カテゴリ:幕末京都逍遥( 152 )

 

幕末京都逍遥 その152 「城南宮」

「その150」で紹介した小枝橋から300mほど東にある城南宮は、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いの際、薩摩軍が陣を布いた場所です。


e0158128_22125244.jpg


鳥羽街道を北上してきた旧幕府軍に対して、薩摩藩を中心とする新政府軍は、ここ城南宮から小枝橋方面に東西に長い陣を布いて北上軍への備えとしました。


e0158128_22125613.jpg

境内には、鳥羽・伏見の戦いを説明する駒札が建てられています。


e0158128_22104836.jpg

この大鳥居からの参道に、薩摩軍の大砲がズラリと並んでいたと伝えられ、明治に入って描かれた合戦絵巻にも、ここに大砲が並んでいる様子が描かれています。

「その150」でも紹介しましたが、鳥羽・伏見の戦いの戦端は、薩摩軍が放った一発の砲によって開かれました。

その最初の砲は、ここ城南宮に置かれた砲だったという説もあります。


e0158128_22163989.jpg


ニノ鳥居です。


e0158128_22165363.jpg


舞殿です。


e0158128_22172266.jpg


わたしがここを訪れたとき、本殿は改修工事中でした。


e0158128_22193939.jpg


後年、西郷隆盛が鳥羽・伏見の戦いを回顧して、

「鳥羽一発の砲声は百万の味方を得たるよりも情しかりし」

と語って笑ったという有名なエピソードがありますが、薩摩は、自分たちが起こした革命を完成させるため、手に入れた権力を盤石にするために、どうしても戦争がしたかったんですね。

だから、一旦は恭順を公言していた旧幕府軍を挑発し、無理にけしかけて戦争に持ち込みます。

しかも、偽の錦旗まで用意して。

これって、すでに瀕死の状態にある日本に対して、戦争を終らせるためといって原爆を投下したアメリカ軍と同じですよね。

歴史を否定するつもりはありませんが、歴史を歪曲して賛美するのも好きではありません。

鳥羽・伏見の戦いは「義戦」ではありません。

薩長と旧幕府との「私戦」です。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-10-20 00:01 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その151 「鳥羽離宮跡」

「その150」で紹介した小枝橋の石碑が建つ場所のすぐ南側に、鳥羽離宮跡があります。

鳥羽離宮は平安時代後期に白河天皇(第72代天皇)、鳥羽天皇(第74代天皇)、後白河天皇(第77代天皇)院政を行った御殿があったところです。

ここも、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦い時には戦場となりました。


e0158128_21590295.jpg


現在、鳥羽離宮跡は鳥羽離宮公園として整備されています。


e0158128_22012366.jpg
e0158128_21590686.jpg


公園の北側に、かつて鳥羽離宮の庭園の築山だった「秋の山」という小さな丘があるのですが、その傍に、説明板と案内板が設置されています。


e0158128_22014967.jpg


前稿で紹介した小枝橋での戦端が説明されています。

ただ、気になったのは最後の一文


新しい時代「明治」、ここ伏見から始まったともいえます。


とあります。

「その146」でも述べましたが、わたしは、鳥羽伏見の戦いを含む戊辰戦争は、する必要のなかった戦争だと思っています。

なので、この鳥羽・伏見の戦いがあったからこそ日本は近代国家を築けたかのような表現は好ましく思えません。

わたしなら、こう記します。

「翌年の函館五稜郭の戦いまで続く凄惨な内戦は、ここ伏見から始まりました。」と。


e0158128_22015295.jpg


説明板の横には、鳥羽・伏見の戦いの布陣図碑があります。


e0158128_22035181.jpg


秋の山の頂には、鳥羽・伏見の戦い顕彰碑が建てられています。


e0158128_22035443.jpg


碑文は漢文なのでよくわかりませんが、薩摩藩出身の元官僚で、黒田清隆内閣総理大臣だったときにはその秘書官を務めてのちに貴族院議員となった小牧昌業撰とありますから、おそらく、鳥羽・伏見の戦いを賛美する文章が刻まれているのでしょう。

公園では少年野球の子どもたちが元気いっぱいに汗を流していました。

かつて、ここで多くの無用の血が流れたなんて、彼らは知らないでしょうね。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-10-18 23:23 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その150 「鳥羽伏見の戦い勃発地(小枝橋)」

