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カテゴリ:いだてん~東京オリムピック噺~( 41 )

 

いだてん~東京オリムピック噺~ 第39話「懐かしの満州」 ~満州と終戦~

 今回は5代目古今亭志ん生が主人公の物語でしたね。昭和20年(1945年)5月6日、志ん生は同じ落語家の6代目三遊亭圓生や講釈師、漫才師らとともに慰問芸人として満州に渡航しました。昭和20年5月というと終戦の3ヵ月前で、この翌日の5月7日にはドイツが連合国に降伏し、枢軸国で残るのは日本だけとなります。連合軍が沖縄に上陸して沖縄戦が始まったのが前月の4月1日で、あのひめゆり学徒隊集団自決したのが翌月の6月。神風特攻隊による菊水一号作戦が始まったのが4月6日で、4月7日には戦艦大和が沈没しています。本土では、東京や大阪だけでなく全国各地の主要都市が空襲を受け始めたのもこの5月。3年8ヵ月続いた第二次世界大戦中、このラスト3、4ヵ月でおびただしい数の死者が出ました。そんな時期に、まだ兵隊さんの慰問活動なんてやってたんですね。


e0158128_18320298.jpg このとき古今亭志ん生55歳、三遊亭圓生は10歳下の45歳でした。満州に渡った彼らは満洲映画協会の傍系である満洲演芸協会と契約を結び、各地で兵士たちを前に落語を演じながらまわったそうです。その契約は7月5日に終わり、そのまま日本へ帰る予定だったのですが、悪化する戦局のなか船便がなくなってしまい、やむなく、次の船が出るまで満州電電傘下の新京放送局の仕事を引き受け、慰問のため各地をまわることになります。このとき志ん生ら一行の引率を担当したのが、このころ新京放送局のアナウンサーをしていた当時32歳の森繁久彌だったそうです。森繁さんといえば、昭和を代表する大俳優で、たしか大河ドラマにも出演していたと思いますが、令和となったいま、もはや大河ドラマに出てくる歴史上の人物になっちゃいましたね。


 8月8日、ソ連が日ソ中立条約破棄して日本に宣戦布告し、満州に攻め込んできました。終戦の1週間前です。日本がポツダム宣言の受諾をもう少し早く決断していれば、のちの北方領土問題はなかったのに・・・といってもあとの祭り。愚かにも日ソ中立条約を根拠にソ連の仲介による和平工作を模索していた日本は、梯子を外されて四面楚歌となり、8月15日正午の昭和天皇による玉音放送をもってポツダム宣言受諾を国民へ表明し、終戦を迎えました。志ん生たちが玉音放送を聞いたのは、大連だったそうです。その1週間後の8月22日にソ連軍が大連に進駐してくることになり、その前日、現地の日本人たちがお別れの会を開き、志ん生と圓生は頼まれて一席ずつ演じたそうです。ドラマでは皆、笑っていましたが、実際には、誰もくすりとも笑いはしなかったとか。まあ、そりゃそうでしょうね。


 ドラマでは志ん生らとともに行動していた小松勝がソ連の進駐軍に射殺されていましたが、実際、満州におけるソ連の進駐軍は日本本土のアメリカ進駐軍と違ってたちが悪く、歯向かう日本人は容赦なく殺され、降伏した日本人は捕虜としてシベリアや中央アジアなどの強制収容所に送られ、過酷な強制労働を強いられました。このシベリア抑留によって65万人以上の男性が極度の栄養失調状態で極寒の環境にさらされ、25万人以上の日本人が帰国できずに死亡したといわれます。ドラマで、若い女はみんな青酸カリで自殺したと言っていましたが、「敦化事件」のことでしょう。8月27日、ソ連軍によって連日に渡り集団強姦され続けていた工場の日本人女性社員が、青酸カリを飲んで集団自決した事件です。また、中華民国政府に協力した日本人約3000人が中国共産党に虐殺された「通化事件」も発生しました。


「沖ソ連軍が本格的に来てからはひでえもんだったよ。沖縄で米兵が・・・、もっと言やあ、日本人が中国でさんざっぱらやってきたことだが。」


 ビートたけしさん演じる晩年の志ん生が語った台詞ですが、まさしく、そのとおりでした。というと、また「売国奴」とか言って騒ぎ出す恥ずかしいやつらがいますが、戦争ってそんなものでしょう。悪いのは日本人でもロシア人でもアメリカ人でも中国人でもなく、戦争なんです。戦争が人を狂気にするんです。


 志ん生が大連でウォッカをあおって意識を失ったという話は実話だそうですね。ついにソ連軍が進駐してきたとき、志ん生は安く分けてもらったウォッカを6本も飲み干し、ぶっ倒れたそうです。後年、志ん生は「このとき自殺するつもりだった」と語っていたそうですが、志ん生を介抱した圓生は、「なあに嘘ですよ。(中略)ありゃあね、自殺するような、そんなヤワな人間じゃないですよ」と否定していたそうです。


 今回、主人公の金栗四三田畑政治がほとんど出てきませんでしたね。私はこれまで当ブログにおいて、主人公が出ない回かあってもいいんじゃないか、と度々発言してきました。主人公を無理やり歴史上の出来事に絡めて出そうとするから、話が嘘くさくなって面白くなくなる。大河ドラマが歴史ドラマである以上、その流れのなかで主人公が出てこない回があってもいいと思うし、そうすることで、物語により厚みが出るとわたしは思います。今回、それを見事にやってのけていて、それがまた素晴らしい出来映えでした。聞くところによると、もともと脚本家の宮藤官九郎さんが「満州の古今亭志ん生と戦争」を書きたくて着想したのがこの物語で、オリンピック噺は後付けだったとか。なるほど、だから志ん生が語り部だったんですね。その意味では、今回が志ん生の物語の着地点壮大な伏線の集大成の回だったといえるでしょう。まさに「神回」でした。



