カテゴリ:太平記を歩く( 202 )

 

太平記を歩く。 その182 「松岡城跡(勝福寺)」 神戸市須磨区

正平6年/観応2年(1351年)年2月17日に起きた「打出浜の戦い」に破れた足利尊氏軍は、西へ敗走して松岡城へ逃げ込みます。

その松岡城は、神戸市須磨区にある勝福寺付近だったといわれています。


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この辺りの住所は大手町といいますから、日本のあちこちにある大手という地名のほとんどがそうであるように、かつて城の正面にあたる場所だった名残だと考えられます。


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『太平記』巻29「松岡城周章事」によると、

「小清水の軍に打負て、引退兵二万余騎、四方四町に足ぬ松岡の城へ、我も我もとこみ入ける程に、沓の子を打たるが如にて、少もはたらくべき様も無りけり。」


とあります。

「小清水」とは、たぶん「越水」のことで、越水に陣を布いた足利直義軍のことでしょう。

「四方四町」というのがどのくらいの面積なのかわかりませんが、文面から見て、たいして大きな城ではなかったようですね。

『太平記』には、この時残った軍勢が「かれこれ五百騎に過ぎ候はじ」とありますから、城が狭くてほとんどの兵が閉め出されたということでしょうか。


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勝福寺の裏山に少しだけ登ってみましたが、登山道が整備されていて、遺構といえるかどうかはわかりませんでした。


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その裏山からの眺望です。

この日は天気が良くなかったので霞んでいますが、晴れていればが望めます。


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もはやこれまでと悟った尊氏は、ここ松岡城での切腹を決意したと伝わります。

その夜、別れの酒宴を開いていたところ、逃げたと思っていた尊氏の家臣・饗庭命鶴が駆け付け、直義との和議が成立したことを伝えました。

間一髪で切腹を取り止めた尊氏は、2月25日に松岡城を出発、山陽道を京へと引き返すのですが、その帰路、「その181」で紹介した鷲林寺の前で高師直が殺され、また、その翌年には足利直義が尊氏に殺害(異説あり)されたことで、「観応の擾乱」は一応の決着をみます。


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勝福寺の石段の上り口の左手に証楽上人の墓所があるのですが、このあたりを「ハラキリ堂」と呼んでいるそうで、切腹しようとした尊氏に由来していると考えられています。


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ところでこの松岡城、もうひとつの説として、打出浜の戦いの舞台から見て東にあたる鳴尾方面にあったという説もあります。

寛政年間(18世紀末)に刊行されてベストセラーとなった江戸時代の観光ガイドブック『摂津名所図会』によると、

松岡古城 小松鳴尾の山手にあり、観応二年将軍尊氏公、轟師直と共に退きて、ここに拠れり。


と記されています(参照:摂津名所図会)。

下の写真は西宮市の廣田神社にある江戸中期の案内板


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右下のあたりに「松岡古城」と書かれているのがわかるでしょうか?


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この地図は、『摂津名所図会』を元に作られたものだそうです。

現在では、先述した須磨区の勝福寺付近が通説とされていますが、だとしたら、『摂津名所図会』が刊行された当時、このあたりに城跡とみられる何らかの史跡が存在したのでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-17 23:34 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その181 「鷲林寺」 西宮市

西宮市にある鷲林寺を訪れました。

ここは、正平6年/観応2年(1351年)2月17日に起きた「観応の擾乱」における「打出浜の戦い」において、足利直義が陣を布いたとされる場所です。


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「光明寺合戦」で勝負を決することができなかった足利尊氏軍は、軍勢を兵庫に移し、摂津の赤松範資と合流して大軍を形成します。


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同年2月17日、ここ鷲林寺や越水に陣を布く直義に対し、これを攻めるべく尊氏は2万の軍勢を現在の神戸市東灘区の御影の浜に進めますが、あまりにも兵の数が多すぎて逆に統制がとれず、敗北を喫します。


