています。


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さて、披雲閣を過ぎたところで、「その3」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-08-02 00:46 | 香川の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

海に浮かぶ要塞、讃岐高松城を歩く。 その1 <艮櫓、旭橋、旭門、桜の馬場>

今回は香川県高松市にある高松城を歩きます。

高松城というと、羽柴秀吉の中国征伐で水攻めされた高松城を連想しがちですが、あちらは備中高松城で、現在の岡山県に位置します。

こちらは四国の讃岐高松城

瀬戸内海を挟んでちょうど向かい合わせるような場所に同じ名前の城というのも、ややこしいですね。

ただ、備中高松城は江戸時代に入って廃城になっていますから、二つの高松城が同時に存在した期間は短かったようです。


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現在、讃岐高松城は三重櫓など一部の建物と一部の石垣、堀が現存し、「玉藻公園」として整備されています。


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写真は城跡公園南東隅にある艮櫓中濠

艮櫓は、もともとは東の丸北東の隅櫓として建てられたもので、北東の方角のことを丑寅(艮)ということから、この名前になったそうです。

延宝5年(1677年)築といわれます。

昭和40年(1965年)に当時の所有者であった旧国鉄から高松市が譲り受け、2年の歳月をかけて東の丸より旧太鼓櫓跡のこの地に移されました。


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実は、ここ高松城を訪れるのは2度目で、5年前にも拙ブログで起稿したのですが(参照:雨の讃岐高松城を訪ねて前編後編)、そのときは出張ついでだったため時間があまりなかったのと、天気もだったのでゆっくり見れなかったのですが、この度は休日を利用して足を運び、じっくり数時間かけて歩いてきました。


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艮櫓の北側に橋と門が見えます。


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旭橋旭門です。

かつて大手門は城の南側にあったそうですが、寛文11年(1671年)頃、三ノ丸に藩主の居住である披雲閣が建てられたため、これを廃して新たに東に旭橋を架け、それを渡って旭門から出入りするようになったそうです。


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旭橋は濠に対して斜めに架かっています。

これは、横矢が掛かりやすくしているのだとか。

明治45年(1912年)に石橋に架替えられましたが、それ以前は木橋だったそうです。

旭橋から見た北側中濠

石垣は打込み接ぎです。


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旭門です。

ここから入場料200円が必要です。


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旭門を抜けると、枡形虎口となっています。


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こちらの石垣はきれいな切込み接ぎです。

かつては、枡形の北側には埋門が、南側には太鼓御門があったそうです。


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冒頭で紹介した艮櫓を城内側からみた写真です。


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ここ高松城は天正15年(1587年)に羽柴秀吉から讃岐一国17万3千石を与えられた生駒親正によって、翌16年(1588年)に築城が開始されました。

その縄張り(設計)を行ったのは、藤堂高虎、黒田官兵衛、細川忠興など諸説あります。

いずれも当時の築城には必ず名前が出てくる面々ですね。

城は約3年かけて完成し、「高松」という地名も、このとき付けられたものだそうです。


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その後、寛永17年(1640年)に生駒氏は出羽国矢島藩に転封となり、寛永19年(1642年)に常陸国から北讃岐12万石の領主として入府した松平頼重によって改修されました。


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城跡公園内南にある桜の馬場です。

その名のごとく馬の調練場だった場所で、今でも十分広い芝生広場ですが、かつては現在の2倍ほどの面積があったそうです。


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その桜の馬場の東側にある中濠


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さてさて、今回もまた長くなりそうです。

「その2」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-08-01 07:28 | 香川の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

引田ひなまつり逍遥。

前稿まで引田城の攻城記を起稿してきましたが、その続100名城スタンプがある讃州井筒屋敷を訪ねて来たところ、臨時駐車場が設けられていて観光客がいっぱい。

何かと思って歩いていると、こんなポスターが貼られていました。


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引田ひなまつり

ここを訪れたのは平成31年(2019年)3月2日。

ひなまつりの前日でした。


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この日、たまたま朝にテレビを見ていると、タレントのラッシャー板前さんがこの引田ひなまつりを生中継レポートしていたのですが、わたしがこの日訪れようとしていた引田城と、この引田ひなまつりの町が同じ場所だとは全く気付かず、見るともなしに観ていました。

で、来てみてビックリ。

これ、今朝テレビでやってたやつやん!・・・みたいな(笑)。


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で、せっかくなので、まつり会場を逍遥しました。


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引田では昔から女の子が誕生すると、初節句にこの地域独特の「引田雛」と呼ばれるひな飾りを親族や近所の人に披露する風習があったそうです。

