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カテゴリ:滋賀の史跡・観光( 23 )

 

近江坂本城跡を歩く。 その3 <二ノ丸、三ノ丸>

「その2」で紹介した坂本城本丸跡から県道を挟んで西側が、かつて二ノ丸だったとされています。

二ノ丸跡を歩いてみましょう。


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二ノ丸跡の真ん中あたりに、「坂本城址」と刻まれた石碑説明板がありました。


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石碑は大正4年(1915年)に立てられたもののようです。


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説明板です。


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後ろの赤い傘は、観光客用の演出でしょうか?


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石碑から50mほど東にある東南寺です。

ここも、かつては坂本城の一部でした。


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境内奥の石仏を積み上げた場所は、本能寺の変後に坂本城が落城した際、明智方の将士を葬った首塚と伝わるそうです。

ここを訪れたときはそのことを知らず、後にネットで調べて知ったので、アップの写真がありません。

痛恨です。

明智光秀の重臣だった明智左馬助秀満は、安土城で光秀の死を知ると、有名な「明智左馬介の湖水渡り」でここ坂本城に入り、しばらく防戦しますが、最後は自ら城に火を放って自害したといいます。

この首塚のなかに、左馬助の首もあるかもしれません。


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南北に走る旧大道です。


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この道を境に、東が二ノ丸、西が三ノ丸だったそうです。


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石碑に書かれた説明文によると、この大道はかつて坂本城のだったそうで、坂本城廃城後、埋め立てられて北国へ通じる大道を作ったそうです。


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三ノ丸跡を歩きます。


近江坂本城跡を歩く。 その3 <二ノ丸、三ノ丸>_e0158128_16241931.jpg


グーグルマップに坂本城外堀跡という表示があったので、その場所に来てみたのですが、

南に両社神社、北に酒井神社があるものの、外堀跡を示す遺構や石碑などがありません。

どこでしょう?


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こちらは酒井神社。


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こちらは両社神社。

どちらも、広島藩主の浅野長晟が建立した神社だそうです。


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両社神社の石垣です。

なんとなく城跡っぽいですね。

グーグルマップの表示はここを指していたので、写真を撮りました。


近江坂本城跡を歩く。 その3 <二ノ丸、三ノ丸>_e0158128_18521948.jpg


さて、二ノ丸、三ノ丸を制覇しましたが、もうちょっとシリーズを続けます。

「その4」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2020-02-22 11:26 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

近江坂本城跡を歩く。 その2 <本丸跡>

「その1」で紹介した坂本城址公園から150mほど北上したところに、かつて坂本城本丸があったとされます。

現在、その場所には、「坂本城本丸跡」と刻まれた石碑があります。


近江坂本城跡を歩く。 その2 <本丸跡>_e0158128_20371525.jpg
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石碑の説明文は読みにくいですが、こうあります。


坂本城は、元亀2年(1571年)織田信長による山門(延暦寺)焼き討ちの後、明智光秀により東南寺川河口に築かれた水城としてよく知られている。

天正14年(1586年)大津城築城までの間栄えた城であり、当地の発掘調査ではじめて、坂本城本丸の石垣や石組井戸・礎石建物等が発見された。


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ここは以前、企業の研修所があったようですが、ここを訪れた平成30年(2018年)8月現在、企業さんが手放されたのか、看板が撤去された無人の建物だけになっていました。

「その1」にあった案内MAPによると、この本丸跡の湖岸に坂本城の石垣があるといいます。

行ってみましょう。


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湖岸にやってきました。

たしかに石垣があります。


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これがそうでしょうか?


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確かに石垣の遺構のようにも見えますが、後世のもののようにも思えますが、あとで調べてみると、石垣の遺構は琵琶湖が渇水して水位が下がったときのみ姿を表すそうなので、これは違うようです。

まぎらわしいですね。


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ポルトガル宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』には、坂本城についてこう記されています。


「明智は、都から4レーグァほど離れ、比叡山に近く、近江国の25レーグァもあるかの大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗にもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。」


フロイスの個人的な感想ではありますが、彼の目には安土城に勝るとも劣らない豪壮華麗な城に見えたようです。


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本丸跡から見た琵琶湖北東の対岸です。

たぶん、写真左端に見える山々の一角が、安土城だと思うのですが・・・。


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さて、本丸を制覇したので、二ノ丸、三ノ丸に向かいます。

「その3」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2020-02-21 00:24 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

