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幕末京都逍遥 その5 「東山霊山護国神社~長州藩殉難者の墓①」

東山霊山に眠る志士たちの墓は、ごとに招魂社を祀ってエリア別に葬られていますが、その中で、いちばん多くの墓石があるのが長州藩です。


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数が多すぎて全景を撮ることはできませんが、元治元年7月19日(1864年8月20日)に起きた禁門の変(蛤御門の変)だけでも、約200人の長州藩士が討死したといいますから、おそらく、それ以上はあるだろうと思います。


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ほとんどの墓碑が西の洛中側を向いているなかで、その中心にある6士の墓碑だけが、整列している他の長州藩士を見下ろすかのように南向きに建てられています。

左から、有吉熊次郎、入江九一、寺島忠三郎、久坂玄瑞、来島又兵衛、高杉晋作の6名。

来島又兵衛以外の5人は吉田松陰の私塾・松下村塾の門下生で、高杉晋作以外の5人は、禁門の変で落命した人たちです。


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有吉熊次郎は松蔭門下生のなかでも過激派の志士で、松陰の老中間部詮勝暗殺計画にも参加し、のちに高杉らとともに御楯組を結成すると、英国公使館焼き討ちなどの過激な企てにはほとんど参加しており、あの池田屋事件ではからくも襲撃現場を脱出し、池田屋事件の生き証言としてその悲報を伝えた人物です。

しかし、同じ年の禁門の変で重傷を負い、久坂、寺島らとともに鷹司邸内で自刃します。

享年23。


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入江九一は高杉、久坂、そして別の場所に祀られていた吉田稔麿とともに、「松下村塾四天王」として松陰からその才能を高く評価されていた人物で、彼もまた、有吉と同様、松陰の老中間部詮勝暗殺計画にも参加しています。

九一は禁門の変で久坂らと共に自刃しようとしますが、久坂がそれを制止し、急ぎ帰国して藩主父子の上洛を阻止するよう依頼しされたため脱出を図りますが、直後に鷹司屋敷の裏門で待ち伏せていた福井藩兵に槍で顔を突かれ、その衝撃で両眼が飛び出し見るも無惨な死体となって転がりました。

享年28。


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寺島忠三郎はこのなかでは最も若く、松蔭に師事したときはまだ16歳でしたが、詩文に長け、松陰からは「些の頑骨あり、愛すべし」と評され、深く信頼されたといいます。

禁門の変では、共に行動していた久坂と刺し違えて落命します。

享年21。


長くなっちゃったので、残りの3人は次稿にて。





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by sakanoueno-kumo | 2018-02-27 23:34 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第8話「不吉な嫁」 ~西郷最初の妻・須賀との離縁~

 祖父の西郷龍右衛門、父の西郷吉兵衛と母のマサ(満佐・政佐)が相次いで病没した嘉永5年(1852年)、西郷吉之助(隆盛)は鹿児島城下上之園町に住んでいた伊集院兼善の長女・須賀と結婚しました。安政3年(1856年)に書かれた西郷自身の書簡に「両親よりめとらせ候妻を」と記されていることから、二人の結婚は両親の死より前だったということがわかります。しかし、二人の結婚生活は長くは続かず、安政元年(1854年)に藩主・島津斉彬江戸参勤に従って薩摩を離れるまでの、わずか2年ほどでした。


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 須賀に関しては、その人となりについてはまったく伝わっておらず、二人の夫婦生活についての逸話も何ひとつ残っていません。したがって、具体的な離縁の理由も判然としません。二人の間には何があったのでしょう?

