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カテゴリ:島根の史跡・観光( 10 )

 

月山富田城跡登城記 その5 「塩治興久の墓」

「その4」の続きです。

月山富田城のある月山の麓に、尼子氏一族の塩冶興久の墓と伝わる墓石があります。

塩冶興久は尼子氏の中興の祖・尼子経久の三男で、出雲国西部で大きな勢力を持つ名族・塩冶氏養子となり、塩冶姓を名乗っていました。


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享禄3年(1530年)、興久は父・経久に対して反乱を起こし、出雲国を追放されます。

『陰徳太平記』によれば、所領加増が認められなかったために反乱を起こしたとありますが、実際には、尼子家中における重臣たちの勢力争いが背景にあったといわれます。

経久の時代に一気に勢力を拡大した尼子氏でしたが、その分、在来の国人領主たちの尼子氏統治に対する不満も大きく、かつて出雲国守護を務めたこともある名族・塩冶氏を押し立てての全面対決に至ったと考えられます。


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説明板では、「尼子興久墓」となっています。

塩冶姓ではなんでダメなんでしょうね。


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出雲国を追われた興久は、妻の実家である山内氏を頼って備後国へと逃れて抵抗を続けますが、その後、天文3年(1534年)に自害

乱は終決しました。

この乱が尼子氏の勝利で終わったことにより、出雲国における尼子氏の権力基盤は盤石となっていきます。

尼子氏の栄華を築いたのは経久と言われますが、逆の意味で、興久もその功労者といえるかもしれません。


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さて、シリーズ5回に渡って紹介してきた月山富田城跡めぐりですが、本稿でひとまず終わりです。

月山富田城跡周辺には他にも尼子氏関連の史跡が数多くあったのですが、この日は時間的制約があってすべてを回ることが出来ませんでした。

また、機会を見つけて訪れてみたいと思います。

神戸から車で3時間以上かかるんですけどね。

最後に、日本100名城スタンプを載せておきます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-02-09 20:01 | 島根の史跡・観光 | Comments(0)  

月山富田城跡登城記 その4 「堀尾吉晴の墓・山中鹿介幸盛供養塔」

「その3」のつづきです。

月山の北西の登山道を登りはじめてすぐに、巌倉寺という古い寺があるのですが、そこに、月山富田城の最期の城主・堀尾吉晴の墓があります。


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巌倉寺は聖武天皇(第45代天皇)の神亀3年(726年)に建立されたといわれる歴史ある寺院で、元々上流の山佐にあったものを、12世紀の後半に月山富田城の城主だった佐々木義清が、祈願寺とするために御子守神社とともに城内に移したといわれています。


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本堂です。

本尊は一木造りの聖観世音菩薩だそうで、藤原氏の時代の技法を伝えるこの本尊は、同寺所有の帝釈天立像とともに国の重要文化財に指定されているそうです。


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本堂脇から奥の墓地へ向かいます。


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この石段を登ったところに、堀尾吉晴の墓があるようです。

さすがは城主の墓というだけあって、特別な場所といった感じです。


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堀尾吉晴の墓です。


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高さ3m余りの立派な五輪塔です。


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堀尾吉晴は、尾張国出身の武将で、織田信長の家臣時代から羽柴秀吉の配下として働き、のちの豊臣政権時代には三中老のひとりに任命されるなど、秀吉の信任が厚い武将でした。

秀吉の死後は徳川家康に与し、慶長5年(1600年)関ケ原の戦いの功により、遠州浜松から出雲・隠岐24万石の大名として広瀬の月山富田城に入城します。


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しかし、月山富田城は急峻な山奥の中世以来の山城だったため、交通も不便で城下町を形成する土地もなく、時代にそぐわない城でした。

そこで吉晴は、宍道湖のほとりの標高28mの亀田山に築城を計画。

慶長12年(1607年)に着工し、5年間にわたる難工事のすえ、慶長16年(1611年)に完成しました。

それが、先ごろ国宝に指定された松江城です。


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もっとも、吉晴は落成間近の慶長16年(1611年)6月に急死しており、息子の堀尾忠氏もそれ以前に急死していたことから、松江城の初代城主は吉晴の孫・堀尾忠晴となりました。


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吉晴の遺骸は、その遺言によってこの地に埋葬されたそうです。

なぜ、吉晴にとってはそれほど思い入れがあったとは思えないこの地を埋葬場所に遺言したんでしょうね?