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by sakanoueno-kumo | 2019-10-14 18:32 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第38話「長いお別れ」 ~東京オリンピック中止と第二次世界大戦~

e0158128_19143177.jpg 嘉納治五郎が命をかけて死守した昭和15年(1940年)の東京オリンピック開催でしたが、その嘉納が急逝すると、たちまちオリンピック開催反対論が息を吹き返します。日中戦争が激化するなか、昭和13年(1938年)4月に公布された国家総動員法によって、すべての物資が軍の統制下に置かれ、競技場並びに関連施設の建設がさらに難しい状況になります。また、諸外国からの日本に対する風当たりもますます強くなり、アメリカをはじめヨーロッパ各国から東京オリンピックボイコットの声が高まり始めました。こうなると、これまで東京開催を支持していたIOC会長ラトゥールも、ついに反対論に押され、日本に開催辞退を求めるようになります。これを受けて日本は、7月15日、正式に東京オリンピック中止を閣議決定し、翌日、組織委員会によって発表されました。嘉納の死からわずか2ヶ月後のことでした。


 「オリンピックの開催は、政治的な状況などの影響を受けるべきではない」


 嘉納が最後のIOC総会で訴えたオリンピック理念ですが、その理想は間違っていないにしても、それを実行するのは実質的には不可能で、それは、21世紀の現代でも変わっていません。国家規模で行われるイベントである以上、国はそれをガッツリ政治利用しようとします。百歩譲って平和親善のための政治利用はやむを得ないとしても、その逆は(たとえばボイコットとか)、やはりやるせないですね。何よりいちばん気の毒なのは、4年に一度の舞台にかけるアスリートたちです。


 その後、辞退した東京に代わってフィンランドヘルシンキ代替開催地となりますが、その翌年の昭和14年(1939年)9月3日、ドイツがポーランドに侵攻したことにより、イギリス、フランス両国が宣戦を布告。ここに第二次世界大戦が始まります。その煽りを受けて代替開催地のフィンランドにもソ連軍が侵攻する事態となり、結局、IOCは第12回オリンピック開催を断念します。欧米諸国もアジアも、世界中がスポーツどころじゃなくなっていました。


 そして国際的に孤立する日本は、東京オリンピックが開催されるはずだった昭和15年(1940年)、ドイツとの関係を強化するため、イタリアも加えた日独伊三国同盟を結びます。これにより、アメリカ、イギリスとの対立は決定的となり、翌年の対米戦開戦につながっていくんですね。それにしても、東京オリンピック招致のために立候補取り下げを談判したムッソリーニと、東京オリンピック招致を後押しした(とされる)ヒトラーとここに来て手を結ぶに至るとは、やはり、オリンピック招致運動は政治だということですね。


 ドラマでは第二次世界大戦はほとんど描かれないようで、一気に年月が過ぎていきました。まあ、物語の主題はオリンピックですから、それでいいんじゃないでしょうか。そして描かれたのは、昭和18年(1943年)10月の学徒出陣。戦局はいよいよ悪化し、その兵力不足を補うために在学中の高校生や大学生も徴兵されることになったわけですが、そのなかには、平時であればオリンピック代表選手になっていたであろう有名アスリートたちが多く含まれ、戦地へ送られました。そして、その出陣学徒壮行会が行われたのが、皮肉にも東京オリンピックが開催されるはずだった明治神宮外苑競技場だったんですね。ドラマの金栗四三の愛弟子・小松勝は架空の人物のようですが(たぶん、誰かモデルとなる人がいるのでしょうね)、彼のように、東京オリンピックに出るはずだった若者が、軍服を着てここを行進し、そして帰らぬ人となったケースがたくさんあったのでしょう。嘉納治五郎が平和の祭典を開催するために全精力を注いで建てた競技場が、一転してアスリートを死地に送り込む舞台となってしまった。これ以上の皮肉があるでしょうか。嘉納の無念極まりない嘆きが聞こえてきそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2019-10-07 21:27 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第37話「最後の晩餐」 ~嘉納治五郎の死~

 昭和15年(1940年)の東京オリンピック招致に成功した日本でしたが、その開催準備に入ると、すぐさま様々な問題が浮き彫りになります。まず、最も大事なメインスタジアムの計画が、いきなり暗礁に乗り上げてしまいます。当初、メインスタジアムは神宮外苑陸上競技場12万人収容できるものに改修し、その周辺にある代々木練兵場の一部を利用して各競技場を建設する予定でしたが、陸軍がこれに難色を示し、この計画は頓挫してしまいます。その後、代替案をめぐって東京オリンピック組織委員会は迷走し、スケジュールは大幅に遅延することになります。


 また、昭和12年(1937年)7月7日に起きた盧溝橋事件に端を発し、日本と中国は交戦状態となっていました。現在ではこれを「日中戦争」と呼びますが、当時は「支那事変」と呼ばれていました。その理由は、両国ともに宣戦布告がないまま戦闘状態に突入したので、国際法上は「戦争」ではなく「事変」にあたるということだったようですが、現在では、事実上の戦争状態だったという見解から、「日中戦争」と呼ばれることがほとんどになっています。実際に宣戦布告が行われたのは、真珠湾攻撃の翌日の昭和16年(1941年)12月9日に蒋介石側から日本側に布告され、日中間が正式に戦争状態になったのは、そこからという見方もあります。まあ、呼び方はどうあれ、日中間は交戦状態にあったわけです。


