カテゴリ:幕末京都逍遥( 60 )

 

幕末京都逍遥 その61 「凝華洞跡(京都御苑)」

京都御所建礼門の南側にあったとされる凝華洞跡を訪れました。

ここは、かつて会津藩主の松平容保が、仮宿舎とした場所と伝えられます。


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元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変」(蛤御門の変)の際、京都御所を守っていたのは会津藩と薩摩藩でした。

その会津藩主の松平容保は、当時、京都守護職を務めていたので、事実上、薩会軍の大将だったわけです。


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ところが、容保は禁門の変の半年ほど前からを患っており、変当日も、両肩を家臣に抱えられながらの戦だったといいます。

そのため、朝廷の配慮によって凝華洞を仮宿舎としたそうです。

凝華洞は、江戸時代中期の後西天皇(第111代天皇)が、退位後の仙洞御所とした場所だそうで、そのような場所を仮宿舎として容保に与えたことからみても、孝明天皇(第121代天皇)が、いかに容保を頼りにしていたかがうかがえます。


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現在、凝華洞跡は小高い丘になっており、松の大樹が聳えます。

樹齢はわかりませんが、あるいは、往時を知っているかもしれません。


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凝華洞跡のすぐ北側に、御所南側の正門「建礼門」が見えます。

文久3年(1863年)の八月十八日の政変の際、かけつけた壬生浪士組がこの門を警護し、その功から、3日後の8月21日に「新選組」の名を賜ったとされるゆかりの門です。


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by sakanoueno-kumo | 2018-05-24 01:25 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その59 「近衛邸跡(京都御苑)」

京都御苑の北西の端にある、「近衛邸跡」を訪れました。

近衛家は藤原氏の流れをくむ藤原北家近衛流の嫡流にあたり、五摂家(近衛、鷹司、九条、一条、二条)のひとつです。

「幕末」と呼ばれる時代の当主は近衛忠煕で、前稿で紹介した九条尚忠のあと、関白に就任します。


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幕府第13代将軍・徳川家定の正室となった天璋院篤姫は、近衛忠煕の養女となったあと、徳川家に嫁ぎました。

篤姫は薩摩藩島津家の分家・今和泉島津家の出身で、将軍家に嫁ぐため、まずは本家で薩摩藩主の島津斉彬の養女となり、名を源篤子と改め、その後、江戸に向かう途中に京都に立ち寄り、近衛忠煕の養女となって、名を藤原敬子と改めます(この際、の名は君号となり、篤君(あつぎみ)となりました)。


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篤姫が忠煕の養女となったのは、忠煕の正室が斉彬の姉・郁姫だった縁からでした。

篤姫が京都に滞在したのは1週間ほどだったといいますが、たぶん、ここ近衛邸に滞在したのでしょうね。

ちなみに、篤姫の教育係で知られる幾島は、もとは忠煕の正室・郁姫付きの上臈だった女性で、ここ近衛邸で共に暮らしていました。


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近衛忠煕は安政4年(1857年)に左大臣となりますが、将軍継嗣問題一橋派に属し、戊午の密勅のために献策したため、「安政の大獄」により失脚し、落飾して謹慎に追い込まれます。

その後、復帰して関白に就任しますが、翌年に辞職し、以後は孫の養育に専念し、明治31年(1898年)、90歳まで長寿します。


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近衛邸跡にある池の畔には、「糸桜」と呼ばれる樹齢60年の枝垂れ桜があります。

ここを訪れたのは7月だったので、桜の写真はありません。

きっと綺麗なんでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2018-05-22 23:45 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その58 「九条邸跡(京都御苑)」

