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カテゴリ:山崎合戦ゆかりの地( 15 )

 

山崎合戦のまちを歩く。 その5 「禁門の変十七烈士之墓~酒解神社」

山崎合戦旗立松のすぐ上には、酒解神社大鳥居があります。

酒解神社は山崎の産土神で、大山崎町のある乙訓郡では最も古い神社だそうです。

ただ、この大鳥居は新しいもののようですね。

鳥居をくぐると、「その3」で紹介した道陶板絵図があります。


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大鳥居をあとにして山道を登っていくと分かれ道になっていて、標識を見ると、「十七烈士の墓を経て酒解神社」と書かれた誘導が・・・。

何かわからぬまま、そちらの誘導に従ってみました。


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で、石段を登ってみると、「禁門の変十七烈士之墓」とありました。


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思い出しました。

元治元年(1864年)7月19日に起きた「禁門の変(蛤御門の変)」のとき、山崎のまちには長州藩の陣所が布かれましたが、敗走する際、長州藩士じゃない真木和泉ら十数人が長州藩主力兵たちと山崎で分かれ、自刃したんですね。


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以前、あるブログで、この地に真木たちの墓があると紹介されていたのですが、すっかり忘れていました。


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説明看板のよると、長州藩主力兵たちを見送った真木以下17名は、禁裏のある京都の地を去るに忍びないとして天王山に登り、7月21日、幕府追討軍の来襲を前に、烈士そろってこの地で壮烈な自刃をとげた、とあります。

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その直後、敗兵掃討によって離宮八幡宮・神宮寺等の社寺や、民家200余戸を焼失した、と。


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埋葬されている志士17名を列挙すると、


土佐・千屋菊二郎菅原孝健

土佐・松山深蔵橘正夫

宇都宮・岸上弘安臣

宇都宮・廣田精一執中

土佐・能勢達太郎平成章

肥後・小坂小二郎源雄宗

久留米・加藤常吉任重

土佐・安藤真之助強怒

久留米・真木和泉守平保臣

久留米・松浦八郎寛敏

久留米・池尻茂四郎懋

筑前・松田五六郎

肥後・加屋四郎藤原時雄

肥後・中津彦太郎藤原義直

肥後・酒井荘之助

肥後・宮部春蔵

肥後・西嶌亀太郎


だそうです。

幕末が好きなわたしですが、残念ながら、真木和泉以外で知っていたのは、土佐の千屋菊二郎菅原孝健(菊次郎?)くらいでした。

調べてみると、肥後の宮部春蔵という人は、宮部鼎蔵実弟だそうです。

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真木和泉の墓石です。


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彼らが自刃してから151年が経ちますが、山の風景はきっと当時とそう変わらず時がとまったままで、いまでも彼らの無念の叫びが聞こえてきそうです。


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墓を過ぎたところにある三社宮です。

三社とは、天照大神・月讀大神・蛭子神だそうです。


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で、酒解神社のお社が見えてきました。


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が、残念ながら改装工事中で、本堂の中はみれませんでした。


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説明板によると、ここは山崎地方で最も古い神社で、創建は奈良時代だそうです。
詳しくは看板をお読みください(笑)。


酒解神社を過ぎると、いよいよ山頂です。

次回に続きます。

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by sakanoueno-kumo | 2016-07-01 18:24 | 山崎合戦ゆかりの地 | Comments(2)  

山崎合戦のまちを歩く。 その4 「山崎合戦旗立松」

天王山八合目あたりに、「旗立松」と刻まれた石碑石灯籠があり、その横に松の木が植えられています。

説明板によると、山崎合戦の際に羽柴(豊臣)秀吉がここにあった老松の樹上高くに旗印を掲げ、自軍の士気を高めたと伝えられるそうです。


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当時の旗立松は明治中期ごろまでは、その姿をとどめていたそうですが、朽ちてしまったそうです。

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その後、幾度か植樹を繰り返し、説明看板には5代目とありますが、現在の松はその6代目だそうです。


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オリジナルの松は、きっと麓からも見えるほど大きな松だったのでしょう。


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すぐ横には、「山崎合戦の地」と刻まれた石碑があります。

実際には、合戦は山中ではなくで行われたんですけどね。


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こちらは裏面。




その側には、説明板があるのですが・・・。


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読めません(笑)。


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近くには、古戦場を望める展望台があります。


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木が茂ってよく見えないですが、高速道路が見えるあのあたりを境に、北に明智軍、南に羽柴軍が陣取っていました。