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総崩れとなった尊氏は松岡城へ逃げ込み、そこで高師直を出家させるという条件で直義と和睦するのですが、師直らが京都に護送される途中、ここ鷲林寺前で養父を師直に殺された上杉能賢に襲われ、師直以下一族の多くが殺害されました。


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多宝塔です。


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ここを訪れたのは3月で、写真は裸木が目立ちますが、春は、秋には紅葉が綺麗なところです。


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敷地内にある石塔群です。

説明看板によると、これらの塔が作られたのは13世紀後半から14世紀初めと考えられているそうです。

あるいは、「打出浜の戦い」に関係してるかも・・・。


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七重塔に「信玄公墓」と書かれた木札が置かれていますが、そんな伝承があるそうです。

ただ、時代的に合わないようで、あくまで伝承の域をでません。


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この時代、大寺と城はセットだった場合が多く、かつてここにも鷲林寺(十林寺)城があったという説もあります。

そこで、寺の裏山を登ってみました。


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城跡らしき遺構は確認できませんが、登山道は大きな岩がゴロゴロと転がっていて、城の名残といえなくもない気がしましした。


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かなり急勾配な登山道で、しかも大きな岩が多いため、結構キツイ登山でした。


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15分ほど登ったところにある岩場からの眺望です。

北は宝塚方面から川西池田まで、東は広大な大阪平野、南は西宮から大阪湾を望む大パノラマです。


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正面に見下ろすのは、標高309.2mの甲山です。


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このロケーションですから、として利用しないはずがありません。


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かつて鷲林寺は寺領70町歩・塔頭76坊を誇る大寺院だったそうですが、見てのとおり、陣を布くのに絶好の場所にあったため、その後も幾度となく戦火に巻き込まれ、最後は、天正7年(1579年)の荒木村重討伐の織田軍により、鷲林寺は兵火にかかり、衰退していったそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-14 08:32 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その180 「山下城跡」 加西市

兵庫県加西市にある「山下城跡」を訪れました。

ここは、赤松則祐の幕下にあった浦上七郎兵衛行景の居城と伝わります。


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写真は南西から見た山下城跡です。

山下城は戦国期の城としては珍しい平山城で、本丸は比高約30mの丘上にあります。


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正平6年/観応2年(1351年)年2月4日、足利尊氏足利直義方の石塔頼房が激突した「光明寺合戦」が起きると、浦上七郎兵衛行景も赤松則祐に従って尊氏方に与し、活躍したと伝えられます。


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この城自体が戦下に晒されたかどうかは、定かではありません。


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二ノ丸跡です。


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そして本丸跡です。


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本丸跡には、詳細な想定縄張り図が設置されています。


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本丸跡からの南西の眺望です。

左端に少しだけ覗いているのが、善防山城跡です。


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本丸を下りて、大手口方向に向かいます。

立派な土塁跡です。


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上の縄張り図でいうところの大手守備郭から見た北西の景色です。

春日山城跡のある飯盛山が見えます(参照:三木合戦ゆかりの地めぐり その43 ~春日山城跡~)。


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城跡東側にある常行院には、案内板が設置されています。


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常行院は、かつてあった田富山田福寺の塔頭のひとつで、案内板の横には田福寺の由来記があります。

それによると、(西暦1320年頃)とありますから元号に直すと元応2年頃、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)御代、当地の武士浦上太郎左衛門が寺を焼き払って城郭を構えたとあります。

つまり、ここも城郭の一部だったってことですね。


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時代は下って織豊時代、織田方の羽柴秀吉軍と三木城主の別所長治の間で行われた三木合戦に際して、当時の山下城主だった浦上久松が、三木城籠城戦に加わって戦死したと伝わります。

このときのことは、「三木合戦ゆかりの地めぐり その42 ~山下城跡~」の稿で紹介していますので、よければ一読ください。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-12 21:46 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その179 「光明寺城(滝野城)跡」 加東市

