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カテゴリ:東京の史跡・観光( 17 )

 

江戸湾を守った海上の砲台「品川台場」を歩く。 その2

「その1」に続いて、東京湾に浮かぶ砲台跡「品川台場」を歩きます。

土塁の上を一周してみました。


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土塁上は遊歩道になっています。


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台場の南端の土塁上に、砲台跡並んでいました。


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もっとも、これは往時のものではなく、後世に作られたレプリカだそうです。

ここが台場公園として開園したのは昭和3年(1928年)だそうなので、あるいは、そのときに作られたものかもしれません。


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兵装については史料によって多少の相違があるようですが、ここ第3台場には、36ポンド砲が配置されていたとされています。


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砲口の方角にはヒルトン東京お台場グランドニッコー東京台場のビルが見えます。

その近くに、かすかに自由の女神が見えます。

やはり、品川台場の仮想敵国はアメリカだったようです(笑)。


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フジテレビ社屋が見えます。

ミーハーでスミマセン。


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前稿で紹介したとおり、嘉永6年(1853年)6月の黒船来航によって急遽計画されて着工した品川台場でしたが、実は、それ以前からもここに海防施設を作る計画はあったようで、これより遡ること15年前の天保9年(1838年)にも、のちに築造される品川台場とほぼ同じ計画の設計図が作成されていたことが明らかになっています。

これは、その前年に起きた「モリソン号事件」など、日本沿岸に外国船が出没する事態が相次いだため、当時の幕府老中・水野忠邦が江戸湾を中心とする全国の海岸防備の強化を進めるよう命じたものでした。

ところが、幕府も諸藩もこの時期、天保の飢饉(1833年~36年)の余波にあって厳しい財政難に陥っており、大規模な土木工事を遂行できるだけの力がなかったんですね。

そんなこんなで計画が宙に浮いたまま年月が過ぎ、そうこうしていると、マシュー・ペリー提督率いるアメリカ艦隊が訪れ、大慌てとなったわけです。


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ペリー艦隊の帰国後、幕府はすぐさま砲台工事に着工。

当初の計画では海上に11基の台場を築造する計画でしたが、財政難などの理由で完成したのは第1~3台場、第5・6台場および御殿山下台場6基のみで、第4、第7台場は建設途中で中止、残りは未着手のまま終わりました。


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明治維新後、6基の台場は陸軍省東京市など所管が二転三転し、昭和に入ると跡地の一部は民間に払い下げられました。

その過程で第3台場第6台場だけが残され、現在に至ります。

現在に残る第3台場と第6台場は、大正15年(1926年)に国の史跡に指定され、昭和3年(1928年)にここ第3台場が台場公園として開園します。


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第3台場の西側に浮かぶ第6台場です。

こちらは立入禁止です。

第6台場は現在、草木が覆う自然豊かな島となっていて学術的にも貴重な史跡として保全されています。


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第6台場の横に見えるのはレインボーブリッジ

レインボーブリッジの歩道から第3、6台場ともに俯瞰できるそうですが、この日は時間がなく、断念しました。


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第3台場のレインボーブリッジ側には、「史蹟 品川臺場参番」と刻まれた石碑があります。

昭和2年(1927年)に建てられたもののようです。


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黒船来航で海防の必要性に駆られ、超突貫工事で築かれた品川台場でしたが、その後、日米和親条約が締結さたことで、結果的にこの砲台が火を吹くことはありませんでした。

それでも、何の役にも立たなかったかといえば、そんなことはなく、2度目に来航したペリー艦隊は、この砲台を見て江戸湾への入港を諦め、横浜に進路を変えてそこで日米和親条約を結ぶことになります。

ある程度の抑止力にはなったようですね。

軍備というのは、「備えて使わず」がいちばん望ましいわけで、その意味では、無駄な築造ではなかったといえます。

現在の自衛隊も、「備えて使わず」の組織であってほしいものです。


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最後に、「続・日本100名城」のスタンプを載せます。

このスタンプラリーが始まったのが昨年(平成30年・2018年)の4月6日の城の日からでしたが、このスタンプを押したのが2日後の4月8日。

100名城の最初のスタンプでした。




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by sakanoueno-kumo | 2019-01-18 22:22 | 東京の史跡・観光 | Comments(0)  

江戸湾を守った海上の砲台「品川台場」を歩く。 その1

平成29年(2017年)4月6日、日本城郭協会から「続・日本100名城」が発表されましたが、そのなかに、ひとつだけ趣を異にした存在があります。

東京湾に浮かぶ砲台跡「品川台場」がそれです。

「城跡」というカテゴリーに入れていいのかどうか、でも、「砦」という意味では同種とみなしていいともいえますが・・・。

とにもかくにも、名城の仲間に加わったので、過日、東京を訪れた際に立ち寄ってみました。


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写真はお台場ビーチから撮影した東京ベイエリアです。

海に浮かぶ緑の空間が、その台場です。

その向こうに見えるのがレインボーブリッジ


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ズームします。

豪壮な石垣の上に土塁が盛られているのが見えます。

その様相は、まさに海に浮かぶ要塞、城跡と言っていいのかもしれません。


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「お台場」の愛称で全国に知られている東京ベイエリアは、港区台場を中心に複数の区にまたがって東京湾に広がる埋立地ですが、東京湾の埋め立ては近年始まったものではなく、徳川家康による江戸幕府が開かれて以来、長い年月をかけて少しずつ進められてきた事業で、幕末までの260余年の間に海岸線のかたちは大きく変わりました。


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その海岸線に、軍事施設として台場の造営工事が始まったのは嘉永6年(1853年)8月のことでした。