 歴史家の家近良氏はその著書のなかで、相次いで両親が死去したことで、長男の嫁として西郷家を取り仕切る立場にたった娘の置かれた状況を見るに見かねた須賀の実家から、離縁の申し出があったのではないかと推察されています。また、歴史小説の作家・桐野作人氏は、西郷家の貧乏に原因があったのではないかと述べられています。当時の西郷家の石高は41石だったのに対して、須賀の実家の伊集院家は200石。現代でいうところの格差婚ってやつですね。貧乏人が金持ちの家に嫁ぐパターンは上手くいくでしょうが、その逆はしんどいかもしれません。今も昔も、経済的理由は離婚の大きな原因になります。


 冒頭で上述した西郷自身の書簡の前後の文言をもう少し詳しく読むと、「たとえ両親よりめとらせ候妻を(両親の)滅後追出し」云々とあります。ドラマ中、須賀が自身が嫁いできてすぐに両親が相次いで亡くなったことで、ご近所のあいだで「不吉な嫁」と噂されていると言っていましたが、偶然とはいえ、嫁いで来るや否や立て続けに不幸があったわけですから、あるいは、本当にそんな陰口を囁かれていたかもしれませんね。もしかしたら、西郷自身もそう思ったかもしれません。お由良騒動における呪詛の噂もそうですが、現代のわたしたちから見れば滑稽な迷信も、この時代の人たちにとっては深刻な問題だったでしょうから。


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 もっとも、離縁によって西郷家と伊集院家の関係が悪くなったという話はなく、その後も両家は良好な関係を保っていたようです。後年、須賀の父・伊集院兼善は明治維新後に高知県令(現在の県知事)となり、須賀の弟・伊集院兼寛大蔵官僚を経て貴族院議員となりますが、西郷はふたりと親しく交流していました。余談ですが、後年、鳥羽伏見の戦いで西郷が述べたとされる「鳥羽一発の砲声は、百万の味方を得たるよりも嬉しかりし」との有名な言葉は、兼寛がその日記に書き残したことで後世に知られるところとなった言葉です。両家の関係が芳しくなければ、このような西郷の言葉を日記に綴ることもなかったのではないかと。

 ドラマでは、西郷の江戸行の資金を作るために、須賀が自ら身を引いたという設定でしたね。もちろん、これはドラマの創作ですが、うまく話を作ったんじゃないでしょうか。実際、藩主に従って江戸に参勤することはたいへん名誉なことでしたが、その経費は、現代のサラリーマンの出張経費のように会社が出してくれることはなく、すべて自身で工面しなければなりませんでした。事実、西郷が江戸に旅立った翌年の安政2年(1855年12月、西郷家は下加治屋町の屋敷259坪を売り払っています。おそらく、西郷の江戸での活動費に充てられたのでしょうね。それほど当時の西郷家は経済的に困窮していました。須賀との離縁はやむを得なかったのかもしれません。

 西郷は生涯、この離縁を後悔していたといいます。ふたりの結婚生活の逸話がほとんど伝わっていないのも、西郷自身が、つらい思いをさせてしまった須賀に対しての罪悪感から、何も語らなかったからかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2018-02-26 01:44 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その4 「東山霊山護国神社~大村益次郎の墓」

前稿前々稿で、坂本龍馬、中岡慎太郎、木戸孝允の墓を紹介しましたが、ここ東山霊山の墓石のなかで、木戸の次に高い官位を贈られた人物といえば、大村益次郎でしょう。

その益次郎の墓が、これです。


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えっ?・・・と思うくらい小さな墓石で、写真もこのワンカットしか撮れませんでした。

この前はになっていて、思いっきり体をのけぞって広角レンズで撮ったのが、この1枚です。

はじめてこの霊山を訪れたとき、益次郎の墓が見つからずに探し回りました。

というのも、日本陸軍の創始者にして従二位まで贈られた益次郎の墓ですから、木戸ほどじゃないにしても、ある程度立派なものを想像していたんですね。

ところが、実際には無名の志士たちと変わらない扱いでひっそりと建っていて、そりゃ見つからんわ・・・と。


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というのは、実はここは正式な墓ではなく、本当の益次郎の墓は、山口県に立派なものがあるんですね。

この墓石は、いわば慰霊碑のようなもので・・・。

でも、だとしても、靖国神社に銅像がある程の人ですから、もうちょっと立派なものにしても良かったんじゃないかと・・・。


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猪突猛進型の熱血攘夷志士を多く排出した長州藩士のなかで益次郎だけは異質な存在で、蘭学者だった彼は、はじめから攘夷が不可能であることを知っていました。

