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カテゴリ:いだてん~東京オリムピック噺~( 32 )

 

いだてん~東京オリムピック噺~ 第30話「黄金狂時代」 ~実感放送~

 昭和7年(1932年)夏の第10回ロサンゼルスオリンピックに、日本はこれまで最も多い131名の出場選手を送り込みましたが、そのなかでも田畑政治総監督とする日本競泳陣の活躍は凄まじく、男子競泳6種目中5種目で金メダルを獲得します。とくに背泳ぎでは金銀銅すべてを日本人選手が獲得し、表彰台を独占しました。唯一金メダルを逃した400m自由形の大横田勉選手も銅メダル(競技前に胃腸炎を患っていたというのは実話のようです)。まさに、「水泳王国ニッポン」の異名が世界に轟いた大会だったといっていいでしょう。


 そんな現地の興奮を本国に伝えたのが、ドラマで描かれていた「実感放送」でした。当初、日本はこの大会で初めてのラジオ実況放送を計画していました。アメリカとの交渉でその許可も得ていたそうですが、ところが、直前になって放送が不可となってしまいます。その理由は、「開催国アメリカの国内放送も許可していないのに、外国である日本の実況放送は認められない」というものだったとか。では、なぜアメリカでも国内放送しなかったかというと、ラジオで放送すると、現地での観戦客の客足が遠のくという考えからだったようです。


これとよく似た話は日本にもあて、テレビ放送の草創期にも、プロ野球の実況放送を始めようとする計画が上がったのに対し、当初は、球場への客足が遠のくとして反対の声が多かったといいますし、今お騒がせの吉本興さんでも、芸人さんのラジオ出演を寄席に客が来なくなるという理由から拒んでいたといいます。しかし、実際には、それらのメディアを通すことによって、広く大衆の認知度が高まり、集客を大いに高める効果があるわけですが、まだこの当時は、ラジオの宣伝効果というものがそれほど理解されていなかったということでしょうね。


e0158128_11335181.jpg とにかく、競技の実況放送ができなくなりました。そこで、苦肉の策として行われたのが、競技を観戦したアナウンサーがその場でメモを取り、そこから車で15分ほどのところにあるスタジオに移動してから、あたかも実況しているように実感を込めて伝えるという方法。文字どおり「実感放送」だったわけです。放送時間は現地時間の午後7時から8時まで、日本時間は翌日の正午から午後1時までとなります。ちょうど昼休みの時間帯ということもあって、多くの国民がラジオに耳を傾けました。100メートル自由形で金メダルを獲った宮崎康二選手の決勝の実況の様子は、以下のようなものでした。


 各選手スタートラインに立ちました。さすがに場内は水を打ったような静けさになりました。ドンと号砲一発、場内は総立ちです。60m、宮崎、河石、高橋、グングン出てきました。そして6名並行しております。70m、宮崎グングン出てきました。半メートルも引き離しております。河石、シュワルツが続いております。80m、宮崎トップです。


 また、「暁の超特急」と呼ばれた吉岡隆徳選手の出場した陸上男子100m決勝では、実際には10秒ちょっとのレースにもかかわらず、実感を込めすぎて1分以上の時間がかかっていたというエピソードもあります。こうした放送が実況放送でないことは、事前に日本の聴取者にも知らされていました。しかし、それでも、日本国民はラジオの前に釘づけでこの放送を聴いたといいます。ロス五輪中盤の8月6日、アナウンサーは実況放送ではなく実感放送となってしまったことの詳しい経緯を説明したのち、最後にこう付け加えました。


 然し皆さん、世界数十ヵ国参加のオリンピック大会の情況を、たとえスタジオからの実感放送とは云え、外国語を以て放送しているのは僅かに日本一国あるのみです。あるロサンゼルスの在留邦人は、日本の同胞諸君は何という仕合せであろう。競技後一時間余りでラジオに依り詳細な結果を知る事が出来るのですもの、と語っておりました。


 この実感放送は、その後、放送史上の一種の“伝説”となって語り継がれているそうです。

 


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by sakanoueno-kumo | 2019-08-13 11:39 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第29話「夢のカリフォルニア」 ~ノンプレイングキャプテン・高石勝男~

 五・一五事件から約1か月後の昭和7年(1932年)6月、第10回ロサンゼルスオリンピックに出場する日本選手団が出発しました。このとき日本は陸上競技、水泳をはじめとして、体操、馬術、レスリング、ホッケーなど、開催国に次いで2番目に多い131名が出場しました。金栗四三三島弥彦2人だけで参加した第5回ストックホルムオリンピックから20年。日本のスポーツはここまで発展を遂げていたんですね。


 もっとも、このロサンゼルスオリンピックは、参加選手が非常に少なかった大会でもありました。その理由は、この3年前の昭和4年(1929年)10月にニューヨークのウォール街での株式大暴落に端を発した世界恐慌の影響で、選手の派遣を見送った国が続出したことによります。出場選手は4年前のアムステルダムオリンピック時の約半分にまで減ったとか。この時代、世界中で銀行の取り付け騒ぎ倒産があいつぎ、街には失業者があふれかえっていました。そんな世界情勢だったため、決して開催国アメリカでも歓迎する声ばかりではなく、スタジアムに向けて失業者のデモが行われることもあったようです。