というのも、この年の6月、マシュー・ペリー提督率いるアメリカ艦隊が江戸湾の浦賀沖に姿を表し、江戸幕府に開国をせまってきたんですね。

いわゆる「黒船来航」です。

ペリーは幕府に通商を目的とする開国を要求し、その回答猶予として翌年春の最来航を約束して帰国しますが、これに脅威を感じた幕府老中首座の阿部正弘が、伊豆韮山代官の江川英龍に命じて海上砲台の建設を開始します。

それが、この品川台場です。


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当時は第1台場から第6台場までありましたが、現在残るのは第3、第6台場の2ヶ所だけで、そのうち第3台場が「台場公園」として整備されています。


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第3台場はお台場ビーチと陸続きになっているので、歩いていけます。


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第3台場の入り口です。


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横に目をやると、向こうにフジテレビ社屋が見えます。

東京人でないわたしにとっては、お台場=フジテレビといった印象が強いです。

ミーハーですね。


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階段を上がって土塁を登るとすぐに、案内板が設置されています。


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平面図のアップです。

面積は約30,000㎡だそうです。


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土塁に囲われた台場の内部は一段低くなっていて、現在は芝生広場として子どもたちがボール遊びなどをしていましたが、かつてはここに兵舎が建てられ、大量の弾薬が保管された軍事拠点でした。


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芝生の中央に見える礎石のような場所が、かつての兵舎跡です。


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下に降りてみましょう。


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兵舎(陣屋)跡の礎石です。

向こうにフジテレビ社屋が見えます。


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兵舎は居住施設というより一種の休憩所のようなものだったようで、守備兵は小舟で台場に渡り、交代が来るまでのあいだここに詰めていたそうです。


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こちらはかまど跡です。

往時はここで兵たちの食事が作られていました。


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もっとも、このかまどは江戸時代のものではなく、後世になって作られたものだそうです。

ここが台場公園として開園したのは昭和3年(1928年)だそうなので、あるいは、そのときに作られた復元品なのかもしれないですね。

それでも、90年以上前のものですから、立派な史跡です。


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こちらは弾薬庫跡です。


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弾薬の格納庫ですから、砲撃を受けた際に誘爆を防ぐために石室になっており、往時は内部に木造の収納室を設ける二重構造になっていたそうです。


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長くなっちゃったので、「その2」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-01-17 23:10 | 東京の史跡・観光 | Comments(2)  

伝馬町牢屋敷跡・処刑場跡(吉田松陰終焉之地)

東京メトロ日比谷線伝馬町駅を降りて地上に上がったところに、何やら古い石碑と説明板があります。

石碑を見つけるとついつい足を止めてしまうわたしですが、そこには、「吉田松陰先生終焉地」と刻まれた文字が。


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東京に土地勘のないわたしですが、「伝馬町」という地名には何となく聞き覚えがあったのですが、石碑を見て思い出しました。

そうだ、処刑場があったところだ!・・・・と。

この日わたしは別の目的で伝馬町駅を降りたのですが、こういうものを見つけてしまうと、立ち寄らないと気がすみません。


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駅の北側にある大安楽寺の門横に、「江戸伝馬町処刑場跡」と刻まれた石碑があります。


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まるで鮮血で書いたような文字ですね。


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境内には、「江戸傳馬町牢御椓場跡」と刻まれた石碑も。

つまり、ここは牢獄死刑場が一緒になった拘置所だったわけです。


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大安楽寺の北側にある十思公園も、伝馬町牢屋敷の敷地でした。

伝馬町牢屋敷は、慶長年間(1600年頃)から明治8年(1875年)まで270年にわたって数十万人の囚人を収容しました。

幕末期には、安政の大獄で捕まった吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎らもここに収監され、処刑されています。


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公園内には、発掘された牢屋敷の石垣が展示されています。


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石の上にのってい乗っているのは、公園で遊んでいた親子の荷物です。

除けてくれないかなぁと思いながら待っていたのですが、その気配がなさそうなので、やむなくそのまま撮影(苦笑)。

まあ、公園なので仕方ありません。


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公園の片隅には、「松陰先生終焉之地」と刻まれた石碑と、辞世の句が刻まれた歌碑、そして顕彰碑が並んで建てられています。


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安政6年5月25日(1859年6月25日)、萩から護送された吉田松陰は、6月25日(7月24日)に江戸桜田の長州藩邸に入り、7月9日(8月7日)、ここ伝馬町牢屋敷へと移され、取り調べが始まりました。

松蔭にかけられた罪状は主に2つで、ひとつは、すでに捉えられていた梅田雲浜密談して反幕府政治工作を企てたのではないかという疑いで、そしてもうひとつは、京都御所で見つかった幕府批判の落とし文を書いたのではないかという嫌疑でした。しかし、松陰はそのどちらも身に覚えがなく、臆することなく否認します。


「吾性光明正大ナルコトヲ好ム豈落文ナントノ隠昧ノ事ヲナサンヤ」

(わたしは性来、公明正大を好む。落とし文などという隠れごとなどしない。)


・・・と。

その堂々とした受け答えに、取調官は大いに圧倒されたようです。

このままで終わっていれば、松蔭は大した罪には問われなかったかもしれませんが、しかし、ここで松蔭は、常人には理解できない行動にでます。

というのも、かつて幕府老中・間部詮勝要駕を企てたことを、訊ねられてもいないのに自ら白状してしまうんですね。

なぜ、そのような行動に出たのかはハッキリしませんが、だいたいの物語などでは、取調官の巧みな誘導尋問に乗っかったというのが、共通した描かれ方です。

光明正大にもほどがありますよね。

このときの松蔭について、司馬遼太郎氏の『世に棲む日日』では次のように書いています。


「あほうといえば、古今を通じてこれほどのあほうはいないであろう。松陰は、吟味役の老獪さを見ぬけず、むしろ他人のそういう面を見ぬかぬところに自分の誇るべき欠点があると思っていた。」


取調官の権謀術数にまんまとかかったのか、あるいは、取調官の老獪さを知った上で、あえて死を決して自供したのか、いずれにせよ、松蔭は自らの行いに一点の曇りもなかったのでしょう。


「至誠にして動かざるものは未だこれ有らざるなり」


元は孟子の言葉で、松蔭の語録でもあるこの言葉どおり、誠意をもって話をすれば、取調官の心をも動かすことができると思ったのでしょうか?


