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幕末京都逍遥 その65 「松林院旧跡(清浄華院)」

前稿で紹介した清浄華院の敷地内に、「松林院旧跡」と刻まれた石碑が建っているのですが、その側面には、「松平容保寄宿の地」とも刻まれています。

松林院とは、かつてこの地にあった清浄華院の塔頭寺院です。


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文久3年(1863年)、江戸幕府第14代将軍・徳川家茂が、将軍としては229年ぶりとなる上洛を果たした際、会津藩士たちの寄宿先となったのが、ここ清浄華院でした。

京都守護職を務めていた松平容保が清浄華院に入ったのは同年12月のことで、翌元治元年(1864年)5月まで松林院に滞在したそうです。

その後、容保は本陣の金戒光明寺に戻りましたが、その直後に池田屋事件が起こり、孝明天皇(第121代天皇)から御所近くに滞在するように求められ、すぐに舞い戻ってきます。

その後は、慶応3年(1867年)正月まで、この地に居座り、御所周辺の治安を守ることとなります。


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松林院は今世紀に入るまであったそうですが、平成15年(2003年)に本坊と統合され、宗教法人としては消滅してしまったそうです。

現在は、旧本堂で現・清浄華院阿弥陀堂と、のみが残っています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-31 23:28 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その64 「姉小路公知の墓(清浄華院)」

京都御苑を出て、その周辺を歩きます。

京都御苑東の清和院門を出て150mほど北西にある清浄華院の墓地に、前稿で紹介した猿ヶ辻の変(朔平門外の変)暗殺された公家の姉小路公知が眠っています。


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清浄華院は浄土宗七大本山のひとつであり、同宗の知恩院、知恩寺、金戒光明寺と並んで京都四箇本山のひとつです。

貞観2年(860)、清和天皇(第56代天皇)の勅願によって創建されたと伝わりますが、当初は別の場所にあって、天正13年(1585年)に豊臣秀吉によってこの地に移されたそうです。


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山門を潜って境内に入ると、大方丈の前に宝篋印塔と立て札が見えます。

あれが姉小路公知の墓かな・・・と近づいてみると。


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天璋院篤姫の曽祖母・智満方(春光院)の墓でした。

幕末に生きた人ではないので、説明は省きます。


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こちらは御影堂(大殿)です。


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で、こちらが姉小路公知の墓です。

墓石には、「贈参議左中将藤原公知朝臣之墓」と刻まれています。


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姉小路公知は攘夷派の公家で、安政5年(1858年)の日米和親条約締結に反対した公家たちが起こした「廷臣八十八卿列参事件」では、20歳の若さでその指導者として活躍し、その後、国事参政となってからは、三条実美とともに攘夷派の先鋒となります。

しかし、文久3年5月20日(1863年7月5日)の午後10時頃、深夜朝議からの帰途、京都朔平門外の猿ヶ辻で3人の刺客に襲われ、扇を振い、刀を奪うなどして奮戦して撃退するも、頭と胸に重傷を負い、帰邸後の翌日21日未明、自邸にて死去します。

享年25。

実行犯として薩摩藩士の田中新兵衛が捕縛されますが、新兵衛が取調中の隙を突いて自害してしまったため、真相は藪の中となりました。

公知が狙われた理由については、襲われる少し前に大坂で勝海舟と会談し、その影響によって攘夷派から開国派に転じたためだったとも言われますが、これも、推論

の域をでません。


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幕末維新を代表する公家といえば、三条実美岩倉具視を思い浮かべますが、姉小路公知がもし生きて明治を迎えていれば、その若さからも、あるいは彼らを凌ぐ存在になっていたかもしれませんね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-30 22:49 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その63 「猿ヶ辻(姉小路公知遭難跡)(京都御苑)」

