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カテゴリ:徳島の史跡・観光( 8 )

 

阿波国最大の山城、一宮城攻城記。 その4 <小倉丸~椎の丸~下山道>

「その3」の続きです。

本丸を後にして、一宮城南側に向かいます。


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一宮城の縄張りは大きく北城南城に分かれていて、「その2」「その3」で紹介した才蔵丸、明神丸、本丸が北城、そして本稿で攻める曲輪が南城になります。


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誘導板にある水手丸、小倉丸、椎丸が、南城の曲輪です。


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しばらく歩くと、「投石用の石」と書かれた説明板と石がありました。

たしかに、投げやすそうな大きさの石ですが、これだけをもって「投石用」と断定できるのでしょうか?


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「曲輪跡」と書かれた立札があります。

北城南城の間にも、小さな曲輪がいくつかあります。


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堀切跡


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そしてまた曲輪跡を横切り、南西に向かいます。


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土橋のように見えます。


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「小倉丸」と書かれた誘導板が出てきました。

行ってみましょう。


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「土塁跡」と書かれた立札が見えます。


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土塁の上に登ってきました。


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小倉丸は本丸の南側を防御するように作られた細長い曲輪で、曲輪の西南は高さ2m土塁がめぐっています。

土塁の長さは内側で58mあるそうです。


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土塁の北西の突出した部分は、櫓台になっています。


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ここがその櫓台

現在、城跡の遺構をわかりやすくするために木を伐採している途中のようでした。


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小倉丸を降りて、さらに西へ向かいます。

上の写真は、小倉丸西側の空堀です。


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見事なV字型です。


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道中、「竪堀」やら「土塁」といった立札が随所に見られましたが、いずれも草木に埋もれていて、イマイチわかりづらかった。


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続いて、城跡最南西端にある椎丸にやってきました。


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椎丸は、それほど面積は広くありません。


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縄張り図によると、この椎丸の北側に水手丸があるのですが、その行き道が草木に埋もれてわかりませんでした。

なので、水手丸はスルーすることにしました。


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椎丸から東に下った谷底に、貯水池堤跡があります。

今は少ししか水が残っていませんが、往時は、長い籠城戦に耐えられるほどの水がここに確保されていたのでしょう。

上述した椎丸と水手丸は、この貯水池を守るための役割も果たしていたようです。


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『伊藤文章』、『森古伝記』、『太閤記』、『異本阿波志』などの古記録には、羽柴秀吉四国攻め「水の手」にからむ攻防戦が行われたとの記載があります。

羽柴秀長率いる寄手は、この貯水池を奪って城を落とそうとし、そうはさせまいとする長宗我部元親籠城軍と、ここで激しい攻防が繰り広げられたのかもしれません。


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貯水池から下ったところには、「陰滝」と呼ばれる滝の跡があります。

説明板によると、この岩壁と周囲の曲輪によって、貯水池が守られていたようです。


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さて、この陰滝を過ぎると、緩やかな下山道となり、攻城終了です。

登り始めてから約1時間半の攻城でした。

ちなみに、余談ですが、この日、本丸跡で地元の徳島新聞の記者さんから取材を受け、後日、その様子が新聞に載りました。

紙面を送っていただいたので、載せさせてもらいます。


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氏名は伏せさせていただきますことをご容赦ください。

記者さんによって、「古城愛好家」という肩書をいただきました(笑)。

名刺作ろうかなあ(笑)。


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最後に、続100名城のスタンプを載せます。

ここを訪れたのは平成31年(2019年)3月2日だったのですが、スタンプはそれ以前に押していました。




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by sakanoueno-kumo | 2019-07-18 23:59 | 徳島の史跡・観光 | Comments(2)  

阿波国最大の山城、一宮城攻城記。 その3 <本丸>

「その2」の続きです。

一宮城本丸跡まで登ってきました。

眼前に姿を見せた本丸石垣の迫力に圧倒されます。


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一宮城本丸は標高約144.3mに位置し、ここだけ、総石垣造りとなっています。