近江坂本城跡を歩く。 その1 <坂本城址公園>

近畿の水がめ琵琶湖の南湖西岸に、かつて明智光秀が築いた坂本城がありました。

現在、その遺構は都市化によってほとんど残っていませんが、城跡周辺を歩いてみました。


近江坂本城跡を歩く。 その1 <坂本城址公園>_e0158128_22512642.jpg


まず訪れたのは、琵琶湖畔に整備されている坂本城址公園

その入口には、「坂本城址」と刻まれた石碑が立ちます。


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西側を振り返ると、比叡山が見えます。

元亀2年9月12日(1571年9月30日)、織田信長は比叡山を焼き討ちにしますが、その中心実行部隊として活躍した明智光秀に近江国滋賀郡5万石を与え、ここ坂本城の築城を命じました。

その目的は、比叡山延暦寺の監視と琵琶湖の制海権の獲得だったといいます。

たしかに、比叡山を監視するには絶好の場所かもしれません。

もっとも、比叡山から見下されているという気もしないでもないですが。


近江坂本城跡を歩く。 その1 <坂本城址公園>_e0158128_22540036.jpg


公園内には、石碑や説明板、それから光秀の像もあります。


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まずは光秀像


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微妙・・・・。


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五木ひろしさんみたい(笑)。


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以前、福井城の結城秀康像の稿(※参照)や、三木城の別所長治像の稿(※参照)でも述べましたが、どうも、平成に作られたであろう新しい像は安っぽい

どう見ても戦国武将には見えず、三国志の騎馬武者って感じに見えます。

どれも同じ作者に見えますね。

三木城の別所長治像なんて、着物が左前の死人襟(死人合わせ)になっていて、ひどいものでした。

中国で低予算で作らせているんじゃないかと。

明治から昭和初期に作られた像は、どれも立派なものばかりですからね。


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像前の業績碑


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その横の歌碑です。

われならで 誰かは植ゑむ 一つ松 心して吹け 志賀の浦風 光秀

かつてこの近くにあった「唐崎の松」という名木が、大風によって枯れたしまい、それを惜しんだ光秀が詠んだとされる歌です。


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こちらは、「光秀の意地」の碑。

唄うは鳥羽一郎さんだそうです。

聞いたことねーっ!

五木ひろしさんだったら、さっきの像とリンクするんですが(笑)。


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こちらは案内板。


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地図を拡大します。

なんだ、ここ城跡公園は、城の縄張りの外じゃないか!

本丸、二ノ丸跡はもう少し北、三ノ丸跡はもう少し西にあったようです。

本丸跡も湖岸に、「坂本城石垣」と記載されています。

あとで探しに行ってみます。


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公園から湖岸に通じているようです。


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琵琶湖です。

南東に見える高いビルは、大津のホテルです。


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こちらは東側。


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そして、こちらは北東側。

対岸の右に見える富士山のような形の山は、近江富士と呼ばれる三上山です。

ということは、写真右側の遠くに見える山々のあたりに安土城があるはずです。


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さて、「その2」では、本丸跡付近を歩きます。




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by sakanoueno-kumo | 2020-02-20 11:48 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

天下布武の象徴、安土城攻城記。 番外編 <安土城考古博物館、信長の館>

「その10」の続き、番外編です。

安土城跡から車で5分ぐらいのところに、安土城関連の展示館が2ヶ所あります。

まず訪れたのは、安土城考古博物館


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ここで目を引いたのが、復元模型でした。


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上の写真は、「その3」で紹介した伝羽柴秀吉邸跡の復元模型。

上下2段に分かれた郭で構成は、まさに、さっき歩いた遺構そのままですね。

こういうのを作ってもらえると、たいへんわかりやすい。

ちなみに、右側の石段が大手道石段です。


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その大手道石段の模型。

上の写真は、安土城築城時の大手道の想像模型です。


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こちらは、昭和の発掘前の大手道

幕末の火災によって焼失した摠見寺(参照:その10)が、その後、昭和7年(1832年)に大手道脇の「伝徳川家康邸跡」に移築された際(参照:その4)、大手道の一部を埋め立てて石垣を築いたため、まっすぐ伸びていた大手道石段は姿を消し、大手道は石垣を大きく迂回するかたちになっていたそうです。


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つづいて、発掘中の大手道

往時のまっすぐの大手道石段が姿を表しました。


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そして、発掘整備後の大手道

現在の大手道ですね。

大手道の変遷がよくわかります。


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続いて、安土城考古博物館のとなりにある「信長の館」にやってきました。