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松蔭の取り調べは、その後、9月5日(9月30日)、10月5日(10月30日)と続きますが、その間、概して取調官らの口調は穏やかで、松蔭に対して温情的な態度だったといいます。

しかし、10月16日(11月10日)の訊問では態度が一変し、厳しい口調で口上書が詠み上げられました。

そこには、間部詮勝老中に意見を申し述べて、もし耳を傾けてもらえないようであれば、刺し違えるつもりであった、という、松蔭がまったく供述した覚えのない内容が記されていました。

これに松蔭は激しく異をとなえます。

もとより死は恐れていない、しかし、奉行による権力の奸計には、断固屈しない・・・と。


「今日義卿奸權ノ為メニ死ス天地神明照鑑上ニアリ何惜ムコトカアラン」

(全ては天地神明の知るところであり、何を惜しむことがあろうか)


この取り調べのあと、松蔭は牢役人のひとりから、幕閣が自身を死罪に処するつもりでいることを聞かされたといいます。

その話によると、10月5日(10月30日)の吟味まで温情的だった奉行たちは、松蔭の処罰は遠島(流罪)が相当という意見書を幕閣に上申しますが、その意見書は取り上げられず、下された処分は極刑の死罪でした。

その刑を下したのは、大老・井伊直弼だったと。

死を覚悟した松蔭は、10月25日から26日にかけて、遺著となる『留魂録』を執筆しました。

その冒頭の句が、この石碑に刻まれた有名な歌です。


「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」

(この身はたとえ武蔵野地に朽ち果てようとも、この国を思う魂だけは、この世にとどめて置きたい)


この歌が、その後、松蔭の弟子たちをはじめ、幕末の志士たちを突き動かす原動力になっていくんですね。


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『留魂録』を書き上げた翌日の10月27日(11月21日)朝、松蔭は幕府の評定所にて斬首刑を言い渡されます。

そして駕籠にてここ伝馬町牢屋敷に運ばれ、その日のうちに敷地内の刑場で首が落とされました。

享年30。

このとき松蔭の首を討った御様御用の山田浅右衛門は、後年、松蔭の最後についてこう語っていたそうです。


「悠々として歩き運んできて、役人どもに一揖(いちゆう)し、『御苦労様』と言って端座した。その一糸乱れざる堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した」


こうして、吉田松陰の劇的な生涯が幕を閉じました。

そして、もうひとつ。


「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」

(子が親を思う心以上に、親が子にかける情は深い。今日の報せが父母に届いたら、なんと思うだろう)


これも有名な辞世の句ですね。

哲学的、思想的な名言を数多く残してきた松蔭ですが、最後の最期に彼が残した言葉は、親より先に逝く親不孝を詫びた、実に心のこもった人間らしい言葉でした。

後世に狂人と評される吉田松陰ですが、実は普通の感情を持った青年であったことを、この辞世で感じ取ることができます。

なんとなく、この句で救われたような気がするのは、わたしだけでしょうか?




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by sakanoueno-kumo | 2019-01-11 02:15 | 東京の史跡・観光 | Comments(2)  

坂本龍馬が剣術修行をした千葉定吉道場跡

東京駅八重洲口近くの鍛冶橋通りに面した歩道の植え込みに、「千葉定吉道場跡」と書かれた説明板があります。

千葉定吉道場といえば、若き日の坂本龍馬剣術修行をした道場として知られています。


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千葉定吉は、北辰一刀流剣術の創始者と伝わる千葉周作の弟で、自身も北辰一刀流の使い手でした。

兄の千葉周作は、鏡心明智流桃井春蔵神道無念流斎藤弥九郎とともに幕末三剣豪と呼ばれ、「位の桃井・力の斎藤・技の千葉」と評され、幕末の江戸三大道場とされていました。

地方から我こそはと江戸に上ってきた剣のエリートたちは皆、この三道場の門をたたいたといいます。

現在でいえば、東大、早稲田、慶應といったところでしょうか。

坂本龍馬は19歳から24歳までの間に2度、江戸に遊学し、ここで剣術を学びました。

そして安政5年(1858年)正月には、定吉から「北辰一刀流 長刀兵法」目録を伝授されたと伝わります。

司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』では、龍馬と同時期に桃井道場の塾頭に盟友の武市半平太が、斎藤道場の塾頭に桂小五郎(木戸孝允)が、そして龍馬が千葉道場の塾頭になったとされていますが、武市と桂が塾頭だったのは史実のようですが、龍馬が塾頭だったという話は、確かな史料は存在しないようです。


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龍馬の入門した千葉道場は、精神主義を排し、合理的な教授法が人気を呼んだらしく、江戸に剣術ブームを起こしたそうです。

武骨な道場というカラーを脱し、現在でいえば「剣術教室」といったカラーのとてもパブリックな道場だったようです。

のちの龍馬の観念にとらわれない合理的な発想の基礎は、この千葉道場の修行時代に作られたものかもしれません。


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あと、千葉道場での龍馬の剣術修行で思い出されるのは、定吉の娘・千葉佐那とのラブストーリーですね。