雛人形は母親の実家が準備するのがしきたりだったそうで、豪華なものを各戸競うように披露しあうため経済的負担も大きく、周辺地域では、江戸期以前より「引田には嫁にやるな」といわれていたそうです。


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あまりに華美で家計の負担も大きく、昭和の終わり頃には自治会の申し合わせにより自粛となっていました。

それが、近年、町おこしの一環で数件の有志によって復活され、平成15年(2003年)から開催されて平成最後の今回で17回目を迎えたそうです。


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引田雛は内裏びなが御殿入った御殿雛と、雛壇の横に市松人形を飾るのが特徴だそうです。


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雛人形についてのウンチクはわたしにはわかりませんので、とにかく写真を掲載します。


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引田の町は江戸時代に醤油醸造のまちとして栄え、現在でもその当時の建物が現存しています。

いくつか主だったところを紹介しましょう。


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こちらは元禄5年(1692年)創業の讃州井筒屋敷

引田醤油の名を全国に広めた『引田御三家』のひとつで、現在は引田を代表する建物、歴史資料館として一般公開されています。

引田城の続100名城スタンプもここで押せます。


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この日は人が多すぎて、じっくり建物を撮影できませんでした。


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こちらは松村家の屋敷

江戸時代中期より村内魚の棚において「多島屋」の屋号で魚の卸商を営んでいた豪商だそうです。

建物は国の登録有形文化財に指定されています。


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こちらは泉家の屋敷

明治期より海産物の販売を営み、煮干製造も行っていたそうです。

こちらも建物は国の登録有形文化財に指定されています。


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こちらは山本家の屋敷

江戸時代後期から醤油醸造元を営んでいたそうです。


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こちらは長崎家の屋敷

江戸時代後期から廻船業を営んでいたそうです。


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また、通りの一角には「藤澤南岳誕生地」と刻まれた石碑と説明板がありました。

藤澤南岳は幕末から明治にかけての儒学者で、高松藩に仕え、幕末のギリギリの段階で佐幕派だった藩論を一夜にして勤王派へと転換させ、藩滅亡の危機を救った人物です。

明治以降は大阪の泊園書院を再興するなど、学匠としての地位を築きました。

大阪の「通天閣」名付け親でもあります。


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さて、偶然出会った引田ひなまつりでしたが、良いものを見せていただきました。

備忘録として、ここに紹介した次第です。




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by sakanoueno-kumo | 2019-07-25 23:46 | 香川の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

瀬戸内海を望む讃岐引田城。 その3 <東の丸~北二の丸~大手門~南二の丸>

「その2」のつづきです。

引田城最東端の引田鼻灯台から北西に向かいます。


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誘導板には「東の丸約70m」とあります。


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ここからまた登りになります。


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「東の丸」です。

往時には、ここに火薬を保管する煙硝蔵などの軍事施設があったと推定されています。


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東の丸から東側を見ると、前稿で紹介した引田鼻灯台が見えます。


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沖に浮かぶ小島は、右手前が通念島、左奥が松島


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東の丸は東から西に150mほど左ドッグレッグした曲輪です。

大きな石が散乱しているのは、石垣の名残でしょうか?


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東の丸から北西に向かいます。

途中、女郎島に向う誘導板がありました。

女郎島にまつわる伝説は前稿で紹介しましたが、この日は時間的制約があってパス。


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このあたりから、北二の丸に入ります。

縄張り図によると、このあたりに石垣があるはずなんですが・・・。


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あった!・・・・と思ったら、何やら養生シートで覆われています。

貼り紙には、「ここの石垣は崩れる危険があるので、シートで保護しています」とのこと。

残念。


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と、思いきや、もうひとつの貼り紙によると、ここを下ったところに高石垣があるとのこと。

行ってみましょう。


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ありました!

見事な野面積みの石垣です。


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その説明板。

高石垣の高さは5~6mあるそうです。


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石垣を見ながら、引田城の歴史についてお話しまししょう。

引田城の歴史は古く、その伝承によると、天智天皇6年(667年)、屋島築城に際して引田氏がここに築いたのが始まりとされています。

文献史料に引田城の記述が見られるのは、江戸時代編纂の軍記物語『南海通記』にある応仁年間(1467~69年)に寒川氏が領したというのが初見だそうです。

永正年間(1504~21年)ごろには寒川氏の属する四宮右近が城主となりますが、元亀2年(1571年)、三好長治に城を奪われ、その家臣の矢野氏が入城しています。


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京で本能寺の変が起きた2ヶ月後の天正10年(1582年)8月、四国統一を目指す長宗我部元親は、中富川の戦いで三好一族の十河存保を破り、さらに9月には存保の籠もる勝瑞城(参照:勝瑞城)も攻め落とし、阿波国をほぼ制圧しました。

