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太平記を歩く。 その136 「村上義光の墓」 奈良県吉野郡吉野町

「その126」で紹介した吉野神宮から1kmほど北へ坂を上りつめた右側の丘の上に、村上義光と伝えられる宝篋印塔があります。


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道路わきに古い石碑があり、その側に説明板が設置されています。


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その横にある石段を上ります。


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石段の上に上ると、広い空間にポツンとのさびた宝篋印塔石碑が見えます。

どうやら、あれが義光の墓のようです。


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これが、義光の墓です。


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村上義光は信州の人で、『太平記』には、大塔宮護良親王熊野に逃れる際、お供した9名のなかのひとりとして登場します。

『太平記』巻五「大塔宮熊野落事」によると、大塔宮とともに熊野から吉野山に来る途中で、賊に奪われた錦旗を取り返して、賊を田んぼにめがけて投げ飛ばし、勇名を轟かせたとあります。

このとき4、5丈(約12m)ほど投げ飛ばしたといいますから、かなりの怪力の持ち主だったようです。

「その128」でも紹介しましたが、元弘3年(1333年)閏2月1日、落城寸前の蔵王堂二天門の楼上で、大塔宮の身代わりとなって割腹して果てました。

このとき義光は、自らのはらわたを引きちぎって敵に投げつけ、太刀を口にくわえたのちに、うつぶせとなって絶命したといいます。

案内板によると、身代わりとなって蔵王堂で果てた義光を北条方が検分し、親王ではないと判明して打ち捨てられていた亡骸を、哀れと思った里人がこの地に葬ったと伝わるそうです。


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宝篋印塔の横には、錆びた甲冑武士のミニチュアがありました。

誰が、いつ置いたものでしょう?


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向かって右にあるこの石碑は、大和高取藩士・内藤景文が天明3年(1783年)に建てたとされる「村上義光忠烈碑」だそうです。

江戸時代から、忠臣として崇められていたんですね。


同じ吉野山には、義光のい息子、村上義隆の墓もあります。

次回は、そちらを紹介します。




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by sakanoueno-kumo | 2017-10-05 23:30 | 太平記を歩く | Comments(0)  

太平記を歩く。 その135 「攻めが辻」 奈良県吉野郡吉野町

前稿で紹介した大橋跡から50mほど北に、「攻めが辻」と呼ばれる場所があります。

ここは、吉野神宮からの尾根道と、吉野駅からの七曲りを上り詰めて出合う場所で、三叉路になっています。


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ここは、吉野山に立てこもった大塔宮護良親王方の守りと、北条幕府方の二階堂貞藤(道蘊)率いる大軍の攻撃がぶつかり、激しい戦闘を繰り広げたところで、「攻めが辻」と呼ばれるようになったそうです。


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現在、その道脇には石標が建てられています。


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また、正平3年(1348年)に起きた高師直吉野焼き討ちの際にも、迎え討つ天皇方とこの地で激しい戦闘が繰り広げられました。


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わたしがここを訪れたのは夏真っ盛りの7月23日でしたが、春には、ここから千本桜が一目に見渡せるスポットだそうです。

かつて多くの兵の血が流れた場所だったなんて、桜見物に訪れた観光客は知らないでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-10-04 23:26 | 太平記を歩く | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第39話「虎松の野望」 ~井伊直政出世物語のはじまり~

 天正2年(1574年)12月14日、井伊谷龍潭寺において井伊直親十三回忌の法要が行われました。『井伊家伝記』によると、このとき15歳になった虎松(のちの井伊直政)も呼び戻され、祐椿尼、次郎法師(井伊直虎)、南渓瑞聞和尚らが集まって相談し、井伊家再興のため、虎松を徳川家康に出仕させる方針が決まったとあります。ドラマでは、直虎は井伊家を再興するつもりはないと言っていましたが、実際には、直親の忘れ形見である虎松によって井伊家を復活させることが、一族の悲願だったようです。まあ、当然だったでしょう。


 虎松と家康の面会は、その後、間もなく実現します。『井伊家伝記』によると、天正3年(1575年)2月と記され、『寛政重修諸家譜』には、同年2月15日と具体的な日付まで記されています。どちらの記述も、面会したのは鷹狩りの途中の道端だったと伝えます。また、江戸時代に新井白石がまとめた『藩翰譜』でも、道端で尋常じゃない面魂の少年を見つけ、素性を調べさせたところ、井伊直親の子だというので、不憫に思って仕えさせたとあり、徳川幕府の公式記録である『徳川実紀』でも、鷹狩の道すがらただものとは思えない小童が家康の目に入り、その子がかつて陰謀によって死んだ直親の遺児で、いまは松下源太郎清景の養子になっていることを知り、すぐに召し抱えたと記されています。すべて二次史料ではあるものの、「鷹狩の途中」という話は一致しており、おそらく本当の話なんでしょうね。


