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幕末京都逍遥 その44 「西郷隆盛寓居跡(鍵直旅館跡)」

前稿で紹介した薩摩藩錦小路邸跡の石碑から200mほど東のあたりに、かつて西郷隆盛定宿だった鍵直旅館がありました。

現在、その跡地には石碑などの類は何もなく、そこにそんな歴史があることはほとんど知られていません。


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安政5年7月16日(1858年8月24日)、京都に入った西郷隆盛は、吉井友実とともに定宿鍵屋直助方に滞在しました。

その同じ日、大坂では西郷の主君でありでもある島津斉彬急逝します。

鍵直には、江戸から帰った伊地知正治、有村俊斎(海江田信義)、有馬新七らも泊まり、西郷とともに斉彬の入京をまっていました。

そして7月27日、西郷は斉彬の死の報せを聞きます。

訃報に接したのは、この場所だったかもしれません。


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西郷は悲歎のあまり殉死しようとしますが、僧・月照らに説得されて、斉彬の遺志を継ぐことを決意します。

幕末の英雄・西郷隆盛は、ここからはじまったといえるかもしれません。


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鍵直旅館跡のすぐ南には、東西400mの有名な錦市場があります。


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平安時代からつづくと言われるこの錦市場は、江戸時代には本格的な魚市場として栄えました。

薩摩屋敷もすぐ側にあり、きっと、西郷どんもこの市場を行き来したに違いありません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-28 23:31 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その43 「薩摩藩錦小路邸跡」

河原町通から700mほど西の烏丸通附近にやってきました。

まず紹介するのは、薩摩藩錦小路邸跡です。

薩摩屋敷といえば、いまの同志社大学の敷地にあった二本松藩邸が有名ですが、あちらが設けられたのは文久3年(1863年)のことで、それまでは、ここ錦小路にあった屋敷が薩摩藩の主な拠点でした。

現在、大丸百貨店の西側に、石碑のみが建ちます。


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現地説明板によると、この場所に大名の屋敷が設けられたのは16世紀末か17世記初頭からと考えられるそうで、江戸時代に多数出版され「京絵図」の類からその変遷をみると、最初は山城守松平忠国の屋敷で、17世紀末の一時期は松平下総守の屋敷になり、その後、18世紀初頭からは約160年間にわたり代々の薩摩の京屋敷だったそうです。

文久2年(1862年)4月に島津久光公武周旋のために兵1000人を率いて上洛した際も、この屋敷に入ったそうです。


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坂本龍馬勝海舟の紹介で西郷隆盛にはじめて会ったのも、ここ錦小路の屋敷だったといいます。

司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』のなかでは、こんな話がありました。

龍馬が薩摩屋敷で西郷を待つあいだに庭で鈴虫を捕らえ、訪れた西郷に虫かごを要求します。

その数ヶ月後に再び龍馬が薩摩屋敷を訪れると、虫かごのなかで鈴虫が生きていました。

でも、実は、龍馬がつかまえた鈴虫は数日後に死んでしまい、再び龍馬が訪れたときにいた鈴虫は、3代目だったんですね。

西郷、はいつ来るかわからない龍馬のために、ずっと鈴虫を世話し続けていたというエピソードです。

この話が事実かどうかはわかりませんが、西郷の誠実な人柄を感じさせてくれる話です。

その舞台が、ここ錦小路の屋敷だったわけです。


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屋敷は元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変」で焼失。

以後、薩摩藩の京都の拠点はニ本松藩邸となります。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-27 23:56 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その42 「古高俊太郎邸跡」

池田屋跡から500mほど南下した河原町通木屋町通の間の細い路地の一角に、「古高俊太郎邸跡」と刻まれた石碑が建っています。

古高俊太郎は攘夷派の志士で、池田屋事件の発端となった人物です。


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古高俊太郎は近江国大津出身で、京都に移住したのち梅田雲浜に師事し、尊皇攘夷思想を学びます。

その後、同士のひとりだった湯浅五郎兵衛の依頼で、湯浅喜右衛門の養子となり、小道具の「桝屋」を継いで枡屋喜右衛門と名乗ります。

その「桝屋」のあった場所が、このあたりだったそうです。


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現在は「しる幸」という名の料理屋があります。


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小道具の「桝屋」の主となった古高でしたが、それは表向きの仮の姿で、密かに武器を集めて尊攘派を援助するなど、諜報活動の大元締めとして活動していました。

