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カテゴリ:いだてん~東京オリムピック噺~( 48 )

 

いだてん~東京オリムピック噺~ 第46話「炎のランナー」 ~アトミック・ボーイ~

 昭和39年(1964年)8月21日にギリシャ・オリンピアの太陽光で採火された聖火は、アジア地域11カ所を経由し、約2週間あまりのフライトで9月7日に沖縄に到着しました。当時の沖縄は言うまでもなくアメリカの統治下にあり、厳密には「日本の国土」ではありませんでした。したがって、日の丸を掲げることは原則禁止されていたのですが、聖火が沖縄に届いたその日、空港は沖縄の人々の振る日の丸で埋め尽くされていたそうです。当時の沖縄の人にとっては、感動のひとコマだったでしょうね。


 その後も、聖火は日の丸の歓迎をうけながら沖縄本島をめぐりました。その光景を見た沖縄の人たちは、本土との一体感を得ることができたといいます。何より、日本国内の聖火リレーの出発点を沖縄にしたことが、当時の政府ならびに組織委員会の大手柄でしたね。これにより、沖縄は日本の領土であるということを国内外に改めて示したわけで、日本政府は決して沖縄を見捨ててはいないというメッセージの発信だったといえます。それを可能にしたのは、琉球政府の強い働きかけやメディアの活躍もあったようですが、決め手となったのは、昭和28年(1953年)に日本体育協会に加盟していたことでした。スポーツは一足先に日本復帰していたんですね。


 あと、これをアメリカが鷹揚にみていたのも、占領統治下における宥和政策を世界に発信する狙いがあったのでしょう。この沖縄の聖火リレーは、日米双方にとって政治だったんですね。


 その後、聖火は空路で本土に渡り、鹿児島、宮崎、北海道から4つのルート東京へ向かいました。国内地上リレーの総距離は6755km、参加走者は10万713人だったそうです。10月7日から9日にかけて東京都庁に集められた各コースの聖火は、9日に皇居前に設置された聖火台で再びひとつの火となり、10日、皇居前から国立競技場までの6.5kmを男女7名によってリレーされ、最終聖火ランナー坂井義則の手に託されました。


e0158128_20002343.jpg オリンピックの聖火リレーの最終ランナーというと、従来、過去の大会でのメダリストが務めるケースが多く、このときも、当初は日本選手初の金メダリストの織田幹雄をはじめ、レジェンドと言える過去のオリンピック選手の案で決まりかけていたそうです(あるいは、金栗四三の案も出ていたかもしれませんね)。ところが、「聖火ランナーは若者であるべきだ」という声が上がり、これに最終ランナー候補だった織田が賛同したことから、聖火リレーの最終ランナーは若者に任せることになります。そこで、開会式の約2ヶ月前の8月はじめに東京と近郊在住の10代の陸上選手10人が最終日の走者候補に選ばれ、最終的に最終走者となったのは、原爆が投下された昭和20年(1945年)8月6日に広島県で生まれた坂井義則でした。


 坂井の起用については、賛否両論あったようです。原爆投下の日に広島で生まれた若者といえば、戦後復興をアピールしたい日本にとってはこれ以上ない人選だと思うのですが、逆に、原爆とオリンピックを結びつけることに異議を唱える声も少なくはなかったようです。その理由は詳らかではありませんが、おそらく、原爆を投下したアメリカを刺激したくないという思いがあったのでしょう。しかし、結果的に坂井の起用は世界中から大絶賛され、国内外のメディアは坂井を「アトミック・ボーイ(原爆の子)」と呼び、戦後復興と平和の象徴として大々的に報道しました。


 ちなみに、坂井はオリンピックこそ出場できなかったものの、その後も陸上選手としても活躍し、早稲田大学卒業後にはフジテレビに入社し、スポーツと報道分野で活躍されました。あのアナウンサーの逸見政孝氏は同期入社だったそうです。


 さて、令和2年(2020年)の東京オリンピック最終聖火ランナーですが、巷では国民栄誉賞受賞で金メダリストの高橋尚子さん、山下泰裕さん、吉田沙保里さんなど、様々な予想が飛び交っているようです。が、56年前の坂井義則の先例に倣うとするならば、東日本大震災からの復興途中にある今、被災者でスポーツと関わりのある人のなかから選ばれるのではないでしょうか。さすがに震災当日に生まれた子となると、まだ9歳なので無理があるでしょうが、何か象徴となるような人。あるいは原発被災者のなかから選ばれるかもしれません。ある意味、これも「アトミック・ボーイ」と言えるかもしれませんね。もっとも、こちらの場合、未だ復興の目処は立っておらず、かつての沖縄とは違った意味で、国土が失われたままです。帰還困難区域を聖火リレーが通ることもなければ、日の丸が掲げられることもありません。56年前の再現とはいかないでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-12-09 20:01 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第45話「火の鳥」 ~東京五輪音頭~

オリンピックの顔と顔 ソレトトント トトント 顔と顔


といえば、言わずと知れた『東京五輪音頭』ですが、当時をリアルタイムで知らない現在52歳のわたしにとっては、この歌イコール、当時、「国民的歌手」といわれた三波春夫というイメージでしかないのですが、実はこの歌、最初は三波だけではなかったそうですね。三波が「国民的歌手」と呼ばれるようになったのは、この歌とのちの大阪万博のテーマソング『世界の国からこんにちは』の2曲が大ヒットしたのちのことだそうで、この当時は、まだそこまでの存在ではなかったそうです。


