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西郷どん キャスト&プロローグ

さて、来年の大河ドラマは『西郷どん』ですね。言わずと知れた幕末維新の英雄・西郷隆盛の物語です。歴史に興味のない人でも、「西郷隆盛」という名を知らない人は、まずいないでしょう。今年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』は、あるいは大河ドラマ史上最も知名度の低い主人公の物語だったかもしれませんが、来年はその真逆で、日本史上最も知名度の高い人物の物語といえるかもしれません。


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 というのも、たとえば「戦国三傑」と呼ばれる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人では、誰がいちばん知られているか甲乙つけがたいと思いますが、「維新三傑」と称される西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の3人では、知名度、人気ともに圧倒的に西郷が突出しています。聞くところによると、西郷の伝記は、世界中を見渡して、イエス・キリストの伝記に次ぐほど数が多いといいます。キリスト伝は世界中で出版されているのに対し、西郷の伝記はほとんど日本での刊行であることを思えば、いかに西郷を研究する歴史家が多く、また、国民の間に絶大な人気を有しているかが窺えます。

 にも関わらず、後世の西郷に対する評価は一定ではありません。賢人愚人か、はたまた聖人悪人か、見方によって大きく評価が変わるのが、西郷という人の不思議なところです。幕末、西郷とはじめて会った坂本龍馬が、「なるほど西郷というやつは、わからぬやつだ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」と評したという有名なエピソードがありますが、同時代に生きた者でさえつかみどころがなかったわけですから、後世のわたしたちが理解に苦しむのも当然かもしれません。


西郷隆盛を題材にした史伝の代表的な作品として、海音寺潮五郎『西郷隆盛』と、司馬遼太郎『翔ぶが如く』がありますが、海音寺さんと司馬さんの西郷評も、ぜんぜん違うんですね。司馬さんは維新前の西郷と維新後の西郷とを、まるで別人と評しているのに対し、海音寺さんは、維新前と維新後でまるで人が変ってしまうことなどあろうはずがないといっています。今回、原作は林真理子さんだそうですね。原作小説を読んでいないのでわかりませんが、歴史上最も有名でありながら理解に難しい西郷隆盛という人物が、今回、どのように描かれるか楽しみにしています。


 以下、現時点で発表されているキャストです。


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西郷吉之助(隆盛)・・・・・・・鈴木亮平(幼少期:渡邉蒼)

大久保一蔵(利通)・・・・・・・瑛太

岩山糸・・・・・・・黒木華

西郷吉兵衛・・・・・・・風間杜

西郷満佐子・・・・・・・松坂慶子

西郷琴・・・・・・・桜庭ななみ

西郷吉二郎・・・・・・・渡部豪太

西郷龍右衛門・・・・・・・大村崑

西郷きみ・・・・・・・水野久美

大久保次右衛門・・・・・・・平田満

熊吉・・・・・・・塚地武雅

於一(篤姫)・・・・・・・北川景子

ふき・・・・・・・高梨臨

大山格之助(綱良)・・・・・・・北村有起哉

有村俊斎(海江田信義)・・・・・・・高橋光臣

村田新八・・・・・・・堀井新太

赤山靭負・・・・・・・沢村一樹

幾島・・・・・・・南野陽子

由羅・・・・・・・小柳ルミ子

島津斉興・・・・・・・鹿賀丈史

島津斉彬・・・・・・・渡辺謙

島津久光・・・・・・・青木崇高

喜久・・・・・・・戸田菜穂

山田為久・・・・・・・徳井優

愛加那・・・・・・・二階堂ふみ

西郷従道(信吾)・・・・・・・錦戸亮

大久保満寿・・・・・・・ミムラ

桂久武・・・・・・・井戸田潤

タマ・・・・・・・田中道子

阿部正弘・・・・・・・藤木直人

月照・・・・・・・尾上菊之助

徳川家定・・・・・・・又吉直樹

調所広郷・・・・・・・竜雷太

井伊直弼・・・・・・・佐野史郎

徳川斉昭・・・・・・・伊武雅刀

語り・・・・・・・西田敏行

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 西郷隆盛役の鈴木亮平さんのことは、それほど詳しくは知らないのですが、NHK朝ドラ『花子とアン』やNHK大河ファンタジー大河『精霊の守り人』が印象に残っています。大河ドラマは初出演にして初主演だそうですね。巷の噂では、とあるビッグネームの俳優さんが断ったことによる大抜擢だとも聞きますが、たとえそうであったとしても、そんなことはどうでもいいことなんじゃないでしょうか。今やハリウッドスター渡辺謙さんも、『独眼竜政宗』の主役に抜擢されたときは、それほど知名度の高い俳優さんではありませんでしたが、同作品は大河史上に残る名作との呼び声が高い作品となりました。名前の大きさなんて、あとからついてくるものなんじゃないかと。


