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太平記を歩く。 その191 「石清水八幡宮」 京都府八幡市

京都府八幡市の男山山中に鎮座する「石清水八幡宮」を訪れました。

貞観元年(895年)の創建と言われる石清水八幡宮は、数々の歴史の舞台に登場する大社ですが、『太平記』の時代にも、その地理的要衝から恰好の軍事目標となり、何度も軍事拠点となって兵火にも晒されました。


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『太平記』で最初に石清水八幡宮が登場するのは、配流先の隠岐島を脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が船上山に立てこもると、天皇は共に隠岐島を脱出した千種忠顕山陽・山陰道の総司令官に任命し、援軍として京に向かわせます。

楠木正成、護良親王、赤松則村(円心)の挙兵で六波羅が混乱しているなか、忠顕は8000の兵(太平記では20万7千騎)を率いて一気に京都を目指して出陣します。

そのとき千種軍が陣を布いたといわれるのが、ここ石清水八幡宮だったと伝えられます。


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しかし、勢いだけで突き進んだ千種軍は、あえなく六波羅軍によって撃退され、忠顕は淀川を挟んだ北東の山崎に陣を布いていた円心の元に落ち延びたと伝わります。

円心は摩耶山合戦で六波羅軍を撃退したあと、兵を山崎まで進めていましたが、六波羅軍の抵抗の前に総崩れとなり、千種軍とともに退却、再起をはかります。


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次に石清水八幡宮が舞台となるのは、建武の新政が始まった年の建武元年(1334年)9月21日、討幕の成功と王政一統を報告するために後醍醐天皇の行幸が行われたときです。

この行幸の列には、前衛に足利尊氏、中衛に楠木正成、後衛に名和長年を付き従わせ、世間に新政権は武家と朝廷が共に協力しあう政権であることを喧伝したと伝わります。

しかし、この頃すでに武士たちの不満が積もり始めており、尊氏が反旗を翻すのは、この翌年のことです。


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本殿の近くには、楠木正成が建武元年(1334年)に必勝を祈願して植えたと伝わるクスノキがあります。

『洛陽名所集』によると、「戦勝軍利を祈り、楠千本を八幡山にうへけり」とあります。

その逸話が事実だとすれば、この行幸の際に植えられたのかもしれませんね。


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でも、だとすれば、この時点で正成は、近い将来戦が起こることを予感していたということでしょうか。


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樹齢700年近くなる大樹は、根周り18m、樹高30m、樹冠40mで、京都府指定天然記念物となっています。


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続いて石清水八幡宮が舞台となるのは、足利幕府が成立した翌年の延元2年/建武4年(1337年)12月、南朝方の北畠顕家新田義貞の子の新田義興とともに再起をかけて、ここ石清水八幡宮に籠城します。

これに対して尊氏が差し向けた高師直率いる包囲軍は約10万、一方の籠城軍は2000ほどだったといわれます。


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しかし、北畠、新田ら籠城軍はよく戦い、籠城は4ヶ月に及びますが、結局は衆寡敵せず

籠城軍は総崩れとなり、石清水八幡宮軍は高師直軍の手によって、火にかけられます。

このとき、籠城軍の多くが焼死したと伝わります。


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そして最後に石清水八幡宮が舞台となるのは正平6年/観応3年(1352年)に起きた「正平の役(八幡の戦い)」のとき。

足利幕府の内紛に乗じて一時、南朝方が京を奪回すると、ここ男山八幡の麓に後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)の仮皇居が置かれますが、その後、勢力を盛り返した足利義詮軍が攻め寄せ、男山八幡を背にしたこのあたり一帯が戦場となります。


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幾多の戦乱に巻き込まれた石清水八幡宮。

現在、国宝に指定されている石清水八幡宮の社殿は、寛永11年(1634年)に徳川家光が寄進したものです。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-31 09:06 | 太平記を歩く | Trackback(1) | Comments(0)  