京都御所北東の角付近のことを、「猿ヶ辻」といいます。

御所の鬼門にあたるため、鬼門封じとして角を落とし、築地屋根下の蟇股(かえるまた)に烏帽子姿で御幣を担いだ猿の木彫りが置かれているため、この名がついたそうです。

文久3年5月20日(1863年7月5日)、国事参政として三条実美とともに攘夷派の中心人物だった公家・姉小路公知がこのあたりで暗殺された事件があり、これを「猿ヶ辻の変」といいます(別名:朔平門外の変)。


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事件が起きたのは午後10時頃、朝議からの帰りだった公知は、このあたりで3人の刺客に襲われ、扇を振い、刀を奪うなどして奮戦して撃退するも、頭と胸に重傷を負い、帰邸後の翌日21日未明、自邸にて死去します。

享年25。

事件現場には、犯行に使われたとおぼしき刀の鞘と、犯人のものと思われる木履が遺棄されていました。

それらの遺留品から、薩摩藩士・田中新兵衛が容疑者として捕らえられます。

しかし、新兵衛は取調中に隙を見て自害してしまい、真相は藪の中となりました。


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新兵衛は「人斬り新兵衛」と呼ばれて恐れられた幕末四大人斬りのひとりであり、いわばプロのテロリストでした。

そんな新兵衛が、果たしてすぐ足がつくであろう刀の鞘を現場に置き忘れるようなミスをするだろうか・・・という疑問から、あるいは、何者かが新兵衛の刀を盗んで犯行におよび、新兵衛に容疑をかけるために、あえて現場に遺留品を残したのではないか、との見方もあります。

新兵衛が自害したのは、容疑をかけられたことではなく、愛刀を何者かに奪われてぬれぎぬを着せられたことを恥辱としてだったと。

自尊心の塊の薩摩武士なら、あり得る話でしょうね。

一説には、薩摩藩の進出を妨害しようとする長州藩の陰謀とする見方もあります。

事実、このあと薩摩藩は乾門の警備担当からはずされ、それが、同年の八月十八日の政変遠因となります。


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また、同じ攘夷派であるはずの公知が狙われた理由については、この少し前に大坂で勝海舟と会談し、その影響によって攘夷派から開国派に転じたためだったとも言われますが、これも、憶測の域を出ません。

つまり、ほとんど謎の事件なんですね。


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金網の中に、木彫りの猿がいるのがわかるでしょうか?

この猿が御所の鬼門を守る日吉山王神社の使者だそうですが、夜になると付近をうろつき、通行人にいたずらをしたそうで、そのため、金網を張って閉じ込められたのだとか。

あるいは、公知暗殺の真犯人は、このなんじゃないですか?(笑)

いずれにせよ、真相を知っているのは、この猿ヶ辻の猿だけでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2018-05-29 23:35 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第20話「正助の黒い石」 ~誠忠組突出計画と諭告書~

 今回は大久保正助(利通)が中心の話でしたね。わたしはかねてから、無理に主人公を話に絡めないでも、話の流れ的に主人公が出ない回があってもいいのではないかと言い続けてきましたが、今回はまさしく、それに当てはまる回でした。主人公である西郷吉之助(隆盛)は最初と最後に少し登場しただけ。でも、箸休めの回ではなく、重要な史実ベースの回。このチャレンジは、わたしは良かったと思います。


 安政の大獄の嵐が吹き荒れるなか、薩摩藩下級武士の有志らで結成された精忠組の面々は、脱藩して大老・井伊直弼をはじめ幕閣首脳を襲撃しようとする、いわゆる「突出」を計画します。しかし、その計画は事前に薩摩藩国父の島津久光の知るところとなり、安政6年11月5日(1859年11月28日)、藩主・島津茂久自筆で次のような諭告書が下され、暴発を思いとどまらせました。


方今、世上一統動揺、容易ならざる時節にて、万一事変到来の節は、順聖院様(島津斉彬)御深意を貫き、国家を以て忠勤をぬきんずげき心得に候。

各々有志の面々、心相心得、国家の柱石に相立ち、我等の下肖をたすけ、国名を汚さず、誠忠を尽くし呉れ候様。

ひとえに頼み存候。 よって件の如し。


精忠士面々へ 


安政六年巳未十一月五日 茂久(花押)


