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カテゴリ:福井の史跡・観光( 14 )

 

一乗谷朝倉氏遺跡を歩く。 その5 「朝倉義景・朝倉孝景墓所」

「その3」で紹介した朝倉氏館跡の東南隅旧松雲院墓地内に、第11代当主の朝倉義景墓所があります。


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木標には「五代」とありますが、朝倉氏の拠点を一乗谷に移した朝倉孝景を初代とした場合、義景は5代目になりますが、越前国に入国した朝倉広景を初代とすると、義景は11代目となります。

当ブログでは、11代とさせてもらいます。


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こちらが、その義景の墓です。


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朝倉義景は、天正元年(1573年)8月20日、刀根坂の戦い(一乗谷城の戦い)織田信長に敗れ、従兄弟の朝倉景鏡の勧めで賢松寺に逃れていましたが、そこで景鏡の裏切りに遭い、自刃します。

この墓は天正4年(1576年)に村民の建てた小祠が始まりで、寛文3年(1663年)に福井藩主の松平光通によって現在の墓塔が立てられたそうです。


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義景の死によって朝倉氏は滅亡し、義景は最後の当主となります。

義景の首は信長家臣の長谷川宗仁によって京都で獄門に曝され、その後、浅井久政・長政父子とともに髑髏に箔濃を施された話は、あまりにも有名ですね。

その髑髏をにして酒を飲ませたという逸話は、後世の作り話といわれています。


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一乗谷遺跡内には、もう1ヵ所、朝倉氏の墓所があります。

「その4」で紹介した中の御殿跡の東にある山道を登ります。


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これが、その墓所。

7代目当主・朝倉孝景の墓所です。


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木札には「初代」とありますが、上記と同じ理由で当ブログでは7代目とします。

7代目当主・朝倉孝景は、朝倉氏の拠点をここ一乗谷に移した人物です。


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朝倉氏は代々、越前守護代甲斐氏、尾張守護代織田氏とともに、三管領筆頭で越前・尾張・遠江守護の斯波氏の宿老を務めていました。

応仁元年(1467年)に応仁の乱が始まると、孝景は当初は西軍に属して京都で戦いましたが、文明3年(1471年)に越前に帰国し、越前守護代甲斐氏に代わって守護代職になることを条件に、東軍(幕府側)に寝返りました。

このため、甲斐氏と越前支配をかけた激しい戦いを展開し、文明7年(1475年)、越前をほぼ平定します。

ところが、守護斯波氏は孝景の越前支配を「越前押領」とみなし、文明11年(1479年)には、東軍(幕府側)に帰順した甲斐氏や二宮氏など被官人を引きつれ、「朝倉退治」と称して越前に下国、一進一退の戦いが続きます。

この戦いの最中、文明13年(1481)7月、孝景は病死しました。


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孝景の墓は、その法名から英林塚とも呼ばれます。

高さ約2mの宝篋印塔で、昔から、越前に危機が迫ると鳴動するとの伝説があるそうです。


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さて、朝倉氏5代103年の歴史をもつ一乗谷朝倉氏遺跡をめぐってきましたが、本稿をもって終わりにします。

本当は、遺跡の東にある一乗谷城跡にも登りたかったのですが、その時間がとれませんでした。

また今度の機会ということで。

最後に、日本100名城のスタンプを載せておきます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-03-27 00:34 | 福井の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

一乗谷朝倉氏遺跡を歩く。 その4 「庭園~中の御殿跡~諏訪館跡」

「その3」のつづきです。

朝倉氏館跡の東の高台を上ると、湯殿跡庭園があります。


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一乗谷朝倉氏遺跡には、多くの庭園が遺存していますが、そのなかでも、湯殿跡庭園、南陽寺跡庭園、諏訪館跡庭園、義景館跡庭園の4庭園が、「一乗谷朝倉氏庭園」として平成3年(1991年)に国の特別名勝に指定されました。


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湯殿跡庭園は4庭園のなかでも最も古く、10代目当主の朝倉孝景の時代に造られたと推定されています。

説明板には「4代孝景」とありますが、一乗谷を拠点としてから4代目ということで、越前国に入国した朝倉広景を初代とすると、孝景は10代目となります。

ちなみに、一乗谷に拠点を移した7代目当主も「孝景」というので、ややこしいんですが・・・。


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湯殿跡庭園は南北に細長い約100㎡の池を中心に、その周囲に巨石が豪放に配置されています。

