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カテゴリ:奈良の史跡・観光( 17 )

 

又兵衛桜 ~樹齢300年超の伝説の枝垂れ桜~

先日の稿で紹介した宇陀松山城跡のすぐ近くに、「又兵衛桜」と呼ばれる樹齢300年以上1本桜があります。

以前から一度観に行きたいと思っていたのですが、平成最後の春、ようやく念願かなって訪れることができました。


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この日は平成31年(2019年)4月8日、令和に改元する3週間前です。

平成最後の桜ですね。


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人との対比で、その大きさがわかるかと思います。


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川下からの遠景。

遠くから見てもデカイ


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「又兵衛桜」の呼称は、戦国武将の後藤又兵衛基次に由来します。

後藤又兵衛といえば、若き日は「黒田二十四騎」「黒田八虎」のひとりとして、晩年は大坂の陣の大坂方の武将として、真田信繁(幸村)と並び称される英雄として後世に人気の人物ですが、播磨国出身の又兵衛と奥大和の枝垂れ桜とどう関係があるのか。


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後藤又兵衛基次は、播磨の別所氏の家臣・後藤基国の次男として、永禄3年(1560年)に生まれたと伝わります。

黒田官兵衛孝高の家臣として武功を重ね、一時は大隈1万6千石もの大封を与えられていた又兵衛でしたが、官兵衛の死後、新しい主君の黒田長政とそりが合わず、慶長11年(1606年)に黒田家を出奔してしまいます。


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それでも、又兵衛の武勇は天下に轟いており、細川忠興、福島正則、前田利長、結城秀康など名立たる大名から誘いがかかりますが、長政がしいた「奉公構」によって実現しませんでした。

「奉公構」とは、出奔した家臣を他家が召抱えないように釘を刺す回状を出すことで、豊臣政権によって始まった制度でした。


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その後、又兵衛は京に流れて浪人生活となり、そして、慶長19年(1614年)に大坂と幕府の関係に暗雲が立ち込めると、大野治長の招きで大坂城に入ります。

そこで又兵衛は、真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、毛利勝久、明石掃部とともに「豊臣方五人衆」と呼ばれました。


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そして、翌年の5月6日、大阪夏の陣道明寺の戦いにおける小松山の攻防戦で壮絶な死を遂げるんですね。

享年56。

大坂城が落城して豊臣秀頼淀殿自刃する前日のことでした。


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とまあ、ここまでが通説の歴史ですが、ところが、別の説では、大阪夏の陣ののち又兵衛は密かに落ち延び、ここ奥大和の宇陀地方で隠棲し、再興の時期を待ったという伝説があります。

そのときの後藤家屋敷跡にあるのが、この又兵衛桜だと伝えられるんだそうです。


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大阪夏の陣における豊臣方の生存説は多数あり、又兵衛以外にも、真田信繁や豊臣秀頼、淀殿らの生存説も各地に残っています。

ただ、いずれも根拠に乏しく、伝承の域をでません。

おそらく、豊臣方の武将に生きていてほしいと願う人々の思いが、このような不死鳥伝説を生んだ理由でしょう。

当時の庶民感情のなかに、徳川新政権への反感と、豊臣政権の復活を望む声が、少なからず存在していたことの表れだと思います。


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実際には、又兵衛がその後も生きていたということは九分九厘なく、したがって、ここが又兵衛の屋敷跡という事実も存在せず、この桜は又兵衛とは縁もゆかりもないということになるでしょう。

でも、それを言っちゃあ無粋というもんですよね。

実際、樹齢300年以上の古木であることは間違いないわけですから、あるいは、400年前の大阪の陣に関わった誰かが、この桜を目にしていたかもしれません。


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かつては知る人ぞ知る名木でしたが、平成12年(2000年)のNHK大河ドラマ『葵 徳川三代』のオープニング映像で使用されたことで有名になり、その後、多くの見物客が訪れるようになったそうです。


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この日も、たくさんの観光客で賑わっていて、道中も渋滞していました。

でも、京都や奈良などの桜の名所なんかに比べれば、ぜんぜんマシだったと思います。

京都の名所は外国人だらけで、ちょっとウンザリですからね。

その点、ここは外人さんはほとんどいませんでした。

外人さんはこんな奥地までは来ないようです(笑)。


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とにかく見事な枝垂れ桜

これを見てしまうと、普通のソメイヨシノショボく感じちゃいますね。




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by sakanoueno-kumo | 2019-06-06 00:55 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)  