佐那(佐那子とも)は女だてらに剣の使い手で、10代で北辰一刀流免許皆伝に達したほどの腕前だったとか。

小柄で大そうな美女だったようで、「千葉の鬼小町」「小千葉小町」などと呼ばれていたといいます。

明治26年(1893年)に発行された『女学雑誌』の誌上に、「坂本龍馬の未亡人を訪ふ」というタイトルで談話が掲載され、その中で晩年の佐那自身が、龍馬から求婚された事実を語っています。

それによれば、父・定吉の承諾も得て、「天下静定の後を待って華燭の典を挙げん」と約束をしたといいます。

司馬遼太郎著『竜馬がゆく』では、佐那(同小説ではさな子)が想いを打ち明け、そのお返しに龍馬は自分の着ていた紋付の片袖を破って渡すというロマンチックなエピソードが描かれていますが、明治26年の佐那が語るところでは、婚約のしるしとして千葉家から短刀一振りを贈り、龍馬からは松平春嶽から拝領した袷衣を返したといいます。

その後、その後国事に奔走しはじめた龍馬と結ばれることはなく、佐那は生涯この袷衣を形見として側に置き、独身を通したと言われています。

何とも健気で切ない話ですが、一方の龍馬は、その後、周知のとおりお龍と結婚しています。

婚約の話が本当なら、龍馬も罪な男ですね。


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その龍馬の佐那に対する想いについては、国元の姉・乙女に宛てた手紙のなかに見ることができます。

「此はなしはまづまづ人にゆはれんぞよ。すこしわけがある。」という書き出しで始まるこの手紙には、千葉家の佐那という娘の歳は26歳で、乗馬薙刀に優れ、琴、絵画にも通じ、もの静かで、よけいなことを言わず、平井かほ(龍馬の国元の恋人だったといわれる女性)よりも美人であると紹介しています。

「まあまあ、今の平井、平井。」と書かれており、「平井に変わって今一番好きな人。」といった意味のようです。

かなりゾッコンだったようですね。

しかし、この手紙から4年後に龍馬はこの世を去ります。

このとき既に30歳になっていた佐那は生涯独身を通し、維新後、華族女学校(学習院女子部)の舎監をしたのち、千住の長屋の一角で千葉家家伝の鍼灸を生業として暮らし、明治29年(1896年)、59歳で生涯を閉じます。

東京・谷中の墓地に埋葬されましたが、独身ゆえ無縁仏になりそうだったため、鍼灸院の患者だった自由民権運動家・小田切鎌明の妻、豊次が不憫に想い、菩提寺だった清運寺に分骨し墓を建てたといいます。

その佐那の墓石の裏には、「坂本龍馬室」と刻まれています。




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by sakanoueno-kumo | 2019-01-10 00:37 | 東京の史跡・観光 | Comments(0)  

大久保利通終焉の地「紀尾井坂の変」跡地にて。

大久保利通が殺されたのは明治11年(1878年)5月14日でした。

場所は紀尾井坂付近だったといわれ、その地名をとって、この事件を「紀尾井坂の変」と呼びます。

紀尾井坂とは、現在の参議院清水谷議員宿舎前の坂道です。

江戸時代、このあたりは紀州徳川家、尾張徳川家、井伊家の大名屋敷があったことから、その頭文字をとって「紀尾井」と呼ばれるようになったそうです。

ただ、実際に大久保が襲撃されたのは紀尾井坂ではなく、少し先へ進んだ清水谷のあたりだったことが現在では立証されているそうです。

現在、その近くの清水谷公園内には大久保の哀悼碑が建てられています。


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事件当日の午前8時、大久保は明治天皇に謁見するために裏霞ヶ関の自邸を出発し、赤坂の仮皇居に向かいました。

共は下僕で馭者の中村太郎と、同じく下僕で馬丁の芳松の二人だけでした。

本来なら、大久保邸から赤坂仮皇居に向かうには、紀尾井坂を通るより赤坂見附を通ったほうが近道だったのですが、なぜか大久保はこのコースを選びました。

その理由は、赤坂見附は人通りが多くて危険だから、あえて人通りの少ないこの道を選んだと言われていますが、暗殺団がこの道で待ち伏せしていたことから考えれば、大久保は日常的にこの紀尾井坂コースを使っていたのでしょう。


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大久保を乗せた馬車が紀尾井町一丁目に差し掛かったとき、2人の書生が現れて通路を遮りました。

馬丁の芳松が馬車を降りて、脇によって道をあけるよう注意しますが、そのとたん、男たちは刀を抜き、いきなり馬の前脚を薙ぎ払いました。

この襲撃を合図に身を潜めていた4人の男が一斉に飛び出してきました。

刺客は全部で6人

芳松は背中から斬りつけられるもそれをかわし、助けを呼びに馬車を離れました。

馭者の中村は馬車から飛び降りたところを、刺客に一刀のもとに斬り下げられ、即死しました。

刺客たちは馬車によじ登り、中にいた大久保に斬りつけました。

このとき大久保は書類に目を通していたといい、一説によると「待て!」といって書類を風呂敷に包んだといいます。


大久保の最後のことばは、「無礼者!」という一喝だったといいます。

その後、大久保は馬車から引きずり出され、めった切りに斬りつけられました。

そして最後のトドメは喉に短刀が突き刺され、その短刀は地面にまで達していたといいます。

大久保は全身16ヶ所に刀を受けていましたが、その大半は頭部に集中していたといいます。

事件直後に現場にかけつけた前島密の証言によると、大久保の遺体は「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」状態だったといいます。

さすがに、ドラマや映画ではそこまで描けません。


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実行犯は、石川県士族の島田一郎、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一、および島根県士族の浅井寿篤の6名、いずれも太政官政治に不満を持つ不平士族でした。

