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カテゴリ:西郷どん( 74 )

 

西郷どん 総評

 「幕末」と呼ばれる時代はいつからいつまでを言うのか、という話題になったとき、その始まりは「黒船来航」からという意見で概ね一致しますが、その終わりとなると、ある人は「王政復古の大号令」だといい、別の人は「戊辰戦争の終結」だといい、いやいや「廃藩置県」だろうという人もいれば、「西南戦争の終結」まで幕末は続いていたという人もいて、なかなか解釈が定まりません。


 わたしの個人的意見を述べさせてもらうと、「幕末」「幕」「幕府」「幕」と解釈すれば、幕府政権の終わり、すなわち大政奉還から王政復古の大号令にかけてとなるのでしょうが、古い時代の「幕引き」、新しい時代の「幕開け」という意味での「幕」と考えれば、わたしは侍の時代にピリオドが打たれた西南戦争の終結までが幕末ではなかったかと思います。で、その幕末の最初から最後まで登場するのが、今年の大河ドラマ『西郷どん』の主人公である西郷隆盛です。


 たとえば、幕末の志士のなかで人気ナンバーワン坂本龍馬を主人公にした場合、物語は大政奉還で終わってしまいます。司馬遼太郎さんはその大政奉還を大きなクライマックスに見立てて、あの名作『竜馬がゆく』を生み出しましたが、実際には、大政奉還は確かに大きな節目ではありましたが、維新改革の観点で言えば序章にすぎません。また、もうひとりの人気者である高杉晋作などは、さらに早く死んでしまうため、彼を主人公とする『世に棲む日日』は、これから歴史が大きく動くというところで物語が終わっちゃうので、大河ドラマにはし難いでしょう。その点、西郷隆盛の物語は、黒船来航から西南戦争まで、幕末の始めから終わりまですべて描ける。戦国三英傑の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を比べたとき、その後世の人気度でいえば1信長、2秀吉、3家康という順番になるかと思いますが、物語にすると、家康ものが俄然面白い。というのは、桶狭間の戦いから大坂夏の陣まですべて描けるからに他なりません。その論でいえば、幕末はやはり西郷なんですね。


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 で、そんなミスター幕末・西郷隆盛を主人公にした大河ドラマは、30年前の『翔ぶが如く』以来、2度目の作品となります。わたしは、『翔ぶが如く』はわたしの知る限り3本の指に入るほどの名作だったと思っているので、どうしても、それとの対比になっちゃうのですが、今年の大河ドラマ『西郷どん』は、わたしにとってどうだったかといえば、正直に言って名作とはいえない残念な作品となりました。同じ西郷を主人公とした伝記ドラマであるはずの『翔ぶが如く』と『西郷どん』は、似て非なるものだったと言わざるを得ません。


 その理由はいくつも挙げられますが、いちばんの理由は、取捨選択のマズさと創作稚拙さでしょう。西郷の志士としての生涯は長く、しかも濃い。それ故に史実に縛られること大で、また、伝承レベルの逸話も数多くあることから、それをすべて描こうとすれば、47話ではとても足りない。だから、割愛しなければならないのは仕方がないことですが、その取捨選択があまりにも下手で、理解しがたいものでした。少しでも歴史を知っている人であれば、きっと、何でここをスルーしちゃうんだ?と思ったことは一度や二度ではなかったのではないでしょうか? それが最も顕著に表れているのが、時系列の構成。全47話中、戊辰戦争までの幕末期が38話あったのに対し、維新後の明治期はたった9話。当然ですが、明治期のひとつひとつの歴史的出来事の描き方は粗雑となり、無理やり短縮したり解釈を変えることによって、とても歴史ドラマといえるものではなくなってしまいました。ちなみに、先述した『翔ぶが如く』では、幕末編が29話で、明治編が19話でした。これでも、もっと明治期を描いてほしかったと思ったほどでしたから、このたびの9話というのが、いかに短縮されていたかがわかるかと思います。


 では、その分、幕末期の話が充実していたかといえば、決してそうとは言えず、逆に無駄な話が多かった。それをいくつか挙げていくと、まず、島津斉彬の死までが長かった。たしかに、斉彬は西郷の生涯にとって欠かせない重要な登場人物ですが、西郷と共に過ごした時間は短く、西郷の志士としての長い生涯においては、序章に過ぎません。しかし、今回のドラマでは、斉彬の死までに実に16話も費やしています。しかも、たいして面白くもない創作話をたくさん盛り込んで。明らかにここは無駄だったでしょう。あるいは、斉彬役に超ビッグなハリウッドスターをキャスティングしたため、早く死んでもらうわけにはいかなかったのでしょうか? だとすれば、本末転倒な話ですね。民放の月9ドラマだったら、俳優さんありきで物語が構成される場合も多々あるでしょうが、歴史ドラマにおける俳優さんはあくまで影武者であって、重点をおくべきは、歴史上の人物です。


 それから、篤姫とのラブコメ話もいらなかった。篤姫と西郷の関係は、篤姫の輿入れ時に、その輿入れ道具の調達を任された、ただそれだけの関係です。フィクションがダメだと言ってるわけではありません。ドラマが100話あるんだったら、そういう遊びの回があってもよかったでしょうが、限られた尺のなかで、大事な歴史のエピソードを削ってまでも描かなければならなかったとはとても思えません。それと、ヒー様との意味不明な友情話も不要。あれ、何が描きたかったのか、わけがわかりません。あと、西郷と何ら関わりがなかったであろうジョン万次郎の話もいらなかったですし、それから、坂本龍馬の出番も多すぎた。わたしは、スマホの待受画面を坂本龍馬にするほどの龍馬ファンですが、だからといって、何でもかんでも龍馬人気に肖ろうとする傾向は好きではありません。坂本龍馬の人生にとっては西郷との出会いは重要な出来事だったかもしれませんが、西郷の人生にとっては、坂本龍馬はそれほど重要な人物ではありません。薩長同盟のくだりで少し登場すればいい程度の存在です。龍馬とのエピソードを描くくらいなら、西郷に大きな影響を与えた橋本左内藤田東湖(今回のドラマには登場すらしなかった)との関係を、もっと描くべきだったんじゃないでしょうか? これらの無駄な回をなくすだけでも、ずいぶん幕末編を短縮できたでしょうし、その分、明治編をもっと丁寧に描けたように思います。


それから、人物の描き方についてですが、開明派が賢者で、保守派が愚者という解釈も、相変わらず短絡的すぎるような気がします。例えば島津久光などは保守派の代表のような人物ですが、決して愚人というわけではなく、あと半世紀ほど早く生まれていれば、名君として後世に名を残していたかもしれません。一方で、島津斉彬勝海舟といった開明派は、時代が違えば、奇人変人扱いだったかもしれず、実際に斉彬も勝も、当時の社会のなかでは、敵が多く理解者は少ない存在でした。特に斉彬は、西郷というフィルターを通してみれば名君だったでしょうが、そのあまりにも革新的な考えを実行するために、振り回され、翻弄され、酷使されて使い捨てられた家臣もたくさんいました。斉彬と久光、どちらが薩摩藩にとって名君だったかは、一概には言えないんです。ドラマですから、ある程度分かりやすくするために善悪で描かれるのは仕方ないにしても、賢愚で描くのは、そろそろ見直してほしいと思います。


e0158128_20152636.jpgで、西郷の人物像についてですが、彼の場合、これまで多くの物語などで描かれてきた西郷がそうであったように、結局はつかみどころがない開明的なのか保守的なのか、賢人なのか愚人なのか、革命家なのか政治家なのか軍人なのか、西郷の言動や行動をいくら検証しても、ついぞ見えてこないんですよね。ある人は、西郷は自身が起こした革命を自らの死によって完成させたといい、またある人は、もう一度革命を起こして維新をやり直そうとしていたといい、また別の人は、自らの役目を終えたあとの死に場所を探して彷徨っていたと説きますが、どれも、そうともとれるし、でも腑に落ちません。司馬遼太郎さんは維新前の西郷と維新後の西郷とを、まるで別人と評しているのに対し、海音寺潮五郎さんは、維新前と維新後でまるで人が変ってしまうことなどあろうはずがないといっています。かつて司馬さんが執筆した『翔ぶが如く』を読んだ海音寺さんが、「司馬君でもまだ西郷を描ききれていない。」と評したという話がありますが、それほど、西郷という人物は、計り知れない人なんですね。


