カテゴリ:太平記を歩く( 202 )

 

太平記を歩く。 その162 「小楠公義戦之跡」 大阪市北区

大阪市営地下鉄谷町線と京阪電鉄が交わる天満橋駅を地上に上がった川沿いに、「小楠公義戦之跡」と刻まれた大きな石碑があります。

「小楠公」とは、楠木正成の嫡男・楠木正行のことで、父・正成は「大楠公」と呼びます。


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延元元年/建武3年(1336年)5月25日の「湊川の戦い」で正成が敗死したあと、楠木氏はしばらくのあいだ鳴りを潜めていましたが、嫡男の正行が成長すると、本拠地である河内国南部で次第に力を蓄え、正平2年/貞和3年(1347年)8月10日、ついに挙兵します。

『太平記』では、この年が父・正成の十三回忌に当たっていたからだと説明していますが、この頃、足利幕府内では足利尊氏の弟・足利直義と、尊氏の側近・高師直対立表面化しはじめており(これが、のちの観応の擾乱に繋がっていきます)、混乱の様相を見せていたことが挙兵の理由だったと考えられます。


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楠木軍は9月に藤井寺近辺で足利方の細川顕氏を破り、11月には住吉浜で山名時氏を破りました。

この住吉浜の戦いの際、敗走する敵兵がこの地で川に落ちて溺れているのを助け、体を温めて手当をし、衣服と薬を与え、4、5日休養させて敵陣へ送り帰したと伝えられます。

助けられた敵兵はこの恩に報いるため、翌年の「四條畷の戦い」では楠木軍として参戦した者が多数おり、正行と共に討死したと伝えられます。


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以下、『太平記』巻26「四条縄手合戦事付上山討死事」原文


「安部野の合戦は、霜月二十六日の事なれば、渡辺の橋よりせき落されて流るゝ兵五百余人、無甲斐命を楠に被助て、河より被引上たれ共、秋霜肉を破り、暁の氷膚に結で、可生共不見けるを、楠有情者也ければ、小袖を脱替させて身を暖め、薬を与へて疵を令療。如此四五日皆労りて、馬に乗る者には馬を引、物具失へる人には物具をきせて、色代してぞ送りける。されば乍敵其情を感ずる人は、今日より後心を通ん事を思ひ、其恩を報ぜんとする人は、軈て彼手に属して後、四条縄手の合戦に討死をぞしける。」


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この正行の行為は、士道の華として後世に讃えられました。

明治の元勲にして日本赤十字社創始者である佐野常民は、日本が赤十字に加盟する際、この故事を引き合いに出し、「赤十字精神の鑑」として日本人スピリッツを宣伝したとか。

そのおかげもあってか、日本は容易に条約加盟を認められたといわれているそうです。


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石碑の背後に流れる大川です。

ここに敵兵が溺れていたということですね。

ここは、有名な天神祭の会場として、年に一度、全国からの観光客で賑わう場所でもあります。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-07 10:01 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その161 「吉田兼好隠棲庵跡」 大阪市阿倍野区

大阪市阿倍野区にある正圓寺の境内に、かつて吉田兼好隠棲地があったことを示す石碑があると知り、訪れました。

吉田兼好といえば、『徒然草』の作者として名高い歌人随筆家という認識ですが、元は後宇多天皇(第91代天皇)に仕える北面の武士でした。

正中元年(1324年)に比叡山剃髪し、京都吉田山に隠れ住み、南北朝時代に入ると戦乱を避けてこの地に移り住み、貧自適な暮らしを営んでいたと言われています。

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そんな兼好をなぜこのシリーズに加えたかというと、『太平記』巻21「塩冶判官讒死事」に、兼好が出てくるんです。

