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西郷どん 第15話「殿の死」 ~井伊直弼の大老就任と島津斉彬の死~

e0158128_20590455.jpg 安政5年4月23日(1858年6月4日)、彦根藩主の井伊直弼が幕府大老職に就任します。そのきかっけは、孝明天皇(第121代天皇)からの条約勅許獲得に失敗した堀田正睦が4月21日に江戸に戻り、第14代将軍・徳川家定に報告した際、堀田は松平春嶽を大老に就けてこの先対処したいと家定に述べたところ、家定は「家柄からも人物からも大老は井伊直弼しかいない」と言ったため、急遽、話が決まったといいます。


大老に就任した井伊は、6月19日に孝明天皇の勅許を得られぬまま日米修好通商条約調印します。この条約締結は周囲の反対を押し切っての井伊の専横のように思われがちですが、実は、井伊自身は熱心な尊王家で、ギリギリまで天皇の承認を得て条約を締結すべきだと訴えていました。しかし、情勢がそれを許さず、やむなく調印を認めるに至ります。尊王家としての思想を大老職としての立場が遮ったわけです。


 また、家定の将軍継嗣問題では、6月25日に紀州和歌山藩主の徳川慶福(のちの徳川家茂)を後継とする最終決定を下します。この問題ついては、井伊は予てから血筋が現将軍の家定に近い慶福を推す立場を取ってきましたが、これも、井伊の専横で決まったわけではなく、何より家定の意志に基づく決定でした。ドラマ中では、病床の家定の言葉をうまく利用して側近たちにガセ情報を流したように描かれていましたが、あれはドラマの創作ですね。井伊はそんな姑息な陰謀家ではなかったでしょう。ただ、井伊の基本的な考え方は、臣下が将軍継嗣などの問題には本来口を挟むべきではなく、あくまで将軍の意思に基づかねばならない、というものでした。その将軍・家定が慶福を強く推しているのだから、井伊にすれば、これは当然至極の決定だったわけです。


e0158128_18082794.jpg しかし、将軍・家定の岳父であり一橋派の急先鋒だった島津斉彬にとっては、この井伊の決定は許しがたいものでした。そこで斉彬は、形成逆転のプランを画策します。そのプランとは、斉彬自身が兵を率いて京都に乗り込み、勅命を奉じて幕政を改革し、公武合体を実現するというものでした。ドラマ中では、西郷吉之助(隆盛)の進言によって斉彬が上洛を決意していましたが、もちろんドラマの創作です。ここでいう「公武」とは、一般的な解釈の「朝廷」「幕府」だけを指すものではなく、この場合の「武」は、幕府と諸藩を意味しています。つまり、朝廷、幕府、諸藩三者が一体となった体制、すなわち挙国一致体制の国家構想でした。そして、その下準備のために、西郷は一足先に上洛していました。しかし、そこで西郷は、思いもしなかった報せを受けることになります。斉彬の死です。


 7月8日、斉彬は居城の鶴丸城下にあった調練場で軍事演習を敢行します。ところが、炎天下で操練を見守っていたせいか、極度の疲労状態となり、10日、11日になると高熱下痢に襲われ、16日に没します。享年50。あまりにも突然の死でした。


 その死因については、当初はコレラと診断されたそうですが、当時はまだ薩摩でコレラは流行っていなかったとして、のちに「細菌性赤痢」によるものと改められました。一方で、かつてのお由羅騒動の記憶が抜けない斉彬派の薩摩藩士たちのあいだでは、久光派による毒殺に違いないといったが当時から囁かれており、斉彬と親交のあったオランダ医・ポンペもその噂を耳にしたといいますが、当然ながら毒殺の証拠は見つかっていません。現在では学説的には否定されている毒殺説ですが、作家・海音寺潮五郎氏は毒殺説を支持しています。以下、海音寺氏の推理を抜粋します。


 『人を、しかも一藩の主を毒殺するということは、ありそうもないことと、現代人には思われる。しかし、江戸時代には往々行われている。現代になって、何かの必要があって江戸時代の諸藩主の墓を発掘した場合、遺体を調査してみると、毛髪や骨から多量の砒素が検出されることが、よくあるのである。「君は一代、お家は万代」とか、「君を以て尊しとなさず、社機をもって尊しとす」とかいうようなことばは、江戸時代の武士の常識であった。お家万代のためにならないと見れば、殿様を無理隠居させたり、巧みに毒殺したりということは、よくあったことなのである。斉形もその手にかかったと、ぼくは推理しているのである。・・・(中略)

 ぼくはこの時、斉彬に盛られた毒は亜砒酸系のものであったろうと推察している。下痢を伴う腹痛があり、心臓が衰弱するというのが、この毒薬の中毒症状である。斉彬は手製の鮨を蓋物に入れて居間の違い棚にのせているのが常であったから、これに毒薬を投ずるのはきわめて容易だったはずである。』


 毒殺かどうかはともかく、斉彬の死によって薩摩藩の舵取りは大きく変化し、西郷の運命にも大きな影響を与えることになります。歴史の「もしも」はナンセンスですが、もしも斉彬があと10年生きていれば、西郷は一介の薩摩藩士として終わったかもしれません。「お前はわしになれ!」と言ったかどうかはわかりませんが、斉彬の遺志を継いだことが、後世の大西郷の原点であったことは、間違いないでしょう。



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by sakanoueno-kumo | 2018-04-23 21:04 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第14話「慶喜の本気」 ~橋本左内と西郷隆盛~