現在、池には水はなく、わたしの目にはただの岩石群にしか見えませんでした。


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湯殿跡庭園の南にある大きな空堀跡です。


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石垣も少し残存しています。


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空堀跡に架けられた橋を渡ると、広い敷地があります。


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ここは中の御殿跡で、足利義昭から従二位に叙せられた朝倉義景の母・光徳院が居住したと伝えられています。


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その案内板です。


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建物跡の礎石が並びます。

その向こうに見える草が生えてない部分は、池跡だそうです。


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中の御殿跡南門の石垣です。


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中の御殿跡東側の高台に上り、中の御殿跡を見下ろします。

遠くに見えるのは、「その2」で紹介した復原町並です。


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中の御殿跡から更に南下すると、諏訪館跡があります。

諏訪館は朝倉義景が4人目の側室だった小少将のために造ったと伝えられる館です。


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その敷地内南東には、諏訪館跡庭園があります。


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諏訪館跡庭園は一乗谷の庭園のなかでも最も大きな規模のもので、上下二段構成の回遊式庭園です。


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上段は滝石組湧泉石組、下段は大きなヤマモミジの下に高さ4.13m、幅2.5m日本最大の滝副石を使った豪壮な滝石組があります。


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滝副石の表面には、弘化4年(1847年)に心月寺十八世月泉和尚の筆により、朝倉教景、朝倉貞景、朝倉孝景の法号が刻まれています。


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湯殿跡庭園、南陽寺跡庭園、諏訪館跡庭園の3庭園は、発掘調査以前より庭石が地上に露出していたため、昭和5年(1930年)に国の名勝に指定されていたそうですが、その後の管理が不十分であったため、荒廃していたそうです。

その後、昭和42年(1967年)から文化庁指導のもとに整備が行われ、昭和62年(1987年)には湯殿跡、諏訪館跡で湧水用の石組溝や暗渠が発掘され、現在の姿になったそうです。


もう1回、シリーズを続けます。

「その5」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-03-21 11:29 | 福井の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

一乗谷朝倉氏遺跡を歩く。 その3 「朝倉氏館跡」

「その2」の続きです。

一乗谷朝倉氏遺跡の復原町並の東側に流れる一乗谷川を渡ると、堀に囲われた朝倉氏館跡があります。

その入口には唐門があります。


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これは復元ではないそうですが、朝倉氏の時代にはなかった門で、朝倉氏滅亡後に豊臣秀吉朝倉義景の菩提を弔うために建てた松雲院の寺門だそうで、その後、江戸時代中期に再建されたものだそうです。


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唐門の幅は2.3mあります。


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唐門を潜ると、広大な敷地が広がります。

その背後に見える標高473mの山の山頂に一乗谷城があったのですが、この日は山城には登っていません。


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説明板です。


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西、南、北の三方を高さ1.2mから3mほどの土塁で囲われています。


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かつてはその土塁の上に、があったとされています。


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「垜(あずち)」と書かれています。

垜とは、弓場で的をかけるために土を山形に高く盛ったもののことだそうです。


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敷地内平坦部の面積は約6,400㎡あり、17棟の建築物があったそうです。


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敷地内にはその建物の礎石跡が整然と並びます。


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こちらは倉庫跡のようです。


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こちらは台所跡


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こちらは館内最大の常御殿跡です。

東西約21.4m、南北約14.2mあるそうです。


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その常御殿跡の南には、庭園跡があります。

一乗谷朝倉氏遺跡には、多くの庭園が遺存していますが、そのなかでも、湯殿跡庭園、南陽寺跡庭園、諏訪館跡庭園、そしてここ義景館跡庭園の4庭園が、「一乗谷朝倉氏庭園」として平成3年(1991年)に国の特別名勝に指定されました。