しかし、元治元年6月5日(1864年7月8日)、新選組に踏み込まれて捕縛され、武器弾薬を押収された上に、諸藩浪士との書簡血判書が発見されてしまいます。

新選組屯所に連行された古高は、近藤勇土方歳三から直々に厳しい取り調べを受け、当初は口を閉ざしていたものの、2階から逆さ吊りにされて足の甲から五寸釘を打たれ、貫通した足の裏の釘に百目蝋燭を立てられて火をつけられるなどの過酷な拷問を受け、ついに力尽きて自白します。

その内容は、数十人が徒党して、風向きを考えた上で御所に火を放ち、佐幕派公卿の中川宮朝彦親王を幽閉して京都守護職の松平容保ら佐幕派大名を殺害し、天皇を長州へ連れ去ろうという超過激な計画で、しかも、近々市中で同志の集会があることも判明します。

その会場が、池田屋だったわけです。


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池田屋事件後も古高はに繋がれていましたが、同じ年の禁門の変の際における火災で獄舎近辺まで延焼、火災に乗じて逃亡することを恐れた役人により、判決が出ていない状態のまま他の囚人とともに斬首されました。

享年36。

現在、東山霊山には墓石があり、福勝寺には遺髪墓があります。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-26 23:59 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その41 「吉田稔麿終焉の地(山本覚馬・八重邸跡)」

「その33」で紹介した長州藩邸跡の碑のあるホテルオークラ前の三条通と河原町通の交差点を挟んで対角にあるスギ薬局の前に、「此付近 池田屋事件 吉田稔麿殉節之地」と刻まれた石碑があります。

元治元年6月5日(1864年7月8日)に起きた池田屋事件で、長州藩士・吉田稔麿がこの付近で落命したと伝えられます。


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吉田稔麿は久坂玄瑞、高杉晋作、入江九一と並んで「松下村塾四天王」と称された人物で、4人のなかではいちばん年下でした。

師の吉田松陰才気鋭敏な稔麿を高く評価しており、高杉晋作を「陽頑」と評したのに対し、稔麿を「陰頑」と形容しています。

とても無口で勤勉な性格だったようです。

池田屋事件のあった当日、稔麿は会合に出席していましたが、一度屯所に戻るために席を外し、しばらくして戻ると新撰組が池田屋の周辺を取り囲んでいたため、奮闘の末に討死したとされています。

ドラマや小説などで描かれる稔麿の最期は、池田屋襲撃の事態を長州藩邸に知らせるべく現場から離脱するも、藩邸の門は開られることなく、門前で自刃するというものが多いと思いますが、最近の説では、長州藩邸に戻っていた吉田が脱出者から異変を聞き、池田屋に向かおうとするも、この辺りで会津藩兵多数に遭遇し、討死した、とされていいます。

前者の説は、前稿で紹介した土佐藩士・望月亀弥太の最期と酷似しており、それと混同されて伝わったのかもしれません。


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石碑の別の面には、「此隣地山本覚馬 八重邸宅跡」と刻まれています。

山本覚馬は幕末の会津藩士で、明治維新後は京都府顧問、京都府議会議員(初代議長)として初期の京都府政を指導した人物で、八重はその妹で同志社英学校(現同志社大学)の創立者である新島襄の妻となった女性。

2013年NHK大河ドラマ『八重の桜』の主人公ですね。

山本覚馬は賊軍となった会津藩士だったため中央政府には出仕しませんでしたが、その能力を買われて京都府庁に出仕し、東京に遷都して荒廃しかけていた京都の活気を取り戻すために力を尽くした人物です。

説明板によると、覚馬がこの場所にいつから住み始めたかはわかりませんが、少なくとも明治8年(1875年)には居住が確認できるそうです。


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幕末、京都守護職松平容保に従って入京した覚馬でしたから、当然、池田屋事件の際には会津藩兵のひとりとして出動していたことでしょう。

あるいは、この地で吉田稔麿と闘ったのは、覚馬だったかもしれません。

覚馬は池田屋事件の報復のために長州藩兵が引き起こした元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)での負傷がもとで、のちに失明してしまいます。

その覚馬をこの地にあった邸で献身的に支えたのが、妹の八重だったんですね。

その八重の名が共に刻まれているということは、この石碑はおそらく大河ドラマの放送以降に建てられたのでしょうね。

大河ドラマの影響力は絶大です。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-25 22:55 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その40 「角倉了以別邸跡・山縣有朋別邸跡・望月亀弥太終焉伝承地」