 安政4年6月17日(1857年8月6日)、将軍継嗣問題における一橋派急先鋒だった主席老中の阿部正弘急死します。これにより、一橋派は勢いを失うかに思えましたが、しかし、世情はそれを許しませんでした。というのも、あの黒船来航時に締結した日米和親条約の規定に基づいて前年に駐日総領事に着任していたタウンゼント・ハリスが、通商条約の締結とアメリカ国大統領の親書を将軍に直接手渡すことを、執拗に幕府首脳に求めており、事態は、そのハリスと渡り合うことが出来る有能な将軍の就任を必要としていたのです。


しかし、一橋慶喜の将軍就任には、多くのハードルがありました。対立する南紀派の抵抗はもちろん、慶喜の父である徳川斉昭に対して強い警戒感を抱いていた幕臣や、斉昭を毛嫌いする大奥女性たちの猛烈な反発があり、しかも、なにより、現将軍の徳川家定自身が慶喜をひどく嫌っていたといいます。


 そんななか、一橋派で越前国福井藩の松平慶永(春嶽)が動きます。春嶽は同年10月、阿波国徳島藩主の蜂須賀斉裕とともに阿部の死後に主席老中となった堀田正睦に宛てて、一橋慶喜を継嗣とするよう建白書を提出しました。さらに、この春嶽の動きに呼応して、薩摩藩主の島津斉彬も同年12月に建白書を提出します。福井藩は親藩でしたが、薩摩藩は大藩といえども外様大名。本来、幕政に口を出すなど、ありえないことでした。しかし、越権行為とは知りつつも、黙ってはいられないほどこの国の行く末を案じていたのが、この時期の斉彬だったのでしょう。


e0158128_11563831.jpg その斉彬の手足となって働いていたのが西郷吉之助(隆盛)で、春嶽の懐刀として力を発揮していたのが、福井藩士の橋本左内でした。必然的に、ふたりは江戸での政治活動の良きパートナーとなります。ふたりが出会ったのは、このときより2年ほど前の安政2年12月27日(1856年2月3日)のことでした。このときのエピソードとしては、海江田信義(有村俊斎)が後年に語った話が有名です。それによると、はじめて左内に会ったときの西郷は、いかにも見下した態度だったといいます。その理由は、左内が西郷より6歳も年下だったこともありましたが、容姿がいかにも虚弱で、そのうえ、話し方が婦女子のように軟弱だったからでした。そのため、西郷は最初、左内の人物を軽く見、海江田の表現によると、「西郷一見して、これを愚弄するの気」が見られたといいます。そして、西郷の左内に対する対応は、「語気頗る冷淡」だったようです。後年、どんなに若輩な相手に対しても礼節をもって接したと伝わる西郷ですが、若き日の西郷は、まだそこまで人間ができていなかったようです。


e0158128_15131310.jpg もっとも、その後、話していくうちに、左内が学識の深い人物であることがわかると、すぐさま態度を改めたといいます。そして、左内が帰ったあと、横にいた海江田に対して「今日の談論、甚だ敗せり」と言ったそうです。自分が間違っていたと判断すれば、すぐに謝罪し、対応を改める。これはなかなか真似できることではありません。海江田もこの点を強調し、「西郷の快男子たる所以にして、しかも欽すべきの美徳とす」と語っています。このあたりが、西郷の西郷たる所以なんでしょうね。


 以後、西郷はことあるごとに藤田東湖(今回のドラマでは出てきませんでしたが)と橋本左内のふたりを尊敬し、「吾れ、先輩においては東湖先生に服し、同輩においては橋本を推す。二子の才学器識たる、あに吾輩の企て及ぶ所ならんや」と称賛しました。東湖は先の震災で落命してしまいましたが、左内と西郷は、このあとも手を取り合って一橋慶喜の将軍擁立に向けて活動していきます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-04-16 11:59 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第13話「変わらない友」 ~篤姫の輿入れと大久保利通の熊本行き~

e0158128_20010581.jpg安政の大地震などによって先送りになっていた篤姫将軍家輿入れがようやく決定したのは安政3年(1856年)2月のことでしたが、このとき、島津斉彬の命で篤姫の嫁入り道具の調達にあたったのが、西郷吉之助(隆盛)でした。その内容は、箪笥長持、挟箱、櫛、髪飾りなど姫君の嫁入り道具全般に及び、文字通り金に糸目を付けない方針で、西郷自身が店の暖簾をくぐって店との交渉も行ったといいます。現在、残っている書状などを読むと、このときの西郷がいかに花嫁道具の調達に腐心していたかが窺えます。その苦労の甲斐あってか、自身は貧乏な家庭に育ちながら、高価な貴重品の鑑識眼を身につけることになったといいます。


 この嫁入り道具調達のエピソードと、後年の江戸城無血開城に至る嘆願書の話の2つが、西郷と篤姫の接点を史料で確認できる数少ない史実です。つまり、それ以外はすべてフィクションということになります。ところが、今回のドラマでは、その2人の関係を濃厚に描いてきていたので(前話ではラブシーンまで)、きっと、この嫁入り道具調達のエピもたっぷり尺をとって描くのかなぁと思っていたのですが、意外にもあっさり流していましたね。まあ、嫁入り道具を買い集める姿を多く描いても物語上意味がないといわれればそうなんですが、西郷と篤姫の関係をここまでフィーチャーしてきたことを思えば、この数少ない史実エピをもう少し丁寧に描いてもよかったのではないかと。