他の3庭園と違って、この義景館跡庭園は完全に埋没していたものを、昭和43年(1968年)の発掘調査で発見されたものだそうです。

この庭園を囲むように接客用の館が建てられていたと考えられています。


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館跡東側の高台に上り、館跡を見下ろします。

中央のいちばん広い区画が常御殿跡。


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その手前に見える池のところが、義景館跡庭園です。

義景は、のちに室町幕府の第15代将軍となる足利義昭が上洛への助力を要請するために訪れてきたとき、この館に迎えて盛大に饗したと伝わります。

義昭は2年間一乗谷に滞在しますが、義景には上洛する気はなく、その後、朝倉氏に仕えていた明智光秀の仲介により、織田信長を頼ることになるんですね。


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遺跡は広大です。

シリーズは「その4」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-03-20 01:42 | 福井の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)  

一乗谷朝倉氏遺跡を歩く。 その2 「復原町並み」

「その1」の続きです。

広大な一乗谷朝倉氏遺跡の一角に、城下町を復原したゾーンがあります。

今回はその復原町並を歩きます。


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復原町並は土塀で囲われています。


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塀に囲われた重臣の屋敷が山側に並び、計画的に造られた道路を挟んで武家屋敷や庶民の町屋が形成されていた様子がリアルに再現されています。

発掘された石垣建物礎石をそのまま使い、建具なども出土した遺物に基いて忠実に再現されています。


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町屋の入口には色とりどりの暖簾がかけられています。


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こちらの暖簾には「刃」という文字があります。


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どうやら鍛冶屋のようですね。


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こちらは染物屋


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なかには染料の瓶がならびます。


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こちらの建物には暖簾がかかっていませんが・・・。


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中に入ると、焼き物がずらりと並んでいました。

陶器屋のようです。


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裏庭に出てみました。

庭には隣家との垣根がありません。


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井戸跡ですね。


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こちらは、どうやら武家屋敷の門のようです。


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武家屋敷は町家と違って四方を土塀で囲われています。


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敷地内には6間×4間主殿があり、あと、納屋離れもあります。

庭の中央には井戸が。

これらはすべて、発掘された礎石に基いて復原されたものです。


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こちらは使用人が暮らしていたとされる納屋です。


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です。


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こちらが主殿です。


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入ってすぐの台所では、使用人たちが食事の準備中です。


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奥の座敷では、武士が将棋を指しています。

その横には「越前朝倉象棋」と書かれた看板が見えます。

調べてみると、普通の将棋とはちょっと違うみたいで、「酔象(すいぞう)」と呼ばれる駒を使うそうです。

酔象は駒を並べたとき王将のすぐ前に置くそうで、真後ろ以外の7方向へ1マスずつ移動でき、さらに、相手陣に入ると成って「太子」となり王将と同じ動きをするそうです。

また、自軍の王将がとられてしまっても、王将の代わりとして試合を続行できるんだそうで・・・。

いわば王の影武者ですね。

昔の将棋は、実践的です。


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その隣にはが展示されていたのですが、角度的に撮影が難しかったので、その説明板のみ撮影。

朝倉氏最後の当主・朝倉義景と友好関係にあった北近江の小谷城主・浅井長政の厚い信義にあやかって、平成9年(1997年)に作られた鎧だそうです。

義景と長政、織田信長によって薄濃の髑髏にされたふたりですね。

平成になって再び同盟を結んでいたとは知りませんでした。


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さて、復原町並をあとにして、「その3」では朝倉氏館跡を歩きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-03-15 20:09 | 福井の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

一乗谷朝倉氏遺跡を歩く。 その1 「下城戸跡~武家屋敷跡」

福井県福井市の市街地から東南に10kmほどのところある一乗谷朝倉氏遺跡を訪れました。

ここは、文明3年(1471年)から天正元年(1573年)までの103年間、戦国大名の朝倉氏が領国支配の拠点とした場所で、一乗谷城を中心とする城下町の跡が、そのままそっくり埋もれていたものを、昭和42年(1967年)から進められた発掘調査によって、広大な遺跡が地上に出現したという貴重な遺跡です。


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一乗谷は東、西、南を山に囲まれた谷で、南北の谷幅が最も狭まった場所に城戸を設けて防御を固め、その間の長さ約1.7km「城戸ノ内」に、朝倉館(武家屋敷)をはじめ、侍屋敷、寺院、職人や商人の町屋が計画的に整備された城下町が形成されていました。

