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真田丸 第22話「裁定」 ~名胡桃城事件~

 足掛け7年に及んだ真田氏、北条氏、徳川氏間の沼田領問題は、豊臣政権下の裁定に委ねることになりました。ドラマのような法廷のシチュエーションがあったかどうかはわかりませんが、3者の言い分を聞いた上で豊臣秀吉が下した裁断は、沼田城を含む沼田領3分の2北条領とし、名胡桃城を含む3分の1は、真田家墳墓の地であるという由緒を考慮して真田領に(名胡桃の地が真田墳墓の地という話は諸説あって定かではありません)、そして徳川氏は、真田氏が失う3分の2に相当する替地を補償するというものでした。真田氏、北条氏ともにこの裁断は決して満足できるものではありませんでしたが、「痛み分け」といったかたちで双方ともこの条件を受諾し、一応の決着をみます。

 ところが、沼田城の引渡しからわずか4ヶ月後の天正17年(1589年)11月、北条氏邦の家臣で沼田城代を務めていた猪俣邦憲が、突如、名胡桃城を乗っ取るという事件が勃発します。世に言う「名胡桃城事件」ですね。この事件が、結局は北条氏滅亡に直結する銃爪となるわけですが、今回のドラマでは、どういうわけか詳しく描きませんでしたね。そこで、以下、「名胡桃城事件」の経緯を簡単に紹介します。

e0158128_22512433.jpg 秀吉の裁断によってなんとか名胡桃城を死守した真田昌幸は、その城代として家臣の鈴木主水重則を配置します。そこに、中山九兵衛実光という浪人が寄宿していました。九兵衛は上野国中山城主・中山安芸守の次男で、鈴木主水の妻の弟だったといいます。その九兵衛に、旧知だったという北条方の猪俣邦憲が密かに接触。旧領の中山城に加え、名胡桃城も九兵衛に与えると耳打ちし、抱き込みに成功します。そして、鈴木主水の騙し討ちを画策します。

 まず九兵衛は、真田昌幸から主水に宛てた偽の書状をつくり、「相談事があるので、名胡桃城は中山九兵衛にあずけてすぐに来て欲しい」として主水を上田城に向かわせます。主水はその道中、昌幸の叔父・矢沢頼綱が城代を務める岩櫃城に立ち寄って事情を話すと、「それは騙されたに違いない」と言われ、加勢を連れて直ちに名胡桃城に戻るよう促されます。慌てて主水は名胡桃城に戻りますが、頼綱の予想どおり、城はすでに北条方に占領されていました。

自身の浅はかさに面目を失った主水は、加勢を岩櫃城に帰し、郎党30人ばかりを連れて沼田城下の正覚寺に入り、猪俣邦憲に遣いを立てて「こうなった以上、真田家にはいられず、ぜひ猪俣氏の家臣に加えてほしい」と申し入れます。といっても、これは本心ではなく、主水は降伏と見せかけ、猪俣と対面したら刺し違える覚悟でした。しかし、猪俣は主水の策を見抜いており、それがわかった主水は、もはやこれまでと観念し、正覚寺の庭で自刃して果てました。通常、切腹は座ってしますが、このときの主水は立ったままの切腹であったと、正覚寺の記録に残っているそうです。

 以上が「名胡桃城事件」の経緯です。真田家の物語である以上、必ずこの話は描かれると思っていたのですが、なぜ割愛されたのでしょうね。ドラマでは、鈴木主水の自害を知った真田昌幸が、「こんなことなら、名胡桃もくれてやればよかったわい」と肩を落としていましたが、名胡桃城事件が描かれていなかったので、イマイチ言葉に重みがなかったですね。ちょっと残念でした。

 まあ、この逸話自体は、どこまでが史実かはわからないのですが、名胡桃城が北条氏に奪われたのは史実で、この事件を重く見た秀吉は、北条征伐を決断します。一説には、この名胡桃城事件自体が、秀吉の仕組んだ罠だったんじゃないかという見方もあります。というのも、沼田城と名胡桃城は直線距離にしてわずか4kmほどしか離れておらず、しかも、名胡桃城は沼田城より高台にあるため、名胡桃城から沼田城が監視しやすい位置関係でした。これは、沼田城側から見れば戦略上非常に不利な状況で、秀吉の裁定では3分の2の領土を得た北条氏でしたが、実際には、名胡桃城の存在は脅威でしかなく、秀吉は真田氏に有利な裁定を下したといえます。

つまり、秀吉は最初から北条氏に名胡桃城を攻めさせるように画策し、あえて名胡桃城を真田領としたのではないかと。実際、冒頭でも述べたとおり、名胡桃周辺が真田氏墳墓の地という話は、何の確証もありません。ひょっとしたら、それさえも秀吉の政治的意図で作られた虚偽だったのかもしれません。だとしたら、秀吉恐るべしですね。その策略にまんまとハマった北条氏は、もとより秀吉の敵ではなかったということでしょう。

 「だから、もっと早いうちに秀吉に会っておけばよかったのだ!」

 北条氏の重臣・板部岡江雪斎の援軍要請を受けた徳川家康の台詞ですが、まさに、そのとおりでした。国のトップに時勢を読む力がなければ、国は滅びの道を辿るしかないんですね。今の日本のトップは、大丈夫でしょうか?