 そんななか、日本はこれまでで最も多くの選手を派遣しました。といっても、当時の日本に他の国と比べて国力があったわけではなかったでしょう。当然、日本も世界恐慌の影響を受けていましたし、その低迷する経済が引き金となって中国大陸への進出を訴える声が強まっていき、ひいてはそれが、満州事変五・一五事件につながっていきます。さらに、外交的にも、満州国建国で日本は世界から孤立し始めた時期でもあり、はっきり言って、オリンピックなんかに行ってる場合じゃなかったはずだと思います。そんな殺伐とした時勢だからこそ、スポーツで明るい話題を作る必要があるとドラマの田畑政治は言っていましたが、たしかに、そういう側面はあったかもしれませんが、世界各国が選手の派遣を中止している世情を思えば、日本も、本当はそうすべきだったんじゃないかと。


でも、日本の長所なのか短所なのか、こういうとき、日本は頑張っちゃうんですよね。国民に無理強いしてでも、欧米列強に追いつけ追い越せで頑張る。その不屈の精神で、明治維新後の富国強兵政策でわずか40年で世界に肩を並べる軍事大国となり、また、昭和の大戦後も、敗戦の焼け野原からわずか40年ほどで世界一の経済大国になった。金栗と三島のストックホルムからの20年も、同じようにストイックに頑張ってきたんでしょう。一方で、不屈の精神で突き進むことしか知らない日本は、国が滅びの道に向かっていても、方向転換したり逆戻りすることができない。ちょっと立ち止まって、冷静に周りを見て、時には後退する勇気があれば、あるいは戦争を回避できたかもしれませんし、それが無理だったとしても、あそこまで長引かせずに戦争を終わらすことができたかもしれません。


e0158128_20353137.jpg 話がそれちゃいましたが、ドラマに戻って、今回はそのロサンゼルスオリンピック開催前の選手選考の話でしたね。主人公は、代表に選ばれながら出場できなかったノンプレイングキャプテン・高石勝男。かつては日本水泳界のエースだった高石が、後輩たちの急成長と自身の衰えの間で苦しむ姿が描かれていました。高石は8年前のパリオリンピックで、日本人競泳選手としてはじめて5位入賞を果たし、その4年後のアムステルダムオリンピックでは800m自由形リレーで銀メダル、100m自由形で銅メダルを獲得しました。そんな日本競泳界の先駆者といっていい選手だったわけですが、ロサンゼルスではピークを過ぎた感が否めず、そんな高石に、田畑は主将の任を託すも選手としては出場させない旨を宣告しますが、そんな田畑に、若手選手や松澤一鶴監督は、「高石に有終の美を飾らせてあげて欲しい」と懇願します。田畑は頑なに却下。「高石ではメダルを取れない」と。


 なんか、妙にドラマチックに描かれていましたが、これ、当然のことですよね。部活動の3年生の引退試合じゃないんだから。国費で行くオリンピックですからね。過去の栄光は関係ないでしょう。あの北島康介選手だって、選手生命をかけて臨んだ最後のリオデジャネイロオリンピックは、選手に選ばれなかったですしね。いま結果を残した選手が選ばれる。当然のことです。


 ちなみに、この高石勝男は、その後、後進の育成に努め、昭和39年(1964年)の東京オリンピックでは水泳日本代表総監督となり、さらには、日本水泳連盟会長などを歴任し、紫綬褒章を受章します。その後もずっと、日本水泳界のノンプレイングキャプテンとして活躍したわけですね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-08-05 20:38 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(2)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第28話「走れ大地を」 その2 ~五・一五事件~

 「その1」の続きです。

 柳条湖事件発生時、日本の総理大臣は若槻禮次郎でした。若槻内閣は閣議で騒ぎを大きくせずに収取する不拡大方針を取りますが、これに軍部が抵抗し、若槻の制止を振り切って戦線を拡大します。さらには、閣内からも軍部支持の声があがり、閣僚からも見放されたかたちで総辞職に追い込まれます。もはやシビリアン・コントロールが機能していなかったことがわかります。


e0158128_19300703.jpg そのあとを引き継いだのが、犬養毅でした。犬養内閣は基本的には満州国の建国には反対の立場でしたが、引くところは引いて軍部との調和を図り、決して軍部との関係は悪くはありませんでした。しかし、昭和7年(1932年)5月15日、海軍青年将校によるテロ事件によって暗殺されてしまいます。世にいう「五・一五事件」です。


 この事件の背景は、昭和5年(1930年)に濱口雄幸内閣がロンドン海軍軍縮条約を締結したことにありました。この条約によって主力艦建造停止が延長され、英・米・日補助艦総保有量10:10:7となりました。この条約に不満を持った青年将校たちは、時の政府要人たちを殺害して軍部を中心とした政府をつくろうと画策します。犬養は政友会総裁であり、軍人たちにとっては、軍部の思いどおりにならない政党政治邪魔な存在だったわけです。


 事件当日は日曜日で、犬養は首相官邸にいました。襲撃犯たちは靖国神社に集合し、午後5時頃に官邸に乗り込み、犬養と面談します。犬養は床の間を背にしてテーブルに向って座り、そこで犬養の考えやこれからの日本の在り方などを話し始めましたが、「話せばわかる」という犬養に対して、「問答無用!」と叫んでズドン!・・・というのは有名な話ですね。犬養は頭部左側に銃弾を受けるも即死には至らず、駆けつけた女中に「いま撃った若者をもう一度連れてこい。よく話して聞かすから。」と語ったといいます。これも、ドラマで描かれていましたね。その後、犬養は次第に衰弱し、深夜になって死亡しました。


