南北に細長い吉野山には、3つの橋の跡があります。
これは、かつて大塔宮護良親王が挙兵した吉野城に設けられたとされる空堀に架かる橋でした。

まず初めに紹介するのは、最も北側にある「大橋跡」です。
現在、朱塗りの欄干が復元されていますが、これは、形こそ橋の格好をしていますが、橋の下に水はなく、両側は谷になっています。

谷の下から撮影した大橋です。
もちろん、かつては木の橋が架かっていました。

車の交通量とともに木の橋は傷み、現在はコンクリート橋になっていますが、木の橋ときの欄干についていた青銅の擬宝珠には、慶長9年(1604年)豊臣朝臣秀頼卿御建立の銘が刻まれていたそうです。

次に紹介するのは、細長い吉野山のちょうど中央付近にある「天王橋跡」です。

ここは、いまでは注意して探さないと見逃してしまいそうなほど小さな橋のかたちをしているに過ぎませんが、ここも大塔宮吉野城三空堀に架かる橋のひとつです。

東側の相叶の尾根と竹林院の丘をつなぐ細い地形を掘り割った、戦略的な橋だったようです。


橋を渡った向かい側には小山神社という小さな祠があります。
ここは、明治の初めまで梵天王を祀っていたそうで、橋の名はこれに由来しているそうです。

最後に、吉野山南にある吉野水分神社の裏手にある、「丈之橋跡」です。
いまは、少し尾根道が細くなったところに石標があるだけですが、ここも、大塔宮吉野城三空堀に架かる橋のひとつです。
江戸時代にはまだ橋が架かっていたらしく、寛文11年(1671年)の『吉野山独案内』には、「子守の社より少し過ぎ、城の橋あり」と記されているそうです。

いまは桜の名所として名高い吉野山ですが、かつては、山全体が大塔宮護良親王の城だったんですね。
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▲ by sakanoueno-kumo | 2017-09-30 11:19 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)