奥大和の宇陀松山商家町逍遥。 

「奥大和の宇陀松山城跡登城記。<後編>」宇陀松山城跡は制覇しましたが、下山して城下町を少し逍遥しました。

宇陀松山のまちは南北に伸びる松山通りメインストリートです。

その通りには、重要伝統的建造物群保存地区に選定された古いまちなみが今も残っています。


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松山通りです。


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上の写真は、現在、まちづくりセンター「千軒舎」として利用されている建物です。

明治初期の建築で、かつては「内藤修精堂」の屋号で薬屋を営み、昭和初期からは歯科医院を開業していたそうです。


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中はこんな感じ。

ここで、宇陀松山城の続日本100名城スタンプが押せます。

車もここに停めさせてもらえます。


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通りの反対側から見てみました。

ここから城跡に登るコースもあります。


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こちらは森岡家「紀州や」

大正末期の建物で、昭和初期に料理旅館を営んでいたそうで、旅館は昭和30年代にのれんをおろし、昭和40年代には診療所になっていたそうです。


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こちらは、森野旧薬園の建物。

現在は森野吉野葛本舗という社名で知られています。


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森野旧薬園は、現存するわが国最古の私設薬園だそうで、享保14年(1729年)、初代・森野藤助が幕府御薬草御用・植村佐平次薬草見習いとして出仕した功績により、幕府から下付された貴重な種苗をここで栽培したのが始まりだそうです。


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大正15年(1926年)に国の史跡に指定されています。


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建物の横には、昭和天皇がお越しになったことを示す石碑があります。


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こちらは黒川本家の建物。

なんと、築280年だそうです。

黒川本家は吉野葛の老舗で、創業は江戸初期の元和元年(1615年)、京都に住んでいた初代の黒川道安が、吉野から葛根を取り寄せて葛粉を作って朝廷に献上し、その後、この地に移り、葛作りをスタートさせました。

そして、大和松山藩主・織田伊豆守長頼より「当代随一」の誇り高い称号を与えられたそうです。


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明治に入ると宮内省御用達となり、昭和天皇もこちら黒川本家の葛湯ご愛飲されていたといいます。

昭和天皇が最後に口にされたのも、黒川本家の吉野本葛でつくった葛湯だったとか。

また、文豪・谷崎潤一郎が小説『吉野葛』の執筆にあたり、こちらに逗留していたというエピソードも。

まさに歴史の名店です。


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こちらは、山邊家住宅

天明5年(1785年)頃の建物だそうで、ってことは築230年

山邊家は萬治年間(1658~1661年)頃からこの地に居を構えていたと伝わり、かつては宇陀紙問屋の総元締めを務める「山邊屋」だったそうです。


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こちらは、森田屋「諸木野屋」

江戸時代後期の文化5年(1808年)頃の建物で、明治初年頃まで薬や雑貨を商っていました。


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そして、その斜め向かいにある立派な屋敷は、藤沢薬品工業株式会社(現アステラス製薬)の創設者・藤沢友吉の生家で、現在、宇陀歴史博物館「薬の館」として一般公開されています。


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見てください、この立派な看板。

銅板葺唐破風附看板です。


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建物は江戸時代末期のもので、薬問屋の細川家の屋敷でした。

細川家は文化3年(1806年)から薬商となり、天保7年(1835年)に人参五臓圓・天寿丸という腹薬を販売し、たいそう繁盛したそうです。

表の銅板葺唐破風附看板に書かれていた文字ですね。


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その細川家二代目の治助の次女・満津の長男・友吉が、明治15年(1882年)に藤沢家の養子となり、藤沢薬品工業株式会社(現アステラス製薬)を創設しました。


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館内には細川家の資料や藤沢薬品に関する資料が展示されています。


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とにかく目を引くのは、古い看板類

まあ、見てください。


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先述した内藤修精堂や森野旧薬園、森田屋「諸木野屋」、そしてこの細川家などを見るに、ここ宇陀松山のまちは薬商とともに繁栄したまちだったようですね。




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by sakanoueno-kumo | 2019-06-05 01:33 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)  

奥大和の宇陀松山城跡登城記。 <後編> 南西虎口~本丸

<前編>の続きです。

案内板のあった郭跡からほんの2~3分登ると、急に視界が開けます。

そこには、見事な大堀切跡が。


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写真じゃ伝わりづらいでしょうか?