 殺されたのは犬養首相ひとりでしたが、襲われたのは、元老・西園寺公望、内大臣・牧野伸顕、侍従長・鈴木貫太郎ら天皇の側近三人で、また、警視庁、変電所、三菱銀行なども襲撃されましたが、いずれも被害は軽微でした。事件後、襲撃犯たちは自首しますが、どういうわけか彼らは当時の国民から人気があり、助命嘆願運動が各地で起こります。また、本来なら軍法会議にかけて厳重に処分しなければならないはずの軍部も、なぜか彼らに同情的で、それがまた、政府批判の世論を煽りました。そんな世論が加味されてか、のちに行われた裁判で、当初は死刑が求刑されましたが、結局、首謀者が禁固10年~15年、その他参加者は禁固4年という軽い刑で終わります。一国の首相を殺したのに・・・です。この甘い判決が、のちの二・二六事件につながったと考えても的外れではないでしょう。


 この五・一五事件によって、犬養が総裁を務める政友会は潰され、その後、海軍大将斎藤実総理大臣になります。犬養内閣は閣僚も政友会で固めた政党内閣で、日本は明治31年(1898年)の第一次大隈重信内閣以来30年以上、政党内閣できたのですが、五・一五事件によって政党政治は完全に息の根を止められてしまいました。斎藤内閣は「挙国一致内閣」といって、政党にこだわらず幅広く人材を集めた内閣をいいます。こうして、政府は軍部寄りになっていきました。ここから、軍の力が政治や言論を支配する、一種の恐怖時代に突入していきます。



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by sakanoueno-kumo | 2019-07-30 23:11 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第28話「走れ大地を」 その1 ~満州事変~

 「激動の昭和」とよく言われますが、その入口となったのは、昭和6年(1931年)9月18日に起きた柳条湖事件に端を発する満州事変といっていいでしょう。この事件後、日本の関東軍が主導となり、事実上の日本の傀儡国家・満州国を建国。これをきっかけに日本は国際連盟を脱退し、世界で孤立するとともに、国内は軍部独裁の方向に向かっていきます。いわば、昭和の日本がダメになったスタート地点です。


e0158128_19211734.jpg 清朝滅亡後、中華民国と呼ばれていた当時の中国は、誰が国を統治するかが定まらない不安定な状態にありました。のちに中華人民共和国を建国する毛沢東率いる共産党と、共産主義に反対する蔣介石率いる国民党が対立し、また、日本が駐留していた満州を支配していたのは、張作霖でした。日本はこの張作霖を支援して満州における権利を拡大しようとしていたのですが、やがて張作霖が日本の言うことをきかなくなり、蔣介石との戦いに敗れると、張作霖を無用の存在として、関東軍の謀略で列車ごと爆殺してしまいます。これが満州事変の3年前の昭和3年(1928年)6月4日に起きた「張作霖爆殺事件」。当初、この事件は中国人同士の政争と見せかけられていましたが、実際には日本の関東軍の陰謀だったことがわかります。しかし、首謀者の関東軍参謀の河本大作大佐は停職処分という軽い処分で済まされました。この事件とその後の政府の対応に激怒した昭和天皇は、当時の首相・田中義一を叱責し、田中内閣は総辞職します。しかし、このとき関係者を厳しく処罰しなかったことで、のちに軍部が政府のいうことを聞かなくなっていくんですね。


 この事件後、張作霖の息子・張学良が日本軍に強い恨みを持ち、父の敵だった蒋介石とタッグを組み、反日運動を激化させていきます。満州を支配するために張作霖を殺したはずが、逆にますます満州の権益は事件前より悪くなってしまいました。当然の報いといえます。


e0158128_19212164.jpg 張作霖爆殺事件の後、石原莞爾板垣征四郎という二人のエリート軍人が関東軍の参謀となります。この二人によって満州事変が計画されました。石原はこの時点で、いずれ東洋の代表である日本西洋の代表であるアメリカ戦争になることを予見し、その戦いに勝ったほうが世界の覇権国となり、そうなることで、以後、世の中から戦争はなくなるという持論を掲げていました。そしてその戦争に日本が勝つためには、どうしても満州を日本の領土にしなければならないと考えていたんですね。それまであったロシアからの国防論とは、少し違った観点での満州支配論でした。


 昭和6年(1931年)9月18日、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路の一部が爆破されました。いわゆる柳条湖事件ですね。当初、関東軍はこれを中国軍の犯行と発表します。日本国民のほとんどは第二次世界大戦終結までこれを信じていました。しかし、実際には、関東軍が自作自演したでっちあげの謀略だったというのは、現在では周知のところだと思います。関東軍はこの事件をきっかけに軍事行動に訴え、満州各地を次々と占領し、翌昭和7年(1932年)2月、関東軍は満州全土を制圧。3月1日に満州国の建国を宣言しました。


こうした日本軍の行動に対し、中国政府は、日本の満州での行動は不法であると国際連盟に訴えました。これを受けて国際連盟はリットン調査団を満州に派遣します。調査団は日本の満州における権益を認めながらも、軍事行動は自衛と認められないと結論づけます。この報告書を受けた国際連盟は、満州国建国は認められないとし、日本は占領地から引き上げるよう勧告します。これを受けた日本代表の松岡洋右は会議から退場、国際連盟を脱退しました。ここから、日本は戦争への道を突き進んでいきます。