上の写真は、その最北部の「下城戸跡」に建てられた石碑です。


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遺跡案内図です。

下部の「現在地」表記の場所が、下城戸跡です。


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下城戸跡にある幅18m、高さ5m、長さ20mの土塁跡です。

かつては長さ50mほどあったと推定されているそうです。


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土塁の横の入口部分は、枡形虎口のかたちをした門跡があります。


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積まれている石は重さ10t超の巨石ばかりで、なかには40tを超えるものもあるとか。


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下城戸跡から1.5kmほど南下したところにある駐車場に車を停めて、遺跡をめぐります。

上の写真はその案内図です。


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有料区域の遺跡です。

写真右側に見える土塀は、復元街並の区画です。


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遺跡はとにかく広大で、広大すぎるため写真では伝わりづらいですね。


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朝倉氏はかつて但馬国を拠点としていた豪族でしたが、南北朝時代に朝倉広景が足利一族の斯波高経に従って越前国に入国しました。

その後、7代当主の朝倉孝景のとき、応仁の乱での活躍をきかっけに一乗谷に本拠を移し、斯波氏、甲斐氏を追放して越前国を平定しました。

以後、孝景、氏景、貞景、孝景、義景5代103年間にわたって、この地が越前国の中心として栄えます。


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この103年間の繁栄はたいへんなものだったようで、雪国でありながら京や奈良の貴族や僧侶などが大勢下向し、「北陸の小京都」と呼ばれていたといいます。

ところが、天正元年(1573年)の刀根坂の戦い(一乗谷城の戦い)織田信長に敗れ、朝倉氏は滅び、城下町も焼き討ちにあって灰燼に帰します。


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このあたりは武家屋敷が立ち並ぶ地区だったようです。


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礎石跡が規則正しく並んでおり、かつて建物があったということが確認できます。


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井戸跡ですね。


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とにかく広大すぎて、写真で見ただけじゃただの空き地ですね(笑)。

この遺蹟の素晴らしさはドローンでもなけりゃ伝わらないですね。

「その2」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-03-14 09:49 | 福井の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

日本最古の現存天守、丸岡城を訪ねて。 その3 <本丸>

「その2」丸岡城天守を制覇しましたが、本稿は天守周辺を歩いてみます。

残念ながら本丸を囲んでいた堀は埋め立てられていて、天守の建つ丘の上以外はその遺構を見ることはできません。


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本丸南側には、立派な食い違い虎口のかたちをした石垣と石段が残ります。

かつてはここに櫓門のようなものがあったのでしょう。


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その横には、木造の建物で覆われた井戸があります。

説明板によると、織田信長が越前の一向一揆を平定後、柴田勝豊がこの地に築城しますが、一向一揆の残党が攻撃を仕掛けてくることがしばしばあったそうで、しかし、その都度、この井戸より大蛇が現れ、城に「かすみ」をかけて危機から救った・・・という伝説があるそうです。

この伝説から、丸岡城を別名「霞ヶ城」と呼ぶようになった、と。

現在でも、春先などに「かすみ」に覆われた「霞ヶ城」を見ることができるそうです。

大蛇は現れないと思いますが(笑)。


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丸岡城の石垣はすべて野面積みですが、そのなかでも、大小さまざまな石が使用されている「野面乱積(みだれづみ)」という工法だそうです。


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角が鈍角に積まれた様式は「しのぎ積み」と呼ばれ、古い積み方です。


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本丸の丘の上には、古い石の祠があり、その横には「お静慰霊碑」と刻まれた比較的新しい石碑があります。

