カテゴリ:幕末京都逍遥( 167 )

 

幕末京都逍遥 その167 「臥雲山即宗院」

「その164」で紹介した東福寺の塔頭のひとつである臥雲山即宗院は、薩摩藩ゆかりの寺院として知られています。


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即宗院は、南北朝時代の元中4年(1387年)に薩摩国の守護大名だった6代目・島津氏久の菩提を弔うため創建されました。

その後、永禄12年(1569年)に火災で焼失しますが、慶長18年(1613年)、島津家久よって再興され、以来、薩摩藩の畿内菩提所となりました。


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即宗院が建立される以前は、関白・藤原兼実が晩年に営んだ山荘「月輪殿」があったとされます。

その名残を感じさせる庭園は現在京都市名勝に指定され、紅葉の名所としても知られています。


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幕末、島津斉彬の養女として第13代将軍徳川家定に輿入れすることとなった篤姫も、薩摩から江戸にむかう途中の嘉永6年10月5日(1853年11月5日)に、ここを訪れたという記録が残っています。


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境内の奥へと進むと、かつて採薪亭という茶亭があった場所があります。

安政の大獄の嵐が吹き荒れた安政5年(1858年)、ここにあった採薪亭で西郷隆盛と清水寺塔頭・成就院の住職・月照が、たびたび密議を交わしていたと伝えられます。


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採薪亭の跡地には「西郷隆盛密議の地」と書かれた説明書が立っています。


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ここ即宗院は、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで薩摩軍の屯所となりました。

鳥羽・伏見の戦いから会津戦争までの薩摩藩士の戦死者は524名とされています。

西郷隆盛は、その戦死者を弔うための薩摩藩士東征戦亡之碑を、ここ即宗院に建立します。


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その碑は、境内の裏山にあります。


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石段を登りきると石の鳥居があり、その奥の玉垣に囲まれた空間に石碑があります。


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正面には、西郷隆盛が藩士の霊を供養するために斎戒沐浴し、524霊の揮毫を行ったという石碑が5基、整然と並びます。


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これらすべて、西郷の揮毫といわれています。

この中には、西郷隆盛のすぐ下の弟で西郷従道の兄にあたる西郷吉二郎の名が刻まれているというのですが・・・。


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ありました・・・って、よく見ると「西郷宗次郎」となっていますね。

別人なのか、あるいは変名なのか、それとも誤記なのか・・・でも、弟の名前を間違えたりしないですよね。


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いちばん奥には、篆額「東征戦亡之碑」と記された石碑が建ちます。

その下の碑文は漢文なので詳しくはわかりませんが、「慶應之役其」という書き出しから想像するに、戊辰戦争の概要を記した文章だと思われます。

で、文末を見ると・・・。


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「西郷隆盛 謹書」とあります。

西郷の本当の名は「隆永」で、「隆盛」は父の名を間違って登録してしまったものだったため、西郷は終生、手紙などで「隆盛」の名を使ったことはなかったといいますが、公式な文書などでは、「隆盛」と記していました。


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過日、大阪歴史博物館で行われていた「西郷どん展」を観覧してきたのですが、そこで、ここ「薩摩藩士東征戦亡之碑」の設計図が展示されていました。

そこで紹介されていた文によると、除幕式に西郷は参列し「南洲翁の姿はフロックコートに白羽二重の帯に草履を履き、大小を手挟み、しずしず霊前にしばしもくとう、おもむろに祭文を読まれ、しばらくして、涙、滂沱として慟哭また慟哭、声なく全軍の士また貰い泣き、また慟哭」と、西郷の下僕だった永田熊吉が回想しています。


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せっかくなので石碑の前で記念撮影。


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この奥にある墓地には、人斬り新兵衛の異名で知られる田中新兵衛や、生麦村で大名行列を横切る英国人に斬りつけた奈良原喜左衛門、イギリス公使・パークス襲撃事件で負傷しながらも襲撃犯からパークスを守った中井弘などの墓があるそうですが、一般の方の墓もあるということで、残念ながら観光客は立入禁止でした。

最後に、石段を降りる際に目の前に広がっていた紅葉に彩られた景色をアップします。


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さて、明治維新150年にあたる年を記念して、今年2月から「幕末京都逍遥シリーズ」を続けてまいりましたが、本稿をもってひとまず終わりにさせていただきます。