あるいは、月山富田城400年の歴史を自身の代で終わらせたことに対する鎮魂の思いだったのでしょうか?


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吉晴の墓の横には、山中鹿介幸盛供養塔と伝わる墓碑があります。

これは、慶長7年(1602年)に吉晴の内儀(妻)が、鹿介の遺徳を偲んで建てたものだと伝わります。


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でも、尼子氏の家臣に過ぎない鹿介の供養塔を堀尾家が建てるだろうか・・・という疑問は拭えないですね。

鹿介が悲運の英雄として語り継がれるようになるのは江戸時代中期からで、鹿介に関する逸話のほとんどが、江戸期に創られたものだと言われます。

堀尾氏が出雲国に入ったこの時代、鹿介がそれほど英雄扱いされていたとは考えづらいですし、もし、供養塔を建てるとするならば、尼子氏のものだったんじゃないかと。

無粋なことを言うようですが。


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あと、同じく巌倉寺には、吉晴の娘・小耶姫の墓もあります。

小耶姫は若くして重い病にかかり、20歳で池に身を投げて自ら命を絶った悲劇の姫君で、ここをお参りすると、婦人病が治癒すると言われています。

あと、もう一回だけシリーズ続けます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-02-08 22:13 | 島根の史跡・観光 | Comments(0)  

月山富田城跡登城記 その3 「三ノ丸~二ノ丸~本丸」

「その2」のつづきです。

山中御殿跡を後にして、いよいよ山頂を目指します。


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この急斜面を蛇のように曲がりくねりながら登ります。

この道を「七曲り」と呼びますが、どう見てももっと曲がってます。


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「頂上まで20分」とありますが・・・。


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さすがに有名な城だけあって、道は観光客用に整備されていて、歩きにくいということはありません。

ただ、勾配はかなり急です。


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石垣が見えてきました。


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七曲りを登りはじめて20分、三ノ丸にたどり着きました。

ここを訪れたのはゴールデンウィーク2日目の4月30日。

気候のいちばんいい季節ですが、この日は風が強くて登山は想像以上にキツかった。


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三ノ丸です。

手前の幟と向こうの木をみれば、風の強さがわかってもらえるでしょうか?


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三ノ丸から北を見下ろすと、山中御殿跡が見えます。


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北側の景色を堪能。


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こちらは北西の眺望。

麓を流れる川は飯梨川です。


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南にふり返ると、二ノ丸の石垣があります。

ここを登ると二ノ丸、そして本丸へと続きます。


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二ノ丸に登るとすぐに、鳥居があります。

これは、本丸に鎮座する勝日高守神社の鳥居だと思われます。


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二ノ丸は写真のように、長細い削平地になっています。

説明板によると、発掘調査により建物や柵、塀の柱穴跡が検出されたそうで、そのうちの1棟からは備前焼のカメが3個発見されたらしく、戦時に飲み水や食物を貯蔵する為の建物だったと考えられるそうです。


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二ノ丸には観光客用の休憩場所が建てられています。


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そして、いざ本丸へ。

ここ月山富田城は、二ノ丸の上に本丸があるといった構造ではなく、山頂にラクダの2つコブのような山塊があり、手前は二ノ丸、奥が本丸になっています。

このような構造を「複郭式」と呼びます。

したがって、二ノ丸から本丸へ行くには、いったん山塊を下ります。


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そして本丸を見上げます。


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本丸です。


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ふり返ると、谷を挟んで二ノ丸が見えます。


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本丸もまた、二ノ丸と同じく細長い削平地になっています。


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本丸には、月山富田城400年の歴史が刻まれた年表があります。


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月山富田城の歴史は古く、12世紀の後半、源頼朝が出雲国の守護として佐々木義清を任命したことに始まるとされています。

その後、塩冶氏、佐々木氏、山名氏、京極氏、尼子氏、毛利氏、堀尾氏と400年以上の長きにわたって中国、山陰地方の軍事拠点となりますが、なかでも特に繁栄したのが山陰山陽11ヶ国を領有した尼子氏の時期でした。