石垣に沿っての本丸の大きさは、東北約36m、西北約23mの不等辺三角形で、石垣の高さは約5mあり、反りはほとんどありません。


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虎口は東側の1ヶ所だけです。


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とにかく本丸石垣の周囲を1周してみましょう。


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虎口石段横の石垣。

櫓台のようにも見えます。

虎口には櫓門があったのかもしれません。


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本丸東面から北面に向う細い犬走りのような道です。

鈍角にを設けて横矢を効かせています。


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虎口横の石垣と違って、このあたりは石垣が苔むしています。

たぶん、北東部分なので、陽があまり当たらないのでしょうね。


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振り返ってみると、犬走りの向こうに石垣が突き出しているのが見えます。

あそこが、櫓台と思われる石垣です。


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こちらは北面の石垣。

本当は北東出隅の石垣を写したかったのですが、通路が狭すぎて引きの写真が撮れませんでした。

写真左側がその出隅。

なんとなく、算木積みっぽい形状をしています。


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反対側から見た北面石垣。


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そして、こちらは本丸西面。

ここだけ、一部石垣が積まれていません。

崩れてしまったのでしょうか?


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その向かい側(西側)には、「釜床跡」と書かれた石碑と説明板がありました。

いわゆる炊事場ですね。

あるいは、本丸西側の石垣がない部分には、この釜床跡につながる搦手口があったのかもしれません。


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本丸南西の出隅石垣です。

なんとなく算木積みっぽい積み方です。


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1周してきました。

では、本丸上に登ってみましょう。


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本丸上です。


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本丸には天守台がないので、天守が建っていたかどうかは不明ですが、本丸の南側に礎石跡が見つかっているそうで、天守に相当する何らかの建築物が建っていた可能性は高いようです。


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天正13年(1585年)5月、一宮城は羽柴秀吉四国攻めの主戦場のひとつとなりました。

秀吉は弟の羽柴秀長6万の兵を与えて阿波国を攻めさせると、秀長はそのうち4万の兵でここ一宮城を包囲します。

対する長宗我部元親方の籠城兵は約1万

この兵力差のなか城方はよく守りましたが、同年7月下旬に元親が降伏し、開城となりました。


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その後、秀吉は蜂須賀家政に阿波国を与え、家政は一宮城を居城としました。

現在に残る石垣の遺構は、このときのものと考えられています。

本丸だけにしか石垣が積めなかったのは、予算の都合上だったのでしょうか?


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本丸からの北側眺望です。

下に見えるのが鮎喰川

その向こうの山が、標高197m辰ヶ山です。

あの山に羽柴秀長軍が陣を布いたといわれています。


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本丸の説明板です。

天正14年(1586年)7月、蜂須賀家政は新たに築いた徳島城に移り、一宮城は家臣の益田長行に守らせますが、その後、江戸幕府の一国一城令によって、寛永15年(1638年)に廃城となります。

このとき、石材の一部徳島城に運ばれ、修築に使われたと言われています。


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こちらは案内図です。

才蔵丸、明神丸、本丸北城

案内図で見る本丸より右上部分が南城になります。

「その4」では、南城を攻めます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-07-17 23:41 | 徳島の史跡・観光 | Comments(0)  

阿波国最大の山城、一宮城攻城記。 その2 <才蔵丸~明神丸>

「その1」の続きです。

一宮城の縄張りは大きく北城南城に分かれていますが、その北城の東側にある才蔵丸明神丸を分断する大堀切が下の写真です。


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見事なV字です。

この左側が才蔵丸、右側が明神丸です。


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その説明板。


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反対側からみた堀切です。


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堀切の南側に、才蔵丸に登る虎口があります。


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入口に立つ石碑は「才蔵丸」ではなく「財蔵丸」と刻まれています。


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才蔵丸跡です。


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広い。


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才蔵丸は一宮神社横の登城口から最初に到達する主要曲輪で、後世の呼び方でいえば三の丸にあたると考えられます。