167稿に渡った幕末史跡ですが、これを巡るのに、約2年かかりました。

1日で4~5ヶ所まわっていたのですが、30~40回は京都に足を運んだんじゃないでしょうか。

神戸から京都は、同じ関西ではあっても決して近くはなく、交通費も結構かかります。

われながら、よくやったなあと・・・。

楽しかったですけどね。

ただ、結構くまなく調べたと思っていますが、わたしの知らない幕末史跡が京都にはまだ残っているかもしれません。

そのときは、また続きをやろうと思いますので、その際はまたお付き合いください。




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by sakanoueno-kumo | 2018-11-24 03:50 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その166 「退耕庵(戊辰役殉難士菩提所)」

「その164」で紹介した東福寺の塔頭のひとつである退耕庵は、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで、東福寺とともに長州軍のが布かれた場所です。

そして戦後、長州藩戦死者の菩提所となりました。


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現在、山門の横には、「戊辰役殉難士菩提所」と刻まれた石碑が建ちます。


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駒札の説明書きによると、退耕庵は貞和2年(1346年)東福寺第43世住持性海霊見によって創建され、応仁の乱の災火により一時荒廃しましたが、慶長4年(1599年)に安国寺恵瓊によって再興されたそうです。


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茶室・作夢軒は、再興の際に恵瓊によって建てられたもので、豊臣秀吉の没後、ここで、恵瓊、石田三成、宇喜多秀家らが、関が原の戦いの謀議を行ったと伝えられているそうです。

それはすごい。


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ここが長州藩戦死者の菩提所となったのは、恵瓊が住持したということで毛利家との縁も深かったのかもしれませんね。


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維新後、「その78」で紹介した尊攘堂を建てて勤王の志士を慰霊に力を注いでいた品川弥二郎は、長州と退耕庵との浅からぬ縁に鑑み、明治27年(1894年)退耕庵維持会を作って後援していたそうです。

ここの本堂には、「その165」で紹介した防長藩士の墓に眠る48人の位牌が安置されています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-11-23 01:46 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その165 「鳥羽伏見の戦い防長藩士の墓」

東福寺の山門から南東に100mほど歩いたところに、「その164」で紹介した「防長忠魂碑」に刻まれていた鳥羽・伏見の戦いで戦死した48名の墓があります。


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山門をくぐって東へ坂道を上っていくと、「右 維新戦役 防長藩士之墓道標」と刻まれた石碑があります。

ここから、石畳の坂を登っていきます。


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この道は、頂上にある仲恭天皇陵に続く参道です。

防長藩士の墓は、この坂を上りきる手前にあります。


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ここが防長藩士の墓所です。

高さ150cmほどの同じ大きさの墓碑が整然と並びます。


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鳥羽・伏見の戦いは慶応4年1月10日(1868年2月3日)に終わり、特に激戦だった千両松の戦い(参照:その155)で戦死した石川厚狭介を含む長州藩士の24名の遺体がここに運ばれ、1名ずつ木の墓標が建てられて埋葬されました。

そして、東福寺塔頭の退耕庵菩提所となり、毎年1月4日を命日として慰霊祭が執行されるようになったそうです。

これをバックアップしていたのが、維新後、子爵となった品川弥二郎でした。

晩年の品川は「その78」で紹介した尊攘堂を建てて勤王の志士を慰霊に力を注いでいました。


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その後、明治33年(1900年)の三十三回忌14名の戦傷病死者が追祀され、さらに、


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大村益次郎襲撃に遭遇して闘死した静間彦太郎なども加えられて現在の48基になり、これに合わせて墓標が現在の石標に替えられ、墓地も整備されたそうです。


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左が、千両松の戦いで戦死した石川厚狭介の墓です。


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右側が静間彦太郎の墓。


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墓所敷地中央には、三十三回忌の際に設置された大石灯籠があります。


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「崇忠之碑」と刻まれたこちらの石碑も、三十三回忌の際に設置されたそうです。

碑文は幕末から明治にかけて活躍した長州藩出身の国学者・近藤芳樹


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墓所の上に見えるのは、鎌倉時代の第85代・仲恭天皇九條陵です。

時代はまったく違いますが、ここに眠るのは皆、勤王の志士たち。

天皇陵に見守られながら眠るのは、志士の本懐だったかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-11-18 01:36 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その164 「東福寺」

東山九条にある東福寺を訪れました。

ここは、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで長州軍の本陣が布かれた場所です。


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嘉禎2年(1236年)、摂政の九条道家が九條家の氏寺として建立したと伝わる東福寺は、京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄え、明治の廃仏毀釈で規模が縮小されたとはいえ、今なお25か寺の塔頭を有する大寺院です。