ただ、「偶然の出会い」というのはどうだったでしょうね。『井伊家伝記』によると、「御小袖二つ、祐椿・次郎法師より御仕立遣わされ候なり。天正三年二月、初めて鷹野にて御目見遊ばされ候。」とあります。直虎と祐椿尼から虎松のもとに小袖が届けられ、その小袖を着て家康に拝謁したというのです。つまり、家康に会うために、わざわざ正装を新調したということです。これ、ドラマでも描かれていましたね。この話が事実なら、家康との面会はあらかじめ設定されていたことになります。ドラマでは、この説が採られていましたね。おそらく、そうだったんじゃないかとわたしも思います。江戸時代に記された史料がすべて「偶然の出会い」と伝えているのは、神格化した家康の人の能力を見抜く慧眼を讃えるために造られた話なんじゃないでしょうか。実際には、ドラマのように、誰かによって面会の場があらかじめセッティングされ、その場所が、鷹狩の途中だったんじゃないかと。


 さらに『井伊家伝記』の伝えるところでは、かつて直親が家康と内通した疑いによって今川方に殺されたことを家康は知っており、家康は直親が命を失ったのは自分のためだったも同然として、虎松を召し抱えたとあります。家康はその際、虎松に松下姓から井伊姓に戻るように命じ、自分の幼名・竹千代から「千代」ををとり、「万千代」という名を与えました。そして上下とともに三百石を与えたと伝えます。


 ドラマでは、虎松が築山殿根回しして、家康から井伊姓を名乗るように命じてもらうよう仕向けてもらうといった設定で、その小賢しさのせいで、三百石はおろか、小姓に取り立てられる約束だった話も反故になり、草履取りを申し付けられるという展開でした。まさに策士策に溺れるってやつですね。まあ、そんなに早く虎松に出世されたんじゃ、50話まで話が続かないでしょうからね。ここからは、井伊直政の出世物語となるのでしょう。


 ちなみに、ネタバレになりますが、井伊姓と松下姓のどちらを与えるか迷っていた家康に、逆に虎松に選ばせてはどうかとアドバイスしていた鷹匠ノブという人物は、おそらく、のちの本多正信でしょうね。家康の後半生はこの正信をいつもそばに置き、すべて正信との謀議で事が進められたといいます。早くも、その策士ぶりを発揮していましたね。虎松の才気も、正信にかかっては赤子同然だったようです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-03 14:39 | おんな城主 直虎 | Comments(0)  

映画『関ヶ原』鑑賞記

映画『関ヶ原』を今日、ようやく観てきました。

歴史ファンとしては観ておかないといけない作品で、およばずながら、素人なりの寸評を述べさせてください。

ここからはネタバレになりますので、これから観る予定でまだ観てない方は、読むか読まないかは自己責任でお願いします。


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観る前からある程度予想はしていましたが、やっぱりな・・・というのが率直な感想です。
ていうか、想像以上(以下?)だったかも。

やっぱ、無理があるんですよ、司馬遼太郎さんの長編作品映画化するのは。

原作小説の魅力をそのまま描こうとすれば、とても2時間3時間では収まらない。

大河ドラマ作品になってもよさそうなくらいの濃い内容の話ですからね。

それを2時間40分ほどに無理やり詰め込んだわけですから、ほとんどダイジェスト版のようなものでした。

「関ヶ原の戦い」という超有名な史実が題材ですから、ある程度観る側に予備知識があることを前提にして作られたものだとしても、あまりにも説明不足で、観る側の歴史知識のスキルを信用しすぎ、作りが雑すぎてわけがわからない。

一緒に観に行った妻なんて、途中から寝てましたからね。


わずか6時間でその後の日本の歴史が変わった関ヶ原の戦いですが、小説『関ヶ原』の面白さは、その「わずか6時間」に至るまでの経緯にあります。

つまり、戦術、戦略ではなく、それ以前の政略で雌雄を決したのが、関ヶ原の戦いと言っていいでしょう。

だから、そこを丁寧に描かないと、この物語の魅力は引き出せない。

合戦シーンは、その結論に過ぎないですからね。

合戦に至るまでに、徳川家康がどれだけ老獪豊臣恩顧の大名たちを抱き込んでいったか。

「へいくゎい者」と言われた不器用石田三成が、その柔軟性のない性格でどれだけ無用の反感を買ってきたか。

これがさっぱり伝わってこない。

三成らしさが出ていたのは、「上様」という言葉尻をつかまえて本多正信を叱責したシーンぐらいだったでしょうか?