 簡単に言うと、「時が来れば必ず君たちの力が必要となるから、それまでは軽率な行動を慎め」ということですが、このなかで注目すべきは、彼らを「国家の柱石」とし、「精忠士」の称号を与えたことで、彼らの突出を「義挙」と認め、さらに、近い将来に全藩あげて国事活動に乗り出すと約束しています。この時代、藩主が自筆の諭告書を下級武士の直接下すことなど異例中の異例のことでした。脱藩して場合によっては死ぬつもりでいた彼らも、藩主父子にここまで言われては、突出を思いとどまらざるをえなかったでしょう。


e0158128_17375658.jpg この諭告書の発行を水面下で操っていたのが大久保だったというのがドラマの設定でしたね。これについては、海音寺潮五郎氏の著書でも同じような設定で描かれています。しかし、これが事実かどうかは定かではありません。たしかに、この時期、大久保は趣味の囲碁を通じて久光に近付こうとしていました。ただ、記録では、実際にふたりが顔を合わせたのはこの翌年のことで、この時期はまだ、久光の囲碁の対手である僧侶・吉祥院を通じての間接的な接点でしかなかったようです。あるいは、その吉祥院を通じて諭告書の発行を促したかもしれませんが、その文案まで大久保が起草したというのは、少々無理があるかもしれませんね。


 ドラマでは描かれていませんでしたが、大久保は西郷が奄美大島に流される直前、この精忠組の突出についてどう思うか、西郷に意見を求める手紙を送っています。これに対して西郷は、「憤激の余りに事を急ぎ候では、益御難を重ね奉るべく候」と、自重を求めています。この西郷の忠告によって、大久保は世の趨勢を冷静に見つめ、精忠組のリーダー的存在となっていったと・・・。なんで、これやらなかったのでしょう?


 藩主父子の諭告書によって突出を踏みとどまった精忠組は、メンバー49名の名前を書いた血判状をつけ、上申書を添えて藩主に提出したそうです。その名簿の筆頭には、その場にはいられなかった「西郷吉之助」の名が加えられました。


 こうして一旦は沈静化した精忠組の突出計画ですが、翌年の安政7年3月3日(1860年3月24日)に桜田門外の変が起きると、事態は再び緊迫します。このあたりについて次週で描かれるのか、それとも、次週はまた奄美大島に舞台を移すか・・・。わたしとしては、もう少し大久保と精忠組の動向を見たいのですが、予告編を見る限りでは次回は奄美が中心になりそうですね。



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by sakanoueno-kumo | 2018-05-28 18:17 | 西郷どん | Trackback(1) | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その62 「皇女和宮生誕の地・橋本家跡(京都御苑)」

京都御所の西側中央付近に、「皇女和宮生誕の地(橋本家跡)」と書かれた木柱が建てられています。

江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室となる和宮親子内親王は、弘化3年閏5月10日(1846年7月3日)、父が仁孝天皇(第120代天皇)、母は大納言・橋本実久の娘・経子の娘として、橋本家の屋敷があったこの地で生まれました。

孝明天皇(第121代天皇)の腹違いの妹となります。


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周知のとおり、和宮は幕府と朝廷が手を結ぶ「公武合体」の象徴として、徳川家に嫁ぎます。

「公武合体」とは、朝廷の権威を借りて幕府の権威を強固にしようという考えであり、威信が著しく落ちはじめていた幕府にとってみれば、藁をもつかむ策だったわけです。

なんとしても天皇家との縁談を成立させたい。

そこで、白羽の矢を立てられたのが、和宮でした。


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しかし、和宮は、代々親王家をつとめる有栖川家の皇子・有栖川宮熾仁親王と幼いときから婚約しており、話があった当初は、強く拒んだといいます。