前稿で紹介した法雲寺から南西に100mほど下った木屋町通横を流れる高瀬川の畔に、「角倉氏邸跡」と刻まれた石碑があります。

角倉氏とは、江戸時代初期の豪商・角倉了以のことで、了以は二条より鴨川の水を引いて伏見に達する高瀬川を開削し、京都伏見間の水運を開通させた人物です。

以後、江戸時代を通してこの地に角倉氏の邸があったそうですが、元治元年6月5日(1864年7月8日)に起きた池田屋事件で、土佐藩脱藩浪士の望月亀弥太が、この邸の前で自刃したと伝えられます。


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望月亀弥太は土佐勤皇党のメンバーで、同郷の坂本龍馬のとりなしで勝海舟が総監を務める神戸海軍操練所で航海術を学んでいましたが、文久3年8月18日(1863年9月30日)の八月十八日の政変で政局が一変すると、藩が土佐勤皇党のメンバーに帰国命令を出したため、脱藩して長州藩邸に潜伏していました。

そして長州藩士らと共に池田屋の集会に出席し、事件に巻き込まれます。

からくも池田屋を脱出した望月でしたが、幕府方に取り囲まれて深手を負い、かろうじて長州藩邸に辿り着いたものの中へ入ることを許されず、いったんは逃れるも、ここ角倉邸前で力尽きて切腹したと伝えられます。

享年27。


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角倉邸跡の石碑から木屋町通を挟んで東側にある「がんこ寿司」の門横には、「角倉了以別邸跡」と刻まれた石碑があります。


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ここは「高瀬川源流庭苑」とも呼ばれ、角倉了以が建設した日本庭園があった場所だそうですが、明治に入ると、山縣有朋がこの地に「第二無鄰菴」と称される別邸を建設しました。

「第二」とつくのは「無鄰菴」と名付けられた山縣邸が3ヵ所あったからで、最初の無鄰菴は山縣の郷里である長州の下関につくられ、第二の無鄰菴がここ、そして、第三の無鄰菴は京都東山の南禅寺の参道前につくられました。


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なかをのぞくと、「山縣有朋第二無鄰菴」と刻まれた石碑が見えます。


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庭園は「がんこ寿司」さんに声をかけると見学できるそうですが、何も食べずに見学だけに入るのは何となくはばかられ、門前だけで失礼しました。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-24 22:42 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

西郷どん 第15話「殿の死」 ~井伊直弼の大老就任と島津斉彬の死~

e0158128_20590455.jpg 安政5年4月23日(1858年6月4日)、彦根藩主の井伊直弼が幕府大老職に就任します。そのきかっけは、孝明天皇(第121代天皇)からの条約勅許獲得に失敗した堀田正睦が4月21日に江戸に戻り、第14代将軍・徳川家定に報告した際、堀田は松平春嶽を大老に就けてこの先対処したいと家定に述べたところ、家定は「家柄からも人物からも大老は井伊直弼しかいない」と言ったため、急遽、話が決まったといいます。


大老に就任した井伊は、6月19日に孝明天皇の勅許を得られぬまま日米修好通商条約調印します。この条約締結は周囲の反対を押し切っての井伊の専横のように思われがちですが、実は、井伊自身は熱心な尊王家で、ギリギリまで天皇の承認を得て条約を締結すべきだと訴えていました。しかし、情勢がそれを許さず、やむなく調印を認めるに至ります。尊王家としての思想を大老職としての立場が遮ったわけです。


 また、家定の将軍継嗣問題では、6月25日に紀州和歌山藩主の徳川慶福(のちの徳川家茂)を後継とする最終決定を下します。この問題ついては、井伊は予てから血筋が現将軍の家定に近い慶福を推す立場を取ってきましたが、これも、井伊の専横で決まったわけではなく、何より家定の意志に基づく決定でした。ドラマ中では、病床の家定の言葉をうまく利用して側近たちにガセ情報を流したように描かれていましたが、あれはドラマの創作ですね。井伊はそんな姑息な陰謀家ではなかったでしょう。ただ、井伊の基本的な考え方は、臣下が将軍継嗣などの問題には本来口を挟むべきではなく、あくまで将軍の意思に基づかねばならない、というものでした。その将軍・家定が慶福を強く推しているのだから、井伊にすれば、これは当然至極の決定だったわけです。