 そんな評価の難しい西郷ですが、素人のわたしなりに思う西郷像は、パートナーがあってこその西郷だったんじゃないかと思っています。つまり、西郷は維新第一の英雄となりましたが、自身の強烈な指導力で牽引するヒトラーのようなカリスマ革命家ではなく、誰かにサポートされて、もっといえば、誰かに操られて、その事績を成し得た珍しいタイプの革命家だったといえます。その西郷を操っていたのが、若き日は斉彬であり、革命期は大久保利通だったんじゃないかと。「操っていた」というと聞こえが悪いですが、決して彼らが西郷を見下していたというわけではなく、斉彬や大久保にはない人間的魅力を西郷は持っていて、その西郷の人間力を大久保たちは利用し、また、助けられてもいた。そんなギブアンドテイクの関係が成立していて、英雄・西郷隆盛が作られていったのではないかと思います。実際、斉彬は若き日の西郷を評して、「西郷を使いこなせるのは自分だけだ」と言っていたといいますし、斉彬亡きあと、ともすれば暴走しかねない西郷の手綱をさばいていたのは、大久保でした。西郷は西郷ひとりの力で西郷となったわけではなく、斉彬、大久保がいてこその西郷だったのではないかと。


 ところが、征韓論政変以降、西郷をいい意味で操る人間がいなくなり、西郷が身を預けたのが、桐野利秋別府晋介といった若いぼっけもんたちだった。彼らに西郷を操れるだけの能力はなく、神輿に担ぎあげるのが精一杯だった。これが、西郷の不幸だったといえるでしょう。ひるがえって考えれば、結局、西郷はその人生において自らの意思で能動的に行動したことは一度もなく、斉彬に使われ、大久保に操られ、最後はぼっけもんたちに担がれるという傀儡の生涯だったんじゃないかと。ちょっと西郷ファンには申し訳ないですが。


 今回のドラマの西郷は、これまでにないエネルギッシュな西郷でしたね。それはそれで悪くはなかったと思いますが、残念ながら西郷の生きた歴史、西郷が行った功績がほとんど描かれていなかったため、ただエネルギッシュな良い人、というだけでした。歴史上の英雄というのは、善きにせよ悪しきにせよ清濁併せ呑む人物だったからこそ英雄たり得たわけで、そこが偉人たちの魅力でもあります。そんな歴史上の英雄のなかでは、珍しく西郷は道義を重んじる人格者ではありましたが、西郷とて決して聖人君子ではありません。だから、ドラマ内の「皆が腹いっぱい食える世の中にしたい」というあの台詞を聞くたび、興ざめしていました。そんな、世のため人のために生きてませんよ、人は皆。西郷は道義主義者でしたが、彼の道義はあくまで当時の武士階級の道徳であり、士族至上主義でした。幕末期の西郷は薩摩藩の立場を守るために活動し、明治期の西郷は、薩摩士族のために働いた。ひいては、それが自身のためでもあったんです。決して、世のため人のためといった綺麗事で幕府を倒したわけではありません。自分たちのためです。民百姓のことなんて、眼中になかったと思いますよ。


 それらの人物像歴史解釈、フィクション部分を見ても、どうにも稚拙な描き方に思えてならない今年の大河ドラマでした。勘違いしないでほしいのは、わたしは、フィクションがダメだと言っているわけではありません。でも、全47話という限られた尺のなかで構成するわけですから、そこは、センスが問われるところだと思います。歴史ドラマといえどもエンターテイメントですから、フィクションは不可欠だと思いますし、そこには独自解釈があってもいいでしょう。ですが、歴史ドラマにおけるフィクションは、作り手の知識に裏付けされたセンスが必要だと思います。本作品の原作の林真理子さんと脚本の中園ミホさんに、どれほどの知識の裏付けがあるのかは知りませんが、想像するに、幕末維新の歴史も、西郷隆盛という人物のこともあまり知らずに、執筆依頼があってからにわか知識を放り込み、その程度の知識で作品を書かれたんじゃないでしょうか。


何年か前に、NHK-BSの『英雄たちの選択』で西郷隆盛が採り上げられたとき、パネラーで林真理子さんが出演されておられましたが、そのとき、林さんはあまり西郷のことを知っておられない様子でした。たぶん、あのとき既に大河作品の執筆依頼があって、にわか勉強中だったのでしょうね。ただ、残念ながら、にわか知識で書けるほど、西郷隆盛の生涯は単純じゃないです。どれだけ売れっ子の作家さんであっても、歴史ドラマは、歴史に精通していなければ書けないと思いますし、書くべきではないとわたしは思います。歴史の知識が浅い人が歴史ドラマを書くと、フィクションも的外れでトンチンカンなものになります。ピカソは、写実画を極めた上であの画風に行き着いたのです。デッサン力のない者が抽象画を書いても、ただの下手な絵でしかありません。歴史をしっかりと勉強した人にしかフィクションの歴史は書けないのではないでしょうか。


 というのも、ここ近年、やたらと女性の脚本家さんの作品が続きますよね。女性が主人公の作品だけならまだしも、それ以外も、2008年の『篤姫』以降の11作品中、8作品が女性の脚本家さんです。これ、どういうことでしょう? 女性がダメだとは言いませんが、この比率は明らかに偏っています。ここからはわたしの想像ですが、偏見かもしれませんが、男性の脚本家さんは、大河ドラマの脚本の難しさがわかるから、歴史にそれほど精通していない人は、オファーがあっても容易に引き受けないんじゃないかと。ところが女性の脚本家さんは、その難しさを考えず、にわか知識だけで安直にオファーを引き受けちゃうんじゃないかと。わたしの勝手な想像ですが、11作品中、8作品が女性というのは、どう見ても普通じゃないですよね。その背景には、そんな事情が隠されているように思えてなりません。それが、近年の大河の質の低下を引き起こしている原因じゃないかと。だとすれば、幕末維新じゃないけど、大河ドラマも根本的な改革が必要な時期に来ているのかもしれません。


 いささか辛口な批判ばかり述べてきましたが、最後に、鈴木亮平さんの西郷隆盛は良かったと思います。ここだけで言えば、『翔ぶが如く』の西田敏行さんより良かったかも。西田さんも良かったのですが、いかんせん背丈が・・・。その点、鈴木隆盛は申し分ない体躯と存在感でしたし、もちろん演技も、特に後半は本物の西郷もこんな感じだったんじゃないかと思えてくる程でした。それだけに残念、というしかありません。


 気がつけば、ずいぶん長文になってしまいました。厳しい意見ばかり吐いてきましたが、毎週面白いと思って観ておられた方には申し分ありません。それだけ今年の大河ドラマには期待していたということで、ご容赦ください。それでは、このあたりで『西郷どん』のレビューを終えたいと思います。毎週のぞきにきていただいた方々、時折訪ねてきてくれた方々、コメントをくださった方々、本稿で初めてアクセスいただいた方々、どなたさまも本当にありがとうございました。


●1年間の主要参考書籍

『西郷隆盛』 家近良樹

『大久保利通と明治維新』 佐々木克

『西郷内閣』 早瀬利之

『西郷隆盛101の謎』 幕末維新を愛する会

『幕末史』 半藤一利

『もう一つの幕末史』 半藤一利

『西郷と大久保二人に愛された男 村田新八』 桐野作人・則村一・卯月かいな

『翔ぶが如く』 司馬遼太郎

『歳月』司馬遼太郎

『西郷隆盛』 海音寺潮五郎

『西郷と大久保』 海音寺潮五郎


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by sakanoueno-kumo | 2018-12-21 00:07 | 西郷どん | Comments(6)  