さらにそのなかでも最も栄華を極めたのが、尼子氏の中興の祖といえる尼子経久の時代です。

経久については、「その1」で述べましたよね。


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しかし、その尼子氏も毛利元就に攻められ、1年半の攻防戦のすえ尼子氏は滅亡

月山富田城は毛利氏の手に渡ります。

ところが、その毛利氏も元就の孫の毛利輝元のときに関ヶ原の戦いで西軍に属したため月山富田城を追われ、替わって堀尾吉晴が城に入ります。

しかし、時代は山城から平城へと移り変わっており、山奥にある富田は政務上不便と考えた吉晴は、慶長16年(1611年)、居城を現在の松江城に移し、427年に及ぶ月山富田城の歴史に幕を閉じます。


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本丸のいちばん高いところには、「山中幸盛塔」と刻まれた石碑が。


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碑は明治期に山中鹿介幸盛を偲んで建てられたものだそうです。

当時から鹿介の人気が高かったことがうかがえますが、鹿介は城主だったわけではないわけで・・・。

ここ、本丸跡でしょ?

石碑を建てるなら、普通、尼子氏関連なんじゃないかと・・・。


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本丸のいちばん奥には、勝日高守神社が鎮座します。


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勝日神社は古事記にその記載があり、当地で大國主命が思案していると、海中に光が現われ、国土経営を助けたと言われ、山頂に大國主命の幸魂神を山麓に大己貴命を祀ったとされているそうです。

月山富田城の歴代城主の信仰が厚く、特に尼子氏はたいへん熱心だったと伝わります。


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さて、本丸まで制覇しましたが、もう少し城跡周辺をめぐってみます。

つづきは「その4」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2019-02-07 22:30 | 島根の史跡・観光 | Comments(0)  

月山富田城跡登城記 その2 「山中鹿介幸盛祈月像~花の壇~山中御殿」

「その1」のつづきです。

太鼓壇の南側には、山中鹿介幸盛があります。


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山中鹿介幸盛は尼子三傑のひとりとして、「山陰の麒麟児」の異名で知られます。

尼子十勇士の筆頭にして、尼子氏滅亡後も最後まで尼子家再興のために力を尽くした武将として後世に名高い人物ですね。


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尼子家再興のため、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」三日月に祈った逸話は有名で、戦前の国語の教科書にも採用されていたそうです。

この像は、その祈りの姿を表した「祈月像」だそうです。


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永禄5年(1562)から始まる毛利元就の富田城攻めの際、鹿介は敵方の猛将・品川大膳との一騎打ちで名を馳せ、尼子氏滅亡後は尼子勝久を奉じての尼子再興戦で中心的な役割を担い、永禄12年(1569年)には、ここ月山富田城を包囲するまでに勢力を回復させますが、しかし、布部、山佐の戦いにおいて毛利軍に敗北すると、徐々に劣勢となって毛利軍の捕虜となり、その後、逃亡します。


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天正5年(1577年)に織田信長の配下である羽柴秀吉中国遠征が始まると、鹿介らはその軍勢に加わり、播磨上月城の守備を任されますが、毛利軍の猛攻によって落城し、主君・勝久は自害

鹿介も捕らえられ、護送途中に殺害されます。

ここに尼子家再興の道は絶たれ、尼子氏繁栄180年の幕が閉じられました。


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山中鹿介幸盛祈月像を跡に南へ尾根伝い進むと、前方に月山が望める見通しのいい高台にたどりつきます。


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ここは「花の壇」といって、多くの建物跡が発掘された家臣の居住空間だったようです。


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「花の壇」には、発掘された柱穴を元に復元された建物があります。


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なかには顔出しパネルが。

これ、大河ドラマ『毛利元就』のときの緒形拳さん演じる尼子経久ですよね?

じゃあ、女性の方は高畑淳子さん演じる萩の方でしょうか?