西郷どん 第4話「新しき藩主」 ~お由羅騒動~

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 嘉永元年(1848年)12月、幕府から密貿易の件で咎められた薩摩藩家老の調所広郷急死(おそらく自害)すると、藩内外で賢明な島津斉彬の藩主就任を望む声が高まりますが、一方で、前話の稿で説明したとおり、洋学好きの斉彬を嫌うアンチ斉彬派の声も一層高まり、藩内の両派の対立が激化します。何より、アンチ斉彬派の筆頭が現藩主であり斉彬の実父である島津斉興でした。斉興は密貿易の情報を幕府主席老中の阿部正弘リークしたのは斉彬だと疑い(事実そうだった可能性が高い)、以前にも増して斉彬に対する怒りを露わにします。斉興にしてみれば、斉彬は自身が藩主になるために藩の秘密を売った不届き者という思いだったのでしょう。

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 アンチ斉彬派が望みを託したのは、斉興の側室・お由羅の方が産んだ島津久光でした。斉興は正室の周子(斉彬の生母)が死んだ後は正室を迎えなかったため、お由羅が事実上正室も同然の立場でした。お由羅は当時の史料中に「美にして艶也」とか「怜悧な上に天性の麗質」と記されているほど賢くて美人だったようで、斉興の寵愛ぶりは相当なものだったようです。また、その子・久光も、ドラマでは今のところマザコンバカ息子キャラですが、実際には、儒学、漢詩、国学に通じる一級の教養の持ち主で、十分に藩主が務まる人物でした。何より、斉彬と違って洋学に興味がなく、また、江戸生まれで江戸育ちの斉彬に対して薩摩生まれの薩摩育ちであったことも、藩内保守派にとっては好意の対象となったに違いありません。必然的に、藩内保守派は久光推し、革新派は斉彬推しという図式が生まれました。


 ちょうどこの頃、斉彬の子女が幼くして相次いで病没するという不幸に見舞われます。斉彬派の者たちは、これをお由羅や久光による呪詛が原因と疑います。この当時は呪詛の力が信じられていた時代だったんですね。その効力があったかどうかは別として、実際、お由羅方の呪詛が行われていたもといわれます。そんななか、嘉永2年(1849年)に斉彬の四男・篤之助が2歳で夭逝すると、彬・久光両派の対立は一触即発の状態となり、斉彬派の重鎮で町奉行兼物頭・近藤隆左衛門、同役・山田清安、船奉行・高崎五郎右衛門、そして、西郷吉兵衛、吉之助(隆盛)父子と縁の深かった赤山靭負らは、久光派の島津将曹、島津久宝らの暗殺を企てます。しかし、計画は事前に漏れ、怒った斉興は、斉彬派を一斉に検挙し、処分します。具体的には、嘉永2年(1849年)12月から翌年の夏にかけて、高崎五郎右衛門、赤山靭負ら6人が切腹となり、他にも、蟄居、遠島など総勢50人余りが処分されます。そのなかには、大久保次右衛門正助(利通)父子も含まれていました。世にいう「お由羅騒動」「近藤崩れ」「高崎崩れ」「嘉永朋党事件」です。


 赤山靭負の切腹の際には、赤山氏の御用人だった西郷吉兵衛が介錯人を務めたといいます(異説あり)。ドラマでは、西郷吉之助も切腹に立ち会っていましたが、伝承では、靭負は切腹の直前に自身の着物を吉之助に渡してくれるよう吉兵衛に頼んだといい、父が持ち帰った血染めの着物を見た吉之助は大きな衝撃を受け、靭負の志を継ぐことを決意したと伝わります。この話が事実かどうかはわかりませんが、縁の深かった靭負の死が、西郷のその後に大きな影響を与えたことは間違いないでしょう。


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 その後も藩内では斉彬派と久光派に分かれて対立が絶えませんでしたが、斉彬と個人的に親しい幕府主席老中の阿部正弘が、斉興に圧力を加え、暗に隠居を迫ります。ドラマでもありましたが、嘉永4年(1850年)正月、斉興が新年の祝辞言上のために江戸城に登城して将軍に謁した際、将軍より茶壺が下賜されます。これは大名を隠居させたいときに幕府のとる常套手段で、「茶でも飲んで余生を楽しみなさい」という意味でした。それでも斉興は無視し続けましたが、阿部は幕府のメンツにかけて薩摩に圧力をかけ、同年2月、斉興は渋々隠居願いを提出し、ようやく斉彬の襲封となります。斉興60歳、斉彬43歳でした。