 その渡辺謙さんが、今回、島津斉彬をやるんですね。ピッタリだと思います。斉彬はたぶん、物語前半しか出てきませんが、西郷の精神の核となる部分を生み出す人物として、重要な登場人物です。渡辺謙さんなら、申し分ないのではないでしょうか。


 大久保利通は瑛太さんですね。西郷といえば大久保。この2人の関係がどのように描かれるかも楽しみのひとつです。一般に、西郷の人気の高さに対して後世に悪評高い大久保ですが、実は、わたしはどちらかといえば大久保贔屓です。なので、大久保利通の扱いがどのように描かれるかが気になるところ。その意味では28年前の大河ドラマ『翔ぶが如く』での鹿賀丈史さんの大久保利通は最高でしたし、その後の幕末ものに出てくる大久保役は、どれもイマイチ納得できませんでした。今回、瑛太大久保は鹿賀大久保を超えられるか。楽しみです。


 その鹿賀丈史さんも、今回、島津斉興役で出られるんですね。それと、語りが西田敏行さん。『翔ぶが如く』での西郷と大久保が、28年後にも揃って出演。これ、往年の大河ファンにはたまらない粋な計らいです。あと、松坂慶子さん、風間杜夫さん、平田満さんの『蒲田行進曲』トリオの共演も話題になっていましたね。皆さん、年を取られました(笑)。


 天璋院篤姫役は北川景子さん。これまた意外にも大河ドラマは初出演だそうですね。篤姫役といえば宮崎あおいさんを思い出しますが、実は『翔ぶが如く』のときの篤姫は富司純子さんでした。もちろん、富司さんは美しい女優さんですが、28年前といえども、当時、富司さんは40代半ばだったと思います。篤姫が第13代将軍・徳川家定のもとに輿入れしたのは20歳のとき。あれはちょっと、無理がある配役でしたよね。その意味では、北川さんはギリギリセーフかな?(笑)。そして、その家定役が芥川賞作家の又吉直樹さんだそうで、これもイメージ出来すぎて笑っちゃいましたが、いちばん笑ったのは、由羅役の小柳ルミ子さん。イメージピッタリです(笑)。


 まだまだ、勝海舟坂本龍馬、木戸孝允、小松帯刀らのキャストも発表されていませんし、桐野利秋、篠原国幹、別府晋介といった西郷と運命をともにする主要キャストも発表されていません。楽しみですね。


 とにもかくにも、また今回も1年間お付き合いいただけたら幸いです。

 楽しみましょう。


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by sakanoueno-kumo | 2017-12-30 15:19 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その175 「恩智城跡」 大阪府八尾市

大阪府八尾市にある恩智城跡を訪れました。

恩智城は楠木正成八臣のひとりである恩智左近満一が築いたとされる城で、正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」楠木正行が戦死すると、ここ恩智城も落城したと伝わります。


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城跡と言っても、遺構は残っていません。

現在は旧恩智小学校の跡地に石碑が建てられているのみです。


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学校の校門跡でしょうね。

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城跡の石碑と小学校跡の石碑が並びます。


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現地説明板によると、恩智城跡は自然の高地を利用した城郭で、高安連峰との間に堀をめぐらせ、堀の中にかつては小島があったそうですが、それはむかしの一の丸で、現在の城址は二の丸址だそうです。


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城は広さ東西83間 南北85間だったと伝わります。


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城跡からは、河内平野が一望できます。


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遠くにあべのハルカスが見えます。


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城跡公園の西には、恩智左近満一の墓があります。


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恩智左近満一は恩智神社の社家の出で、楠木正成方に味方した八臣のひとりです。


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「湊川の戦い」で正成が戦死したあとは、その子・正行を助けて南朝方を守りましたが、延元2年/建武4年(1337年)に熱病で死んだという説と、正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」戦死したという説があるようで、定かではありません。