兵庫県加東市にある光明寺にやってきました。

この裏山にかつて光明寺城(別名:滝野城)があり、「観応の擾乱」における「光明寺合戦」の舞台になりました。


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足利直義によって派遣された石塔頼房が、中国筋平定のため書写山にいた足利尊氏を討つべく、ここ光明寺に陣を布いて京にいた直義に援軍を求めました。

それを知った尊氏は援軍の来る前にうち破ろうと、1万の兵で光明寺を囲みます。

正平6年/観応2年(1350年)年2月4日のことでした。


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尊氏は引尾山高師直鳴尾山赤松則祐八幡山に陣を布いて光明寺の石塔軍と戦いますが、10日間に及ぶ戦闘にも決着がつかず、やがて援軍が迫ると、尊氏は光明寺の包囲を解いて摂津へと軍勢を移し、そして、「その66」で紹介した打出浜の戦いにつながります。


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標高230m、比高150mの場所に本堂がある光明寺ですが、かなり上まで車で登っていけますので、訪れるにそう難しくはありません。


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駐車場から見た東の眺望です。


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南は遥かに東播磨平野が広がります。


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入口には五峰山光明寺と刻まれた石碑があります。


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光明寺は推古帝2年(594年)法道仙人開基と伝えられ、文明年間(1469年~1487年)頃には25の塔頭寺院が山頂に建つ並ぶ壮大な寺院だったそうですが、現在ではわずかに4つの院坊が残るのみとなっています。


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ここを訪れたのはゴールデンウィーク中の5月4日でしたが、紅葉の季節に来れば、きっとメチャメチャ綺麗だと思います。


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仁王門です。


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ここもの木だらけです。


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本堂です。


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本堂脇を抜けて裏山に入ると、すぐに「光明寺合戦本陣跡」と刻まれた石碑があります。

ここが、石塔頼房が5000余りの兵で陣を布いた場所と推定されているそうです。


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本陣跡には、観光客用に足利氏の家紋である二つ引両を記した陣楯が置かれ、本陣っぽく演出されていたようですが、随分以前のものらしく、ほとんど朽ち果てています。


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あるいは、大河ドラマ『太平記』のときに作られたものかもしれませんね。

だとしたら、25年前のことです。

そろそろ作りなおしてはどうでしょう?


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本陣跡の説明板です。


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本陣跡の近くには、『太平記』に記された「山鳩の悪夢」「高家無文の白旗」といった逸話を紹介した案内板がありました。


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本堂から少し下ったところに、物見台があります。

そこからの眺望です。


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ズームすると、遥か南に神戸市西区の雌岡山(めっこうさん)と雄岡山(おっこうさん)が見えます。


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参道脇には、滝野城主・阿閇重氏の墓があります。


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阿閇重氏という人物のことはよく知らないのですが、墓石には、「大永六丙戌年歿」と刻まれていますので、西暦1526年、現在より490年前に没した人物のようです。

その後、光明寺は現在まで続きますが、光明寺城(滝野城)がいつまで存在していたのかは、定かではありません。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-11 22:09 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その178 「石龕寺」 兵庫県丹波市

兵庫県丹波市にある石龕寺までやってきました。

難しい漢字ですが、石龕寺(せきがんじ)と読みます。

ここは、「観応の擾乱」にて敗れた足利尊氏とその嫡子・足利義詮が、一時この地に身を寄せたと伝わる寺です。


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「観応の擾乱」とは、南朝、北朝の争いが続くなかで起きた、足利氏内部での内紛のことをいいます。