前稿で紹介した「鷹司邸跡」の西隣にあった「九条邸跡」を訪れました。

九条家は藤原氏の流れをくむ鎌倉時代の公卿・九条兼実を祖とする家系で、五摂家(近衛、鷹司、九条、一条、二条)のひとつです。

「幕末」と呼ばれる時代の当主は九条尚忠で、前稿で紹介した鷹司政通のあと、関白に就任します。


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安政5年(1858年)の日米和親条約締結にあたり、関白だった尚忠は幕府との協調路線を推進して条約許可を求めますが、不安をつのらせた若手の攘夷派公家たちの猛烈な反発を受け、中山忠能をはじめとする合計88名の攘夷派公家たちが、ここ九条邸前で抗議の座り込みを行いました。

いわゆる「廷臣八十八卿列参事件」です。

その中に、下級公家だった岩倉具視がいました。


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と称して参内を辞退した九条尚忠に対して、岩倉は面会を申し込みますが、同家の家臣たちは病を理由にこれを拒否。

しかし、岩倉は面会するまでこの場を動かず、根負けした尚忠は、明日返答する旨を岩倉に伝えました。

岩倉が九条邸を退去したのは午後10時を過ぎていたといいます。

その結果、孝明天皇(第121代天皇)は条約締結反対の立場を明確にし、以後、幕府からの勅許の要請を頑なに拒否することとなります。


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勅許を得られなかった責任を取る形で、幕府老中の堀田正睦は辞職に追い込まれ、孝明天皇の怒りを買った関白・九条尚忠も内覧職権を一時停止されました。

しかし、その後、幕府は大老・井伊直弼の独断で条約を締結し、同年、「安政の大獄」を開始。

88人の公家の中からも、多くの処罰者が出ることになります。


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現在、九条邸跡には九条池と呼ばれる池があり、美しい庭園が残されています。


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池の向こうに見える2階建ての建物は、茶室の「拾翠亭」です。

およそ200年前の江戸時代後期に建てられたものと伝えられています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-19 23:42 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その57 「鷹司邸跡(京都御苑)」

京都御苑内南端にある「鷹司邸跡」にやってきました。

鷹司家は鎌倉期に藤原氏から分かれた公家で、五摂家(近衛、鷹司、九条、一条、二条)のひとつです。

「幕末」と呼ばれた時代、鷹司政通・輔煕父子が関白を務めていました。


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鷹司政通は、文政6年(1823年)に関白となり、以後、黒船来航から日米和親条約締結後の安政3年(1856年)まで30年以上関白を勤めました。

孝明天皇(第121代天皇)からの信頼も厚く、関白を退いたあとも、異例の太閤の称号を贈られます。

当初は開国論に立って日米和親条約締結を主張する立場をとりますが、開国政策に不安をつのらせた若手の攘夷派公家たちが「廷臣八十八卿列参事件」を起こすと、一転して攘夷派となります。

これが幕府の怒りに触れるところとなり、「安政の大獄」に連座して落飾し、出家します。


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政通の子・輔煕も「安政の大獄」で処分されて出家しますが、その後、赦免されて還俗し、文久3年(1863年)には近衛忠煕の後を受けて関白に就任します。

しかし、同年に起きた「八月十八日の政変」三条実美らの帰京の運動をしたため、12月に免じられます。


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また、翌年に起きた「禁門の変」(蛤御門の変)に際しては、ここ鷹司邸に久坂玄瑞寺島忠三郎ら長州藩兵が立て篭もりました。

ギリギリまで慎重論を主張していた久坂は、戦いが始まってもなお、朝廷への嘆願をあきらめておらず、鷹司邸に入って孝明天皇への取り次ぎをすがりますが、輔煕はこれを拒絶。

このときすでに玄瑞の部隊は包囲されており、万策尽きた玄瑞は、共に行動していた同じ松下村塾同門の寺島忠三郎と邸内で刺し違えて自刃します。

玄瑞は自刃する直前、同じく腹を斬ろうとしていた同門の入江九一を制止し、急ぎ帰国して藩主父子の上洛を阻止するよう依頼しますが、不運にもその九一も、直後に鷹司邸の裏門で待ち伏せていた福井藩兵に槍で顔を突かれ、その衝撃で両眼が飛び出し、見るも無惨な死体となって転がりました。

