カテゴリ:太平記を歩く( 202 )

 

太平記を歩く。 その152 「丹下城跡(河内大塚山古墳)」 大阪府松原市

大阪府南部には、日本一大きな大仙古墳(仁徳天皇陵)をはじめとする大規模な古墳が数多くありますが、その中のひとつ、松原市にある河内大塚山古墳は、南北朝時代、北朝方に属する丹下氏が城を築いていました。

それが丹下城です。


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丹下氏は伊予橘氏の流れを汲む土豪武士で、河内国丹下を支配していました。

伊予橘氏の流れというと、楠木正成の楠木氏も同じで、おそらく遠縁にあたる一族だと思われますが、楠木氏は南朝方、丹下氏は北朝方に属していたんですね。


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延元2年/建武4年(1337年)3月、丹下三郎入道西念の大軍は、古市に陣を張っていた南朝軍を攻めました。

しかし、野中寺前で合戦となり、南朝軍の岸和田治氏によって、丹下氏は丹下城に追い立てられ、付近の民家も焼き払われたそうです。


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古墳がに利用されることは多く、河内にある古墳群のほとんどが、中世や戦国期に戦火に巻き込まれています。

丹下城が築かれた河内大塚山古墳は、日本で5番目に大きな古墳で、全長は335m、後円部直径は185m、後円部の高さは20mあり、周囲に広い堀をめぐらせ、陣を張るにはもってこいの環境ですからね。


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その後、丹下氏は丹下城がしばしば襲われることから、すぐ西側に松原城をつくったと伝わりますが、松原城の正確な位置はわかっていません。

延元3年/建武4年(1338年)、南朝側の和田正興橋本正義らは、丹下氏の勢力拡大を恐れ、松原城を攻撃して陥落させました。

このとき、和田正興軍の高木遠盛によって丹下八郎太郎の子である能登房が討ち取られます。

まもなく松原城は落城したと伝えられますが、丹下城はその後、戦国期まで存在したようで、天正3年(1575年)の織田信長による河内国城郭破却令によって廃城となり、丹下氏は城を退去して帰農したと伝わります。




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by sakanoueno-kumo | 2017-10-29 00:41 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その151 「北畠顕家供養塔」 大阪府堺市

前稿で紹介した阿倍野区にある北畠顕家の墓とは別に、堺市にも顕家の墓があります。


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阿倍野の墓は江戸時代に建てられたものですが、こちらは昭和12年(1936年)に顕家600回忌に町の有志によって建てられたものだそうで、墓というより、供養塔と言ったほうが正しいでしょうね。


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『太平記』では、顕家戦死の地摂津阿倍野と記されているので、一般には前稿の墓が有名ですが、近年の研究では、ここ堺市の石津で討死したという見方が主流だそうです。


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『神皇正統記』などでは、延元3年(1338年)5月22日朝、足利軍高師直率いる1万8千と戦い、ここ摂津国石津で戦死したと伝えています。

享年21。


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供養塔の前には、「此附近北畠顕家奮戦地」と刻まれた石碑があります。


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供養塔です。

「源顕家公 殉忠遺蹟供養塔 南部師行公」

と刻まれています。

南部師行とは、顕家と共にこの地で戦死した南朝方の武将です。


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その南部師行から数えることの33代目にあたる子孫の男爵・南部日実氏が揮毫した慰霊碑です。

残念ながら、右上が欠けてしまっています。


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隅にある「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑の裏には、「正徳3年(1711年)建立、行家」と刻まれており、古くからこの地が古戦場であったと知られていたことがわかりますが、この稿を起稿するにあたってネットで調べていると、行「家」ではなく、「蒙」の草冠がない字だそうです。

たしかに言われてみれば、そうです。


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これは、当時、徳川幕府の目を恐れた人たちが、こういう形で顕家の霊を弔ったものだそうです。

へぇ~、ですね。


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慰霊碑の前に流れる石津川です。

おそらく、当時は浜辺だったんじゃないでしょうか。




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by sakanoueno-kumo | 2017-10-28 09:32 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その150 「北畠顕家墓所」 大阪市阿倍野区