征夷大将軍に任ぜられ幕府を開いた足利尊氏は執事・高師直とともに、地方武士を取り込み、新体制を樹立しようとしていました。

しかし、尊氏の弟・足利直義は、こうした体制に反対で、鎌倉幕府的体制の再建をめざします。

こうして、尊氏・高師直と直義は対立することになり、とうとう両者は武力衝突してしまうんですね。

これが正平5年/観応元年(1350年)からの「観応の擾乱」です。


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まず、尊氏の子で直義の養子となっていた足利直冬が九州で挙兵、これを討つため尊氏が九州へと向かったすきに、直義は京を固めてしまいます。

それを知った尊氏は、年が明けた正平6年/観応2年(1350年)年1月、京へ引き返して直義と戦うも負けてしまい、兵庫へ落ちのびます。

その際、一時身を潜めていたのが、ここ石龕寺だったと伝わります。


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『太平記』巻29「将軍親子御退失事付井原石窟事」によれば、尊氏は嫡子の義詮に仁木頼章、義長兄弟を添え、2000騎を当地に留めたといいます。

このとき、石龕寺の僧が足利氏に丹波栗を献上したそうで、それを受けた義詮は、そのひとつに爪痕を付け、「都をば出て落ち栗の芽もあらば世に勝ち栗とならぬものかは」(もしこの栗が芽を出せば、都に出て天下を取ったものと思ってくれ)という歌を添え、栗を植え立ち去りました。

その後、首尾よくそのとおりとなったため、「爪あと栗」または「ててうち栗」として伝えられるそうです。


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仁王門の金剛力士像(仁王像)は仁治3年(1242年)に作られたもので、国の重要文化財に指定されています。

ということは、尊氏、義詮も同じものを目にしたんですね。


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携帯電話も圏外になるほど人里離れた山奥にある石龕寺は、その名称のどおり、城郭のごとく各所に石垣が積まれています。


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本堂です。

方三間、宝形造り、銅板葺、唐破風向拝付です。


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本堂前にある巨木「コウヨウザン」です。

推定樹齢300年だそうですから、さすがに、『太平記』の時代は知りません。


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とにかく石垣が見事です。


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本堂横には、奥の院に向かう参道入口があります。

ここから奥の院まで約30分の登山です。


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登山口を登るとすぐに、防獣柵があります。

ここを開けて進むと、道はいきなりハードになります。


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道中、明らかに石垣跡と思われる遺構が所々に点在していました。


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ここも、この時代の他の大寺院がそうであるように、寺と城が一体となって要塞化した武装寺院だったのでしょうか?


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急斜面を約30分登ると、建物が見えてきました。


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どうやら鐘楼のようです。


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奥の院鐘楼からの眺望です。


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石灯籠群の道を更に奥に進みます。


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奥の院拝殿です。


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さらに奥に進むと、休憩小屋が建てられた平坦地に、「足利将軍屋敷跡」と刻まれた石碑が建てられています。

どうやら、尊氏、義詮がしばらく逗留していたというのは、この場所のようです。


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でも、すいぶん狭小な敷地で、どう考えても、ここに2000の兵を留め置いたとは思えません。

たぶん、ここには将軍と側近の仁木兄弟と、身の回りの世話をする小姓が少数いたのみで、あとは、ここに登ってくる途中にあった石垣跡などにあったと思われる曲輪などにいたんでしょうね。


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ここ石龕寺は紅葉が美しいことで有名で、毎年11月第3日曜日には「もみじ祭り」が催されます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-10 23:04 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その177 「楠母神社跡」 大阪府富田林市

前稿で紹介した妣庵観音寺から府道209号線を挟んで東へ5分ほど歩いたところの丘の上に、かつて存在した「楠母神社」廃墟跡があります。

ここは、その名のとおり楠木正成の夫人・久子を祭神とした神社でした。


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入口には門柱の跡が残っていて、その側には「楠母神社創建の経緯」を記した扇型の石碑があります。