 西郷が調達した豪華絢爛な品々を携えた篤姫の長大な輿入れ行列は、先頭が江戸城内に到着しても最後尾は依然、渋谷の薩摩藩邸にいたといい、すべてが江戸城に入るのに6、7日間ほどもかかったといいますから、驚くよりほかありません。


e0158128_17375658.jpg 翌年の安政4年5月24日(1857年6月15日)、西郷は約3年4ヶ月ぶりに薩摩に帰国しました。しかし、そのわずか半年後の11月1日(12月16日)には、斉彬の命によって再び江戸に向かうことになります。このとき、同志の大久保正助(利通)が熊本まで同行したという話は史実です。物語では、その大久保の熊本行きを斉彬に進言したことで、逆に大久保の自尊心を逆撫でしてしまうという話でしたね。実際には、このときのふたりの役付けは同じなんですが、斉彬の腹心として江戸、京都と国事に奔走していた西郷に対して、大久保はまだ薩摩を一歩も出たことがなく、あるいは、ドラマのように多少の劣等感を抱いていたかもしれません。また、同格といっても、西郷が徒目付に昇進したのは同年10月1日(11月17日)で、大久保が昇進したのはその1ヶ月後の11月1日(12月16日)。まさに、熊本に向けて出発する当日のことでした。あるいは、ドラマのように西郷の口利きがあったのかもしれませんね。


 たしか10年前の大河ドラマ『篤姫』でも、似たようなシーンが描かれていました。熊本を訪れた西郷と大久保が肥後熊本藩家老の長岡監物と面会するのですが、そこで、西郷と監物との間で内密な話が始まると、西郷が大久保に座を外してほしいと頼み、その言葉に大久保は屈辱を味わうというもの。実際にこのようなことがあったかどうかはわかりませんが、ふたりが長岡監物と面会したのは史実で、このときのことを監物は他者に宛てた書簡に記しています。しかし、そこにあるのは西郷の名だけで、大久保の名はまったく出てきません。監物から見れば、まだ無名だった大久保は西郷の付き人程度にしか思えなかったのかもしれません。そういうものは態度に出るでしょうから、このとき大久保は、西郷との大きな差を実感したでしょうね。


 ただ、後年のそれが示すとおり、大久保という人は、逆境を逆境と思わない強靭な精神力と粘り強さを持った人物です。このときの屈辱は、のちの大久保利通を形成する大きなバネになったのではないでしょうか。



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by sakanoueno-kumo | 2018-04-10 17:42 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第12話「運の強き姫君」 ~篤姫の輿入れ難航~

 やはり、今回も篤姫の将軍家輿入れは一橋慶喜次期将軍に推すための密使の役目という設定でしたね。第10話の稿でも述べましたが、この縁談は、島津斉彬が慶喜の将軍継嗣を実現するために仕組んだ謀だったとの説があります。病弱で言動も定かではなかったといわれる(一説には、脳性麻痺だったとも)第13代将軍・徳川家定を、篤姫が御台所としてうまく操り、また、御台所の父という立場で斉彬自身も発言力を高め、将軍継嗣問題を有利に運ぼうとしたという推論です。10年前の大河ドラマ『篤姫』でも、この説が採られていましたね。


e0158128_20010581.jpg ところが、現在ではその説はほぼ否定されています。というのも、そもそも篤姫の輿入れの案が出たのは将軍継嗣問題が生じる前のことで、それも、この縁談を持ちかけたのは島津家からではなく、幕府側からだったといいます。その理由は、将軍家の御台所に島津家から輿入れした実績が過去にもあり、しかも、その御台所が健康子沢山に恵まれたことから、これにあやかろうとしたというのが定説となっています。とすれば、幕府も大奥も、健康な正室を迎えて世継ぎの誕生を期待したということになりますから、家定が本当に子供を作ることができない人物だったのかも、疑問となりますよね。10年前の堺家定は、うつけ者を装った賢者でしたが、今回の又吉家定は、どんな設定なのか楽しみですね。


嘉永6年8月21日(1853年9月23日)に鹿児島を発って江戸藩邸入りした篤姫でしたが、およそ3年近くもの長い間、縁談は進みませんでした。理由はいくつか考えられますが、まず、篤姫が鹿児島を発ったのは黒船来航からわずか2ヶ月後のことであり、国内情勢がそれどころではなかったという背景もあったと思われます。また、過去に実績があるとはいえ、外様大名の島津家からの輿入れに異を唱える勢力も少なくはなかったでしょう。とりわけ、将軍継嗣問題で対立する紀州派は、斉彬の発言力が高まるような縁談には激しく抵抗していたに違いありません。


e0158128_21441368.jpg さらに、篤姫の出自の問題もありました。斉彬の養女になったとはいえ、元は分家の出家格が違いすぎました。ここにいちばんこだわったのは、家定の生母である本寿院だったといいます。分家の娘であるなら側室で十分だというんですね。しかし、斉彬としては、側室としての輿入れは到底受け入れられません。そこで、ここからは次週のネタバレになっちゃいますが、朝廷にはたらきかけて篤姫を右大臣・近衛忠煕養女とすることにし、近衛家からの輿入れというで、暗礁に乗り上げていた縁談がようやく整います。近衛家には斉彬の姉・郁姫が嫁いでおり、その縁で成立した養子縁組でした。


 その郁姫付きの上臈として近衛家にいたのが、幾島でした。ドラマでは、篤姫が江戸屋敷に入ったときから教育係として呼び寄せられていましたが、おそらく、幾島が篤姫付きとなったのは、この養子縁組からだったんじゃないでしょうか。このとき、すでに郁姫は亡くなっており、出家して忠煕に仕えながら郁姫の菩提を弔っていましたが、篤姫の輿入れが決まると、名を「幾島」と改めて(郁姫付きのときは「藤田」と名乗っていた)、大奥に入るまでは篤姫の教育係を、そして大奥に入ってからは御年寄として篤姫を支えていくことになるんですね。そして、西郷吉之助(隆盛)とも、少なからず関わりを持つことになります。