西郷どん 第47話「敬天愛人」その4 ~紀尾井坂の変~

 シリーズ最後です。

 ドラマは西郷隆盛の物語でしたが、西郷の生涯を語るには、西郷の死の約8ヶ月後に起きた出来事まで語らなければ完結しません。すなわち、大久保利通の死です。大久保は明治11年(1878年)5月14日、東京の紀尾井坂付近において不平士族たちによって殺されました。


e0158128_15131733.jpg事件当日の午前8時、大久保は明治天皇に謁見するために裏霞ヶ関の自邸を出発し、赤坂の仮皇居に向かいました。共は下僕で馭者の中村太郎と、同じく下僕で馬丁の芳松の二人だけでした。本来なら、大久保邸から赤坂仮皇居に向かうには、紀尾井坂を通るより赤坂見附を通ったほうが近道だったのですが、なぜか大久保はこのコースを選びました。その理由は、赤坂見附は人通りが多くて危険だから、あえて人通りの少ないこの道を選んだと言われていますが、暗殺団がこの道で待ち伏せしていたことから考えれば、大久保は日常的にこの紀尾井坂コースを使っていたのでしょう。襲撃団は、周到な準備のもと、事に及んでいます。


大久保を乗せた馬車が紀尾井町一丁目に差し掛かったとき、2人の書生が現れて通路を遮りました。馬丁の芳松が馬車を降りて、脇によって道をあけるよう注意しますが、そのとたん、男たちは刀を抜き、いきなり馬の前脚を薙ぎ払いました。この襲撃を合図に身を潜めていた4人の男が一斉に飛び出してきました。刺客は全部で6人。芳松は背中から斬りつけられるもそれをかわし、助けを呼びに馬車を離れました。馭者の中村は馬車から飛び降りたところを、刺客に一刀のもとに斬り下げられ、即死します。刺客たちは馬車によじ登り、中にいた大久保に斬りつけました。このとき大久保は書類に目を通していたといい、一説によると「待て!」といって書類を風呂敷に包んだといいます。


大久保の最後のことばは、「無礼者!」という一喝だったといいます。その後、大久保は馬車から引きずり出され、めった切りに斬りつけられました。そして最後のトドメは喉に短刀が突き刺され、その短刀は地面にまで達していたといいます。大久保は全身16ヶ所に刀を受けていましたが、その大半は頭部に集中していたといいます。事件直後に現場にかけつけた前島密の証言によると、大久保の遺体は「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」状態だったといいます。さすがに、ドラマではそこまで描けません。


実行犯は、石川県士族の島田一郎、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一、および島根県士族の浅井寿篤の6名、いずれも太政官政治に不満を持つ不平士族でした。彼らにとってこの襲撃は暗殺ではなく、政治でした。なので、大久保を殺害するとすぐに自首しています。彼らは、大久保さえ斃せば、やがて天下は転覆して世直しされると信じていました。


この大久保襲撃については、まったく寝耳に水だったわけではなく、事前に予想できたことでした。彼らは闇討ちのような卑怯な行為ではないことを主張するため、事件の4、5日前に大久保に宛てて殺害の予告状を送っています。しかし、これを見た大久保は顔色ひとつ変えることなく、まったく意に介する様子もなかったといいます。


e0158128_21495406.jpgまた、島田らが石川県を発ったとき、石川県令がすぐさま警戒すべきことを内務省に通報しており、そのことは大久保の耳にも届いていました。さらに内務省は、警視庁に大久保内務卿の護衛を要請しますが、大警視の川路利良は、その必要はないとして、「加賀の腰抜けに何ができるか」と、相手にしなかったといいます。これは、薩摩人特有の他藩蔑視の通癖が露骨に出た言葉ともいえますが、この当時、政府の要人警察が護衛するという習慣がまだなかったことと、他の大官に護衛がついていないのに、大久保だけに護衛をつけるのは、世間体から見て大久保を臆病者にすることになり、大久保を侮辱することになるといった思いもあったようです。明治維新から10年以上が経ったこの時代でも、大官は役人である以前に、ひとりのサムライだったんですね。


有名な話ですが、大久保は事件当日の朝、自邸に挨拶に訪れた福島県令の山吉盛典に対して、まるで遺言とも取れる明治30年計画を語ったといいます。それによると、明治元年から10年を創業の時期として、戊辰戦争士族反乱などの兵事に費やした時期、次の10年を内治整理・殖産興業の時期、最後の10年を後継者による守成の時期と定義し、自らは第2期まで力を注ぎたいと抱負を述べるものでした。しかし、結局は第2期の入り口で凶刃に倒れたわけです。


また、どういうわけか、大久保はこの日、西郷隆盛からもらった古い手紙を2通、懐に忍ばせていたといいます。それは、いずれも二人が蜜月の間柄だった頃の手紙で、この手紙を持参していた話は、事件後ほどない5月27日付の東京日日新聞に報ぜられています。大久保がどういう意図で手紙を持参していたかはですが、大久保は西郷を死に至らしめたことでよほど悩み苦しんでいたようで、自分と西郷とは、かつて深い絆で結ばれていたということを、しきりに人々に話したがっていたといいます。あるいは、近々自分が殺されるかもしれないことを想定し、その死後、自分と西郷との友情関係世に知らしめるために手紙を持ち歩いていたのでしょうか。その真偽はいまとなっては確認しようがありません。


 作家・司馬遼太郎氏は、その著書『翔ぶが如く』のなかで、大久保の死についてつぎのように述べています。


 「結局は大久保とその太政官が勝ち、西郷がほろびることによって世間の士族一般の怨恨や反乱への気勢は消滅したかにみえた。大久保とその権力はほとんど絶対化するかの勢いになった。日本における政治風土として、権力が個人に集中してそれが絶対化することは好まれず、それに対する反対勢力が相対的に公認されている状態が好まれる。権力が個人に集中して絶対化した例は日本の歴史でまれであったが、遠くは織田信長の末期、近くは井伊直弼の大老就任後がそうであったであろう。結局は爆走する絶対権力をとどめる方法がないままに暗殺者がそれを停止させることが、ほとんど力学現象のようにして生起する。」


大久保の死も、あるいは歴史の必然だったのかもしれませんね。


 また、作家の半藤一利氏はその著書『幕末史』のなかで、


 「戊辰戦争のつづきといえるこの明治の権力をめぐってガタガタした十年間は、古代日本人的な道義主義者の西郷と、近代を代表する超合理主義の建設と秩序の政治家大久保との、やむにやまざる「私闘」であったといえそうです。」


 と述べておられています。しかし、わたしは、西郷は道義主義者だったと思いますが、大久保が超合理主義者だったとは思いません。むしろ、西郷以上に情に厚い熱血漢だったと思っています。ただ、その情は、西郷のように人に対してではなく、「国家」に向けられた。彼は、彼らが作った新国家という作品を、どんなことをしても守りたかった。その国家建設に抗おうとする勢力は、たとえそれが竹馬の友であっても、容赦なく叩き潰した。これは、大久保の政治家としての信念だったのでしょう。日本近代史において、大久保利通ほどの信念の政治家は、それ以前もそれ以後もいないとわたしは思っています。


 西郷隆盛自身が語ったとされる言葉に、こんな言葉があります。


「もし一個の家屋に譬うれば、われは築造することにおいて、はるかに甲東(大久保利通)に優っていることを信ずる。しかし、すでに建築し終わりて、造作を施し室内の装飾を為し、一家の観を備うるまでに整備することにおいては、実に甲東に天稟あって、われらの如き者は雪隠の隅を修理するもなお足らないのである。しかし、また一度、これを破壊することに至っては、甲東は乃公(おれ)に及ばない」


 自分は既存のものを破壊して新しいものを造ることにおいては、大久保には負けない。しかし、新しくできたものを整備して完成させる能力においては、大久保の足元にも及ばない、と。幕府を倒して新政権を樹立させた一番の立役者は、まぎれもなく西郷隆盛でしたが、その新政権を盤石なものに仕上げるのは、大久保しかいない。この言葉がいつ発せられたものかはわかりませんが、西郷自身もそう思っていたんですね。その意味では、大久保の死は、西郷の本当の意味での死だったといえるかもしれません。


さて、最終稿はすいぶん長文になってしまいましたが、本稿をもって大河ドラマ『西郷どん』のレビューは終わりとさせていただきます。1年間、拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。近日中には総括を起稿したいと思っていますので、よければご一読ください。