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以下、碑文。

楠母神社

大阪府南河内郡東條村矢佐利。

この地は贈正一位橘朝臣正成公夫人誕生の地なり。

楠公父子の誠忠古今を貫くも楠氏一門の節義天地を照らすもこれ偏に夫人内助の功に基づく。

真に夫人は日本婦人の亀鑑たり。

依って紀元二千六百年を期しこの聖地に神社を建立し永久に淑徳を讃仰し奉る。


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神社の創建は国粋主義の盛んな昭和15年(1940年)。

第二次世界大戦開戦の前年ですね。

皇国の忠臣の象徴だった楠木正成、楠木正行父子の「滅私奉公」を、として、そしてとして支えた久子の内助の功を讃えるための神社を、この時期に創建するということにどういう政治的意図があったかは想像に難しくありません。


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敷地は広大な面積だったようです。


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こちらは、「李王妃殿下が楠母会に賜った御歌」の碑。

李王妃殿下とは李方子妃殿下のことで、昭和天皇(第124代天皇)のお妃候補のひとりとして名前が取りざたされたこともあったそうですが、その後、日韓併合の政略結婚で、旧大韓帝国の皇太子と結婚した女性です。


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碑文。

皇紀二千六百年を記念し府下女学校生徒国民学校女児童は楠母神社本殿を大日本国防婦人会関西本部管内会員は拝殿を寄進し奉り、又茲に名誉本部長李王妃殿下の御歌を永への御訓へとして謹録す。

昭和十六年五月十日

大日本国防婦人会関西本部


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大日本国防婦人会とは、満州事変後、銃後の固めを急ぐ軍部の指導でつくられた軍国主義的婦人団体のこと。

戦前戦中を描いたドラマや映画などで、たすき掛けをして弱気な女性を鼓舞するおばちゃんたちが出てきますが、あの人たちのことです。


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社殿跡と思われます。


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狛犬が意外に傷まずに残っています。


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そして、こちらは、無残に放置された石像の残骸

久子とその息子たちでしょうか?


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見ようによってはご遺体にも見えなくもありません。

晴天の真昼間だったからいいようなものの、薄暗い日だったら気味が悪かったでしょうね。

地元の人も、気味が悪いといってあまりここに近寄らないとか。


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世の憂きも 辛きも忍ぶ 思いこそ 心の道の 誠なりけり


久子が詠んだとされる歌です。

悲しみも苦しみも耐え忍ぶ思いこそ、誠の道である・・・と。

本当に久子が詠んだんですかね?

久子を「日本女性の亀鑑」として、国威発揚に利用しようとした誰かが詠んだものなんじゃないですかね。


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楠母神社は終戦後もしばらく存在していたそうで、戦争未亡人戦災孤児たちの心の支えとなっていたようですが、後継者がなく、昭和50年代に取り壊されれたそうです。

その後、公園整備されるという話も出ていたそうですが、予算がつかず、宙に浮いたまま現在に至るのだとか。

入口にあった石碑の碑文の最後に、「永久に淑徳を讃仰し奉る」とありましたが、敗戦とともにその役目も終わったということでしょうか?


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ここは『太平記』の史跡というより、先の戦争の負の遺産といったほうがいいかもしれません。

久子本人も、自身の内助の功がこのようなかたちで後世に政治利用されたことは、本意ではなかったに違いありません。

その鎮魂のためにも、ここを後世に残すべく整備してほしいですね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-06 21:20 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その176 「楠妣庵観音寺」 大阪府富田林市

楠木正成の妻で、楠木正行の母である久子が、夫と息子の戦死後に出家して菩提を弔った場所と伝わる「楠妣庵観音寺」を訪れました。


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参道入口では、「太平記の里」と書かれた大きな看板が迎えてくれます。


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「峰篠山楠妣庵観音寺」というのが正式名称で、その起源は、在世中の楠木正行が後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の崩御を悼み、峰篠山の一角に後醍醐天皇の念持仏であった千手観音を安置した「峰條山観音殿」と称する一殿を建立したのが始まりとされます。


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山門に上る階段の横には、久子と正行の母子像があります。


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「その163」で紹介した四条畷神社にも、同じ母子像がありましたよね。