「私は不幸になっても構いません」

「お父上のためなら、篤は喜んで不幸になります。この命、ただ幸せになるためだけにあるのではございません」


 この健気さ。切ないですね。斉彬から真実を明かされたときの目、たまんなかったです。ここで終わってれば良かったんですけどね。そのあとの西郷とのラブシーンはいらなかったなぁ。



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by sakanoueno-kumo | 2018-03-26 21:47 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)  

西郷どん 第11話「斉彬暗殺」 ~虎寿丸の死去と斉彬毒殺説~

 嘉永7年閏7月24日(1854年9月16日)、島津斉彬の五男・虎寿丸死去します。わずか数えの6歳でした。斉彬には計6男5女の子供がいましたが、10代まで成長したのは三女・四女・五女のみで、長男から四男までの男児はすべて3歳までに早逝しており、ただひとり、虎寿丸だけが6歳まで成長していました。それだけに、虎寿丸の死は斉彬にとって大きなショックだったに違いありません。


e0158128_20010110.jpg 虎寿丸の死については、当時の記録によると、死去する前日までは普通に手習いなどをして過ごしていたのに、突然発熱して下痢が治まらず、翌日の夜に死去したとあります。後世の目で客観的に症状を見れば、死因は当時流行していた疫痢のためだったと考えられますが、当時の斉彬周辺の者たちはそうは思わず、これは斉彬の世子誕生を望まない勢力の呪詛だと思い込みます。かつてのお由羅騒動における藩内の勢力争いは、斉彬が藩主となった今なお続いていました。当時は幼子が亡くなるということは珍しくありませんでしたが、それでも、長男から五男まですべてが相次いで亡くなるという不幸が続くと、さすがにそう思わずにはいられなかったでしょう。斉彬自身もそう思っていたかもしれません。


 そんななか、虎寿丸の死から約1週間後、今度は斉彬が病に倒れます。症状は胃痛だったとも胸痛だったともいいます。おそらく、虎寿丸の死の心労がたたったのでしょうね。たったひとりの息子が亡くなってしまったわけですから、無理もありません。このとき庭方役を務めていた西郷吉之助(隆盛)も、よほど心配だったようで、嘉永7年8月2日(1854年9月23日)付けで鹿児島にいた友人の島矢三太に送った書簡のなかで、虎寿丸の死を報告するとともに、次のように記しています。


「先々月晦日より、太守様俄に御病気、一通りならざる御煩い、大小用さえ御床の内にて御寝も成らせられず、先年の御煩いの様に相成る模様にて、至極御世話遊ばされ候儀に御座候」


e0158128_15131310.jpg 斉彬の身を案じた西郷は、「西郷どん紀行」で紹介されていたように、目黒不動尊(瀧泉寺)に参詣して斉彬の回復を祈願しました。そして、その怒りの矛先をお由羅たちに向け、同志の有村次左衛門大山格之助(綱良)とともに、お由羅一派の打倒を誓いあったといいます。このときの心境も、同書簡に記されています。


「つらつら思慮仕り候ところ、いづれなり奸女をたおし候ほか、望みなき時と伺い居り申し候。御存のとおり、身命なき下拙に御座候えば、死することは塵埃の如く、明日を頼まぬ儀に御座候間、いづれなり死の妙所を得て、天に飛揚いたし御国家の災難を除き申したき儀と、堪えかね候ところより、あい考えおり候儀に御座候。心中御察し下さるべく候。

実に紙上に向かって、この若殿様の御儀申し述べがたく、筆より先に涙にくれ、細事におよび能わず候。眼前拝み奉り候ゆえ、尚更忍び難き、只今生きてあるうちの難儀さ、却って生を怨み候胸に相成り、憤怒にこがされ申し候。恐惶謹言。」


 お由羅のことを「奸女」と呼び、命に代えてもこれを倒すほかないと、過激な発言をしています。若い頃の西郷は、後年のイメージとは違ってかなりの激情家だったことが窺えますね。それほど、虎寿丸の死と斉彬の病は、西郷にとって大きな衝撃だったのでしょう。西郷は同志とともにお由羅一派の斬奸計画を具体的に進め始めますが、その後、病が回復した斉彬にそのことが知れ、逆鱗常ならざる怒りを受けて、やむなく計画は中止するに至ったと伝えられます。このあたり、ドラマでは少しアレンジして描かれていましたが、概ね伝承にそった展開でした。


 ちなみに、ドラマでは毒殺を疑っていた西郷でしたが、当時の記録では、その疑いは確認できません。あくまで「呪詛」の疑いでした。斉彬の毒殺説が囁かれはじめるのは、斉彬の死後になってからのことです。学問的には否定されている毒殺説ですが、作家・海音寺潮五郎氏は毒殺説を支持しています。ドラマでは、斉彬の膳の焼魚にヒ素が混入されていたと描かれていましたが、おそらく、これも海音寺氏の著書『西郷隆盛』を参考にしたものでしょう。以下、海音寺氏の推理を抜粋します。


 「人を、しかも一藩の主を毒殺するということは、ありそうもないことと、現代人には思われる。しかし、江戸時代には往々行われている。現代になって、何かの必要があって江戸時代の諸藩主の墓を発掘した場合、遺体を調査してみると、毛髪や骨から多量の砒素が検出されることが、よくあるのである。「君は一代、お家は万代」とか、「君を以て尊しとなさず、社機をもって尊しとす」とかいうようなことばは、江戸時代の武士の常識であった。お家万代のためにならないと見れば、殿様を無理隠居させたり、巧みに毒殺したりということは、よくあったことなのである。斉形もその手にかかったと、ぼくは推理しているのである。・・・(中略)