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by sakanoueno-kumo | 2018-12-20 00:22 | 西郷どん | Comments(6)  

西郷どん 第47話「敬天愛人」その3 ~西郷死す~

 昨日の続きです。

 明治10年(1877年)9月24日早朝、政府軍は西郷隆盛らの籠もる城山を包囲しました。政府軍は兵力の差で西郷軍を圧倒していましたが、それでも、その包囲網は幾重にも連ね、さらになどで囲って防御用の陣地を構築するといった念の入れようだったといいます。これは、政府軍の参軍・山縣有朋慎重すぎる性格が濃厚に反映していたと見られます。前稿で紹介したように、山縣は前日に西郷に宛てて畏敬の念を込めた手紙を送りましたが、それはあくまで個人的な西郷に対する友情の証であり、政府軍の総帥という立場では、これ以上この戦いを長引かせたくない、是が非にも今日の戦いで決着をつけたいという思いでこの日を向かえたのでしょう。


 午前4時頃、3発の号砲を合図に政府軍の総攻撃が開始されました。これを聞いた西郷は、きっと、「今日が死ぬ日か」と思ったに違いありません。政府軍の戦術は、五個旅団を総攻撃に当て、残りの三個旅団に警戒を命じるというものでした。


 e0158128_15131310.jpgこの総攻撃を受けて、西郷らは洞窟前に整列し、岩崎谷に進撃して敵方を迎え撃つことに決します。この時点で、西郷軍本隊の兵力は、西郷隆盛、桐野利秋、村田新八、桂久武、池上四郎、別府晋介、辺見十郎太など、約40人になっていました。しかし、政府軍は西郷軍が岩崎谷に兵力を集中させるであろうことをあらかじめ予測しており、第4旅団の主力を岩崎谷に投入していました。この読みは見事に的中し、西郷軍の将兵は、敵弾の雨のなかに次々と命を落としていきます。


 一説には、政府軍の総攻撃が開始されて間もなく、西郷の身辺を警護していた辺見十郎太が西郷に対して切腹を勧めたものの、その時点では西郷はこれを受け入れなかったといいます。西郷は、その前後の言動からみても、自決などという考えはなかったようで、あくまで戦死にこだわっていたようです。それは、戦国武士的な気概を尊ぶ薩摩武士の美徳でもあったかもしれませんし、何より、自殺という行為は、西郷の行動哲学である「敬天愛人」に反するものだったからとも考えられます。人は天命というものを天から与えられ、それに従って生きている。彼は彼の義を貫くために戦いに及んだ。だから、その死は自決ではなく戦死でなければならない。そう考えていたのではないでしょうか。


 e0158128_17565901.jpgしかし、やがて西郷は島津応吉久能邸門前でに敵弾を浴びます。これにより、西郷は自力での歩行は困難となりました。西郷の理想は最後まで戦って戦死することでしたが、事ここに至り、自らの命運が尽きたことを悟った西郷は、負傷して駕籠に乗っていた別府晋介を顧みて、こう言って介錯を乞うたといいます。


「晋どん、もう、ここらでよか。」


 西郷はそう呼びかけると、東方(明治天皇の住む皇居の方角)に向って手を合わせて跪座しました。これを見た別府は「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫び、泣きながら西郷の首を落としたとされています。享年51。島津斉彬に認められて以来、四半世紀に及んだ彼の長い長い志士人生が幕を閉じました。


 ドラマでは、西郷の介錯のシーンは描かれなかったですね。この西郷の最期については、西郷軍の生き残りである加治木常樹という人物の目撃談によるものですが、別の説では、桐野利秋が西郷を射殺したという説もあり、その真偽は定かではありません。ただ、現存する政府軍の屍体検査書には、「頭体離断」と記されており、生きている間か死んだあとかはわかりませんが、誰かが西郷の首を落としたことは間違いありません。ドラマで介錯のシーンを描かなかったのは、諸説ある西郷の死を曖昧なままにしたのかもしれませんし、あるいは、西郷の望んだ戦死による最期を遂げさせたのかもしれませんね。


 西郷の死を見守っていた桐野や村田ら配下の者たちは、その後、次々に突撃し、敵弾に斃れました。あるいはこの戦争の実質的首魁だったかもしれない桐野は、最後まで塁上に身を晒して凄まじいばかりの勇戦を見せたといいますが、最後は額を打ち抜かれて戦死しました。そして総攻撃が始まって約3時間後、西郷軍の主だった者は全員討ち死にし、戦いは終焉を向かえます。


 結局のところ、西郷にとって西南戦争とはなんだったのでしょう。よく言われるのは、西郷は不平士族たちの憤懣を一身に受け止め、彼らに身を預けて戦いに一身を投じることで、自身が作り上げた明治維新を完結させたとする解釈があり、今回のドラマでも、その解釈に則った描かれ方でした。しかし、わたしには、それは多分に西郷を罪人にしたくないという後世の心情が作り出した虚像のように思えてなりません。西郷は、西郷なりに思うところがあって挙兵した。それは不平士族たちのためではなく、自身の思う国家を創るため、もう一度維新をやり直すための決起で、壮士たちの暴発によってその決起が少し早まってしまったものの、挙兵当初の西郷は、決して負けるとは思っていなかった。自身の声望を以てすれば、現行政府を覆すことも難しくはない、そう思っての決起だったんじゃないかと思います。しかし、その見通しは甘かった。そして、結果的に、自身の本意ではなかったにせよ、自身の死によって侍の時代が終焉を向かえ、維新を完結させることになったんじゃないかと。


 作家・司馬遼太郎氏は、その著書『翔ぶが如く』のなかで、このように評しています。


 「西郷とその徒の死は、前時代からひきついできたエネルギーの終焉であったであろう。そのエネルギーというのはただに江戸期だけではなく、室町期あるいはさらに鎌倉期からひきつがれてきているなにごとかであったかもしれない。」


 西郷が死んだ明治10年(1877年)9月24日以降、夜空にひとつの星がひときわ大きく輝くようになりました。この星の正体は、楕円形の軌道を描いてこの年の秋に地球に接近していた火星だったのですが、天体の知識に乏しかった当時の人々はこの星を「西郷星」と名付け、崇めたといいます。また、同時期に火星に寄り添って輝いていた土星を「桐野星」とも呼んだとか。当時の人々が、いかに西郷たちの死を悼んだかということがわかるエピソードですね。西郷はその死後も、星になって人々の心に宿ったんですね。


 さて、西郷の死を以て最終稿としたかったのですが、もうひとつ、語らなければならないことがありますね。大久保利通の死です。明日、もう一稿だけお付き合いください。



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by sakanoueno-kumo | 2018-12-19 01:27 | 西郷どん | Comments(0)  

西郷どん 第47話「敬天愛人」その2 ~鹿児島への帰還~

 昨日の続きです。

 政府軍の虚を衝いて可愛岳の突破に成功した西郷隆盛率いる西郷軍は、九州の中央を貫く山脈の尾根伝いに百里余りの険しい道を突き進み、明治10年(1877年)9月1日に鹿児島に入りました。2月の決起以来、実に199日ぶりの帰還でした。2月の決起時には1万数千人いた西郷軍兵士の数も、このときには400人を切るまでに減っていました。


 当時、城山私学校には政府軍の新撰旅団の一部がいましたが、辺見十郎太らが私学校を襲撃してこれを占領すると、同日中に西郷軍は鹿児島市街地をほぼ制圧し、当時、新たに鹿児島県令に就任していた岩村通俊は脱出を余儀なくされました。そして翌日に西郷が城山の岩崎谷(洞窟)に入ると、ここを西郷軍の本営として、徹底抗戦の構えを見せるとともに、鹿児島県下の士族らに決起を求めます。しかし、呼びかけに応えて駆けつけようとした者たちのほとんどは各地で政府軍や警察に捕縛されたため、西郷軍の兵力が増すことはありませんでした。


 e0158128_15131310.jpgやがて、約5万人もの政府軍が鹿児島に入り、西郷軍の籠もる城山や私学校を包囲します。5万対4百。その兵力の差は歴然としていました。もはや全滅は必至となったこの段階で、「西郷先生の一命だけは助けたい」という声が、西郷軍内部で巻き起こりました。特に、辺見十郎太、河野主一郎らが中心となり、政府軍に西郷の助命を嘆願すべきとの意見を主張します。しかし、当の西郷は、これを一蹴します。当然だったでしょう。開戦以来、多くの将兵を戦死させてしまった総大将として、自分ひとりが生き残るなど、あり得ない選択だったに違いありません。しかし、西郷を失うのは国家の損失と考えた河野らは、新政府軍の参軍・川村純義と会い、挙兵の正当性を主張したいと西郷に申し出、その許しを得ます。川村は西郷の親戚にあたり、河野はその川村のに訴えて、西郷の助命を実現させようと考えたんですね。