もし、幕末の世に生まれていなければ、学者としてその人生を終えたことでしょう。

ところが、世情は彼の明晰な頭脳を必要としました。

桂小五郎(木戸孝允)によって見出された益次郎は、第二次長州征伐でその才能を発揮し、大政奉還後の戊辰戦争では司令官として新政府軍勝利の立役者となり、その後、太政官制における兵部省の初代大輔を務め、事実上の日本陸軍の創始者となりました。

でも、そのせいで暗殺されてしまうんですね。

武士たちの多くは、「志士は溝壑に在るを忘れず」の精神で時代を生き、死後、ここ東山霊山に名を連ねることを誉れに思っていたでしょうが、益次郎はどう思っているでしょうね。

学者のままの人生だったら、ここに墓碑が建てられることはなかったはずですから。




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by sakanoueno-kumo | 2018-02-24 11:36 | 幕末京都逍遥 | Trackback(1) | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その3 「東山霊山護国神社~木戸孝允・幾松の墓」

東山霊山のなかで、最も特別扱いとなっているのは、維新三傑のひとり、桂小五郎こと木戸孝允の墓です。

木戸は、ここ東山霊山の創建にも尽力したそうですから、当然の扱いですね。

霊山に入るとすぐに、木戸公神道碑という大きな石碑があります。


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「神道碑」とは、国家に功績のあった人物の墓所参道に建てられた碑で、その人物を顕彰する意味だそうです。


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明治維新以降、木戸の他には、大久保利通、毛利敬親、大原重徳、岩倉具視、広沢真臣、島津久光、三条実美の神道碑が、明治天皇の命により建立されたそうですが、京都に建てられたのは木戸の神道碑だけだそうです。

これを俗に「勅撰碑」ともいいます。


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木戸の墓所は、霊山のいちばん奥の最も高い場所にあります。

立派な門構えがあり、東山霊山の奥座敷といった感じです。


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「内閣顧問勲一等正二位木戸孝允墓」と刻まれています。

重厚な墓碑です。


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墓石の横には、「明治三十四年5月廿六日以特旨被追陛従一位」と刻まれた石碑がありました。

木戸が逝去したのは明治10年(1877年)ですから、没後24年経って従一位の官位が贈られたんですね。


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木戸がこの世を去ったのは、西南戦争まっただ中の明治10年(1877年)5月26日のことでした。

享年45(満43歳)。

死因は病死という以外に詳しいことはわかっていません。

元来、ナイーブな性格の人物だったようですから、幕末の動乱から新国家設立の過程で、相当な神経をすり減らして寿命を縮めたのかもしれませんね。

木戸は最後まで鹿児島の情勢を憂い、京都の別邸で朦朧状態のなか、訪れた大久保利通の手を握り締め、「西郷、もう大抵にせんか!」と叫んだのが最後の言葉だったとか。


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木戸の場所の横には、幕末に木戸を献身的に支え、維新後に正妻となった芸姑・幾松こと木戸松子の墓があります。

松子がこの世を去ったのは、木戸の死後9年経った明治19年(1886年)のことで、44歳でした。


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墓石には、「正二位」と刻まれていますね。

木戸を献身的に支えた功績ということでしょうか?

女性に与えられた官位としては最高位じゃないでしょうか?

こちらが本家本元のマツコ・デラックスですね(笑)。


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ふたりは、寄り添うように東山の奥座敷に眠っています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-02-22 23:24 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その2 「東山霊山護国神社~坂本龍馬・中岡慎太郎の墓」

東山霊山護国神社に眠る幕末の志士たちのなかで、もっとも墓参客が多い墓は、いうまでもなく坂本龍馬中岡慎太郎の墓です。

霊山までの道のりでも、いたるところに「坂本龍馬の墓」と記された案内看板がありましたから、霊山の目玉コーナー(?)といえるでしょう。


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霊山の階段を上がっていくと、「贈正四位 坂本龍馬先生 中岡慎太郎先生之墓道」と刻まれた石碑があります。