 お家騒動の原因はどこでもたいてい同じで、父の愛情や家臣の心が、正当な継承権のあるよりの方に注がれるところから起こります。この「お由羅騒動」も同じですね。騒動の元凶は長幼の序を無視しようとした斉興にあるのですが、さすがに藩主を批判するのははばかられるため、斉彬派の怒りの矛先はお由羅に向かいます。西郷は生涯、お由羅を「妖婦め!」と憎み続けます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-29 01:20 | 西郷どん | Trackback | Comments(4)  

太平記を歩く。 その190 「四条隆資の墓(正平塚古墳)」 京都府八幡市

前稿で紹介した「正平の役(八幡の戦い)」古戦場跡にある「正平七年役神器奉安所 岡の稲荷社」の石碑のすぐ西側の丘の上に墓地があるのですが、その一画に、正平の役で討死した南朝方の公卿・四条隆資の墓があります。


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南北朝の争乱における四条隆資の活動は古く、元亨4年(1324年) 正中の変の頃から後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)方として参加していました。

元弘2年(1332年)の元弘の乱では、笠置山が落ちて後醍醐天皇が捕らえられると、幕府軍の追跡を逃れて紀伊国に落ち延び出家したと伝わります。

しかし、鎌倉幕府が滅亡して後醍醐天皇の建武の新政が始まると、隆資も還俗して朝廷に復帰します。


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その後、新政に反旗を翻して楠木正成を倒した足利尊氏が京を占領すると、隆資は男山八幡に籠もって高師直軍を破る抵抗を見せますが、やがて後醍醐天皇が吉野に入ると隆資も追従します。

後醍醐天皇崩御後は後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)を補佐して南朝の政務を主導し、正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」にも参戦。

公卿でありながら自ら弓を取って戦い、足利軍の圧倒的な兵力の前に惨敗したものの、後村上天皇は隆資を慰労して従一位・大納言に任じました。


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そして正平6年/観応3年(1352年)の正平の役(八幡の戦い)においては、約2ヵ月の包囲戦の末、足利軍の兵糧攻めに耐えかねた後村上天皇が男山八幡を脱出する際、隆資は殿を務め、奮戦の末、討死したと伝えられます。


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墓石の五輪塔は、昭和19年(1944年)に建てられたもののようです。

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でも、上の「正平冢古墳」と刻まれた石碑には「昭和二年」と刻まれていますから、たぶん、それ以前にも古い墓石があって、昭和19年(1944年)に建て替えられたのでしょうね。


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でも、こちらも傷んできていて、崩れそうです。


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墓石の横にある石碑3基です。

左の石碑には「四隆資卿古碑」、右の石碑には「三條雅賢卿古碑」と刻まれ、真ん中の石碑には、「圓明●大納言卿古碑」と刻まれています(3文字目が読解不明です)。

調べてみたのですが、「圓明●大納言」という人物がよくわかりません。

歴史家・安藤英男氏の著書「南北朝の動乱」によると、このとき、四条隆資(大納言)、一条内嗣(大納言)、三条雅賢(中納言)ら南朝の公卿が討ち取られたとあります。

この一条内嗣が「圓明●大納言」のことでしょうか?