 『東京五輪音頭』を作曲したのは、「古賀メロディー」と呼ばれる多くの名曲を世に送り出した昭和の名作曲家・古賀政男。当時の歌謡界ではナンバー1の作曲家への依頼は、当然の人選だったと言えるでしょう。ところが、当時、古賀政男はコロムビア・レコードの専属作曲家で、当時の歌謡界の規則では、古賀の作った歌はコロムビア専属の歌手しか歌えないことになっていたのですが、この曲に限っては、国民的祭典の歌ということで、古賀は「どこのレコード会社の歌手でも歌えるようにしてほしい」との意向を示し、コロムビアもこれを受け入れ、録音権を各レコード会社に開放しました。古賀にしてみれば、この機会に自身の歌をコロムビア以外の歌手に歌わせたいという思いがあったようです。


e0158128_14005076.jpg 各レコード会社に開放された『東京五輪音頭』は、必然的に競作となりました。ビクターは神楽坂浮子、つくば兄弟、そして当時、御三家の一人として人気を博していた橋幸夫を起用し、東芝はオリンピック大使にも選ばれていた人気アイドルの坂本九、ポリドールは大木伸夫・司富子、そして、キングは当時に人気実力ともに折り紙付きだった三橋美智也を起用します。本来であれば独占できたはずのコロンビアは、若手の注目株だった北島三郎と新人の畠山みどりによるデュエットで挑みました。そんななか、テイチクの三波春夫バージョンは、比較的後発だったようです。


 もっとも、古賀ははじめからこの曲を三橋美智也を想定で作ったそうです。古賀にしてみれば、他社の看板スターである三橋に自身の歌を歌ってもらう絶好のチャンスと捉えていたようですね。実際、オリンピック前年の昭和38年(1963年)のオリンピックデーに楽曲が発表された際も、三橋の歌が披露されました。そんなこともあって、発売前の下馬評では三橋バージョンのヒットが確実視されていたようです。ところが、いざ蓋を開けてみると、大ヒットしたのは三波春夫バージョンで、なぜか三橋バージョンはあまり振るわなかったんですね。


 三波春夫の一人勝ちになった理由については様々な分析があるようですが、一番はプロモーションの力の入れ具合にあったようです。ドラマでも描かれていましたが、三波が大トリを務めた昭和38年(1963年)12月31日のNHK紅白歌合戦では、毎年恒例のエンディング曲『蛍の光』の代わりに『東京五輪音頭』が歌われたそうです。現在まで長い紅白歌合戦の歴史のなかで、『蛍の光』以外の曲が歌われたのはこのときだけなんだとか。


あと、三波は競作歌手のなかで最年長で、唯一、戦争へ従軍してシベリアで捕虜となった経験があり、そのことから、戦後復興の象徴である東京オリンピックへの思い入れが人一倍強く、そういう強い気持ちが乗った歌だった、と、後年語っていたそうです。同じく戦後復興の象徴でこの6年後に行われた大阪万博のテーマソング『世界の国からこんにちは』も、8社のレコード会社が競作のなか三波バージョンが大ヒットしました。この2曲のヒットにより三波は「国民的歌手」と称されるようになり、晩年、三波はこの2曲を「生涯の宝物でございます」と語っていたそうです。


 ちなみに、令和2年(2020年)の東京オリンピックのテーマソングですが、当時の三波春夫のような国民的歌手という観点で言えば、桑田佳祐さんしかいないだろうと思っていましたが、やはり、民放共同企画のテーマソングは桑田さんが作られるそうですね。満場一致の人選だったとか。まあ、そうでしょう。もっとも、東京オリンピック招致決定の際に作られたという『東京VICTORYが、すでにテーマソングのような使われ方をしてきていましたが。


 ちなみに余談ですが、平成10年(1998年)の長野オリンピック閉会式では、サプライズで国民的コメディアン萩本欽一さんがMCをするという演出がありましたが、来年の東京オリンピックでは、わたしはこの役目を中居正広さんがやるんじゃないかと睨んでいます。中居さんはずっと務めていたTBSのオリンピックキャスターを降板したことが話題になっていましたが、実はこの大役があるから降りたんじゃないかと。さらに言えば、この大役が随分前から決まっていて、だから、あのときもジャニーズ事務所を辞めなかったんじゃないかと。深読みしすぎですかね?


 とまあ、話がそれちゃいましたが、今話は『東京五輪音頭』のお話でした。



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by sakanoueno-kumo | 2019-12-02 14:01 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第44話「ぼくたちの失敗」 ~政界の寝業師・川島正次郎~

 昭和37年(1962年)にインドネシアジャカルタで行われた第4回アジア競技大会においての国際問題は前話の稿で説明しましたが、この大会に参加するか否かの決断を迫られた日本は、そのすべて判断を現地役員に一任します。この局面において組織委員会会長の津島寿一は、当初、参加に消極的な態度をみせますが、大会役員ナンバー2の立場にあったマーちゃんこと田畑政治は、参加を主張します。その理由は、インドネシアの対日感情の悪化を危惧したためというのが表向きの主張でしたが、やはり、その根本は、「政治とスポーツは別もの」という嘉納治五郎から受け継いだ理念があったに違いありません。今風にいうところのアスリートファーストです。