そんななか、国内外から東京オリンピック返上論が叫ばれはじめます。日中戦争の長期化によって鉄材の統制が厳しくなり、スタジアムの建設に必要な鉄材が確保できず、また、働き盛りの人々が多く徴兵されているため作業員も集まらず、工事は遅れるばかり。各国のIOC委員もこれを不安視するようになり、「交戦国での開催は前例がない」と、準備の遅れを危ぶむ声が大きくなっていきます。また、ドラマにもあったように、政友会河野一郎議員が衆議院予算総会で東京オリンピック反対論を声高に演説し、さらに、陸軍大臣杉山元が議会において開催中止を進言するなど、東京オリンピック開催に否定的な空気が国内で広まっていきます。


e0158128_19143177.jpg そんな状況下の昭和13年(1938年)3月、エジプトのカイロでIOC総会が開かれます。その中心議題はもちろん、東京オリンピック開催をどうするか・・・でした。開催地を他国に変更するとしても、ギリギリのリミットでした。しかし、日本を代表して会議に出席した嘉納治五郎は、あくまで東京開催を主張します。その論旨は、「オリンピックの開催は、政治的な状況などの影響を受けるべきではない」というものでした。この主張に対し、各国のIOC委員のなかで異を唱える者はなかったといいます。19日までの会議で東京オリンピック開催が再確認され、同時に札幌での冬季大会開催も決定し、20日、ラジオ演説で嘉納自身が改めてこのことを故国に伝えました。


 なぜ嘉納はそこまで東京開催に固執したのでしょう。ドラマ中、田畑政治が嘉納に対して「今の日本は、あなたが世界に見せたい日本ですか?」と諫言していましたが、嘉納ほどの人物なら、いまの日本では情勢的にも物理的にも不可能であることは理解できたはずです。「政治とスポーツは別」という理想をあくまで貫きたかったのか、あるいは、自身の晩年のすべてを費やした東京招致をここでご破算にしたくないという意地だったのか。今となってはその心中は想像するしかありませんが、ただ、このような状況下でIOC委員を説得できたのは、一にも二にも嘉納の人徳以外にはなかったでしょう。どう考えても、東京開催を支持する理由が他にないですからね。彼がIOC委員の最古参ということもあったでしょうが、よほど各国の委員から一目置かれる存在だったのでしょうね。


 かくして東京オリンピック開催中止を阻止した嘉納治五郎でしたが、彼はそれを見ることなく、その帰国途中の船上で急死してしまいます。IOC総会後、22日にカイロからアテネに入り、26日にクーベルタン男爵慰霊祭に参列したのち、ヨーロッパ各国、さらにアメリカに渡ってIOC委員たちを訪問し、礼を述べてまわったそうです。そして4月23日、カナダのバンクーバーから氷川丸に乗船して帰国の途につきますが、その船上で風邪をこじらせて急性肺炎を併発し、5月4日、帰らぬ人となりました。享年77。横浜帰着のわずか2日前のことでした。


 嘉納逝去の報は、日本のみならずアメリカでも大きく報じられ、各国から追悼文が寄せられました。幕末に生まれ、講道館柔道の創始者となり、明治、大正、昭和という激動の時代に世界を股にかけてスポーツの発展に力を尽くした嘉納。今やグローバルスタンダードとなった柔道を通して、「逆らわずして勝つ」という彼の精神は世界中に広まりました。あるいは、世界に輸出した最初のサムライスピリッツだったかもしれませんね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-09-30 19:01 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第36話「前畑がんばれ」 ~伝説の名実況~

アドルフ・ヒトラー率いるナチス体制下のプロパガンダとして開催された第11回ベルリンオリンピックでしたが、日本選手団は4年前のロサンゼルス大会より多い179人。メダルも金、銀、銅あわせて4年前と同じ18個を獲得しました。そのうち11個が競泳で獲得したものでしたから、競泳王国ニッポンの面目躍如といったところだったでしょうか。その中でも、最も主役といっていいのが、競泳の前畑秀子だったでしょう。「前畑ガンバレ!ガンバレ!」の実況は、あまりにも有名ですね。


e0158128_15562366.jpg 前畑秀子は大正3年(1914年)生まれで、このとき22歳。実家は和歌山の豆腐屋で、泳ぎは紀の川で覚えたといいます。小学校時代からその才能を発揮した彼女でしたが、当初は小学校卒業後は水泳をやめて豆腐屋を手伝うはずでした。ところが彼女の才能を惜しんだ学校長など関係者が両親を説得し、名古屋の高等女学校に編入して水泳を続けることになります。親元を離れて単身名古屋で寮生活。当時の15、6歳は今の子たちより精神年齢はずいぶん大人だったと思いますが、それでも、やはり不安だったでしょう。ところが、彼女が17歳のときに両親が相次いで病死してしまいます。そんな深い悲しみのなか、翌年にロサンゼルスオリンピックに出場したんですね。結果は0.1秒差で惜敗。銀メダルでした。このとき彼女は家庭の事情もあって引退を考えていたそうですが、祝賀会に駆けつけた東京市長の永田秀次郎から、「なぜ君は金メダルを獲らなかったのか。わずか0.1秒差ではないか。たったひと掻きの差だよ。」というデリカシーのない言葉を浴びせられ、この永田市長の言葉に奮起して現役続行を決意したといいます。この話は第32話「独裁者」の稿でもふれましたね。


 そして向かえたベルリンオリンピックで、彼女は4年前に0.1秒差で金メダルを逃した200m平泳ぎに出場。地元ドイツのマルタ・ゲネンゲルとデッドヒートを繰り広げ、1秒差で見事勝利を収めました。このときNHKの河西三省アナウンサーの伝説の実況は、のちにレコードにもなりました。