以下、説明板の文章をそのまま引用します。


伝説「人柱お静」


これは柴田勝家の甥、柴田勝豊が天正四年(一五七六)に丸岡に築城の際、天守閣の石垣が何度積んでも崩れるので人柱を入れるように進言するものがあった。

そしてその人柱に選ばれたのが二人の子をかかえて苦しい暮しをしていた片目のお静であった。

お静は一人の子を侍に取りたててもらうことを約束に、人柱になることを決意し、天守閣の中柱の下に埋められた。

それからほどなくして、天守閣は立派に完成した。

しかるに勝豊は他に移封し、お静の子は侍にしてもらえなかった。

お静の霊はこれを恨んで、毎年、年に一度の藻刈りをやる卯月のころになると、春雨で堀には水があふれ、人々は、“お静の涙雨”と呼び小さな墓をたて霊をなぐさめた。

「ほりの藻刈りに降るこの雨は、いとしお静の血の涙」という俗謡が伝えられている。


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この種の人柱伝説は、各地の城に伝わっています。

それだけ多く伝わっているということは、「霊」云々は別にして、「人柱」という無慈悲な慣わしが各地で本当に行われていたことを意味しています。

実際、現在の皇居(かつての江戸城)から、大正関東大震災の際に倒壊した櫓の石垣のなかから、頭の上に古銭が1枚ずつ載せられた16体の人骨が発見され、皇居から人柱かと報道されて大騒ぎになったという事実もあります。

そういう時代だったといえばそれまでですが、惨い歴史ですね。


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初代城主・柴田勝豊の陣幕毛氈床几3点セットです。

毛氈はたぶん、元はだったんでしょうが、紫外線で色が飛んじゃってます。


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そして、同じ本丸公園内には、あずまやのなかに不気味な石棺が。


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これは「牛ケ島石棺」と呼ばれる古墳時代の棺で、丸岡町牛ケ島の東方にあった古墳(御野山古墳)から出土したと伝えられるものだそうです。

丸岡城とは関係ありませんが、おなじ丸岡町の史跡としてここに展示しているんでしょうね。


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丸岡城の城主は柴田勝豊のあと、柴田勝家の家臣・安井家清に代わりますが、勝家が羽柴(豊臣)秀吉によって北ノ庄城で滅ぼされると、この地は丹羽長秀の所領となり、その家臣の青山宗勝を城主とします。

しかし、その子・青山忠元のときに関ヶ原の戦い西軍に与したため改易

越前国には徳川家康の次男・結城秀康が入封して北ノ庄城(のちの福井城)を築城し、ここ丸岡城には秀康の家臣・今村盛次2万6千石を与えられ入城しました。

ところが、その今村盛次は越前騒動に連座して失脚

幕府より附家老として福井藩に附せられた本多成重4万3千石で新たな城主となり、その後、福井藩より独立して丸岡藩となり、本多家は大名となります。

ところがところが、その本多家もお家騒動により4代で改易

代わって有馬清純が越後国糸魚川藩より5万石で入城し、以後、幕末に至るまで8代続きました。


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現存天守12城のひとつに数えられる丸岡城ですが、天守以外の遺構はほとんど残っておらず、堀も埋め立てられ、公園の丘の上に天守だけがあるといった感じでした。

城好きにとっては、天守だけじゃなく縄張りの遺構に魅力を覚えますから、少々、残念な城跡って感じでしたね。

とはいえ、全国に12ヵ所しかない天守を持つ城跡ですから、今後も大切に維持管理していってほしいものです。

最後に、日本100名城スタンプを載せておきます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-03-13 00:28 | 福井の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

日本最古の現存天守、丸岡城を訪ねて。 その2 <天守・内部>

「その1」の続きです。

丸岡城天守東面の石段を上って、天守内に入ります。


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石段には手すりがないので、お年寄りや小さな子どもはひとりで上るのは危ないかもしれません。


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上から見たらこんな感じ。

     ↓↓↓


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ちょっと、怖いですよね。


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天守は2重3層なので、外観は2階建に見えますが、なかは3階建になっています。

まずは1階


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1階は外周に「入側」と呼ばれる廊下で囲われています。

別名「武者走」ともいうそうで、一間(約1.8m)あります。


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その入側にある鉄砲穴の「狭間」

もっとも原始的なかたちの箱型が特徴です。

箱型なので、前にしか撃てません。

下に向けて撃たないと意味がないと思うのですが、この狭間、役に立つんでしょうか?