 ぼくはこの時、斉彬に盛られた毒は亜砒酸系のものであったろうと推察している。下痢を伴う腹痛があり、心臓が衰弱するというのが、この毒薬の中毒症状である。斉彬は手製の鮨を蓋物に入れて居間の違い棚にのせているのが常であったから、これに毒薬を投ずるのはきわめて容易だったはずである。」


 この推理があたっているかどうかはわかりませんが、十分にあり得る話かもしれません。もっとも、この推理は今回の病のときではなく、この4年後、斉彬が急逝したときのことです。今回のドラマではどのように描かれるのか、楽しみにしましょう。



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by sakanoueno-kumo | 2018-03-19 21:31 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)  

西郷どん 第10話「篤姫はどこへ」 ~篤姫の輿入れと将軍継嗣問題~

 篤姫輿入れ先が明らかになりましたね。幕末ファン、大河ドラマファンの方々にとっては言うまでもないことだと思いますが、島津斉彬の養女となった篤姫の輿入れ先は、江戸幕府第13代将軍・徳川家定正室でした。外様大名の分家の娘が、一国のファーストレディーになるというのですから、当時としては、ちょっとしたシンデレラストーリーだったことでしょう。その篤姫の輿入れに西郷吉之助(隆盛)も深く関わることになるのですが、それは、もう少し先のことになります。


e0158128_20010581.jpg この縁談に関しては、昔から斉彬が一橋慶喜(のちの徳川慶喜)の将軍継嗣を実現するために仕組んだとの説があります。第13代将軍の家定は病弱で言動も定かではなかったといわれ(一説には、脳性麻痺だったとも)、政務を満足に行える人ではなかったといいます。折しも世情は黒船来航後の混乱の時代を迎えており、大事に対応できる有能な指導者を必要としていました。そこで斉彬たちが期待を寄せたのが、英明との誉れ高かった慶喜でした。ドラマのヒー様です。そのヒー様の次期将軍擁立を推していたのは、斉彬をはじめ、越前福井藩主の松平慶永(春嶽)や水戸の徳川斉昭などの開明派と呼ばれる有力諸侯でした。


これに対して、保守的な譜代大名たちは、家定に血筋が近い紀伊の徳川慶福(のちの徳川家茂)を擁立しようとします。ここに次期将軍の座を巡る派閥が生まれ、前者を一橋派、後者を南紀派と呼ぶようになります。その一橋派の筆頭が斉彬で、南紀派の筆頭が、のちに大老となる彦根藩主・井伊直弼でした。しかし、井伊家は代々幕府大老を排出してきた譜代大名であるのに対し、島津家は、77万石を誇る大大名とはいえ、末席に位置する外様大名という立場に過ぎません。そこで、斉彬は篤姫の輿入れを画策したというんですね。すなわち、篤姫を将軍家に輿入れさせることで、その義父という立場で自身の発言力を高め、慶喜の次期将軍を実現させようと考えたという説です。なるほど、説得力のある話です。今話のラストシーンの斉彬と西郷の会話から見ても、たぶん、今回もその説をベースに描かれるのでしょうね。


 しかし、歴史家さんたちの間では、現在ではその説はほぼ否定されています。というのも、そもそも篤姫の輿入れの案が出たのは、将軍継嗣問題が生じる前のことでした。それも、この縁談を持ちかけたのは島津家からではなく、幕府側からだったといいます。その理由はいくつかありますが、まず、将軍家と島津家がすでに姻戚関係にあったということ。薩摩藩第5代藩主・島津継豊に幕府第8代将軍・徳川吉宗の養女・竹姫が輿入れし、その竹姫の孫にあたる薩摩藩第8代藩主・島津重豪の三女・茂姫(のちの広大院)が、幕府第11代将軍・徳川家斉の正室として輿入れしたという実績がありました。つまり、篤姫の縁組以前から、将軍家と島津家は深い結び付きがあったわけです。これは、外様大名としては例のないことでした。


e0158128_00524727.jpg また、その茂姫が、健康長寿だったことも大きな理由だったと考えられます。茂姫は50年近くも大奥・御台所の地位にあり、しかも、子沢山に恵まれました。彼女の血を引く大名や大名夫人が全国に15人もいて、しかもそれらの面々が皆、元気長寿だったといいます。幕府は、これにあやかろうとしたというんですね。あまり知られていませんが、家定は篤姫を正室として迎える前に、公家出身の女性を二度、娶っていましたが、ふたりとも若くして亡くなっていました。そこで幕府は、3人目の正室は、公家出身ではなく武家出身の女性を求めたとも言われます。そこで白羽の矢が立ったのが、健康で子沢山だった茂姫の実家、島津家だったわけです。つまり、この縁談を欲したのは、徳川家のほうだったんですね。


 もっとも、島津家にとっても、この縁談は大いにメリットがありました。茂姫の死後、家格が低下していた島津家の地位を復活させる意味でも、この縁談は願ったり叶ったりだったでしょう。また、斉彬と懇意だったといわれる幕府老中首座・阿部正弘の意向もあったでしょうね。阿部正弘は斉彬を始めとする有能な諸侯の意見を積極的の取り入れたいという方針の持ち主でした。その対策として、島津家との縁組を画策したとも考えられます。いずれにせよ、将軍継嗣問題は別にしても、篤姫の輿入れは、島津家にとって政治だったことは間違いないでしょう。