その内容は、高師直塩谷判官高貞の奥さんに横恋慕し、そのラブレター代筆を兼好に頼んだという話です。

以下、原文。


哀なる方に心引れば、高志浜のあだ浪に、うき名の立事もこそあれ。」と、かこち顔也。侍従帰て角こそと語りければ、武蔵守いと心を空に成て、度重らばなさけによはることもこそあれ、文をやりてみばやとて、兼好と云ける能書の遁世者を呼寄て、紅葉重の薄様の、取手もくゆる計にこがれたるに、言を尽してぞ聞へける。返事遅しと待処に、使帰り来て、「御文をば手に取ながら、あけてだに見給はず、庭に捨られたるを、人目にかけじと懐に入帰り参て候ぬる。」と語りければ、師直大に気を損じて、「いやいや、物の用に立ぬ物は手書也けり。今日より其兼好法師、是へよすべからず。」とぞ忿ける。


塩谷判官高貞の奥さんはラブレターを見もせずに、箱ごと庭へ投げ捨ててしまうんですね。

これに怒った師直は、兼好に八つ当たりして、出入禁止にしてしまいます。

なんて自分勝手な話でしょう。

そんなこともあって、兼好はこの地で隠棲したのかもしれません。


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石碑は、「吉田兼好法師隠棲庵址」「兼好法師の藁打石」と刻まれたものがあります。

藁打石と伝えられる大石は、元は当寺院の北の方に丸山古墳があり、その近くにあった柘榴塚の大石が伝えられたものだそうで、現在は2つの石碑の中央にある「大聖歓喜天」と刻まれた標碑の礎石が、その藁打石と言い伝えられているそうです。


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こちらにも、「兼好法師隠棲庵址」の石碑が。


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こちらは句碑。

「兼好の 午睡さますな 蝉しぐれ」燦浪

とあります。


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こちらは『徒然草』の冒頭ですね。

「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」


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ちなみに、ラブレター作戦に失敗した高師直は、塩冶判官を陥れて彼女を手に入れるため、諸方に讒言を行い、追い詰められた判官が自国に逃げ落ちるのを追撃し、最後は判官も奥さんも死んでしまいます。

ひどい話ですね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-05 22:58 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(4)  

太平記を歩く。 その160 「尊氏産湯之井」 京都府綾部市

前稿で紹介した「景徳山安国寺」の近くに、古い井戸跡があるのですが、ここは、足利尊氏が生まれたときに産湯として使用された井戸との伝承があるそうです。


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前稿でも紹介しましたが、ここ綾部市は旧丹波国何鹿郡八田郷上杉荘といい、尊氏の母・清子の実家である上杉氏の領国でした。


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説明看板によると、清子は出産のために故郷の丹波に帰り、安国寺の門前の別邸に住んで、当寺の地蔵菩薩安産を祈願し、嘉元3年(1305年)に尊氏を産んだと伝えられています。

700年前にも里帰り出産があったんですね。


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消えかかっていますが、「足利尊氏公産湯井戸」と刻まれています。


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後世に編纂された『難太平記』では、尊氏が出生して産湯につかった際、2羽の山鳩が飛んできて、1羽は尊氏のに止まり、1羽は柄杓に止まったという伝説を伝えています。

また、弟の足利直義の産湯の際にも2羽の山鳩が飛んできて、柄杓湯桶の端にとまったとか。

当時、山鳩は八幡宮の遣いと考えられており、源氏の祖である源八幡太郎義家を意味していました。

つまり、やがて天下人になるであろうお告げだったというんですね。

ただ、当時は執権北条一族に憚って、人々はこのことを口にしなかった・・・と。

やがて足利政権の時代がくると、あのときの八幡様のお告げは、やっぱり本当だった・・・と。

よく出来た話です(笑)。


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井戸の中を覗いてみましたが、ただの井戸でした。

当たり前ですが。


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近くには、尊氏の像がありました。


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この像は、平成15年(2003年)3月27日、京都縦貫自動車道(丹波綾部道路)綾部安国寺インターチェンジの新設を記念し、多くの市民や全国各地からの篤志により建立されたそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-03 10:02 | 太平記を歩く | Trackback(1) | Comments(2)  