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館内には、安土城天守の5階と6階が実物大で復元されています。


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35mm換算の広角レンズを使っても、全景を撮ることができません。


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安土城天守は絵図などの史料は残っておらず、その姿は定かではありません。

この復元天守は、古文書などの元に研究者が想像したもの。

つまり、復元天守ではなく、想像天守です。


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「その8」で紹介したポルトガル宣教師ルイス・フロイスの記述によると、「ヨーロッパにも例がない絢爛豪華な建物」絶賛しています。

フロイスは「ある階層は紅く、またある階層は青く、最上階は全て金色である。」と記述しており、この復元天守は、その赤の階層と、最上階の金色の階層となります。


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5階は内陣外陣囲う八角形構造になっており、内陣のなかは金箔の壁と釈迦説法図襖絵に囲まれた総朱塗りの床の中央に、2枚のが敷かれています。


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こんな部屋、落ち着かないだろうなあ。


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外陣も総朱塗りの廊下になっており、壁には双龍争珠図などが描かれています。


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黄金の最上階を見上げます。


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最上階に上ってきました。


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こちらは、フロイスの記述も『信長公記』の記録も、どちらも金色だったと伝えていますから、金箔貼りだったことは間違いないでしょう。


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も金です。


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最上階の内部は、黒塗りの柱と床をベースに、壁は総金箔貼りとなっています。


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何度も言いますが、これはあくまで想像の天守。

実際に織田信長がもしこれを見たら、ぜんぜん違う!と言って殺されるかもしれません(笑)。


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こちらは、館内にある50分の1の復元模型

こっちの方がわかりやすいです。


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そして、館内の展示で興味深かったのは、本能寺の変の約半月前の天正10年5月15日(1582年6月15日)、織田信長が武田勝頼討伐に功をなした徳川家康穴山梅雪を安土城に招待してもてなした際の饗応メニューのレプリカの展示です。

これは、詳細な献立の史料が残っているそうで、ほぼ忠実に再現できるそうです。


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こちらが本膳

問題の鮒寿司があります。

このとき、信長は魚が腐っているといって激怒し、饗応役を務めていた明智光秀足蹴にしたといい、その怨恨が、本能寺の変に繋がったという説がありますよね。

そのときの腐った魚というのが、この鮒寿司だったんじゃないかと言われています。

鮒は近江の高級食材だったのですが、海産物が豊かな尾張や三河の信長や家康にしてみれば、臭みの強い鮒は口に合わず、腐っていると勘違いしたのではないかと。

光秀にしてみれば、最高級の料理でもてなしたつもりだったのでしょうが、たしかに、現代でも好き嫌いに分かれることが多い鮒寿司のチョイスは、ちょっと失敗だったかもしれません。


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こちらは二膳

こちらにも、鮎、鯉などの淡水魚が揃っています。

鯉も癖が強い魚ですもんねえ。


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こちらは三膳

日本人はこんな昔からカニを食べてたんですね。


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こちらは与膳

また、鮒が出てきています。

鮒汁は近江の特産だそうですが、これも口に合わなかったかもしれませんね。


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そして五膳

汁は鴨の汁だそうです。


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最後に御菓子

いわばデザートですね。

すごいコース料理です。


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饗応役でのトラブルが本能寺の変に繋がったかどうかは定かではありませんが、この夜、何らかの理由で光秀が信長から叱責されたのは事実のようです。

ルイス・フロイスの記述によると、「この饗応の準備について信長は光秀と言い争いになり、怒った信長が、光秀を一度か二度足蹴にした」と伝えています。

今年の大河ドラマは明智光秀が主人公の『麒麟がくる』ですが、この饗応役のエピソードは、果たしてどのように描かれるでしょうね。


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さて、番外編まで続いた安土城攻城記でしたが、このへんで終わりにします。

長々とお付きあいいただき、ありがとうございました。




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by sakanoueno-kumo | 2020-02-16 01:55 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)  

天下布武の象徴、安土城攻城記。 その10 <摠見寺跡~百々橋口道>

「その9」の続きです。

安土城跡をほぼ攻略したので、下山します。

下山道は大手道ではなく、旧摠見寺跡ルートを選びました。


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「その5」で紹介した「伝織田信忠邸址」まで戻ると、その前が大手道と摠見寺跡ルートの分岐点となっています。