北畠顕家の墓所と伝わる場所に来ました。

現在は北畠公園として整備されています。


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公園入口の石碑は、昭和14年(1939年)に建てられたものです。


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由緒書です。


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墓石の周りは塀と柵で囲われていて、なかに入ることはできません。


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墓所の前の石碑は大正8年(1919年)のものです。


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こちらはの看板には、阿倍野合戦之図と、同合戦に顕家が出陣の際に後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)に送ったとされる上奏文要訳が記載されています。その内容は、


一、西府(九州)と東関(関東)を平定するために人を遣わし、あわせて山陽、北陸等に藩鎮を置くこと。

一、戦争で疲弊した民の租税を減免し、倹約すること

一、貴族、僧侶への恩賞は、働きに応じて与えること

一、臨時の行幸や酒宴は控えること

一、法令に尊厳をもたせること

一、公家・官女・僧侶などのうちに政治に介入して政務を害する者あり  益のないものは退けること

延元三年(1338)5月15日

従二位権中納言兼陸奥守大介 臣 源朝臣顕家 上


この上奏文は、若年ながら顕家の卓越した政治理念を知ることのできる資料として、後世に高く評価されいます。


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柵の隙間から墓石を撮影。


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碑文は、手前の看板で紹介されていました。

「別当鎮守府大将軍従二位行権守中納言兼右衛門督陸奥権守源朝臣顕家卿之墓」


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顕家の墓は、かつてこの地にあった「大名塚」と呼ばれていた塚を、江戸時代の国学者・並川誠所が享保年間(1720年頃)に北畠顕家の墳墓と比定し、建てられたものだそうです。


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公園の片隅にあるプレファブの前に、「北畠顕家公ご尊像」と書かれた看板がありました。

その窓を覗いてみると・・・。


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中に顕家の像があるのですが、ガラスが汚れている上に反射して、写真ではよくわからないですね。


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さて、次回はもう1ヶ所ある顕家の墓を訪れます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-26 23:29 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その149 「阿部野神社」 大阪市阿倍野区

大阪市阿倍野区にある「阿部野神社」を訪れました。

ここは、前稿で紹介した北畠親房と、その子の北畠顕家二柱を祭神として祀る神社です。

全国にある「建武中興十五社」の一社でもあり、元別格官幣社でもあります。

「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年 (1872年) に神戸の湊川神社が定められたのに始り、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。


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神社への参拝入口は複数あるのですが、この日は南側から入ります。


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境内に入ると、すぐに顕家の像が目に入ります。


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親房のことは前稿で紹介したので、本稿では顕家のみ紹介します。


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元弘3年/正慶2年(1333年)8月、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が開始した建武の新政下、わずか16歳陸奥守兼鎮守府将軍に任じらた顕家は、同年10月、父と共に義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて奥州は陸奥国へ下向し、多賀城を国府として東国経営に努めます。

延元元年/建武3年(1336年)、足利尊氏謀反を起こすと、上洛して九州に敗走させることに成功。

この功績により、顕家は鎮守府大将軍に任じられます。

しかし、その後、湊川の戦い楠木正成新田義貞軍が敗北すると形勢は逆転。

やがて後醍醐天皇が吉野に落ちると、延元3年/建武5年(1338年)、京都回復のために兵を挙げて各地で転戦。

一時は北朝方を圧倒する戦いを見せますが、同年3月16日、摂津での戦いに敗れると、わずかな残兵を率いて和泉国の観音寺城に拠ります。

その後も顕家軍は和泉で奮戦しますが、やがて5月16日、足利方の高師直軍が堺の浦に出撃を開始し、5月22日、阿倍野・石津の戦いで壮烈な戦死を遂げます。

享年21。


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「花将軍 北畠顕家」という歌の歌詞だそうです。

聴いたことないですが(笑)。

顕家は紅顔の美少年だったと言われ、その貴公子ぶりからも「花将軍」と称されました。

平成3年(1991年)のNHK大河ドラマ『太平記』では、当時、「国民的美少女」と持てはやされた後藤久美子さんが演じて話題になりましたね。


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拝殿です。


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いたるところに北畠家の家紋菊の紋章が。

北畠家が天皇家直属の公卿だったことを意味しているのでしょうか。


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拝殿の周りには、「建武の中興六百五十年祭を迎へて」と題した木製のなが~い看板が設置されています。