伏見から3kmほど北上した鳥羽地区に移動します。

名神高速道京都南ICから少し南下して西へ折れると、南北に流れる鴨川にあたるのですが、そこに小枝橋という鴨川に架かる橋があります。

この橋は、鳥羽・伏見の戦い戦端が開かれた場所と伝わります。


e0158128_21521431.jpg


慶応4年1月2日(1868年1月26日)、薩摩藩との戦いを決意した徳川慶喜は、朝廷の判断を仰ぐために1万5千の大軍を大坂から京へ進めます。

その進軍ルートは2つ、会津藩・桑名藩・新選組「その147」で紹介した伏見奉行所を目指し、旧幕府軍鳥羽街道を北上して洛中を目指しました。

これに対して薩摩藩を中心とした新政府軍は、ここ小枝橋から東にある城南宮に向けて東西に長い陣を布いて北上軍への備えとし、また「その146」で紹介した伏見の御香宮にも砲兵部隊を配置します。


e0158128_21521757.jpg


3日午前、旧幕府軍と新政府軍が、ここ小枝橋で接触します。

旧幕府軍を率いていたのは大目付滝川具挙でした。

滝川はこの1週間前の慶応3年12月25日(1868年1月19日)に起きた江戸の薩摩藩邸焼討事件の報を慶喜にもたらし、江戸での薩摩藩士の横暴を説き、旧幕府軍を強硬論に導いた人物でした。


e0158128_21522143.jpg


滝川は立ちふさがった新政府軍に対して「将軍様が勅命で京に上がるのだから通せ」と要求します。

ところが、ここを守備していた薩摩藩の椎原小弥太は、「朝廷に確認するまで待て」と、行く手を阻みます。

そこから長時間にわたって「通せ」「通さない」押し問答が繰り返され、このままでは埒が明かないとしびれを切らした滝川は強行突破を試みますが、これに対して新政府軍が発砲し、これをきっかけに戦闘がはじまります。


e0158128_21522808.jpg


この砲声は3kmほど南の伏見にも届き、それを合図に同時スタートのように戦闘が始まりました。

こうして鳥羽・伏見の戦いが起こります。


e0158128_21522436.jpg


現在の小枝橋です。

当然ですが、いまは鉄筋コンクリート製です。


e0158128_21523249.jpg


当時の小枝橋は、ここより少し南に架かっていたそうです。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-10-17 23:12 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その149 「魚三楼(弾痕)」

「その147」で紹介した伏見奉行所の近くにある料亭・魚三楼には、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に勃発した鳥羽・伏見の戦いにおける銃撃戦でできたとされる弾痕があります。


e0158128_21380140.jpg


城下町である伏見は、L字路、T字路といった敵から見通せないように工夫された街路がいくつも組み合わさった「遠見遮断」と言われる構造になっています。

そのため、鳥羽伏見の戦いの際には、見通しの悪い街路を挟んで激しい市街戦が繰り広げられ、沿道の家屋の多くも戦災に遭いました。


e0158128_21392750.jpg


この魚三楼があった京町通も激戦の舞台となりました。

そのときの弾痕と伝えられるのが、表格子に残るこれです。


e0158128_21404944.jpg


生々しいですね。


e0158128_21405219.jpg


現在も残されている「両軍伏見市街戦概要図」では、この京町通りの南側に新選組が布陣していたといわれているそうで、あるいは、新選組の残した弾痕かもしれません。

このとき最も勇敢に戦ったといわれるのが、土方歳三率いる新選組と、林権助率いる会津砲兵隊だったと言われています。


e0158128_21423250.jpg


魚三楼は明和元年(1764年)創業という歴史をもつそうです。

鳥羽伏見の戦いでは、薩摩軍のまかないも担当していたといいます。

この戦いで伏見一帯は焼け野原になりますが、幸い、この建物は焼失を免れ、この弾痕を後世に伝えてくれました。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-10-13 00:20 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その148 「伏見口の戦い激戦地跡」