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隆資の墓石の前には、「将卒三百人墓」と刻まれた五輪塔があります。

おそらく、正平の役(八幡の戦い)で討死した兵の供養塔でしょうね。


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その横には、「忠臣冢」と刻まれた石碑が。


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四条隆資は、公卿でありながら武士に対しても見下したりせず公平に扱ったということで、武士たちからの信頼も厚く慕われていたといいます。

『太平記』巻1から巻31まで長く登場する歴戦の公卿は、ここ八幡中ノ山に眠ります。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-28 00:20 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その189 「正平の役(八幡の戦い)古戦場跡」 京都府八幡市

正平7年/文和元年(1352年)閏2月19日、後村上天皇(第97代天皇、南朝第2代天皇)が都を臨む男山八幡に入ると、翌日には南朝方武将の楠木正儀北畠顕能らが足利尊氏不在の隙を突いて入京し、尊氏の嫡男・足利義詮に攻撃を仕掛け、近江に追いやります。

京で捕らえられた光厳上皇(北朝初代天皇)、光明上皇(北朝第2代天皇)、崇光上皇(北朝第3代天皇)、直仁親王は当時南朝方の拠点だった賀名生に移され、ここに、17年ぶりに南朝方が京の都に返り咲きました。

しかし、その喜びもつかの間の3月15日、近江で勢力を盛り返した義詮軍が再び都を奪還し、3月21日には男山八幡の後村上天皇行宮を包囲。

ここから約2ヵ月、包囲戦が行われます。

世にいう「正平の役」です。

「八幡の戦い」ともいいますね。

前稿で紹介した「八幡行宮阯」から南へ約2kmの間には、その古戦場跡を示す石碑が数か所に建てられています。


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まず、八幡行宮阯から歩いて5分ほど南下したあたりにある本妙寺の入口には、「正平役城之内古跡」と刻まれた石碑が立っています。

写真後ろの石碑です。

「城之内」ということは、このあたりも後村上天皇行宮の中だったってことでしょうか?


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石碑裏面です。

「昭和二年十月」と刻まれています。


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続いて、本妙寺から南に5分ほど歩いた場所にある八幡市民図書館の前には、「正平役園殿口古戦場」と刻まれた石碑もあります。


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『太平記』巻31「八幡合戦事付官軍夜討事」の中に、「顕能卿ノ兵、伊賀、伊勢ノ勢三千余騎ニテ、園殿口ニ支テ戦フ」という記述があり、おそらくその「園殿口」というのが、このあたりなんでしょうね。


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こちらの石碑の裏にも「昭和二年十月」と刻まれています。


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八幡市民図書館から1.5kmほど南下した八幡大芝にある八角堂の近くには、「正平役血洗池古蹟」と刻まれた石碑があります。

「血洗池」とは物騒な名称ですが、池に茅原が茂っていたため、茅原(チハラ)が訛って、古戦場ということも相まってこう呼ばれるようになったのではないかと考えられているそうです。


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この石碑がなかなか見つけられずに苦労しました。

近くを何回も通り過ぎていたのに気付かずで・・・。


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こちらは、「昭和二年七月」と刻まれています。


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最後に、「正平役血洗池古蹟」から南へ200mほど下ったところにある松花堂庭園前の交差点に、「正平七年役神器奉安所 岡の稲荷社」と刻まれた石碑があります。


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岡の稲荷社は、戦いに敗れた後村上天皇が賀多生へ落ちのびる際、この地に三種の神器隠し置いたと伝えられ、それを狐が守護していたため、のちに稲荷社が建てられたと伝えられるそうです。


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こちらも裏面には「昭和二年七月」と刻まれています。


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3月21日に始まった攻防戦は、洞ケ峠、財園院、森の薬園寺、園の法圏寺口、足立寺の佐羅科、如法経塚など、男山八幡を囲む各所で戦闘がくりひろげられましたが、南朝方は次第に兵糧が少なくなり、5月11日、後村上天皇は八幡を出て再び賀名生に落ち延びます。


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ちなみに余談ですが、上記で紹介した石碑は、すべて、幕末から明治・大正にかけて京都で帯織物業で財を成した三宅安兵衛という人の遺言によって、その長男・三宅清治郎氏が私財を投げ打って建てたものだそうで、石碑は京都市内から八幡市、宇治市、京田辺市、精華町、井手町、山城町、加茂町に広がり、その数は400を越えるといわれています(参照:三宅安兵衛の碑)。