「あと25、あと25、あと25。わずかにリード、わずかにリード。わずかにリード。前畑、前畑ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ。ゲネンゲルが出てきます。ゲネンゲルが出ています。ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ。前畑、前畑リード、前畑リード、前畑リードしております。前畑リード、前畑ガンバレ、前畑ガンバレ、前、前、リード、リード。あと5メーター、あと5メーター、あと5メーター、5メーター、5メーター、前っ、前畑リード。勝った勝った勝った、勝った勝った、勝った、前畑勝った、勝った勝った、勝った、勝った勝った、前畑勝った、前畑勝った、前畑勝った、前畑勝ちました。前畑勝ちました。前畑勝ちました。前畑勝ちました。前畑勝ちました。前畑の優勝です。前畑優勝です」


 実に「前畑ガンバレ!ガンバレ!」23回「勝った!勝った!前畑勝った!」12回連呼しています。実況というより、ただの応援ですね(笑)。でも、その興奮は十分に伝わってきます。実況というのは、その描写を正確に伝えるということも必要かもしれませんが、スポーツ実況の場合、その場の熱気や臨場感を伝えることがいちばんなのかもしれません。その意味では、やはりこれは後世に伝説となるほど名実況といえるのかもしれません。


 ドラマでは、「ガンバレ」の言葉に押しつぶされそうになる前畑のプレッシャーとの戦いが描かれていましたね。後世の私たちは、この「前畑ガンバレ!」の実況と、日本人初の女性金メダリストという偉業しか知りませんが、たしかに、彼女にとってレース前の「前畑ガンバレ!」は、プレッシャーでしかなかったかもしれません。この56年後のバルセロナオリンピックの同種目で金メダリストとなった岩崎恭子選手は、それほど注目されていないなかでの金メダル獲得だったので、比較的ノンプレッシャーで臨んだ結果だったといえます。その後、注目されるようになってからは、そのプレッシャーから思うような結果が出せなくなったそうです。また、過去には、長崎宏子選手や千葉すず選手など、オリンピックメダル候補として注目された選手は他にもいましたが、残念ながらオリンピックでは思うような結果が残せていません。やはり、日の丸を背負うというプレッシャーは、たいへんなものなんでしょうね。そんななか、前畑秀子は日本中の期待を一身に受け、そのプレッシャーのなかで金メダルを獲得したわけです。これは、まさに正真正銘のスーパーアスリートといえるでしょう。


 ちなみに、前畑の獲得した金メダルは、のちに空襲で焼失してしまったそうです。残念な話ですが、金メダルはそのであって、それがなくなっても、彼女が日本人初の女性金メダリストであるという事実は永遠に残り続けますからね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-09-23 22:05 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第35話「民族の祭典」 ~東京五輪招致の成功とベルリン五輪~

 二・二六事件から五ヵ月後の昭和11年(1936年)7月29日、ベルリンIOC総会が開催されました。前年の総会で日本がムッソリーニに交渉してローマを辞退させたことにより、IOCの反感を買って決定が先送りになった昭和15年(1940年)の第12回オリンピック大会の開催国を決定するための総会です。前年の政治的な運動の責任をとって杉村陽太郎がIOC委員を辞任したため、日本からの出席は嘉納治五郎副島道正の2人。嘉納はIOC委員としては最古参で、副島は初めての総会出席でした。


 候補地は東京ヘルシンキ一騎打ちでした。東京の最大の不利は、極東の遠い国ということ。これまでの11回のオリンピックは、全て欧米で開催されてきました。飛行機が発達していないこの当時、ヨーロッパから日本に来るには、船でアフリカ、インド洋を経て日本に向かうか、あるいは北米回りの航路か、はたまたシベリア鉄道でソ連を横断して日本に入るかのいずれかのコースしかありませんでした。いずれも20日間近い日数を要します。東京開催に難色を示すIOC委員の共通の理由は、渡航日数が長く旅費がかかりすぎるということでした。


e0158128_19143177.jpg しかし、これに嘉納は真っ向から反発します。


 「日本はその極東から、1912年以来二十余年、毎年多くの選手を派遣している。日本が遠いということは理由にならない。むしろ、東京で開催することによって、オリンピックはようやく欧米のものから世界的な文化になる。オリンピックは当然日本に来るべきだと思われるにもかかわらず、もし来ないのであれば、それは正当な理由が斥けられたということに他ならない。それならば、日本からヨーロッパへの参加また遠距離であるから、出場するには及ばないということになる。そのときは日本は更に大きな世界的な大会を開催してもいいと思っている」


 この嘉納の半分脅しともとれる強気の熱弁が功を奏したのか、投票の結果、36票対27票東京が勝利しました。アジアではじめてのオリンピック開催が決定。満州事変以降、日本は国際連盟を脱退するなど世界的に孤立して数年が経過していたこの時代に、せかいスポーツの国際大会を東京で行うことの支持を取り付けた。これは一にも二にも嘉納の功績といって大過はないでしょう。まさに、スポーツと政治は別ものという理想を体現してみせました。まったく、すごいじいさんですね。しかし、実際のアジアでのはじめてのオリンピック開催は、20年以上先になることは周知のところです。やはり、スポーツと政治は切り離せなかったんですね。それは、これから描かれていくのでしょう。