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幅約11.5m、深さ約5mの巨大な横堀です。


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大堀切跡を過ぎると、南西虎口「雀門跡」があります。

南西虎口部は、宇陀松山城の大手筋の登山道が到達した位置にあり、本丸、天守郭、帯郭、西御加番郭などの主郭部と城外との境となる重要な虎口だったようです。


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説明板によると、雀門は間口18尺(5.4m)、奥行き6尺(1.8m)の規模で、隅櫓多門櫓と連結された門だったようです。


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門を過ぎると、発掘調査で露出した石段の通路があります。


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南西虎口部の構築時期は、家紋瓦などの出土品から、多賀秀種が城主だった文禄元年(1592年)から慶長5年(1600年)の段階であることが明らかになっているそうです。


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石段を登ると、正面に石垣跡が見ます。


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縄張り図によると、この石垣の上が虎口郭となっています。


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さらに石段が続きます。


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虎口郭に上がってきました。


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虎口郭から南西虎口部を見下ろします。


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虎口郭から西南に進むと、西帯郭が広がります。


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ここから先は立入禁止区域になっていました。

向こうにブルーシートが見えます。

ここを訪れたのは平成30年(2018年)7月22日ですが、同じ年の6月末から10日間ほど降り続いた豪雨の影響で、西日本の各地で被害が出たばかりでした。

ここも、その影響かもしれません。


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西帯郭から本丸に向かいます。


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本丸です。


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けっこう広い。


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本丸の説明板です。


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本丸の広さは東西50m、南北45mの規模で、発掘調査によると、虎口が2ヵ所、御殿跡、多門櫓群、枡形遺構などが見つかったそうです。


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本丸からの南側眺望です。

下の段で土砂崩れがあったようで、ブルーシートで保護されています。

これも、半月前の長雨の影響でしょう。


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本丸東側に見える1段高くなっているところが天守郭です。


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天守台ではなく、天守郭です。

この郭のいちばん東に天守があったとされています。


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天守郭は本丸より約4m高くなっています。

雑草に隠れちゃっていますが、郭は石垣で囲われています。


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天守郭に上がってみましょう。


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天守郭です。


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説明板によると、天守郭は東西40m、南北12~20mの規模で、南・北辺の中央東寄りに幅7~12mの張り出し部を持ちます。


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「枩尾龜斎翁碑」と刻まれた石碑が建てられていますが、どんな人物なのかは調べがつきませんでした。


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こちらの石碑も、「松尾鶴斎翁碑」と刻まれていますが、碑文は漢文なのでよくわかりません。

城とは関係なさそう。


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いちばん東に石垣で積まれた1段高い場所がありました。

ここが天守台跡かもしれませんね。

上の石碑は「白髯大明神」とありますので、これも城とは関係なさそうです。


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関ヶ原の戦い後に福島正則の弟・福島高晴が宇陀松山城の城主となりましたが、その福島氏も、大坂夏の陣において豊臣方に内通したとして、改易されました。

それにより、城は大阪夏の陣直後の元和元年(1615年)閏6月から7月にかけて、幕命により破却されます。

その城割役を担ったのが、茶人、造園家として名高い小堀遠江守政一(遠州)中坊秀政でした。

「城割」とは、「破城」とも呼ばれ、文字通り城郭を壊すことです。

近年、その城割の内容を記した遠州自筆の書状が見つかり、注目されています。


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天守郭からの眺望です。


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最後に、続日本100名城スタンプです。


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さて、宇陀松山城攻めは本丸まで制覇しました。

次回、城下町を逍遥します。




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by sakanoueno-kumo | 2019-06-01 18:18 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)  

奥大和の宇陀松山城跡登城記。 <前編> 登城道

奈良県宇陀市にある宇陀松山城跡を訪れました。

宇陀松山城跡は同じ大和国の大和郡山城から25kmほど南西、同じく大和国の高取城から13kmほど北東に位置します。

平成29年(2017年)4月6日に発表された続日本100名城に選定されています。


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宇陀松山城跡への登城コースは2つありますが、この日は、かつての大手筋のルートで登りました。

現在、大手筋にあたる入口は、春日神社が鎮座しています。


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参道を進むと、いきなり櫓台のような立派な石垣が現れます。

これは、かつての大手筋正面にあった春日門跡の石垣です。


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現在、門跡には虎口を構成する東西2つの石垣積の櫓台が残っています。


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東櫓は東西4m以上、南北10m以上、高さ約6mの規模を持つ櫓台の南西隅に一段低く、東西約4m、南北約7m、高さ約2mの櫓台が取り付きます。西櫓台は東西約6m、南北11m以上、高さ約4mを測ります。


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いかにも大手門って感じですね。


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説明板によると、春日門の築造は16世紀末から17世紀初頭にあり、松山城下の建設時に町人地と武家屋敷・城館とを分かつ虎口として造られたことが明らかとなりました。