上記裏面の写真をよく見てみると、すべて「三宅安兵衛依遺志建立」と刻まれていますね。

清治郎さん自身の名を刻まず、亡き父の名を刻んだあたりも、三宅清治郎という人の人となりをうかがい知ることができる気がします。

一度、「三宅安兵衛の碑めぐり」というのをやってみるのも、面白いかもしれませんね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-26 23:05 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その188 「八幡行宮阯」 京都府八幡市

京都府八幡市にある八幡行宮跡を訪れました。

ここは、正平7年/文和元年(1352年)2月に前稿で紹介した住吉行宮に移った後村上天皇(第97代天皇、南朝第2代天皇)が、その後、さらに京の都を目指して北上した行宮跡と伝わります。


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昭和15年(1940年)に建てられたこの石碑は、現在、車道沿いのカーブミラーに隠れてあまり目立ちません。


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「観応の擾乱」で幕府内が混乱する最中、足利尊氏は対立する足利直義・足利直冬追討の綸旨を得るため、正平6年/観応2年(1351年)10月、南朝の後村上天皇に一時降伏し、政権返上を申し出ます。

これを受けた後村上天皇は、北朝崇光天皇(北朝第3代天皇)の廃帝を宣言し、年号を南朝の正平6年に統一します。

世にいう「正平の一統」です。

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翌年の2月26日、足利直義は鎌倉で急死

通説では病死とされていますが、『太平記』では、これを尊氏の毒殺としています。


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八幡行宮跡碑から路地を東に50~60mほど入ったところには、「後村上天皇行宮趾」と刻まれた石碑があります。

こちらの方が立派な石碑です。


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北朝方の混乱を見た南朝の北畠親房は、正平一統を破棄

尊氏の征夷大将軍を解任し、宗良親王(後村上天皇の異母兄)を征夷大将軍として東西で呼応し、京都と鎌倉の同時奪還を企てます。


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後村上天皇は都の奪還を目指して当時南朝の本拠地が置かれていた大和国賀名生を出立。

同2月28日に前稿で紹介した摂津国住吉を行宮とし、閏2月19日、後村上天皇は都を目と鼻の先としたここ男山八幡に到着し、石清水八幡宮別当・田中定清の邸を仮皇居とします。

それが、ここ「八幡行宮阯」です。


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しかし、後村上天皇がこの地を行宮としたのは3か月足らず

北朝方の巻き返しに遭い、激戦の末、結局、京の都の地を踏むことなく、賀名生に戻ることになります。

世にいう「正平の役」です。

「八幡の戦い」ともいいますね。

次稿では、その古戦場跡をめぐります。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-25 23:55 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その187 「住吉行宮正印殿趾」 大阪市住吉区

大阪市住吉区にある住吉行宮跡を訪れました。

ここは、後村上天皇(第97代天皇、南朝第2代天皇)時代に2度、長慶天皇(第98代天皇、南朝第3代天皇)時代に1度、南朝方の行宮とされた場所です。


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正平6年/観応2年(1351年)、北朝の天皇を擁立した足利尊氏が、一時的に南朝に降伏して北朝の天皇は廃され、年号も統一されるのですが、しかし、具体的な和睦の条件が折り合わず、翌年には再び分裂します。

世にいう「正平の一統」です。


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この機に乗じて南朝方は京都奪還を目指し、後村上天皇は行宮を賀名生から河内国東条、そしてここ摂津国住吉に移し、さらに山城国男山八幡へ移します。

このとき後村上天皇がここを御座所としたのは、正平7年/観応3年(1352年)2月28日から同年閏2月15日までの、わずか1か月足らずの間でした。


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鉄製の門扉も、菊の紋章をモチーフにデザインされています。


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敷地内には「後村上天皇住吉行宮正印殿址」と刻まれた石碑があります。


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後村上天皇はその後、幕府側の内紛と楠木正儀の戦略で南朝方が一時的に優勢を得た正平15年/延文5年(1360年)9月から正平23年/応安元年(1368年)3月11日に崩御するまでの間、ここを行宮としました。