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説明版は病死説を採っているようです。


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『太平記』とは無関係ですが、左近の墓の傍らに小さな墓碑16基並んでいるのですが、これは、明治10年(1877年)の西南戦争政府軍として従軍した中河内近在の人々の墓だそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-12-29 02:25 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その174 「歯神さん」 大阪府東大阪市

「その171」で紹介した霊光院から西に少し坂を下ったところに、鉄柵で囲われた小さながあるのですが、ここは、楠木正成の弟・楠木正季の子・和田賢秀が祀られていると伝えられます。


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賢秀は従兄弟にあたる楠木正行・正時兄弟と共に、正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」で討死しました。


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賢秀の墓所は「その167」で紹介した四条畷市のものが有名ですが、この祠は、四條畷の戦いの舞台を東大阪四条説に則ったものだと思われます。


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その説明書きによると、賢秀がこの地で戦ったとき、自分の刀が折れ、敵の刃を口で受け止め、その刃を歯で噛み切ったところから「歯神」として崇められ、歯痛に効く神として、古くから信仰され、「歯神さん」として人々から敬神されているそうです。


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四条畷市の墓所の説明書きでは、敵将にはねられた首が敵に噛み付いたまま睨んで離れなかったという伝承で、あちらでも歯痛に効く神「歯噛(神)さん」として信仰されているとしていました。

微妙に話が違っていますが、いずれも歯にまつわる伝承であることを思えば、やはり、死に際に敵に嚙みついたのはホントの話かもしれませんね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-27 23:07 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その173 「楠木正行首塚(東大阪)」 大阪府東大阪市

「その166」「その168」「その169」「その170」楠木正行墓や首塚を紹介しましたが、まだありました。

前稿で紹介した枚岡神社首洗の井戸から、800mほど北東にある重願寺という寺院の近くの住宅地のなかに、ひっそりとあります。


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こんな目立たない場所に案内板があり、この細い道を入っていきます。

非常にわかりにくい。


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敷地内には、玉垣で囲われた空間と、顕彰碑が目に入ります。


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玉垣のなかには、首塚と思われる石龕が見えます。

右下に「楠木正行首塚」と書かれた立て札がありますが、実はわたしが来たとき、敷地内の隅っこに倒れており、わたしが起こして立てかけました。


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首塚の石龕です。


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扉部分にかすかに菊水の紋が確認できますが、かなり傷んでいます。


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花立てには菊紋が確認できます。


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首塚のそばに建つ「顕彰碑」


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碑文は漢文で書かれていたので、わたしには読解できません。
こちらの菊水は、はっきりと確認できます。


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前稿の首洗池から1km弱、「その170」で紹介した往生院六萬寺の墓所からは2kmほどの立地を考えると、おそらく、「四條畷の戦い」の舞台を東大阪四条説に則った首塚だと思われます。

とにかく、説明板も何もないので、詳しいことがわかりません。


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「首塚」のある場所の横の通りにあった鳥居です。

額の部分が外されており、この近くに神社があるのか、あるいは、この塚がかつて神社として祀られていたのか、わかりません。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-26 20:23 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その172 「楠木正行首洗の井戸(枚岡神社)」 大阪府東大阪市

東大阪市に枚岡神社という由緒ある神社があるのですが、その参道にあたる枚岡梅林の入口に、楠木正行ゆかりの井戸があります。


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その伝承によると、正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」において、楠木正行・正時兄弟率いる南朝軍と、足利幕府方の高師直率いる北朝軍が激突し、南朝方は惨敗を喫しますが、そのとき、討ち取られた正行の首が、この井戸で洗われたといいます。


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四條畷の戦いの舞台は、「その163」から「その167」で紹介した現在の四条畷市通説となっていますが、「その170」「その171」で紹介した東大阪市の四条付近だったという説も根強く、もし、この井戸が伝承どおりの井戸だったとすれば、後者の説に沿ったものだと思われます。


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井戸を囲う石はそれほど古いものではなさそうで、とても由緒ある井戸には見えません。


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立札には、「楠木正行公縁の井戸」と記されていますが、以前は、「楠木正行公首洗いの井戸」と書かれていたそうです。

表現が惨たらしいので、変えちゃったのでしょうか?