摠見寺跡ルートは、かつては百々橋口道と呼ばれ、安土城の通用口でした。


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長い石段を登りきったところに、巨大な石垣が現れます。

かつてここには摠見寺裏門が建っていましたが、明治13年(1880年)に近くの超光寺移設されました。

現在も超光寺の表門として現存しています。


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裏門の石段を登ると、そこが旧摠見寺跡です。

摠見寺は安土城の築城時に織田信長によって建立された寺院です。

天主城下町を結ぶ百々橋口道の途中にあるため、城内を訪れる人々の多くがこの境内を横切って信長のところへ参上したことが数々の記録に残されています。


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本能寺の変によって天主付近が炎上しましたが、摠見寺は類焼をまぬがれました。

しかし、江戸時代末期の嘉永7年(1854年)に起きた火災によって、本堂など主要な建物のほとんどを焼失してしまいました。

その後、昭和7年(1832年)に「その4」で紹介した大手道脇の「伝徳川家康邸跡」に寺地を移し、現在に至っています。


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現在、旧摠見寺跡には本堂跡と見られる石垣や礎石の跡のみが残されています。


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それにしても、一向宗浄土真宗本願寺勢力などとの長い戦いや、比叡山焼き討ちなどの行為から見るに、宗教、特に仏教勢力をことのほか憎んでいたと思われる信長が、なぜ、自らの居城の敷地内に寺院を建立したのでしょう?

その理由について、イエズス会宣教師ルイス・フロイス『日本史』によると、次のように記述されています。


天正7年5月11日(1579年6月15日)、信長は安土城で自らを神とする儀式を行い、摠見寺で信長の誕生日を祝祭日と定め、参詣する者には現世利益がかなうとした。


つまり、自らを神格化しようとしていたというんですね。

このフロイスのいう信長の自己神格化については、日本側の史料で記述したものはまったく存在せず、フロイスの記述を信用するかどうかについては研究者間で争いがあり、いまも決着はついていません。

ただ、安土城の登城ルートは大手道よりこちらの百々橋口道がメインだったといわれ、また、大手道のように随所に曲輪もなく、ここ摠見寺までは誰でも登ってこれたといいます。

ここに立派な寺院があり、その向こうに寺院を見下ろすように安土城天守がそびえ、そこに信長がいる。

それを見た当時の人々の目には、まるで信長が仏様をも超越した「神」のように思えたかもしれません。


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敷地内には、享徳3年(1454年)の建立と伝わる三重塔があるのですが(安土築城時にここへ移設)、この日は改修工事中だったようで、ネットが覆われていました。

残念。


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発掘調査によると、本堂跡の奥には庫裏書院などがあったとされていますが、現在は埋め戻され展望台となっています。


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その展望台からの西側の眺望です。

眼下に広がるのは、琵琶湖に通じる西の湖


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旧摠見寺跡をあとにして、長い石段を降ります。


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石段の途中にある旧摠見寺の正門、仁王門

当時の現存建物です。


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棟木に「元亀二年(1571年)七月甲賀武士山中俊好建立」と記されており、信長の安土城築城時に近江国甲賀郡柏木神社よりここに移築されたと考えられています。


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金剛力士像も当時のものです。


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往時の参道はそのまま百々橋口に繋がっていたのですが、現在、百々橋口は封鎖されており、道は途中で迂回して「その3」で紹介した「伝羽柴秀吉邸址」に繋がっています。

現在、安土山には入山料がいるため、入り口を1ヶ所するためなんでしょうね。


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さて、これで安土城をすべて攻略しましたが、もう1回だけシリーズを続けます。

次回、「番外編」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2020-02-15 00:17 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

天下布武の象徴、安土城攻城記。 その9 <伝二ノ丸跡(織田信長廟所)>

「その8」天守台まで攻略しましたが、少し戻って安土城伝二ノ丸跡に向かいます。

伝二ノ丸跡には、織田信長廟所があります。


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石段を上がると、左に「二の丸阯」、右に「織田信長公本廟」と刻まれた石碑があります。


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石碑は昭和6年(1931年)に建てられたもののようです。


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信長の死について今更解説する必要はないと思いますが、天正10年6月2日(1582年6月21日)に明智光秀が起こした本能寺の変によって横死しました。

信長の遺体は見つかっておらず、したがって、ここに信長は眠っていません。


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本能寺の変の翌年の天正11年(1583年)2月、羽柴秀吉が亡き主君・信長の菩提を弔うためにこの廟所を建立しました。