彼らにとってこの襲撃は暗殺ではなく、政治でした。

なので、大久保を殺害するとすぐに自首しています。

彼らは、大久保さえ斃せば、やがて天下は転覆して世直しされると信じていました。


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この大久保襲撃については、まったく寝耳に水だったわけではなく、事前に予想できたことでした。

彼らは闇討ちのような卑怯な行為ではないことを主張するため、事件の4、5日前に大久保に宛てて殺害の予告状を送っています。

しかし、これを見た大久保は顔色ひとつ変えることなく、まったく意に介する様子もなかったといいます。


また、島田らが石川県を発ったとき、石川県令がすぐさま警戒すべきことを内務省に通報しており、そのことは大久保の耳にも届いていました。

さらに内務省は、警視庁に大久保内務卿の護衛を要請しますが、大警視の川路利良は、その必要はないとして、「加賀の腰抜けに何ができるか」と、相手にしなかったといいます。

これは、薩摩人特有の他藩蔑視の通癖が露骨に出た言葉ともいえますが、この当時、政府の要人警察が護衛するという習慣がまだなかったことと、他の大官に護衛がついていないのに、大久保だけに護衛をつけるのは、世間体から見て大久保を臆病者にすることになり、大久保を侮辱することになるといった思いもあったようです。

明治維新から10年以上が経ったこの時代でも、大官は役人である以前に、ひとりのサムライだったんですね。


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有名な話ですが、大久保は事件当日の朝、自邸に挨拶に訪れた福島県令の山吉盛典に対して、まるで遺言とも取れる明治30年計画を語ったといいます。

それによると、明治元年から10年を創業の時期として、戊辰戦争士族反乱などの兵事に費やした時期、次の10年を内治整理・殖産興業の時期、最後の10年を後継者による守成の時期と定義し、自らは第2期まで力を注ぎたいと抱負を述べるものでした。

しかし、結局は第2期の入り口で凶刃に倒れたわけです。


また、どういうわけか、大久保はこの日、西郷隆盛からもらった古い手紙を2通、懐に忍ばせていたといいます。

それは、いずれも二人が蜜月の間柄だった頃の手紙で、この手紙を持参していた話は、事件後ほどない5月27日付の東京日日新聞に報ぜられています。

大久保がどういう意図で手紙を持参していたかはですが、大久保は西郷を死に至らしめたことでよほど悩み苦しんでいたようで、自分と西郷とは、かつて深い絆で結ばれていたということを、しきりに人々に話したがっていたといいます。

あるいは、近々自分が殺されるかもしれないことを想定し、その死後、自分と西郷との友情関係世に知らしめるために手紙を持ち歩いていたのでしょうか。

その真偽はいまとなっては確認しようがありません。


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作家・司馬遼太郎氏は、その著書『翔ぶが如く』のなかで、大久保の死についてつぎのように述べています。


「結局は大久保とその太政官が勝ち、西郷がほろびることによって世間の士族一般の怨恨や反乱への気勢は消滅したかにみえた。大久保とその権力はほとんど絶対化するかの勢いになった。日本における政治風土として、権力が個人に集中してそれが絶対化することは好まれず、それに対する反対勢力が相対的に公認されている状態が好まれる。権力が個人に集中して絶対化した例は日本の歴史でまれであったが、遠くは織田信長の末期、近くは井伊直弼の大老就任後がそうであったであろう。結局は爆走する絶対権力をとどめる方法がないままに暗殺者がそれを停止させることが、ほとんど力学現象のようにして生起する。」


大久保の死も、あるいは歴史の必然だったのかもしれませんね。


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また、作家の半藤一利氏はその著書『幕末史』のなかで、


「戊辰戦争のつづきといえるこの明治の権力をめぐってガタガタした十年間は、古代日本人的な道義主義者の西郷と、近代を代表する超合理主義の建設と秩序の政治家大久保との、やむにやまざる「私闘」であったといえそうです。」


と述べておられています。

しかし、わたしは、西郷は道義主義者だったと思いますが、大久保が超合理主義者だったとは思いません。

むしろ、西郷以上に情に厚い熱血漢だったと思っています。

ただ、その情は、西郷のように人に対してではなく、「国家」に向けられた。

彼は、彼らが作った新国家という作品を、どんなことをしても守りたかった。

その国家建設に抗おうとする勢力は、たとえそれが竹馬の友であっても、容赦なく叩き潰した。

これは、大久保の政治家としての信念だったのでしょう。

日本近代史において、大久保利通ほどの信念の政治家は、それ以前もそれ以後もいないとわたしは思っています。


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西郷隆盛が西南の城山に散ったのが、この8ヶ月前の明治10年(1877年)9月24日、さらにその4ヶ月前の5月26日には、大久保、西郷と並んで維新三傑の一人に挙げられた木戸孝允もこの世を去っていました。

わずか1年足らずの間に、維新の象徴的存在だった3人が揃ってこの世を去ったわけです。

ひとつの時代が終わりを告げました。




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by sakanoueno-kumo | 2018-12-30 00:34 | 東京の史跡・観光 | Comments(2)  

上野戦争に散った彰義隊の墓

前稿で紹介した西郷隆盛像のある上野恩賜公園には、彰義隊の墓があります。

彰義隊とは、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜側近の旧幕臣を中心として結成した有志隊で、ここ上野が舞台となった上野戦争における佐幕側部隊です。


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鳥羽・伏見の戦いに敗れた慶喜は、江戸城に戻ると朝廷に対して恭順の意を示し、ここ上野にある寛永寺謹慎しますが、その慶喜の護衛江戸警備の名目で結成されたのが彰義隊でした。