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すべて楷書手書きです。

これ、凄いですね。


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そして、こちらは西側の参拝口。


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なぜ、この地に北畠父子を祀る神社が創建されたかというと、このあたりが顕家と足利軍が戦った古戦場跡と伝わり(異説あり)、この近くに顕家の墓があったからだそうです。

次回は、その顕家の墓を訪れます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-25 22:27 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その148 「北畠親房の墓」 奈良県五條市

前稿で紹介した賀名生の里の裏山に、南朝方の公卿・北畠親房の墓と伝わる古い墓石があります。


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北畠親房は、当時、学識の高い万里小路宣房吉田定房とともに「後三房」と称された公卿で、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の信頼厚く、その第二皇子である世良親王の養育を任されるほどでした。

また、大塔宮護良親王は親房の娘で、親王から見れば親房は義父にあたります。

北畠親房といえば、「大日本ハ神国ナリ」で始まる『神皇正統記』の著者として有名ですね。


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建武の新政下では、鎮守府将軍となった嫡子の北畠顕家と共に義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて奥州は陸奥国へ下向し、多賀城を国府として東国経営に努めますが、足利尊氏謀叛によって後醍醐天皇が吉野に落ちると、吉野朝(南朝)の中心人物として伊勢、あるいは陸奥において、京都回復に尽力します。

後醍醐天皇の崩御後は、跡を継いだ後村上天皇(第97代天皇・南朝2代天皇)の帝王学の教科書として、常陸国の小田城で中世二大史論のひとつである『神皇正統記』を著し、それ以外にも、後世に伝わる『職原抄』・『二十一社記』などを著しています。


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正平3年/貞和4年(1348年)に「四條畷の戦い」楠木正行ら南朝方が高師直に敗れると、南朝は賀名生行宮に落ち延びます。

その後、観応の擾乱による混乱で足利尊氏が南朝に降伏して正平一統が成立すると、これに乗じて親房は一時的に京都と鎌倉の奪回にも成功しました。

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しかし、その後、親房の動静を記す史料はなく、2年後の正平9年/文和3年(1354年)4月に賀名生で死去したと伝えられます。

享年62。


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墓所の隅には、「南朝三帝賀名生皇居之地」と刻まれた石碑があります。

その横には見える石碑は「五条高校賀名生分校跡」と刻まれていました。

墓所のある丘の上は、かつて五条高校賀名生分校があったそうです。


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親房の死後、南朝には指導的人物がいなくなり、南朝は衰退への道をたどっていくことになります。




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by sakanoueno-kumo | 2017-10-24 23:55 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(4)  

太平記を歩く。 その147 「賀名生南朝皇居跡」 奈良県五條市

吉野山から西南西に15kmほどのところに、「賀名生の里」と呼ばれる場所があるのですが、ここにも、かつて南朝の行宮があったと伝えられます。


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延元元年/建武3年(1336年)12月28日、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は京を逃れて吉野山潜行しますが、その途中、天皇は一時この地に滞在したと伝えられます。


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現在、ここは「賀名生の里歴史民俗資料館」と称して観光用に公園整備されています。


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後醍醐天皇がこの地に滞在の理由は、真言密教に大きく帰依していた天皇が、総本山である高野山金剛峯寺への行幸を強く願っていたといい、それがかなわない場合に吉野山金峯山寺へと向かう計画だったため、高野山と吉野山のほぼ中間地点に位置する賀名生で様子をうかがっていたと伝えられます。


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後醍醐天皇の跡を継いだ後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)は、正平3年/貞和4年(1348年)、南朝の本拠地の吉野山が焼き討ちにあうと、ここ賀名生に行宮を定めました。