 9月23日、河野主一郎と山野田一輔の両名が下山し、川村と面会しました。ふたりは挙兵の正当性を主張し、西郷の助命を訴えました。これを受けた川村は、挙兵の正当性は認めなかったものの、西郷の助命については否定も肯定もせず、まずは降伏することと通告し、その旨を伝えるために山野田ひとりを城山に帰します。川村も、できることなら西郷の命を助けたいという思いはあったのかもしれませんが、しかし、同時に川村は、降伏しなければ翌日に総攻撃することも通告しており、同日夕方までにその回答を求めました。しかし、帰陣した山野田から報告を受けた歳号は、「回答の必要なし」として降伏勧告を一蹴します。ここに、24日の最終決戦が決定しました。ドラマでは、東京にいる大久保利通から西郷軍に対して降伏勧告の手紙が届けられていましたが、あれは、たぶん、この川村の降伏勧告をアレンジしたものでしょう。


 このとき、政府軍総裁の山縣有朋が山野田に持たせた西郷宛の手紙が有名です。長文なので全文を紹介することはできませんが、その中で山縣は、自身の西郷に対する畏敬の念を綴ったのち、こう記しています。


 e0158128_22143981.jpg思ふに、君が多年育成せし壮士輩は、初めより時勢の真相を知り、人理の大道を履践する才識を備へたる者なるべけれど、かの不良の徒の教唆により或はその一身の不遇によりてその不平の念を高め、遂に一転して悲憤の念を懐き、再転して叛乱の心を生ずるに至りしならん。而してその名を問へば則ち曰く、西郷の為にするなりと。情勢既にここに至る。君が平生故舊に篤き情は、空しくこれを看過してひとり餘生を完うするに忍びざりしにならん。されば、君の志はじめより生命を以て壮士輩に與へんと期せしに外ならざりしならん。君が人生の毀誉を度外に置き、天下後世の議論を顧みざるもの故なきにあらず。嗚呼君の心事まことに悲しからずや。有朋ここに君を知る深きが故に、君が為に悲む心また切なり。然れども事既にここに至る、これをいふことも何の益かあらん。


 曰く、あなたはこの暴発は本意ではなかったであろうが、あなたを慕う壮士たちの暴挙をあなたの名望をもってしても抑えきれず、自身だけが穏やかな余生を送るということができない情の厚いあなたは、一身を彼らに与えたのであろうとわたし(山縣)は思っている。あなたの心をわたしは深く理解でき、まことに悲しい。しかし、事ここに至ってしまった、と。そして、さらにこう続けます。


 君何ぞ早く自謀らざるや。


 西郷さん、なぜあなたは早く自殺しないのか!・・・と。


 願くは君早く自ら謀りて、一は其の挙の君が素志にあらざるを明にし、一は両軍の死傷を明日に救ふ計を成せよ。君にして其の謀る所を得ば、兵も亦尋で止而己。


 願わくば、早くあなた自身が自らの命を絶ち、一つにはこの挙があなたの本意ではなかったことを証明し、そして、もう一つには、これ以上、両軍の犠牲者を出さないためにも、まず、あなたが自決すべきである。そうすれば、外の兵たちも皆、戦いをやめるだろう、と。そして、最後に、


 涙を揮て之を草す。不得尽意。頓首再拝。


 と、結んでいます。山縣の西郷に対する畏敬の念がひしひしと伝わってくる手紙です。この手紙は、西郷の死後、政府軍の兵が西郷の洞窟に入った際に発見されたといいます。敵将敵将に対して総攻撃の前日にこのような手紙を送ったということ自体、例のないことでした。西郷はこの手紙を読んで、どんな思いを抱いたのでしょうね。

 「その3」に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-12-18 02:02 | 西郷どん | Comments(0)  

西郷どん 第47話「敬天愛人」その1 ~可愛岳越え~

 明治10年(1877年)2月に始まった西南戦争は、3月の田原坂の戦いを峠に西郷軍の敗色が濃厚となり、九州各地を転戦したのち、8月16日、延岡の北方にあった長井村において西郷隆盛自ら軍の解散を布告します。ところが、それでも、西郷を慕う私学校以来の約400人弱が行動を共にすることを希望し、そこで西郷は、配下の辺見十郎太らの進言を容れ、残った兵と眼前に聳える可愛岳を超えて長井村を脱出し、再起を目指すことになります。可愛岳は標高728mで険阻な断崖絶壁の山でしたが、全軍を3つに分けて17日深夜に登山を開始。地元の木こりや猟師を先導役にして絶壁をよじ登るなど、その進軍は困難を極めました。


e0158128_15131310.jpg当初、西郷は山駕籠に乗っていましたが、100kg以上あったとされる西郷の巨体を運ぶのは容易ではなく、急斜面では西郷も駕籠を降り、雑兵たちと同じように四つ這いになって切り立った崖をよじ登ったといいます。行軍中、私語は厳禁とされていましたが、このとき西郷は、四つ這いで岩肌をよじ登りながら、「夜這んごつある(夜這いのようだ)」とつぶやいて周囲を笑わせたと伝えられます。この一言で緊張が解けた、と生き残りの人たちがのちに語っていますが、この最悪の局面でこのようなジョークを言えるところが、西郷の常人にはない人間的魅力なんでしょうね。


 その西郷の魅力について、このときの有名なエピソードがあります。長井村で解散令を出されたあとも西郷に付き従っていた兵のほとんどは旧薩摩藩士でしたが、なかには少数ながら鹿児島以外の者も残っており、そのなかに、旧中津藩士増田栄太郎という人物がいました。増田は中津隊を率いていましたが、西郷の解軍の令に接し、配下に中津へ帰るよう諭したうえで、自身はこのまま西郷に付き従う旨を伝えます。困惑する配下に増田は、こう言いました。


「自分は隊長という立場上、西郷という人格にしばしば接した。 諸君は幸いにも西郷を知らない。自分だけが職務上これを知ったが、知った以上、もはやどうにもならぬ」


 そう言って増田は涙を流したといいます。「もはやどうにもならぬ」とは、どういう意味かと更に尋ねると、増田は涙ながらにこう答えました。


 「吾、此処に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば、一日の愛生ず。三日先生に接すれば、三日の愛生ず。親愛日に加わり、去るべくもあらず。今は善も悪も死生を共にせんのみ」


 増田とて、それほど西郷と深く接したわけではなかったでしょう。しかし、そんな増田にここまで言わせてしまう西郷の魅力というのは、後世の私たちには計り知れない部分です。西郷と増田は、主従関係でもなければなにか特別な恩義があるわけでもない。解軍の令が発せられた以上、もはや勝ち目のない西郷と運命をともにする義理などどこにもないわけです。しかし、この人のために死にたい、増田はそう思ったのでしょうね。これほど人を惹きつける魅力を持つ人物というのは、おそらく同時代においては西郷しかいなかったでしょう。作家・司馬遼太郎氏もその著書『翔ぶが如く』のなかでこのエピソードを採り上げ、このように評しています。


 「増田の言葉は、西郷という実像をもっとも的確に言い中てているかもしれない。(中略)要するに西郷という人は、後世の者が小説をもってしても評論をもってしてもとらえがたい箇処があるのは、増田栄太郎のいうこういうあたりのことであろう。西郷は、西郷に会う以外にわかる方法がなく、できれば数日接していなければその重大な部分がわからない。」