かなり古いもののようですが、両人に「正四位」が贈られたのは明治24年(1891年)のことなので、おそらく、それ以降に建てられたものでしょう。


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左が龍馬、右が慎太郎です。


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墓碑は木戸孝允(桂小五郎)が揮毫したそうです。


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二人の墓の横には、同じ時に落命した下僕・藤吉の墓もあります。

墓参に訪れる人はあまり藤吉のことを知らないのか、こちらに手を合わせる人が少ないんですよね。

いわば藤吉は二人の巻き添えをくって殺されたようなもので、気の毒な最期でした。

ここを訪れた方は、ぜひ藤吉にも手を合わせてほしいものです。


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墓参客用の説明板です。

修理してほしいですね。


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墓石の横には、両人のがあります。


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2人は暗殺された後、同じく東山にある霊明神社に葬られたそうですが、明治維新後、霊山護国神社が建立された際に霊明神社の敷地を譲り受け、現在に至るそうです。


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龍馬たちの墓は、霊山の中でもいちばん見晴らしのいい場所にあります。

下の写真は、龍馬の墓所から見た眺望。


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幕末の志士のなかではダントツ一番人気の坂本龍馬ですが、龍馬の功績に対してネガティブな意見を持つ人たちは、坂本龍馬を日本史上のスターにしたのは司馬遼太郎大罪で、実際の龍馬は、とくに大きな功績を残したわけでもなく、当時はそれほど重要視される人物ではなかった・・・といいます。

そう思う方は、一度この地に来てみてください。

ここには、幕末維新に殉じたそうそうたるメンバーの墓や慰霊碑が並んでいますが、その中で、龍馬と慎太郎の墓は、いちばん見晴らしのいい場所に、特別扱いのように葬られています。

もし、当時の坂本龍馬が、とるに足らない人物だったのであれば、こんな墓の扱いではなかったのではないでしょうか?

ここへ来ると、いつもそう思います。


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昨年、平成29年(2017年)は、龍馬と慎太郎没後150年にあたる年でした。

その命日に書いた当ブログでの拙稿がありますので、よければ一読ください。

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坂本龍馬 没後150年の命日に思う。

坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。 その1

坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。 その2

坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。 その3

坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。 その4


さて、上述したとおり、ここ東山霊山には龍馬たちのほかにも多くの幕末の志士が葬られていますが、墓参客の多くが、龍馬の墓だけを参って下山していきます。

そこで、次回からは、他の志士たちの墓所、慰霊碑を追ってみます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-02-21 22:57 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その1 「東山霊山護国神社~維新の道」

平成30年(2018年)の今年は、明治維新150年にあたります。

そこで、今回、維新胎動の舞台のとなった京都のまちを、幕末維新のみに限定してゆかりの地をめぐってみました。

幕末といえば、志士

そこで、まずはじめに幕末の動乱を生きた志士たちの墓参りをすべく、東山霊山護国神社を訪れました。


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東山霊山護国神社は、幕末、各藩がここ東山霊山にそれぞれ殉難者を祀ったのがはじまりで、その後、慶応4年(1967年)5月、明治天皇の詔により維新を目前にして倒れた志士たちの御霊を奉祀するため創建され、靖国神社よりも古いわが国初の官祭招魂社に指定されました。

以後、霊山は勤皇の志士たちの聖地となりました。


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大鳥居をくぐって霊山までの参道は、いつしか「維新の道」と称されるようになりました。

かなり急な上り坂で、明治維新までの道の厳しさが表されているといえます。

道の片隅には「維新の道」と刻まれた石碑が。

この字は、霊山顕彰会初代会長だった松下幸之助氏による揮毫だそうです。


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坂の途中にある石碑です。

「此の上に勤王志士の墳墓あり」と刻まれた石碑の横には、木戸孝允、梅田雲浜、そして坂本龍馬の名前が見られますね。

いずれも、昔の誘導看板のようなものですね。


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神社境内入口の説明板です。


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明治天皇の詔によって建てられた社殿です。


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境内には、幕末維新ミュージアム「霊山歴史館」があります。

ここは昭和45年(1970年)に、全国ではじめて幕末・明治維新期の歴史専門の博物館として開館しました。


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わたしが訪れたこの日は、今年の大河ドラマ『西郷どん』に合わせて「大西郷展」が催されていました。


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入口には西郷隆盛等身大パネルが。

一緒に写っているのは身長150cmのわたしの娘です。

西郷の身長は180cmほどの大男だったと言われています。


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こちらは坂本龍馬の等身大。

身長は172cmほどだったとされ、こちらも当時としては長身でした。


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そして、こちらはイケメンで知られる江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜

ちっちゃ!