曲輪の形態は自然地形に沿って不整形で東西に細長く、曲輪内は平坦ではなく東方向にやや傾斜しています。

標高は129.2m


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才蔵丸からの西側の眺望です。

正面奥の山が、徳島市街を望む眉山です。


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さて、才蔵丸を出て西に進みます。

右は明神丸、左は竪堀となっています。


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そして門跡

5段ほどの石段跡があります。


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石段を上がると、右が明神丸、左が本丸となっています。

まずは明神丸に向かいます。


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明神丸虎口前の石碑。


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そして、明神丸周辺の案内図です。

「その1」の最後に紹介したのが「湧水」と書かれたところ。

そこを上がって、本稿の最初に紹介したのが才蔵丸で、堀底を通って門跡を抜け、右に折れて明神丸に向かっています。


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明神丸の虎口です。


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明神丸跡です。

明神丸の標高は140.9mだそうで、本丸との高低差は3.4mしかなく、後世の呼び方でいえばニの丸にあたると考えられています。


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南北朝時代、一宮城主の一宮(小笠原)長宗は南朝方に属していましたが、長宗の死後、息子の一宮成宗が北朝方の細川頼之との戦いに敗れたため、以後、一宮氏は北朝方に下り、細川氏の配下となります。

しかし、戦国時代に入って細川氏を追い落とした三好氏が阿波国の実験を握ると、姻戚関係を結ぶなどして三好氏に従うことになり、一宮成祐の時代には三好家臣団のなかでも重要な地位となっていました。

しかし、三好長治との間に不和が生じ、天正5年(1577年)の荒田野の戦いでは三好軍と敵対し、長治を討ったものの、孤立無援となって長宗我部元親の軍門に下ります。

天正10年(1582年)には長宗我部元親の配下として中富川の戦いの参戦し、元親の阿波国平定に貢献しますが、戦いが終わると、元親は一宮成祐が三好康長と通じていたとの理由をつけて殺害し、一宮氏を滅ぼします。

一宮城を手に入れた長宗我部氏は、南城に江村親俊、北城には谷忠澄を置いて城を守らせました。


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明神丸からの北西の眺望です。

はるか遠くに見える平野が徳島市街です。

中央右側の山が眉山


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景色を堪能したのち、明神丸を出て本丸に向かいます。


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本丸と明神丸の間は、長さ64m、幅13mの帯曲輪となっています。


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そして帯曲輪を抜けると、ドドーンと本丸の石垣が現れます。

これはスゴイ!

じっくり見たいので、続きは「その3」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2019-07-13 17:54 | 徳島の史跡・観光 | Comments(2)  

阿波国最大の山城、一宮城攻城記。 その1 <登山口~湧水>

先日の稿で紹介した勝瑞城跡から直線距離で12kmほど南西にある一宮城跡を訪れました。

ここも、勝瑞城跡と同じく平成29年(2017年)4月6日に日本城郭協会から発表された続日本100名城に選定された城です。

徳島県下ではこの2ヶ所が選ばれました。


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一宮城は徳島市の南西部、鮎喰川右岸にある東竜王山系の尾根先端にある標高144.3mの山頂にあります。

登山口は、一宮神社と四国八十八箇所霊場の第十三番にあたる大日寺の近くにあります。

上の写真は徳島県道21号神山鮎喰線沿いにある石碑です。


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その横にある説明看板。

一宮城の歴史は古く、延元3年/暦応元年(1338年)に阿波国守護の小笠原長房の孫の小笠原長宗が、一宮宗成を滅ぼしてこの地に築城したのがはじまりとされ、以後、小笠原氏は「一宮」の姓を使うようになり、天正7年(1579年)に長宗我部元親が侵攻するまで、240余年の長きに渡って一宮氏が代々居城としてきました。


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県道から30mほど歩いたところに、登山口があります。


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登山口にも、説明板や石碑が設置されています。

続日本100名城スタンプも、ここで押せます。


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登り始めてしばらくは石段が整備されています。


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何か看板が見えてきました。


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「神宮寺跡」と刻まれた石碑の横に「経筒出土地」と書かれた説明板があります。

それによると、明治40年(1907年)に12世紀頃のものと推定される高さ33cm、口径12cmほどの銅製の経筒が出土したそうです。


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さらに進みます。


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「竪堀」と書かれた立札があります。


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たしかに竪堀のように見えますが、草木に埋もれてイマイチ形状がつかめません。