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東福寺は紅葉の名所としても知られています。

わたしがここを訪れたのは平成29年(2017年)11月26日で、観光客でたいへん賑わっており、庭園はほとんど牛歩状態でした。


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東福寺は東山の東南端、伏見と接する位置にあります。

大坂城から鳥羽街道を北上して鳥羽と伏見の2方に分かれた幕府軍に対して、長州軍は主に伏見方面の戦闘を担当しました。


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山門の横には、「維新戦役忠魂之碑」が建てられています。


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篆額は山縣有朋の書だそうです。

大正6年(1917年)11月に行われた長州藩殉難の士五十回忌に建てられたそうで、表には戊辰戦争の概略と長州軍の活躍をたたえた文面、裏には鳥羽・伏見の戦いで戦死した48名の名前が刻まれています。


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その横には「防長忠魂碑」と刻まれた石碑も。


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せっかくなので、紅葉の写真をアップしておきます。


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鳥羽・伏見の戦いは1月だったので、紅葉は散ったあとですね。

長州藩にとっては、文久3年(1863年)の八月十八日の政変で追放されて以来、約4年半ぶりの入京がここ東福寺だったわけです。

断腸の思いで見た景色だったんじゃないでしょうか。




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by sakanoueno-kumo | 2018-11-17 01:21 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その163 「東寺」

舞台は洛中に戻って、世界遺産に指定されている東寺にやってきました。

ここは、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで薩摩軍の本陣が布かれた場所です。


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周知のとおり、鳥羽・伏見の戦いの勝敗を決定づけたのは、新政府軍が掲げた「錦の御旗」だったといわれています。

このとき征討大将軍として新政府軍の大将だった仁和寺宮嘉彰親王(後の小松宮彰仁親王)は、戦いが始まって2日目の1月4日、天皇から節刀とともに下賜されたという錦の御旗を掲げ、ここ東寺に入りました。


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錦の御旗は、新政府軍が天皇の軍隊であることを示すもので、この時点で、すなわち新政府軍は官軍、旧幕府軍は天皇に逆らう賊軍ということになりました。

これを見た旧幕府軍の兵たちの士気は大きく低下し、またたく間に総崩れとなりました。


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この「錦の御旗」ですが、実は朝廷からもらったものではなく、岩倉具視が勝手に作った代物だと言われていますね。

いずれ始まるであろう旧幕府との開戦に備えて、岩倉が秘書官の玉松操に調べさせた資料を参考に、薩摩の大久保利通や長州の品川弥二郎らと相談して作ったものだと言われています。

実物は誰も見たことがないわけですから、それらしければいいということで、大久保利通の愛妾のおゆうが祇園で買ってきた錦紗銀紗の布を長州に運んで、2ヶ月がかりで完成させたもので、いわば捏造品だったわけです。


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偽物であれ何であれ、かつて南北朝時代でも足利尊氏が戦局を有利にするために御旗を利用したように、このときの錦の御旗も絶大な効力を発揮します。

そもそも、本来この戦いに朝廷は関係なく、薩長と旧幕府の私闘だったのですが、この錦の御旗を掲げたことにより、戦いを「義戦」にしたわけです。

自分たちから喧嘩を吹っかけておいて、相手が挑発に乗ってきたら、「正義」を主張する。

ずるいですね。

それにしても、御旗の納品がよく間に合いましたね。


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東寺のシンボル、高さ55mを誇る五重塔です。

西郷隆盛はこの五層目に上がり、伏見の戦局を眺めたといいます。


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後年、西郷隆盛が鳥羽・伏見の戦いを回顧して、

「鳥羽一発の砲声は百万の味方を得たるよりも情しかりし」

と語って笑ったという有名なエピソードがありますが、あるいは、その砲声を聞いたのは、ここ東寺だったかもしれませんね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-11-16 17:18 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その162 「淀城跡」

京都競馬場から500mほど西に、淀城跡が残されています。

淀城は、鳥羽・伏見の戦いの勝敗を決定づけた城です。


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淀城は、廃城となった伏見城に代わって、元和9年(1623年)のに江戸幕府2代将軍徳川秀忠松平定綱に築城を命じ、寛永2年(1625年)に完成した平城です。