まあ、当時としては平均身長より少し小さいくらいだったのでしょうが・・・。

それにしても、足みじかっ!


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境内東の霊山登山口の階段を少し上がると、墓の案内図があります。

次回から霊山内をめぐります。




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by sakanoueno-kumo | 2018-02-20 23:53 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

西郷どん 第7話「背中の母」 ~相次ぐ肉親の死と最初の結婚~

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 嘉永5年(1852年)、西郷吉之助(隆盛)の身辺に不幸が相次ぎます。まず、7月18日に祖父の西郷龍右衛門死去。没年齢はわかりませんが、息子の吉兵衛がこのとき47歳だったことから想定すると、この時代としては長寿70歳前後だったんじゃないでしょうか。ドラマでは温厚なおじいちゃんでしたが、実際には、どんな人だったか詳しくは伝わっていません。藩職は御台所御番という最下級のお役目で、石高も47石の小身でしたが、後年の西郷隆盛・従道兄弟大山巌の祖父にあたる人物となるわけですから、英雄のDNAを持っていたのかもしれません。

 龍右衛門の死から2ヶ月余りが過ぎた9月27日、今度は父の西郷吉兵衛が死去します。享年47。死因は病没としかわかっていません。ドラマでは突然死、いわゆるポックリ系の設定でしたね。人生50年と言われた時代ですから、それほど若死にというわけではなかったのかもしれませんが、父の龍右衛門の長寿を思えば、やはり早かったといえるでしょうか。吉兵衛の家格は御小姓与で、勘定方小頭を務めました。その人となりは詳しくは伝わっていませんが、寡黙で実直な能吏であったものとみられています。


 そして、さらに2ヶ月が過ぎた11月29日、夫の後を追うように母のマサ(満佐・政佐)が亡くなります。没年齢はわかりませんが、長男の吉之助の年齢から考えて、40代前半だったんじゃないでしょうか。自身も病気でありながら、看病にあたったのが、死期を早めたのかもしれませんね。夫同様その人となりは詳しく伝えられていませんが、四男三女を生み育て、あの英雄肌の西郷隆盛・従道兄弟の母だったわけですから、きっと、ドラマのようにおおらかな女性だったんじゃないでしょうか。


 わずか4か月余りの間に立て続けに両親と祖父を亡くした西郷。このとき彼は数えの25歳で、まさに厄年でした。父が亡くなった直後の9月の時点で吉之助の家督相続願が藩に提出され、翌嘉永6年(1853年)2月に正式に藩によって認められます。これにより、西郷はひとりで弟妹たちを支えなければならなくなりました。


e0158128_22092865.png ただ、ひとりといっても全くの独りぼっちではなく、両親が亡くなる少し前、西郷は両親の勧めで結婚していました。西郷にとって最初の妻となる須賀です。彼女についての史料は極度に乏しく、鹿児島城下上之園町に住んでいた伊集院兼善の長女で、このとき20歳だったということぐらいしかわかっていません。ネタバレになりますが、“最初の”妻と述べたとおり、二人の結婚生活は長くは続かないんですね。その理由は詳しくはわかっていませんが、ドラマでの須賀は、いかにも幸薄そうな雰囲気を漂わせていましたね。次週のタイトルは『不吉な嫁』(笑)。たしかに、彼女が嫁いできてすぐに父母が亡くなったわけですから、そう思われたかもしれません。二人の短い夫婦生活がどのように描かれるのか、楽しみにしましょう。



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by sakanoueno-kumo | 2018-02-19 19:01 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その202 「等持院」 京都市北区