e0158128_18082794.jpg しかし、将軍・家定の岳父であり一橋派の急先鋒だった島津斉彬にとっては、この井伊の決定は許しがたいものでした。そこで斉彬は、形成逆転のプランを画策します。そのプランとは、斉彬自身が兵を率いて京都に乗り込み、勅命を奉じて幕政を改革し、公武合体を実現するというものでした。ドラマ中では、西郷吉之助(隆盛)の進言によって斉彬が上洛を決意していましたが、もちろんドラマの創作です。ここでいう「公武」とは、一般的な解釈の「朝廷」「幕府」だけを指すものではなく、この場合の「武」は、幕府と諸藩を意味しています。つまり、朝廷、幕府、諸藩三者が一体となった体制、すなわち挙国一致体制の国家構想でした。そして、その下準備のために、西郷は一足先に上洛していました。しかし、そこで西郷は、思いもしなかった報せを受けることになります。斉彬の死です。


 7月8日、斉彬は居城の鶴丸城下にあった調練場で軍事演習を敢行します。ところが、炎天下で操練を見守っていたせいか、極度の疲労状態となり、10日、11日になると高熱下痢に襲われ、16日に没します。享年50。あまりにも突然の死でした。


 その死因については、当初はコレラと診断されたそうですが、当時はまだ薩摩でコレラは流行っていなかったとして、のちに「細菌性赤痢」によるものと改められました。一方で、かつてのお由羅騒動の記憶が抜けない斉彬派の薩摩藩士たちのあいだでは、久光派による毒殺に違いないといったが当時から囁かれており、斉彬と親交のあったオランダ医・ポンペもその噂を耳にしたといいますが、当然ながら毒殺の証拠は見つかっていません。現在では学説的には否定されている毒殺説ですが、作家・海音寺潮五郎氏は毒殺説を支持しています。以下、海音寺氏の推理を抜粋します。


 『人を、しかも一藩の主を毒殺するということは、ありそうもないことと、現代人には思われる。しかし、江戸時代には往々行われている。現代になって、何かの必要があって江戸時代の諸藩主の墓を発掘した場合、遺体を調査してみると、毛髪や骨から多量の砒素が検出されることが、よくあるのである。「君は一代、お家は万代」とか、「君を以て尊しとなさず、社機をもって尊しとす」とかいうようなことばは、江戸時代の武士の常識であった。お家万代のためにならないと見れば、殿様を無理隠居させたり、巧みに毒殺したりということは、よくあったことなのである。斉形もその手にかかったと、ぼくは推理しているのである。・・・(中略)

 ぼくはこの時、斉彬に盛られた毒は亜砒酸系のものであったろうと推察している。下痢を伴う腹痛があり、心臓が衰弱するというのが、この毒薬の中毒症状である。斉彬は手製の鮨を蓋物に入れて居間の違い棚にのせているのが常であったから、これに毒薬を投ずるのはきわめて容易だったはずである。』


 毒殺かどうかはともかく、斉彬の死によって薩摩藩の舵取りは大きく変化し、西郷の運命にも大きな影響を与えることになります。歴史の「もしも」はナンセンスですが、もしも斉彬があと10年生きていれば、西郷は一介の薩摩藩士として終わったかもしれません。「お前はわしになれ!」と言ったかどうかはわかりませんが、斉彬の遺志を継いだことが、後世の大西郷の原点であったことは、間違いないでしょう。



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by sakanoueno-kumo | 2018-04-23 21:04 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その39 「久坂玄瑞・吉田稔麿等寓居跡碑(法雲寺)」

「その33」で紹介した長州藩邸跡ホテルオークラから200mほど北上したところに法雲寺というお寺があるのですが、その入口に、「久坂玄瑞 吉田稔麿等 寓居跡碑」と刻まれた石碑があります。


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長州藩邸がこの近くにあったことから、当時、このあたりには多くの長州藩士が居住しており、法雲寺もそのひとつとして使用されていました。


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文久2年(1862年)7月、久坂玄瑞は同志らと共に公武合体論者の長井雅楽殺害しようと計画しますが、失敗したため家老の浦靭負自首し、同年8月4日、謹慎処分となります。