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淀は「与渡津」(淀の港の意)と呼ばれ、桂川、宇治川、木津川という3つの川の合流点として古くから水運の要衝で、また、河内国、摂津国方面や大和国方面から山城国、京洛に入る交通の要衝でもあったため、この地に城が築かれたのでしょう。


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淀城が築かれた場所は、その桂川、宇治川、木津川に挟まれた川中島でした。

説明板に描かれた縄張り図から想像すれば、水に浮かぶ要塞といった様相の城だったんじゃないでしょうか。


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以後、淀城の城主は初代・松平家のあと、永井家、石川家、戸田家、松平家、稲葉家と移り変わりますが、いずれも譜代大名ばかりで、京都を守護する役目とともに、西国諸藩に睨みを利かせる役目も担っていました。


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天守台跡です。


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石垣は「打込み接ぎ」ですね。

寛永2年(1625年)完成ということですが、まだ、ここでは「切込み接ぎ」の工法は用いられなかったようです。


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文献によると、築城当時、この上には二条城の旧天守が移築されたそうですが、天守台に比べて旧天守が小ぶりだったため、天守台の四隅に小さな櫓を建ててそれらを多聞櫓で繋ぎ、その中央に天守を乗せるという独特の構造になっていたといいます。


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天守台の中央には入れないように柵が設けられ、石垣の上にも上れないようになっていました。

遺構を守るため、やむを得ないのでしょう。


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南面石垣塀の上から内堀を眺めます。

天守台の石垣のカーブが見事ですね。


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天守台前から見下ろした城跡公園です。


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慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで劣勢に立った旧幕府軍は、1月5日、納所・淀方面まで後退して新政府軍を迎え討ちます。

しかし、ここでも旧幕府軍は苦戦を強いられ、「その155」で紹介した千両松の戦いで敗れたあと、ここ淀城に逃げ込んで体勢を立て直そうと考えます。

ところが、淀藩は固く城門を閉ざし、入城を拒否します。

上述したとおり淀城は幕府譜代大名の城であり、当時の藩主だった稲葉正邦は幕府の要職である老中を務めていました。

当然、淀藩は旧幕府軍の味方だと思っていたでしょうから、この入城拒否は思いも寄らない衝撃だったでしょう。


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実は、このとき、藩主の稲葉正邦は江戸にいて不在で、入城拒否を決めたのは、城代家老の田辺権太夫でした。

権太夫はかねてより、時代の趨勢を見据えて幕府の末期を悟っており、慶応2年(1866年)の第二次長州征伐の際にも出兵の反対を強く主張した家老でした。

このときも権太夫は戦況諸藩の動向を冷静に観察し、また、前日に新政府軍が錦の御旗を掲げたこともあり、新政府軍に恭順方針を決めました。

つまり、譜代大名である藩主の許可なしで一藩あげて徳川家に反旗を翻したわけです。

もはや幕府のみならず、封建制自体が末期症状だったことがわかりますね。


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城跡公園内には、「田邊治之助君記念碑」と刻まれた石碑があります。

田辺治之助は入城拒否を決めた田辺権太夫の弟で、物頭役だった治之助は大手門の守衛を指揮していましたが、その警衛の隙を突かれて旧幕府兵の侵入を許してしまい、その責任を取って自決しました。

この碑は、戊辰戦争勃発70年にあたる昭和13年(1938年)に建てられたもので、揮毫は、最後の藩主である稲葉正邦から2代下った稲葉正凱です(正凱の父が養子だったため孫ではありません)。


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また、冒頭でも紹介した、この「淀城址」と刻まれた石碑の揮毫も稲葉正凱です。


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城跡公園内の北西の隅櫓跡の石垣です。


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その上には、「明治天皇御駐蹕之址」と刻まれた石碑があります。


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側の記載によると、慶応4年(1868年)3月の明治天皇大坂行幸の際、ここ淀城にて一泊されたそうで、昭和3年(1928年)の昭和天皇御即位の大礼に際して、史実の記録と後世への伝達のため建立したと記されています。


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せっかくなので、内堀の外も歩いてみました。


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内堀外側南東から見た天守台です。


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城入城を断念した旧幕府軍は、淀小橋淀大橋を焼き落とし、また、城下町の民家にも火を放って新政府軍の進路を絶ち、大坂城に逃げ帰りました。

将軍・徳川慶喜が江戸城にドロンしたのは、その翌日の夜のことです。

ここ淀城の入城拒否が、鳥羽・伏見の戦いの勝敗を決定づけたといっても過言ではないでしょう。




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by sakanoueno-kumo | 2018-11-15 04:45 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その161 「幕府軍野戦病院の地・戊辰役東軍戦死者埋骨地(長圓寺)」