また、現存する櫓台は17世紀後半の織田家宇陀松山藩時代の向屋敷・上屋敷(藩屋敷)造営に伴う再構築であることが判明したそうです。


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かつての大手筋にあたる参道を進みます。


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宇陀松山城は、南北朝時代から戦国時代にかけて伊勢国司北畠氏から「和州宇陀三人衆」と呼ばれた秋山氏が築いた城と伝わります。

築城時期は定かではありませんが、南北朝時代には構えられていたと見られています。

秋山氏が居城としていた頃は、秋山城と呼ばれていました。


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天正13年(1585年)、豊臣秀長の大和郡山入部に伴い、秋山氏は宇陀から退去しました。

以後、伊藤義之、加藤光泰、羽田正親、多賀秀種ら豊臣家配下の大名の居城として大改修が行われ、大和郡山城、高取城と並んで豊臣政権の大和国支配の拠点となりました。


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関ヶ原の戦い時の城主・多賀秀種は西軍に属したため改易され、代わって福島正則の弟・福島高晴が入城しました。

しかし、その福島氏も、大坂夏の陣において豊臣方に内通したとして改易され、城も破却されて廃城となりました。


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境内南側に、城跡を誘導する石碑が建てられています。

ここから、神社を抜けて本格的な登城コースがはじまります。


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山道は整備されていて、進みにくいということはありません。


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「秋山城跡」と書かれた誘導板があります。

「宇陀松山城」という名称は豊臣政権下になってからのもので、それ以前は城主の秋山氏の名からとって秋山城と呼ばれていました。


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しばらく登ると、城跡まで100mと書かれた木碑の立つ開けた場所に出ました。

郭跡のような感じです。


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横に設置された案内板です。

ここを訪れたのは平成30年(2018年)7月22日。

案内板には「平成30年3月」と書かれていますから、つい最近設置されたもののようです。

続日本100名城に選ばれた影響でしょうね。


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長くなっちゃったので、<後編>に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-05-30 21:56 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)  

日本最大の山城、高取城登城記。 その7 <五百羅漢>

「その6」の続きです。

高取城跡からの下山途中に、「五百羅漢道」と刻まれた石碑を見つけ、立ち寄ってみました。


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高取城跡のある高取山中腹の香高山に壷坂寺という由緒あるお寺があるのですが、そこから高取城跡方面へ500mほど登ったところに、香高山の大きな岩山いっぱいに彫られた石像群『五百羅漢』があります。


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ここは壷阪寺の奥の院とも呼ばれる場所です。


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ありました。

五百羅漢岩です。


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この五百羅漢岩は、幅さ5m×高さ3mほどあります。

岩肌に刻まれた壮大な無数の仏像に圧倒されます。


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この五百羅漢岩が作られた時期は、16世紀末頃と推定されていますが、確かなことはわかっていません。

時期的にみて、天正17年(1589年)に豊臣秀長の命令で高取城に入った本多利久が、城の大改修時に石工たちに命じて掘らせたという説が有力視されているそうです。


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この大きな五百羅漢岩以外にも、登山道には多くの石仏が点在しています。


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羅漢岩に至る参道には、千手観音の種子と、弘法大師像が彫られた町石がたてられていて、年号はありませんが、「甲辰」の紀年があるので、様式から見て慶長9年(1604年)のものと考えらます。

また、五百羅漢岩の前の石灯籠には慶長10年(1607年)の紀年があるそうで、このことから、香高山五百羅漢はこの慶長年間の作と推定されています。


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「羅漢」というのは阿羅漢の略称で、釈迦の弟子のことだそうです。

煩悩をすべて超越して最高の境地に達した聖人を意味するのだとか。

古来、日本では戦災などで多くの人命が失われたときに、その霊を慰めるために五百羅漢が作られました。

高取城は関ヶ原の戦い時に、西軍の攻撃を受けています。

あるいは、そのときの戦死者の霊を慰めるために作られたのかもしれません。


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「その5」で紹介しましたが、高取城跡を訪れた司馬遼太郎さんが、アンコール・ワットに例えた気持ちがわかるような気がします。


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さて、第7稿まで続いた高取城跡シリーズですが、本稿をもって終わりです。

最後に、登城証明書缶バッジ、それから日本100名城スタンプを載せておきます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-05-29 22:16 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)  