縁の井戸と言われても、どんな縁かわからないですよね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-25 19:36 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その171 「楠木正行終焉の地(霊光院)」 大阪府東大阪市

東大阪市上四条町にある「霊光院」という寺院の入口に、「小楠公終焉所」と刻まれた石碑があります。

ここは、前稿で紹介した往生院六萬寺から500mほど北上した場所で、ここが本当に楠木正行終焉の地だったかどうかはわかりませんが、正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」の舞台が、「その163」から「その167」で紹介した通説の現在の四条畷市ではなく、東大阪市の四条付近だったという説に則ったものだと思われます。


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ここ石碑が建てられたのは、明治21年(1888年)当時この土地を所有していた人物が、この場所を掘ったところ、、多数の人骨や武具などが出土したそうで、これを伝承の四条綴の戦いの遺物であると考え、これを丁重に埋め戻してこのを建てたそうです。

また、この「霊光院」と道を隔てた場所に、かつて「楠公院」という寺院があったそうで、この寺院の境内からも人骨や武具などが出土したらしく、供養塚が建てられいたそうですが、現在、その寺院はなくなり、供養塚もなくなっています。


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ただ、この地は応仁の乱後の文明9年(1477年)、管領の畠山義就畠山政長による家督相続争いの戦場にもなっており、武具や人骨などが出土する可能性が大いにある地域だそうで、四条綴の合戦との関連が裏付けられたわけではありません。

今だったら、いつの時代のものかまで分析できたんでしょうけどね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-24 21:17 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

桑田佳祐LIVE TOUR 2017 『がらくた』大阪会場レポ!

先週の日曜日、京セラドーム大阪で開催された桑田佳祐さんのLIVEに行ってきました。

サザンオールスターズのLIVEには何度も行ったことがあったのですが、桑田さんソロのLIVEに行ったのは、2002年の大阪ドーム以来15年ぶりです。


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今回のライブツアーは5大ドーム会場を含む全国10会場18公演ですが、2度目の5大ドーム公演を行うのは、男性ソロアーティストとしては史上初なんだそうですね。

サザンでは毎回ドームツアーが当たり前なので、もっとやってるのかと思っていましたが、1度目は、わたしが行った15年前のツアーだったそうです。


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もっとも、本当なら、今回の5大ドーム公演は3度目になるはずでした。

というのも、2010年に今回と同じく5大ドーム会場を含む全国10会場19公演を予定していたものの、桑田さんの食道がん発症が判明し、急遽、全公演が中止になったという経緯があります。

そのとき日程も、10月末から12月31日までという今回とほぼ同じ日程の予定でした。

そう思えば、今回のツアーは、われわれファンにとっても桑田さん本人にとっても、感慨深いツアーといえます。


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会場周辺の装飾は、サザンのLIVEのときほど派手ではありませんでした。

アイドルのLIVEじゃないですからね。

あくまでステージを観てくれってスタイルでしょうか。


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こちらはツアーグッズ販売。

今回、わたしはとくに何も買いませんでした。

桑田さん(サザンも含む)のLIVEって、他のアーチストのファンのように、いい意味で熱狂的じゃないんですよね。

だから、観客の大半がツアーグッズを身に着けて熱狂する宗教的な空気感はありません。

以前、長渕剛さんのLIVEに行ったときは、周囲は長渕モドキだらけでしたし、永ちゃんもまた然り、浜崎あゆみさんも、浜崎あゆみだらけですもんね(浜崎あゆみは行ったことないですが)。

その点、サザンの場合、客層も老若男女さまざまで、服装もいろいろ、コスプレ風の観客もあまり見られず、純粋に、ステージを楽しみに来たってスタイルの人がほとんどです(もっとも、今回ひとり、ヨシ子さんメイクをしたファンの女性がいて、大勢から写真をせがまれていましたが)。

この肩に力が入っていない空気感も、桑田さんが作り出したカラーといえるでしょうね。


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まだツアー途中なのでステージの内容は明かしませんが(ネットで検索すると、ネタバレページがたくさんありますけどね)、今年8月に発売されニューアルバム『がらくた』を中心に、往年のヒット曲まで盛りだくさんの3時間でした。