結局日本は、競技自体が中止になったウエイトリフティングを除く13競技に参加し、金メダル74個、銀メダル57個、銅メダル24個という大きな成果を残しました。しかし、その活躍とは裏腹に、この大会中、日本ではマスコミが大会出場に踏み切った判断を大きく非難。その戦犯として血祭りに上がったのが、津島と田畑でした。そして、帰国後、この騒動で田畑と津島がその責任を取らされることになります。すなわち、津島は東京オリンピック組織委員会会長の職を、田畑は同事務総長の職を、それぞれ辞任することとなります。事実上の解任ですね。その陰には、ドラマのように、「政界の寝業師」の異名をとった川島正次郎の画策があったといわれます。


e0158128_17585936.jpg 川島正次郎は、岸信介政権時代は自民党幹事長を、池田勇人政権、佐藤栄作政権の時代には長く自民党副総裁を務めました。総理、総裁のイスも決して手の届かない位置ではありませんでしたが、あえて主役に固執することなく、時の権力の間を巧みに泳ぎ、ナンバー2のポジションに君臨し続けた人物です。たしかに、ナンバー1になってしまうと、政局の風向き次第では一気に転落する危険が伴います。その点、その風向きを読みながらうまくナンバー2でいると、ナンバー1ほどの大きな責任を問われることもなく、そのほうがかえって長生きできるといえるかもしれません。いわゆる「名脇役」ってやつですね。当時の川島の語録にこんな言葉があります。


「脇役に徹する中で大事なことは、あくまで本流の中の脇役であることだ。傍流はダメだ。本流にピッタリ寄り添っていけば、間違いなく“長生き”できる。勝ち馬は誰か、それを見分ける能力が問われる」


「政界の寝業師」と呼ばれた例をあげると、岸内閣総辞職後の総裁選において、党人派から大野伴睦石井光次郎が名乗りを上げ、官僚派からは池田勇人が名乗りをあげていたのですが、当時、川島派といえる10人ほどのグループを率いていた川島は、大野支持に向かう様子をにおわせたうえで、大野に対して「党人派が二分されると官僚派の池田に勝てないので、党人派は石井一本にまとめたほうがいい」と進言し、大野に総裁選を辞退させました。すると、手のひらを返したように川島は、「大野を支援しようと思ったが、大野が辞退したので池田を支持する」と表明して池田支持に乗り換え、池田が政権に就くと、見事に副総裁のポストを射止めます。大野はまんまと騙されたってやつですね。川島のライバルだった河野一郎は、このときの川島についてこんな言葉を吐いたといいます。


 「川島は、密かに大野陣営の名簿を池田に渡していた。これでは大野は鏡を背にして麻雀をやっているようなもんで、手の内は丸見えだった。あの男は人を5階まで案内しておいてハシゴを外す男、相当な悪党だ」と。


 そんな川島ですから、スポーツしか知らない田畑を陥れるなんて朝飯前だったでしょうね。純粋にアスリートファースト東京オリンピックを目指していたマーちゃんでしたが、政治家にとっては、その純粋な正論はときに目障りだったかもしれません。「政治とスポーツは別もの」という嘉納治五郎の理念は、やはり、現実離れした理想論にすぎないのかもしれませんね。印象的だったのは、「どこで間違えた」自問自答するマーちゃんが、やがてその原点を思い出すシーン。


「先生方も、スポーツを政治に利用すればいいんですよ」

「金も出して、口も出したらいかがですか?」


「・・・あの時だ!」

 かつて自らが撒いた種だったんですね。田畑が国からオリンピック予算を得るために、高橋是清を口説いた言葉でした。あのときのマーちゃんは、スポーツ発展のために政治を利用しようとした。しかし、今では、逆に政治に利用されるようになってしまった。そして、最終的には政治に負けたんですね。


 田畑が高橋是清を口説いた話も、田畑が政治的理由で失脚したのも、どちらも史実です。その史実の伏線を史実で張っていたというのは、さすがはクドカン、お見事ですね。唸らされました。あとは、川島の政治介入をどう着地させるのか。実在の、しかも近代の政治家を描いているのですから、このまま酷い悪役で終わらせることはないでしょう。今後の展開が楽しみです。



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by sakanoueno-kumo | 2019-11-25 18:03 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第43話「ヘルプ!」 ~第4回アジア競技大会~

第18回東京オリンピックの2年前、昭和37年(1962年)にインドネシアジャカルタ第4回アジア競技大会が行われました。この大会は2年後に控えた東京オリンピックの前哨戦ともいうべき重要な大会だったのですが、ここで大きな政治問題が発生します。


 当時、インドネシア政府は親中国および親アラブ諸国の政策をとっていました。そのため、彼らが国として認めていなかったチャイニーズ・タイペイ(台湾)イスラエルに対して選手団の入国身分証明書を発行せず、事実上両国の参加拒否という姿勢を示します。これは、大会の開催権を握るアジア競技連盟の意向に反する行為でした。両国には国際オリンピック委員会(IOC)国際陸上競技連盟(IAAF)も参加資格を認めており、IOCからは、「両国の参加を認めないのであれば、この大会を支持しない」との発表があり、また、国際陸上競技連盟からも、「両国を参加させない限り、国際陸連としては大会を認めることはできない。この大会に参加した国は国際陸連から除名する。」という電報が届きます。


e0158128_17574863.jpg 日本はこの大会に選手209人役員43人計252人を派遣していました。まーちゃんこと田畑政治はその本部役員として、JOC会長で組織委員会会長の津島寿一に次ぐナンバー2のポジションにありました。いや、実質ナンバー1だったかもしれませんね。そういう立場ですから、たちまちこの政治問題に巻き込まれて対応に苦慮することになります。日本は参加するか否か。その判断は現地に一任されます。アスリートファーストで考えれば、ここまで来てボイコットなどあり得ない。しかし、政治的な観点でいえば、ここで強行してIOCや各国際競技連盟からの反感を買い、東京オリンピックに支障をきたすことになれば元も子もない。まさに、「進むも地獄退くも地獄」の決断でした。