e0158128_00002262.jpg 同じ年、第11回オリンピックベルリン大会が開催されました。第一次世界大戦によって第6回オリンピックベルリン大会が中止されてから20年。ドイツ国民にとっては悲願のオリンピック開催だったでしょう。もっとも、この20年の間にドイツは様変わりしていました。昭和8年(1933年)にドイツの政権を掌握したアドルフ・ヒトラーは、昭和10年(1985年)に「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」(ニュルンベルク法)に制定し、アーリア民族至上主義のもとに国内のユダヤ人を迫害していました。この当時、第一次世界大戦の過酷な戦後措置に対して深い遺恨を抱いていたドイツ国民が、このヒトラーの思想に同調し、多くの支持を寄せるようになります。そんななか、ヒトラーは当初、オリンピックは「ユダヤ人の祭典」だとしてベルリン開催に難色を示していましたが、しかし、側近から「大きなプロパガンダ効果が期待できる」との説得を受けて、開催することに同意したといいます。ヒトラーはオリンピックを通じて国威を見せつけるべく、膨大な国家予算を投じて10万人以上を収容する巨大なメインスタジアムを建設するなど、大いに政治利用しました。やはり、スポーツと政治は切り離せなかったんですね。


 ちなみに、アテネからランナーが聖火をリレーして開催地に運ぶという、いわゆる聖火リレーが初めて行われたのが、このベルリン大会だったそうです。実はこれも、彼らゲルマン民族こそがヨーロッパ文明の源流たるギリシャの後継者であるというヒトラーの思想から生まれたプロパガンダだったそうですが、当初の思惑はさておき、いまなお続いている聖火リレーを考案したのは、唯一、ヒトラーの後世に残した功績といえるかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2019-09-16 00:00 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第34話「226」 ~二・二六事件~

 昭和11年(1936年)2月26日早朝、陸軍青年将校たちが約1500名の下士官兵を率いて日本中を震撼させる大規模なクーデターを断行しました。世にいう「二・二六事件」です。彼らは、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、牧野伸顕前内大臣を襲撃し、首相官邸をはじめ、陸軍省、参謀本部、警視庁などを占拠します。マーちゃんこと田畑政治の務める朝日新聞社も襲撃されました。このとき殺されたのは、岡田首相と間違われた義弟で海軍大佐の松尾伝蔵、高橋是清、斎藤實、渡辺錠太郎の重臣4名と、警察官5名。鈴木貫太郎は瀕死の重傷を負います。牧野伸顕はからくも逃げおおせ、難を逃れました。決起した将校たちは4日間に渡って国の中枢を占拠し、東京の首都機能は完全に麻痺してしまいました。


 当時、ニューヨークで起こった世界恐慌の影響で、日本は深刻な不景気(昭和恐慌)に陥っていました。企業は次々に倒産し、まちは失業者であふれていました。また、デフレからの農作物の価格の下落により、農村も大きなダメージを受け、農家の娘の「身売り」が社会問題となっていました(農村恐慌)。まさに、日本経済はどん底の状態にあったんですね


 そんな中、当時の政党内閣は何の策も講じず、相変わらず財界と癒着して汚職事件を繰り返している・・・と、国民は政治に不満を抱いていました。こうした国民の政治不信を背景に、軍部の一部の青年将校たちは右翼と協力して国家の革新を目指すようになり、過激な行動を起こすようになります。それが、昭和6年(1930年)の浜口首相狙撃事件、昭和7年(1931年)の三月事件、昭和7年(1932年)の血盟団事件、そして同年の五・一五事件などを生みます。


e0158128_22095188.jpg 当時の陸軍内は「皇道派」「統制派」と2つの派閥に分かれていました。統制派は、陸軍の中枢の高官が中心になった派閥で、彼らは政府や経済に介入し、軍部よりに政府を変えていこうと考えていました。これに対して皇道派は、天皇を中心とする天皇親政を目指し、そのためには武力行使も辞さないという過激派です。二・二六事件は、この皇道派が起こした事件です。彼らは「昭和維新」「尊皇討奸」をスローガンに掲げて天皇を中心とした政治体制を確立すべく、そのためには天皇を取り巻く「君側の奸」を排除すべしとテロを起こします。


 ところが、これに激怒したのが、彼らが最も崇敬していた昭和天皇でした。昭和天皇は彼らを「賊徒」と見なし、事態に厳しく対応するよう軍の上層部に求めます。当初、陸軍内部では首都での同士討ちを避けたいという思いから、武力での鎮圧に消極的でしたが、一説には、天皇は自ら軍を率いて鎮圧するとまで明言されたといい、そうなると、陸軍も動かざるを得なくなり、東京市に戒厳令が敷かれ、海軍とともに武力鎮圧に乗り出しました。崇敬してやまない天皇陛下から「賊徒」とみなされた彼らは、もはやその行動の意義を失い、29日に部隊は解散され、クーデターは未遂に終わりました。事件の首謀者である青年将校ら19名は、裁判の結果、銃殺刑とされ、彼らの理論的指導者だった北一輝も、事件に直接関与しませんでしたが、死刑となりました。


 これとよく似た事件が、幕末にもありました。文久3年(1863年)8月に孝明天皇大和行幸に乗じて大和国で挙兵した天誅組の変です。彼らは「尊皇攘夷」をスローガンに孝明天皇の攘夷親征の魁となるべく討幕の兵を挙げますが、これを最も拒絶したのは当の孝明天皇で、彼らの挙兵の翌日に京都で八月十八日の政変が起き、天皇から「暴徒」とみなされた天誅組は、朝廷からも幕府からも追われる身となり、やがてほとんどが討死します。二・二六事件の将校たちとそっくりです。


 二・二六事件の将校たちも天誅組の志士たちも、彼らは彼らなりの正義があったのでしょうが、客観的に見れば、彼らがやったことは、どう考えても義挙とは言えず、単なるテロリズムでした。ピュアなだけで大局観がなく、猪突猛進型青二才たちが起こした愚かしい事件と言わざるを得ませんね。