「その137」 「その138」で紹介した寺田屋のすぐ西側にある京橋の傍に、「伏見口の戦い激戦地跡」と刻まれた石碑があります。


e0158128_23233784.jpg


京橋は宇治川に注ぐ川に架かる橋です。

江戸時代、京橋周辺は船着場として栄えました。

寺田屋がその船着場の旅館として幕末ににぎわっていたという話は、以前の稿でお話ししたかと思います。


e0158128_23234209.jpg


鳥羽・伏見の戦いの火蓋が切られる前日の慶応4年1月2日(1868年1月26日)夕刻、会津藩の先鋒隊約200名が大坂から船でここに上陸しました。

その際、会津軍の進軍を阻止すべく立ちはだかった薩摩軍小競り合いになり、やがて銃撃戦となります。

鳥羽伏見の戦いの前哨戦ですね。

その中には、「その147」で紹介した伏見奉行所から駆け付けた新選組の面々もいました。


e0158128_23234553.jpg


翌日も小競り合いは続き、そうこうしているうちに鳥羽方面から砲声が聞こえ、鳥羽・伏見の戦いが始まります。


e0158128_23234922.jpg


石碑の建つ京橋から川を見下ろします。

現在、雁木などが復元され、当時を思わせる景観が楽しめます。


e0158128_23252686.jpg


観光客を乗せた十石舟が走っています。


e0158128_23252914.jpg


戦いは薩長軍の勝利に終わり、退却する会津軍、新選組が民家に火を放ちながら淀方面へ敗走したので、このあたりの多くの民家が焼かれ、大きな被害を受けたそうです。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-10-12 00:48 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その147 「伏見奉行所跡」

「その146」で紹介した御香宮神社から200mほど南下したところに、かつて伏見奉行所がありました。

現在、その跡地には石碑が建てられ、往時を思わせるが演出されています。


e0158128_23110565.jpg


慶応3年12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令が下されると、4日後の12月13日に会津藩の命を受けた新選組は、伏見方面の治安維持の名目で伏見奉行所へ駐屯することとなります。

そして16日には、近藤勇を隊長に総勢150名が伏見奉行所に入りました。


e0158128_23134540.jpg


ところが、その2日後に近藤勇は、伏見奉行所へ帰る途中に伏見街道の墨染で狙撃され、肩を撃たれて重傷を負ってしまいます。

その後、新選組の指揮は副長の土方歳三が執ることとなります。


e0158128_23162127.jpg


年が明けた慶応4年1月3日(1868年1月27日)に鳥羽・伏見の戦いの火蓋が切られると、伏見奉行所の兵は大手筋を挟んで目と鼻の先にある御香宮神社に陣を布く薩摩軍と激戦を交わします。

しかし、火力に歴然とした差があり、やがて伏見奉行所は炎上、土方率いる旧幕府軍は、撤退を余儀なくされます。

このときの戦いで、土方はもはや剣の時代が終わったことを悟ったといいます。


e0158128_23162677.jpg


維新後、伏見奉行所の跡地は陸軍の土地となり、工兵隊の基地になりました。

伏見奉行所の石碑の向かい側には、「伏見工兵第十六大隊跡」と刻まれた石碑があります。

基地は第二次世界大戦後に米軍に接収され、その後、米軍から返還されると、市営住宅が建てられ、現在は桃楼団地という団地街になっています。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-10-11 01:29 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その146 「御香宮神社(薩摩軍本営跡)」

伏見にある御香宮神社を訪れました。

ここは、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで、薩摩藩の本営が置かれていた場所です。


e0158128_13155412.jpg


御香宮神社の創建の由緒は不詳ですが、貞観4年(862年)に社殿を修造した記録があるほど古い神社です。


e0158128_13215402.jpg


現地説明板によると、慶応3年12月9日(1868年1月3日)、王政復古の大号令が下されますが、その2日前の12月7日、ここ御香宮神社の表門に「徳川氏陣営」と書いた大きな木礼が掲げられました。

ところが、その翌日に薩摩藩士の吉井幸輔(のちの友実)がその札を外し、ここに部隊を置いたのが最初だそうです。


e0158128_13183891.jpg


やがて年が明けた慶応4年1月2日1868年1月26日)、徳川慶喜は大軍を率いて大阪より進軍し、その先鋒が翌3日の午後に伏見京橋に着きます。

そこで薩摩藩士との間に小ぜり合いがおこり、そうこうしていると鳥羽方面から砲声が聞こえてきたので、これをきっかけに、御香宮神社の東側台地に砲兵陣地を布いていた大山弥助(のちの巌)の指揮により、御香宮と大手筋を挟んで目と鼻の先にある伏見奉行所の幕軍に対して砲撃を開始します。