それから間もない正平6年/観応2年(1351年)、北朝の天皇を擁立した足利尊氏が、一時的に南朝に降伏して北朝の天皇は廃され、年号も統一されるのですが、しかし、具体的な和睦の条件は折り合わず、翌年には再び分裂します。

世にいう「正平の一統」です。

ただ、わずか数か月のことでしたが、南朝が唯一の朝廷となり、ここ賀名生はわが国の都になったことになるんですね。

その後、南朝の行宮は河内や摂津などにも移りますが、賀名生は南北朝時代を通して、度々その拠点となりました。


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公園内には、「賀名生皇居跡」と伝わる藁葺屋根の古い屋敷があります。

ここは、西吉野の郷士・堀孫太郎信増の屋敷で、立ち寄った後醍醐天皇を手厚くもてなし、その後も後村上天皇、長慶天皇(第98代天皇・南朝第3代天皇)、後亀山天皇(第99代天皇・南朝第4代天皇)はこの地に入られたときも、皇居となりました。


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冠木門に掲げられた「賀名生皇居」扁額は、幕末の志士団・天誅組吉村寅太の筆によるものだそうです。

墨の色がまったく褪せてないのが凄い。


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冠木門横に設置されていた説明板です。


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屋敷はいまも「堀家」様の住居として使用されておられるそうで、見学には事前の申込みが必要だそうです。

この日は申込みをしていなかったので、外観の写真のみ。


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南北朝時代に記された記録などによると、この地はもともと「穴生」・「穴太」・「阿那宇」などと表記され、「あなう」と呼ばれていたようです。

正平の一統のとき、後村上天皇は「願いがかなってめでたい」との思いから、この地を「加名生(かなう)」と名付けたと伝えられるそうです。

のちに、この地の人々は「加名生」はおそれ多いとの理由で「賀名生」に改めたといわれ、明治のはじめに読み方を「あのう」に統一したそうです。


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700年近く前、わずか数ヶ月間わが国の首都となった賀名生の里。

いまは熊野路の隠れ郷といった雰囲気の静かな里です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-22 11:35 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その146 「花矢倉展望台」 奈良県吉野郡吉野町

吉野山シリーズの最後は、吉野朝廷の舞台がほぼ見渡せる花矢倉展望台からの眺望です。

のシーズンは観光客でにぎわう絶景スポットですが、真夏のこの日はわたしひとりでした。

標高約600mで、ここまで上がってくるのは結構たいへんですからね。


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眼下に目を落とすと、吉野山の町並みが南北に馬の背のような格好で尾根伝いに浮かびます。


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尾根伝いのいちばん向こうにひときわ高くそびえ立つ大建築が、「その127」で紹介した金峯山寺蔵王堂です。

こうして見ると、吉野山は蔵王堂を中心に発達した門前町だということがよくわかります。


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蔵王堂にズームイン。

その左側の山中から覗いている塔のような建物が、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が開いた吉野朝廷の皇居跡に経つ南朝妙法殿です。


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遠く西の方角に目を向けると、奈良県と大阪府の境にある金剛山系が望めます。

写真左のいちばん高い山が「その16」「その17」で紹介した金剛山、その右の山が葛城山、その右のラクダのふたつコブのような小さな山(小さいといっても標高517mあるのですが)が「その27」で紹介した二上山です。

金剛山系には、楠木正成が築いた千早城(その15)上赤坂城(その14)下赤坂城(その13)などがあります。

こうして見ると近いように思えますが、金剛山まで直線距離にして20km以上離れています。


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『太平記』では、この尾根伝いの吉野山全体を、「吉野城」としています。

吉野山の尾根は東西の深い谷にはさまれ、その尾根の落ちる北側には天然の堀ともいえる吉野川が流れ、さらに吉野山の背後は、大峯から熊野へ連なる急峻な山岳地帯であることを思えば、後醍醐天皇や大塔宮護良親王が、吉野山の僧兵の力を頼りながら、守りやすく攻められにくい自然の要塞ともいえるこの地に身を寄せた理由がよくわかる気がします。