シリーズ200を超えましたが、関西を中心とした『太平記』ゆかりの地は、ほぼ網羅できたんじゃないかと思っています。

というわけで、このあたりで、ひとまず一区切りにしようかな・・・と。

そこで、その節目を飾るのは、足利将軍家の菩提寺「等持院」です。


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ここ等持院は「その158」で紹介した臨済宗天龍寺派の古刹で、室町幕府を開いた足利尊氏が、興国2年/暦応4年(1341年)に「その157」で紹介した洛中の等持寺を建立し、その2年後の興国4年/康永2年(1343年)、この地に別院北等持寺を建立したことに始まるといわれます。


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開山当初は「北等持寺」と呼ばれましたが、尊氏の死後はその墓所とされ、尊氏の法名をとって「等持院」に寺号を改めたと伝わります。


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ここ等持院は紅葉の名所としても知られていますが、わたしが訪れたこの日は11月26日。

だいぶん枯れかけてはいましたが、辛うじて残っていました。


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庫裏と呼ばれる入口を潜ると、すぐに方丈(本堂)があります。


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屋根瓦には足利家の家紋(足利二つ引)が見えます。


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方丈に入るとすぐに、達磨図の衝立が目に入ります。

これ、似たような衝立が天龍寺にもありましたよね。

こちらの絵は、天龍寺の元管長で等持院の住職でもあった関牧翁の作だそうです。


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こちらは方丈から望む南側の庭園。


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方丈の回廊を奥に進むと、はなれのような建物があります。


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それがこれ、霊光殿という建物です。

実は、ここに来たいちばんの目的はここ。

この中に、尊氏が日頃念持仏として信仰していた利運地蔵菩薩(伝弘法大師作)を中心として、足利歴代の将軍木像(第5代義量と第14代義栄を除く)が、徳川家康の像と共に安置されています。

残念ながら木像の撮影は禁止だったので、建物外から中を望遠レンズでブームイン

これくらいは勘弁してください。


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左右に木像のシルエットが見えるのがわかるでしょうか?

これらの像がいつの時代に作られたものかは、説明書きなどがなかったためわかりませんでしたが、家康の像は、42歳の厄除けのために自ら作らせたものだそうです。

時代は下って幕末、文久3年(1863年)2月22日、倒幕派の志士たちによって足利尊氏・足利義詮・足利義満三代の木像の首が鴨川の河原にさらされる事件が発生しますが(足利三代木像梟首事件)、そのときの木像が、ここに安置されている木像です。

3体の首のあたりをじっくり観察しましたが、斬首された痕跡はわかりませんでした。

どうやって繋いだんでしょう?


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方丈北側に目をやると、夢窓疎石の作と伝わる見事な庭園が広がります。


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しばし庭園を散策。


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水面に映る紅葉。

ちょっと枯れかけですが。


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紅葉、紅葉、紅葉。


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庭園の一角に、「足利家十五代供養塔」と伝わる全高5m十三重塔があります。

等持院では、代々、大切に供養されてきました。


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で、庭園の片隅に樹樹に隠れるようにひっそりとある宝篋印塔

これが、尊氏の墓だそうです。


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高さ約1.5m

室町幕府の開祖の墓としては、なんと小じんまりした墓でしょう。

これまでこのシリーズで見てきた楠木正成新田義貞などの墓と比べても、ずいぶんと小さく質素なたたずまい。

どう見ても征夷大将軍の墓とは思えません。


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尊氏が死んだのは正平13年/延文3年(1358年)4月30日、自身の落胤で弟・足利直義の養子となっていた足利直冬との合戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで、洛中の等持寺で死去したと伝わります。

享年54


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『太平記』巻33「将軍御逝去事」では、尊氏の死を次のように伝えます。


病日に随て重くなり、時を添て憑少く見へ給ひしかば、御所中の男女機を呑み、近習の従者涙を押へて、日夜寝食を忘たり。懸りし程に、身体次第に衰へて、同二十九日寅刻、春秋五十四歳にて遂に逝去し給けり。さらぬ別の悲さはさる事ながら、国家の柱石摧けぬれば、天下今も如何とて、歎き悲む事無限。さて可有非ずとて、中一日有て、衣笠山の麓等持院に葬し奉る。