玄瑞25歳、忠三郎22歳、九一は28歳でした。


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その後、鷹司邸は火を放たれて焼失します。

一説には、「どんどん焼け」と呼ばれる禁門の変時に発生した京都の過半を焼き尽くした火災は、ここ鷹司邸からはじまったとも言われます。

変の翌日に西郷隆盛大久保利通に宛てた書簡には、鷹司邸内へ逃げ込んだ長州兵を砲撃で火攻めにしたところ、堪りかねて敵兵は早々に逃げ去ったと記されています。

それが本当なら、京都まちを焼き尽くしたのは西郷ということになりますね。

まあ、それだけではなかったんでしょうけど。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-18 22:47 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その56 「清水谷家の椋(京都御苑)」

前稿で紹介した蛤御門を潜って100mほど東へ進んだ御所の南西の角のあたりに、「清水谷家の椋」と呼ばれるムクノキの巨樹があります。

元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変」(蛤御門の変)の際、長州藩の豪傑・来島又兵衛が、この木の下で自刃したと伝えられます。


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「清水谷家の椋」という名称は、この木のあたりに公家の清水谷家の屋敷があったことに由来します。

幹周は約4mあり、樹齢約300年と言われています。


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長州藩きっての武闘派として知られる来島又兵衛は、若年者が多かった幕末の長州藩士のなかでは、長老格でした。

何より猛々しさを重んじる又兵衛は、幕末より戦国時代に生まれたほうが似つかわしい人物で、藩士からの人望も厚かったようです。

禁門の変に際して、ギリギリまで慎重論を主張する久坂玄瑞に対して、怒気を飛ばして論破したのがこの又兵衛で、その気質のとおり、彼が強硬派の急先鋒でした。

変当日の又兵衛は、風折烏帽子に先祖伝来の甲冑を着込み、自ら遊撃隊600名の兵を率いて会津藩の守る蛤御門に猛然と攻めかけます。


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勇猛果敢な又兵衛の突撃によって、一時は長州軍が押しまくる展開となりましたが、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢は逆転

その薩摩藩兵の指揮官は、西郷吉之助(隆盛)でした。

西郷は馬上の又兵衛さえ討てば長州軍は撹乱すると見、配下の川路利良に狙撃を命じました。

しばらくして又兵衛は、胸を撃ち抜かれて落馬

死を悟った又兵衛は、自ら槍で喉を突いて自刃します。

それが、このムクノキの下だったと伝えられます。

享年47。


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ムクノキの向こうに見える塀は、御所の外塀です。

当時も同じように塀があったのかどうかはわかりませんが、御所の目の前で朝敵の汚名を着せられたままの討死は、さぞ無念だったに違いありません。

西郷のねらいどおり、この長州軍きっての豪傑の死から、長州軍の潰走が始まりました。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-17 23:36 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その55 「蛤御門(京都御苑)」

京都御苑外郭九門のひとつである「蛤御門」にやってきました。

元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変」の際、最も激戦地となった門として知られ、同変のことを「蛤御門の変」とも呼ばれることで周知の場所です。


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「蛤御門」の名称の由来は、御所の火災の際、滅多に開くことのなかった門がこの時だけは開いたため、固く閉じていたものが火にあぶられて開いたことをハマグリになぞらえて、「蛤御門」と呼ばれるようになったそうで、本来の正式名称は「新在家御門」なんだそうです。

その由来となった火災については、宝永の大火(1708年)後とする説と、天明の大火(1788年)後とする説が挙げられているそうです。


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現在の蛤御門は、明治10年(1877年)から明治16年(1883年)にかけて行われた大内保存および京都御苑整備事業によって移設されたもので、それ以前は現在よりも30mほど東の位置に、南を向いて建てられていたそうです。