このとき引田城を守っていたのは十河氏の一族でしたが、存保は讃岐虎丸城へ退却し、中央の羽柴秀吉援軍を求めました。

ところが、その頃秀吉は織田家の後継者争いの真っ只中で、多人数の援軍を送ることが出来ず、仙石秀久を援軍として派遣。

天正11年(1583年)4月に仙石秀久が海上から引田城に入ります。

しかし、長宗我部軍との圧倒的な兵力差はいかんともしがたく、撤退を余儀なくされました。


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以後、引田城は長宗我部氏の配下となりますが、しかし、その元親も、四国をほぼ平定した天正13年(1585年)、秀吉の四国攻めによって降伏し、元来の土佐一国の領有だけを許されるに至ります。


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そして引田城には再び仙石秀久が入城して大規模な改修が行われますが、続く九州平定戸次川の戦いで島津軍に大敗を喫し、逃亡した秀久は所領没収となります。

その後、城主は目まぐるしく代わり、天正15年(1587年)に讃岐一国約18万石を得た生駒親正が入城しますが、引田城の立地が領国の東端に位置するため、同年、聖通寺城に移ります。

その後は、生駒氏のとして機能していたようですが、元和元年(1615年)の一国一城令によって廃城となりました。


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石垣を堪能したので、そろそろ移動しましょう。

縄張り図によると、ここからさらに北西に進んだところに北曲輪があるのですが、特に遺構は残ってなさそうなので、スルーして南に向かいます。


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しばらく進むと、虎口跡と思しき場所に出ます。

縄張り図によると、ここが大手門跡のようです。

かつての大手道は、現在は登山道としては使用できません。


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石垣などの遺構は残っていませんが、大きな石が散乱しています。

これは、石垣の名残でしょうか?


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大手門の南は南二の丸が広がります。

この曲輪をさらに南に進むと、「その1」「その2」で紹介した本丸に繋がります。


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さて、城跡をぐるっと1周しました。

これで引田城の攻城を終わりますが、次稿では、城山を降りて引田の街を逍遥してみたいと思います。

最後に、続100名城のスタンプです。

上の石垣の写真がそのままスタンプになっていますね。


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by sakanoueno-kumo | 2019-07-24 21:23 | 香川の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

瀬戸内海を望む讃岐引田城。 その2 <本丸跡~化粧池~引田鼻灯台>

「その1」のつづきです。

本丸西の郭を後にして、30mほど登ったところに、本丸(天守台)北二ノ丸の分岐点があります。


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本丸(天守台)まで約40mとあります。

行ってみましょう。


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写真左奥に見えるのが先ほどの分岐点の誘導板。

40mというと、このあたりになるのですが・・・う~ん、たしかに土が幾分か盛り上がっていますが、天守台には見えません。

本当に天守があったのでしょうか?


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さらに50mほど尾根伝いに進むと、「南の郭」と書かれた案内板がありました。


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南の郭には、1段高いところになにかのがあります。

何を祀った祠なのかは、説明書きがないのでわかりません。

あるいは、ここが天守台跡でしょうか?


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そこから南の郭を南東に進むと、休憩スペースのような広いスペースがあります。


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どうやら、ここが山頂のようですね。


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南側に引田港が見えます。


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そして南の郭最南端に出ました。

ここでも引田港や引田の城下町が一望できます。


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現在は山麓の町並みと陸続きになっている引田城ですが、往時は海がもっと入り込んでいて、城山の西側のみが陸に通じ、他の三方は海岸に面した断崖だったそうです。

まさに、天然の要害だったわけですね。


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「その1」で紹介した西の郭からここ南の郭までの150mほどの長い尾根が、本丸と考えられているようです。


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で、本丸を後にして、城跡北東に向かいます。

ここから下りになります。


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200mほど下ったところに、木橋があります。


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その橋の北側に大きな溜池が広がっているのですが、ここは、引田城の姫君女中たちが、この池の水を化粧の際に利用していたという伝承があり、「化粧池」と呼ばれています。


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池の周りには石垣が積まれており、この池が人工の溜池ということがわかります。


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石垣は「その1」で紹介した西の郭のものと同じく天正後期のものと見られ、おそらく、天正15年(1587年)に入城した生駒親正の時代か、その前の天正13年(1585年)に入城した仙石秀久の時代のものと思われます。


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きれいに残っていますね。


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現在、化粧池には水は少ししか残っていませんが、往時は、この石垣が隠れてしまうほど水が貯められていたのでしょう。