敵方の陣営より少し高い位置にあったこの地は、砲撃にはもってこいの場所だったようです。


e0158128_13184231.jpg


これに対して土方歳三の率いる新選組は、砲撃の火蓋切って応戦しますが、やがて薩摩軍の放った砲弾が奉行所を炎上させ、新選組をはじめとした旧幕府軍は徹底を余儀なくされ、市街戦へと持ち込まれました。


e0158128_13184543.jpg


新選組二番組隊長である永倉新八は、島田魁、伊藤鉄五郎など10名の配下とともに重い甲冑を脱いで身軽となり、「決死隊」と称して御香宮神社の薩摩本営に向けて斬り込んできますが、戦局を変えることができぬまま圧倒的な火力の前に撤退させられています。


e0158128_13231772.jpg


本殿です。

激戦のなか、奇跡的に戦火を免れました。


e0158128_13254072.jpg


境内には、「明治維新伏見の戦跡」と刻まれた石碑があります。


e0158128_13254363.jpg


明治100年を記念して建てられたもののようで、揮毫は当時の内閣総理大臣佐藤栄作によるものだそうです。


e0158128_13270030.jpg


その横には、説明版が。


e0158128_13254615.jpg


説明板の最期には、こうあります。

「かくて明治維新の大業はこの一戦に決せられたのである。即ち我国が近代国家に進むか進まぬかは一に繋ってこの一戦にあったのである。この意味において鳥羽伏見の戦は我が国史上、否世界史上まことに重大な意義を持つわけである。」


見事な薩長史観ですね。

このような戦争賛美の文面を内閣総理大臣の名が記された看板でうたうのは、いかがなものでしょう?


e0158128_18412638.jpg


ここからは私見ですが、わたしは、鳥羽伏見の戦いを含む戊辰戦争は、する必要はなかった戦争だと思っています。

幕府はすでに政権を朝廷に返上しており、王政復古の大号令の名のもと、新時代のイニシアティブは薩長にありました。

もちろん、旧幕臣たちの不満の火種が各地で燻ってはいましたが、そのトップである徳川慶喜が恭順を示していたのだから、本来、戦をする理由はなかったのです。

ところが、自分たちが起こした革命を完成させるため、手に入れた権力を盤石にするために、薩長は無理にけしかけて戦争に持ち込みます。

しかも、偽の錦旗まで用意して。

そうしてできたのちの明治政府が、この戦いを「義戦」と位置付けるんですね。

戦争に「義戦」なんてものはありません。

戦争は単なる「勢力争い」です。

戊辰戦争は、薩長の新政権が、いったんは白旗を挙げている旧政権に対して、無理やりけしかけて兵を挙げさせ、再び息を吹き返さないように息の根を止めた戦争です。

明治維新から150年が過ぎて平成も終わろうとしている今、そろそろ薩長史観から脱却せねばなりません。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-10-09 21:25 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その145 「伏見土佐藩邸跡」

前稿伏見長州藩邸跡前々稿伏見薩摩藩邸跡を見て回ったので、となれば、次は土佐藩邸跡に行かないわけにはいきません。


e0158128_13125123.jpg


土佐藩邸跡の石碑は、長州藩邸から300mほど東に建てられています。


e0158128_13125950.jpg


慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで、土佐藩兵は警備についてはいましたが、前藩主山内容堂は、この戦いは薩摩・長州会津・桑名私闘と考え、戦いに参加しないように藩士たちに命じていました。

前年に薩摩藩と同盟を結んでいた土佐藩でしたが、土佐藩は薩長と少し事情が違っていました。

関ヶ原の戦いで徳川家に楯突いた島津家、毛利家と違い、山内家は関ヶ原の戦いの戦功で土佐国24万石を与えられた歴史を持つ徳川家恩顧の大名でした。

なので、容堂としては、できるだけ徳川家と敵対したくなかったんですね。


e0158128_13130584.jpg


しかし、藩大目付の板垣退助が、戦いが起こったときには薩摩藩に味方するように藩士たちに言い含めていたため、一部の兵が容堂の命令に背いて薩摩藩に加わり戦いました。

板垣はもとより武力倒幕論の持ち主で、薩長に遅れまいと水面下で動いていたんですね。

その甲斐あって、のちの明治政府では土佐藩が薩長土肥3番手の座に座ることとなります。

しかし、1、2番手と3番手の差は、あまりにも大きかったのですが。


e0158128_13130997.jpg


伏見薩摩藩邸跡の石碑には坂本龍馬の名が刻まれていましたが、こちらには石碑にも説明板にもまったくその名がありません。

寺田屋には頻繁に出入りしていた龍馬でしたが、ここ土佐藩邸には寄り付くことはほとんどなかったようです。

脱藩浪士という立場ですから、当然ですが。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-10-06 15:01 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その144 「伏見長州藩邸跡」