今年は朝ドラ『ひよっこ』の主題歌も歌ってましたしね。

サザンの曲を歌わなくても、あの曲もこの曲も、みんなが歌える曲がたくさんあるというのも、桑田さんならではといえます。


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桑田さんの作る曲って、ロック、ポップス、バラード、ブルースからGS風昭和歌謡曲風までとジャンルが多岐に渡り、何時間聴いても、何曲聴いても飽きないんですよね。

そこが、30年以上に渡ってヒット曲を生み出し続けている所以だと思います。

そんな超一流のアーチストでありながら、一流の音楽とともに、桑田さんらしい遊び心も随所に散りばめられていて、楽しませてくれます。

まさに、天才の作り出す極上のステージでした。

とくに、アンコールのラストのあの曲の桑田節は、感涙ものでしたよ。

それと、季節がら、あのバラードも。

ステージ鑑賞から5日が過ぎましたが、いまだその余韻に浸っています。



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by sakanoueno-kumo | 2017-12-22 16:48 | 芸能 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 総評

 2017年大河ドラマ『おんな城主 直虎』の全50話が終わりました。毎年、ブログで大河ドラマレビューを始めてから10作目にあたる本作でしたが、制作発表があった当初、わたしは井伊直虎という人物のことをほとんど知らず、昨年、関連本を数冊読みかじっただけのにわか知識のみでレビューに臨んだのですが、どうにかこうにか今年も完走できて安堵しています。ときには間違った発言をしていたときもあったかもしれませんが、そこは素人の趣味でやってるブログということで、ご容赦ください。で、最後に、例年どおり今年の作品についてわたしなりに総括します。


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 井伊直虎いう史料に乏しい人物を主人公とした今年の作品でしたが、わたし個人的には、古い大河ファンから挙って酷評されているほど酷い作品だったとは思っていません。少なくとも、女性を主人公にした近年の作品のなかでは、上位の出来だったんじゃないでしょうか? ただ、史料が少ない分フィクションが多く、その創作部分は玉石混交でした。秀逸な創作とそうでない創作の差が激しかった、というのが正直な感想です。


 そのなかでも、最も秀逸だったのは、おそらく多くの方が思っていたであろう小野但馬守政次の扱いですね。『井伊家伝記』の記述では井伊谷を横領した「悪役」として伝わる政次ですが、その『井伊家伝記』は徳川を批判することが許されない江戸時代中期に書かれたもので、小野を悪役に仕立てることで、徳川や井伊の大義名分を確保した可能性が指摘されている史料です。そこに着目してか、今回のドラマでは、奸臣を装いながら、実は誰よりも井伊家のことを考え、そして直虎のことを助けた忠臣として描かれました。フィクションですが、あながち的外れではなかったかもしれません。いつの時代でもそうですが、歴史とは、勝者が勝者の都合によって作るもので、歴史に客観的な正史など存在しません。小野氏の子孫の方にとっては、汚名返上のドラマでしたね。


 しかし、直虎と政次のふたりの関係はバッドエンド。これは史実であり、変えることはできません。ここをどう描くのかが、物語の最大のポイントだったといえます。で、生まれたのが、あの「神回」と言われた第33話「嫌われ政次の一生」でした。政次の処刑を直虎にどう受け止めさせるのかを注目していたのですが、まさか、直虎自身に手を下させようとは・・・。度肝を抜かれました。長年、大河ドラマを観続けているわたしですが、その後、数日間、放心状態となるほどの衝撃を受けたシーンは、はじめてだったかもしれません。


 あと、第31話「虎松の首」も良かったですね。身代わりとなった名も無き少年の首を涙ながらに抱えてをあげる直虎のシーンは、泣かされました。女性が主人公の大河では、血生臭いシーンをあまり描かない作品が多かったと思うのですが、今回は違いましたね。綺麗事だけでは解決できないことがあるということも、しっかり描かれていました。それから、第32話「復活の日」で、政次が家臣たちの前で井伊家再興を目指す演説をするシーンも見応えがありましたよね。とにかく、第30話から第33話あたりは、素晴らしい出来だったと思います。


 ただ、残念なことに、物語の中盤であまりにも大きなクライマックスを作ってしまったため、その後のドラマでそれを越える回がなく、イマイチ盛り上がりに欠けたといった感は否めません。直政シリーズになってからも、松平信康自刃事件の回などは史実と創作を上手く絡めた秀逸な出来だったと思うのですが、第30話から第33話ほど引き込まれることはなかった。本能寺の変から神君伊賀越えも、さほど盛り上がることなく、最終回も淡々と終わったといった感想です。たぶん、わたしの中で、何年か経っても思い出すであろう『おんな城主直虎』のシーンは、「嫌われ政次の一生」に尽きるんじゃないでしょうか。