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竪堀の前が分かれ道になっていて、本丸とは反対側の北側に尾根伝いに進むと、出丸跡のような場所に出ます。


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説明板には「倉庫跡」と書かれています。

一宮城には2ヶ所の倉庫跡が確認されているそうで、そのうちの1ヶ所がここ。

穀類や武器などを保管していた場所と考えられ、炭化麦が出土したそうです。


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倉庫跡からの北東眺望。

徳島市街方面です。


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倉庫跡を後にして本丸を目指します。

道脇には、石垣跡のような遺構が見られます。

石垣にしては、少し石が小さいようにも思えますが。


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その石垣の上は、曲輪跡のようです。


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曲輪跡です。


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曲輪跡はけっこう広く、2段構造になっています。


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段になっているのがわかるでしょうか?


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下の段から見た曲輪跡です。


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曲輪跡を出て、本丸に向かいます。

本丸まで残り300m


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手前の誘導板には、「倉庫跡・新正邸跡、天満谷越え」と書かれていましたが、どう見ても進むべき道がなく、険しそうなのでスルーしました。


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突き当りには、「湧水」と書かれた説明板が設置されています。


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一宮城には湧水が所々にあったそうで、飲料水を確保できたことで、長期の籠城が可能な城として長く使用されたのでしょう。


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さて、ここを登れば本格的な城跡の遺構が始まるのですが、長くなっちゃったので、「その2」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-07-12 00:07 | 徳島の史跡・観光 | Comments(2)  

阿波三好氏の居城、勝瑞城を歩く。

先日の稿で紹介した摂津の芥川山城主だった細川氏三好氏のルーツとなる城が、徳島県にあります。

続日本100名城に選定された勝瑞城です。


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県道松茂吉野線沿いに、「勝瑞城跡」と記された誘導板があります。

矢印は北側を誘導しています。


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現在、勝瑞城跡は見性寺というお寺になっています。

見性寺は三好氏の菩提寺で、江戸時代にここに移され三好氏代々の墓を守ってきました。


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入口には、「史跡勝瑞城趾」と刻まれた石碑と「西国守護三好長治公一族菩提所」と刻まれた石碑が並んで建てられています。

三好長治は、畿内の覇者となった三好長慶の甥です。


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勝瑞城の築城時期は定かではなく、一説には、承久の乱のあった鎌倉時代とも言われますが、確認できる史料としては、室町時代に阿波国守護となった細川氏によって、遅くとも15世紀後半には築かれていたと考えられています。

もっとも、その頃は城というより守護所としての居館で、城郭として整備されたのは、天文22年(1553年)に下剋上によって覇権を握った三好氏の時代になってからと思われます。


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以後、天正10年(1582年)に土佐の長宗我部元親の攻め滅ぼされるまで、三好氏3代の本拠となりました。


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境内に設置された説明板です。


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また、境内には、三好氏4代の墓が並んでいます。


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左から、三好之長、三好元長、三好義賢、三好長治の墓石。

3番目の三好義賢が天文22年(1553年)に守護の細川持隆を殺害し、下剋上を果たしました。


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同じく境内には「勝瑞義冢碑」があります。

「義冢」とは、戦で命を落とした名もなき兵の墓という意味です。

説明板によると、四国正学といわれた徳島藩儒官・那波魯堂(1727~89年)の撰だそうで、三好氏の盛衰と戦没者の慰霊文を記した貴重なものだそうです。


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石碑の裏側に刻まれているのが、その慰霊文のようです。

わたしには、これを読解する力はありません。

勝瑞城は、京で本能寺の変が起きた2ヶ月後の天正10年(1582年)8月から9月にかけて、四国統一を目指す長宗我部元親と三好一族の十河存保の間の激戦の舞台となりますが、そのときの戦死者を追悼した慰霊文でしょうか?