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これは、『太平記』巻16「正成首送故郷事」に出てくるくだりで、「湊川の戦い」で自刃した父・正成の首が河内の一族のもとに送られてきたとき、それを見た11歳の正行はショックを受けて自害しようとしますが、これを見た久子は正行をこう叱責して諭します。


「栴檀は二葉より芳」といへり。汝をさなく共父が子ならば、是程の理に迷ふべしや。


「栴檀は双葉より芳し」とは、大成する者は幼いときから人並み外れてすぐれているということ。

つまり、楠木正成の息子ともあろう者が、この程度のことで何を血迷っているのか・・・と。

有名なくだりですね。

母は強し。


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山門への階段を上ります。


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山門横には、高さ30mケヤキの巨樹が聳えます。

樹齢どれくらいでしょうか?


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階段横には楠木正成像が。


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この短足具合が、大河ドラマ『太平記』武田鉄矢さん扮する正成に似てます(笑)。


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説明板によると、この像は元弘3年/正慶2年(1333年)5月に隠岐の島を脱出した後醍醐天皇と、「その60」で紹介した摂津国の福厳寺で対面したときの正成の姿だそうです。


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山門です。

もとは山形県の恵林寺塔頭青松軒に建立されていた門だそうで、本坊が焼失して門だけが残存していたものを昭和39年(1964年)、大楠公夫人600年祭に移築されたそうです。


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山門をくぐると、すぐに本堂があります。

大正11年(1922年)に再興されたものだそうで、正成の旗頭の文字「非理法権天」が掲げられています。


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本堂前にある「菊水」家紋入りの水桶


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本堂前の石段を上ると、久子の墓があります。


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こちらがその墓。


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久子は甘南備の豪族・南江備前正忠の妹もしくは娘といわれ、ここ甘南備の矢佐利に生まれたと伝わります。

ちなみに久子という名は、観心寺過去帳によるとされます。

元亨3年(1323年)、20歳で正成と結婚。

ここ楠妣庵観音寺の説明書きには、正成との間に正行、正時、正儀、正秀、正平、朝成6人の子をなしたとありますが、実際には、実子とみられるのは正行、正時のふたりで、そのほかの子が久子の子であるかどうかは定かではありません。


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墓は600年余りささやかな五輪一基が寂しく祀られていましたが、現在は玉垣に囲われた立派な墓所になっています。


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墓所の側らには楠木一族の供養塔が。


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墓所の隣にある観音堂です。

久子の念持仏である「十一面観音」が祀られている小堂で、大正6年(1917年)5月に建立されたそうです。


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こちらは、久子が隠棲したとされる草庵「楠妣庵」復元です。

観音堂と同じく大正6年(1917年)5月に建立。


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皇太子時代の昭和天皇(第124代天皇)もここに行啓されたそうで、お手植えのクスノキがあります。


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正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」正行、正時兄弟が戦死すると、久子は生まれ故郷の甘南備に隠棲し、名を「敗鏡尼」と称し、夫正成をはじめ一族郎党の菩提を弔い、ひっそりと16年間の余生を過ごしたといわれます。

その隠棲地を「楠妣庵」といい、久子の没後、正行の弟・正儀が観音殿を改め「観音寺」として楠一族の菩提寺としたことから、「楠妣庵観音寺」と呼ばれるようになったそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-05 22:26 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その175 「恩智城跡」 大阪府八尾市

大阪府八尾市にある恩智城跡を訪れました。

恩智城は楠木正成八臣のひとりである恩智左近満一が築いたとされる城で、正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」楠木正行が戦死すると、ここ恩智城も落城したと伝わります。