 それから、龍雲丸という架空の登場人物ですが、あの人いりました? 正直いって、わたしは龍雲丸が出てくるとシラケてました。だって、急に物語がウソっぽくなるんですよね。わたしは、架空の人物そのものを否定する気はありません。歴史小説やドラマには、そういう人物がいると便利ですからね。で、架空の人物のだいたいは、忍者であったり盗賊であったりしますから、今回の龍雲丸=盗賊の頭っていう設定もありだと思います。ただ、あのチャラ男キャラがいただけなかった。それから、直虎とのラブコメ話もいらなかった。第21話から第23話では、3話続けて龍雲丸が主役の話でしたよね。3話も続けて架空の人物が主役の話というのは、歴史ドラマとしては、ちょっとキツかった。あそこで離れていった視聴者も多かったと思います。

龍雲丸の創作話に何話も割くくらいなら、井伊直親をもう数話生かして欲しかったですし、井伊直平中野直由、新野左馬助らの死も描いてほしかったですね。そのほうが、井伊家のおかれた危機的状況が、より伝わったと思います。第32話「復活の火」のワンシーンで、徳川の下で井伊家再興を目指す決意をした直虎が、井伊直盛、直満、直平、直親、中野直由、新野左馬助、奥山朝利らの無念を晴らすべく井戸端でひとり酒坏を掲げるシーンがありましたが、彼ら一人ひとりの死をもっと丁寧に描いていれば、あのシーンの直虎の思いがより伝わったと思います。おそらく、直虎を早く城主にしたかったのだと思いますが、そのために重要な史実を割愛して無意味な創作話を続けるのは、本末転倒なんじゃないかと。


 あと、瀬戸方久のキャラ設定も、イマイチでしたね。瀬戸方久が井伊家と関わりがあったというのは史実ですから、もうちょっと上手く使えたんじゃないでしょうか? 龍雲丸のような架空の登場人物を使わず、瀬戸方久に狂言回し的な役割を与えたほうが、もっと面白い話が出来たような気がします。逆に、物語後半でキャラが生きたのが、今川氏真でした。今までの物語では、今川家の滅亡で姿を消す人物でしたが、今回は、ポイントポイントでいい役目を与えられていましたね。方久にも、ああいう役割を与えてほしかった。


 俳優さん方については、素人のわたしがここで批評するには及ばないでしょう。みなさん、素晴らしい役者さんばかりで、文句のつけようがありません。毎年、大河で活躍した俳優さんのファンになってしまうわたしですが、今年も、柴咲コウさんの大ファンになってしまいました。


 最後に触れておかねばならないのが、今年の主人公・井伊直虎という人物について。戦国乱世のなか、でありながら男名を名乗り、城主となって井伊家滅亡の危機を懸命に守り抜いた女戦国武将の波乱万丈な生涯を描いたのが今回の物語でしたが、ドラマ放送直前の昨年の12月、ドラマのコンセプトの根底を覆す論説が浮上します。いわく、直虎は実は男だったのではないか?・・・と。京都市東山区にある井伊美術館が、直虎は女性ではなく、今川氏家臣・関口氏経の息子であった可能性を示す文書を見つけたと発表。大きな話題となりました。歴史ドラマであってもフィクションは避けられませんが、これが事実なら、ドラマの核となる部分が虚構となってしまいますからね。


 そもそも直虎が女性だったとする説は、ドラマの時代考証担当の歴史学者・小和田哲男氏が、四半世紀ほど前に唱えた学説だそうです。その説によると、『井伊家伝記』に記されている「次郎法師」と名乗って地頭を務めていた女性と、永禄11年(1568年)に発動された徳政令の書状に記された「次郎直虎」という署名が同一人物だとする解釈です。一方で、『井伊家伝記』を含め、次郎法師が「直虎」と名乗ったと記した史料は存在せず、「井伊直虎=次郎法師」と断定するのは難しいという意見は、以前から存在しました。そこに、今回、関口氏経の息子が直虎を名乗っていた(かもしれない)史料が発見されたため、にわかに騒がれたわけです。