その後、長慶天皇がこの地で即位したのち、同年12月24日に吉野へ遷っています。

合算すると、後村上天皇が8年、長慶天皇が1年計約9年間、南朝の行宮だったわけですね。


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また、明治元年(1868年)の明治天皇(第122代天皇)の住吉大社行幸のおり、この地で小休止したとのことで、「明治天皇聖躅」と刻まれた石碑があります。


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この行宮跡は国の史跡に指定されています。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-24 23:29 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その186 「御所八幡宮」 京都市中京区

「その157」で紹介した「足利尊氏邸・等持寺跡」から高倉通を50mほど下ったところに、「御所八幡宮」という小さな神社があるのですが、ここも、足利尊氏ゆかりの場所です。


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応神天皇(第15代天皇)、その生母の神功皇后、そして比売神の三神を祭神とするここ御所八幡宮は、もとは御池通堺町西南角御所八幡町にあったそうですが、太平洋戦争中に御池通りの強制疎開によってこの地に移転されたそうです。


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神社の由緒書によると、鎌倉時代の弘安元年(1278)に二條内裏焼失したことにより、一時、公卿・中院通成三條坊門万里小路邸を内裏とした後宇多天皇(第91代天皇)が、邸内に石清水八幡宮を勧請したことに始まります。


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その後、時代が下って足利尊氏による室町幕府が樹立すると、副将軍の職にあった弟の足利直義がこの地に邸を構えていましたが、正平7年/文和元年(1352年)に直義が没すると、兄の尊氏は御所八幡宮を再興して足利氏の鎮守としました。


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この八幡社が「御所」八幡宮と呼ばれるのは、将軍である尊氏が鎮守としたことから由来し、尊氏の法名によって「等持寺八幡」とも、また、このあたりの地名をとって「高倉八幡」とも呼ばれてきました。


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ちなみに、直義の死は尊氏による毒殺という見方が一般的ですが、これは『太平記』のみが伝える説で、証拠となる史料は存在しません。

ただ、直義の死は尊氏による幽閉中だったこと、その死があまりにも突然だったこと、直義が没した日が奇しくも自身の宿敵であった高師直・師泰兄弟の一周忌に当たる日だったことなどから、あくまで推論の域を出ないにしても、毒殺説はかなりあり得る話だとわたしは思います。


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直義の死によって「観応の擾乱」は一応の決着を見ますが、直義派の武士による抵抗は、その後、尊氏の落胤で直義の養子となった足利直冬を盟主として、尊氏の死後まで続きます。


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現在、ここ御所八幡宮は安産・幼児の守り神として知られ、子供の夜泣き疳の虫退治に御利益があるという三宅八幡宮とともに「むし八幡」と呼ばれ、地元の人に親しまれています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-23 23:59 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第3話「子どもは国の宝」~島津斉彬の藩主就任が送れた理由~

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 その卓越した見識により、幕末きっての開明派大名として後世に名高い島津斉彬は、16歳のときに薩摩の世子(嫡子)として徳川第11代将軍・家斉への謁見もすませており、やがてその賢名は天下に聞こえ、まだ部屋済みに身でありながら主席老中の阿部伊勢守正弘を始め賢侯と呼ばれる他藩の藩主とも親交を持ち、それらの人たちから尊敬されていたほどの人物でしたが、40歳を過ぎてもまだ藩主には就いていませんでした。その理由は、父の島津斉興が藩主の座に固執してなかなか隠居しなかったからですが、なぜ斉興が藩主の座を譲ろうとしなかったかというと、一言でいえば、斉興はわが子ながら斉彬が嫌いだったからでした。もちろん理由があります。