まさに、ここは南朝方の城だったんだと。

それにしても、鷲峯山、笠置山、船上山、比叡山、そしてここ吉野山と、山の上を渡り歩いた後醍醐天皇の晩年でした。


さて、次稿から吉野山を離れます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-20 23:17 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その145 「後醍醐天皇陵」 奈良県吉野郡吉野町

前稿で紹介した如意輪寺本堂の裏山に、後醍醐天皇陵があります。

この長い階段の上です。


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吉野山に自ら主宰する朝廷を開くも、日夜、京都に戻る日を夢見ていた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)でしたが、しかし、天下の形勢は天皇に利あらず、さらには、そば近くに仕えていた吉田定房坊門清忠などの重臣が次々とこの世を去り、延元4年(1339年)8月9日、ついにに伏します。


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自らの余命幾許もないことを悟った後醍醐天皇は、8月15日、宗信法印を呼んで吉野朝の重臣たちを枕頭に集めさせ、わずか12歳義良親王攘夷する旨を告げ、諸国に最後の綸旨を発します。


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『太平記』巻二十一の「先帝崩御事」では、後醍醐天皇の遺言を次のように伝えます。


「妻子珍宝及王位、臨命終時不随者、是如来の金言にして、平生朕が心に有し事なれば、秦穆公が三良を埋み、始皇帝の宝玉を随へし事、一も朕が心に取ず。只生々世々の妄念ともなるべきは、朝敵を悉亡して、四海を令泰平と思計也。朕則早世の後は、第七の宮を天子の位に即奉て、賢士忠臣事を謀り、義貞義助が忠功を賞して、子孫不義の行なくば、股肱の臣として天下を鎮べし。思之故に、玉骨は縦南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望んと思ふ。若命を背義を軽ぜば、君も継体の君に非ず、臣も忠烈の臣に非じ。」


現代文に読み下すと、

「妻子珍宝及王位、臨命終時不随者(妻子や財宝、王位などは、死ぬときには全て置いていくものである)と言う言葉は釈迦如来の金言であり、常に私が心がけていることなので、秦国の穆公が三人の優秀な臣下を殉死させたことや、秦の始皇帝が死に望んで宝石などを来世に持って行こうとしたことなど、私には何ひとつ興味がない。ただ、この世に残す妄念は、朝敵を全て滅ぼし、天下を泰平の世にしたいう思いのみである。わが亡きあとは、すぐに第七の宮(義良親王)を天子の位に就かせ、忠臣賢臣らと相談の上、新田義貞や脇屋義助の忠義ある功績を賞し、その子孫に不義な行いがなければ、信頼できる朝臣として重用し、天下の鎮静をはからせるよう。私の骨はたとえ吉野山の苔に埋もれてしまっても、魂魄は常に北の空、都の空を望んでいる。もし私の命に背き大義を軽んずるようであれば、天皇であっても天皇ではなく、朝臣も忠義ある朝臣ではない」


凄まじい限りの執念ですね。

そして翌8月16日丑の刻(午前2時)、ついに波乱に富んだ生涯を閉じられます。

御齢52歳。

右手に剣を、左手に法華経5巻を持たれての崩御でした。

辞世の句

「身はたとえ 南山の苔に埋るとも 魂魄は常に 北闕の天を望まんと思う」


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後醍醐天皇の御遺骸はその形を改めず、ここ如意輪堂の裏山に葬られ、それも、わざわざ北向きに陵が築かれました。

これも、天皇の遺言にそったものだったと言われます。


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後醍醐天皇崩御から700年近い年月を経たいまも、ここ御陵の前に立つと、その無念の叫びが聞こえてくる気がします。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-19 22:52 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その144 「如意輪寺」 奈良県吉野郡吉野町

前稿で紹介した勝手神社から、中の千本の谷を隔てた山の中腹に、如意輪寺があります。

ここは、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が吉野に行宮を定めた際、勅願所となった寺院です。

本堂裏山には、後醍醐天皇陵があります。


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寺の歴史は古く、醍醐天皇(第60代天皇)の延喜年間(900~922年)に、日蔵上人により開かれたと伝わります。