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こちらは、武者窓と呼ばれる格子窓で、開け閉めは棒を使って突き上げるという古いタイプの窓です。


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そして、こちらは「格子出窓」

前稿で、外側から見た写真も紹介しています。

この格子出窓は、3方への攻撃が可能であると共に、石落としの機能もあります。


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入側に囲まれた室内を「身舎(母屋)」といいます。

松岡城1階の身舎は約20坪の長方形で、構造的には4部屋の形ですが、敷居も鴨居も引き戸も入っていません。


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丸岡城天守の最も特徴的なところは、いわゆる大黒柱といえる通し柱がなく、身舎の中央を東西に走る6本の太い柱が、天守の全重量を支えています。

この6本の柱が上の太い梁を支え、その梁に2階の2本の柱が乗るかたちです。


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6本の柱のなかでも最も古いと見られるのが、この柱だそうで、天正4年(1576年)に柴田勝豊築城した当時からの柱だと考えられているそうです。


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角が削れていますが、これは、鉋ではなく手斧で削ったものだそうです。

柱の角の面取りの工法などから、その時代が想定できるそうです。


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丸岡城の階段は現存天守12城のなかで最も急で、傾斜角約65度、一段あたりの段差27cm、踏面も最小で12.5cmしかありません。

そのため、このようにロープが設置されていましが、わたしが訪れたこの日も、お年寄りが上るのを断念していました。


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2階は1階の約3分の1の12坪で、入側はありません。

中央の2本の柱は、1階の6本の柱が支える梁の上に乗っています。

東西には一階屋根の破風を利用した狭い部屋(破風部屋)があり、南北には古風な切妻屋根の出部屋があります。


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これが出部屋。


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そしてこちらが破風部屋です。

破風部屋の窓からは、屋根瓦が覗けます。


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丸岡城の屋根瓦は、全国的にも珍しい笏谷石製の石瓦が使用されています。

ここと同時進行で築かれた柴田勝家北ノ庄城も、石瓦が使用されていたとルイス・フロイスの記録に残されています。

これは、寒冷地という気候事情からくるものなんだとか。

石瓦は約6000枚あるそうで、1枚が約20~60kg、屋根全体で120トンになるそうです。


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2階から3階の階段は更に急です。

階段というより、ほとんど梯子ですね。


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3階の広さは2階と同じで、入側はありませんが、窓から360度見渡せます。


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こちらは西の眺望。

15kmほど向こうが海で、有名な東尋坊があります。


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こちらは

手前に見える小学校の校庭あたりに、かつて二の丸御殿があったそうです。


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そして

正面に見える山に、丸岡城築城前に柴田勝豊が築いたと伝わる豊原城がありました。


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最後にの眺望。

福井市の方面です。

勝豊の時代には北ノ庄城が、江戸時代には福井城が見えたのでしょうね。


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さて、天守を制覇しましたが、もう1回だけシリーズを続けます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-03-08 17:28 | 福井の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

日本最古の現存天守、丸岡城を訪ねて。 その1 <天守・外観>

福井城跡北ノ庄城跡をめぐったあと、約10km余り北上した福井県坂井市にある丸岡城を訪れました。

ここは現存天守12城のひとつとして知られ、そのなかでも、最古の天守とされています。


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丸岡城は天正4年(1576年)に柴田勝家の甥・柴田勝豊によって築かれたと伝わります。

勝家の北ノ庄城が天正3年(1575年)の着工とされていますから、ここ丸岡城とほぼ同時進行で工事が進められたと思われます。

つまり、北ノ庄城の支城として築かれた城でした。


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こちらが、その天守です。

領主の居館としての機能をもった2重3層の初期望楼型独立式です。

同時進行で築かれた北ノ庄城は九重の巨大城だったといいますから、それに比べるとずいぶんコンパクトですね。


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天正3年(1575年)織田信長は朝倉氏滅亡後に越前国を支配していた一向一揆を平定すべく、当時、ここ丸岡の東方約4km余りの山中にあった豊原寺を攻略しました。

その恩賞として、信長は勝家に越前一国を与えて守護職とし、北ノ庄城の築城を命じます。

勝家は、その養子となっていた甥の勝豊を豊原に派遣して宮城を構えさせますが、交通の利便性などから、翌年に丸岡に移って築城を開始しました。

それが、ここ丸岡城です。


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ただ、築城時期については諸説あって、定かではではありません。

古式の形状を踏襲したフォルムと、掘立柱を用いていることにより現存最古の天守とされていますが、建築史の観点では、慶長期の特徴を多く見ることができるとして、慶長元年(1596年)以降の築造もしくは、改修による姿ではないかという説もあり、それが事実ならば、日本最古の現存天守は国宝・犬山城となります。