もっとも、表向きの名目は慶喜の護衛と江戸警備ですが、実情は、慶喜の恭順姿勢に不満を抱く強硬派の集団でした。

頭取には渋沢成一郎、副頭取には天野八郎が投票によって選出され、幹事には本多敏三郎伴門五郎が就きました。

隊士には旧幕臣のみならず、町人博徒侠客も参加し、たちまち1000人を越える規模になります。


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慶応4年3月13日(1868年4月6日)、新政府軍の参謀・西郷隆盛と、旧幕府軍の陸軍総裁・勝海舟との歴史的会談が行われ、その約1ヶ月後の慶応4年4月11日(1868年5月3日)、江戸城は無血開城されることになり、慶喜も水戸にて謹慎することで決着します。

しかし、それに不満を持った彰義隊は、徹底抗戦を主張し、上野寛永寺に立て籠もります。

この不穏な空気を重く見た勝海舟は、再三、彰義隊の解散を促しますが、彼らは聞き入れることはなく、その後、彰義隊のなかでは慎重派だった渋沢成一郎が離脱して天野八郎ら強硬派がイニシアチブを取ると、ますます過激さを増していきます。


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京都に本陣を布いていた新政府軍は、関東での事態を重く見、西郷や勝では抑えきれないと判断して、大村益次郎を送り込んで指揮を執らせます。

江戸に入った大村は、たちまちにして陣形を整え、そしてとうとう5月15日(7月4日)、上野に結集した彰義隊3000人に対して、新政府軍2万人が総攻撃を開始。

その圧倒的な戦力の差から、開戦から1日も経たずに彰義隊は壊滅しました。


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この戦いにおける記録上の戦死者は、彰義隊105名、新政府軍56名といわれています。


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彰義隊士の遺体は、しばらく上野山内に放置されていたそうですが、三ノ輪円通寺の住職仏磨らによってこの地で茶毘に付されました。

説明板によると、正面の小墓石は、明治2年(1869年)に寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだそうで、のちに掘出されたそうです。

後ろの大墓石は、明治14年(1881年)12月に、元彰義隊士の小川興郷(椙太)らによって建てられたものだそうで、彰義隊は明治政府にとって賊軍だったため、政府をはばかって彰義隊の文字はありませんが、旧幕臣の山岡鉄舟の揮毫による「戦死之墓」の字が刻まれています。

その後、小川家によって墓所は守られてきましたが、現在は歴史的記念碑として、東京都が維持管理しています。


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彰義隊の墓が建てられたのが明治14年(1881年)で、西郷隆盛像が建てられたのが、その16年後の明治30年(1897年)。

同じ上野恩賜公園内に敵対した西郷隆盛の像と彰義隊の墓が隣接しているわけですが、今は問題ないとして、明治の頃は、関係者はどんな心境だったのでしょうね。

少なくとも、彰義隊の遺族は快くは思っていなかったんじゃないでしょうか。

もっとも、大村の像じゃなかっただけ、マシだったかもしれませんね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-12-29 00:37 | 東京の史跡・観光 | Comments(0)  

上野の西郷さん

明治維新150年にあたるメモリアルイヤーの今年、平成30年(2018年)の大河ドラマは『西郷どん』でしたが、その第1話のオープニングに登場した上野恩賜公園西郷隆盛像についての起稿です。

今年の春、たまたま東京に行く機会を得たので、ついでに足を運んできました。


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周知のとおり、西郷隆盛がこの世を去ったのは明治10年(1877年)9月24日、西南戦争における反乱軍としての戦死でした。

そのため西郷は「逆賊」汚名を着せられることになりますが、維新最大の功労者である西郷の名声は死後も落ちることはなく、名誉回復を求める声が高まるなか、明治22年(1889年)、明治天皇の意向や黒田清隆らの尽力もあり、大日本帝国憲法が公布される大赦によって「逆賊」の名を赦され、正三位の位が追贈されます。

これを受けて、西郷の旧友である吉井友美が西郷像の建立を計画。

御下賜金(天皇から賜ったお金)や有志が集めた寄付金を資金として、明治26年(1893)に起工、明治30年(1897年)に竣工したのが、この「上野の西郷さん」です。


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なぜ上野に西郷像が建てられたかというと、当初は皇居内に建てる計画だったそうですが、一時は朝敵となったことを理由に猛反対する声が上がり、やむなく、かつて西郷が指揮官として功を上げた上野戦争の舞台であり、皇室の御用地である上野に建てられることになったそうです。


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また、その姿についてですが、当初は騎馬像として設計されたものの資金が足りず、次に、陸軍大将の正装である軍服姿の立像で計画され、雛形まで出来あがっていたそうですが、これも、とある筋からの猛反対が起こり、結果、現在の着流し姿になったそうです。

反対派の理由は、西郷の高い人気を背景に反政府的機運を醸成しかねないとのことで、西郷から武人としての牙を抜き、犬を連れて歩く人畜無害な人物というイメージを民衆に定着させようとする政治的意図があったとされます。

おそらくそのとおりだったでしょうね。


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除幕式の際にはじめて銅像を見た西郷夫人の糸子が、「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかった)」と言って周囲を慌てさせたという有名なエピソードがあり、このことを理由に、この銅像は西郷に似ていないといも言われますが、糸子の言葉の真意は、「うちの人はこのような着流し姿で人前に出る人ではなかった」といった意味だったとも言われ、その真偽はわかりません。

まあ、夫人から見れば顔も違って見えたかもしれませんが、この除幕式には実弟の西郷従道も出席しており、また、この銅像の製作においては、西郷をよく知る吉井友美黒田清隆樺山資紀らも深く関わっていたわけで、まったく似ていないというわけでもなかったでしょう。

奥さんからすれば、どこか仕上がりに気に食わない部分があったのかもしれません。


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逆賊の汚名は返上されていたとはいえ、西郷が反乱軍を指揮した事実は変えようのない歴史です。