その謹慎の場所が、ここ法雲寺だったと伝わります。

ともに謹慎となったのは、寺島忠三郎、野村和作(のち靖)、堀真五郎、福原乙之進でした。


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説明板によると、久坂らの謹慎中には、浦の家臣である秋良敦之助やその子息・秋良雄太郎赤祢幹之允(武人)、世良修蔵も慰問したほか、松島剛蔵(小田村伊之助の実兄)らも訪れています。


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また、同年7月17日には、万延元年(1860年)から亡命生活を送っていた吉田栄太郎(のちの稔磨)が、伏見街道で世子毛利定広(元徳)に自首し、ここで謹慎生活を送っています。

そのことは、久坂が萩に住む妻・杉文吉田松陰の妹)に宛てた手紙に書かれています。


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本堂です。

ここ法雲寺の伽藍は禁門の変戦火を免れたそうで、現存の本堂・書院・台所は、当時のものだそうです。

なので、ここに久坂らが居住していたということですね。


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吉田稔麿は同年閏8月13日に謹慎が解かれ、久坂らも同年9月12日に同じく謹慎が解かれ、ここを去りました。

中老の暗殺未遂でも、わずか1ヵ月余りの謹慎で済んじゃうんですね。

この緩さが、幕末の長州藩の若者を過激にしたのかもしれません。



冒頭に紹介した入口の石碑の側面には、「此南 池田屋事件 望月亀弥太終焉伝承地」と刻まれています。

次稿では、その場所を紹介します。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-22 00:49 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その38 「池田屋事変殉難志士墓所跡碑」

三条大橋を東に渡って100mほど歩いたところに、「池田屋事変殉難志士墓所跡」と刻まれた石碑が建てられています。

かつて、この場所には三縁寺」という寺があり、元治元年6月5日(1864年7月8日)に起きた池田屋事件で討死した攘夷派志士たちが葬られていました。


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事件発生後、現場に打ち捨てられたままになっていた志士たちの遺体は、ここにあった三縁寺に運び込まれました。

そのメンバーは、熊本藩の宮部鼎蔵、松田重助、長州藩の吉田稔麿、杉山松助、廣岡浪秀、土佐藩の北添佶摩、石川潤次郎、望月亀弥太、林田藩の大高又次郎の9人だったといいます。

そのうち、宮部、松田、吉田、杉山、北添、石川、大高の7人は、のちの明治政府により「殉難七士」と呼ばれるようになります。


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三縁寺は、昭和54年(1979年)に京阪電鉄三条駅前開発にともない、左京区岩倉花園町に移転したそうで、その際、志士の遺骨も発掘され、岩倉の新墓地に改葬されました。


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移転するにあたって、三縁寺と京阪電車との間で「維新史蹟池田屋事変三縁寺墓所跡」という石碑を建立するという契約が結ばれたそうですが、その後30年、建碑は行われていませんでした。

ようやくこの石碑が建てられたのは、平成22年(2010年)だったそうです。


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現在、石碑の建つ場所は、バイク置き場になっています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-20 23:37 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その37 「三条大橋擬宝珠の刀傷」

池田屋跡から西へ200mほどいったところにある三条大橋擬宝珠に、池田屋事件の際についた刀傷が残っていると知り、やってきました。


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鴨川に架かる橋は五条大橋や四条大橋などたくさんありますが、その中でも特に人通りが多い橋が三条大橋で、この日も多くの観光客や買い物客で賑わっていました。


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刀傷があるとされる擬宝珠は、西から2つめにあります。


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これがその刀傷

斜めに2本の傷があります。

まあ、刀傷として見ればそう見えますし、ただの傷といえばそうも見えます。

こういうものは、そう信じて見るしかないですね。


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事件の歳、池田屋に踏み込んだのは近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名で、他の新選組の隊士は外を固めていました。

この刀傷が誰の刀によってつけられたものかはわかりませんが、池田屋を脱出にて屋外で斬られた志士もいたので、おそらく、そのときの斬り合いでついた傷でしょうね。

まあ、本当に池田屋事件の傷ならば、ですが。

ちなみに、屋内に踏み込んだ沖田は戦闘中にに倒れて戦線から離脱し、藤堂は油断して鉢金を取ったところでを斬られ、血液が目に入って戦闘不能となり、戦線離脱していますので、おそらく2人の刀ではないでしょう。

たぶん、あまり有名どころの刀傷じゃなさそうですね。


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三条大橋は東海道五十三次の西の起点として、歴史にも多く登場する橋です。