日本最大の山城、高取城登城記。 その6 <本丸>

「その5」の続きです。

高取城跡本丸下を1周して、いよいよ北側から本丸に登ります。


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まず登り始めて、右へ曲がらされます。


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右へ曲がると、またすぐ右へ曲がらされます。


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右へ曲がると、今度は左へ曲がらされます。

当時はここに城門があったそうです。


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左へ曲がると、またすぐ突き当りを左に。

本丸下と本丸の高低差が大きいので、何回も曲がらされます。

これは堅固ですね。


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ここを曲がると、ようやく本丸らしき場所が見えます。


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振り返ると、向こうに行き止まりの道があります。


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そして、本丸です。


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本丸からもう一度、虎口を見下ろします。

いかに複雑で堅固な造りといなっているかがわかりますね。


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本丸部分の大きさは東西に75m、南北に60mあります。


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天正17年(1589年)に豊臣秀長の命令で高取城に入った本多利久でしたが、関ヶ原の戦いでは東軍に与し、その功で、徳川の世になったあとも本多氏は引き続き高取城を任されていました。

しかし、その本多氏が三代で断絶すると、寛永17年(1640年)に徳川家譜代の家臣であった植村家政が、本多氏と同石高の2万5千石の大名として入り、高取藩初代藩主となりました。

植村氏は、酒井氏本多氏(本多利久の本多氏とは関係ありません)らと共に三河時代から松平氏に仕えた古参で、徳川家康の下で抜群の戦功を挙げたことから、歴代藩主に家康の「家」を名乗ることを許されていた名門譜代でした。

以後、明治維新まで植村氏が14代の長きに渡って高取藩を治めます。

前稿でも紹介した司馬遼太郎さんの『街道をゆく』のなかで、司馬さんは高取城の存在価値についてこう分析しています。


城主が越智氏から筒井氏、本多氏と変わるうちに規模も大きくなり、やがて徳川初期に植村氏が入って、この山奥の急峻に累々と石垣が組みあげられ、近代的な築城形式に模様替えされた。徳川幕府がここに外様大名などを置かず、もっとも信頼できる譜代大名を封じ、当時すでに大時代だったこの山城をわざわざ補修改築させたのは、わかるような気もする。

幕府の近畿地方の防衛戦略という大きな視野からの判断だったかもしれない。

徳川幕府の仮想敵は、家康の代から薩摩の島津氏と防長の毛利氏だった。

<中略>

家康は、島津氏が京都に入って近畿をおさえ、天皇を擁して幕府と対決するだろうという想像をもち、死の寸前までそれが気がかりだったといわれている。

架空の状況において、島津氏がもし近畿をおさえた場合、大和の幕軍は平城の郡山城をすててこの高取城にこもり、他の方面の幕軍の巻きかえしを待つという戦略があったのではないか。


高取城は江戸時代には時代遅れの山城でしたが、徳川幕府はこの城を重要な拠点として考えていたということを、植村氏を封じたという事実が雄弁に語っています。


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本丸の説明板です。

高取城本丸には大天守、小天守、鉛櫓、煙硝櫓があり、それらを多門櫓で連結した連立式天守でした。

これは姫路城和歌山城などに見られる形式ですが、山城の天守としては、稀有な存在といえます。


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その大天守台石垣が北西隅に見えます。


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大天守台です。


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前稿で見た高石垣の上が、ここです。


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高取城天守台には通路が約3mの穴蔵が設けられています。


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大天守台に上がってみましょう。


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大天守の大きさは東西に約16m、南北に約14mの規模で、「御天守」と呼ばれていました。

『和州高取城山之絵図』によると、外観は1重目は千鳥破風、2重目の中央に出窓形式、3重目には軒唐破風があり、外壁は白漆喰総塗籠であったようで、外観3重、地下1階の大天守が推定されています。

また、大天守台の東側には付櫓台が属しており、2重の「具足櫓」が建っていたと考えられています。


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大天守台からさっきの穴蔵を見下ろします。


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大天守台から見た本丸。

手前に見える迷路のような石垣は、本稿の最初に紹介したジグザグ虎口です。


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まさに迷路です。


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天守台から二ノ丸を見下ろします。


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その向こうの西の空には、大和国と河内国の国境にある金剛山葛城山が見えます。

あの中腹に、楠木正成が築城した千早城があります。


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雲が低い。


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大天守台の前には、井戸跡の遺構があります。

5m×3m巨大井戸です。


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本丸南側には、多門櫓台跡石垣が伸びています。


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その石垣上からの南側眺望。

後醍醐天皇(第96代天皇)が南朝を開いた吉野山が見えます。


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こちらも雲が低いですね。


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明治4年(1871年)の廃藩置県により、全国の多くの城郭が廃されることとなり、建物の大部分が取り壊されましたが、標高600m近い山城であったため都市計画などに巻き込まれることはなく、廃城から150年近く経った現在でも、こうして壮大な石垣の遺構を見ることができるんですね。