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説明板です。


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花の壇からさらに南へ進むと、かなり広い面積の空間に出ます。


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ここは山中御殿といわれた建物のあったところで、平地と石垣の上下2段に分かれた構造をしており、約3,000㎡あるそうです。


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山中御殿は「さんちゅうごてん」と読むそうで、山中鹿介の「山中」ではないみたいです。

ややこしいですね。


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月山の中腹に位置する山中御殿は、菅谷口、塩谷口、大手口と3つの主要通路の最終地点ともなっており、最後の砦となる三ノ丸、二ノ丸、そして本丸へ通じる要の曲輪として造られたと考えられ、まさに月山富田城心臓部といえます。


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周囲の石垣はいずれも復元です。

かつての石垣はもっと高く、5mほどあったと見られています。


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井戸跡。


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さすがに有名な城だけあって、説明板などが数多く設置されています。


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さて、次回はいよいよ本丸に向かう七曲りを登ります。




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by sakanoueno-kumo | 2019-02-06 20:26 | 島根の史跡・観光 | Comments(0)  

月山富田城跡登城記 その1 「登山口~太鼓壇」

かつて出雲国にあった山城・月山富田城跡を訪れました。

現在の住所でいえば島根県安来市広瀬町富田で、県庁所在地の松江市から車で30分ほど走った山間部に位置します。


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城山の西側に流れる飯梨川(富田川)の畔に、「尼子・毛利の古戦場」と書かれた看板が設置されていました。

そう、ここ月山富田城跡は、約170年間、戦国大名・尼子氏の本拠となった場所です。


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看板の向こうに見える山の上が城跡です。


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ズームします。

標高197m月山の地形を利用した複郭式の山城で、昭和9年(1934年)に国の史跡に指定され、日本100名城にも選ばれています。


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麓にある道の駅に車を停めて登山です。


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さすがに有名な城だけあって、麓には説明板石碑などが各所に設置されていました。


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模型が設置されています。


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その説明書きによると、月山富田城は東西に約1,200m、南北に約1,200mの範囲に縄張りされた総面積140万㎡日本最大級の規模の山城だそうで、この模型は自然の幾重にも重なる山や谷を利用した城の構えの様子を分かりやすく表したものだそうです。


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登山道は観光客用に登りやすく整備されています。


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しばらく登ると、「太鼓壇」と呼ばれる丘の上の削平地に出ます。

ここは、その名のとおり太鼓を吊るした建物があった場所で、尼子経久の時代に作られたものといわれています。


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尼子経久は尼子氏の中興の祖といえる武将で、経久の代にして安芸、備後、備中、備前、美作、播磨、因幡、伯耆、出雲、石見、隠岐と、山陰山陽11カ国を支配するまでに成り上がった「下克上」の先駆者とも言える人物です。

元は出雲国守護代の身でしたが、領国横領等を主君の京極家から責められて追放されて浪人となり(異説あり)、その後、そこから逆襲して山陰山陽の覇権を手中に収めました。

まさに、尼子氏の全盛期を築いた武将です。


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太鼓壇には、推定樹齢400年以上という椎の巨樹があります。


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その説明書きです。

あるいは、往時を知っているかもしれませんね。


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看板の枠から板が外れちゃってます。


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同じく太鼓壇には、「尼子神社」と書かれた扁額のある小さな鳥居と祠があります。


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ここは、その名称のとおり、尼子経久、晴久、義久の三代城主ならびに、山中鹿介幸盛を始めとする尼子十勇士を祀っています。


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長くなっちゃったので、本稿はここまで。

次稿に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-02-01 21:24 | 島根の史跡・観光 | Comments(0)  

国宝天守となった松江城を歩く。 その5 「内堀~塩見縄手~三ノ丸」

「その4」の続きです。

シリーズ最後は、松江城内堀に沿って歩きます。

まずは、二の丸下段の芝生公園北東の内堀に架かる北惣門橋です。


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この橋は、江戸時代には内堀東側にあった家老屋敷と城内を結ぶ重要な通路だったそうです。

明治時代の中頃に石造りのアーチ橋に変わったそうですが、平成になって再び絵図や文献史料を参考に復元したそうです。


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長さ18.54m(九間四尺五寸)、幅3.82m(二間)あります。


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このまま内堀沿いに歩きます。


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北側の内堀です。


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内堀の外側に沿うように走る道です。

城下町では、縄のように一筋に長くのびた道のことを「縄手」といいますが、寛永15年(1638年)に松江に入府した藩祖松平直政の町奉行・塩見小平衛がここに居をかまえ、異例の栄進をした家柄であったので、その栄進をたたえてこの通りを「塩見縄手」と呼ぶようになったそうです。