遺体は見つかっていないため、信長愛用の太刀や烏帽子、直垂などの遺品が埋葬されたと伝えられます。


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周知のとおり、信長の死後間もない天正10年6月27日(1582年7月16日)に行われた清須会議において、秀吉は信長の後継にわずか3歳三法師(織田秀信)を推薦し、自らがこの後見人となって織田家中のイニシアティブをとりました。

その後、秀吉は荒廃した安土城を改修して同年12月に三法師の居城とし、年が明けた正月には、三法師に年賀を表すべく安土城に登城しています。

その翌月にこの廟所を建立しているわけで、秀吉としては、三法師の後見人としてここに信長の墓を建てることで、自らが信長の後継者であることを世に示したともいえるでしょう。

この廟所は、秀吉の政治といえます。


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この門より向こうは立入禁止となっています。


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これまでの稿でも述べてきたとおり、ここが二ノ丸というのはあくまで「伝」であり、確証はありません。

現在の伝本丸、伝二ノ丸、伝三ノ丸などの呼称は、安土城廃城後100年以上経った貞享年間(1684~88年)に描かれた絵図に記されたものであって、信憑性はありません。

むしろ、本丸より二ノ丸や三ノ丸のほうが高いという構造や、秀吉がここに信長の廟所を設けたということからみるに、貞享古図の伝本丸、伝二ノ丸、伝三ノ丸は誤りで、実際には、これら3つの郭をすべてまとめて本丸(本城)としていたのではないかと考えられています。

そして、信長の廟が建立されたこの地こそ、「御座敷」「御幸の御間」からなる本丸表御殿があったのではないかと言われています。


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ここは信長の廟所ということもあって、発掘調査はされていません。

ここを掘り起こせば、御殿跡の痕跡などが見つかるかもしれないのですが、墓を掘り起こすというのは、なかなか難しいのかもしれません。


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冒頭の石碑には「本廟」と刻まれていましたが、京都の阿弥陀寺にも、信長の本廟と伝わる墓石があります。

また、現在の本能寺(かつての本能寺とは場所が違う)にも信長の廟所があります。

それぞれ建てた人が違うのですが、いずれにしろ、そのどこにも信長の遺体は眠っていませんから、うちが本廟だ!と言ってしまえば、それで通るのでしょうね。

「その10」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2020-02-12 23:34 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

天下布武の象徴、安土城攻城記。 その8 <天守台>

「その7」の続きです。

いよいよ、近代城郭の礎となった安土城天守台に登りたいと思いますが、その前に、守台石垣を見てみましょう。


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上の写真は天主台東南部の出隅石垣です。

隅が鈍角に曲がる「しのぎ積み」という工法が用いられています。

これは、比較的古い時代の工法です。


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安土城天守台は不等辺八角形となっており、そのせいで出隅がすべて鈍角に曲がる「しのぎ積み」となっています。

これは、天然の山の形状をそのまま利用して築かれたからと考えられます。

前稿で紹介した本丸が一面の広場にならず、複数の小郭に分裂している構造も、同じ理由からでしょう。


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こうした構造は、中世から織豊期の山城、平山城に多く見られる構造ですが、関ヶ原の戦い以降になると、地形の削り方が大掛かりになり、郭の隅部は櫓を建てやすくするために直角に築造され、尾根を削り谷を埋めて広い一面の本丸が築かれるようになります。



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「その6」でもふれましたが、これまで見てきた安土城の石垣は、ほとんどが昭和になってから積み直されたものですが、ここ天守台石垣伝二ノ丸下の石垣は、当時のまま、つまり、積み直されていない天正の石垣なんだそうです。


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伝本丸跡から天守台に登る石段です。

伝天主取付台と呼ばれています。


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石段は昭和初期の発掘調査の際に積み直されたものだそうです。


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いよいよ天守台の上、という場所に、「天守閣址」と刻まれた石碑があります。


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天守台上です。

礎石が整然と並んでいます。


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安土城の天主は、完成してからわずか3年の天正10年(1582年)6月に焼失してしまったため、その実像をうかがい知ることはできません。

現在に伝わる安土城天守の様相は、当時、実際に城を観覧したポルトガル宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』や、太田牛一『信長公記』の写本の1つである『安土日記』によるところが大となっています。


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フロイスは記述には、天主に関して次のように記しています。


信長は、中央の山の頂に宮殿と城を築いたが、その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それらはヨーロッパのもっとも壮大な城に比肩しうるものである。