しかし、兄の孝明天皇の強い意向をうけて、ついに徳川家への降嫁を承諾しました。

この婚礼は、天皇にとっても、幕政への発言権を強めるという意味では大きなメリットがあったわけです。


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文久元年10月20日(1861年11月22日)、16歳の花嫁・和宮の行列が京の都を出発。

行列は警護や人足を含めると総勢3万人に上り、行列の長さは50kmに及んだといいます。

和宮が通る沿道では、住民の外出・商売が禁じられた他、行列を高みから見ること、寺院の鐘等の鳴り物を鳴らすことも禁止され、犬猫は鳴声が聞こえない遠くに繋ぐこととされ、さらに火の用心が徹底されるなど厳重な警備が敷かれたといいます。


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徳川家大奥に入ってからも和宮は京風の生活を改めようとせず、姑の天璋院篤姫とのさまざまな確執があったとされますが、次第にわかり合い、慶応元年閏5月22日(1965年7月14日)、将軍・家茂が第二次長州征伐総大将として上方に向けて出立した際には、天璋院篤姫と共にお百度を踏んで夫の無事を祈っています。

しかし、その甲斐も虚しく家茂は大阪城にて病没

和宮は落飾し、名を静寛院宮と改めます。

わずか4年余りの結婚生活でした。


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その後、薩長軍による王政復古のクーデターが起き、戊辰戦争が始まると、徳川家の存続と前将軍・徳川慶喜助命嘆願のために天璋院篤姫と共に力を尽くします。

明治維新後は、亡き夫・家茂の生母である実成院とともに田安屋敷に移り、その後、明治2年(1869年)には京に戻りますが、明治7年(1874年)に再び東京に入り、その後は天璋院篤姫らと交流を持って穏やかな日々を過ごしますが、それも長くは続かず、明治10年(1877年)9月2日、脚気衝心のためにこの世を去ります。

32歳という若さでした。

当初、政府は葬儀を皇室に合わせて神式で行う予定でしたが、「家茂の側に葬って欲しい」という和宮の遺言を尊重するかたちで仏式で行われ、墓所は増上寺の家茂の側に葬られました。

徳川家歴代将軍のなかで、夫婦2人の墓が並ぶのは、天璋院篤姫と和宮の2組だけだそうです。

政局に利用され、思いもよらない人生を歩むことになった和宮でしたが、徳川家最後の御台所として、誇り高き最後を迎えたといえるのかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-26 09:51 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その61 「凝華洞跡(京都御苑)」

京都御所建礼門の南側にあったとされる凝華洞跡を訪れました。

ここは、かつて会津藩主の松平容保が、仮宿舎とした場所と伝えられます。


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元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変」(蛤御門の変)の際、京都御所を守っていたのは会津藩と薩摩藩でした。

その会津藩主の松平容保は、当時、京都守護職を務めていたので、事実上、薩会軍の大将だったわけです。


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ところが、容保は禁門の変の半年ほど前からを患っており、変当日も、両肩を家臣に抱えられながらの戦だったといいます。

そのため、朝廷の配慮によって凝華洞を仮宿舎としたそうです。

凝華洞は、江戸時代中期の後西天皇(第111代天皇)が、退位後の仙洞御所とした場所だそうで、そのような場所を仮宿舎として容保に与えたことからみても、孝明天皇(第121代天皇)が、いかに容保を頼りにしていたかがうかがえます。


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現在、凝華洞跡は小高い丘になっており、松の大樹が聳えます。

樹齢はわかりませんが、あるいは、往時を知っているかもしれません。


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凝華洞跡のすぐ北側に、御所南側の正門「建礼門」が見えます。

文久3年(1863年)の八月十八日の政変の際、かけつけた壬生浪士組がこの門を警護し、その功から、3日後の8月21日に「新選組」の名を賜ったとされるゆかりの門です。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-25 01:25 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その60 「中山邸跡(明治天皇生誕の地)(京都御苑)」