 ここで整理しておかねばならないのは、今回の史料発見で否定されたのは、「井伊直虎=次郎法師」という部分であって、『井伊家伝記』に記された次郎法師という女性の存在をも否定されたわけではありません。そこを理解せずに騒いでいる批判をよく見かけましたが、そこは、ちゃんと理解すべきところです。つまり、ドラマのタイトルが『おんな城主 次郎法師』だったら、何の問題もなかったわけです。まあ、その『井伊家伝記』の記述自体が信憑性に乏しいという見解もありますが。でも、それをいえば、今回発見された史料も、直虎の時代より150年後に記された編纂物だそうで、信用に足る史料とはいえません。結局のところ、井伊直虎という人物は「謎の人物」ってことですね。


 井伊家家系図でわかるのは、井伊直親のあとに井伊直政の名が続くだけの歴史です。しかし、直親の死から直政が元服して家督を継ぐまで、約20年の歳月があります。その間にも、記録には残らない井伊家の歴史があったはずです。史実とは、歴史の断片にすぎません。史実だけをつなぎ合わせても、歴史は見えてきません。今年の大河ドラマ『おんな城主直虎』は、そんな史実と史実をつなぐ記録に残らない歴史の物語だったといえるのではないでしょうか。そう考えれば、直虎が男であっても女であっても、どうでもいい気がしてきました。大切なのは、記録に残らない歴史を懸命に繋いだ井伊直虎という人物がいた、ということで、それが、今年の大河ドラマ『おんな城主直虎』のテーマだったんじゃないかと。


 とにもかくにも1年間楽しませていただき本当にありがとうございました。このあたりで『おんな城主直虎』のレビューを終えたいと思います。毎週のぞきにきていただいた方々、時折訪ねてきてくれた方々、コメントをくださった方々、本稿で初めてアクセスいただいた方々、どなたさまも本当にありがとうございました。

●1年間の主要参考書籍

『女城主・井伊直虎』 楠戸義昭

『おんな領主井伊直虎』 渡邊大門

『井伊直虎の真実』 黒田基樹

『おんな城主井伊直虎と井伊直政の真実』 別冊宝島

『日本の歴史12・戦国大名』 杉山博

小説『剣と紅』 高殿円



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by sakanoueno-kumo | 2017-12-20 00:33 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(10)  

おんな城主 直虎 第50話「石を継ぐ者」 ~最終回~

 本能寺の変から約2ヵ月半が過ぎた天正10年(1582年)8月26日、井伊直虎がこの世を去ります。その死について、『井伊家伝記』では、たった1行だけこう記されています。


 天正十年午八月廿六日御遠行、法名妙雲院殿月船祐円大姉


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 直虎の享年は、誕生年が不明なために明らかではありませんが、許嫁だった井伊直親が生きていれば47歳だったことから考えれば、40歳代半ばから50歳前後だったと思われます。死因も定かではありません。直虎の晩年は、天正3年(1575年)以降、実母の祐椿尼とともに龍潭寺内にある松岳院という庵で過ごしたということ以外、何もわかっていないんですね。ただ、おそらくは井伊谷を出ることはなかったでしょうから、きっと、松岳院で南渓瑞聞和尚らに見守られての穏やかな最期だったのではないでしょうか。

 直虎の亡骸は龍潭寺の井伊家墓地に葬られました。直虎の右隣には祐椿尼が、左隣には直親が眠り、その横には直親の妻、そして末席には万千代こと井伊直政が眠ります。井伊家が最も危機的状況にあった時代を生きたこの5人が、肩を並べるように眠っているというのも、感慨深いですね。


 南渓瑞聞和尚は、直虎が死んだ7年後の天正17年(1589年)まで生きます。享年は不明ですが、直虎の祖父の弟という説が正しければ、かなりの長寿だったと思われます。井伊家の危機がはじまった井伊直満・直義の死から、直盛、直平、直親、小野政直・政次父子、そして直虎の死まで、すべてを弔ってきた南渓瑞聞和尚。最後は、直政が大名となって井伊家を再興させるところまで見届けて、この世を去ります。『井伊家伝記』によると、次郎法師に井伊家当主を継がせたのも、南渓だったといいます。結局のところ、当主不在の井伊家を実質率いていたのは、南渓だったといってもいいかもしれません。