(病は日を追って重くなり、時とともに容態も思わしくないように見えてきたので、将軍の屋敷に仕える男女らは固唾を飲んで見守り、側近く仕える従者らは涙をこらえ、日夜寝食も忘れていました。やがて身体は次第次第に衰え、四月二十九日の寅刻(午前四時頃)、享年五十四歳にして、ついに逝去しました。それでなくても別れは悲しいものなのに、国家の柱石が砕けてしまったので、天下は今後一体どうなるのかと嘆き悲しむ限りです。しかし、いつまでも悲しんでいるわけにもいかず、中一日おいて、衣笠山の麓にある等持院に葬りました。)


ここ等持院に葬ったと伝えていますね。

さらに『太平記』はこう続けます。


哀なる哉、武将に備て二十五年、向ふ処は必順ふといへ共、無常の敵の来るをば防ぐに其兵なし。悲哉、天下を治て六十余州、命に随ふ者多しといへ共、有為の境を辞するには伴て行く人もなし。身は忽に化して暮天数片の煙と立上り、骨は空く留て卵塔一掬の塵と成にけり。

(生まれながらの武将として二十五年、向かう先は全て彼に従ってきたといえども、死を迎えるにあたってそれを防ぐ兵士はいません。悲しいかな、天下を治めて六十余州、彼の命令に従う者は多いといえども、この世を去るにあたって伴ってくれる人もいません。身は忽ちにして暮れ行く空を立ちのぼる僅かな煙となり、はかなく残った骨は僅かばかりが墓石の塵となりました。


『太平記』は南朝よりに書かれた物語ですが、尊氏の死に際しては、ひとつの時代の終わりを伝えています。


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さて、冒頭でも述べたとおり、この稿をもって『太平記を歩く』シリーズはひとまず終わりにします。

関西を中心に山陰、北陸をめぐってきた202回でしたが、日本全土に目を向けると、『太平記』ゆかりの地は、関東、東北、東海、四国、九州などにまだまだ数多くあります。

いつの日か、また続きを再開できればと思っていますが、なにぶん遠方ばかりになるため、資金と時間が許せばですが・・・。

そのときは、また、おつきあいください。




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by sakanoueno-kumo | 2018-02-17 09:02 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その201 「大光明寺陵」 京都市伏見区

北朝の光明天皇(北朝第2代天皇)、崇光天皇(北朝第3代天皇)、そしてその孫にあたる治仁親王が眠る「大光明寺陵」を訪れました。


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大光明寺とは、室町時代のはじめにこの辺りにあった臨済禅宗の寺院で、北朝の護願寺だったそうです。

現在の大光明寺陵の場所は、かつて伏見殿上御殿があった付近で、明治時代に入り、光明・崇光両天皇の遺骨は大光明寺に納められたとの一部の古記録から、かつて大光明寺のあったと伝わる付近に円丘の御陵が整備されたそうです。


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宮内庁の案内板です。

治仁親王のことを「後伏見天皇皇玄孫」と表していますね。

後伏見天皇(第93代天皇)は光厳上皇(北朝初代天皇)の父です。

なぜ、「崇光天皇の皇孫」ではいけないのか?

北朝5代の天皇が歴代天皇に数えられていないからでしょうか?


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御陵までの長い道。


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御陵が見えてきました。


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御陵です。


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光明天皇は足利尊氏の擁立で、延元元年/建武3年(1336年)に即位し、延元3年/暦応元年(1338年)には尊氏を征夷大将軍に任じて室町幕府樹立に一役買った天皇です。

後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)も、いったんはこの即位を認めましたが、その後、吉野にのがれて南朝をひらき、以後50余年にわたる南北朝対立の時代となります。