昭和61年(1986年)には「日本の道100選」に選定されています。


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いまも景観を損なわない日本家屋が並びます。


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武家屋敷です。


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こちらは、田部美術館

武家屋敷跡を利用したようなたたずまいですが、昭和54年(1979年)に日本の代表的建築家・菊竹清訓氏の設計によって建てられたものだそうです。


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そして、美術館の隣には、松江にゆかりの深いラフカディオ・ハーンこと小泉八雲寓居跡があります。


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小泉八雲はギリシャ生まれのアイルランド人で、明治23年(1890年)、アメリカの出版社の人間として来日したのですが、そこですっかり日本が気に入ってしまい、新聞社を辞めて日本に移り住みます。

その後、松江にあった島根県尋常中学校英語教師として赴任し、そして翌年、日本人の小泉セツという女性と結婚しました。

そのときの新居が、この武家屋敷跡だったそうです。


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その後、八雲は熊本・神戸・東京と居を移しながら日本の英語教育の最先端で尽力するとともに、日本文化をいろいろ見聞します。

そして明治29年(1896年)に東京帝国大学英文学講師となったことを機に、日本に帰化して小泉八雲と名乗るようになりました。


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寓居跡の前の公園には、八雲の胸像があります。


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ちなみに「八雲」という名の由来は、出雲国にかかる枕詞の「八雲立つ」に因んで名付けたといわれています。


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小泉八雲寓居跡からさらに内堀沿いに西に進んだところにある新橋です。


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そして城の北西搦手虎口に架かる稲荷橋


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さて、内堀北面の塩見縄手を離れて、今度は東面を内堀沿いにに下って歩きます。

観光客を乗せた木船が見えます。


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石垣は「切込みはぎ」ですね。


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内堀南側にやってきました。

「その2」で紹介した中櫓南櫓が見えます。

写真左に見える橋は、二ノ丸と三ノ丸を結ぶ千鳥橋


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中櫓です。


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南櫓です。


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そしてこちらが千鳥橋

江戸時代には「御廊下橋」と呼ばれ、城の中心部と藩主の館あった三ノ丸御殿を結ぶ重要な橋で、当時は屋根がかかっていたそうです。

現在の橋は屋根はありませんが、北惣門橋と同じく絵図などの史料を参考に平成6年3月に復元されたものです。


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そして千鳥橋の南側が三ノ丸跡

現在は島根県庁の庁舎が建てられていますが、敷地内の一画に、「松江城三丸舊趾」と刻まれた石碑が建てられています。


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さて、5回に渡って巡ってきた松江城シリーズですが、ひとまずこれで終わりとします。

国宝になる以前からずっと来たいと思っていたのですが、今回、ひょんなことから機会を得ることができ、堪能できました。

今度は桜の季節に訪れてみたいですね。

最後に、日本100名城スタンプを載せておきます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-01-31 21:03 | 島根の史跡・観光 | Comments(0)  

国宝天守となった松江城を歩く。 その4 「天守内部」

「その3」国宝となった松江城天守の外観を堪能したので、いよいよ内部に攻め込みます。


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開門された附櫓の入口から入ります。

この日、テレビ局が撮影に来ていました。

誰とは言いませんが、女優さんが来られていました。


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まずは地階から。

附櫓入口から階段を登ってきたのに、なぜかここは地下1階なんだそうです。

地階は籠城戦になった時の水や塩、米などを確保するための食糧庫でした。


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中央には深さ24メートルの井戸があります。

天守内に井戸があるのは珍しいのだとか。


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柱に祈祷札が打ち付けられていますが、これは模擬札を使って再現したものです。

というのも、平成27年(2015年)の国宝指定の決め手になったのは、松江城完成を示す「慶長拾六年在銘松江城天守祈祷札」2枚が発見されたことで、築城時期が確定したことでした。

また、築城する際の地鎮のための「松江城天守鎮物」3点(槍・祈祷札・玉石)、2階までが完成した際の「松江城天守鎮宅祈祷札」4枚、これら9点が、附指定物として国宝になったとのことです。


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1階です。


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松江城の構造のいちばんの特徴は、そのにあります。

姫路城のような中心を貫く大黒柱はなく、2階分を貫く通し柱を効果的に配置するとともに、上層の重さを分散させながら下層に伝える構造となっています。


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その説明書きです。

よく考えられていますよね。


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天守を支える柱には、1面だけ、あるいは2面、3面、4面に板を張って、鉄輪で留められているものが数多く見られます。