 満州事変だけで長くなっちゃったので、明日、「その2」に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-07-29 19:22 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第27話「替り目」 ~皇紀2600年の東京オリンピック招致~

 関東大震災復興がなんとか形になってきた昭和5年(1930年)頃から、東京へのオリンピック招致の声があがり始めました。金栗四三三島弥彦が日本人選手として初めて参加したストックホルムオリンピックから20年近くが経ち、いよいよ日本も自国での開催を企画できるレベルにまで来ていたんですね。そもそもの発案者は、関東大震災時に東京市長を務めていた永田秀次郎でした。永田は昭和5年(1930年)に再び東京市長に選ばれると、関東大震災からの復興を象徴するイベントとして、東京オリンピックの招致を唱えます。昭和39年(1964年)の東京オリンピックは戦災からの復興、令和2年(2020年)に開催予定の東京オリンピックは東日本大震災からの復興といった具合に、国内外に復興をアピールするには、オリンピックはもってこいのイベントなんでしょうね。


e0158128_17104791.jpg また、このときの東京オリンピック招致は、もうひとつ、開催予定の昭和15年(1940年)が皇紀2600年にあたることから、その祝賀イベントにしようという意図もありました。「皇紀」(戦前は「紀元」とも言われていた)というのは、戦後生まれの私たちには耳なじみがあまりありませんが、戦前に使われていた紀年法で、初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年とします。その元年は、西暦(キリスト紀年)でいえば、紀元前660年とされています。戦前の日本では、キリスト紀年の西暦はあまり使用されず、元号もしくは皇紀で年をよむのが一般的だったそうです。もっとも、この皇紀の歴史はそれほど古いものではなく、明治5年(1872年)に明治政府が太陰暦から太陽暦への改暦を布告した際に制定したもので、それ以前の江戸時代にはなかったものです。まあ、日本が皇国であるということを国民に植え付けたいという意図から作られたものだったのでしょうが、それでも、明治、大正期はあまり国民に浸透していなかったようで、多用されるようになるのは、昭和期に入ってからだそうです。第二次世界大戦前国定歴史教科書では、元号も西暦も用いられず、一貫してこの皇紀が用いられていたとか。こうして皇国日本のナショナリズムが作られていったんですね。


 もっとも、神武天皇の即位は『日本書紀』に基づくもので、これが信憑性に乏しいことは、当時でも少し学のある人なら周知のことだったでしょう。国民がこの皇紀をどれほど尊重していたかは疑問です。それでも、この皇紀2600年記念事業というのは、かなり盛大なイベントだったようで、紀元節(2月11日、現在の建国記念日)には全国11万もの神社において大祭が行われ、展覧会体育大会など様々な記念行事が全国各地で催されました。わたしは、城跡や寺社などの史跡めぐりを趣味にしていますが、史跡に建てられている戦前の石碑などの裏を見ると、「皇紀二千六百年記念」と刻まれているのをよく見かけます。国全体が祝賀ムードだったようですね。


e0158128_19143177.jpg 話が脱線しちゃいましたが、東京オリンピック招致を思い立った永田は、IOC委員である嘉納治五郎にその意図を伝え、協力を求めました。しかし、当初、嘉納は慎重だったようです。その理由は、参加国の大半が欧米諸国であるなか、極東の東京は地理的に遠すぎて移動費がかかりすぎること、選手や役員を宿泊させる十分なホテルがないこと、語学の面で欧米語を使える人材がスポーツ界に乏しく、十分な接待ができないことなどから、時期尚早ではないか、ということでした。これまでオリンピック参加には積極的だった嘉納でしたが、自国での開催となると、IOC委員であるだけにその難しさを熟知しており、そう簡単には決断できなかったのでしょう。しかし、永田をはじめ東京市関係者の熱心な説得を受け止め、嘉納は70歳代になってから、東京オリンピック招致で世界を駆け回ることになります。


 ドラマでは、金栗四三のお兄さんが亡くなりました。幼い頃に父を亡くし、父親代わりだった兄の死は、金栗にとって大きな悲しみだったことでしょう。日本初のオリンピック選手としてマラソンに熱中できたのも、兄の支えがあってこそだったでしょうから。これを機に、金栗はしばらく故郷の熊本に帰ることになります。ここから、物語は田畑政治を中心に展開していくんでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-07-15 17:18 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第26話「明日なき暴走」 ~人見絹枝~

 今回は「女いだてん」こと、人見絹江が主人公の物語でしたね。ドラマで描かれていたとおり、人見は日本人女性初のオリンピック出場選手にして日本人女性初のオリンピックメダリストとなった伝説の女性です。金栗四三日本マラソン界の先駆者なら、人見絹枝は日本女子陸上競技、ひいては日本女子スポーツの先駆者といっていいでしょう。しかし、「○○界のパイオニア」と言われる人たちの多くがそうであるように、彼女のアスリートとしての生涯も、決して順風満帆なものではありませんでした。


 人見絹枝は明治40年(1907年)年1月1日、岡山県の自作農の次女として生まれました。幼い頃から活発で身体が大きかった彼女は、岡山高等女学校に入るとテニスバレーボールなどでその才能を発揮しますが、一方、学業成績も優秀で、読書が好きな文学少女でもあったそうです。そんな彼女に両親は女子師範学校への進学を望んでいましたが、彼女のスポーツの才能を惜しんだ女学校の教師たちに熱心に勧められ、上京して二階堂体操塾(現・日本女子体育大学)に入学します。