その反乱軍の総大将である人物の銅像が、同じ政権下で、死後わずか20年で建てられたという例は、世界中探しても類を見ないそうです。

また、その銅像が日本の首都のもっとも人の目につきやすい場所に建てられたということも、諸外国からすれば理解できないことだったようで、さらに、その除幕式に政府の要人が出席するということを聞いた在日の西洋人は、西洋諸国ではあり得ないこととして驚愕したといいます。

それだけ西郷隆盛という人物が、当時から比類なき英雄として愛されていたということの表れでしょうが、一方で、その西郷の盟友でありながら最後は西郷と敵対する立場となった大久保利通の像は、没後100年経った昭和54年(1979年)にようやく鹿児島の地に建てられましたが、西郷を死に至らしめたとの理由で大久保は死後100年経っても不人気で、銅像建設にも反対運動が大きく、竣工当日も、厳重な警備体制だったそうです。

同じく維新の立役者であり、近代日本の礎を築いた二人なのに、この差は気の毒ですね。

大久保贔屓のわたしとしては、釈然としない思いです。


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一般に、西郷は自ら反乱を望んだわけではなく、不平士族の怒りの捌け口を作るため、不平士族に担ぎ出される形で自分の命を預けたのが西郷の最期だったと言われています。

しかし、この解釈は、必ずしも正しいとは言いきれません。

実際、挙兵に至る経緯からその最期に至るまで、西郷自身の心情を吐露した史料は残されておらず、すべては後世の想像にすぎません。

「西南戦争は桐野利秋が起こしたいくさで、西郷はその神輿に乗っただけだ」と言ったのは、戦後、西郷の汚名返上に奔走していた勝海舟の言葉で、西郷を尊敬しながらも政府軍として敵対せざるをえなかった将校たちも、「そうであってほしい」という思いが、不世出の英傑である西郷を死に至らしめたことを正当化する口実になったともいえます。

そう考えれば、西郷の人物像は、その死後、必要以上に美化され、英雄化していったといえなくもありません。


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作家・司馬遼太郎氏は、その著書『翔ぶが如く』のなかで、つぎのように述べています。


「政治家や革命家が一時代を代表しすぎてしまった場合、次の時代にもなお役に立つということは、まれであるといっていい。西郷は倒幕において時代を代表し過ぎ、維新の成立によって局面がかわると後退せざるをえなくなったという当然の現象が、一世を蓋っている西郷の盛名と同時代に存在しているひとびとには、容易にわからなかった。」


この銅像が建ったときの西郷は、その銅像以上に巨大化された存在になっていたのかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-12-27 14:22 | 東京の史跡・観光 | Comments(0)  

江戸城を歩く。 その10 「半蔵濠~半蔵門~桜田濠」

「その9」の続きです。

北の丸の2ヶ所の門を過ぎると、西側の千鳥ヶ淵に沿って南下し、西の丸西側の半蔵濠沿いに歩きます。


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が残っていました。


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菜の花も綺麗です。


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半蔵濠の向こうに門が見えます。


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西の丸西側の半蔵門です。


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半蔵門は、寛永4年(1627年)に大手門と正反対の裏手に位置する搦手門として建造されました。

現在の門は、東京大空襲で焼失したため和田倉門高麗門を移築したものだそうです。


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半蔵門の名称の由来は諸説ありますが、旗本の服部半蔵正就がこの門の警護を担当したことに由来すると言われています。

一般に服部半蔵で知られる人物は、正就の父・服部半蔵正成です。

ちなみに、物語などに出てくる忍者の服部半蔵は、さらにその父にあたる人物ですが、本当に忍者だったかどうかは定かではありません。


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この門内は、江戸時代には吹上御庭と呼ばれ、隠居した先代将軍や、将軍継嗣などの住居とされていました。

現在の半蔵門は、主に天皇・皇族の日常の出入口に用いられており、13万坪の吹上御苑には天皇の住居である御所などがあります。


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半蔵門から南の濠は桜田濠といい、「その3」で紹介した最南端の桜田門まで続きます。


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美しい景色が続きます。


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濠というより、雄大な川のようです。

わたしは、この半蔵門から桜田門までの景色が最も好きです。


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振り返ると、国会議事堂が。


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桜田門が見えてきました。


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この時点で時間は17時半。

朝9時頃から歩くこと8時間以上、たっぷり1日かけて江戸城をめぐりました。

歩行距離34km、歩数は4万8千歩に及びました。

われながら、よく頑張ったなあと・・・。

最後に、日本100名城スタンプを載せておきます。


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by sakanoueno-kumo | 2018-12-26 17:49 | 東京の史跡・観光 | Comments(0)  

江戸城を歩く。 その9 「九段坂公園~靖国神社」

北の丸まで来たので、その北側にある3人の像について触れておきましょう。

「その8」で紹介した田安門の北側にある九段坂公園に、2人の像があります。


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まずはこの人。

品川弥二郎子爵です。


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品川弥二郎は長州藩足軽の家に生まれ、15歳で松下村塾に入門。

吉田松陰の門下生となります。

松陰の死後は高杉晋作らと共に尊皇攘夷運動に奔走し、文久2年(1862年)イギリス公使館焼討事件にも参加しています。

元治元年(1864年)の禁門の変では八幡隊長として参戦し、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀をつとめます。

維新後、明治3年(1870年)に欧州留学し、帰国後は、内務大書記官、内務少輔、農商務大輔などを歴任。

その後、駐独公使、宮中顧問官、枢密顧問官をへて、明治24年(1891年)に1次松方正義内閣では内務大臣に就任しますが、翌年の第2回衆議院議員総選挙において、次官の白根専一とともに警察を動員して強力な選挙干渉を行ない、死者25人を出してしまった経緯を非難され、引責辞職に追い込まれます。