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現地では、「丸岡城を国宝に!」といったスローガンの看板を掲げていましたが、平成27年(2015年)に国宝指定された松江城も、その決め手となったのは築城時期を証明する御札が見つかったことでした。

丸岡城も、明確な築城時期が証明できない限り、国宝指定は難しいでしょうね。


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ちなみに、厳密にいうと、天守は昭和23年(1948年)6月28日の福井大地震で一度倒壊したそうで、現在の天守は、可能な限り元の材料を使って復元されたものだそうです。


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丸岡城は、全国的にも珍しい石瓦が使用されています。

先端には、石の鬼瓦が見えます。


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天守南側2階部分にある格子出窓です。

突き出ているので3方への攻撃ができ、また、下部への石落としの機能もあります。


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その両サイドには狭間があります。


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その上には、切妻屋根の出部屋が見えます。


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石垣はすべて野面積み

この石垣を見れば、慶長説より天正4年説を信用したくなるのですが、のちに建物を建て替えたといわれれば、そうかもしれませんね。


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さて、「その2」では、天守の中に入ります。




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by sakanoueno-kumo | 2019-03-07 00:45 | 福井の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

越前北ノ庄城跡・柴田神社を訪ねて。

前稿まで紹介してきた福井城結城秀康が築城する以前、越前には柴田勝家が築城した北ノ庄城がありました。

勝家の北ノ庄城は、天正11年(1583年)に羽柴(豊臣)秀吉によって攻め落され、焼失してしまいますが、その後、結城秀康が新たな城を築いたため、勝家時代の城の遺構はほとんど残っていません。


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平成5年(1993年)から6度にわたって発掘調査が行われ、本丸の推定位置とされている柴田神社の地下から石垣の跡と思われる石が出土し、現在、北の庄城址・柴田公園として整備・遺構展示されています。


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場所は福井城跡から400mほど南下した道路沿いにあります。

実は、わたしはここを訪れるのは2回目で、6年前の拙稿でも紹介したのですが(参照:越前北ノ庄なう!)、前回は出張ついでの夜に訪れたので、暗くてよくわかりませんでした。

今回は、朝から福井城をめぐって、そのあと訪れたので、時間はたっぷりあります。


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朝倉氏の滅亡後、越前国を支配していた一向一揆を平定した功績によって、織田信長から越前国北ノ庄を与えられた柴田勝家が、天正3年(1575年)から築城を開始したとされています。


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竣工がいつだったかわわかりませんが、イエズス会の宣教師・ルイス・フロイスの記録によると、天正9年(1581年)にフロイスが訪問したときは、まだ工事中だったようです。

ということは、落成して間もなく落城したことになりますね。


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同じくフロイスの記録によると、北ノ庄城は壮麗かつ巨大な規模の城だったようで、建物の屋根に葺いた石瓦は非常に滑らかで轆轤にかけたように形が揃っており、美しい色をしていたといいます。


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羽柴秀吉が小早川隆景に送った書状には、北ノ庄城は「城中に石蔵を高く築き、天守を九重に上げ候」とあります。

織田信長の安土城の天守ですら五重七階だったと伝わりますから、秀吉の書状が本当なら、北ノ庄城はとんでもなく大きな天守だったことになりますね。


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ところが、周知のとおり、勝家は天正11年(1583年)の「賤ヶ岳の戦い」で秀吉に敗れ、ここ北ノ庄城に逃げ込むと、その前年に再婚したばかりの妻・お市の方とともに自刃して果てます。

このとき、自ら火を放ったとも伝えられますが、北ノ庄城は建造物のほぼ全てが焼失し、その跡地に結城秀康が新しい城を築いたため、いまでは本丸の正確な場所もわかっていません。


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公園内には、発掘調査で見つかった北ノ庄城の石垣と見られる遺構があります。


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公園内に積まれている石垣は遺構ではありません。

城跡公園らしい演出のための想定復元石垣です。


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公園内には、柴田勝家像があります。


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いかにも「鬼柴田」といった面構えです。


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公園内には柴田神社が鎮座します。

祭神はいうまでもなく柴田勝家。


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かつてこの地に作られた時代が不明な勝家とお市の方を祀る石祠があり、北ノ庄城の跡に築かれた福井城内の神祠として保護されてきたそうで、明治23年(1890年)、旧福井藩主の松平春嶽、旧藩士、住民らの発意によって小祠のある場所に神社が作られ、「柴田神社」としたそうです。