 苦心惨憺の末、西郷軍約400人は18日の日の出の頃に可愛岳頂上付近の中の越に到達しました。可愛岳の南側は断崖絶壁でしたが、北側は比較的緩やかな斜面で、その眼前には政府軍の第一旅団、第二旅団の本営が置かれていました。これを見た辺見らは、すぐさま敵方の本営を襲撃して弾薬などを分捕ります。政府軍にしてみれば、西郷軍の可愛岳突破はまったくの想定外だったようで、狼狽して為す術もなかったようです。

 「その2」に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-12-17 00:37 | 西郷どん | Comments(0)  

西郷どん 第46話「西南戦争」その4 ~西郷軍解散と木戸孝允の死~

 昨日の続きです 

田原坂の陣を奪われた西郷軍は、以後、退却を重ねていくことになります。3月20日に田原坂をあとにした西郷軍の本営は、4月以降、神瀬、木山を経て、もともと薩摩国に接し、薩摩の影響の強い人吉へと移されました。ここで西郷隆盛は、負傷した別府晋介鹿児島に帰らせ、先に熊本から帰郷していた桂久武とともに、新たな兵員の募集に当たらせました。この期に及んで、まだ西郷は戦いを諦めてはいなかったようです。しかし、この時点ではすでに武器弾薬や食料は底をつき、その敗北は誰の目にも明らかな状態になっていました。


 そんな状況のなか、逮捕された大山綱良に変わって新たに鹿児島県令に任に就いていた岩村通俊から、5月7日、すでに決着がついたとしたうえで、これ以上の犠牲者を出さないために、西郷に対して投降を呼びかける告諭書が出されます。しかし、西郷はこれを受け入れることはありませんでした。ここで投降するなど、死んでいった兵たちに申し訳が立たないといった心境だったのかもしれません。また、同時期に、鹿児島城下にいた西郷軍が奪還を目指して兵を挙げ、城下の大部分が焼け野原となる攻撃を仕掛けていたことも関係していました。事ここに至っては、もう後戻りはできなかったんでしょうね。


e0158128_15131310.jpg やがて人吉の西郷軍の本営も政府軍に攻撃を受け、6月1日に陥落します。やむなく西郷軍は宮崎方面へ逃れ、都城、宮崎、高鍋と本営を転々としたのち、延岡の北方にあった長井村へ逃れ、8月15日、ここで西南戦争最後の激戦が展開されることになります。2月の挙兵以来、これまで西郷は戦闘の指揮を桐野利秋らに任せて口出しすることはありませんでしたが、このとき、初めて自ら指揮を執りました。西郷は、丘陵の中央に位置した和田越えの頂上に立ち、約3千人の兵を集めて彼らを激励し、士気を鼓舞したといいます。それは、弾丸が雨のように降り注ぐ中での指揮でした。このとき、村田新八らが危険だから高台を降りるようにといくら勧めても、西郷はその場を動こうとはせず、やむなく、兵数人で西郷の巨体を抱え、無理やり後方へ運んだといいます。このとき西郷はどんな心中だったのか。あるいは、敗色が濃厚となるなか、弾に当たって戦死しようとしていたのかもしれません。


 西郷の指揮もむなしく、西郷軍の士気は低下し、投降者が相次ぎました。やがて西郷は、これ以上の戦争継続は困難と判断し、8月16日、軍の解散を布告し、全将兵に行動の自由を許しました。このとき、西郷自身も、自らの身体にけじめを付けるべく、陸軍大将の軍服を焼却するなどの身辺整理を行ったといいます。西郷は解散令を出したあと、自ら人を呼び、野戦病院の始末などの事務処理細かく指示したといいます。これも、鹿児島出立以来、はじめてのことでした。このときの西郷について、作家・司馬遼太郎氏はその著書『翔ぶが如く』のなかで、次のように述べています。


 「西郷は戦いのあいだ狩猟などをして何もせず、和田越をのぞいては前線にさえ立たなかったが、最後にのぞみ、解散についてのさまざまな始末を、幕僚にはかることなくみずからやったという点、この人物の何事かが見えるようである」


 部下を信頼して仕事を任せる。失敗すれば、その責任をとって後始末をする。そう考えれば、理想的な上司像といえるかもしれませんが、これが、戦争の指揮官として理想的といえるかどうかは、難しいところですね。


 全軍解散となった西郷軍でしたが、それでも、西郷を慕う私学校以来の約300人行動を共にすることを希望します。そして、このあと長井村から脱出を図る有名な作戦が決行されます。それは次回、最終回にて。


 e0158128_19334109.jpg最後に、木戸孝允についても触れておきましょう。西郷たちが人吉を本営としていた明治10年(1877年)5月26日、木戸は京都の邸で病にて息を引き取りました。木戸はその死の直前、西南の地で挙兵した西郷と明治政府を案じ、昏睡状態のなか見舞いに訪れた大久保利通の手を握りしめ、「西郷、いいがげんにせんか」と言ったといいます。盟友といえたかどうかはわかりませんが、木戸にとって西郷、大久保は共に明治新国家を作り上げた同志であったことは間違いなく、その同志のふたりが敵対している現状は、木戸にとって最大の心残りだったに違いありません。結局、西郷は木戸の死から4ヶ月後、大久保も約1年後に落命します。「維新三傑」と呼ばれたこの3人が、偶然にもわずか1年の間にこの世を去ることになるという事実も、歴史というのは実にドラマチックにできていると思わずにいられません。



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by sakanoueno-kumo | 2018-12-13 23:59 | 西郷どん | Comments(0)  

西郷どん 第46話「西南戦争」その3 ~田原坂の戦い~

 昨日の続きです

 高瀬の戦いのあと、西郷軍は福岡方面から南下してくる新政府軍を迎え討つために北上し、やがて田原坂で激突します。この戦いは、西郷軍、政府軍双方に多くの死傷者を出す西南戦争一の激戦となりました。3月4日、この田原坂にほど近い吉次峠の激戦で、西郷隆盛の片腕だった一番大隊長の篠原国幹戦死しています。


 西郷軍は、当初、徴兵制によって徴収された農民を中心とする政府軍の兵士を馬鹿にしていましたが、政府軍には最新式のスナイドル銃が配備され、上官の指示にもよく従う統制のとれた政府軍兵士の攻撃に、思わぬ苦戦を強いられることとなります。一方の西郷軍は、旧式のエンフィードル銃が主力でした。スナイドル銃は元込め式1分間に6発発射できたのに対し、エンフィードル銃は1分間に2発しか発射できませんでした。加えて、この戦いの間は雨天の日が多く、先込め式のエンフィードル銃は雨に弱く、武器の差は圧倒的に政府軍が有利でした。


 ただ、そうしたなか、政府軍の兵士に大きな恐怖心を与えて大混乱に陥れたのは、西郷軍兵士による抜刀しての斬り込みでした。西郷軍の兵士のほとんどは元薩摩藩士であり、幼い頃から示現流剣術で鍛えた強者揃いでした。一方、政府軍の兵士は士族以外の者が多く、剣術の心得のない者が圧倒的でした。彼らにしてみれば、銃弾の雨のなかを怯むことなく抜刀して突撃してくる薩摩兵は、恐怖以外の何物でもなかったでしょう。周章狼狽した政府軍兵士たちはたちまち戦意を失い、命を落とす者が続出します。


 e0158128_21495406.jpgこれに対して政府軍は、薩摩兵ひとりに対してスナイドル銃を持った兵士5、6人で応戦し、間断なく銃弾を浴びせるという作戦に出ますが、これも計算どおりにはいきませんでした。そこで、警視庁大警視でありながら西南戦争勃発後は陸軍少将を兼任し、このとき警視隊で組織された別働第三旅司令長官の任にあたっていた川路利良は、警視隊のなかから特に剣術に長けていた110人を選んで「抜刀隊」を編制し、西郷軍の抜刀攻撃に対抗させました。目には目を、刀には刀を、ということですね。その中には、旧会津藩士も含まれていました。彼らは今でも戊辰戦争時に賊軍の汚名を着せられた恨みを持ち続けており、このとき西郷軍相手に「戊辰の仇、戊辰の仇」と叫びながら斬り込んでいったといわれています。抜刀隊のあげた戦果は絶大でした。


e0158128_22143981.jpgしかし、この川路が立案した抜刀隊の編制には、当時、政府軍の事実上総指揮官だった山縣有朋は反対だったといいます。陸軍卿兼参議だった山縣は、徴兵制度を最も推進してきたひとりでした。その徴兵制度に反発したのが私学校党であり、全国にいる不平士族たちです。いま、ここで元士族だけを集めた抜刀隊を編制するということは、これまで推し進めてきた国民皆兵の政策を、自ら否定することになる。山縣の頭の中では、戦術も政治だったんですね。ただ勝てばいいというわけではない。徴兵制度による兵でサムライ集団を破ってこそ、真の近代軍制が確立されるという思いだったのでしょう。しかし、理想を追って戦に負けたら本末転倒な話で、川路の説得に山縣はこれを渋々許したといいます。