晩年は、吉田松陰の遺志を継ぎ京都に尊攘堂を創設し、勤王志士の霊を祀るとともに、志士の史料を集めました。


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と、まあ、経歴をまとめれば立派ですが、実際には大した人物ではありません。

俗に明治政府は薩長の連合政府だったと言われますが、幕末、西郷隆盛大久保利通など主要な人物がすべて生き残っていた薩摩藩に対して、長州藩は、高杉晋作久坂玄瑞などの大物がほとんど死んでしまい、ビッグネーム木戸孝允(桂小五郎)くらいでした。

そこで、薩長の均衡を保つため、繰り上がり当選のように明治政府の要職に着いたのが、伊藤博文山縣有朋井上馨、そして、この品川弥二郎でした。

なので、どうしても小物感が拭いきれません。


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九段坂公園にはもうひとり、大山巌元帥の騎馬像があります。


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西郷隆盛の従兄弟にあたる大山巌は、維新後は欧州に留学し、征韓論に敗れて下野した西郷ら薩摩藩出身者に代わって、薩閥の首領としての地位を確立しました。

その後は陸軍卿、参謀本部長、陸軍大臣など要職を歴任し、陸軍内においては長州閥の山縣有朋と勢力を2分します。

明治27年(1894年)の日清戦争では陸軍大将として第二軍司令官に就いて旅順攻撃を担当。

その後、元帥となり、明治37年(1904年)の日露戦争では満州軍総司令官として指揮を執りました。


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品川弥二郎の像が建てられたのは明治40年(1907年)、大山巌の像が建てられたのは大正8年(1919年)だそうです。

なぜ、この場所にこの2人の像が建てられたのかはわかりませんが、これも薩長の均衡を保つためでしょうか?


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九段坂公園から歩道橋を渡ると、靖国神社があります。

靖国神社についてはここでは詳しく触れませんが、その大鳥居をくぐってド正面に建てられた大きな像は、長州藩士の大村益次郎です。


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猪突猛進型の熱血攘夷志士を多く排出した長州藩士のなかで、大村だけは異質な存在で、蘭学者だった彼は、はじめから攘夷が不可能であることを知っていました。

もし、幕末の世に生まれていなければ、学者としてその人生を終えたことでしょう。


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ところが、木戸孝允によって見出された大村は、第二次長州征伐でその才能を発揮し、大政奉還後の戊辰戦争では司令官として新政府軍勝利の立役者となり、その後、太政官制における兵部省の初代大輔を務め、事実上の日本陸軍の創始者となりました。

新政府の軍部の最高位である兵部大輔となった大村は、旧式の封建軍隊にかわる洋式の近代兵制の創立を推し進めますが、広く国民から徴兵するという大村の国民皆兵論は、士族の特権を脅かすものとして、多くの元武士たちの反感を買っていました。

そして、その不平士族によって暗殺されます。


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大村像は明治26年(1893年)に完成した日本初の西洋式銅像で、高さ12mあります。

今では高層ビルが立ち並びますが、戦前は、異様な高さで目立っていたそうです。


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靖国神社は、戦前は陸軍省の管轄でした。

そのいちばん目立つ場所に、日本陸軍の創始者である大村の像が建てられたということは、靖国神社がどういう政治的意図を持った神社であるかが理解できます。

まあ、あまり言うと炎上するので、このへんにしときます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-12-25 21:08 | 東京の史跡・観光 | Comments(2)  

江戸城を歩く。 その8 「北桔橋門~北の丸」

「その7」のつづきです。

本丸を出て平川濠の外側から見た北桔橋門です。

門の向こうに見えるのは、天守台です。


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北桔橋門は天守の北の本丸大奥と外部を結ぶ門で、重要地点であることから、濠を深くして石垣は最大級の高さとなっています。


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北桔橋門と外を結ぶ北桔橋から東側を眺めます。

濠は平川濠打込み接ぎの石垣の高さが目を見張ります。


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同じく北桔橋から見た西側の眺望。

濠は乾濠です。


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往時の北桔橋は跳ね上げ橋だったそうで、普段は上げられていたそうです。

現在は、誰でも通行できるようになっていますが、大手門と同じく、入口で警官の持ち物チェックがあります。


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桔橋門の北側は、かつての北の丸です。

現在は北の丸公園として整備され、日本武道館科学技術館などがあります。

その科学技術館の北側には、清水門があります。

この日は、某有名私立大学の入学式が武道館であったようで、スーツを着た若者と親御さんでごった返していました。

お母さん、ヒールで城址の石段はキツそうでしたね。


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写真は清水門の二ノ門にあたる渡櫓門の内側です。


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こちらは、渡櫓門の外側。


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そして、こちらが一ノ門にあたる高麗門

一ノ門と二ノ門で枡形構造になっています。


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清水門の名称は、徳川御三卿清水徳川家に由来するのかと思いきや、逆に、第9代将軍・徳川家重の次男・徳川重好に清水門内の北の丸に屋敷を与えて一家を創立させたため、門名にちなんで清水家と称したそうで、清水門にちなんで御三卿・清水家が生まれたそうです。

清水門の名称の由来はわからないそうです。


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清水門から牛ヶ淵に沿って北に歩くと、北の丸最北端に田安門があります。

写真は一ノ門高麗門


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この田安門の北側が靖国神社、田安門を通って北の丸に入ると、日本武道館があります。


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そして田安門の二ノ門にあたる渡櫓門、枡形側です。


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こちらは渡櫓門内側、武道館側です。

田安門の由来も、徳川御三卿の田安徳川家から来たものではなく、逆に、第8代将軍・徳川吉宗の次男・徳川宗武が田安門の南(現在の武道館のあたり)に屋敷を構えたことから、家名を田安家としたそうです。

「その9」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-12-16 13:12 | 東京の史跡・観光 | Comments(0)