 少しだけオリンピック招致の話もしましょう。二・二六事件から1ヶ月も経っていない3月19日、IOC会長のラトゥールが来日しました。日本滞在中、彼は明治神宮外苑競技場などの競技施設を視察したほか、中山競馬場講道館を訪問し、さらに関西にも足を伸ばし、甲子園球場を視察したのち京都や奈良を観光したそうです。3月27日には昭和天皇にも謁見したとか。陛下も二・二六事件が集結したばかりのたいへんなときだというのに、よく時間を割いていただけましたね。まさに、この日本の「お・も・て・な・し」攻勢は、オリンピック招致に大いに功を奏することになります。



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by sakanoueno-kumo | 2019-09-09 22:12 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第33話「仁義なき戦い」 ~ムッソリーニとの会見~

e0158128_20034565.jpg 昭和15年(1940年)の東京オリンピック招致運動に奔走する嘉納治五郎は、イタリアのムッソリーニ首相と交渉してローマに辞退してもらおうと思い立ち、新たにIOC委員に就任させた杉村陽太郎副島道正の2人をイタリアに向かわせます。杉村は嘉納の懐刀ともいうべき人物で、嘉納が校長を務めていた高等師範学校付属中学校の卒業生で、講道館柔道でも嘉納に師事し、六段の実力者でした。明治41年(1908年)に東京帝国大学を卒業し、外務省に入省。フランスのリヨン大学において博士号も取得し、以後、駐フランス大使館一等書記官、国際連盟事務局長次長を経て、日本が国際連盟を脱退するまで事務局長兼政治部長を務めました。身長185cm、体重100kgの巨漢で、フランス在外公館勤務時代は、柔道の指導にも尽力したそうです。まさに文武両道。嘉納の代わりが務まるとしたら、彼しかいなかったでしょう。


e0158128_20035150.jpg 一方の副島も、嘉納が学習院の教頭を務めていた頃の生徒で、当時の副島は成績があまり良くなかったようで、しばしば嘉納教頭から叱責されたそうですが、卒業後はケンブリッジ大学に学び、宮内省に入って東宮侍従式部官を務め、さらに貴族院議員を務めています。実業家としても京城日報社社長、日英水電・早川電力役員などを務めるなど活躍しています。杉村に負けずとも劣らない有能な人物でした。ちなみに彼は、幕末から明治にかけて活躍した元佐賀藩士・副島種臣の三男で、伯爵でした。


 昭和10年(1935年)2月18日、杉村と副島は陽気な独裁者・ムッソリーニと会談しますが、ドラマのとおり、副島がムッソリーニとの会見直前に体調を崩して倒れてしまい(インフルエンザと肺炎を併発)、会談は持ち越しとなります。この、病を押してまで交渉しようとした副島の情熱がムッソリーニの心に響き、イタリアは昭和15年(1940年)のローマ大会開催を辞退し、東京に譲ると約束します。まさにサムライスピリッツだったといえるでしょうか。もっとも、それは「たてまえ」で、ドラマで河野一郎が言っていたとおり、多分に政治的思惑がはたらいてのことだったでしょうね。情熱だけで国家事業が動くとは思えません。


 かくしてムッソリーニから立候補取り下げの約束を取り付け、2月26日、オスロでのIOC総会に嘉納の代理として杉村が出席しますが、その席で、杉村と副島がオリンピック招致に政治を持ち込んだことが問題となります。まあ、そりゃそうでしょうね。実際には、現代でもスポーツと政治は完全に切り離すことはできていないのですが、たてまえは、やはりオリンピックと政治は無縁でなければなりません。工作が真っ向勝負すぎましたね。もうちょっと上手くやれなかったのでしょうか。


 この問題に対してIOCは、警告を促す書簡を嘉納治五郎と副島道正宛に送りました。そして、開催地決定を1年先送りにすることが決定されます。これを受けた嘉納と東京市は、IOC会長のラトゥールを東京に招待します。実際に日本をこの目で見てもらって、いかに日本が開催国にふさわしいかを知ってもらおうという趣旨ですが、まあ、言ってみれば接待攻勢ですね。これも、いわば政治工作といえるのではないかと。やはり、オリンピックと政治は切っても切り離せません。



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by sakanoueno-kumo | 2019-09-02 20:11 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第32話「独裁者」 ~前畑秀子の決意~

 昭和7年(1932年)秋、ロサンゼルスオリンピックから帰国した選手らをたたえる「大歓迎祭」日比谷野外音楽堂で行われました。4年前のアムステルダムオリンピックでは5個だったメダル獲得数が、ロサンゼルスでは金7、銀7、銅4の18個に大躍進。そのうちの12個水泳陣が獲得していたわけで、総監督を務めた田畑政治は、さぞ鼻が高かったことでしょう。


e0158128_15562366.jpg その祝賀会に駆けつけた東京市長の永田秀次郎が、女子200m平泳ぎで銀メダルを獲得した前畑秀子に対して、「なぜ君は金メダルを獲らなかったのか。わずか0.1秒差ではないか。たったひと掻きの差だよ。」という言葉を浴びぜ、非難を浴びていましたが、あれ、本当の話だそうですね。それだけ期待していたからとっさに口に出てしまった言葉だったのでしょうが、どうも、お偉方というのはこういうとき無神経な発言をする方が多いですよね。近年でも、平成26年(2014年)のソチオリンピック女子フィギュアスケート痛恨のミスをした浅田真央選手に対して、「見事にひっくり返った」「あの子、大事なときには必ず転ぶんですよね」「負けるとわかっていた」などといった配慮にかける発言をして非難された元総理大臣がいましたよね。あれと同じようなものだったでしょう。どちらも、本人としては激励の意味での発言だったのでしょうが、やはり、デリカシーがなさすぎます。そんな無神経なおっさんが、令和2年(2020年)の東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の会長をやってるんですから、先が思いやられますね。また、失言をやらかしそうです。