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 斉興が藩主に就いたとき、薩摩藩の財政どん底でした。その原因はひとつではありませんが、最も大きな原因は、斉興の祖父で薩摩藩8代藩主の島津重豪にあったといいます。重豪はすこぶる面白い人物で、早くから洋学に関心を持ち、領内に西洋風の博物館や植物園・天文館・医学校などをつくらせ、自らも洋学者に学び、ときに蘭語(オランダ語)を話すような人だったといいます。そのため、藩費を湯水の如く浪費し、その結果、ただでさえ苦しかった藩の財政は底をつきます。当然、その影響は領民に直接降りかかりました。農民は年貢の取り立ての厳しさに耐えかねて他国へ逃散するものが相次ぎ、家臣らは藩に俸禄を借り上げられ、刀剣を売って生活の足しにする始末。この頃の薩摩藩の負債は500万両だったといいますから、現在の貨幣価値にすれば1兆円を越える額にあたります。

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 この財政立て直しのため、重豪は調所笑左衛門広郷を登用します。調所は元は茶坊主出身で、その才覚を見込まれて町奉行等要職を経て、重豪つきの側用人兼続料がかりの職に就いていました。側用人は現在の官房長官、続料がかりは財務官の職務です。役目を引き受けた調所は、かなり強引な手法によって財政再建を進めます。具体的には、節倹策や国産品の専売制および新田開発、税法の見直しなどを実施する一方、借金を500万両に固定して金利を放棄させ、それを250年かけて返済するというむちゃくちゃな手法で乗り切ります。つまり、毎年2万両ずつしか払わないというのですから、事実上、借金の踏み倒しですね。調所に財政立て直しを命じた重豪は、その途上でこの世を去りますが、その後も重豪は斉興の下で改革を継続し、立て直しにかかってから15、6年ほど経つと、財政再建はすっかり成ったばかりか、150万両の蓄えまで出来たほどだったといいます。

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 こうして財政難を乗り切った薩摩藩でしたが、重豪は生前、曾孫の斉彬をたいそう可愛がり、斉彬もまた、曽祖父の重豪を慕い、感化を受けて育ったため、金のかかる洋学好きの人物に育っていました。斉興にしてみれば、西洋好きの斉彬を藩主に就かせると、また、重豪の時代の二の舞いになりかねないという懸念があります。その不安は、調所やその他、重臣たちの多くも同じでした。もう二度とあんな苦しみを味わいたくない・・・。血の滲むような思いをして立て直した財政を、斉彬にめちゃめちゃにされたくない。そう思って当然だったでしょう。斉興は藩のためにも、わが子・斉彬を徹底的に嫌いぬきました。そして、いつしか側室のお由羅が産んだ子・久光に時期藩主に、という思いがめばえ始めます。そうなると、必然的に藩内が斉彬派と久光派に分裂し始めます。

 嘉永元年(1848年)12月、調所は江戸に出仕した際、幕府主席老中の阿部正弘から呼び出され、糾問されます。その内容は、薩摩藩あげての密貿易の疑いと、琉球に派遣していた警備兵の数が幕府に報告していた数より少なかったという件でした。調所は、すべては自身の独断で行ったことで、藩公認のものではないと主張してその場をしのぎますが、その後、江戸上屋敷芝藩邸にて急死します。公式には「病死」として届けられましたが、藩主・斉興の立場を守るため、事件をうやむやに葬ろうとしての自決(服毒自殺)だったといわれています。享年73。ドラマでは、斉彬が阿部に密貿易の件をリークしていましたが、証拠は残っていないものの、おそらく、斉彬が阿部と通じて自身の藩主就任の障害である調所を追い落としたとみて間違いないのではないでしょうか。斉彬も、40歳を超えて相当に焦っていたのかもしれません。

 調所の死をきっかけに、薩摩藩内の斉彬派斉興・久光派の対立が激化。やがて、西郷吉之助(隆盛)大久保正助(利通)らにも少なからず影響を及ぼす「お由羅騒動」へと発展していきます。その話は、また次週にて。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-22 18:20 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その185 「赤松円心公墓所(常厳寺)」 兵庫県三木市

三木市にある常厳寺に赤松則村(円心)の墓があると知り、訪れました。


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でも、一般に知られている円心の墓所は京都の建仁寺にあり、供養塔はが兵庫県赤穂郡上郡町の金華山法雲寺にあります。

それが、なぜ三木市にあるのか・・・まあ、墓所が複数あるという話はよくあることなので、とりあえず訪れてみることに。


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門前の「温故知新」の石碑の背面には、たしかに「開基・赤松円心公墓所」と刻まれています。


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しかし、探せど探せど、境内にそれらしき墓石が見当たりません。

そこでスマホでググってみると、どうやら境内内ではなく、近くの墓苑にあるようです。

早速周辺を逍遥。


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墓苑は常厳寺境内を出て少し北に行ったところにありました。

そこに、白塀で囲われた特別な場所といった空間が見えます。


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円心の墓、見つかりました。

でもちょっと、綺麗すぎるんじゃない?