京都御所の北東にある、「中山邸跡」にやってきました。

ここは、幕末期の公卿、権大納言・中山忠能の邸があった場所です。


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中山忠能は、はじめは攘夷派の公卿として、「その58」で紹介した「廷臣八十八卿列参事件」にも中心人物として加わっていました。

しかし、その後、議奏となってからは公武合体派に身を転じ、孝明天皇(第121代天皇)の妹・和宮降嫁にも尽力しました。

その経緯から、和宮の江戸下向に随行しますが、これが一部の過激な尊皇攘夷派志士からの憤激を生み、議奏を辞職します。


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同じ頃、息子の中山忠光は尊皇攘夷派志士と交わって公武合体派の排除を画策し、天誅組の主将として大和にて挙兵しますが、幕府軍の攻撃によって敗れると、長州へ逃れた後、暗殺されました。


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父・忠能は、その翌年に起きた禁門の変(蛤御門の変)の際には長州藩を支持し、孝明天皇の怒りを買って処罰されます。

しかし、孝明天皇崩御後に復帰し、慶応3年(1867年)には討幕の密勅明治天皇(第122代天皇)から出させることにも尽力し、その後も岩倉具視らと協力して王政復古の大号令を実現させます。

将軍・徳川慶喜および徳川家の処置を定めた「小御所会議」では、司会も務めました。

中山忠能・忠光父子は、幕末の公卿のなかでは、珍しく気骨ある人物でした。

「安政の大獄」で処刑された福井藩士・橋本左内は、忠能のことを、「卓然たる人物で、学なけれども頗る才略あり」と評しています。


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ちなみに、忠能の娘の慶子孝明天皇(第121代天皇)の典侍となり、孝明天皇の第二皇子・祐宮を産みます。

その子が、のちに明治天皇(第122代天皇)となります。

嘉永5年9月22日(1852年11月3日)、明治天皇はここ中山邸の敷地内にあった産屋で生まれました。

産屋は、慶子の出産にあたり御産所として新築したものだそうで、現在も残されているそうですが、中山邸跡の敷地内には入れないため、外から眺めるだけです。


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敷地内には、「明治天皇生誕の地」と刻まれた柱が建てられています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-24 23:47 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

日大アメフト部の悪質タックル騒動に思う。

日本大学アメリカンフットボール部の悪質タックルの問題が連日話題になっていますね。

わたしはアメフトという競技にまったく知識がなく、今回のようなラフプレイが極めてあり得ないことなのか、それとも、今回のプレイがあまりにも露骨すぎただけで、似たような反則ギリギリのプレイは頻繁に行われていることなのか、門外漢のわたしにはわかりません。

ただ、ハイレベルなスポーツの世界において、必ずしもフェアプレイが絶対でないことは想像できます。

例えば野球では、相手チームの強打者を潰すためにビーンボールとも言える厳しい内角攻めを行うのは常套手段だといいますし、実際、元西武ライオンズ名球会入りを果たした東尾修投手は、ビーンボールの投球経験を自ら認めています。

クルトスワローズ古田敦也捕手も、何度も投手にビーンボールを要求して乱闘騒ぎを起こしていますし、自身も、その報復で頭にぶつけられています。

また、サッカーでも、ボールをキープしていない選手に潰しともとれるファールを行い、レッドカードを食らった選手は数多くいます。

今回の騒動で、元プロ野球選手Jリーガーの肩書きを持つキャスターが、神妙な顔つきで日大の悪質タックルを批判する姿を見ると、正直、失笑してしまいます。

お前ら、どの口がそれ言ってんねん!・・・と。


ただ、今回の問題は、そのあとの対応にあるとわたしは思います。

今回のラフプレイの是非はともかく、日大アメフト部は、この反則作戦に失敗しました。

作戦の失敗の責任は兵卒ではなく指揮官にあります。

今回の悪質タックル問題の責任は、すべて内田正人前監督にあると断言していいでしょう。

作戦に失敗した指揮官は、その責任を取って腹を切るのが武士道です。

ところが、この内田という指揮官は、口では自身の責任だと言いながら、実際には自身の保身のみに執着してその責任を兵卒である選手や直属の部下であるコーチに擦り付けようとしています。