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境内には、遺構といえるようなものはあまり残っていないのですが、一角に少しだけ土塁跡と見られる場所が確認できます。


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その説明板です。


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見性寺の周囲には、水濠跡と思われる池で囲われています。


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で、境内を出て県道松茂吉野線沿いに戻ると、今度は南側に向けて「勝瑞館跡」と記された看板があります。

行ってみましょう。


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最近建てられたであろう新しい石碑があります。


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以前、ここには鉄工所があったそうですが、平成9年(1997年)に協力を得て発掘調査を行ったところ、大量の土師器皿国内外産陶磁器類などが出土し、礎石建物跡などが検出されたそうです。

そこで、平成11年(1999年)から本格的な発掘調査が行われはじめ、現在もなお、調査は続いています。


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現場には、「発掘調査のあゆみ」と題した看板が設置され、調査の過程が紹介されています。


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案内板です。


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こちらは、濠跡礎石建物跡の説明板です。


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平成13年(2001年)には勝瑞城跡と勝瑞城館跡と合わせて国の史跡に指定され、更に、平成19年(2007年)には新たに発見された館跡の東側部分8800㎡が国の史跡に追加指定され、そして、平成29年(2017年)4月6日には、日本城郭協会から発表された続日本100名城に選定されました。

最後に、その続日本100名城のスタンプを載せます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-07-11 00:26 | 徳島の史跡・観光 | Comments(0)  

年の瀬の阿波国紀行備忘録 その2 「徳島城跡」

徳島城址は、徳島中央公園として市内中心部にあります。
天正13(1585)年、豊臣秀吉四国征伐で勲功をあげた蜂須賀正勝(小六)が、阿波国19万石を与えられますが、入国してまもなく、高齢を理由に嗣子の家政に家督を譲り、その家政が徳島城を築城したました。
その後、蜂須賀家は家政の嗣子・至鎮大阪の陣での功績により淡路国も加増され、以後、江戸時代を通じて14代に渡ってここ徳島城に居城し、阿波国・淡路国の両国26万石を支配します。

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上の写真は大手門跡です。

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そしてこちらは南麓曲輪
石垣隅に隅櫓、橋向かいの石垣上に旗櫓があったそうです。

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上の写真は鷲の門
この鷲の門は、城の巽(南東の方向)に位置する表口見付の門で、説明看板によると、その造りは脇戸付きの薬医門で、幕府に鷲を飼うからと申し立て建設したところから鷲の門の名があると伝えられているそうです。
当時の門は、昭和20(1945)年の空襲によって焼失してしまったそうで、現在のものは、平成元(1989)年に復元されたものだそうです。

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徳島城は、標高61mの城山に建つ平山城でしたが、明治6(1873)年のた廃城令によって存城処分となり、その後、明治8(1875)年に建築物のすべてが取り壊され、いまでは石垣のみが当時の面影を偲ばせています。

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徳島城の石垣は、「阿波の青石」として有名な緑色片岩を用いた「緑色の石垣」として知られているそうです。
偏平に割れ、城郭のような 大規模な石垣を築くのに適しているとは言えないものだそうです。

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天守跡です・・・といっても、何もないただの原っぱですけどね(笑)。

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城山から城下を見渡した写真です。
標高たった61mとはいえ、山頂まで登るのは、おじさんには結構な運動でした。

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城山の麓の御殿跡には、蜂須賀家政の銅像が建てられていました。
なぜ家祖の小六(正勝)ではなく家政なのかと思ったのですが、考えてみれば徳島城を築城したのは家政であって、家祖は正勝でも藩祖は家政なんですね。

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でも、説明看板によると、戦前は、野太刀と長槍を持った甲冑姿の小六の銅像が建っていたそうですが、戦時中に供出されてしまったそうです。
で、昭和40(1965)年に、この家政像に生まれ変わったそうで・・・。
だったら、なんで小六にしなかったんでしょうね。

さて、だらだらと思いついたまま綴ってきましたが、そんなわけで、そろそろ出張ついでの徳島城址レポートを終わります。
このあと徳島ラーメンを食べて、仕事に戻ったわたしでした。

追記
2017年より日本100名城スタンプの収集をはじめました。

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by sakanoueno-kumo | 2014-01-23 22:56 | 徳島の史跡・観光 | Comments(2)  