事実、それらはきわめて堅固でよくできた高さ60パルモを超える―それを上回るものも多かった―石垣のほかに、多くの美しい豪華な邸宅を内部に有していた。

それらにはいずれも金が施されており、人力をもってしてはこれ以上到達し得ないほど清潔で見事な出来栄えを示していた。


大絶賛ですよね。

フロイスはよほどこの天守に魅せられたのでしょう。


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さらにフロイスは続けます。


その中心には、彼らがテンシュと呼ぶ一種の塔があり、私たちの塔より気品があり壮大な建築である。

この塔は七重からなり、内外共に建築の妙技を尽くして造営された。

事実、内部にあっては、四方に色彩豊かに描かれた肖像たちが壁全面を覆い尽くしている。

外部は、これらの階層ごとに色が分かれている。

あるものはこの日本で用いられている黒い漆塗りの窓が配された白壁であり、これが絶妙な美しさを持っている。

ある階層は紅く、またある階層は青く、最上階は全て金色である。

このテンシュは、その他の邸宅と同様に我らの知る限りの最も華美な瓦で覆われている。

それらは、青に見え、前列の瓦には丸い頭が付いている。

屋根にはとても気品のある技巧を凝らした形の雄大な怪人面が付けられている。

このようにそれら全体が堂々たる豪華で完璧な建造物となっているのである。


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天正13年(1585年)に豊臣秀吉によって廃城となると、その後、訪れる人もなく、永い年月の間に瓦礫草木の下に埋もれてしまっていました。

ここにはじめて調査の手が入ったのは、昭和15年(1940年)のことでした。

調査の結果、往時そのままの礎石が見事に現れました。

このとき、石垣の崩壊を防止するために若干の補強が加えられた他は、検出した当時のまま現在にいたっているそうです。


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現在の天守台上部は地下1階部分だそうですが、天主台の広さは、これよりはるかに大きく2倍半近くあったそうです。

現在石垣上部の崩壊が激しく、その規模を目で確かめることができません。


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天守台からの西側の眺望です。

遠くに琵琶湖が見えます。

眼下に田園風景が広がっていますが、かつてはあそこも琵琶湖の入江でした。

織田信長が見たここからの眺めは、一面湖だったようです。


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こちらは北側、彦根方面の眺望です。


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さて、天守まで攻略しましたが、まだまだシリーズは続きます。

つづきは「その9」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2020-02-08 00:31 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

天下布武の象徴、安土城攻城記。 その7 <仏足石~本丸跡>

「その6」の続きです。

伝長谷川秀一邸址をあとにして、二の丸下帯郭を本丸方向に向かって進みます。



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伝二ノ丸石垣の向こうに、石段の虎口が見えます。



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門の名称などは紹介されていませんでしたが、石垣の形状などから見て、ここにも立派な櫓門があったのでしょうね。


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石段を登る途中の踊り場に、何やら巨石と説明の駒札があります。

駒札には「仏足石」と書かれています。


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説明書きによると、この仏足石は、大手道などに見られる石仏と同様に石材として集められて石垣に使われた転用石で、昭和の初期登山道整備のときに崩れた石垣のなかから発見され、ここに展示されたそうです。


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仏足石をあとにして、石段を登ります。


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石段を登りきると、左が伝二ノ丸、右に行けば伝本丸という空間に出ます。

ここは、二の丸と本丸の間に存在する本丸西溜まりと呼ばれる場所です。


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そこには「護國駄都塔」と刻まれた古い石碑があります。

裏には「天保十三年建立」と刻まれていましたが、何のための石碑なのかは、説明書き等がなかったのでわかりません。

その石碑の上に見える門のようなものは、伝二ノ丸跡にある織田信長公御廟所の門です。


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織田信長の廟所のある二ノ丸は後回しにして、先に本丸に向かいます。


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伝本丸跡です。


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通称「千畳敷」と呼ばれる安土城本丸は、東西約50m、南北約34mの規模をもつ敷地で、三方を天主台、本丸、帯郭、三の丸の各石垣に囲まれています。

ここには、織田信長が奥御殿として日常生活の場にしていた「南殿」があったと伝えられます。


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説明板によると、昭和16年(1941年)と平成11年(1999年)の二度にわたる発掘調査の結果、東西約34m×南北約24mの範囲で碁盤状に配置された119個の建物礎石が発見されたそうです。