 大正14年(1925年)10月に行われた岡山県女子体育大会に出場し、三段跳び世界記録を記録すると(現在非公認)、その後も次々に多種目で日本記録を樹立し、一躍日本女子陸上を牽引する存在となります。一方で、まだ女子スポーツへの偏見が厳しく、数々の批判にも晒されました。結婚して子供を生むことこそが女性の仕事だと考えられていたこの時代、女性がスポーツをすること自体が否定され、また、人見の実家にも「人前で太ももをさらすなど日本女性にはあってはならない」「日本女性の個性を破壊する」などといった文面の書簡が送られて来ていたといいます。「バケモノねえちゃん」と呼ばれていたかどうかはわかりませんが、それに近い罵声はあったかもしれませんね。当時、人見絹枝とともに日本女子陸上界のトップを走っていた寺尾正・文という姉妹がいましたが、彼女たちもアムステルダムオリンピックの出場選手候補にあがっていましたが、家族の意向によって出場は叶いませんでした。これも、女子陸上への世間の偏見が原因だといわれています。そんな時代だったんですね。


 ドラマでは描かれていませんでしたが、人見絹枝が国際大会の舞台で戦ったのはアムステルダムオリンピックが初めてではなく、その2年前の大正15年(1926年)にスウェーデンのイエテボリで開催された国際女子競技大会に日本からたった1人で出場し、彼女はこの大会で走り幅跳び立ち幅跳び優勝するなどの活躍を見せ、その名を世界に知られるようになりました。人見のオリンピック挑戦は決して井の中の蛙だったわけではなく、世界で通用した実績があっての挑戦だったわけです。


e0158128_22162429.jpg そして、迎えた昭和3年(1928年)夏のアムステルダムオリンピッにて、人見は女子の個人種目全て(100m、800m、円盤投、走高跳)にエントリーしました。残念ながら彼女が最も得意としていた走り幅跳びがなく、実質100m一本に絞っていたといいます。その100mで、まさかの準決勝敗退。オリンピックのプレッシャーというのは、今も昔も変わらない・・・というか、世間の風当たりが強かった人見選手にとっては、その重圧は今の選手の比ではなかったでしょう。ただ、ここで意気消沈してしまわないのが彼女のスゴイところで、翌日に行われた800m予選を通過し、さらにその翌日の8月2日に行われた決勝で、みごと銀メダルを獲得します。タイムは2分17秒6世界新記録。優勝したドイツのリナ・ラトケ選手とは胸差の同タイムでした。ドラマでは、100m敗退のあとに急遽800m出場を決めたように描かれていましたが、エントリーはしていたわけですから、出場する意思は最初からあったのでしょう。でも、本命はあくまで100mで、800mにはそれほど力を入れてはいなかったようです。しかし、結果はその800mで日本人女性初のメダリストとなった。あるいは、ドラマのように、100mが不本意な結果に終わったことが、彼女の800mの走りを生んだのかもしれません。


 ドラマでは、彼女のその後は描かれないようですね。ナレーションで語られていたように、彼女はオリンピック出場からわずか3年後の昭和6年(1931年)、24歳の若さでこの世を去ります。その直接的な死因は結核だったようですが、オリンピック後の彼女は、日本人女性初のオリンピックメダリストとして全国各地より依頼された講演会などで多忙な毎日を送るなか、国内外の競技会にも出場するなどのハードスケジュールをこなし、その疲労から体調を崩し、その無理がたたって死に至ったと言われています。世間の偏見に晒されていた彼女だけに、オリンピック後、一転して称賛される身となったことで、後進のためにその偏見をなくそうと必死で頑張っていたのかもしれませんね。師の二階堂トクヨは彼女の死を悼み、「スポーツが絹枝を殺したのではなく、絹枝がスポーツに死んだのです」という言葉を『婦人公論』に寄せています。


 紀行でも紹介されていたとおり、その後、陸上日本女子のオリンピックメダリストは、64年後の平成4年(1992年)のバルセロナオリンピック女子マラソンでの有森裕子選手まで待たなければなりません。その有森選手が銀メダルを獲得したのが、日本時間では人見のメダル獲得と同じ8月2日(現地では8月1日)だったという話も、不思議な縁です。また、日本人女子陸上の世界記録樹立というと、あの高橋尚子選手までありませんでしたし、トラック競技でいえば、世界記録もメダリストも未だ生まれていません。後にも先にも人見絹枝ただ一人の偉業ということですね。日本が誇る伝説のアスリートです。


 文学少女だった人見は、その死に際して、辞世の詩を詠んでいます。


 「息も脈も高し されど わが治療の意気さらに高し」


 彼女が息を引き取ったのは、奇しくも彼女が銀メダルを獲得した日と同じ8月2日でした。



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by sakanoueno-kumo | 2019-07-08 23:04 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第25話「時代は変る」 ~第2部プロローグ~