太平記を歩く。 その159 「景徳山安国寺」 京都府綾部市

足利尊氏生誕地と伝わる京都府綾部市を訪れました。

足利氏といえば、栃木県の足利荘を思い浮かべるのですが、実は、尊氏が生まれたのは母・清子の実家、上杉氏の本貫地である丹波国何鹿郡八田郷上杉荘だったそうです。

700年前にも、里帰り出産があったんですね。


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その生誕地にある安国寺に、尊氏と母の清子、そして妻の登子供養塔があると知り、車で約2時間かけて遠路はるばる訪れました。


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寺に入口には、「足利尊氏公誕生の地」と刻まれた石碑があります。


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紅葉の名所だと聞いていたので、その季節を狙って11月20日に訪れたのですが、あいにくので、残念ながら暗い写真ばかり。


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全国各地に「安国寺」という名称の寺がありますが、その多くは、尊氏の時代に建立および改修・改名されたものです。

延元3年/暦応元年(1338年)、征夷大将軍となって室町幕府を開いた尊氏は、禅僧・夢窓疎石の勧めで前稿で紹介した天龍寺の建立を始めるとともに、元弘の乱以降の戦死者を弔うため、国ごとに1寺1塔を建てる計画を立てます。

このときの寺を「安国寺」、塔を「利生塔」と称しました。

山城国の安国寺には、あの一休宗純(一休さん)がいたことで有名ですね。


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山門の扉には、足利氏の二つ引の紋章が。


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安国寺と利生塔は新しく造営されたものもありましたが、既存の寺院を修理してこれにあてた国もありました。

ここ綾部市の安国寺は、もとは清子の実家・上杉氏の菩提寺・光福寺としてあったものを、尊氏が丹波国の安国寺と定め、諸国安国寺の筆頭におきます。

自身の生誕地ということもあったでしょうが、母を敬う尊氏の思いが込められていたのでしょうね。


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雨じゃなければ、きれいな写真だったでしょうけどね。


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茅葺の仏殿は寛保3年(1743年)に再建されたものだそうです、。


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ここにも二つ引が。


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そして、こちらが境内奥にある、尊氏・清子・登子の供養塔と伝わる宝篋印塔です。

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向かって左から、清子、尊氏、登子の供養塔と伝わります。


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説明板です。

『安国寺文書』によると、二代将軍・足利義詮によって尊氏と登子の遺骨が安国寺に奉納されたと記されているそうで、南北朝時代のものとさせるこの宝篋印塔が、その墓碑だと考えられているそうです。

でも、だったら、清子の墓っていう伝承は、なんの根拠なんでしょうね?


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あいにくの雨でしたが、せっかく綾部市まで来たので、次稿、もう一回綾部市をやります。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-01 00:11 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その158 「天龍寺」 京都市右京区

世界遺産に登録されている京都・嵐山の天龍寺を訪れました。

ここは、暦応2年/延元4年(1339年)に吉野で崩御した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の菩提を弔うために、足利尊氏夢窓疎石を開山として創建したと伝わる大寺院です。


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後醍醐天皇に反旗を翻した尊氏が、なんで菩提を弔う寺院を?・・・と思ってしまいますが、そこは、複雑な心中があったのでしょうね。

尊氏の「尊」は、後醍醐天皇の諱「尊治」から偏諱を受けて改名したもの。

そんな関係にありながら、結果的に敵対する関係になってしまったことで、少なからず胸を痛めていたのかもしれません。

逆賊の誹りを逃れたいという思惑もあったかもしれませんね。

あるいは、天皇が怨霊となって祟りをなすのを恐れたのかもしれません。

そんな尊氏に後醍醐天皇の菩提を弔うことを強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石だったと伝わります。


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元々この地は、嵯峨天皇(第52代天皇)の后である檀林皇后が開創した檀林寺のあったところで、のちに後嵯峨上皇(第88代天皇)ととその皇子である亀山天皇(第90代天皇)の仙洞御所・亀山殿が営まれた場所です。

後醍醐天皇は、この地で幼少期を過ごしたと伝わります。


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寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定だったそうですが、尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたといわれます。