家康の老獪さに至っては、その最も重要なシーンであるはずの小山評定がまるまる割愛されていました。

びっくりです。

小山評定のない『関ヶ原』なんて、『関ヶ原』じゃない!


登場人物の人物像がちゃんと作り込まれていたのも、三成と家康、そして島左近ぐらいだったでしょうか?

あとの人物たちは、その上っ面だけで作られた小者感たっぷりのキャラで、可愛そうなほどでした。

福島正則加藤清正なんて、あれじゃただのバカ殿ですよ。

短い時間でキャラ設定しようとすれば、ああいうわかりやすい人物像になっちゃうんですね。

あと、直江兼続も、何のために出したのかよくわからない。

兼続を出すんだったら、直江状上杉討伐も描かないと意味がないし、そもそも、三成と兼続の密約こそ、本当にあったかどうかわからない説なわけで、こここそ、別に割愛してもよかったシーンだったんじゃないでしょうか?

明らかに松山ケンイチさんの友情出演ありきのシーンで、唐突感ありありでした。


合戦に入ってからも、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊らの存在がまったく無視されていましたし、三成と懇意だったはずの島津隊がなぜ動かなかったかも、もうちょっと丁寧に描いてほしかった。

あれじゃあ、ほんとに原作をちゃんと読んでる人じゃないと理解できないですよね。

そこをちゃんと描かないと、西軍がなぜ負けたのかが伝わらないし、なにより小早川秀秋なぜ裏切ったのかがぜんぜんわからない。

秀秋自身は三成につきたかったけど、家臣に押し切られた?

原作小説とは違う解釈ですが、それはいいとしても、じゃあなんでそうなったの?

さっぱりわかりませんでした。


それから、初芽

原作では藤堂高虎から三成の元に送り込まれた間者でしたが、映画では、伊賀の忍びという設定でした。

まあ、それはいいでしょう。

もともと架空の人物ですから、原作小説とキャラ設定を変えるのもありだとは思います。

ただ、解せないのは、初芽だけじゃなく、原作には登場しない忍者たちがやたらと暗躍していたこと。

なんで?

これって忍者映画なの?

外国での忍者ブームにのっかって海外進出を狙ってる?

司馬さんの原作には、忍びは出てきません。

まあ、いくさは情報収集戦でもあったでしょうから、水面下での諜報部隊の働きはあったかもしれませんが、小山評定とかの重要なシーンを削ってでもクローズアップする必要があったでしょうか?

あの忍者たちのシーンが、作品を歴史映画じゃなくファンタジー映画にしてしまっていたように思えてなりません。


で、最後に、最も重要なところ。

敗走して落ち延びた三成が、なぜ自害しなかったかについてですが、原作小説では、最後まで望みを捨てずに生きる道を選び、再起を図るため・・・というものだったのに対し、映画では、死ぬ前に見届けたい大切な人に会うため・・・でした。

つまり、初芽に会うために自害しなかった・・・と。

いやいや、そこは変えちゃダメでしょう。

これって恋愛映画だったの?

三成はその処刑の直前、警護の者から干柿を差出されたところ、干柿は痰の毒だから食べないと言って断り、間もなく首を刎ねられる人が毒を断つのはおかしいと笑われますが、三成は、大義を思うものは首をはねられる瞬間まで命を大事にするものだ、それは何とかして本望を達したいと思うからである、と言い放ったというエピソードがあります。

この逸話が実話かどうかは別にしても、ここが三成最大の見せ場であり、関ヶ原の戦いの着地点ともいえます。

それを、好きな女に会うためなんて、そんな安っぽい理由にしちゃったら、三成が浮かばれません。

ここは、絶対変えたらダメなところでしょう!


岡田准一さん、役所広司さん、平岳大さん、有村架純さんと、豪華キャストで描かれた大作でしたが、残念ながら名作とはいい難い作品でした。

まあ、予想してましたけどね。

やはり、司馬さんの長編作品の映画化は無理があったということでしょう。

実に残念でした。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-01 05:06 | 映画・小説・漫画 | Comments(0)