見苦しいですね。


まだ子供と言ってもいい若干20歳の当事者の選手が、あれほど潔く自身の罪を認め、包み隠さず誠意をこめて真実を語ったのに対し、本来若者の模範となるべき地位名声もある立派な大人が、自身の保身のみに執着して嘘で固めた発を続ける。

同じ大人として、恥ずかしい限です。

でも、裏を返して言えば、若者と違って大人は、たとえ見え透いた嘘をつき通してでも守らなければならないしがらみを背負っているということかもしれません。

そう考えれば、人は大人になればなるほど、汚れていということですね。

ということは、人の世は性善説が正しいということでしょうか?


いずれにせよ、今回の騒動で、ひとりの前途ある若の人生に傷を残す結果となったことは間違いありません。

相手チームのクオーターバックを潰という指示は、同時にその選手のことも潰すことになるという認識が、内田前監督や井上コーチにあったかどうか・・・。

無様な会見で醜態をさらした指揮官ですが、今後、世論が彼らを潰すことになるでしょう。

あまりにも大きな代償を払う結果となったタックルでしたね。

せめて、その後始末ぐらいは、至誠を尽くしてあたってほしいものです。



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by sakanoueno-kumo | 2018-05-23 23:32 | 時事問題 | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その59 「近衛邸跡(京都御苑)」

京都御苑の北西の端にある、「近衛邸跡」を訪れました。

近衛家は藤原氏の流れをくむ藤原北家近衛流の嫡流にあたり、五摂家(近衛、鷹司、九条、一条、二条)のひとつです。

「幕末」と呼ばれる時代の当主は近衛忠煕で、前稿で紹介した九条尚忠のあと、関白に就任します。


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幕府第13代将軍・徳川家定の正室となった天璋院篤姫は、近衛忠煕の養女となったあと、徳川家に嫁ぎました。

篤姫は薩摩藩島津家の分家・今和泉島津家の出身で、将軍家に嫁ぐため、まずは本家で薩摩藩主の島津斉彬の養女となり、名を源篤子と改め、その後、江戸に向かう途中に京都に立ち寄り、近衛忠煕の養女となって、名を藤原敬子と改めます(この際、の名は君号となり、篤君(あつぎみ)となりました)。


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篤姫が忠煕の養女となったのは、忠煕の正室が斉彬の姉・郁姫だった縁からでした。

篤姫が京都に滞在したのは1週間ほどだったといいますが、たぶん、ここ近衛邸に滞在したのでしょうね。

ちなみに、篤姫の教育係で知られる幾島は、もとは忠煕の正室・郁姫付きの上臈だった女性で、ここ近衛邸で共に暮らしていました。


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近衛忠煕は安政4年(1857年)に左大臣となりますが、将軍継嗣問題一橋派に属し、戊午の密勅のために献策したため、「安政の大獄」により失脚し、落飾して謹慎に追い込まれます。

その後、復帰して関白に就任しますが、翌年に辞職し、以後は孫の養育に専念し、明治31年(1898年)、90歳まで長寿します。


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近衛邸跡にある池の畔には、「糸桜」と呼ばれる樹齢60年の枝垂れ桜があります。

ここを訪れたのは7月だったので、桜の写真はありません。

きっと綺麗なんでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2018-05-22 23:45 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

西郷どん 第19話「愛加那」 ~奄美大島に対する苛政~

 奄美大島に流された当初の西郷吉之助(隆盛)は、島の生活に馴染めず苛立ち戸惑いに満ちた日々を送っていたようで、島民に対してもあまり良い感情を抱いていなかったようですが、一方で、島民に対する薩摩藩の不当な処遇を目の当たりにし、義憤を覚えるようになります。西郷が本土の大久保利通税所篤に宛てた安政6年2月13日(1859年3月17日)付の書簡には、次のように記されています。