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正平2年/貞和3年(1347年)12月27日、楠木正行、正時兄弟が、一族143人を引き連れ、まず吉野の皇居に参内して後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)に別れを告げたあと、ここ如意輪寺本堂の裏山に鎮まる後醍醐天皇陵に詣で、寺の門扉に辞世の句を矢じりで彫りました。


「かへらじと かねて思へば梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」


天皇の勅願所でありながら、本堂には、楠木家の家紋・菊水の幕が張られていました。


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正行たちはそれぞれの名を過去帳にとどめて、髪を切って仏前に投げ入れ、四條畷の戦いに出陣しました。

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「正行公埋髻墳」と刻まれた石碑です。

ここに、143人の髻が埋められているそうです。


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こちらは、「楠左衛門尉髻塚碑」

慶応元年(1865年)、津田正臣によって建てられたものだそうです。


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こちらは「至情塚」

後村上天皇より正行の奥方にとの話があった弁内侍が、正行討死のあと、その菩提を弔うために尼僧となり、その黒髪を埋めたところです。


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撮影禁止だったので写真はありませんが、宝物殿には、正行が記したと伝わる辞世の扉や、後醍醐天皇御物などの寺宝が数多く展示されていました。


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宝物殿の側の庭園には、向かい合うふたりの石像が。

おや?・・・これ、どこかで見覚えが・・・。


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そうです。

「その87」で紹介した櫻井驛跡(楠公父子訣別之所)にあった、楠木正成・正行父子別れの像ですね。


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あちらは近年作り変えられたものでしたが、こちらの像は古そうです。


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正行、なんかみたいですね(笑)。


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境内の最も高い場所にある多宝塔です。

いつの時代に建てられたものかは、わかりませんでした。


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そして最後に、後醍醐天皇御霊殿です。

この中に、後醍醐天皇自作の木像が安置されているそうですが、この日は公開されておらず、観ることができませんでした。


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細かい彫刻に目を奪われます。


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かつては色鮮やかだったことがうかがえますね。


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さて、次稿は本堂裏山にある、後醍醐天皇陵を訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-10-18 23:59 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その143 「勝手神社跡」 奈良県吉野郡吉野町

南北に細長い吉野山のちょうど中央あたりにある、勝手神社跡を訪れました。

ここは吉野八社明神のひとつで、大山祇神、木花咲耶姫など六柱の神を祭神としています。


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吉野大峯の山々を鎮める信仰があり、吉野山口神社ともいいます。

また、仏法守護の神、軍神としても有名です。


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ただ、ここの社殿は、平成13年(2001年)9月27日、不審火により焼失してしまったそうで、いまは礎石を残すのみとなっていました。

ひどいことするやつがいたものです。


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正平3年/貞和4年(1348年)1月28日、足利方高師直の大軍は、後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)の吉野皇居を攻め、金峯山寺蔵王堂をはじめとする吉野山の主な堂塔伽藍を焼き払いました。


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後村上天皇はその難を避けて、さらに吉野の奥に落ち延びますが、その途中、この社前で馬を下り、


「たのむかひ 無きにつけても誓ひてし 勝手の神の名こそ惜しけれ」


と、詠まれたそうです。

天皇の無念の様子がうかがえる逸話ですが、火の海と化した吉野の山中で、悠長に歌を詠まれる余裕などあったのかどうか・・・。

無粋なことをいうようですが。


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社殿の創建は不明で、慶長9年(1604年)に豊臣秀頼が改築をしましたが、正保元年(1644年)12月に焼失したため、翌年に再建、明和4年(1767年)に再び火災に遭い、9年後の安永5年(1776年)4月に再建されました。

しかし、先述したとおり、平成13年(2001年)に不審火によって焼失し、現在に至ります。

日本の木造建造物は、火災との戦いの歴史です。


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敷地内には、再建復興御寄付のお願いと書かれた看板が立てられていました。

一日も早く再建できるよう願います。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-17 23:53 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)