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さて、本丸まで制覇しました。

まだまだ載せたい写真が山ほどあるのですが、キリがないのでこのへんで終わりにしたいと思います。


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ちなみに、高取城をCG再現した画像がこれです。

(引用元:高取城CG再現プロジェクト

こんな城がもし現存していたら、間違いなく世界遺産だったでしょうね。


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あっ、下山中に立ち寄った場所があります。

もう1回だけおお付き合いください。


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by sakanoueno-kumo | 2019-05-24 23:40 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)  

日本最大の山城、高取城登城記。 その5 <二ノ丸上段~本丸下>

「その4」の続きです。

太鼓櫓跡新櫓跡をあとにして東側に向かうと、ど迫力の高石垣が目に入ります。


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ここは二ノ丸の一段高くなっている場所で、本丸のすぐ下。

二ノ丸上段といえば良いのか、本丸下段といえばいいのか、まあ、呼び方なんてどっちでもいい。

とにかく圧巻のロケーションです。


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正面の巨大な高石垣は天守台石垣

高取城には大小ふたつの天守があったそうで、この石垣は大天守石垣。


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大天守石垣の前にある巨木

樹齢はわかりませんが、かなりデカイです。

あるいは、往時を知っているかもしれません。


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大天守石垣の前には、石碑が建てられています。


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大天守石垣を見上げます。


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本丸の石垣は打込み接ぎです。


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本丸高石垣を1周してみましょう。


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作家、司馬遼太郎さんはその著書『街道をゆく』のなかで、高取城を訪れたときの感想を次のように述べておられます。


高取城は、石垣しか残っていないのが、かえって蒼古としていていい。

その石垣も、数が多く、種類も多いのである。

登るに従って、横あいから石塁があらわれ、さらに登れば正面に大石塁があらわれるといったぐあいで、まことに重畳としている。

それが、自然林に化した森の中に苔むしつつ遺っているさまは、最初にここにきたとき、大げさにいえば最初にアンコール・ワットに入った人の気持がすこしわかるような一種のそらおそろしさを感じた。


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こちらは南西の出隅。

算木積みになっています。

「算木積み」とは石垣の出隅部分に用いられる技法で、長方体の石を交互に重ね合わせて積み上げられるため、強度が増します。

この上に、小天守があったとされます。


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南側石垣。


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東南出隅。


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東側石垣。


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花には詳しくないのでわかりませんが、ユリの仲間でしょうか?


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北東部の本丸下にやってきました。


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司馬さんのいうように、自然林と石垣が同化したような神秘的な空間が広がります。


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まるでジブリアニメ『天空の城ラピュタ』神殿のようなロケーションです。

近年、兵庫県但馬地方の竹田城跡「天空の城」として有名になりましたが、あちらは、雲海の上に浮かぶ城跡という意味での天空の城で、アニメに出てくる神殿のロケーションでいえば、高取城のほうがイメージに近いです。

あるいは、宮崎駿氏も、ここを訪れたことがあったのではないでしょうか?


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北側の本丸へ通じる虎口前に来ました。

が本丸を誘導してくれます。


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これ、切り株の上に彫刻を乗せているのではなく、自然の木から彫り出したもののようです。

スゴイ!


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こちらのお城も、同じく木を彫り出したものです。


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さて、「その6」では、いよいよ本丸に登ります。


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by sakanoueno-kumo | 2019-05-23 03:58 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)  

日本最大の山城、高取城登城記。 その4 <大手門~二ノ丸>

「その3」の続きです。

高取城三ノ丸大手門からスタートします。


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高取城には複数の登城ルートがあって、「その2」で紹介した壺阪口門からのルート、「その3」で紹介したニノ門からのルート、そして、この日は通行止めになっていて通れなかった吉野口門からの登城ルートの三方からのルートが、すべてここ三ノ丸の大手門につながる仕組みになっています。


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案内板です。


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明治20年頃に撮影されたという大手門から見る古写真と、CG再現された画像が紹介されていました。


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それにしても見事な石垣です。

もっとも、城門はここではなく、ここを更に曲がったところにあったそうです。


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ここまでの石垣は野面積みでしたが、ここからは打込み接ぎと野面積みが混在し始めます。


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ここまでの入口は喰違虎口でしたが、ここからは枡形虎口になっています。

ここを曲がったところに城門があったそうです。


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ここがその城門跡

正面にドドーンと高石垣が見えます。


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後ろを振り返った大手門。


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大手門を過ぎると、二ノ丸下段の空間に出ます。

正面に見える高石垣は、二ノ丸の十三間多門櫓台石垣

ど迫力です。


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二ノ丸下段です。


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二ノ丸下段から二ノ丸に登る十三間多門です。

城門が十三間あるという意味ではなく、十三間多門櫓に付随した城門という意味でしょうね。


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それにしても山城としては異例の巨大な城門です。


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石垣は打込み接ぎ、出隅は算木積みです。


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苔むした石垣がいいですね。


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載せたい写真がありすぎて、先に進めません。


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ここも枡形虎口です。


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おそらく、城門は天正17年(1589年)から豊臣秀長本多利久に命じて大改修させたときのものだと思います。