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造営に際して尊氏や光厳上皇(北朝初代天皇)が荘園を寄進しましたが、それでも費用が足りず、直義は夢窓疎石と相談のうえ、元冦以来途絶えていた元との貿易を再開することとし、その利益を造営費用に充てることを計画しました。

これが有名な「天龍寺船」の始まりです。


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庫裏と呼ばれる堂の玄関を入った正面に置かれる達磨図の大衝立。

前管長である平田精耕老師の筆によるもので、大方丈の床の間などに同じ達磨図が見られ、達磨宗である禅を象徴した天龍寺の顔といえるものです。


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こちらは大方丈のなか。

庫裏、大方丈内は自由に見学できるのですが、観光客がいっぱいで、いい写真がありません。


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こちらが、大方丈の西側に広がる曹源池庭園

夢窓疎石作の庭園といわれ、わが国最初の史跡・特別名勝に指定された庭園です。


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そして、平成6年(1994年)、世界文化遺産に登録されました。


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こちらは、境内西北にある多宝殿

ここに、後醍醐天皇の木像が安置されています。


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畳の間には入れませんが、ラッキーなことに撮影禁止ではありませんでした。


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ズームです。

肖像画に似てますね。

いつの時代に作られたものかは、調べがつきませんでした。


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康永2年(1343年)に完成した天龍寺は京都五山の第一位に擬せられ、室町幕府の隆盛とともに最盛期には子院が150を数える巨大寺院にまで成長しますが、その後、度重なる大火に見舞われ、やがて室町幕府の衰退とともに寺運も衰え、応仁の乱によって堂塔伽藍がことごとく焼失すると、しばらく再建もままならない状態が続きます。

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この状況を救ったのが豊臣秀吉で、豊臣政権下で天龍寺は蘇り、その後、徳川政権下でも庇護を受け、江戸時代中期にはかつての隆盛を取り戻すまでに至りますが、幕末の禁門の変の際に長州軍の拠点となったことで薩摩軍から砲撃を受け、ことごとく破壊されました。

現代の建造物のほとんどは、明治期に再建されたものです。


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嵐山といえば紅葉の名所で知られ、ここ天龍寺の庭園も、美しい景観が見られるとのことです。

ここを訪れたのは10月10日、ちょっと早かったですね。

今度は紅葉狩りに訪れたいと思います。



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by sakanoueno-kumo | 2017-11-30 01:19 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その157 「足利尊氏邸・等持寺跡」 京都市中京区

延元3年/暦応元年(1338年)、足利尊氏光明天皇(北朝第2代天皇)から征夷大将軍に任じられ、室町幕府が樹立します。

その、室町幕府発祥の地を訪れました。


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京都市中京区のオフィス街になかに、「足利尊氏邸・等持寺跡」と刻まれた石碑があります。

ビルの隅っこの植え込みのなかにあるその石碑は、気づかずに通り過ぎてしまうほど質素なものでしたが、かつてこのあたりに、尊氏の邸「三条坊門第」(二条万里小路第)があったとされています。


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現地説明板によると、尊氏邸の範囲については諸説ありますが、二条大路、三条坊門小路(御池通)、万里小路(柳馬場通)、高倉小路に囲まれた南北250m、東西120mの土地を占めていたと考えられているそうです。

実に約9000坪以上、これは邸というより、ほとんど城ですね。

尊氏はこの邸宅で政務をとり、延文3年(1358年)にここで薨じました。

のちにこの邸宅は「等持寺」という寺院に改められました。

尊氏は3つの寺院を建てることを願っていましたが実現できず、そのため「等持寺」という文字の中には3つの寺が含まれることになったと伝えられています。


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等持寺は足利氏の菩提寺として崇敬を集め、室町時代の政治・文化に大きな役割を果たしました。

しかし、応仁の乱以降は次第に衰退し、結局は別院であった等持院に合併されてしまったそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-11-28 22:47 | 太平記を歩く | Trackback(1) | Comments(2)  