 このとき会長の津島は、東京オリンピックへの支障を危惧し、「ボイコットすべきだ」と主張したといいます。しかし、田畑の主張はその逆でした。「もし、ここで最も参加選手を多く派遣している日本がボイコットすれば、大会が大混乱に陥り、選手や在留邦人に危害がおよぶ可能性も決して否定できない」と主張し、参加に踏み切ります。


 e0158128_17585936.jpg結局日本は、競技自体が中止になったウエイトリフティングを除く13競技に参加し、金メダル74個、銀メダル57個、銅メダル24個という大きな成果を残しました。しかし、帰国後、この騒動で田畑と津島がその責任を取らされることになります。その陰には、「政界の寝業師」の異名をとった川島正次郎の画策があったといわれます。そのあたりは次回、描かれるようですね。


 ちなみに、このときのインドネシアの国家元首はスカルノ大統領。あのデヴィ婦人の旦那さんですね。このアジア競技大会が行われた同じ年、デヴィ婦人はスカルノと正式に結婚し、4人の夫人のうちの第3夫人になっています。日本は第二次世界大戦中よりスカルノと親密な関係を持っており、戦後も経済面を中心にその関係は続いていました。デヴィ婦人をスカルノに紹介したのも日本の商社です。ドラマで、田畑が川島に対して「大統領とズブズブな関係」と罵っていましたが、たしかに、日本政府は政府で、そう簡単にインドネシアを裏切れない理由があったんですね。IOCにもインドネシアにも両方に顔が立つ結論を作るには、だれか個人にその罪をかぶらせなければならない。なるほど、さすがは「政界の寝業師」です。



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by sakanoueno-kumo | 2019-11-18 18:01 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第42話「東京流れ者」 ~代々木ワシントンハイツ返還~

 昭和39年(1964年)の東京オリンピックメインスタジアムは昭和33年(1958年)にアジア大会が開催された国立霞ヶ丘陸上競技場に決まり、スタンドを増設するなどの改修工事が進められようとしていました。皇居北の丸に柔道競技場となる日本武道館の建設が決定したのも、ちょうどこの頃でした。その他の競技施設の建設や道路の整備など、着々と開発が進められ始めていた東京でしたが、そんななか、最も難航していたのが選手村の候補地でした。


e0158128_17574863.jpg 当初、選手村は埼玉県朝霞にあった米軍基地のキャンプ・ドレイク(現在の陸上自衛隊朝霞駐屯地)をアメリカから返還してもらい、そこに選手村を建設する計画でした。ところが、これに反発したのがまーちゃんこと田畑政治でした。理由はいたって明瞭、朝霞では都心にある各競技場までの距離が遠すぎるということ。そこで候補地として田畑が目をつけたのが、代々木のワシントンハイツでした。ワシントンハイツは明治神宮に隣接する92.4万平米の広大な敷地で、そこに在日米軍の兵舎をはじめ、米兵の家族住宅、学校、教会、劇場まである居留地で、いわば「日本の中のアメリカ」といった場所でした。戦前は日本陸軍の練兵場だったところで、昭和15年(1940年)の幻の東京オリンピックの際にも、施設建設地として候補にあがっていた場所でした。都心部でこれだけ広い面積を確保できる場所は他にはなく、メインスタジアムにも徒歩で行ける距離。これほど好条件の場所は他にない、というのが田畑の意見でした。


 もっとも、田畑に言われるまでもなく、ワシントンハイツが最良の場所であることぐらいは誰もがわかっていました。しかし、候補地にあがらなかったのは、アメリカが簡単に手放すはずがないと思い込んでいたからだったようです。ところが、まーちゃんは諦めなかったんですね。その根気が功を奏したのか、突如アメリカ側が軟化し、ワシントンハイツの返還を条件付きで了承します。その条件とは、移転費用(60億円とも80億円とも)はすべて日本政府が負担し、移転先も日本政府が用意するというものでした。この条件に難色を示す池田勇人首相を田畑は説得し(その説得の材料が、ドラマで描かれていたようにNHK放送局の建設とカラーテレビの普及による経済効果だったかどうかはわかりませんが)、昭和36年(1961年)10月、ワシントンハイツへの選手村建設が決定します。


 ドラマでは、平沢和重日米安全保障条約が日本国民の反感を買っていることを利用し、ワシントンハイツ返還のメリットを突きつけて交渉を進めましたが、実際、アメリカが返還に応じた背景には、前年に盛り上がった日米安保闘争があったと見て良さそうです。岸信介総理が新安保条約締結を機に、また日本を戦争に導いていくのではないかと、若者を中心に反政府感情が高ぶっていたこの時期。そんな機運のなか、日本のGHQ統治は昭和27年(1952年)にとっくに終わっているのに、未だ東京の中心部に高い塀で囲われた「日本の中のアメリカ」が存在することに、国民の反感は増長していました。アメリカとしては、できればその反米感情を鎮めたい。それには、ワシントンハイツ返還は格好の手段だったのでしょうね。やはり、オリンピックは政治とは切っても切り離せません。ともあれ、そのおかげで代々木が日本に戻ってきたのだから、結果オーライだったんじゃないでしょうか。


 ちなみに、タクシー運転手の森西栄一「聖火リレーコース踏査隊」となった話、実話だそうですね。たまたま森西のタクシーに丹下健三亀倉雄策が乗り合わせ、そこで聖火リレーコース踏査隊の話を聞き、その役目を自分にやらせてくれとアピールしたというのも本当の話だそうです。てっきりドラマのオリジナルだと思って観ていました。世の中、面白い人がいるもんです。



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by sakanoueno-kumo | 2019-11-11 20:22 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第41話「おれについてこい!」 ~大松博文監督と回転レシーブ~