 ちなみに余談ですが、ヒー様こと慶喜役松田翔太さんは、10年前の大河ドラマ『篤姫』では、政敵の南紀派が擁立する家茂役でしたね。慶喜、家茂の両方を演じた俳優さんは、松田翔太さんが初めてなんじゃないでしょうか。だからどうということはないのですが。


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by sakanoueno-kumo | 2018-03-12 00:54 | 西郷どん | Trackback | Comments(6)  

西郷どん 第9話「江戸のヒー様」 ~西郷はじめての江戸行きと、御庭方役拝命~

 嘉永7年正月21日(1854年2月18日)、西郷吉之助(隆盛)は主君・島津斉彬に付き従って江戸に向かうべく鹿児島を発ちます。西郷はこの少し前に藩から中御小姓、定御供、江戸詰を命じられていました。父が勘定方小頭だったことを思えば、この人事は大抜擢だったといえます。その大抜擢を命じたのが、他ならぬ斉彬だったといいます。


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 今回のドラマでは描かれていませんでしたが、西郷の伝記では欠かさず出て来る逸話で、水上坂のエピソードがあります。鹿児島城下を出てからしばらくすると山道に入り、その坂を登り詰めたところに御茶屋があり、そこが、一行の最初の休憩スポットでした。この坂を「水上坂」といいます。ここで藩主が入国、出国の際、服装を改める慣わしとなっていました。国入りの際には旅装を脱いで騎馬となり、旅立ちの際にはここで旅装に着替え、馬を降りて駕籠に乗ります。また、薩摩人にとって精神的支柱である桜島が挑めるのもここが最後で、しばらく帰らない旅に出るにあたって、ここで、故郷の景色をしっかりと目に焼き付けて薩摩に別れを告げます。初めて江戸に向かうこととなった28歳の西郷も、ここで桜島を見ながら、きっと大きな希望を胸に秘めていたに違いありません。

 その伝承によると、このとき斉彬は近臣に対して、「今回の供の者のなかに西郷吉之助という者がいるはずだが、その者はどいつだ?」と尋ねたそうで、近臣が「あそこにいる大きな体の者が西郷でございます」と答え、斉彬はこのとき初めて西郷を見たといいます。斉彬は西郷が提出した建白書を読んでその名を知り、西郷という人物に興味を持っていました。建白書に書かれていた内容そのものは、斉彬からすれば特に目を瞠るものではありませんでしたが、それを藩主に対して堂々と主張する勇気と誠意に対して、見どころがありそうな若者と見込んでいたといいます。


この逸話は、明治28年(1895年)に刊行された勝田孫弥『西郷隆盛伝』、大正15年(1926年)に刊行された『大西郷全集』などに記された話で、また、海音寺潮五郎史伝『西郷隆盛』でも紹介されています。この話が事実かどうかはわかりませんが、このとき、水上坂で休憩をとったというのは当時の家臣らの日記にも見られることから、事実だったようです。西郷の建白書を読んで斉彬自身が西郷を抜擢したという話が本当ならば、水上坂でのエピソードも実話だったと見ていいんじゃないでしょうか。


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 江戸に着いて1ヶ月ほどが過ぎた嘉永7年4月、西郷は「徒目付兼御庭方役」を命じられます。このうち「御庭方役」は、幕府の「御庭番」に倣って斉彬が新設した役職だったといいます。その職務内容は、簡単にいえば斉彬の秘書のような務めでした。


 石高72万石の大藩だった薩摩では、数千人の家臣団がいて、その家格制度も厳格で、本来であれば、西郷のような下級の家臣は藩主と直接言葉を交わすことなどできませんでした。しかし、門閥にとらわれず広く有能な人材を登用したいと予てから考えていた斉彬は、西郷の人物を見込み、御庭方役に抜擢して「偶然、庭先で見つけた御庭方役の者に話しかける」という方法を思い立ち、西郷を側に置いたのでした。よほど西郷を見込んでいたのでしょうね。ここから、西郷は斉彬からマンツーマンで教育されることとなり、単なる下級の田舎侍が、一流の国士へと成長していくことになるんですね。この二人の出会いがなければ、幕末史はずいぶんと違ったものになっていたことでしょう。まさしく運命の出会いでした。


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by sakanoueno-kumo | 2018-03-05 01:12 | 西郷どん | Trackback | Comments(6)  

西郷どん 第8話「不吉な嫁」 ~西郷最初の妻・須賀との離縁~

 祖父の西郷龍右衛門、父の西郷吉兵衛と母のマサ(満佐・政佐)が相次いで病没した嘉永5年(1852年)、西郷吉之助(隆盛)は鹿児島城下上之園町に住んでいた伊集院兼善の長女・須賀と結婚しました。安政3年(1856年)に書かれた西郷自身の書簡に「両親よりめとらせ候妻を」と記されていることから、二人の結婚は両親の死より前だったということがわかります。しかし、二人の結婚生活は長くは続かず、安政元年(1854年)に藩主・島津斉彬江戸参勤に従って薩摩を離れるまでの、わずか2年ほどでした。


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 須賀に関しては、その人となりについてはまったく伝わっておらず、二人の夫婦生活についての逸話も何ひとつ残っていません。したがって、具体的な離縁の理由も判然としません。二人の間には何があったのでしょう?