これは「包板(つつみいた)」と呼ばれ、天守にある総数308本の柱のうち130本に施してあったものだそうで、割れ隠しなど不良材の体裁を整えるためのものと考えられているそうです。


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こうして眺めると、包板を使った柱がたくさんあります。


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1階には、松平直政(松平初代藩主)の初陣像が展示されています。


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なぜか大河ドラマ『真田丸』のポスターをバックにしたが。


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この軍扇は、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の際、14歳で初陣した松平直政の若武者ぶりを讃えて、敵将の真田信繁(幸村)が投げ与えたものと伝えられるそうです。

ホントかなあ・・・。


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その他、1階には甲冑などが多数展示されています。


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階段は桐製だそうです。

板の厚さ約10cm、階段幅は106cmで、階段を引き上げたり防火防腐のために桐を使ったものだそうで、他の城では見られない特殊なものだそうです。


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2階です。


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同じく2階も展示品がずらり。

現存12天守のなかでも2番目の面積を誇る松江城ですから、展示スペースも広い。


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石落としです。


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3階です。


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少し狭くなってきました。


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隠し部屋かな?


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4階です。


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狭間ですね。


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そして最上階の5階です。


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最上階は「天狗の間」と呼ばれ、四方を展望できる望楼式です。


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最上階からの南側の眺望です。


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南側本丸広場を見下ろします。


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こちらは東側の眺望。


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北側の眺望。


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そして西側の眺望です。


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最上階には、国宝指定書が展示されていました。


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さて、国宝天守を制覇しましたが、あともう一回だけ松江城シリーズを続けます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-01-30 21:33 | 島根の史跡・観光 | Comments(0)  

国宝天守となった松江城を歩く。 その3 「本丸~天守」

「その2」の続きです。

まずは南側から本丸へ向かいます。

下の写真は二ノ丸上段から本丸へ向かう二ノ門跡


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石段を登ると枡形になっています。


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そして本丸の入口、一ノ門


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一ノ門を潜ると本丸広場

国宝となった天守が南向きに聳えます。


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この日は天守の門が開く前の午前7時半から訪れたので、まだ人がほとんどいません。


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天守をいろんな角度から見てみましょう。


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松江城現存12天守のなかで、唯一の正統天守と言われています。

正統天守とはどういうものかというと、天守の中段正面の千鳥が羽を広げたような三角形の部分を入母屋破風といい、この様式は安土城に始まって大坂城→岡山城→萩城→松江城へと続く天守の形だそうです。

このなかでは、松江城だけが復元城じゃないことから、「唯一の正統天守」ということになるんですね。

もっとも、姫路城も別の意味で正統天守と言われています。

その正統天守とは、天守閣から360度見渡せる望楼型で、5重以上の構造であること。

この条件でいえば、姫路城と松江城が正統天守となります。


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別名「千鳥城」とも呼ばれる城の外壁は大部分が黒塗りの下見板張りで、厳かなたたずまいですね。

外層5層、内部6階建ての構造で、天守の平面規模では現存12天守のなかで2番目、高さでは3番目、古さでは5番目だそうです。


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「その2」で、ぎりぎり井戸にまつわる石垣の奇妙な伝説の話をしましたが、ここ天守台の石垣にも、「人柱」の伝承があります。

その伝承によると、松江城築城時、天守台の石垣を何度積んでも崩れてしまったそうで、人柱を立てればうまくいくのでは、と考えた堀尾家の家臣たちは、盆踊りに集まった人々の中から踊りの上手な美しい娘を有無もいわさず連れ去り、そのまま人柱として生き埋めにしてしまったそうです。

そのおかげかどうか、石垣の崩落はなくなり、無事、天守は完成しました。

ところが、それ以来、城下で盆踊りをすると天守が鳴動するという怪異が起こり、やがてそれは人柱にされた娘のたたりとのうわさが領内に広まり、以来、松江では盆踊りを踊らなくなったといいます。

その後、城の完成を待たずに堀尾吉晴病死し(息子の忠氏は着工前に死去)、そして残された藩主の堀尾忠晴も実子に恵まれることなく若くして病没し、堀尾家は無嗣断絶となってしまいます。