 この抜刀隊の働きもあって、戦局は目に見えて政府軍に有利となっていきました。それでも頑強な抵抗を見せる西郷軍に対して、政府軍はさらに第三旅団、第四旅団を投入し、兵力と兵器の差で西郷軍を圧倒しました。このとき政府軍は1日あたり平均32万発の弾丸を敵陣に撃ち込んだといい、多い日には60万発を超えたといいます。これは、日露戦争における旅順攻撃時の倍の数字でした。この当時の政府の弾丸製造能力1日12万発だったといいますから、足らずは外国からの輸入でまかなっていたようです。これに対して西郷軍は、弾薬不足に悩まされ、着弾した弾丸を拾って鋳造したり、鍋や釜を溶かして作った手作りの弾丸を使用したといいます。これほどの兵力の差がありながら、田原坂の戦いは約3週間近く続いたのですから、薩摩兵恐るべしといえるでしょうか。

 明日の稿に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-12-12 23:59 | 西郷どん | Comments(2)  

西郷どん 第46話「西南戦争」その2 ~熊本城攻防戦~

 昨日の続きです。

 東上を開始した西郷軍は、連日の雪のためにその行軍は難行しましたが、明治10年(1877年)2月21日、熊本城下に到着しました。当時、熊本城には日本陸軍の熊本鎮台が置かれていました。ここで西郷軍は軍議を開き、全軍をもって熊本城を攻撃するか、一部の兵で城を攻撃し、残りはこのまま熊本城を捨て置いて北上するかが話し合われます。冷静に考えれば、彼らの目的が上京して政府に詰問するためにあるならば、熊本城の攻撃に固執する必要などなかったはずなのですが、なぜか、このとき彼らの下した決断は、全軍上げての熊本城攻撃でした。ドラマでは、政府が彼らを賊軍とみなして征討令を発したため、戦わざるを得なくなったという設定にしていましたが、たとえそうだとしても、熊本城に固執する理由はどこにも見当たりません。なぜ熊本城攻撃に決したのでしょう。


 e0158128_21591928.jpg一説には、軍議の席で桐野利秋が、「熊本城など、この青竹棒でひとたたきでごわす。」豪語し、慎重派の意見を一蹴したと言われています。このエピソードが事実かどうかはわかりませんが、この当時、鎮台兵の大半が徴兵制で集められた元農民たちで編制されていました。一方の西郷軍は、元薩摩藩士を中心とするサムライ集団で、そのサムライたちのなかでも、薩摩隼人の強さというのは戦国時代から江戸時代を通してほとんど伝説的に信仰されており、また、その強さが本物であることを、戊辰戦争における戦功で実証していました。また、薩摩隼人は兵としての強さだけではなく、その勇敢さにも誇りを持っていました。そんな彼らからしてみれば、百姓兵が守る熊本城など、桐野に言われるまでもなく、青竹一本でひとたたきと思っていたに違いありません。


 e0158128_13192830.jpgところが、事はそう容易くはありませんでした。当時、熊本鎮台司令長官は土佐出身で陸軍少将の谷干城で、作戦立案に当たる参謀長は、西郷らと同じ薩摩出身の陸軍中佐・樺山資紀でしたが、彼らは3千人を超える兵士と籠城し、かつ、要所に地雷を埋めて西郷軍が近づけないようにするなど、徹底して守りを固めていました。また、西郷軍が熊本入する少し前、熊本城内で火災が起きて天守が焼け落ちており、さらに、城下町の家屋にも燃え移って、町は焼け野原になっていました。この火災の原因は不明ですが、西郷軍の城攻めを想定して、攻められにくいように鎮台側が自ら放火したとの説が有力です。そんなこともあって、西郷軍は熊本城攻撃に想定外の時間を取られることになります。


 2月22日に始まった熊本城への攻撃は、3日間に渡って続けられましたが、鎮台方に決定的なダメージを与えることはできませんでした。結局、西郷軍は方針転換を迫られ、一部の兵士を熊本城攻城戦に残し、本隊は小倉方面より南下してくる政府軍と対戦するため、熊本の北にあった高瀬方面に向かうことになります。そして、この高瀬の地で、西郷隆盛の末弟の西郷小兵衛が戦死を遂げることになります。


 e0158128_15131310.jpgその後、熊本城攻城戦は一進一退を繰り広げながら、4月8日には鎮台方の部隊が西郷軍の包囲を突破し、さらに、14日には陸軍少佐の山川浩らの援軍が熊本城に入城したため、攻防戦は終焉をみました。結局、西郷軍は50日余りも城を包囲しながら、熊本鎮台を落とすことができませんでした。その敗因は、政府軍との武器の差や、谷ら鎮台司令部の用意周到さも挙げられますが、一番の理由は、桐野らの鎮台兵に対する「侮り」だったのではないでしょうか。桐野はかつて熊本鎮台の司令長官を務めていた時期もあり、熊本城を知り尽くしているという点でも、この城攻めを甘くみていました。そして、その「甘く見ていた」という点は、西郷にもありました。西郷は自身が立てば、自身の声望によって多くの不平士族が立ち上がり、民衆は支援し、この熊本城も、戦わずして明け渡されるだろうと考えていた節があります。そんな西郷や桐野の甘い見通しが、彼らの死地に導いたといえるかもしれません。

 明日に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-12-11 22:58 | 西郷どん | Comments(0)  

西郷どん 第46話「西南戦争」その1 ~西郷の挙兵~

 明治10年(1877年)2月15日に挙兵した西郷軍は、出水街道と大口街道の二道に分かれて東上を開始。そしてその総大将である西郷隆盛も、2月17日に鹿児島を発ちます。このとき、南国の鹿児島では珍しい50年に一度と言われた大雪が数日前から降り続き、町を白く染めていたと伝えられます。西郷軍は出陣するにあたって7大隊を編成し、篠原国幹、村田新八、永山弥一郎、桐野利秋、池上四郎、別府晋介に、それぞれ大隊長として指揮をとらせました。そこに集まった兵は、総勢1万3千人を超えたといいます(もっとも、そのすべてが自ら望んで集まったというわけではなく、半ば強制的に集められた兵も数多く含まれていましたが)。


 e0158128_15131310.jpgドラマでは描かれていませんでしたが、西郷は鹿児島の町を出て島津久光の暮らす磯の邸の前を通過するとき、雪の積もる門前にひざまずき、両手をついて頭を下げたと伝えられます。この時期、久光は少しずつ西郷を理解する姿勢を示し始めていたようですが、西郷自身の久光嫌いは相変わらずだったといい、先の政変で帰郷してからも、ほとんど久光の前に顔を出すことはなかったといいます。しかし、この度の出陣にあたっては、島津家の旧臣を大勢率いていく以上、武士の忠義として筋を通したのでしょう。あるいは、少し穿った見方をすれば、西郷軍のなかには久光を主筋として崇拝している者たちも多数おり、西郷としては、配下への統率上、このようなパフォーマンスも必要と考えたのかもしれません。