つまり、南北朝の分裂時の天皇であり、事実上、光明天皇が北朝初代の天皇という見方もできるわけです。

康暦2年/天授6年(1380年)6月24日崩御。

在位12年、宝算60歳。


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崇光天皇は正平3年/貞和4年(1348年)に譲位を受けて即位しますが、同じ頃、足利幕府内では内紛が激しくなり、正平6年/観応2年(1351年)に尊氏が南朝に下ったことで正平一統が成立し、一時的に北朝は消滅

これにより崇光天皇は廃位となります。

その後、「その197」で紹介した天野山金剛寺幽閉生活を送り、京に戻ったのちは仏門に入り、応永5年(1398年)に崩御しました。

在位3年、宝算65歳。


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ただ、前稿の山国御陵と同じく、この大光明寺陵も、宮内庁のHPで紹介されている歴代天皇陵には記載されていません。

というのも、現在の天皇家の歴史は、南朝が正統とされているからです。


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明治44年(1911年)に起きた南朝、北朝どちらが正統かという議論「南北朝正閏問題」で、「南朝正統論」を広めることこそ日本国民の道徳教育であると一部の歴史家が唱えたことにより、大逆事件などの政治問題と絡んで国会で追及された桂太郎内閣が、明治天皇(第122代天皇)の裁可を得て南朝を正統と決定しました。

これにより、北朝5代天皇は歴代天皇からは除外されてしまいます。

その後、「南朝正統論」は国策として進められ、教科書では「南北朝時代」「吉野朝時代」と改められ、政府を挙げて南朝の正統性を国民に浸透させようとしました。

ただ、それまでの明治政府は北朝を正統としてきたため、このような立派な御陵が建てられていたんですね。


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ちなみに、現在の皇室は北朝の血筋です。

もはや南朝正統論が政治的意味を持たなくなった今日、北朝5代天皇を歴代天皇に復帰させてもいいように思うんですけどね。

そうしてこその南北朝合一なんじゃないかと。




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by sakanoueno-kumo | 2018-02-15 22:40 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その200 「光厳天皇髪塔」 京都市右京区

光厳天皇(北朝初代天皇)の御陵前稿で紹介した常照皇寺にあり、「その196」で紹介した天野山金剛寺に遺髪を葬った分骨陵がありますが、「その158」で紹介した嵐山の天龍寺の東側正門前にある金剛院の境内にも、光厳天皇の髪塔があります。


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金剛院の境内といっても、嵐山の観光のメインストリート沿いにあるため、お寺の境内といった雰囲気ではありません。


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なぜ、この地に光厳天皇の遺髪が葬られたのかは、調べてみたのですが、わかりませんでした。

金剛院と天野山金剛寺が、何かつながりがあるのでしょうか?

あるいは、天龍寺を建立した足利幕府が、その境外塔頭である金剛院に持ってきたのかもしれません。

ただ、天龍寺が後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の菩提を弔うために足利尊氏によって創建された寺院であることを思えば、その真向かいに光厳天皇の遺髪を葬るというのは、どういう意図だったのでしょうね。

当人たちは、それを望んだかどうか・・・。


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「髪塔」とされていますが、現在、塔は存在せず、「髪塚」といった方が正しいかもしれません。

おそらく、かつては宝篋印塔があったのでしょう。


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前稿でも紹介したとおり、後醍醐天皇に勝るとも劣らない波乱万丈な人生を送った光厳天皇ですが、現在の天皇家の歴史は南朝が正統とされているため、歴代天皇には数えられません。

しかし、現在の皇室は北朝の血筋であり、そういうこともあってか、一応は宮内庁によって管理されています。

まあ、いわば、備考欄のような扱いですけどね。


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でも、戦前は、北朝5代天皇の存在すら学校で教えなかったといいますから、戦前教育を受けた世代の人たちには、知られていなかった天皇といえます。

戦前は逆賊あつかいだった足利尊氏が擁立した天皇ですからね。

いまでも、南北朝時代って、それほど時間を割いて教えませんよね。

そのせいもあってか、この日も、観光客でいっぱいの嵐山のメインストリート沿いにありながら、この塚の前で足を止めていたのは、わたしだけでした。




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by sakanoueno-kumo | 2018-02-14 22:30 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)