堀尾氏が改易となると、寛永11年(1634年)に若狭小浜から京極忠高が入城しますが、忠高もわずか3年後に無嗣のまま死去し、断絶してしまいます。

そんな背景から、松江城天守には人柱にされた娘のたたりがあると、当時の人々は思ったのでしょう。


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その後、寛永15年(1638年)に徳川家康の孫にあたる松平直政が信濃松本より18万6千石で入城。

この直政のときに、人柱伝説は鎮静することになります。

赴任後、初めて天守の最上階にある天狗の間に登った直政の目の前に、人柱に立った娘の亡霊が現れ、「この城はわらわのもの」と言ったそうです。

これを聞いた直政は、「ならば、このしろをくれてやろう」と娘の亡霊に返答し、湖で捕まえた魚のコノシロ(この城)を供えたところ、それ以来、娘の亡霊は姿を見せなくなり、やがて噂も消えていったといいます。


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オチはダジャレか~い!と突っ込みたくなる話ですが、人柱の伝承が事実かどうかはわかりませんが、直政にまつわるエピソードは、亡霊を退散させたという話を流布させて、新しい藩主となった松平家は、今までの藩主とは違うというところを領民に示す狙いがあったのではないでしょうか。

以後、松江城は松平氏10代の居城として明治維新まで続きます。


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天に聳えるは木彫銅張りで、向かって左が雄で鱗があらく、右が雌。

高さは2.08mあり、日本現存の木造ものでは最大だそうです。


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こちらが入母屋破風ですね。


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この入口が突き出した構造を附櫓といい、天守入口の防備をかたくするためにとり付けた櫓で、入口に鉄延板張りの大戸があり、入ると桝形の小広場が二段あって、侵入しにくいようになっています。


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越前松平氏の家紋です。




天守ばかりではなく、本丸広場も歩いてみましょう。

まずは、本丸東側の多門跡


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こちらは西側の多門跡


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こちらは本丸西北角の乾櫓跡


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こちらは本丸東北角の祈祷櫓跡

ここは、松江城の築城前には荒神を祀ったがあったといわれ、その塚を他の場所に移して櫓を建てたところ、たびたび石垣が崩れたため、この櫓で祈祷が行われたと伝わります。

つまり、上述した人柱伝説が事実ならば、人柱となった娘はこのあたりに埋められたということになりますね。


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そしてこちらが、本丸搦手門にあたる北ノ門です。


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そのすぐ西側にある奥去口門跡


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本丸南側の石垣は「打込みはぎ」でしたが、北側の搦手門付近は「野面積み」でした。

造った時代が違うということはないと思うのですが、なんででしょうね。


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そうこうしているうちに、天守入口が開門されました。

次稿はいよいよ国宝天守の内部を攻めます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-01-26 09:45 | 島根の史跡・観光 | Comments(0)  

国宝天守となった松江城を歩く。 その2 「二ノ丸上段~中曲輪」

「その1」の続きです。

松江城二ノ丸上段に登ってきました。

本丸下の石垣を見上げると、国宝となった天守が見えます。


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ここを訪れたのはゴールデンウィークの4月30日。

ツツジが綺麗な季節です。


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三ノ門跡です。


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三ノ門を入ると、「その1」で紹介した馬溜跡西側の石垣の上に出ます。


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こちらは常番所跡


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二ノ丸上段は本丸南側の一段低い平地で、江戸時代には中央に御書院があり、松平家二代藩主・松平綱隆の時代まで藩主の居住となっていたそうです。

御書院の北には御殿女中の居住である局長屋、南には御月見櫓があり、他に大広間、御式台、御作事小屋、番所、井戸がありました。

また石段に沿って二ノ門、三ノ門、定御番所、御門東之櫓、下雪隠、太鼓櫓、腰掛、中櫓、南櫓がありました。


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こちらは石垣のいちばん北側にある太鼓櫓


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たしかに、中に太鼓がありますね。


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こちらは太鼓櫓のすぐ南側にある中櫓


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中櫓内の窓から馬溜跡を見下ろします。


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こちらはいちばん南にある南櫓


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太鼓櫓、中櫓と違って中は2階建てになっています。


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二ノ丸上段には、明治10年(1877年)創建の松江神社が鎮座します。