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二ノ丸側からみた三間多門。


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二ノ丸側からみた十三間多門櫓台石垣です。


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そして二ノ丸です。


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現在は芝生広場になっていますが、往時は建物があったのでしょう。


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そして二ノ丸東側に聳える石垣。

十五間多門櫓台石垣です。

1間=約1.8mと考えて、約27mということですね。


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この石垣の上に太鼓櫓新櫓がありました。


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日本三大山城の説明板です。


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こちらは高取城の説明板。


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十五間多門櫓台石垣の上に行ってみましょう。


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十五間多門跡です。


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十五間多門櫓台石垣の裏側(東側)です。


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こちらはその北隅にあたる太鼓櫓跡です。


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反対側の新櫓跡


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石垣の上に登ってみます。


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このスペースから見て、太鼓櫓と新櫓の間を結んでいたのは、多門櫓ではなくだけだったんじゃないでしょうか?


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石垣の上から二ノ丸広場を見下ろします。

ここは一段高くなっているので、二ノ丸上段といったところでしょうか?


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さてさて、今回も長くなっちゃったので、「その5」に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-05-22 00:45 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)  

日本最大の山城、高取城登城記。 その3 <ニノ門~大手門>

「その2」の続きです。

大手門から本丸とは反対方向の北側に山を20分ほど歩いて下ってきました。


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写真はニノ門跡

ニノ門というくらいですから、このもっと麓近くに一ノ門があるのでしょうが、本格的な城跡はここからということで、ニノ門から大手門に向かって登ります。


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その前に、ニノ門のすぐ北側に、猿の石像があります。


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これは「猿石」と呼ばれる遺跡で、飛鳥時代の斉明朝(7世紀)に作られたものと推定されるそうです。

これと同じような猿石が、奈良の明日香村の吉備姫王墓内に4体あるそうで、この猿石も元は同じ場所にあったものを、高取城築城の際に石垣に転用するため飛鳥から運ばれたのではないかと考えられているそうです。

この猿、400年以上もの間、ここを通る侍たちから現代の観光客まで見続けてきたんですね。


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さて、もう一度ニノ門です。


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ニノ門の案内板。

本丸まで872mとあります。

高取城がいかに巨大な縄張りを誇る山城であったかがわかります。


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ニノ門の左側(東側)を見ると、巨大な野面積みの石垣が東へ伸びています。


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その東には、池が見えますが、縄張り図では水堀とあります。


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ニノ門を過ぎると、いきなり目の前に長い石垣が目に入ります。

縄張り図によると、このあたりから侍屋敷エリアが始まります。


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ここから本丸まで、ずっとこんな感じで石垣群が続いているんですよね。

すごい規模です。


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しばらく進むと、西側の国見櫓への誘導板があります。

行ってみましょう。


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国見櫓です。


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「国見」というくらいですから、大和国が見渡せるのでしょうね。


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案内板です。


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国見櫓からの西側眺望です。


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中央に見えるのは、貝吹城址のある貝吹山です。

高取城を最初に築城した越智氏の本城です。


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その右に見えるのは、畝傍山

あの山の麓に神話に出てくる初代天皇の神武天皇を祀った橿原神宮があり、先ごろ退位された上皇陛下が、平成の終わりに退位のご報告のため行幸されていた畝傍山東北陵(神武天皇陵)があります。


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霞んで見えるのが奈良県と大阪府の境にある生駒山


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その少し南に見えるのが、信貴山城跡のある信貴山

あの松永久秀自爆したことで有名な城ですね。

ここも奈良県と大阪府の境にあります。


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さらにその南に見えるラクダの背のような山が、ニ上山城のあるニ上山

ここも奈良県と大阪府の境にある山ですね。

そして、その向こうに微かに見える山が、わがまち神戸の六甲山です。


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国見櫓も石垣の櫓台跡がちゃんと残っています。

かつてここには二層造りの櫓があったそうです。


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さて、景色を堪能したので、また大手筋に戻ります。

さっそく櫓台のような石垣が。


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矢場門跡の櫓台でした。

喰違虎口の形状をしているのがわかります。


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さらに5分ほど歩くと、松ノ門跡があります。


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ここは、「その1」で紹介した高取児童公園に移築されている門があったところですね。