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元治元年7月19日(1864年8月20日)、伏見、山崎、天龍寺の陣を出た長州藩兵は、まず、福原越後、益田右衛門介、国司信濃の3人が率いる隊が三方から京へ出撃しますが、対する会津藩兵桑名藩兵の守りは固く、行く手を遮られます。

そんな戦況のなか、来島又兵衛率いる隊が強引に突っ込んで御所の中立売御門を突破。

ここ、蛤御門に殺到しました。


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又兵衛の部隊は門扉を突き破って突入し、大激戦を演じます。

又兵衛自身は風折烏帽子具足、陣羽織を身にまとい、その出で立ちは元亀・天正の戦国武将さながらだったといいます。

そんな又兵衛の奮闘もあって、一時は長州軍が押しまくる展開となりましたが、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢は逆転

その薩摩藩兵の指揮官は、西郷吉之助(隆盛)でした。

西郷は馬上の又兵衛さえ討てば長州軍は撹乱すると見、配下の川路利良に狙撃を命じました。

しばらくして又兵衛は、胸を撃ち抜かれて落馬

死を悟った又兵衛は、自ら槍で喉を突いて自刃します。

享年47。

西郷のねらいどおり、この長州軍きっての豪傑の死から、長州軍の潰走が始まりました。


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門には、複数の弾痕がいまも残っています。


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おびただしい数の弾痕が、その激戦のほどを雄弁に語ってくれます。

このなかには、あるいは川路利良の撃ったものもあるかもしれません。


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戦いはわずか1日で終わりましたが、落ち延びる長州勢とそれを追う幕府勢の放った火で、晴天続きで乾燥状態にあった京のまちは、たちまち火の海と化します。

その戦火は3日に渡って燃え続け、堀川と鴨川の間、一条通と七条通の3分の2が焼き尽くされました。

『甲子兵燹図』に描かれたそのさまは地獄絵図さながらで、命からがら逃げおおせた人々も、山中から呆然と市中の火の海を眺めるばかりだったといいます。

一説には焼失戸数は4万2千戸ともいわれ、253の寺社、51の武家屋敷が焼けました。市民は家を失い、家族と離れ離れになり、まちは蝿のたかる死体が積み上がりました。

後世に伝わる「禁門の変」「蛤御門の変」といった呼び名は、戦を起こした当事者であるのちの明治政府が、この戦いをなるべく小さくみせるためにつけた名称で、当時の呼び方では、干支をとって「甲子(きのえぬ)の戦争」といわれたそうです。

戦争でいちばん辛い思いをするのは何の罪もない庶民だということですね。

21世紀のいまも変わらない事実です。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-16 23:10 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(4)  

幕末京都逍遥 その54 「京都御所」

京都御所にやって来ました。

言うまでもなく、明治維新までの天皇のお住い(内裏)ですね。

延暦13年(794年)に桓武天皇(第50代天皇)が平安京に遷都して以来、1000年以上の長きに渡って天皇のお住いは京都でしたが、当初の内裏は現在の京都御所よりも1.7km西の千本通り沿いにあったといわれ、現在の京都御所の場所は、「土御門東洞院殿」と言われた里内裏(内裏が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏)のひとつで、元弘元年/元徳3年(1331年)、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が京都を脱出した後に鎌倉幕府が擁立した光厳天皇(北朝初代天皇)がここで即位されて以降、明治2年(1869年)に明治天皇(第122代天皇)が東京に移られるまでの538年間、皇居として使用されてきました。


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写真は、京都御苑南から望む京都御所です。

はるか遠くに見えるのが、御所南面の入口「建礼門」です。


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こちらがその「建礼門」です。

御所の正門にあたる入口で、天皇が臨幸の際に開かれます。

文久3年(1863年)の八月十八日の政変の際、かけつけた壬生浪士組がこの門を警護し、その功から、3日後の8月21日に「新選組」の名を賜ったとされるゆかりの門です。