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by sakanoueno-kumo | 2016-06-06 22:52 | 真田丸 | Comments(0)  

「本能寺の変」記念日に再考する歴史のターニングポイント <後編>

記念日を1日過ぎちゃいましたが、昨日の続きです。

今回は、現在の本能寺を訪れました。

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織田信長が横死した「本能寺の変」の7年後にあたる天正17年(1589年)、豊臣秀吉が行った都市計画の区画整理でこの地に移されました。

旧本能寺跡地からは、直線距離にして1.2kmほどに位置します。

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その後も、天明8年(1788年)1月30日に起きた「天明の大火」、そして幕末の元治元年(1864年)7月18日に起きた「元治の大火」によって消失し、現在の本堂は昭和3年(1928年)に再建されたものだそうです。

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境内には、信長の廟所があります。

「本能寺の変」から1ヶ月後に信長の三男・信孝が焼け跡から燼骨を収集し、本能寺跡に墓所を建てたそうですが、その後、同寺の移転とともに、墓所もこの地に移されたそうです。

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いままで数々の小説やドラマなどになってきた「本能寺の変」ですが、どの作品でも概ね同じ描かれ方で、本能寺を包囲した明智軍鉄砲隊で攻撃し、それを信長自身もをとって応戦するも、腕に銃弾を受け、やがて観念した信長は、殿舎に火を放たせて自刃する、というものですよね。

これまで何度も観てきたシーンですが、これがどれほど事実かといえば、複数の史料を元にした、かなり信憑性の高い描写のようです。

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まず、信長の史料として最も信頼されている『信長公記』の記述から。

「是れは謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚のところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候。」

有名な「是非に及ばず」の台詞は、ここに記されているものです。

「言うまでもない、戦うまでだ!」といった意味でしょう。

また、同史料によると、

「信長、初めには御弓を取り合ひ、二・三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の弦切れ、その後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、これまで御そばに女どもつきそひて居り申し候を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来たり候。
御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ候か。殿中奥深入り給ひ、内よりも御南戸の口を引き立て、無情に御腹めさる」


信長は、初めはで、弦が切れてからはで応戦したが、肘に槍傷を受けたため退き、女中たちを逃がし、御殿に火をつけて自害した・・・とあります。

『信長公記』の著者は信長の家臣だった太田牛一という人ですが、彼自身は本能寺にはいなかったものの、逃された女たちに取材して書いたものだそうです。

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また別の史料としては、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』に、次のように記されています。

「厠から出てきて手と顔を洗っていた信長の背中に、明智方の者が放った矢が命中した。信長はその矢を引き抜き、鎌のような武器(長刀)を手にしてしばらく戦ったが、明智方の鉄砲隊が放った弾丸が左肩に命中すると、自ら部屋に入って障子を閉じ、火を放って自害した」

『信長公記』と少し違うところもありますが、概ね同じストーリーですよね。

『信長公記』が書かれたのはフロイスの死後のことで、同じような描写が日本とヨーロッパで執筆されていることを思えば、ほぼ史実とみていいのでしょう。

炎の中に消えた信長が、どんな死に方をしたかは、想像するしかありませんが。

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写真は「本能寺の変」で命を落とした側近たちの慰霊塔

森蘭丸らの名前も見られます。

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日本史のなかには、その時代時代に数々のターニングポイントがありますが、その中でも、この「本能寺の変」いちばんの分岐点だったとわたしは思います。

天下分け目といわれる「関ヶ原の戦い」ですが、もし、西軍が勝っていたとしても、やはり豊臣政権は長続きしなかったでしょうし、となれば、結局は250万石を有する徳川家覇権が移っていた可能性が高いでしょう。

もし、後醍醐天皇が事を起こさなくても、遠からず鎌倉幕府滅亡していたでしょうし、もし、ペリー艦隊が来航しなくても、他国から何らかの圧力がかかって、結局は明治維新を迎えていたでしょう。

どれも、微妙な狂いは起きていたでしょうが、たぶん、似たような歴史を歩んだと思うんですね。

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ところが、この「本能寺の変」だけは、もし起きていなければ全然違う歴史を辿った可能性が極めて高いといえます。

信長が横死しなければ、当然、豊臣政権はなかったわけですし、となれば、のちの徳川政権も、言うまでもなく存在しません。

現代のわたしたち日本人の国民性は、ほぼ徳川期250年で形成されたといわれますから、もし、徳川政権時代がなければ、日本はずいぶんと違った国になっていたでしょう。

そう考えれば、「本能寺の変」が変えた歴史というのは計り知れないといえます。

一般に「明智光秀の三日天下」などと言われますが、たしかに明智光秀自身が天下人になることはありませんでしたが、天下を大きく変えたという意味では、歴史上なくてはならなかった希有な人物といえます。

ある意味、「天下人」といえるかもしれませんね。

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日本史に興味がない人でも、「本能寺の変」を知らない人はほとんどいないでしょう。