「その160」で紹介した東運寺の隣にある長圓寺にも、これまで紹介してきたものと同じ鳥羽・伏見の戦いで戦死した旧幕府軍の戦死者を供養する墓碑があります。


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山門の向かって右横には、「鳥羽伏見の戦い幕府軍野戦病院の地」と刻まれた石碑があります。

ここは、慶応4年1月5日(1868年1月29日)にこの1kmほど北で起きた千両松の戦いでの負傷者が収容され、野戦病院の役割を果たした寺と伝えられます。


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寺伝によると、八幡大菩薩の化身である足立観音を安置する長圓寺を新政府軍が攻めることは恩を背くことになるため、ここが戦場となることはなかったと伝えますが、そういう信心深い理由よりも、おそらく当時でも、野戦病院は攻撃しないというのちの赤十字精神のような暗黙のルールはあったんじゃないでしょうか?

武士の情けってやつですね。


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山門の向かって左横には、「戊辰之役東軍戦死者之碑」と刻まれた石碑があります。

これは、「その158」で紹介した妙教寺にあったものと同じで、明治40年(1907年)に京都十七日会によって挙行された東軍戦死者四十年祭典の際に建てられたものだそうで、揮毫は榎本武揚によるものだそうです。


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千両松の戦いでは新選組のメンバーの多くが戦死しますが、その後、生き残ったメンバーは榎本武揚が率いる幕府所有の軍艦で江戸に撤退します。

その際、土方歳三が榎本に、ここ長圓寺に助けられたことを話し、それを記憶していた榎本が、ここに石碑を建てたというのですが・・・。

この話も、寺伝によるものなので、事実かどうかはわかりません。


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境内には、これまで紹介してきたものと同じ「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻まれた墓碑があります。

ここは、「その159」で紹介した光明寺が廃寺になったあと、そこに葬られていた墓が移葬された

と伝わります。


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ここまで見てきたとおり、淀城の周辺の寺の多くに鳥羽・伏見の戦いの旧幕府兵が葬られています。

なぜか。

それは、敗色濃厚となって退却してきた旧幕府兵の入城を、淀城が拒否したからなんですね。

これにより旧幕府軍の敗北は決定的となり、このあたりで多くの兵が戦死しました。

次稿では、その淀城を紹介します。




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by sakanoueno-kumo | 2018-11-10 00:53 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その160 「戊辰役東軍戦死者埋骨地(大専寺・文相寺・東運寺)」

「その159」で紹介した光明寺跡から300mほど南下したところにある大専寺にも、鳥羽・伏見の戦いで戦死した旧幕府軍の戦死者を供養する墓碑があります。


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こちらが、その墓碑。

これまで紹介してきた碑と同じく「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻まれています。


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また、大専寺から南西に100mほど歩いたところにある文相寺に境内にも、同じ墓碑があります。


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それがこれ。

同じく「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻まれています。


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さらに、文相寺から300mほど南下した場所にある東運寺にも、同じ墓碑があります。


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これです。

これもやはり「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻まれています。

石碑の後ろに大きな切り株があります。


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あるいは、往時を知っていた木だったかもしれません。


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これらの碑はすべて、ここまで何度も紹介したものと同じく、明治40年(1907年)に京都十七日会によって挙行された東軍戦死者四十年祭典の際に建てられたものだそうです。

こうして見ても、このあたり一帯の寺院のほとんどが、鳥羽・伏見の戦いに関係していたことがわかりますね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-11-09 02:09 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その159 「戊辰役東軍戦死者埋骨地(光明寺跡)」

淀城の前に、かつて光明寺というお寺がありました。

「その157」で紹介したとおり、慶応4年1月5日(1868年1月29日)に千両松の戦いで、旧幕府軍に多くの死者が出ました。

その戦死者たちを葬った寺のひとつが、ここ光明寺でした。


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その後、光明寺は明治の廃仏毀釈によって廃寺となり、ここに葬られていた旧幕府軍の墓は、近くの長円寺に移葬されました。

現在、その跡地には、石碑のみが建てられています。


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地蔵堂を挟んで右側にある新しい石碑には、「幕府軍新選組縁 鳥羽伏見の戦い戦死者供養之寺 淀城前 光明寺」と刻まれています。