 西郷軍の行軍が開始されると、政府はすぐに対応策をとります。東京よりも鹿児島に近い京都と大阪に対策本部を置き、大久保利通も京都に移動しました。そして西郷が鹿児島を発った2月17日に会議が開かれ、有栖川宮熾仁親王鹿児島県逆徒征討総督に任じて勅使として鹿児島に派遣することが決まります。これは、西郷と久光が反乱軍に与しないよう説諭するためのものでした。この時点では、まだ西郷が挙兵に加わっているかどうかの情報が政府に入っていなかったんですね。


 e0158128_15131733.jpg大久保も西郷が軽々しく暴挙には与しないだろうと考えていたようで、2月7日付で伊藤博文に宛てた書簡のなかで、「仮令西郷不同意にて説諭を加ゆるにしても、到底此度は破れに相違なく候」と見たうえで、「此節、事端を此事に発しきは誠に朝廷不幸の幸と、窃かに心中には笑いを生じ候くらいにこれ有り候」と記しています。つまり、私学校党から西郷を切り離して、過激輩たちを追討できれば、むしろ喜ばしいことだというんですね。これまで中央政府に服さず、独立国のように振る舞ってきた鹿児島県士族を、これを期に叩き潰して改善するチャンスだと捉えていたようです。自身の理想のためには故郷も旧友も捨てる。さすがは信念の人・大久保、非常なまでの冷徹さです。


 「おいが政府じゃ!」


 と言ったかどうかはわかりませんが、そういう気概はあったでしょうね。


 e0158128_20170202.jpg決起した西郷軍を全面的に支援したのが、鹿児島県令の大山綱良でした。西郷とは最も古い付き合いの大山でしたが、維新後は久光の側近として鹿児島県の大参事、権令となり、西郷、大久保らの推し進める新政府の改革を批判する立場をとっていました。しかし、西郷の帰郷後は私学校設立などを積極的に支援し、このたびの決起においても援護活動を行います。大山は西郷が立つとすぐに太政大臣・三条実美と右大臣・岩倉具視に宛てて書面を発し、西郷に刺客を差し向けたことを問い詰め、これを「政府の御失体」と糾弾しています。さらに、官金を軍資金として西郷軍に送金するなどの支援をしていたため、その罪を問われて逮捕され、西南戦争終結後、長崎において斬首されます。西郷、大久保とはまた違ったかたちでしたが、大山もまた、最後まで信念を貫いて戦う侍だったんですね。

 明日の稿につづきます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-12-10 22:14 | 西郷どん | Comments(0)  

西郷どん 第45話「西郷立つ」その3 ~弾薬庫襲撃事件~

昨日の続きです。

 西郷隆盛暗殺計画が持ち上がる少し前、政府内では鹿児島の不穏な動向に対処すべく、ある計画を立案します。その計画とは、鹿児島の兵器弾薬製造所を大阪へ移すというものでした。もちろん、これは鹿児島での反乱の発生を視野に入れた緊急対策でした。この製造所は、かつては薩摩藩の弾薬庫でしたが、維新後は政府軍の管轄下になっていました。国のものである以上、政府がこれをどこに移そうが鹿児島県には関係のないことですが、実際には、この当時の士族たちには、これが日本国の所有物だとする認識が薄く、また、たとえ国のものであったとしても、それを鹿児島から遠ざけようとする行為は、政府が私学校党軍事的な敵として認めたことになり、この状況で武器弾薬の移設を行うというのは、いたずらに私学校党の感情を刺激して挑発することになりかねないとして、海軍大輔の川村純義が激しく反対し、いったんは中止となっていました。しかし、鹿児島に潜入していた警視庁の密偵から私学校党の不穏な動向が伝えられると、政府は、武器弾薬が奪われるのを防ぐべく、夜中に製造所の武器弾薬の搬出を開始しました。


 ところが、この情報はすぐさま私学校党の耳に入り、これに挑発された私学校党二十数名が、明治10年(1877年)1月29日夜に草牟田にあった陸軍の弾薬庫を襲撃銃砲と弾薬約6万発を奪取しました。さらに翌日の夜には、約1000人もの私学校党が再び草牟田の陸軍火薬庫と磯海軍造船所内にあった弾薬庫をそれぞれ襲撃し、多量の武器弾薬を掠奪します。


 ドラマでは、この弾薬庫襲撃事件に私学校幹部の桐野利秋篠原国幹が関わっていたかのように描かれていましたが、実際には、このとき桐野ら主要幹部のほとんどが鹿児島城下を不在中で、西郷に至っては、鹿児島城下から遠く離れた大隅半島最南端の小根占で猟を楽しんでおり、事件は血気に逸る若者らの暴発だったようです。この幹部不在という状況が暴発を招いたともいえるかもしれませんが、いずれにせよ、事件の報を受けた桐野と別府晋介が、それぞれの在所から篠原の居宅に駆けつけ、善後策を協議した末、西郷に報せるべく辺見十郎太を小根占まで走らせました。


 事件の報告を受けた西郷はたいそう驚き、「しまった!」とつぶやいたといいます。そして辺見に対して怒気を発し、まるで辺見が火薬庫を襲った張本人であるかのごとく、「何事、弾薬などを追盗せえ!」怒鳴ったと伝えられます。このときの西郷の「しまった!」という言葉が、後世に西郷自身は挙兵に積極的ではなかったとされる根拠となっています。しかし、歴史家の家近良樹氏は、西郷は決起して政府を転覆させる野心を持っており、そのタイミングを窺ってはいたが、まだ機が熟していないと考えていたため、「しまった!」という言葉を発したのだろうと説かれています。いずれにせよ、西郷という人は多くを語らないため、その真意をうかがい知ることは容易ではありません。


 e0158128_21591928.jpg2月3日に鹿児島に戻った西郷は、2月5日、私学校内で幹部および分校校長ら200名たちとともに今後の対策を話し合いました。その席では挙兵論自重論の双方が激論を交わし、別府晋介や辺見十郎太らは問罪のための即時挙兵を主張しますが、慎重派の永山弥一郎河野主一浪らは、兵を挙げるのではなく西郷と桐野と篠原らが幹部のみが非武装で上京し、中原尚雄の西郷暗殺計画の供述書を持って政府に詰問すべしと主張し、一時はその方針に決まりかけます。しかし、ここで、それまでずっと黙っていた桐野が発した一言で、すべては一蹴されました。


「命が惜しいか!」


 この言葉は、勇敢さこそ第一の誉れとする薩摩隼人にとって最も屈辱の言葉であり、すべての議論を無にしてしまう一言でした。さらに篠原国幹が「議を言うな」と一同を黙らせ、最後に桐野が「断の一字あるのみ、旗鼓堂々総出兵の外に採るべき途なし」と断案。これですべてが決しました。あとは、西郷の裁断を仰ぐのみ。桐野から裁断を求められた西郷は、あの有名な言葉を発します。


e0158128_15131310.jpg 「おいの体は皆に預けもんそ」


 この言葉は、西郷の息子である西郷菊次郎が隣室でふすま越しに聞いたと言われていますが、それが、いつ誰に対してだったかがよくわかっておらず、果たしてこのときの言葉だったかどうかも定かではありません。いまとなっては確かめようがありませんが、いかにも西郷らしい言葉といえます。この言葉も、先の「しまった!」という言葉同様、西郷は挙兵に対してあくまで受け身であり、決して本意ではなかったと言われる根拠となっています。西郷は挙兵には反対だったが、ことここに至っては戦は避けられず、弾薬庫を襲撃した私学校生たちを見捨てることはできず、彼らに身を任せた、と。実際のところ、どうだったのでしょうね。


 かくして西郷らは決起しました。その大義名分を記した通知書には、「今般政府に尋問の筋これ有り」と記されていました。「尋問の筋」とは、言うまでもなく中原尚雄が供述した西郷暗殺計画だったでしょう。しかしながら、後世から見れば、この動機はあくまで西郷個人の命を問題とする私怨いえ、決起の大義名分というには稚拙だったと言わざるを得ません。もし、これが、当時の士族一般が不平を抱いていた大久保政権の在り方を問うというかたちで決起していれば、あるいは、この後の事態は大きく変わったかもしれません。これが、もし桐野や篠原らが主導した大義名分だったとすれば、やはり、彼らに身を任せたのが失策だったということでしょうね。立つなら、西郷自身が主導すべきだったんじゃないでしょうか。



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by sakanoueno-kumo | 2018-12-05 15:14 | 西郷どん | Comments(0)