 まず、チュートリアル徳井義実さんの例の問題で、大松博文監督シーンをどうするかが注目されていましたが、すでにクランクアップ済でセットも壊しているため撮り直しは不可能という理由で、番組冒頭で「編集などでできるだけ配慮をして放送いたします。」とのテロップを流し、ドラマ全体の流れを損なわないよう再編集した内容で放送されました。ひとまずホッとしましたね。物語前半のピエール瀧さんのときも物議を醸しましたが、「作品には罪はない」という論点から言えば、私はすでに撮り終わっているものまでお蔵入りさせる必要はないと思っています。もちろん、彼のやったことは悪質極まりないことで、これからの彼のタレント活動には大きなペナルティを与えられて然りだと思いますが、その一人のために作品すべてが世に出せなくなってしまうというのは、その作品に関わったすべての人たちの立場に立って考えると、どうにもやりきれない。何より、観ているわたしたち側からしても、勿体ないの一言につきます。今回、どの程度徳井さんのシーンがカットされたかは知りませんが、わたしは、建前上あのようなテロップを流さざるを得なかったとしても、ほとんどカットする必要はなかったんじゃないかと思います。このような事態になったとき、ほとんどの場合が個々の制作サイドの自主判断に任されているようですが、そうすると、批判を恐れて出したくとも出せなくなるというのが実情でしょう。その意味で、今回のNHKの決断をわたしは支持したいと思います。これを機に、こういった場合に作品を守るためのルールを作る必要があるんじゃないでしょうか。


e0158128_13414469.jpg 話をドラマに移して、その大松博文監督といえば、「東洋の魔女」と呼ばれた日本女子バレー東京オリンピック金メダルに導いた名監督として知られます。その指導方法は超スパルタで、たとえ女子であっても容赦なしの厳しさから「鬼の大松」と呼ばれました。ときには体罰もあったとか。ドラマでヤカンが映っていましたが、あれで水をぶっかけられることもしばしばだったとか。女子なのでさすがにゲンコツはなかったようですが、選手全員一列に並んで平手打ちというのは日常茶飯事。あと、遠征先で突然腹痛を起こさないように、病院と水面下で連携して選手には何も説明しないまま強制的に盲腸手術をさせていたとか。今なら大問題ですよね。


大松監督は先の戦時中は中隊指揮官だったそうで、あの過酷な戦場として知られるインパール作戦の数少ない生き残りだそうですから、その厳しさは軍隊で培ったものだったのかもしれません。この時代の指導者というのは、似たようなタイプの人が多かったんじゃないでしょうか。ただ、昨今の体罰教師パワハラ問題と違うのは、それでも大松監督は選手たちから慕われていたということでしょう。きっと、この時代と今とでは、何かが違うんでしょうね。体罰をする側も、される側も。


 ドラマでもあったように、あの有名な回転レシーブは柔道の受け身をヒントにした技だったそうです。肩から前に倒れながらボールを受け、身体を1回転させて立つ。素早く体勢を立てなおすことができる技です。漫画『アタックNo.1』にも出来きてましたよね。今では普通のプレーですが、最初にこれを見た外国の選手たちは、日本の選手の機敏さに驚いたんじゃないでしょうか。単なる根性論のみで厳しいだけじゃなく、技の考案などの理にかなった指導ができる監督さんだったからこそ、どれだけ厳しくとも選手たちがついてきたんでしょうね。「だけど涙が出ちゃう 女の子だもん」と言っていたかもしれませんが(笑)。


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by sakanoueno-kumo | 2019-11-05 13:43 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第40話「バック・トゥー・ザ・フューチャー」 ~フジヤマのトビウオ・古橋廣之進~

 昭和19年(1944年)に開催されるはずだった第13回ロンドンオリンピックは、第二次世界大戦の真っただ中で中止となり、それが、第14回大会として昭和23年(1948年)に開催されることが決定していました。昭和11年(1936年)のベルリンオリンピック以来、12年ぶりのオリンピックです。


e0158128_17574863.jpg 戦後、田畑政治日本水泳連盟会長に就任し、また、日本体育協会常任理事にも就いていました。田畑の目指すところはひとえにオリンピックへの復帰。敗戦国となった日本も、何とかロンドンオリンピックに参加すべく模索しますが、戦時中に日本の各競技団体は国際競技連盟から除名されており、この除名処分の撤回を求めようにも、GHQの統治下にあった日本では、外国と交渉するにもすべてGHQを通さねばならず、事は思うように運びません。ならば、と、田畑は国際水泳連盟の除名が解けないままIOCに直接アプローチを仕掛け、IOCから招待状をもらえるよう働き掛けますが、IOC委員には日本に同情的な意見が多かったものの、日本の招待を強く拒絶したのが、ロンドンオリンピックの開催国であるイギリスだったそうです。IOCも開催国の国民感情を無視することは出来ず、結局、日本のロンドンオリンピック参加は実現しませんでした。やはり、嘉納治五郎が死に際まで訴えた「政治とスポーツは別」という理想は、ここでも受け入れられなかったんですね。


e0158128_14363507.jpg ならば、オリンピックに出られなかった日本代表選手の実力を見せつけてやろうと、田畑はロンドンの日程に合わせて日本選手権の決勝を開催します。戦前、世界最強とうたわれた日本競泳陣の実力は世界の知るところであり、否応なしに世界の注目を浴びる。ここでもし本場オリンピックの選手に勝てば、オリンピック金メダルの価値が下がり、国際水泳連盟も日本を無視できなくなる。なかなかの策士ぶりですね。ほとんど宣戦布告といっていいでしょう。そして、その田畑の狙いは見事にハマり、ロンドンオリンピックの400m自由形の金メダリストとなったアメリカウィリアム・スミスの優勝タイムが4分41秒0だったのに対し、日本選手権の同種目で優勝した古橋廣之進選手のタイムは、オリンピックのタイムより6秒以上も速い4分33秒4世界記録を更新します。また、古橋は1500m自由形でも、19分18秒5のオリンピック優勝タイムを遥かに上回る18分37秒0世界記録で優勝し、古橋と同じ日本大学の橋爪四郎選手も、18分37秒8の記録を叩き出しました。オリンピックに出ていれば、日の丸が金銀を独占したことになります。この結果は、ロイター通信によってロンドンにも即時に伝えられたとか。現地はドッチラケだったでしょうね。