7尺2寸(約2.18m)の間隔で整然と配置された自然石の大きな礎石には、焼損の跡が認められ、一辺約1尺2寸(約36cm)の柱跡が残るものもありました。

4~6寸(12~18cm)の柱を6尺5寸(約1.97m)間隔で立てる当時の武家住宅に比べて、本丸建物の規模と構造の特異性がうかがえます。


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礎石の配列状況から、中庭をはさんで3棟に分かれると考えられるこの建物は、天皇の住まいである内裏清涼殿と非常によく似ていることが分かったそうです。


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『信長公記』には天主近くに「一天の君・万乗の主の御座御殿」である「御幸の御間」と呼ばれる建物があり、内に、「皇居の間」が設けられていたことを記しています。

信長は正親町天皇(第106代天皇)の行幸を計画していたといいますが、結局、その計画は実現しませんでしたが、この本丸建物こそ、天皇行幸のために信長が用意した行幸御殿だったのではないかと想像されます。


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写真は伝本丸東虎口

現在は封鎖されています。


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この石垣は伝三ノ丸石垣

縄張り図によると、本丸の東側にあるこの石垣の上が三ノ丸となっており、江雲寺御殿があったとされています。

本丸より三ノ丸が高いっておかしくねーか?


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というのも、最初に「伝本丸跡」と述べたように、ここが本丸というのはあくまで「伝」であり、確証はありません。

現在の伝本丸、伝二ノ丸、伝三ノ丸などの呼称は、安土城廃城後100年以上ほど経った貞享年間(1684~88年)に描かれた絵図に記されたものであって、信憑性はありません。

これまで見てきた「伝羽柴秀吉邸跡」「伝前田利家邸跡」などと同じですね。

本丸より二ノ丸や三ノ丸のほうが高いという構造や、二ノ丸の豊臣秀吉が信長の廟所を設けていることなどからみて、貞享古図の伝本丸、伝二ノ丸、伝三ノ丸は誤りで、実際には、これら3つの郭をすべてまとめて本丸(本城)としていたのではないかと考えられています。

「その8」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2020-02-07 00:11 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

天下布武の象徴、安土城攻城記。 その6 <伝黒金門跡~伝長谷川秀一邸址>

「その5」の続きです。

「伝織田信忠邸址」を過ぎると、再び石段が始まります。


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縄張り図によると、この石段を登ると、いよいよ安土城中枢部に入るようです。


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何か櫓台跡のような立派な石垣が見えます。


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櫓台石垣まで登ってきました。

ここは安土城中枢部への主要な入口、黒金門跡です。

もっとも、この石垣は後世(おそらくは摠見寺)に積み直されたもののようです。


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周囲の石垣をこれまで見てきた石塁や郭の石垣と比べると、使われている石が大きいことに気が付きます。

平成5年(1993年)の発掘調査では、黒金門付近も天主とともに火災にあっていたことが分かったそうで、多量の焼けた瓦の中には、菊紋・桐紋等の金箔瓦も含まれていたそうです。

その結果から、ここ黒金門は巨大な櫓門と多聞櫓で形成された城門だったことがわかったそうです。


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門は直角に折れ曲がる「食い違い虎口」を形成しています。


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「黒金門址」と刻まれた古い石碑が。


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左折してすぐに右折します。


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説明板です。


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黒金門を抜けると、織田信長が選ばれた側近たちと日常生活を送っていた、安土城のまさに中枢部となります。


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門を過ぎてすぐに、目の前に巨大な高石垣がそびえます。

この石垣の上が伝二ノ丸

これまで見てきた安土城の石垣は、ほとんどが昭和になってから積み直されたものですが、ここ伝二ノ丸下の石垣と天守台石垣は、当時のまま、つまり、積み直されていない天正の石垣なんだそうです。

往時は、この上に土塀もしくは多門櫓、隅櫓などが乗っかっていたと考えられています。

ちなみに、この写真を撮影している場所は、二の丸下帯郭と呼ばれています。


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ここを右に行くと本丸に向かうのですが、左側(北側)にも石段があり、その先にも曲輪があるようなので、向かってみることに。


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ここがその曲輪です。

麓にあった縄張り図では「伝長谷川竹秀一邸跡」となっています。

長谷川秀一織田信長の小姓で、信長の男色相手として深く寵愛されたと伝わり、若い頃は「長谷川竹」という呼び名で呼ばれていました。

なので、二ノ丸下段にあたるこの場所に住んでいたとしても不思議ではありませんが、これも、他の邸跡と同じく史料に基づいたものではありません。

長谷川は、本能寺の変が起きたとき、徳川家康堺見物の案内役を務めていました。


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伝長谷川竹秀一邸跡に、4基の五輪塔が整然と並んでいます。