前稿伏見薩摩藩邸跡を紹介したので、続いて伏見長州藩邸跡を訪れないわけにはいきません。

薩摩藩邸跡より800mほど南下した寺田屋の近くに、長州屋敷がありました。


e0158128_21401320.jpg


現地説明板によると、長州藩邸がこの地に置かれたのは江戸時代中期ごろと考えられているそうです。


e0158128_21411291.jpg


元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変(蛤御門の変)」の際、長州軍は嵯峨天龍寺山崎天王山、そして、ここ伏見長州藩邸の3ヶ所に陣を布き、進軍を開始しました。

嵯峨天龍寺に来島又兵衛が、山崎天王山には久坂玄瑞や久留米藩士の真木和泉が、そして、ここ伏見には家老の福原越後(元僴)が宿営していました。

変当日、福原越後率いる500の兵は、竹田街道から北上すべく進軍しましたが、途中で会津、桑名、大垣藩と遭遇して衝突。

しかし、多勢に無勢で敗走し、一度藩邸に戻ったうえで体制を整えようとするも、京橋から彦根藩の砲撃を受け、ここ伏見藩邸も焼失してしまいました。

結局、戦いは1日で決し、長州軍の大敗北で幕を閉じます。


e0158128_21443552.jpg


その後、福岡は帰国しますが、第一次長州征伐の戦後処理に際して、交渉に来た薩摩藩の西郷隆盛の要求によって、福原越後は他の二家老とともに切腹の沙汰を受けました。

享年50。


e0158128_21432141.jpg


伏見の藩邸を失った長州藩は、以後、鳥羽・伏見の戦いまで京都に足を踏み入れることができなくなります。

もっとも、水面下では他藩士に扮して多くの長州藩士が紛れ込んでいたようですけどね。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-10-05 01:49 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その143 「伏見薩摩藩邸跡」

前稿で紹介した大国寺から西に100mほど歩いたところに、「薩摩島津伏見屋敷跡」と刻まれた石碑があります。

江戸時代、ここに伏見薩摩藩邸がありました。


e0158128_21323454.jpg


徳川幕府は第3代将軍徳川家光以後、約230年間、江戸にこもって京都にやってきませんでした。

そのため、原則として諸大名にも上洛を禁じました。

西国大名が参勤交代のため江戸と本国を往復するときも、京都ではなく伏見を通りました。

なので、西国諸藩は伏見に拠点となる藩邸を置いていたんですね。


e0158128_21330400.jpg


島津斉彬の養女として第13代将軍徳川家定に輿入れすることとなった篤姫も、薩摩から江戸にむかう途中の嘉永6年9月29日(1853年10月31日)、この屋敷に入ったと伝わります。

篤姫はここを拠点に、10月2日に洛中の近衛家へ、同4日に東福寺を訪問し、同5日に萬福寺を訪問し、同6日に伏見を発ちました。

篤姫は以後、一度も京都を訪れないので、この地は彼女の生涯たった1度の「京都観光」の宿舎だったわけですね。

石碑の側面には、「天璋院篤姫洛中洛外滞在時の宿泊地」と刻まれています。


e0158128_21344500.jpg


また、石碑の反対側の側面には「坂本龍馬 寺田屋脱出後 避難之地」と刻まれています。

「その138」で紹介した寺田屋において、慶応2年1月23日(1866年3月9日)に襲撃されて負傷した坂本龍馬は、「その141」で紹介した材木小屋に身を潜めたあと、長府藩士の三吉慎蔵やのちに妻となるお龍の通報によって助け出され、ここ薩摩藩邸に保護されました。

薩摩藩邸の石碑に土佐人の名が刻まれるというのも、珍しいですね。


e0158128_21341534.jpg


その後、薩摩藩邸は鳥羽・伏見の戦い時に会津藩兵らによって焼き払われました。

現在、その跡地は酒造会社の敷地になっています。


「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-10-04 00:09 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)