 古橋廣之進選手はその後も世界記録を連発しましたが、これらの記録は日本が国際水泳連盟から除名されていたため公式な世界記録としては公認されませんでした。しかし、敗戦直後で日本人の多くが苦しんでいる時期に「世界記録」を連発する古橋は、国民的ヒーローだったそうで、翌年に招待された全米選手権でも3種目で世界記録を更新する活躍を見せ、アメリカの新聞では「フジヤマのトビウオ」(The Flying Fish of Fujiyamaと称賛されたそうです。今回、その戦後のヒーロー・古橋廣之進を、平成のヒーロー・北島康介さんが演じておられましたね。驚きました。北島さんのクロール、初めて見ましたね。「チョー、気持ちいい」とは言いませんでしたが(笑)。


 田畑のはたらきや古橋、橋爪らの活躍もあってか、昭和24年(1949年)4月にローマで行われたIOC総会への出席が許され、同年6月には国際水泳連盟への復帰が許されました。その後、他の競技団体も次々に国際連盟への復帰が認められます。昭和26年(1951年)9月のサンフランシスコ講和条約で第二次世界大戦が正式に終結すると、日本は沖縄や一部の離島を除いてGHQの占領は終わり、日本の独立が回復します。そして、その翌年に開催された第15回ヘルシンキオリンピックに、日本は念願の復帰を果たしました。残念ながら古橋は、アスリートとしてのピークを過ぎていたことと、前年の南米遠征中に感染したアメーバ赤痢の後遺症が癒えず、思うような結果が残せませんでした。


 その後、昭和31年(1956年)の第16回メルボルンオリンピックを経て、物語は昭和34年(1959年)の東京オリンピック招致スピーチまで進みましたね。次週からは、昭和39年(1964年)の東京オリンピックまでの道のりが描かれる最終章に突入します。



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by sakanoueno-kumo | 2019-10-29 14:38 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第39話「懐かしの満州」 ~満州と終戦~

 今回は5代目古今亭志ん生が主人公の物語でしたね。昭和20年(1945年)5月6日、志ん生は同じ落語家の6代目三遊亭圓生や講釈師、漫才師らとともに慰問芸人として満州に渡航しました。昭和20年5月というと終戦の3ヵ月前で、この翌日の5月7日にはドイツが連合国に降伏し、枢軸国で残るのは日本だけとなります。連合軍が沖縄に上陸して沖縄戦が始まったのが前月の4月1日で、あのひめゆり学徒隊集団自決したのが翌月の6月。神風特攻隊による菊水一号作戦が始まったのが4月6日で、4月7日には戦艦大和が沈没しています。本土では、東京や大阪だけでなく全国各地の主要都市が空襲を受け始めたのもこの5月。3年8ヵ月続いた第二次世界大戦中、このラスト3、4ヵ月でおびただしい数の死者が出ました。そんな時期に、まだ兵隊さんの慰問活動なんてやってたんですね。


e0158128_18320298.jpg このとき古今亭志ん生55歳、三遊亭圓生は10歳下の45歳でした。満州に渡った彼らは満洲映画協会の傍系である満洲演芸協会と契約を結び、各地で兵士たちを前に落語を演じながらまわったそうです。その契約は7月5日に終わり、そのまま日本へ帰る予定だったのですが、悪化する戦局のなか船便がなくなってしまい、やむなく、次の船が出るまで満州電電傘下の新京放送局の仕事を引き受け、慰問のため各地をまわることになります。このとき志ん生ら一行の引率を担当したのが、このころ新京放送局のアナウンサーをしていた当時32歳の森繁久彌だったそうです。森繁さんといえば、昭和を代表する大俳優で、たしか大河ドラマにも出演していたと思いますが、令和となったいま、もはや大河ドラマに出てくる歴史上の人物になっちゃいましたね。


 8月8日、ソ連が日ソ中立条約破棄して日本に宣戦布告し、満州に攻め込んできました。終戦の1週間前です。日本がポツダム宣言の受諾をもう少し早く決断していれば、のちの北方領土問題はなかったのに・・・といってもあとの祭り。愚かにも日ソ中立条約を根拠にソ連の仲介による和平工作を模索していた日本は、梯子を外されて四面楚歌となり、8月15日正午の昭和天皇による玉音放送をもってポツダム宣言受諾を国民へ表明し、終戦を迎えました。志ん生たちが玉音放送を聞いたのは、大連だったそうです。その1週間後の8月22日にソ連軍が大連に進駐してくることになり、その前日、現地の日本人たちがお別れの会を開き、志ん生と圓生は頼まれて一席ずつ演じたそうです。ドラマでは皆、笑っていましたが、実際には、誰もくすりとも笑いはしなかったとか。まあ、そりゃそうでしょうね。