 歴史家の家近良氏はその著書のなかで、相次いで両親が死去したことで、長男の嫁として西郷家を取り仕切る立場にたった娘の置かれた状況を見るに見かねた須賀の実家から、離縁の申し出があったのではないかと推察されています。また、歴史小説の作家・桐野作人氏は、西郷家の貧乏に原因があったのではないかと述べられています。当時の西郷家の石高は41石だったのに対して、須賀の実家の伊集院家は200石。現代でいうところの格差婚ってやつですね。貧乏人が金持ちの家に嫁ぐパターンは上手くいくでしょうが、その逆はしんどいかもしれません。今も昔も、経済的理由は離婚の大きな原因になります。


 冒頭で上述した西郷自身の書簡の前後の文言をもう少し詳しく読むと、「たとえ両親よりめとらせ候妻を(両親の)滅後追出し」云々とあります。ドラマ中、須賀が自身が嫁いできてすぐに両親が相次いで亡くなったことで、ご近所のあいだで「不吉な嫁」と噂されていると言っていましたが、偶然とはいえ、嫁いで来るや否や立て続けに不幸があったわけですから、あるいは、本当にそんな陰口を囁かれていたかもしれませんね。もしかしたら、西郷自身もそう思ったかもしれません。お由良騒動における呪詛の噂もそうですが、現代のわたしたちから見れば滑稽な迷信も、この時代の人たちにとっては深刻な問題だったでしょうから。


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 もっとも、離縁によって西郷家と伊集院家の関係が悪くなったという話はなく、その後も両家は良好な関係を保っていたようです。後年、須賀の父・伊集院兼善は明治維新後に高知県令(現在の県知事)となり、須賀の弟・伊集院兼寛大蔵官僚を経て貴族院議員となりますが、西郷はふたりと親しく交流していました。余談ですが、後年、鳥羽伏見の戦いで西郷が述べたとされる「鳥羽一発の砲声は、百万の味方を得たるよりも嬉しかりし」との有名な言葉は、兼寛がその日記に書き残したことで後世に知られるところとなった言葉です。両家の関係が芳しくなければ、このような西郷の言葉を日記に綴ることもなかったのではないかと。

 ドラマでは、西郷の江戸行の資金を作るために、須賀が自ら身を引いたという設定でしたね。もちろん、これはドラマの創作ですが、うまく話を作ったんじゃないでしょうか。実際、藩主に従って江戸に参勤することはたいへん名誉なことでしたが、その経費は、現代のサラリーマンの出張経費のように会社が出してくれることはなく、すべて自身で工面しなければなりませんでした。事実、西郷が江戸に旅立った翌年の安政2年(1855年12月、西郷家は下加治屋町の屋敷259坪を売り払っています。おそらく、西郷の江戸での活動費に充てられたのでしょうね。それほど当時の西郷家は経済的に困窮していました。須賀との離縁はやむを得なかったのかもしれません。

 西郷は生涯、この離縁を後悔していたといいます。ふたりの結婚生活の逸話がほとんど伝わっていないのも、西郷自身が、つらい思いをさせてしまった須賀に対しての罪悪感から、何も語らなかったからかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2018-02-26 01:44 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)  

西郷どん 第7話「背中の母」 ~相次ぐ肉親の死と最初の結婚~

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 嘉永5年(1852年)、西郷吉之助(隆盛)の身辺に不幸が相次ぎます。まず、7月18日に祖父の西郷龍右衛門死去。没年齢はわかりませんが、息子の吉兵衛がこのとき47歳だったことから想定すると、この時代としては長寿70歳前後だったんじゃないでしょうか。ドラマでは温厚なおじいちゃんでしたが、実際には、どんな人だったか詳しくは伝わっていません。藩職は御台所御番という最下級のお役目で、石高も47石の小身でしたが、後年の西郷隆盛・従道兄弟大山巌の祖父にあたる人物となるわけですから、英雄のDNAを持っていたのかもしれません。

 龍右衛門の死から2ヶ月余りが過ぎた9月27日、今度は父の西郷吉兵衛が死去します。享年47。死因は病没としかわかっていません。ドラマでは突然死、いわゆるポックリ系の設定でしたね。人生50年と言われた時代ですから、それほど若死にというわけではなかったのかもしれませんが、父の龍右衛門の長寿を思えば、やはり早かったといえるでしょうか。吉兵衛の家格は御小姓与で、勘定方小頭を務めました。その人となりは詳しくは伝わっていませんが、寡黙で実直な能吏であったものとみられています。


 そして、さらに2ヶ月が過ぎた11月29日、夫の後を追うように母のマサ(満佐・政佐)が亡くなります。没年齢はわかりませんが、長男の吉之助の年齢から考えて、40代前半だったんじゃないでしょうか。自身も病気でありながら、看病にあたったのが、死期を早めたのかもしれませんね。夫同様その人となりは詳しく伝えられていませんが、四男三女を生み育て、あの英雄肌の西郷隆盛・従道兄弟の母だったわけですから、きっと、ドラマのようにおおらかな女性だったんじゃないでしょうか。


 わずか4か月余りの間に立て続けに両親と祖父を亡くした西郷。このとき彼は数えの25歳で、まさに厄年でした。父が亡くなった直後の9月の時点で吉之助の家督相続願が藩に提出され、翌嘉永6年(1853年)2月に正式に藩によって認められます。これにより、西郷はひとりで弟妹たちを支えなければならなくなりました。


e0158128_22092865.png ただ、ひとりといっても全くの独りぼっちではなく、両親が亡くなる少し前、西郷は両親の勧めで結婚していました。西郷にとって最初の妻となる須賀です。彼女についての史料は極度に乏しく、鹿児島城下上之園町に住んでいた伊集院兼善の長女で、このとき20歳だったということぐらいしかわかっていません。ネタバレになりますが、“最初の”妻と述べたとおり、二人の結婚生活は長くは続かないんですね。その理由は詳しくはわかっていませんが、ドラマでの須賀は、いかにも幸薄そうな雰囲気を漂わせていましたね。次週のタイトルは『不吉な嫁』(笑)。たしかに、彼女が嫁いできてすぐに父母が亡くなったわけですから、そう思われたかもしれません。二人の短い夫婦生活がどのように描かれるのか、楽しみにしましょう。