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建礼門のある御所南側の塀です。

東西約250mあります。


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上の写真は、東南にある「建春門」です。

唐破風の屋根で、勅使の出入りに用いられたそうです。


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こちらは北面にある「朔平門」


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他にも皇后門、清所門、宜秋門があるのですが、ごめんなさい、写真撮ってませんでした。

現在、御所の一般公開の出入り口は清所門となっています。

御所内のすべてが公開されているわけではありませんが、順路に従って見ていきましょう。


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写真は「御車寄」です。

公卿をはじめとする高位の貴族などが、天皇との対面のために使用した玄関だそうです。


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こちらは「諸大夫の間」

参内した公家や将軍家の使者の控室で、身分に応じて部屋が決まっていて、写真の右側にいくほど身分が高く、「虎の間」「鶴の間」「桜の間」と、ふすまの絵にちなんで呼ばれています。


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こちらは「新車寄」。

大正4年(1915年)、大正天皇(第123代天皇)の即位礼が行われた際、馬車による行幸に対応する玄関として新設されたものだそうです。


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こちらは、御所南面の建礼門を潜ってすぐの場所にある「承明門」

紫宸殿正門にあたります。


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承明門の向こうに紫宸殿が見えます。


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そして、こちらがその「紫宸殿」

京都御所において最も格式の高い正殿であり、即位礼などの重要な儀式がここで行われたそうです。

建物は安政2年(1855年)の造営だそうですが、伝統的な儀式が行われるように平安時代の建築様式で建てられています。

慶応4年(1868年)には、明治天皇がここで「五箇条の御誓文」を示されたそうです。


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こちらは紫宸殿の北西にある「清涼殿」

かつては天皇の住居だったそうですが、天正18年(1590年)に御常御殿に住居が移ってからは、主に儀式の際に使用されました。


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こちらは「小御所」

江戸時代は将軍や大名などの武家との対面や儀式の場として使用された場所で、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に発せられた「王政復古の大号令」の際、将軍・徳川慶喜および徳川家の処置を定めた「小御所会議」が行われた場所です。

明治天皇を「幼い」と発言した土佐の山内容堂に対し、岩倉具視「無礼者!」と一括したエピソードは有名ですね。

また、その岩倉具視に対して西郷隆盛が、短刀一本あれば片が付く」と言って反対派と差し違える覚悟を迫ったという逸話も、ここでのことです。


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こちらは小御所の北にある「御学問所」

慶応3年12月9日(1868年1月3日)、ここで明治天皇が「王政復古の大号令」を発せられました。

ちなみに、建物前のスペースは「蹴鞠の庭」だそうです。


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そして最後に、こちらが「御常御殿」

天正18年(1590年)以降の天皇のお住いでした。

「幕末」と言われる時代、ここにお住いだったのは孝明天皇(第121代天皇)でした。

この孝明天皇が大の外国人嫌いだったため、尊王攘夷派象徴的存在となり、やがてその思想が討幕の勢力となっていくのですが、当の孝明天皇自身は討幕の意志など毛頭なく、大の佐幕家だったんですね。

ここに、幕末の動乱のややこしさがあります。


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御常御殿前の庭園です。

この庭を眺めながら、孝明天皇は何を思っていたのでしょうね。

まさか、平安京が自身の代で終わることになるとは、夢にも思っていなかったことでしょう。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-15 22:56 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その53 「赤松小三郎遭難の地」

京都市営地下鉄烏丸線五条駅から東へ100mほど歩いて東洞院通を少し南下したあたりに、「贈従五位赤松小三郎先生記念」と刻まれた石碑があります。

ここは、信州上田藩士の赤松小三郎暗殺された場所です。


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赤松小三郎はそれほど有名ではありませんが、その経歴はあの坂本龍馬に似ています。