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展望台にある説明板です。


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『太閤記』によれば、秀吉の軍勢4万人に対し明智光秀1万6千人とあります。

夕方4時頃から始まった合戦は、わずか3時間ほどで決着がつき、軍勢に勝る羽柴軍の一方的な勝利に終わります。

その後、光秀は敗走し、落ち延びる途中、小栗栖の藪で土民の竹槍に刺されて落命します。

世に言う「光秀の三日天下」ですね。


次回に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-06-24 07:29 | 山崎合戦ゆかりの地 | Comments(0)  

山崎合戦のまちを歩く。 その3 「天王山登山道~秀吉の道陶板絵図」

宝積寺をあとにして天王山山頂を目指します。

登山道はハイキングコースになっていますので、そう苦もなくのぼれます。


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この日は昨秋10月18日の気候のいい日だったので、絶好のハイキング日和で多くの登山客とすれ違いました。


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途中の休憩所から見た天王山南側の眺望

中央の高いビルとビルの間に、かすかに大坂城が見えるとのことですが・・・。


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う~ん・・・見えるような見えないような・・・。


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登山道の道中には、頂上まで数カ所に分けて「秀吉の道」というタイトルの大きな陶板絵図が設置されています。

説明書きを見ると、堺屋太一氏の監修・解説、岩井弘氏の屏風画なんだとか。

お金かけてますねぇ。

せっかくなので、まとめて紹介しておきます。


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最初に目にしたのが、ハイキングコース最初の展望台「青木葉谷展望台」に設置された陶板絵図。

題名は「秀吉の中国大返◆勝負を決めた判断と行動◆」

わずか1週間足らずで備中高松城から引き返していた、有名な羽柴(豊臣)秀吉中国大返しが解説されています。


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続いて、ハイキングコース八合目あたりの酒解神社大鳥居をくぐったところに大きな陶板絵図が2枚。


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まずは、山崎合戦直前の各部隊のを描いた絵図。

題名は、「頼みの諸将来たらず◆明智光秀の誤算◆」

明智光秀があてにしていた諸将の援軍は来なかったという、光秀の誤算がテーマです。


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そのすぐ隣の絵図は、まさに合戦の様子を描いたもの。

題名は、「天下分け目の天王山◆勝負は川沿いで決まった◆」

前々稿でも言いましたが、天下分け目は「関ヶ原」だと思うんですけどね。


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さらに山を登って、酒解神社を過ぎたあたりにある絵図。

タイトルは「明智光秀の最後◆古い常識人の敗北◆」

たしかに、光秀はこの時代の常識人、秀吉や信長は非常識人でした。

時代を変える英雄というのは、その時代の人から見れば非常識な人じゃないとだめなんでしょうね。

秀吉に敗れた光秀は、落ち延びる途中、小栗栖の藪で土民の竹槍に刺されて落命しますが、絵図は、まさにその寸前を描いたものです。


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最後は、山頂にある絵図。

題名は「秀吉の『天下人への道』はここからはじまった」

秀吉は光秀との戦いに勝利すると、ここ天王山山頂に山崎城を築城し、大坂城に移るまでの拠点とします。

まさに、秀吉の天下への道はここからはじまりました。

陶板の堺屋氏の解説では、「秀吉のきらびやかな天下。-それはこの天王山の東側で行われた合戦からはじまったのである。」と結んでいます。


それにしても、登山道の道中にこのような立派な陶板を設置するなんて、運搬がたいへんだったでしょうね。

次回につづきます。


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by sakanoueno-kumo | 2016-06-23 00:02 | 山崎合戦ゆかりの地 | Comments(0)  

山崎合戦のまちを歩く。 その2 「大念寺~宝積寺」

登山口からしばらく急な坂道を登っていくと、これまた急勾配の石段があります。

ここを登ったところに、大念寺という小さなお寺があったので、立ち寄ってみました。


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大念寺は弘治元年(1555年)、この地に住む井尻但馬守長助が、京都知恩院徳誉光然上人を開山として建立したお寺だそうです。

本尊には「阿弥陀如来立像」(国指定の重要文化財)があるそうですが、拝観するには予約が必要だそうで、この日は見送り。


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小さな鐘楼があります。


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かつては力のあったお寺だったそうですが、元治元年(1864年)の「禁門の変」の際、長州藩士の一部が大念寺に布陣していたことで巻き込まれて焼失し、再興されたのは明治12年(1879年)になってからだったそうです。

当時、山崎地区は長州藩の屯所となっていました。


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大念寺からさらに坂を登ると、宝積寺という広い敷地を持つ立派な寺院があります。