 ドラマでは志ん生らとともに行動していた小松勝がソ連の進駐軍に射殺されていましたが、実際、満州におけるソ連の進駐軍は日本本土のアメリカ進駐軍と違ってたちが悪く、歯向かう日本人は容赦なく殺され、降伏した日本人は捕虜としてシベリアや中央アジアなどの強制収容所に送られ、過酷な強制労働を強いられました。このシベリア抑留によって65万人以上の男性が極度の栄養失調状態で極寒の環境にさらされ、25万人以上の日本人が帰国できずに死亡したといわれます。ドラマで、若い女はみんな青酸カリで自殺したと言っていましたが、「敦化事件」のことでしょう。8月27日、ソ連軍によって連日に渡り集団強姦され続けていた工場の日本人女性社員が、青酸カリを飲んで集団自決した事件です。また、中華民国政府に協力した日本人約3000人が中国共産党に虐殺された「通化事件」も発生しました。


「沖ソ連軍が本格的に来てからはひでえもんだったよ。沖縄で米兵が・・・、もっと言やあ、日本人が中国でさんざっぱらやってきたことだが。」


 ビートたけしさん演じる晩年の志ん生が語った台詞ですが、まさしく、そのとおりでした。というと、また「売国奴」とか言って騒ぎ出す恥ずかしいやつらがいますが、戦争ってそんなものでしょう。悪いのは日本人でもロシア人でもアメリカ人でも中国人でもなく、戦争なんです。戦争が人を狂気にするんです。


 志ん生が大連でウォッカをあおって意識を失ったという話は実話だそうですね。ついにソ連軍が進駐してきたとき、志ん生は安く分けてもらったウォッカを6本も飲み干し、ぶっ倒れたそうです。後年、志ん生は「このとき自殺するつもりだった」と語っていたそうですが、志ん生を介抱した圓生は、「なあに嘘ですよ。(中略)ありゃあね、自殺するような、そんなヤワな人間じゃないですよ」と否定していたそうです。


 今回、主人公の金栗四三田畑政治がほとんど出てきませんでしたね。私はこれまで当ブログにおいて、主人公が出ない回かあってもいいんじゃないか、と度々発言してきました。主人公を無理やり歴史上の出来事に絡めて出そうとするから、話が嘘くさくなって面白くなくなる。大河ドラマが歴史ドラマである以上、その流れのなかで主人公が出てこない回があってもいいと思うし、そうすることで、物語により厚みが出るとわたしは思います。今回、それを見事にやってのけていて、それがまた素晴らしい出来映えでした。聞くところによると、もともと脚本家の宮藤官九郎さんが「満州の古今亭志ん生と戦争」を書きたくて着想したのがこの物語で、オリンピック噺は後付けだったとか。なるほど、だから志ん生が語り部だったんですね。その意味では、今回が志ん生の物語の着地点壮大な伏線の集大成の回だったといえるでしょう。まさに「神回」でした。



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by sakanoueno-kumo | 2019-10-14 18:32 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第38話「長いお別れ」 ~東京オリンピック中止と第二次世界大戦~

e0158128_19143177.jpg 嘉納治五郎が命をかけて死守した昭和15年(1940年)の東京オリンピック開催でしたが、その嘉納が急逝すると、たちまちオリンピック開催反対論が息を吹き返します。日中戦争が激化するなか、昭和13年(1938年)4月に公布された国家総動員法によって、すべての物資が軍の統制下に置かれ、競技場並びに関連施設の建設がさらに難しい状況になります。また、諸外国からの日本に対する風当たりもますます強くなり、アメリカをはじめヨーロッパ各国から東京オリンピックボイコットの声が高まり始めました。こうなると、これまで東京開催を支持していたIOC会長ラトゥールも、ついに反対論に押され、日本に開催辞退を求めるようになります。これを受けて日本は、7月15日、正式に東京オリンピック中止を閣議決定し、翌日、組織委員会によって発表されました。嘉納の死からわずか2ヶ月後のことでした。


 「オリンピックの開催は、政治的な状況などの影響を受けるべきではない」


 嘉納が最後のIOC総会で訴えたオリンピック理念ですが、その理想は間違っていないにしても、それを実行するのは実質的には不可能で、それは、21世紀の現代でも変わっていません。国家規模で行われるイベントである以上、国はそれをガッツリ政治利用しようとします。百歩譲って平和親善のための政治利用はやむを得ないとしても、その逆は(たとえばボイコットとか)、やはりやるせないですね。何よりいちばん気の毒なのは、4年に一度の舞台にかけるアスリートたちです。


 その後、辞退した東京に代わってフィンランドヘルシンキ代替開催地となりますが、その翌年の昭和14年(1939年)9月3日、ドイツがポーランドに侵攻したことにより、イギリス、フランス両国が宣戦を布告。ここに第二次世界大戦が始まります。その煽りを受けて代替開催地のフィンランドにもソ連軍が侵攻する事態となり、結局、IOCは第12回オリンピック開催を断念します。欧米諸国もアジアも、世界中がスポーツどころじゃなくなっていました。


 そして国際的に孤立する日本は、東京オリンピックが開催されるはずだった昭和15年(1940年)、ドイツとの関係を強化するため、イタリアも加えた日独伊三国同盟を結びます。これにより、アメリカ、イギリスとの対立は決定的となり、翌年の対米戦開戦につながっていくんですね。それにしても、東京オリンピック招致のために立候補取り下げを談判したムッソリーニと、東京オリンピック招致を後押しした(とされる)ヒトラーとここに来て手を結ぶに至るとは、やはり、オリンピック招致運動は政治だということですね。