長谷川氏の供養塔かと思って近づいてみると・・・。


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立て札に「織田信雄公四代供養塔」とあります。

織田信雄は信長の次男で、無能だったと言われる人物。

信雄公四代というのは、その子孫の4代ということでしょうね。


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信雄は本能寺の変後に後継者になるべく安土城に入りますが、失火で安土城を焼くなど、失点を重ねます。

このことについてルイス・フロイスは、著書『日本史』のなかでふれ、信雄をこき下ろしています。

その後、信雄は豊臣政権下徳川幕府の下で、改易されては復活してまた改易といった波乱万丈のなかを生き抜き、最後は宇陀松山藩に5万石を与えられます。

その後、宇陀松山藩主の織田家は高長、長頼、信武と4代続きますが、5代目の信休のときに御家騒動で丹波国柏原藩に移封となり、その際、信雄から信武まで4代の遺骸を総見寺の寺域であった安土城跡のこの地に改葬したそうです。

安土城を焼いた張本人(異説あり)が、安土城跡に眠る。

皮肉なものですね。

「その7」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2020-02-06 01:31 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

天下布武の象徴、安土城攻城記。 その5 <伝武井夕庵邸址~伝織田信忠邸址>

「その4」の続きです。

七曲りを登り切る少し手前に、大きな郭跡があります。

立ち寄ってみましょう。


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その虎口は石段があり、枡形になっています。


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虎口に建てられた石碑には「伝武井夕庵邸址」と刻まれています。


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武井夕庵織田信長右筆を務めていた人物で、元は美濃斎藤氏道三、義龍、龍興の3代に仕え、斎藤氏滅亡後は信長に仕えました。

右筆とは側近の官僚で、信長からの信頼も厚く、客の取次役などをしていたといいますから、ここに武井夕庵の邸があったとしても何ら不思議ではありません。

前稿までの羽柴秀吉前田利家の邸跡と違って、初めて信憑性のある邸跡と言っていいでしょう。


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また茶人としても活躍し、『信長公記』によると、天正6年(1578年)元旦に安土城で行われた茶会では、織田信忠に次いでいたと記されています。

しかし、本能寺の変後は、70歳を超える高齢であったため、表舞台から姿を消しています。


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伝武井夕庵邸址を過ぎると、七曲り最後のカーブとなります。


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後ろを振り返ります。

写真下部に見える郭が伝武井夕庵邸址。

遠くに田園風景が見えます。

往時は、あそこは琵琶湖の入江でした。


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七曲りを過ぎると、道はしばらく平坦になります。


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その左側には、「伝織田信忠邸址」と刻まれた石碑が。


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織田信忠は言うまでもなく、織田信長の嫡男で、信長の生前に家督を譲られていたといいますが、本能寺の変の同日、信忠も自刃して果てます。

父同様、その首は見つかっていません。


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もし信忠が生きていれば、その後の豊臣秀吉天下はなかっただろうという意見も多いですが、わたしは、そうは思いません。

たしかに、信長は信忠に家督を譲っていたわけですから、清須会議を行う必要もなく、史実のように容易に事は運ばなかったかもしれませんが、権謀術数に長けた秀吉のことです。

山崎合戦の功などを笠に着て巧みに信忠に取り入り、気がつけばイニシアティブを取っていたでしょう。

信忠は本能寺の変の際、父と違って京都から脱出できる可能性がなくはなかったのですが、当代記によれば、光秀襲撃の際に側近の中には安土に逃げて再起を図るように諫言する者もいたものの、「これほどの謀反を企てる奴(光秀)なら、どうして洛中の出入り口に手をまわしていないであろうか。無様に逃げ出して途中で果てることこそ無念である。悪戯にこの場所から退くべきではない」と述べたといいます。

これが事実だとすれば、信忠はあまりにも潔い真っ直ぐな青年だったのでしょう。

そんな実直な人物が、したたかな秀吉の策謀に勝てるとはとても思えません。

史実よりは少し時間がかかったかもしれませんが、結局は収まるところに収まったんじゃないでしょうか。


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伝織田信忠邸址は、大手道と通用口である百々橋口道合流点という要衝にあります。

ここが本当に信忠邸だったとすれば、信長はそれだけ信忠を信用していたということでしょうね。

「その6」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2020-02-01 12:18 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)