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 直虎の死から3ヵ月後の11月、万千代は元服して井伊直政と名乗ります。22歳でした。通常、武家の子は15歳で元服するのが慣例で、何か特別な理由がない限り、22歳での元服は考えられない遅さでした。直政の場合、15歳で徳川家康に取り立てられ、すでに戦場を何度も経験しており、武功もたて、2万石を有する侍大将だったわけで、元服しない理由が見当たりません。なぜ直政はここまで元服しなかったのか・・・。その理由は判然としませんが、直虎の死の3ヵ月後に元服したという事実を鑑みれば、何か直虎の存在と直政の元服に関係があったと考えるのが自然かもしれません。直政がもし元服すれば、たったひとりの井伊家の男として、家督を継ぐことになるのはわかりきっていました。直虎の目の黒いうちは、それが出来ない、あるいはそれが憚られる何らかの理由があったのではないかと・・・。それが何かはわからないのですが。


 直政の「直」は井伊家の通字で、「政」は小野家の通字というドラマの設定には、思わず目頭が熱くなりました。小野但馬守には「政次」「道好」の2説あるのですが、実は「道好」の方が通説となっています。ところが、今回のドラマでは、俗説の「政次」を採りました。その理由は、これだったんですね。直政の諱には、直親、直虎そして政次が生きている・・・と。そして、3人の魂がこもった石(遺志)を継いだんですね。


 ナレーションにもあったとおり、その後、井伊家は260年に渡って徳川家の屋台骨となります。その礎を築いたのが直政だったわけですが、父の直親が死に、一時は滅亡しかけた井伊家が、直政によって再興されるまでの間にも、記録には残らない歴史があったはずです。その時代を描いたのが、今年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』でした。『井伊家伝記』は伝えます。


 次郎法師は女こそあれ井伊家惣領に生候間


 本稿をもって大河ドラマ『おんな城主直虎』のレビューは終わりとなります。1年間、拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。近日中には総括を起稿したいと思っていますので、よければご一読ください。


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by sakanoueno-kumo | 2017-12-18 21:22 | おんな城主 直虎 | Trackback(1) | Comments(2)  

太平記を歩く。 その170 「楠木正行本陣跡・墓所(往生院六萬寺)」 大阪府東大阪市

正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」の舞台は、「その163」から「その167」で紹介した現在の四条畷市ではなく、東大阪市の四条付近だったという説もあります。


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その説に則った史跡が、当地には複数あります。

まず訪れたのは、楠木正行本陣となったと伝わる往生院六萬寺

その参道には、「小楠公銅像 東千メートル」と刻まれた石碑がありました。

昭和10年(1935年)に建てられたもののようです。


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そして、ここが往生院六萬寺。

その入口には、「楠木正行公四条畷合戦本陣跡」と刻まれたドでかい石柱があります。


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しかし、写真撮影はここまで。

境内はすべて撮影禁止だと言われました。

また、境内には楠木正成、正行供養塔正行像があると聞いてきたのですが、それらを見せてもらうこともできませんでした。

聞けば、墓所へのお参りは事前に問い合わせが必要で、わたしのような趣味の史跡巡り目当ての人には、見せてもらえないそうです。

住職さん曰く、あくまで供養のためのものだからと・・・。

まあ、たしかにおっしゃるとおりなんですが。

残念です。


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その伝承によると、往生院の伽藍も兵火に巻き込まれて焼失し、正行の亡骸を持ち帰った黙庵周諭禅師が、胴体だけをこの地に埋葬したといいます。

前稿で紹介した寶篋院に黙庵周諭禅師が正行の首を埋葬したという話と合致しますね。

でも、なぜ胴体と首を別々に葬る必要があったのでしょう?

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Wikipediaによると、焼失した伽藍は承応3年(1654年)に鷹司信房によって復興され、このとき正成・正行父子の供養塔も建立されたそうですが、明治時代になって四條畷神社創立の影響を恐れた往生院が、自ら二石の供養塔を隠蔽古文献を処分し、往生院は破壊されたそうです。

四條畷神社創立の影響を恐れたって、どういうことでしょうか?

現在の寺院は、第二次世界大戦後に復興されたものだそうです。


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紹介できる写真が少ないので、寺院から見えるあべのハルカスでも載せておきます(笑)。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

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太平記を歩く。


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by sakanoueno-kumo | 2017-12-17 00:06 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)