 ちなみに、ネタバレになりますが、引退を考えていて前畑秀子選手は、この永田市長の言葉に奮起して現役続行を決意し、翌年には世界記録樹立、4年後には日本人女子選手初のオリンピック金メダリストとなります。平成の浅田真央選手は、森喜朗元総理の失言の翌日のフリーで完璧な演技を見せ、自己ベストを更新しました。やはり、一流のアスリートは、デリカシーのない言葉もバネにする強靭な精神力を持っているんですね。


e0158128_15561983.jpg その永田市長が言い出しっぺではじまった昭和15年(1940年)の東京オリンピック招致ですが、道はなかなか険しいものでした。昭和8年(1933年)に満州国の承認が国際連盟否決されると、日本は連盟を脱退。満州国と国境を接する華北地方では日本軍と中国軍の小競り合いが頻発し、日本は国際社会の批判を浴びて孤立感を深めていました。そんななかで東京にオリンピックを呼ぶというのは、極めて困難な道だったのですが、嘉納治五郎は諦めずに奔走します。これまでIOC委員は嘉納と岸清一の2人だけでしたが、昭和8年(1933年)6月のウィーン総会で杉浦陽太郎を3人目のIOC委員に推挙し、就任させます。杉浦は日本が脱退するまで国際連盟事務局次長を務めていた人物で、嘉納の懐刀のような存在でした。しかし、ドラマのとおり、同年9月に岸清一が急逝。嘉納は長年の同志を失ってしまいます。ドラマで左目だけが二重で大騒ぎするというどうでもいい話がコミカルに描かれていましたが、この写真を見てみると、たしかに左目だけ二重なんですね(笑)。こういうのも「史実」というんでしょうか(笑)? こんなところに着目してあんな話を作っちゃうなんて、さすがはクドカンです。


 岸清一が逝去した翌年の昭和9年(1934年)5月に行われたIOC総会で、嘉納は副島道正をIOC委員に推挙し、就任させました。こうして体制を整えた嘉納は、東京オリンピック招致の強敵はローマと絞り、11月の東京市実行委員会で奇抜な策を提案します。すなわち、ムッソリーニと交渉してローマに辞退してもらおうという策です。さすがは、「逆らわずして勝つ」の嘉納です。ムッソリーニ、ヒトラーきな臭い名前が出てきましたね。時代に暗雲が立ち込めはじめましたが、嘉納たちは、そんなことより東京オリンピック招致だったようです。その後の歴史を知っている私達にしてみれば、少し滑稽にも思えますが、彼らは超真剣だったのでしょう。



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by sakanoueno-kumo | 2019-08-26 16:01 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第31話「トップ・オブ・ザ・ワールド」 ~過去の栄光が持つ底力~

 今回も前話から続いて昭和7年(1932年)夏の第10回ロサンゼルスオリンピックの話でしたね。この大会に日本はこれまで最も多い131名の出場選手を送り込みましたが、そのなかでも田畑政治総監督とする日本競泳陣の活躍は凄まじく、男子競泳6種目中5種目で金メダルを獲得します。とくに背泳ぎでは金銀銅すべてを日本人選手が獲得し、表彰台を独占しました。唯一金メダルを逃した400m自由形の大横田勉選手も銅メダル。まさに、「水泳王国ニッポン」の異名が世界に轟いた大会だったといっていいでしょう。


 e0158128_17101632.jpg第29話では、かつて日本競泳界のエースだった高石勝男が、後輩たちの急成長に押されて代表枠から漏れ、ノンプレイングキャプテンとして競泳陣を支える心の葛藤が描かれましたが、今回は、同じく4年前の第9回アムステルダムオリンピック金メダリストだった鶴田義行選手の姿が描かれました。鶴田はこのとき30歳高石同様アスリートとしてのピークは過ぎていたのですが、高石と違っていたのは、今回も代表選手に選ばれていたことでした。もっとも、日本としての期待度は若き新鋭の小池禮三選手のほうが大きく、ドラマで描かれていたように、鶴田は小池の練習台といった立場での出場だったようです。ところが、ふたを開けてみれば、鶴田は小池とともに決勝に勝ち進み、決勝ではその小池を抑えて見事に優勝。鶴田は日本人初のオリンピック連覇者となります。わからないものですね。オリンピック競泳平泳ぎでの連覇は、男女を通じてこの鶴田と、そして平成のスター・北島康介選手の二人だけだそうです。


 e0158128_17102028.jpgこれとよく似た話が、平成の女子マラソンでもあります。それは、平成4年(1992年)のバルセロナオリンピックと平成8年(1996年)のアトランタオリンピック2大会連続メダリストとなった有森裕子選手。今でこそ彼女は日本女子マラソンのパイオニアとして名高い存在ですが、当時の彼女は、決してそんな期待度の高い選手ではありませんでした。初めて出場したバルセロナ大会のときは、代表選手3人の3番目の枠松野明美選手と争い、泥仕合のすえ勝ち取ったものの持ちタイムは一番遅く避難や誹謗中傷を浴びせられるなかの出場だったのですが、そんななかで見事銀メダル獲得。それでも、陸上ファンの中では「松野を出場させていたら金メダルだったんじゃないか!?」いう声が多かったのを覚えています。