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by sakanoueno-kumo | 2018-02-19 19:01 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第6話「謎の漂流者」 ~ジョン万次郎と薩摩藩~

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 土佐の貧しいの家に生まれながら、少年期に遭難してアメリカの捕鯨船に助けられたことで、アメリカに渡り、西洋文化に触れ、帰国後はその知識で幕府高官にも討幕の志士たちにも多大な影響を与えたことで知られるジョン万次郎こと中濱萬次郎。天保12年(1841年)、14歳のときに漁師仲間4人と共に遭難し、伊豆諸島の無人島鳥島に漂着して何とか命を繋いでいると、143日目にアメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号に救助されます。その後、他の4人はハワイで下船して日本に帰国しますが、好奇心旺盛だった少年・万次郎はこのまま船に残りたいと希望し、その向学心を気に入った船長のホイットフィールドは、そのまま本国へ連れて帰りました。

 アメリカ本土に渡った万次郎は、ホイットフィールド船長の養子となります。そしてオックスフォード学校、バーレットアカデミーに通い、英語、数学、測量術、航海術、造船技術などを猛勉強し、なんと首席で卒業したといいます。英和辞典なんてない時代ですからね。ていうか、言葉のハンデだけじゃなく、万次郎の場合、土佐にいた頃は貧しさで寺子屋に通うことも出来ず、読み書きもほとんど出来なかったといいます。そんな状態から、わずか2年半の在学で首席になったわけですから、すごい吸収力ですよね。それと、そのポテンシャルの高さを見抜いて教育を受けさせたホイットフィールドもすごいですね。もし、あのまま土佐で漁師をしていたら、万次郎はその頭の良さを発揮できる機会を得ることなく生涯を終えたことでしょう。人生はわからないものです。


 学校を卒業後は捕鯨船に乗る道を選び、一等航海士として世界の海を股にかける生活をしていましたが、アメリカに渡って10年近くが過ぎた嘉永3年(1850年)、日本に帰国することを決意。万次郎は捕鯨船時代の収入に加えて、ゴールドラッシュに沸くカリフォルニアで働いて資金をため、小型船の「アドベンチャー号」を購入し、上海に向かう商船に乗せて日本に向かいました。


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翌嘉永4年(1851年)2月、万次郎はアドベンチャー号で当時は薩摩藩領だった琉球に接岸し、番所で尋問を受けたのち、薩摩本土に送られました。言うまでもなく当時の日本は鎖国状態。日本船の海外渡航と在外日本人の帰国を全面的に禁止する海外渡航禁止令が布かれており、その禁を破った万次郎は、下手をすれば死罪になりかねません。ところが、万次郎にとって幸運だったのは、ときの薩摩藩主が開明的で知られる島津斉彬だったこと。「蘭癖」と呼ばれるほど西洋の学問技術を好んだ斉彬にとっては、万次郎はまさに歓迎すべき人物だったわけです。斉彬は万次郎一行を手厚く歓待し、斉彬自ら直々に質問するなどの厚遇ぶりだったといいます。このときはまだ、ペリー提督率いる黒船艦隊来航の2年前で、世の中はまだ、西洋文明に対してそれほど明るくない時代です。もし、万次郎の帰国があと数か月早ければ、前藩主・島津斉興によって死罪にされたかもしれません。人生はわからないものです。

 このとき万次郎が薩摩に滞在したのは47日間。その間、薩摩藩は万次郎から洋式の造船術や航海術、さらには海外の情勢や文化なども貪欲に教えを請い、その後、斉彬はその情報を元に和洋折衷船の越通船を建造しました。万次郎はその後、長崎に送られ、投獄されて取り調べを受けたあと母藩である土佐藩に引き取られ、そこでもまた取り調べを受け、琉球に着いてから1年半後、ようやく故郷の中濱村に帰ることができました。その後、すぐに万次郎は士分に取り立てられ、黒船来航後は幕府に招聘されて直参の旗本になり、激動の幕末にその存在感を示すこととなります。もし、万次郎が帰国したのが幕末と言われる時代でなければ、彼は単なる罪人でしかなかったかもしれません。ほんと、人生ってわからないものですね。

 ちなみに、「ジョン万次郎」という呼び名は、昭和13年(1938年)に直木賞を受賞した井伏鱒二の著書『ジョン萬次郎漂流記』で用いられて広まったもので、当時は、遭難した万次郎を助けた船名にちなんでジョン・マン (John Mungという愛称をアメリカ人からつけられていました。この点、ドラマは忠実でしたね。

 西郷吉之助(隆盛)は、このときはまだ斉彬に引き上げられておらず、万次郎に会うことはなかったでしょう。後年に万次郎は薩摩藩の洋学校(開成所)の英語講師として招かれますが、その頃の西郷は倒幕に向けて日本中を縦横無尽に飛び回っていた時期であり、万次郎と会っていた可能性は低いと思われます。二人の会う機会があったとすれば明治維新後だったでしょうが、記録は残っていません。お互い名前くらいは知っていたでしょうけど。



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by sakanoueno-kumo | 2018-02-12 00:01 | 西郷どん | Trackback(1) | Comments(0)