「新選組縁」とありますが、新選組の隊士が葬られていたのかどうかはわかりません。

ただ、千両松の戦いの激戦地はこのすぐ近くで、この戦いで新選組のメンバー14名が戦死したと伝わります。

あるいは、そのメンバーの誰かがここに葬られていたかもしれませんね。


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そのときの戦死者の中に新選組結成当時からのメンバーで六番隊組長だった井上源三郎がいましたが、このとき、源三郎の首は甥の泰助が持って逃げたのですが、まだ少年だったので首の重さに耐えきれなくなり、通りかかった寺の門前に泣く泣く埋めたというエピソードがあります。

その寺は今もって定かになっておらず、一説には、伏見の欣浄寺という寺だったのではないかと言われているのですが、地図で確認するかぎり、千両松の戦いの現場から6kmほど北東にあり、しかも、退路とは反対方向にあるため、わたしとしてはあまり信じる気になれません(現在、首塚もあるそうですが、発掘調査は行われていません)。

その点、ここ光明寺は戦地より数百メートルの場所にあり、しかも、退却の経路の道中にあります。

源三郎の首が埋められたのは、ここだったんじゃないでしょうか?


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地蔵堂を挟んで反対側の古い石碑には、「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻まれています。

この碑は、ここまで何度も紹介したものと同じく、明治40年(1907年)に京都十七日会によって挙行された東軍戦死者四十年祭典の際に建てられたものだそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2018-11-03 22:59 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その158 「戊辰之役東軍戦死者之碑(妙教寺)」

「その156」で紹介した愛宕茶屋埋骨地から500mほど南西に歩くと、妙教寺というお寺があります。

ここも、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで、戦火に巻き込まれました。


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ここ妙教寺のある納所・淀方面に主戦場が移ったのは、戦いが始まって3日目の1月5日でした。


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境内には、「戊辰之役東軍戦死者之碑」と刻まれた石碑があります。

明治40年(1907年)に京都十七日会によって挙行された東軍戦死者四十年祭典の際に建てられたものだそうで、揮毫は榎本武揚によるものだそうです。

榎本武揚といえば、旧幕府軍として戊辰戦争を最後まで戦った人物。

東軍戦死者の招魂碑の揮毫者としては最も適任だったといえるでしょう。


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側面には、「戦死者埋骨地三所一 在下鳥羽村悲願寺墓地 一 納所村愛宕茶屋堤防 一 八番楳木」と刻まれています。

「その153」 「その154」 「その155」で紹介した東軍戦死者埋骨地を示したものです。


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境内にはもうひとつ、鐘楼の側にも関連の石碑があります。


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石碑には「史跡 淀古城址 戊辰役砲弾貫通跡」と刻まれています。

ひとつは、かつてこのあたりに淀古城があったとする記述です。

現在、この少し南に淀城跡がありますが、そこは江戸時代に入ってから築城されたもので、ここで言う淀古城とは、豊臣秀吉の時代、淀殿が居城としていたと伝わる淀城です。


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そしてもうひとつ、「戊辰役砲弾貫通跡」とあるのは、ここの本堂に鳥羽・伏見の戦い時の砲弾の跡が残されているという標示です。

伝承によると、ここ妙教寺の上を両軍の砲弾が飛び交ったといい、そのうちの1発が本堂南側の壁と位牌壇を突き破り、北側の柱も貫通したそうです。

寺にはその際飛び込んだ「四斤山砲」と呼ばれる重さ4kgもある砲弾も伝わるそうで、水平に近い弾道は、砲弾がかなりの速さで飛び込んだことを伝えています。

当時の住職の記録には、「銃丸雨の如く集まる」「嗚呼危うかりし哉」と記されているそうで、その後、戦いを後世に伝えようと、穴の開いた壁や柱をそのまま残したといいます。


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わたしが訪れたこの日は、お寺の関係者の方々が不在だったようで、残念ながら本堂の中に入ることができませんでした。

超残念


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石碑の説明書きには、「慶應四年正月四日」と記されています。

戦史の記録では、このあたが主戦場となったのは1月5日だったと思うのですが、この砲弾はその前日の4日に撃ち込まれたことになっていますね。

4日はもう少し北の下鳥羽付近が主戦場だったはずですが、ここ納所・淀方面でもすでにドンパチが始まっていたということでしょうか。

戦いが広範囲に渡って繰り広げられていたことがわかる記録です。




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by sakanoueno-kumo | 2018-11-02 23:18 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)