また、三条大橋の下の三条河原は、かつては処刑場や処刑後の晒し首の場として知られたところですね。

有名なところでは、石川五右衛門釜茹でになったのもここで、豊臣秀次の一族の首や、石田三成の首もここ三条河原に晒されました。

そして幕末、慶応4年4月25日(1868年5月17日)には、関東の板橋で斬首となったあと、塩漬けにして京都まで運ばれた近藤勇の首もここに。

池田屋事件で名を馳せた近藤の首は、わずか4年足らずで200mほど先の三条河原に晒させることになったわけです。

薩長軍にしてみれば、わざわざ関東から運んでまでも、近藤の首を京都に晒すことに大きな政治的意味があったのでしょう。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-19 23:29 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その36 「池田屋跡」

木屋町通りと河原町通りの間の三条通り沿いに、「池田屋騒動之址」と刻まれた石碑があります。

説明するまでもないと思いますが、「池田屋騒動」とは、元治元年6月5日(1864年7月8日)夜、在洛の長州、土州など諸藩の尊王攘夷派志士たちが謀議中に新撰組に急襲され、乱闘のすえ多くの志士が落命した事件です。

「池田屋事件」「池田屋の変」ともいいますね。

その舞台となった旅館・池田屋があったこの地には、現在、「池田屋」の名称を掲げた居酒屋が営業しています。


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尊攘派の志士たちが池田屋で密会しているという情報を得た新選組は、京都守護職および所司代に報告し、五ツ時(午後8時)に協力して襲撃することとしますが、守護職、所司代ともに部下の援軍がなかなか来ないので、四ツ時(午後10時)、新選組の単独行動で襲撃を決行しました。

このとき、池田屋の2階に集結していた浪士たちは、宮部鼎蔵吉田稔麿、望月亀弥太ら約30名。

これに対し、新選組は、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名のみで斬り込みました。


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不意をつかれた尊攘派は懸命に応戦し、旅館の内外は大混乱となります。

近藤勇は、その夜の様子を次のように記しています。

「かねて徒党の多勢を相手に火花を散らして一時余の間、戦闘に及び候処、永倉新八郎の刀は折れ、沖田総司刀の帽子折れ、藤堂平助の刀は刃切出でささらの如く、倅周平は槍をきり折られ、下拙刀は虎徹故にや無事に御座候、藤堂は鉢金を打ち落され候より深手を受け申し候」(徒党の多勢相手に火花を散らし、一時あまりの間、戦闘におよんだところ、永倉の刀は折れ、沖田の刀は帽子折れ、藤堂の刀は刃切れ、ささらのようで、倅の周平は鑓を切り折られ、下拙(自分)の刀は名刀虎徹であるからだろうか、無事であった。藤堂は鉢鉄を撃ち落とされたので、深手を受けた)
と、戦闘の激しさを仔細に伝えたうえで、
「実にこれまで度々戦ひ候へ共、二合と戦ひ候者は稀に覚え候へ共、今度の敵多勢とは申しながら孰れも万夫不当の勇士、誠にあやふき命を助かり申候」(じつにこれまで、たびたびの戦いをしてきたが、二合わせ戦った者はまれに覚えているほどであるが、今度の敵は多勢であるとはいえ、いずれも万夫の勇者で、まことに危ういところを助かった)
と、戦った尊攘派志士たちに対しての感想を綴っています。


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戦闘のあと、守護職・所司代配下の者など約3000人が駆けつけましたが、その時には多くの志士たちの息はなく、池田屋の女将までもが命を落としました。

幸運に命が残った者は捉えられ、わずかに桂小五郎(のちの木戸孝允)、渕上郁太郎らがからくも脱出します。

小五郎は一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話していたため、襲撃時に池田屋におらず難を逃れたと言われていますが、別の話では、小五郎はこのとき屋上に出て間一髪逃げ去ったという記録もあります。


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この池田屋事件の功績によって、新選組は幕府、朝廷から感状褒賞金を下賜され、その武名は一躍、天下に轟きました。

一方、尊攘派は、宮部鼎蔵をはじめ多くの逸材を失い、大打撃を受けます。

この事件によって明治維新が1年遅れたという人もいれば、逆に、この事件が尊攘派を刺激して、維新を早めたという人もいます。

いずれにせよ、幕末の歴史を大きく動かした事件であることは間違いないでしょう。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-18 23:05 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)