さて、物語は第2部に入りましたね。スポットは陸上競技から水泳に移され、主人公も金栗四三から田畑政治に代わりました。わたしは、学生時代に自身も陸上部で長距離選手だったこともあり、金栗四三という名前は知っていましたが(といっても、箱根駅伝の創始者という程度ですが)、この田畑政治という人に関しては、まったく名前すら知りませんでした。大河ドラマの制作が発表されてからにわかに関連本を読みましたが、市販されていた本も圧倒的に金栗四三のものが多く、田畑政治のことが詳しく解説された本はあまりありませんでした。なので、ここから先は、主に感想文のようなレビューになるかと思いますが、よければお付き合いください。


e0158128_17574863.jpg 金栗より7歳年下の田畑は、明治31年(1898年)、静岡県浜松市の造り酒屋の次男として生まれました。大商家だった田畑家は、浜名湖口に浮かぶ弁天島別邸を持っていたそうで、ここで田畑は水泳を覚えました。浜名湖を有する浜松は、古来、水泳が盛んな町で、健康な子供は、一日中泳いで遊んでいるような環境だったそうです。また、田畑の祖父も父も若くして肺結核で亡くなっており、病弱な体を鍛えるという目的もあったとか。そんな幼少期を過ごし、やがて県立浜松中学(現・県立浜松北高)に進んだ田畑は、水泳部に入部します。当然のことながら、この時代にプールを完備した学校などなく、練習場所は天然の川や海でした。もっとも、この頃の水泳は、着順を争う「競泳」ではなく、神伝流水府流などの古流泳法を学び、いかに美しく長い距離を泳ぐことができるか、ということに重点が置かれていたそうです。幼いころから浜名湖口の潮流に慣れ親しんできた田畑は、その腕前は水泳部でも抜きん出ていたそうです。


 ところが、4年生のとき、慢性虫垂炎大腸カタルを併発する大病を患い、医者から水泳を続けることを禁じられてしまいます。普通なら、ここで意気消沈してしまうところですが、田畑少年は、自らの選手生命は断念したものの、「浜名湖の水泳を日本一にする」という目標を掲げ、後進の育成に力を注ぎます。具体的には、弁天島の海水浴場で練習する4つの中学校を束ねて「浜名湾遊泳協会」を創設し、当時、各学校でバラバラだった泳法を統一し、レベルの向上を図ります。15、6歳のときの話ですからね。田畑のリーダーとしてのポテンシャルの高さが窺えますね。


 学業優秀だった田畑は、やがて旧制第一高等学校、東京帝国大学に進学。その間も水泳に対する情熱は冷めることなく、夏休みには地元に帰り、後輩たちを熱血指導しました。そして大正11年(1922年)には、全国競泳大会で浜名湾遊泳協会を優勝に導きます。


 大正13年(1924年)、東京帝国大学を卒業した田畑は、朝日新聞社に入社。当時、帝国大学の卒業生のほとんどは高級官僚を目指し、民間企業に就職するとしても、三井三菱といった財閥系の大企業に就職するのが普通でした。新聞社の社会的地位は今ほど高くなく、帝大生は見向きもしなかったそうです。そういった意味でも、田畑は変わり者だったようですね。


 新聞社に入社してからも田畑は水泳に関わり続けました。そして、入社した年の10月には、大日本水上競技連盟理事に就任します。入社半年の新入社員の若造ですからね。当時、それほどスポーツ団体というものが重視されていなかったとはいえ、ありえない人選です。田畑は水泳会の代表として、大日本体育協会の会合にも頻繁に参加するようになり、嘉納治五郎らともやりあっています。帝大出身の秀才で弁も立ちますから、体協の猛者たちは、持て余し気味だったようです。また、朝日新聞社で政治部に所属していた田畑は、政友会の担当となり、鳩山一郎に目を掛けられ、当時の大蔵大臣、高橋是清からオリンピック出場のための補助金を取り付けることに成功しています。ドラマでも描かれていましたね。すごい行動力、交渉力、そして実行力です。こんな若者、いまはまずいないでしょうし、いたとしても、社会から弾かれるでしょうね。


 ちなみに、ドラマで描かれていた「光文事件」。あれは実際にあった話で、大正15年(1926年)12月25日の正天皇崩御直後、東京日日新聞(現在の毎日新聞)が号外を出して次の元号は『光文』と報じました。これに便乗して報知新聞、都新聞も号外を発表、読売新聞なども追随しましたが、その後、発表された元号は『昭和』。大きな誤報となりました。この誤報によって東京日日新聞の編集長が役職を解かれるという事態にまで発展しますが、一説には、当初は『光文』に決定していたものの、事前に漏洩したため、発表直前に『昭和』に変わったとも言われます。しかし、一方では、決定していた元号を直前で変えるなどありえないとする見方もあり、今となっては真相は藪のなかです。先日の『平成』から『令和』への改元のときも、様々な憶測が飛び交っていましたよね。しかし、結果はほとんど予想されていなかった『令和』という元号でした。やはり、国の威信にかけても、簡単に予想できたり事前に情報が漏れるような元号にはできないんでしょうね。


 あと、金栗四三の三度目の出場となった第8回パリオリンピックも少しだけ紹介されていましたね。当時34歳のベテランランナー金栗にとってはラストチャレンジでしたが、結果は酷暑のなか、32km地点での棄権となりました。しかし、ストックホルムのときのような挫折感はなく、レース後、引退を決意します。しかし、日本マラソン界のパイオニア・金栗四三のドラマは、まだまだ続きがあるんですね。それは、今後の物語に譲ることにします。



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by sakanoueno-kumo | 2019-07-01 17:58 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第24話「種まく人」 ~関東大震災~