太平記を歩く。 その156 「淡河城跡」 神戸市北区

前稿で紹介した石峯寺から4kmほど西に、淡河城跡があります。

難読ですが、淡河(おうご)と読みます。


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ここは、播磨一帯の豪族であった北条時房の孫にあたる淡河時治の城と伝わります。

淡河氏は暦応2年(1339年)に赤松則村(円心)・則祐父子と南朝方のあいだで争われた石峯寺・三津田の戦いにおいて、南朝方に与して破れ、ここ淡河城は赤松氏の拠点となりました。


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丹生山城、石峯寺城、そしてここ淡河城と、このあたりの城はことごとく赤松軍によって抑えられたようですね。

赤松氏といえば、東播磨地区のイメージがあったのですが、円心の時代は、今の兵庫県南部のほとんどを征服していたことがわかります。


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その後、明徳3年(1392年)には、淡河範清が赤松氏より季範を養子として迎え、その後は、淡河氏は赤松氏に属しました。


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時代は下って戦国時代後期には、羽柴秀吉率いる織田軍と別所長治が対峙した三木合戦では、別所方に与して滅びました。

その話については、「三木合戦ゆかりの地めぐり」の稿で紹介していますので、よければ一読ください。


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天守台跡に設置された石碑に埋め込まれた銅板には、南北朝時代からの淡河城の歴史が刻まれています。




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by sakanoueno-kumo | 2017-11-05 00:24 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その155 「石峯寺・石峯寺城跡」 神戸市北区

神戸の北のはずれに、石峯寺(しゃくぶじ)という寺院があります。

ここは重要文化財三重の塔薬師堂で有名ですが、かつてこの石峯寺の裏山にがあったということは、あまり知られていません。


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参道を上って重要文化財の仁王門を潜ります。

両脇に金剛力士像の造像年代はわかりませんが、かなり古いもののようです。

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こちらは向かって右側の阿形仁王

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そし、こちらが左側の吽形仁王です。

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「建武の新政」が始まって間もないころの石峯寺は、47の坊があり、さらに付近の百姓を加えると200人あまりの僧兵を擁していたといい、南朝方に味方していました。

ところが、はじめは石峯寺の衆徒たちと一緒に南朝方について兵を挙げた赤松則村(円心)は、建武の新政ののち足利尊氏に味方して北朝方についたため、寺の衆徒たちとは激しい対立関係となります。


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延元4年/暦応2年(1339年)8月29日、円心は三男の赤松則祐に命じ、東播州一帯の南朝軍を攻めさせました。

このとき、ここ石峯寺城も包囲されますが、同時に近くの淡河城も攻め落とされ、もはや援軍は見込めないと考えた僧兵たちは、何よりも本堂三重の塔などを兵火から守るため、200人挙って城外に駆け出し、赤松軍の包囲を突破し、寺から遠くはなれた場所まで移動して戦ったといいます。

そのおかげで、建物は兵火に遭うことなく、重要文化財となった現在に至ると。


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山門には「孝徳天皇勅願所」と刻まれた石碑があります。

寺伝によれば白雉2年(651年)、孝徳天皇(第36代天皇)の勅願により、法道が開山したとされます。


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本堂です。


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こちらは中堂の薬師堂

聖武天皇(第45代天皇)の開山で天平19年(747年)に行基が建立したと伝わり、国の重要文化財に指定されています。


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本堂東にある三重塔です。

弘仁14年(823年)に嵯峨天皇(第52代天皇)の勅願により建立したと伝わりますが、ちょうど『太平記』の時代あたりに、建てられたとの説もあります。

この三重塔も、国の重要文化財に指定されています。

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敷地内には、暦王4年(1341年)4月に造られたことが確認できる石造五輪塔があります。

時期的にみて、あるいは赤松氏との戦いに関係があるかもしれません。


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城があったとされる裏山に入ってみました。


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岩肌を削った穴のなかには、観音石像が祀られています。

裏山の空間は人工的に作られた遺構のようにも見えますが、自然にできたようにも思えて素人の私には判断がつきません。


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でも、明らかに何らかの建造物があったと見られる削平地もあります。