それは、それだけ歴史的に大きな出来事だったからだといえます。

人はこの出来事を400年以上もの長きにわたって語り継ぎ、人間の持つ「おごり」や、人の上に立つ者の「心得」を学び得てきたのかもしれません。

その意味では、後世のわたしたち道徳教科書として、大きな意味を持った歴史の必然だったのかもしれませんね。

温故知新です。




「本能寺の変」記念日に再考する歴史のターニングポイント <前編>



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by sakanoueno-kumo | 2016-06-03 01:40 | 京都の史跡・観光 | Comments(2)  

「本能寺の変」記念日に再考する歴史のターニングポイント。 <前編>

本日6月2日といえば、日本史上最大のターニングポイントといっていい「本能寺の変」の起きた日です(現代の暦でいえば、6月21日にあたりますが)。

そこで、以前訪れた本能寺跡の写真を紹介しながら、本能寺の変をふりかえります。

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天正10年(1582年)6月2日、天下統一を目前にした戦国の覇王織田信長が、家臣の明智光秀の謀反によって殺害されました。

現在、その跡地には京都市立堀川高等学校、特別養護老人ホーム、本能寺会館などが建てられています。

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それ以前は、京都市立本能小学校がありましたが、平成4年(1992年)に廃校となり、その際に行われた発掘調査で、当時の遺構が発見されて話題を呼びました。

それまでは、地名からたぶんこのあたりだったのだろうといった推定でしかなかったんですね。

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また、平成19年(2007年)のマンション建設に伴う発掘調査では、本能寺の変において焼けたと思われる瓦や、「能」の旁が「去」となる異体字がデザインされた丸瓦が、堀跡の屁泥の中から見つかっています。

現在は、石碑や説明板が数か所に設置されています。

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備中高松城を攻めていた羽柴秀吉から援軍要請を受けた信長は、堀秀政、細川忠興、池田恒興、高山右近、中川清秀らに援軍を命じ、安土城徳川家康の饗応役を務めていた明智光秀にも出陣を命じます。

光秀は5月17日に坂本城、26日に亀山城に移り、27日には愛宕山に参詣、連歌師・里村紹巴と連歌会・愛宕百韻を催しました。

このとき光秀が詠んだ

「時は今 雨が下しる 五月哉」

という歌が、彼の謀反の決意を表したものだといわれています。

「時」「土岐」「雨が下しる」「天が下知る」と意味し、「土岐氏の一族の出身であるこの光秀が、天下に号令する」という意味合いを込めた句であるといいます。

そう言われればそうも思えますし、こじつけと言われればそうとも言えます。

実際、いつ、どのタイミングで光秀が謀反を決意したのかは、想像するしかありません。

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6月1日夜半、亀山城を進発した光秀軍は老ノ坂を東へ向かい、沓掛で全軍を小休止。

そこで、斎藤利三ら重臣に本能寺襲撃計画を打ち明けたといいます。

重臣の中には反対意見もあったといいますが、結局は全軍に「信長公が京で閲兵を望んでいる」と伝え、進路を京都に向かって東に取りました。

そして桂川を渡る頃、全軍に本能寺襲撃を下知します。

「敵は本能寺にあり!」と、言ったかどうかはわかりませんが。

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6月2日早暁、明智軍1万3千は本能寺を襲撃。

信長は弓と槍で奮戦しますが、森蘭丸をはじめ、わずかな供廻りの小姓たちの殆どが討死

信長も肘に槍傷を受けて退き、観念した信長は女達を退出させたあと、殿舎に火を放たせ、炎の中で自刃しました。

嫡子・織田信忠妙覚寺に投宿しており、変を知って討って出ようとしたが村井貞勝らがこれを止め、信忠は隣接する二条御所に立て籠りますが、光秀軍は御所に隣接する近衛前久邸の屋上から矢・鉄砲を撃ち掛け、信忠も抗戦敵わず自刃します。

日本の歴史が大きく変わった瞬間です。

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明智光秀の謀反に至る動機については野望説黒幕説、朝廷守護説、謀略説など様々な説が乱立していますが、どれも決定的なものはありません。

おそらく、永遠に歴史の謎でしょうね。

小説やドラマなどでは、もっともわかりやすい怨恨説で描かれることが多いかと思いますが、今年の新春時代劇『信長燃ゆ』では、朝廷黒幕説で描かれていましたね(参照:新春時代劇『信長燃ゆ』鑑賞記)。

これも、考えられなくもありません。

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ただ、変後の光秀の行動などを見ると、彼ほどの人物にしてはあまりにも無計画すぎる気がして、やはり、わたしは怨恨による衝動的な行動だったように思えてなりません。

光秀は、現代で言うところのうつ病状態だったんじゃないかと・・・。

まあ、これも想像の域を出ませんけどね。

長くなっちゃったので、明日に続きます。



「本能寺の変」記念日に再考する歴史のターニングポイント。 <後編>

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by sakanoueno-kumo | 2016-06-02 00:21 | 京都の史跡・観光 | Comments(2)