龍馬より先に勝海舟の門人となり、その従者として長崎海軍伝習所に赴き、航海術オランダ式兵学などを学びました。

慶応2年(1866年)には京都で私塾を開き、英国式兵学を教えました。

また、同時期には薩摩藩から兵学教授への就任を請われ、京都の薩摩藩邸において中村半次郎(のちの桐野利秋)や、のちに元帥海軍大将となる東郷平八郎ら約800人に英国式兵学を教えます。

一方で、慶応3年(1867年)には会津藩山本覚馬から依頼されて会津藩洋学校でも兵学を教えました。

討幕派、佐幕派のどちらにも兵学を教えたという珍しい経歴を持っています。


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赤松は、坂本龍馬が起草したとされる国家構想「船中八策」に先立つ慶応3年(1867年)5月に、前福井藩主の松平春嶽、薩摩藩国父の島津久光二院制国会創設など7項目の建白書「建白七策」を提出しています。

この建白書のなかで赤松は、二院制の議会の創設、選挙による議会政治、内閣総理大臣(赤松の訳語では「大閣老」)以下6人の大臣を議会が選出するという議院内閣制度など、現代にも通じる具体的な新国家構想を提唱しています。

一説には、龍馬の「船中八策」の原本が、この「建白七策」だったのではないかともいわれます(もっとも、「船中八策」の存在そのものを疑問視する見方もありますが)。

冒頭で、龍馬に似ていると述べましたが、龍馬が赤松の真似をしていたと考えたほうが正しいかもしれません。

赤松は慶応3年(1867年)8月に薩摩藩が長州藩と武力討幕計画を固めるなか、内戦の危機を回避しようと、薩摩の西郷隆盛小松帯刀、幕府の永井尚志らとギリギリまで交渉していた様子が兄宛の書簡からうかがえます。

これも、また龍馬と行動パターンが酷似していますね。

しかし、同年9月、京都から上田に帰る途中にこの地で待ち伏せていた中村半次郎(桐野利秋)らに暗殺されました。

その理由は、赤松が薩摩の軍事機密を知りすぎていたこと、薩摩の武力討幕路線に反対の立場だったことで、半次郎はその日記で、「幕奸だから斬った」と記述しています。

ただ、実行犯である半次郎が独断で行ったのか、あるいは半次郎に指示した人物がいたのかは定かではありません。

あるいは、半次郎に暗殺を指示したのは西郷だったんじゃないか・・・という見方もあるようですね。

このあたりも、龍馬暗殺の薩摩黒幕説と似ています。


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勝海舟への師事、航海術の習得、新国家構想の提言、そして暗殺。

どれもすべて坂本龍馬に先駆けていた赤松小三郎。

もうちょっと、スポットが当たってもいい人物なんじゃないでしょうか。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-12 20:50 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その52 「金蔵寺跡(坂本龍馬・お龍内祝言の地跡)」

前稿で紹介した土佐藩士たちの隠れ家で、元治元年(1864年)5月頃に出会った坂本龍馬お龍は、同年8月初旬に青蓮院塔頭金蔵寺祝言を挙げます。

現在、金蔵寺のあった場所には、「坂本龍馬 お龍 結婚式場跡」と刻まれた石碑が建ちます。


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後年のお龍の回顧録によると、2人の出会いは、龍馬の一目惚れにはじまったそうです。

そして、龍馬はお龍の母・にお龍を妻にしたいと申し入れ、出会って3ヵ月のスピード結婚となりました。

さすがは龍馬、行動力一級品です。

ただ、龍馬とお龍の祝言は「内祝言」、すなわち内々の結婚式でした。

このときの龍馬は神戸海軍操練所を拠点に江戸や京都や福井を行ったり来たりで、しかも、命を狙われる身でもあり、結婚を公にすることはお龍を身の危険に晒すことになると考えたからでしょう。