まあ、城といっても、この時代の多くの大寺院がそうであったように、寺院と砦が一体化して要塞化したものだったのでしょうね。


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寺院内の一角には、どういう理由か、歴代の徳川将軍尊霊碑が祀られていました。


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写真右から、徳川吉宗、家光、家重、家定、綱吉、家綱

あと、写真には映ってませんが、家慶、家斉、家治、家宣の碑もあります。

なぜか、家康、秀忠、家継、家茂、慶喜の5人はありません。

あと、明石城主・小笠原忠眞碑と、淡河城主有馬公(たぶん有馬則頼)碑もあります。

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次回は、この近くの淡河城を訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-11-04 01:47 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その154 「東条城(豊地城)跡」 兵庫県小野市

兵庫県小野市と加東市の市境あたりに、「豊地城跡」と紹介された史跡があるのですが、ここに南北朝時代、東条城があったと考えられています。


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前稿で紹介した丹生山城を拠点に足利軍と戦っていた金谷兵庫助経氏は、同時に東条城もその拠点とし、両城をさせて戦ったと伝わります。


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しかし、延元元年・<北朝:建武3年>(1336年)に東条城は北朝方の手によって焼き払われてしまいます。

『日本城郭大系』によると「東条城はおそらく豊地城の前身であろう」としています。


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現在城跡は田園地帯となっていますが、平成22年(2010年)の道路整備による発掘調査で、多くの遺構が発見されたそうです。

その後、また遺構は田畑に埋もれてしまいましたが、南側には、幅11m、高さ5mの立派な土塁跡が残されています。


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ただ、これらはすべてのちに築かれた豊地城のもので、東条城の遺構ではありません。


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時代は進んで16世紀末、豊地城は羽柴秀吉別所長治の間で行われた三木合戦に加わり、その後、破城となりました。

その件については、「三木合戦ゆかりの地」の稿で紹介していますので、よければ一読ください。




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by sakanoueno-kumo | 2017-11-03 10:33 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その153 「丹生山城跡・明要寺跡」 神戸市北区

「湊川の戦い」新田義貞が京都へ敗走した後も、神戸北部では義貞の一族・金谷兵庫助経氏が足利軍と奮戦していました。

その兵庫助が本陣を布いた場所が、神戸市北区の丹生山山上にあった明要寺でした。

明治に入って寺が廃され、丹生神社と改称しました。


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6世紀創建といわれる明要寺には、この当時、多くの僧兵がいました。

兵庫助はそれらの僧兵を引き連れ、付近の足利方に屈しない近江寺性海寺、さらには「その36」で紹介した太山寺の衆徒をもその配下に置き、赤松則村(円心)軍の攻略を開始します。

太山寺の衆徒といえば、かつては赤松軍とともに鎌倉幕府軍と戦った仲。

その後、円心は足利尊氏とともに後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)に反旗を翻しますが、太山寺の衆徒たちは、南朝方に付いていたようです。


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その後、金谷軍と赤松軍の戦いは長引き、延元3年(1338年)9月、ここ丹生山城を守っていた金谷軍の吉川経清が赤松軍の攻撃によって討死すると、その後も、赤松軍の赤松範資赤松則祐が金谷軍の拠点を次々と攻め、翌年の9月8日、赤松則祐が端谷城を攻略したことにより、赤松軍の勝利に終わります。


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丹生山城は、天正7年(1579年)の羽柴秀吉別所長治のあいだで行われた三木合戦の際にも舞台となっているのですが、その話は、「三木合戦ゆかりの地めぐり」の稿で紹介していますので、よければ一読ください。


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現在、丹生山城跡には石碑だけが残されており、その山頂には丹生神社があります。

かつて戦場となったシブレ山、丹生山、帝釈山、稚児ヶ墓山と連なる丹生山系の山々は、現在はハイキングコースとして登山客が多く訪れています。




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by sakanoueno-kumo | 2017-11-02 08:29 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)