 今回も前話に引き続いて関東大震災の話でしたね。大正12年(1923年)9月1日に発生した大地震は、死者・行方不明者10万8000人に達するという未曽有の被害をもたらしました。被災者340万人、その被害の大半が火災による二次災害で、死者・行方不明者の9割が焼死全焼した家屋が38万世帯といいますから、その被害の甚大さは筆舌に尽くしがたいものでした。それだけ多くの家が焼けたということは、それだけ住む家を失った人がいたということに他なりません。そこで政府は、応急措置とし学校、官公庁、寺社などの公共施設へ被災者を収容し、また、明治神宮外苑屋外天幕を張り、約1万人を収容しました。


 続いて、現代でいうところの仮設住宅にあたる「バラック」の建設が計画され、9月4日以降、東京府、市、警視庁の分担によって建設が開始されます。明治神宮外苑、日比谷公園、靖国神社境内、上野公園、芝離宮、芝公園の6ヵ所に大規模なバラックが建設され、また、小学校の焼け跡や公園、空き地、広場など90ヵ所に小規模なバラックが建てられ、10月上旬から収容が開始されました。わたしも、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災を経験したひとりですが、私の住まいは一部損壊ですんだため避難所生活を送る必要はありませんでしたが、町中の学校や公園、スポーツ施設など至るところに仮設住宅が建てられ、そこで生活している方々の姿を毎日目にしていました。平成の仮設住宅ですら、その過酷な生活環境には目を覆うものがありましたが、この時代のバラック生活の劣悪さは、おそらくその比ではなかったでしょう。


e0158128_19143177.jpg この惨事のなか、大日本体育協会の名誉会長となっていた嘉納治五郎は、9月30日に帝国ホテルで理事会、常務委員会を開き、翌年に行われる予定の第8回パリオリンピックに日本人選手を派遣することを決議します。その一環として、この秋に第一次予選会を行い、翌年の4月中旬には第二次予選会を東京で開催することを決定します。そして、そのために、競技場建設を急ぐよう求めるということも。翌10月1日に発表した大日本体育協会の宣言文には、こうあります。


 「翌年七月にパリで開かれる国際オリンピック大会に選手を送る計画のあったことは一般の知るところであり、この震災のために全ての計画を放棄するのは極めて遺憾であるとし、この際海外に日本国民の元気と復興の意気を示すためにも、派遣したほうがよい」


 こんなときだからこそ、国民の士気を鼓舞するためにもオリンピックに出るべきだ、と。東日本大震災のときも、プロ野球の開幕前だったことで、自粛すべきか否かで議論がありましたよね。100年前も今も、直面する問題は同じようです。


e0158128_22162429.jpg そんな震災のドサクサのなか、人見絹枝が上京してきましたね。実際には、この翌年の4月に上京し、二階堂トクヨが塾長を務める二階堂体操塾に入学します。ドラマでもいっていましたが、彼女はこの年の岡山県女子体育大会において、走幅跳4m67という当時の日本最高記録(非公認)で優勝しています。そんな彼女のスポーツの素質に注目した岡山高等女学校の教師が、彼女に東京の二階堂体操塾に進学するよう勧めたそうですが、ドラマでは、シマちゃんこと増野シマが彼女の素質を見抜いたという設定でしたね。シマちゃんはドラマのオリジナルで、実在の人物ではありません。そんな架空の人物であるシマちゃんに、物語は人見絹枝をスポーツの世界へ導くという重要な役割を与えていたんですね。シマちゃんのような名もなき女性がいたからこそ、人見絹枝のような稀代のアスリートが生まれた、と。まさにタイトルどおり「種まく人」でした。あるいは、本当にシマちゃんのような「種まく人」がいたかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2019-06-24 22:17 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第23話「大地」 ~関東大震災~

 大正12年(1923年)9月1日、関東地方を中心に広い範囲に被害をもたらした大地震が発生します。いわゆる「関東大震災」です。震源地は相模湾の真ん中あたりで、現代の観測値でいえば、マグニチュード7.9、最大震度6という規模だったと言われています。その被害の範囲も広大で、房総半島の太平洋側から、東京府、埼玉県、神奈川県、さらには東伊豆から静岡県の東の方、また、山梨県の一部まで家屋の倒壊があったと言われています。木造建築がほどんどだった時代とはいえ、その地震の規模の大きさがうかがえます。


e0158128_21313576.jpg また、これもよく知られていることですが、地震が起きたのが午前11時58分という、ちょうど昼食の準備の時間帯だったことも、被害を拡大させました。当然のことながら、当時はIHキッチン電子レンジもなく、どの家庭でもなどのを使って炊事をしていたわけで、その火が燃え移って大規模な火災が発生しました。消化器消火栓なども当然なく、水道すらまだほとんど家庭には通ってなかった時代ですから、なす術もなかったのでしょう。また、不運なことに、ちょうどこのとき台風が日本海沿岸を北上中で、その強風がいっそう火を煽ったようです。特に横浜市は中心部がほとんど全滅だったようですし、東京も、下町の本所・深川、今で言う江東区とか墨田区、それから日本橋・京橋など、要するに宮城(皇居)から東側は壊滅的だったようです。ドラマの舞台となっている浅草も例外ではなく、当時、浅草のシンボルだった凌雲閣(通称:浅草十二階)も、8階より上が倒壊。地震発生当時、頂上展望台付近には12、3名の見物者がいたといいますが、看板に引っかかって助かった1名を除いて全員が崩壊に巻き込まれて死亡したといいます。その中に、まさかシマちゃんがいようとは・・・。