この大きな貯水池が、女性たちの化粧だけのために使われていたとはとても思いません。

おろらく、城内の生活水として利用されていたのでしょうね。


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さらに北西に進んだ城跡最東端に、灯台があります。


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この灯台は「引田鼻灯台」といい、昭和29年(1954年)に造られたものだそうです。


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灯台より西は断崖になっています。

引田城の時代は、ここに物見櫓のようなものがあったのかもしれません。


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灯台には登れないので、灯台前から瀬戸内海を望みます。

樹木が茂って見えませんでしたが、城山の北側に、女郎島という小さな岩島があります。

「女郎」とは、後世には遊女という意味で使われるようになりましたが、かつては大名などの奥方に仕える女中をそう呼んでいたそうです。

この島は、干潮時には陸続きになりますが、満潮時には離れ小島になるそうです。

この女郎島にまつわる悲恋物語『おせんごろし』という伝承が、ここ引田には残っています。

生駒親正が城主だった時代、おせんという奥女中が、ひとりの若僧侶に落ち、この島で逢引を重ねていたそうです。

ところが、ある日、おせんが待てど暮らせど、若僧侶が姿を表さず、そのうち満潮になり、おせんは城に帰れなくなりました。

無断で逢引をしていたとなれば、お咎めは免れ得ない。

悲嘆に暮れたおせんは、この島から身投げしたそうです。

その後、この島のまわりに赤い小さな魚が現れるようになり、その魚を捕らえて食べると、腹痛を起こすという噂が広まりました。

人々はこの魚がおせんの生まれ変わりだとし、「おせんごろし」と呼ぶようになったんだそうです。


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以上が「おせんごろし」の伝承。

若僧侶、なんで来なかったんでしょうね?

今ならLINE「今日は野暮用で行けませ~ん!(ごめんなさいスタンプ)」で終わりなんでしょうけどね。

今の若い人は、「待ちぼうけ」なんて経験がないかもしれませんね。

「その3」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-07-23 20:35 | 香川の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

瀬戸内海を望む讃岐引田城。 その1 <登山道~本丸西の郭>

今回は香川県の引田城跡を攻めます。

引田城は東かがわ市引田の北側に岬状に突き出した標高82mの城山山頂に築かれています。


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登城口です。

案内板と幟があります。


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「続日本100名城選定」とあります。

引田城は平成29年(2017年)4月6日に日本城郭協会から発表された続日本100名城に、香川県で唯一選定された城です。


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案内図です。

登城口は北の田浦キャンプ場側からと、南の引田港側の2ヶ所にありますが、この日は南側の引田港側からの登城です。


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ともあれ、さっそく登ってみましょう。


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登り始めてすぐに設置されている説明板です。

文献史料に引田城の記述が見られるのは、江戸時代編纂の軍記物語『南海通記』にある応仁年間(1467~69年)に寒川氏が領したというのが初見だそうです。

永正年間(1504~21年)ごろには寒川氏の属する四宮右近が城主となりますが、元亀2年(1571年)、三好長治に城を奪われ、その家臣の矢野氏が入城しています。


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登城開始。


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標高はそれほど高くない山ですが、海沿いに面している山のため、ほぼ標高=比高となりますから、決して楽な登山ではありません。


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登り始めて10分弱、見晴らしの良い場所に出ました。

南側の引田港です。


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さらに登ります。


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いい天気なので、景色が綺麗です。


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登り始めて15分、いきなり石垣が眼前に現れました。


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本丸まで約70m

ええっ!いきなり本丸?

現在の登城コースはかつての大手道とは違うため、いきなり本丸にたどり着くようです。


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ってことは、これは本丸の石垣


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どうやらそのようですね。


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石垣の上に説明板があります。

登ってみましょう。


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説明板です。

本丸西側に位置するこの算木積みは、隙間に間詰め石を用いる古い積み方で、引田城で最初に築かれた石垣と考えられているそうです。


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石垣上に上がってきました。


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先程の説明板の裏にも、何か別の説明文が書かれています。


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大正12年(1923年)に久邇宮良子殿下(昭和天皇皇后)の行啓予定地となったと書かれています。

こんな山の中に皇后様(当時は皇太子妃)がお越しになる予定があったなんて、ビックリです。


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引田城の城主は何度も変わっていますが、石垣は天正後期のものと見られ、おそらく、天正15年(1587年)に入城した生駒親正の時代か、その前の天正13年(1585年)に入城した仙石秀久の時代のものと思われます。


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本丸西の郭まで登ってきましたが、長くなっちゃったので、続きは「その2」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2019-07-22 23:53 | 香川の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)