 ドラマでは第二次世界大戦はほとんど描かれないようで、一気に年月が過ぎていきました。まあ、物語の主題はオリンピックですから、それでいいんじゃないでしょうか。そして描かれたのは、昭和18年(1943年)10月の学徒出陣。戦局はいよいよ悪化し、その兵力不足を補うために在学中の高校生や大学生も徴兵されることになったわけですが、そのなかには、平時であればオリンピック代表選手になっていたであろう有名アスリートたちが多く含まれ、戦地へ送られました。そして、その出陣学徒壮行会が行われたのが、皮肉にも東京オリンピックが開催されるはずだった明治神宮外苑競技場だったんですね。ドラマの金栗四三の愛弟子・小松勝は架空の人物のようですが(たぶん、誰かモデルとなる人がいるのでしょうね)、彼のように、東京オリンピックに出るはずだった若者が、軍服を着てここを行進し、そして帰らぬ人となったケースがたくさんあったのでしょう。嘉納治五郎が平和の祭典を開催するために全精力を注いで建てた競技場が、一転してアスリートを死地に送り込む舞台となってしまった。これ以上の皮肉があるでしょうか。嘉納の無念極まりない嘆きが聞こえてきそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2019-10-07 21:27 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第37話「最後の晩餐」 ~嘉納治五郎の死~

 昭和15年(1940年)の東京オリンピック招致に成功した日本でしたが、その開催準備に入ると、すぐさま様々な問題が浮き彫りになります。まず、最も大事なメインスタジアムの計画が、いきなり暗礁に乗り上げてしまいます。当初、メインスタジアムは神宮外苑陸上競技場12万人収容できるものに改修し、その周辺にある代々木練兵場の一部を利用して各競技場を建設する予定でしたが、陸軍がこれに難色を示し、この計画は頓挫してしまいます。その後、代替案をめぐって東京オリンピック組織委員会は迷走し、スケジュールは大幅に遅延することになります。


 また、昭和12年(1937年)7月7日に起きた盧溝橋事件に端を発し、日本と中国は交戦状態となっていました。現在ではこれを「日中戦争」と呼びますが、当時は「支那事変」と呼ばれていました。その理由は、両国ともに宣戦布告がないまま戦闘状態に突入したので、国際法上は「戦争」ではなく「事変」にあたるということだったようですが、現在では、事実上の戦争状態だったという見解から、「日中戦争」と呼ばれることがほとんどになっています。実際に宣戦布告が行われたのは、真珠湾攻撃の翌日の昭和16年(1941年)12月9日に蒋介石側から日本側に布告され、日中間が正式に戦争状態になったのは、そこからという見方もあります。まあ、呼び方はどうあれ、日中間は交戦状態にあったわけです。


そんななか、国内外から東京オリンピック返上論が叫ばれはじめます。日中戦争の長期化によって鉄材の統制が厳しくなり、スタジアムの建設に必要な鉄材が確保できず、また、働き盛りの人々が多く徴兵されているため作業員も集まらず、工事は遅れるばかり。各国のIOC委員もこれを不安視するようになり、「交戦国での開催は前例がない」と、準備の遅れを危ぶむ声が大きくなっていきます。また、ドラマにもあったように、政友会河野一郎議員が衆議院予算総会で東京オリンピック反対論を声高に演説し、さらに、陸軍大臣杉山元が議会において開催中止を進言するなど、東京オリンピック開催に否定的な空気が国内で広まっていきます。


e0158128_19143177.jpg そんな状況下の昭和13年(1938年)3月、エジプトのカイロでIOC総会が開かれます。その中心議題はもちろん、東京オリンピック開催をどうするか・・・でした。開催地を他国に変更するとしても、ギリギリのリミットでした。しかし、日本を代表して会議に出席した嘉納治五郎は、あくまで東京開催を主張します。その論旨は、「オリンピックの開催は、政治的な状況などの影響を受けるべきではない」というものでした。この主張に対し、各国のIOC委員のなかで異を唱える者はなかったといいます。19日までの会議で東京オリンピック開催が再確認され、同時に札幌での冬季大会開催も決定し、20日、ラジオ演説で嘉納自身が改めてこのことを故国に伝えました。


 なぜ嘉納はそこまで東京開催に固執したのでしょう。ドラマ中、田畑政治が嘉納に対して「今の日本は、あなたが世界に見せたい日本ですか?」と諫言していましたが、嘉納ほどの人物なら、いまの日本では情勢的にも物理的にも不可能であることは理解できたはずです。「政治とスポーツは別」という理想をあくまで貫きたかったのか、あるいは、自身の晩年のすべてを費やした東京招致をここでご破算にしたくないという意地だったのか。今となってはその心中は想像するしかありませんが、ただ、このような状況下でIOC委員を説得できたのは、一にも二にも嘉納の人徳以外にはなかったでしょう。どう考えても、東京開催を支持する理由が他にないですからね。彼がIOC委員の最古参ということもあったでしょうが、よほど各国の委員から一目置かれる存在だったのでしょうね。


 かくして東京オリンピック開催中止を阻止した嘉納治五郎でしたが、彼はそれを見ることなく、その帰国途中の船上で急死してしまいます。IOC総会後、22日にカイロからアテネに入り、26日にクーベルタン男爵慰霊祭に参列したのち、ヨーロッパ各国、さらにアメリカに渡ってIOC委員たちを訪問し、礼を述べてまわったそうです。そして4月23日、カナダのバンクーバーから氷川丸に乗船して帰国の途につきますが、その船上で風邪をこじらせて急性肺炎を併発し、5月4日、帰らぬ人となりました。享年77。横浜帰着のわずか2日前のことでした。


 嘉納逝去の報は、日本のみならずアメリカでも大きく報じられ、各国から追悼文が寄せられました。幕末に生まれ、講道館柔道の創始者となり、明治、大正、昭和という激動の時代に世界を股にかけてスポーツの発展に力を尽くした嘉納。今やグローバルスタンダードとなった柔道を通して、「逆らわずして勝つ」という彼の精神は世界中に広まりました。あるいは、世界に輸出した最初のサムライスピリッツだったかもしれませんね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-09-30 19:01 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)