祝言を終えた龍馬は新婚生活を楽しむいとまもなく、お龍を伏見寺田屋に託します。

結婚後、いきなりの別居生活だったわけです。


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ドラマや小説などでは、慶応2年1月23日(1866年3月9日)伏見寺田屋遭難でお龍が裸で龍馬を助けたあと、避難した薩摩藩邸で西郷隆盛の媒酌のもとに2人は夫婦の契りを結んだように描かれることが多いですが、実はその説は根拠が薄く、お龍の回顧談を信じるべきでしょう。

2人の結婚はごく限られた者しか知らなかったため、そのような説が出たのでしょうね。

となれば、日本最初の新婚旅行として知られる霧島山の旅は、実はすでに新婚ではなかったことになりますね。


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2人が青蓮院塔頭金蔵寺で祝言を挙げたのは、おそらくお龍の亡き父が青蓮院で侍医を務めていた縁からだったのでしょう。

2人の結婚は今でいう恋愛スピード結婚で、どこか現代的ですね。

いかにも坂本龍馬とお龍らしいといえるでしょうか。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-11 00:18 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その51 「土佐志士寓居跡」

東山の三十三間堂南大門の南に、かつて土佐藩出身の尊攘派志士が隠れ家としていた邸がありました。

現在、塩小路通に「この付近 坂本龍馬 北添佶摩など土佐志士寓居跡」と刻まれた石碑が建ちます。


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土佐藩士たちが隠れ家とした家は、河原屋五兵衛という人物の隠居所だったそうです。

河原屋五兵衛という人について調べかつかなかったのですが、説明板には、「瓦屋の五郎兵衛の意か」と書かれていたので、おそらく武士ではないのでしょう。

この当時、豪商たちが志士のパトロンとして援助するといった話は、よくあることでした。

ここに、石碑に刻まれた坂本龍馬北添佶摩をはじめ、中岡慎太郎望月亀弥太などが隠れ住んでいたといいます。

ここで、龍馬の妻となるお龍の母・と妹の君江が賄いとして働いていたんですね。

その縁で、龍馬とお龍が出会います。

まさに、ここが2人の出会いの場だったんですね。

時は元治元年(1864年)、 お龍24歳、龍馬30歳でした。

2人の出会いについて、お龍は回顧録で次のように語っています。


「名前は、聞かれ、『お龍』 と答えると 『わしと同じじゃ』 と二人はすぐに打ち解けました。お互いの身の上話で大いに盛り上がりました」(『千里駒後日譚』より)


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現地説明板によると、ここが土佐藩士たちの隠れ家だったことが、お龍の晩年の回想録「反魂香」に記録されているそうです。

それによると、「大仏南の門今熊の(野)道」の河原屋五兵衛の隠居所を借りて、「中岡慎太郎、元山(本山)七郎(北添佶磨)、松尾甲之進(望月亀弥太)、大里長次郎(大利鼎吉)、菅野覚衛(千屋寅之助)、池倉太(内蔵太)、平安佐輔(安岡金馬)、山岡甚馬、吉井玄蕃、早瀬某、等」と同居していたといいます。

これが事実かどうか、ながくわからなかったのですが、これを裏付けたのが、お龍の回想にも出てくる北添佶磨の書簡(元治元年(1864年)5月2日母宛)でした。

そこには、「私儀は此節は、洛東東山近辺瓦屋町と申す処へ居宅を借受け、外に同居の人五・六人も之れあり不自由なく相暮し居候」と記されており、ここの南向いの地名はいまも「本瓦町」で、北添が龍馬らと暮らしていた地であったにちがいないということになったそうです。


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北添の書簡から約1ヶ月後の元治元年6月5日(1864年7月8日)に起きた池田屋事件の際、ここも京都守護職などの役人に踏み込まれました。

龍馬らは不在でしたが、貞や君江などが連行されたそうです(まもなく釈放)。

ちなみに北添は池田屋事件で落命します。

その後、8月初旬、龍馬とお龍は青蓮院塔頭金蔵寺祝言を挙げることとなります。

次稿では、その祝言の地を訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-10 01:23 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)