 関東大震災の被災者は340万人、死者・行方不明者は10万8000人に達しました。時代が違うので比べようがありませんが、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災6500人ほど、平成23年(2011年)の東日本大震災1万8000人ほどだったことを思えば、その被害の大きさに驚かされます。阪神・淡路大震災のときは建物倒壊による圧死、東日本大震災のときは津波による溺死が圧倒的に多かったそうですが、関東大震災では、やはり焼死がいちばん多かったようです。昭和20年(1945年)の東京大空襲の際の被害がこれに匹敵するのだとか。東京は、わずか20年ほどの間に2度も焼け野原になったんですね。


e0158128_21332287.jpg もうひとつ不運だったのは、このとき日本政府は、地震発生の8日前に内閣総理大臣加藤友三郎急死しており、外務大臣の内田康哉が内閣総理大臣を兼任するという臨時内閣のときでした。この緊急事態を受け、地震翌日の9月2日に山本権兵衛が新総理に就任するというドタバタでことにあたったのですが、政府機関が集中する東京が壊滅していることもあって、政府の対応もスムーズにはいかなかったようです。そういえば、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災も、当時、自社さ連合政権で首相が旧社会党の村山富市総理だったため、自衛隊の出動が遅れたと言われていますよね(真偽は定かではありませんが)。また、平成23年(2011年)の東日本大震災のときも、あの稚拙民主党政権下だったため、菅直人総理の右往左往する姿しか思い出せません。どうも、わが国の政府が混乱しているときに、「大震災」と呼ばれるような未曾有の災害が起きるようです。偶然と言ってしまえばそれまでですが、政治が不安定になったとき、地震に気をつけたほうがいいかもしれません。


 わたしの住まいは神戸市で、あの阪神・淡路大震災を経験しました。ドラマにあった安否をたずねる貼り紙が、24年前の神戸のまちにもあちこちに貼られていました。ドラマを観て思い出しちゃいましたね。シマちゃん、生きていてほしいと思いますが、たぶん、ドラマではその安否は描かれないんでしょうね。胸が詰まります。



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by sakanoueno-kumo | 2019-06-17 21:33 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第22話「ヴィーナスの誕生」 ~田村富美子と梶川久子~

 今回は「ヴィーナスの誕生」というサブタイトルのとおり、日本女子スポーツの黎明期の話でしたね。大正10年(1921年)1月より女子師範学校で教鞭をとることになった金栗四三は、女子体育の振興に力を注ぎます。これまでスポーツに縁がなかった女子たちにその楽しさや魅力を知ってもらうために、金栗はまず、当時人気があったテニスを推奨。日本で初めての女子テニス大会・女子連合競技大会を開催します。


 劇中、テニスや陸上でひときわ活躍していた村田富江という女性は架空の人物ですが、モデルとなった人物がいたようです。それは、軟式テニスのペアで活躍した田村富美子という女性で、その相方だった梶川久子という女性が、劇中の梶原(名字しかわからない)のモデルだと思われます。実在した2人は金栗の務める女子師範学校の生徒ではなく、お茶の水女子高師附高等女学校の生徒でした。金栗と教師生徒の関係だったわけではないようですね。富美子はドラマと同じく医者の娘でしたが、ドラマと違うのは、スポーツをすることについて理解ある親だったようです。


e0158128_18330050.jpg 大正12年(1923年)5月、田村と梶川は大阪で行われた極東選手権競技大会(中国、フィリピン、日本の3国間)に出場しました。このとき、前例のない女子選手の参加についての賛否が随分議論されたそうですが、そんな逆境を跳ね返して2人はみごと優勝します。当時、女子選手は袴姿でテニスをしていましたが、この大会で田村と梶川は、当時の世界ナンバーワン女子テニスプレイヤーだったフランスのスザンヌ・ランラン選手の写真を参考にしてデザインしたユニフォーム姿で出場します。これがたちまち大評判となり、大会後、彼女たちは一躍スターとなったそうです。ドラマで描かれていたように、巷では2人のブロマイドが売られ、彼女たちがデザインしたユニフォームが、三越百貨店で「田村・梶川式ユニフォーム」として売り出されることになったそうです。まさにコートの妖精。大正時代のマリア・シャラポワだったんですね。


私が子供の頃、漫画『エースをねらえ!』が大ヒットし、女子の運動部ではテニス部が圧倒的な人気でしたが、大正時代にも女子テニスのブームがあったというのは知りませんでした。いつの時代でも、JKは流行に敏感なんですね。


 ちなみに、田村が素足で走ったという話も実話だそうです。当時、数々の雑誌や新聞にこの写真が掲載されたのだとか。当時、生娘が素足を顕にするなど言語道断だった時代。彼女は、単にスポーツ万能だっただけではなく、かなり革新的な考えを持った女性だったのでしょうね。


 人見絹枝が出てきましたね。ちょっと陸上競技を知っている人なら、彼女の名前を知らない人はいないでしょう。ある意味、主人公の金栗四三より後世に有名な彼女ですが、ドラマのとおり、岡山県高等女学校時代はテニス選手として活躍していました。田村、梶川ペアと戦ったかどうかはわかりませんが。彼女のその後については、これからドラマで描かれるでしょう。


 ちなみにちなみに、金栗が女生徒から「パパ」と呼ばれていたのは、どうやら本当の話らしいですよ。大正女子も、案外いまと変わらないんですね。そう呼ばれてニヤけている金栗も金栗ですが。おそらくドラマのように、スヤさんは怒っていたでしょう(笑)。



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by sakanoueno-kumo | 2019-06-10 18:35 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)