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山門に立つ金剛力士像は鎌倉時代のものだそうで、重要文化財指定されています。


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山門から一直線にのびる参道の右側には、桃山時代の建築で重要文化財の三重塔があります。


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その側には、「豊臣秀吉一夜之塔」と書かれた立て札がありました。

なんでも、山崎合戦で明智光秀を討った羽柴(豊臣)秀吉が、その勝利を記念し、一夜で建立した塔なんだとか。

そんなわけないやろ!・・・と言うのは無粋というもの。

墨俣一夜城といい石垣山一夜城といい、秀吉は一夜で仕事を済ませる達人なんです(笑)。


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宝積寺は、奈良時代に聖武天皇が僧・行基に命じて建立したといわれる由緒ある古寺です。

この近くには、同じく行基が建てたと伝わる「山崎院」跡もあり、王山周辺は行基にゆかりの深い地なんだそうです。

ただ、宝積寺は貞永元年(1232年)の火災で行基時代の建造物はすべて焼失しており、現存する仏像等は、すべてそれ以降のものだそうです。


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天正10年(1582年)の山崎合戦では、ここに秀吉の本陣が置かれました。

その後、秀吉は天王山の山頂に山崎城を築城し、大坂城に移るまでの拠点としますが、その際、ここ宝積寺も城郭の一部として取り込まれたため、「宝寺城」とも呼ばれたそうです。


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「秀吉の出世石」だそうです。

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何の変哲もないただの石ですが、秀吉はこの石に座して天下統一を考えたんだそうです。

座るだけで史跡になっちゃう秀吉です(笑)。


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時代は進んで幕末の「禁門の変」の際には、尊皇攘夷派真木和泉を始めとする十七烈士らの陣地が置かれた歴史があり、また、大正4年(1915年)には夏目漱石がここを訪れ、「宝寺の隣に住んで桜哉」の句を詠みました。

1300年近く、ずっとこの地に歴史を刻んできたお寺なんですね。


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by sakanoueno-kumo | 2016-06-10 00:23 | 山崎合戦ゆかりの地 | Comments(4)  

山崎合戦のまちを歩く。 その1 「天王山登山口」

「ここが勝負の天王山」という言葉がありますよね。

ここ一番の勝負どころのことを「天王山」と表現して、スポーツの実況放送などでよく使われていますが、このたとえの由来が、羽柴(豊臣)秀吉明智光秀が激突した山崎合戦であることは周知のところだと思います。

「本能寺の変」で主君の織田信長を討った光秀が、備中高松城から猛スピードで帰ってきた秀吉に討たれた戦いで、この敗北によって、いわゆる「光秀の三日天下」となってしまったわけですね。

一方の秀吉は、この戦いを制したことで一気に天下人への階段を上ることになるのですが、この山崎の戦いを有利にすすめるうえでの要所となったのが、山崎地区にある標高270.4mの天王山だったことから、勝負のヤマ場のことを「天王山」と言うようになりました。


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天王山は、現在の京都府大阪府府境に位置しますが、その昔も、山城国摂津国国境でした。

関西の人にとっては、名神高速道路の天王山トンネルとして耳馴染みの地名だと思いますが、実はわたし、関西に住む歴史好きを自称しながら、これまで天王山を訪れたことがなかったんです。

で、過日、思い立って天王山を登ってみました。


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JR山崎駅を降りて北へ向かいます。

歴史的に有名な山崎という地名ですが、駅は小さくてローカル感いっぱいです。

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駅前には、秀吉のシンボル「千成瓢箪」の馬印をデザインしたオブジェがあります。


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周辺観光マップです。

左端にサントリー山崎蒸溜所という場所がありますが、洋酒の好きな方はご存知だと思いますが、ここ山崎はサントリーウイスキー「山崎」の発祥の地でもあります。


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踏切の向こうに見えるのが登山口です。

前のリュックを背負った外国人のお姉さんも、天王山の登山客でした。


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登山口です。

写真では伝わりにくいかもしれませんが、かなりの急勾配です。


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「歴史街道百選」だそうです。


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「天下分け目の天王山」って、「天下分け目の関が原」と混同してません?

たしかに山崎合戦は歴史のターニングポイントではありますが、「天下分け目」という表現はちょっと違うような・・・。

やっぱ、「ここが勝負の天王山」のほうがニュアンス的にしっくりきますよね。


次回へ続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-06-08 23:43 | 山崎合戦ゆかりの地 | Comments(0)