主祭神は松平直政(松平初代藩主)で、合祀神に徳川家康(東照宮)、配祀神が堀尾吉晴(松江開府の祖)、松平治郷(第七代藩主)となっています。


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松江神社の南隣にある興雲閣です。

この建物は、明治36(1903年)に山陰地方に明治天皇をお迎えするために松江市が建設したもので、明治40年(1907年)5月には皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)が泊まられています。


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興雲閣の前には、そのときの嘉仁親王お手植えの松が聳えます。


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続いて本丸北側の中曲輪跡にある、馬洗池です。

読んで字のごとく、馬を洗った池ですね。


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馬洗池の側に、「ぎりぎり井戸跡」という変わった名称の井戸跡がありました。

その伝承によると、松江城築城時、表鬼門の石垣がいくら積んでも崩れたそうで、堀尾吉晴は最も崩れの酷い個所を徹底的に掘らせたところ、頭がい骨とそれを貫く錆びた槍の穂先が現れたそうです。

吉晴はすぐさま神主を招いて二夜三日にわたって大祈祷を行わせ、工事を再開して石垣はやっと完成したそうです。

「ぎりぎり」とは、頭のつむじを指す方言だそうで、掘った所が城の中心だったので、「ぎりぎり井戸」と名付けられたそうです。


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こちらはその横にある本丸搦手への登り口。

「水の手門」とも「ぎりぎり門」とも呼ぶそうです。


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さらに馬洗池のさらに北には北ノ丸があり、松江護國神社松江稲荷神社が鎮座するのですが、今回は割愛します。

次稿はいよいよ本丸に登ります。




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by sakanoueno-kumo | 2019-01-24 21:42 | 島根の史跡・観光 | Comments(0)  

国宝天守となった松江城を歩く。 その1 「大手門~二ノ丸下段」

過日、島根県の松江城に行ってきました。

松江城は現存天守12城のひとつとして知られ、平成27年(2015年)、姫路城、松本城、彦根城、犬山城に続いて、わが国5か所目の国宝天守に指定されたことが記憶に新しいかと思います。


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松江にはこれまで何度か訪れたことがありましたが、ゆっくり城見物をする機会に恵まれなかったため、今回がはじめてです。

国宝になったわけだし、城好きとしては、やっぱ見とかないとだめかなぁと。


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大手門跡の正面には、松江城を築いた堀尾吉晴の像があります。


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堀尾吉晴は、慶長5年(1600年)関ケ原の戦いの功により、遠州浜松から出雲・隠岐24万石の大名として広瀬の月山富田城に入城します。

しかし、月山富田城は急峻な山奥の中世以来の山城だったため、交通も不便で城下町を形成する土地もなく、時代にそぐわない城でした。

そこで吉晴は、宍道湖のほとりの標高28mの亀田山に築城を計画。

慶長12年(1607年)に着工し、5年間にわたる難工事のすえ、慶長16年(1611年)に完成しました。

それが、ここ松江城です。


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もっとも、堀尾吉晴は落成間近の慶長16年(1611年)6月に急死しており、息子の堀尾忠氏もそれ以前に急死していたことから、松江城の初代城主は吉晴の孫・堀尾忠晴となりました。


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上の写真は大手門跡です。

枡形になっていますね。


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大手門横にある案内マップ

現在、城跡公園となっているのは内堀を入った二ノ丸からで、三ノ丸は街になっています。


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大手門を入ってすぐの馬溜跡です。


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馬溜跡の西側には高さ13mの石垣がありまず。

その上にある櫓は、向かって右が太鼓櫓、左が中櫓です。


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馬溜跡にある井戸跡


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松江城の二ノ丸は上段下段に分かれています。

馬溜跡北側には、東西100m南北210mの広大な二ノ丸下段が広がります。


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現在は芝生公園になっていますが、江戸時代には米蔵がたくさんあり、北に屋敷地、南には御破損方・寺社修理方があったそうです。


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説明板です。


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二ノ丸下段から上段に登る石段の途中には、推定樹齢350年というクスノキの巨樹が。


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石段の途中の石垣


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松江城の石垣は「打込みはぎ」といって、石切り場で切り出した石の平坦な面の角をたたきつき合わせやすくした積み方で、慶長年間に築かれた城によく見られる工法です。


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二ノ丸下段だけで長くなっちゃったので、上段は次稿に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-01-23 22:30 | 島根の史跡・観光 | Comments(0)