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賽銭箱には柴田家の家紋「二つ雁金」が。


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こちらは、お市の方をはじめ殉難将士の慰霊碑です。


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そして、お市の方の像

戦国一の美女とうたわれたその姿は、どこか悲しげでした。


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そして、その横に並ぶ浅井三姉妹の像。

左から、長女・茶々(淀殿)・三女・お江(崇源院)・次女・お初(常高院)

平成23年(2011年)の大河ドラマ『江~姫たちの戦国』の放送に合わせて作られたものだそうです。


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公園内にある石碑には、現代日本画家の巨匠、故・平山郁夫氏の名前が。

なんでも、平山氏は勝家のご子孫なんだそうで・・・。

へぇ~!!!ですね。


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6年前に訪れた際には、高さ6mほどの天守の復元模型があったはずなんですが、なくなっていました。

調べてみると、これも大河ドラマ放送に合わせて設置されたものだったそうで、数年前に撤去されたそうです。

なかなか立派な模型だったと記憶していたので、たいへん残念。

やはり、北ノ庄城ははかなく落城する運命にあったんですね。




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by sakanoueno-kumo | 2019-03-06 00:56 | 福井の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

越前松平家の福井城跡を歩く。 その4 ~福井神社~

「その3」の続きです。

福井城天守跡から内堀を挟んで北西にある、福井神社を訪れました。

このあたりには、かつて西三の丸御座所があり、藩主の生活の場でした。


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福井神社は福井藩16代藩主・松平慶永(春嶽)を祀る神社として、昭和18年(1943年)に創建されました。

旧社格は別格官幣社

「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年(1872年) に神戸の湊川神社が定められたのに始まり、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。

ここ福井神社は、日本最後の別格官幣社の指定となった神社です。


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この社標は昭和23年(1948年)6月28日の福井大地震によって福井城の堀の中に埋没していたそうですが、昭和58年(1983年)の内堀浚渫の際に発見され、引き上げられて復元設置されたものだそうです。


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コンクリート製鳥居拝殿です。


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創建当時の社殿は総檜造りだったそうですが、創建からわずか2年後の昭和20年(1954年)7月19日の福井大空襲焼失し、戦後12年経った昭和32年(1957年)に福井大学工学部の設計により再建されたそうです。

総コンクリート造りで、表面はコンクリート打ち放し、神明造を大幅に変形した傾斜の無いフラットな屋根という、他の神社には見られない独特の社殿ですね。

社殿前の大鳥居(二の鳥居)も、同じく福井大学工学部の設計によって再建されたものだそうで、貫がない特殊な形をしています。


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境内には、春嶽の像があります。


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春嶽といえば、幕末、薩摩の島津斉彬、土佐の山内豊信(容堂)、宇和島の伊達宗城と並んで四賢侯のひとりに数えられ、徳川親藩・譜代大名のなかでも尊皇派の支柱となった大名として知られます。


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また、藩内の行政においても、積極的な人材登用殖産興業の推進、富国強兵による藩財政の立て直しなど、藩政改革を行った名君と称えられました。

しかし、幕府大老・井伊直弼の行った安政の大獄によって隠居・謹慎処分を受け、家督を養子茂昭に譲り、5年間に及ぶ謹慎生活を送りました。


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やがて桜田門外の変で井伊直弼が落命すると、再び幕府の要職に復帰。

政事総裁職として参勤交代制の緩和、洋式軍制の採用、幕府職制の改正、京都守護職の新設、そして、229年ぶりとなる将軍・徳川家茂上洛を実現させるなどの働きを見せますが、尊皇派がやがて倒幕論に変わっていくと、佐幕派、倒幕派の間で春嶽の立場は微妙となり、その後は政治的に大きな成果を挙げられませんでした。

まあ、所詮は殿様だったってことですね。


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こちらは境内にある摂社・恒道神社

春嶽の改革を支えた鈴木主税、中根靱負(雪江)、橋下左内が祀られています。




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by sakanoueno-kumo | 2019-03-02 01:20 | 福井の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)