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さらに進むと、またまた向こうに門跡らしき石垣が見えてきました。


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宇陀門跡です。

ここも喰違虎口の形状をしています。


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宇陀門の名前の由来は、おそらく同じ大和国にある宇陀松山城からきたものでしょうね。


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宇陀門を過ぎると傾斜が緩やかな尾根道になります。

右側の石垣は大きな面積の城代屋敷の石垣

ニノ門からここまでずっと侍屋敷エリアでしたが、その最上段には城代屋敷があったんですね。


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その城代屋敷の横にある千早門跡です。

千早門の名前も、おそらく楠木正成が築城した千早城に由来するのでしょう。

南北朝時代に最初に高取城を築いたとされる越智邦澄は、楠木正成と同じく南朝方の悪党だったと言われます。

ちなみに「悪党」とは、いまで言う悪人という意味ではなく、在地の土豪的武士のことです。


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ここも喰違虎口の形状です。

名前は南北朝時代に由来するかもしれませんが、石垣や喰違虎口の形状は、筒井順慶から豊臣秀長の時代のものと思われます。


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千早門を過ぎると侍屋敷エリアが終わって三ノ丸に入ります。


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そして、「その2」で紹介した大手門まで戻ってきました。

今回はめっちゃ長くなっちゃました

つづきは「その4」にて。


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by sakanoueno-kumo | 2019-05-17 01:08 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)  

日本最大の山城、高取城登城記。 その2 <八幡口登り口~大手門>

「その1」の続きです。

高取城跡八幡口登り口から登山道を進みます。


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進み始めていきなりから石垣のお出迎えです。

まだ本格的な郭跡に入ってないんですけどね。


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このあたりの石垣は野面積みです。


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前稿でも紹介しましたが、最初に高取城が築かれたのは南北朝時代、地元の土豪・越智邦澄によってでした。

当時、越智氏は別に貝吹山城に本城を構えており、高取城は越智氏の一支城に過ぎませんでした。


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また、当時の城の構造は、現在残る高石垣などは存在せず、山の地形を削平してを築き、それを幾段にも連ねて逆茂木やにわか造りの板塀で防御する中世の山城で、いわゆるカキアゲ城でした。


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時代は下って戦国時代、織田信長一国破城によって、大和国は郡山城を残して他の城はすべて破却することになり、天正8年(1580年)に高取城も一旦は廃城となります。


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しかし、天正12年(1584年)に大和国を治めていた筒井順慶が、郡山城の詰城として高取城の改修を行いました。


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高石垣が見えてきました。


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このあたりも野面積みですが、見事な高石垣の始まりです。


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壺阪口門跡です。


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壺阪口門の名称の由来は、おそらく高取山の中腹にある壷阪寺からきたものでしょう。

高取城への登城ルートはいくつかありますが、壷阪寺から登城した場合の虎口が、ここ壺阪口門だったのでしょうね。


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なんか立て札があるのですが、文字が消えて読めない(笑)。


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縄張り図によると、壺阪口門を入ると、かつて侍屋敷が建ち並んでいたようです。


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しばらく進むと、木製の階段が設置されていました。

これは観光客用のものですね。

中央の木を伐採せずに階段を設置しているところがすごい!


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階段を上りきったところに、櫓台と思われる石垣があります。


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壺阪口中門跡です。


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石垣の配置からみて、壺阪口中門はおそらく立派な櫓門だったんのでしょう。

縄張り図を見ると、さっきの壺阪口門から壺阪口中門までの間が侍屋敷エリアだったようです。


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反対側から見た壺阪口中門跡。


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壺阪口中門を過ぎると、細い喰違形状になっています。


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角を曲がると、長い高石垣が伸びる通路に出ます。

おおっ! これ、パンフとかで見たロケーションだ!


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高石垣の通路を挟んで向かい側の石垣は、ご覧のとおり低い石垣です。


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反対側(東側)から見た高石垣です。

見事な石垣ですよね。

さぞかし立派な櫓が乗っていたのでしょう。


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で、そのまま視点を左(東)にずらすと、大手門跡です。

つまり、上の高石垣は大手門櫓跡だったんですね。

なるほど立派なはずです。


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このまま大手門を抜けて、二ノ丸、本丸に向かおうと思ったのですが、横の誘導板を見ると、南へ進めば本丸まで200m、北へ進めばニノ門跡まで560mとあります。

迷いましたが、せっかくなので、もう一つのルートも見てみたいと思い、ニノ門まで山を下ってみることにしました。

つづきは「その3」にて。


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by sakanoueno-kumo | 2019-05-16 08:53 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)