 そして、その4年後のアトランタ大会のときも、やはり前回と同じく3人目の出場枠をギリギリ獲得。しかし、3選手の中で年齢は一番上で持ちタイムも最も遅く、ファンや専門家の期待はもっぱら浅利純子選手に集中しており、有森選手は過去の選手といった見方が強かった。ところが、ふたを開けてみると、有森選手は見事銅メダルに食い込み、日本女子陸上選手初の2大会連続メダリストとなります。その後は一気に国民的英雄となり、まるで最初から国民の期待を一身に背負っていたかのような印象で後世に伝わっていますが、決してそうではなかったんですね。有森選手にしてもドラマの鶴田選手にしても、過去の栄光というのは、決して侮ることはできない底力になるのかもしれません。ただ、だとしても、過去の実績に重点を置いて選手を選考するというのは、それはまた違うように思います。難しいですね。


 話をドラマに戻して、大会終了後のエキシビションが描かれていましたが、あれ、史実だそうです。日本は初めて出場したアントワープオリンピックからわずか10年余りで「水泳王国ニッポン」を築くに至ったわけですが、それを可能にしたのは、400年以上の伝統を誇る日本泳法にあった、と。たしかに、アントワープ大会では「クロール」という最先端の泳法を知らずに惨敗を喫しただけで、こと「泳ぐ」ということに関しては、周囲を海で囲われた日本では常に身近にあった文化だったわけです。日本の躍進は当然の結果だったのかもしれませんね。


 ちなみに、エキシビションの日本泳法、今のシンクロナイズドスイミングに似てましたね。日本のシンクロが強いのも、原点は日本泳法にあるのかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2019-08-19 17:17 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第30話「黄金狂時代」 ~実感放送~

 昭和7年(1932年)夏の第10回ロサンゼルスオリンピックに、日本はこれまで最も多い131名の出場選手を送り込みましたが、そのなかでも田畑政治総監督とする日本競泳陣の活躍は凄まじく、男子競泳6種目中5種目で金メダルを獲得します。とくに背泳ぎでは金銀銅すべてを日本人選手が獲得し、表彰台を独占しました。唯一金メダルを逃した400m自由形の大横田勉選手も銅メダル(競技前に胃腸炎を患っていたというのは実話のようです)。まさに、「水泳王国ニッポン」の異名が世界に轟いた大会だったといっていいでしょう。


 そんな現地の興奮を本国に伝えたのが、ドラマで描かれていた「実感放送」でした。当初、日本はこの大会で初めてのラジオ実況放送を計画していました。アメリカとの交渉でその許可も得ていたそうですが、ところが、直前になって放送が不可となってしまいます。その理由は、「開催国アメリカの国内放送も許可していないのに、外国である日本の実況放送は認められない」というものだったとか。では、なぜアメリカでも国内放送しなかったかというと、ラジオで放送すると、現地での観戦客の客足が遠のくという考えからだったようです。


これとよく似た話は日本にもあて、テレビ放送の草創期にも、プロ野球の実況放送を始めようとする計画が上がったのに対し、当初は、球場への客足が遠のくとして反対の声が多かったといいますし、今お騒がせの吉本興さんでも、芸人さんのラジオ出演を寄席に客が来なくなるという理由から拒んでいたといいます。しかし、実際には、それらのメディアを通すことによって、広く大衆の認知度が高まり、集客を大いに高める効果があるわけですが、まだこの当時は、ラジオの宣伝効果というものがそれほど理解されていなかったということでしょうね。


e0158128_11335181.jpg とにかく、競技の実況放送ができなくなりました。そこで、苦肉の策として行われたのが、競技を観戦したアナウンサーがその場でメモを取り、そこから車で15分ほどのところにあるスタジオに移動してから、あたかも実況しているように実感を込めて伝えるという方法。文字どおり「実感放送」だったわけです。放送時間は現地時間の午後7時から8時まで、日本時間は翌日の正午から午後1時までとなります。ちょうど昼休みの時間帯ということもあって、多くの国民がラジオに耳を傾けました。100メートル自由形で金メダルを獲った宮崎康二選手の決勝の実況の様子は、以下のようなものでした。


 各選手スタートラインに立ちました。さすがに場内は水を打ったような静けさになりました。ドンと号砲一発、場内は総立ちです。60m、宮崎、河石、高橋、グングン出てきました。そして6名並行しております。70m、宮崎グングン出てきました。半メートルも引き離しております。河石、シュワルツが続いております。80m、宮崎トップです。


 また、「暁の超特急」と呼ばれた吉岡隆徳選手の出場した陸上男子100m決勝では、実際には10秒ちょっとのレースにもかかわらず、実感を込めすぎて1分以上の時間がかかっていたというエピソードもあります。こうした放送が実況放送でないことは、事前に日本の聴取者にも知らされていました。しかし、それでも、日本国民はラジオの前に釘づけでこの放送を聴いたといいます。ロス五輪中盤の8月6日、アナウンサーは実況放送ではなく実感放送となってしまったことの詳しい経緯を説明したのち、最後にこう付け加えました。


 然し皆さん、世界数十ヵ国参加のオリンピック大会の情況を、たとえスタジオからの実感放送とは云え、外国語を以て放送しているのは僅かに日本一国あるのみです。あるロサンゼルスの在留邦人は、日本の同胞諸君は何という仕合せであろう。競技後一時間余りでラジオに依り詳細な結果を知る事が出来るのですもの、と語っておりました。


 この実感放送は、その後、放送史上の一種の“伝説”となって語り継がれているそうです。

 


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by sakanoueno-kumo | 2019-08-13 11:39 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)