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城跡と言っても、遺構は残っていません。

現在は旧恩智小学校の跡地に石碑が建てられているのみです。


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学校の校門跡でしょうね。

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城跡の石碑と小学校跡の石碑が並びます。


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現地説明板によると、恩智城跡は自然の高地を利用した城郭で、高安連峰との間に堀をめぐらせ、堀の中にかつては小島があったそうですが、それはむかしの一の丸で、現在の城址は二の丸址だそうです。


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城は広さ東西83間 南北85間だったと伝わります。


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城跡からは、河内平野が一望できます。


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遠くにあべのハルカスが見えます。


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城跡公園の西には、恩智左近満一の墓があります。


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恩智左近満一は恩智神社の社家の出で、楠木正成方に味方した八臣のひとりです。


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「湊川の戦い」で正成が戦死したあとは、その子・正行を助けて南朝方を守りましたが、延元2年/建武4年(1337年)に熱病で死んだという説と、正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」戦死したという説があるようで、定かではありません。


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説明版は病死説を採っているようです。


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『太平記』とは無関係ですが、左近の墓の傍らに小さな墓碑16基並んでいるのですが、これは、明治10年(1877年)の西南戦争政府軍として従軍した中河内近在の人々の墓だそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-12-29 02:25 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その174 「歯神さん」 大阪府東大阪市

「その171」で紹介した霊光院から西に少し坂を下ったところに、鉄柵で囲われた小さながあるのですが、ここは、楠木正成の弟・楠木正季の子・和田賢秀が祀られていると伝えられます。


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賢秀は従兄弟にあたる楠木正行・正時兄弟と共に、正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」で討死しました。


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賢秀の墓所は「その167」で紹介した四条畷市のものが有名ですが、この祠は、四條畷の戦いの舞台を東大阪四条説に則ったものだと思われます。


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その説明書きによると、賢秀がこの地で戦ったとき、自分の刀が折れ、敵の刃を口で受け止め、その刃を歯で噛み切ったところから「歯神」として崇められ、歯痛に効く神として、古くから信仰され、「歯神さん」として人々から敬神されているそうです。


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四条畷市の墓所の説明書きでは、敵将にはねられた首が敵に噛み付いたまま睨んで離れなかったという伝承で、あちらでも歯痛に効く神「歯噛(神)さん」として信仰されているとしていました。

微妙に話が違っていますが、いずれも歯にまつわる伝承であることを思えば、やはり、死に際に敵に嚙みついたのはホントの話かもしれませんね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-27 23:07 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その173 「楠木正行首塚(東大阪)」 大阪府東大阪市

「その166」「その168」「その169」「その170」楠木正行墓や首塚を紹介しましたが、まだありました。

前稿で紹介した枚岡神社首洗の井戸から、800mほど北東にある重願寺という寺院の近くの住宅地のなかに、ひっそりとあります。


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こんな目立たない場所に案内板があり、この細い道を入っていきます。

非常にわかりにくい。


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敷地内には、玉垣で囲われた空間と、顕彰碑が目に入ります。


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玉垣のなかには、首塚と思われる石龕が見えます。

右下に「楠木正行首塚」と書かれた立て札がありますが、実はわたしが来たとき、敷地内の隅っこに倒れており、わたしが起こして立てかけました。


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首塚の石龕です。


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扉部分にかすかに菊水の紋が確認できますが、かなり傷んでいます。


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花立てには菊紋が確認できます。


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首塚のそばに建つ「顕彰碑」


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碑文は漢文で書かれていたので、わたしには読解できません。
こちらの菊水は、はっきりと確認できます。


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前稿の首洗池から1km弱、「その170」で紹介した往生院六萬寺の墓所からは2kmほどの立地を考えると、おそらく、「四條畷の戦い」の舞台を東大阪四条説に則った首塚だと思われます。

とにかく、説明板も何もないので、詳しいことがわかりません。


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「首塚」のある場所の横の通りにあった鳥居です。

額の部分が外されており、この近くに神社があるのか、あるいは、この塚がかつて神社として祀られていたのか、わかりません。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-26 20:23 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)