ネットで見たときは、ほとんど崩れかけの古い墓だったような・・・。


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よく見ると、「維持平成廿八年二月建立」とあります。

なんだ、去年建て直されたんじゃないか!


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背後に並べられた古い石碑と、周囲を囲む白塀の下の石垣は、当時のものなんでしょうね。

崩れかけていたから建て直したのでしょうが、もうちょっと、元の墓石を修理するだけとか、なんか方法はなかったのでしょうか?

これじゃあ、歴史的価値は皆無で、もはや史跡ではありません。

わたしの親父の墓のほうが歴史があるという・・・(苦笑)。


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円心は、「観応の擾乱」においては足利尊氏に従い、軍を編成している最中の正平5年/観応元年(1351年)1月11日、京都七条にある邸宅で急死しました。

享年74歳。


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なぜこの地に円心の墓があるかというと、円心が入道となって上郡に法雲寺を建立したとき、東播磨の三木にも守護仏を祀る寺を建てて聖観音を安置したそうで、それが君峯山常厳寺の縁起だそうで、その縁でこの地に埋葬されたのだとか。

京都で死んだ円心の亡骸が三木に埋葬されたとは考えづらいのですが、あるいは、分骨されて一部が埋葬されたのかもしれませんね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-20 22:33 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その184 「平野城(御影村城)跡・中勝寺」 神戸市東灘区

神戸市東灘区の山の手に、かつて平野城(御影村城)があったと伝わります。

詳細な場所はわかっていませんが、御影の古い地図には、大手筋、大蔵、城之前といった地名があったそうで、城が存在したことは間違いないでしょう。


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阪急御影駅の北側に、その石碑があります。


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推定では、阪急電鉄御影駅の北側にある御影北小学校あたりを中心に、東は深田池、浅田池、北は御影山、西は石屋川の谷によって区切られた高台になっている場所に、平野城があったとされます。


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上の写真は御影駅北にある深田池公園

この池が、平野城の堀の名残だと伝わるそうですが、真偽はわかりません。


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公園内にある説明板です。


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ここを訪れのは桜の季節で、人で賑わっていました。


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続いて訪れたのは、御影北小学校。

写真右が小学校で、左が阪急電鉄です。

遺構らしきものは見当たりませんが、なんとなく、城を思わせる地形です。


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小学校裏の墓地から南を見下ろした眺望です。


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小学校から阪急電車の線路を挟んで南にある、「上ノ山公園」です。


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こちらにも、平野城に関する説明板が。


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平野城の築城時期はわかっていませんが、南北朝時代の初期には赤松則村(円心)が支配し、家臣の平野忠勝に城を守らせていたと伝わります。

円心は、「観応の擾乱」においては足利尊氏に従い、軍を編成している最中の正平5年/観応元年(1350年)1月11日、京都七条にある邸宅で急死しました。

享年74歳。

その後、平野城を任されていた平野忠勝は、円心の遺志を継いで尊氏に付き従い、「打出浜の戦い」に敗れて帰農したと伝わります。

忠勝は隣の郡家村に家を建てて農民の指導者になり、その子孫もずっと郡家に住んだといいます。


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そんな忠勝を弔うためにつくられた中勝寺は、今も御影町にあります。


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中勝寺略縁起です。


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忠勝の墓碑です。


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説明板です。


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平野家と御影のまちはずっと関わっていきますが、平野城は歴史の記録から消え、いつなくなったかは定かではありません。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-19 22:59 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)