年の瀬の阿波国紀行備忘録 その1 「淡路島と追憶の二軒屋駅」

昨年末、出張で四国徳島を訪れたのですが(参照:阿波国徳島のクリスマスイブなう!!)、遅ればせながら、そのときの備忘録です。
出張といっても、わがまち神戸から徳島市は、車で1時間半ほどで行けちゃいますから、同じ兵庫県内の北部に行くほうが遠いくらいです。
つい十数年前までは、四国は遠いイメージがありましたが、今では陸続きのようなものですからね。

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写真は、淡路島側から見た明石海峡大橋です。
普段わたしは、この反対側(本州側)からの景色を毎日見ているのですが(参照:2011年元旦の昼下がり、新年のご挨拶。)、神戸側からだとどうしても逆光になるので、橋が綺麗に見えるのは、この淡路島側からのような気がします。
いまさら紹介するまでもないですが、全長3,911m、中央支間1,991mという世界最長の吊り橋で、主塔の高さは300mもあります。
東京タワーより少し低いくらいですね。
人類は、よくこんな大それたものを造ったものです。

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続いてこちらは、淡路島と四国を結ぶ大鳴門橋です。
撮影は淡路島側から。
こちらは、明石海峡大橋と比べて、長さも高さも約半分です。
この二つの橋が掛かったことで、関西と四国はずいぶんと近くなりましたよね。
いうなれば、淡路島自体が四国と本州を結ぶ橋のようなもので・・・というと、淡路島の方々から怒られそうですが(笑)。
淡路島は、『古事記』によれば日本列島で最初に生まれた島とされ、伊奘諾尊、伊奘冉尊の2神が最初に国生みを行った場所とされています。
いわば、私たち日本人の聖地のような島ですね。
橋なんて馬鹿にしちゃいけません(笑)。

で、淡路島をあとにして、徳島に到着して最初に目にしたのがこれ。
         ↓↓↓
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JR徳島駅前にある郵便ポストです。
徳島といえばなんといっても阿波踊りですが、これには笑っちゃいました。

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年末の慌ただしいなかの出張だったので、観光の時間などとれない予定だったのですが、ちょっとした手違いから2時間ほど空き時間ができてしまい、だったら、せっかくだからと、徳島城趾徳島中央公園を訪れました。

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公園内に展示されていたSLです。
説明看板によると、大正12年から昭和44年までこの地で活躍した、「汽車ぽっぽ」の愛称で親しまれた8620形式蒸気機関車だそうです。

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とくにSLなどに興味のないわたしなので、普通ならスルーするところだったんですが、ふと目に止まったのが、駅のプラットホームをイメージしたレトロ看板に書かれた「にけんや」という文字でした。

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実は、わたしは幼いとき、親父の仕事の転勤で3年間ほど徳島に住んでいたことがあるのですが、そのときの最寄りの駅が、この二軒屋駅でした。
わたしが住んでいたのは昭和45年から48年、幼稚園の2年間と小学校1年生の夏休みまでなので、断片的な記憶しか残っていないのですが、徳島から神戸に移転して間もなく親父が病死したため、親父との思い出は、ほとんど、ここでの記憶です。

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最寄りの駅の名称なんてすっかり頭から消えていたのですが、この看板を見た瞬間、「あ!ここだ!!」と、思い出しました。
二軒屋駅から親父に手を引かれて家に帰った道すがらの景色が、この看板のおかげで記憶の奥底から引き出されたんです。
ちょっと感傷に浸っちゃいましたね。
で、思わず写真におさめた次第です。
そもそも、立ち寄る予定のなかった公園だったわけで、思わぬところで思わぬ出会いがあるものです。

と、若干センチメンタルジャーニーになったところで、長くなっちゃったので次稿へつづく・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2014-01-22 23:25 | 徳島の史跡・観光 | Comments(0)  

阿波国徳島のクリスマスイブなう!!

スマホからの投稿です。

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ただいま、出張で徳島市に来ています。
写真は徳島駅ではなく、徳島城址の徳島中央公園内にある駅看板です。
詳しくはまたの機会に。


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by sakanoueno-kumo | 2013-12-24 12:41 | 徳島の史跡・観光 | Comments(0)