「何方においても苛政の行われ候儀、苦心の至りに御座候。当島の体誠に忍びざる次第に御座候。松前の蝦夷人さばきよりはまだ甚敷御座候次第、苦中の苦、実に是程丈けはこれある間敷と相考え居り候処驚き入る次第に御座候」


曰く、「北海道松前藩によるアイヌ民族に対する政策よりもひどいもので、忍びざるを得ない。これほど酷い扱いだったとは思ってもみず、実に驚いた。」と。


 薩摩藩が奄美大島での砂糖の生産に介入するようになったのは、元禄年間(1688年~1704年)頃からだとされています。それまでは、年貢で納められた砂糖を他藩に売り捌いて藩の利益としていましたが、極度の藩財政の悪化に直面し、島民に対して過酷な砂糖生産のノルマを課すようになっていきます。さらに19世紀に入ると、第8代藩主の島津重豪放漫財政によってさらに財政は悪化。それを立て直すべく調所笑左衛門広郷が登用されると、その財政改革の一環として、奄美大島、喜界島、徳之島の三島での砂糖の総買い入れ制を布きます。つまり専売制ということですね。これにより薩摩藩は莫大な利益をあげることになりますが、島民に対する処遇はいっそう悲惨さを増すことになります。


 島民の砂糖は法外に安く買い上げられ、一方で、本土からの物品は市場の5倍から10倍といった法外な高値で藩から配当されました。そのため、島民は老いも若きも日の出から日没までも働き詰めで、にも関わらず、食べるものもままならず、有害な蘇鉄を食糧にしていたといいます。「働き方改革」「最低賃金」もありません。ほとんど植民地の奴隷状態ですね。ドラマで、前藩主・島津斉彬民のための善政を主張する西郷に対して、「わたしらは、民のうちにはいってなかったんだ」という愛加那の台詞がありましたが、まさしく、薩摩藩にとって島民は「民」ではなかったのでしょう。


 また、藩の役人や島在中の役人の暴力を伴う圧政と、私腹を肥やすためのごまかしも酷かったようで、血気盛んな西郷が怒りを顕にしたといいます。終生、不正を心底毛嫌いした西郷ですからね。当然の怒りだったでしょう。現に、西郷が悪代官を懲らしめたというエピソードが残されています。


e0158128_15135174.jpg 島での暮らしも半年以上が過ぎた安政6年11月8日(1859年12月1日)、島で西郷の身の回りの世話をしていた龍家の娘と結婚します。ドラマでは「とぅま」という名で呼ばれていましたが、幼名は於戸間金(おとまがね)といい、「於」は尊称、「金」は加那の古称なので、名は「とま」といいました。ドラマのとおり、結婚時に西郷が「愛」の名を与え、愛加那と名を変えます。


 ドラマで、「わたしをアンゴにしてほしい」と愛加那が言っていましたが、「アンゴ」とは「島妻」という意味です。つまり、島にいる間だけの現地妻ということですね。これに対して西郷は、島妻ではなく本妻になってくれと言っていましたが、そこはドラマですからね。実際には、やはり島妻であり、決して対等な立場での結婚ではありませんでした。現に、結婚後3年近くが経過した頃の西郷の書簡に、愛加那のことを「召し使い置き候女」と記しています。島妻は相手の男が本土に帰ると、同行できません。それでも、西郷は、結婚したあとも復権して鹿児島へ帰ることを期待し続けました。西郷にとって愛加那は、最初から現地妻だったんですね。


 ただ、これを非情だとするのは、現代人の感覚ですね。当時、島に流された武士が島妻を娶るのは普通のことで、島妻を差し出す側も、それなりの見返り、利益供与があったとされます。まあ、そう言ってしまうと、ドラマにはなりませんが。


 いずれにせよ、島妻とはいえ、愛加那との結婚で西郷の心身はずいぶん癒やされたようで、西郷は愛加那を心から愛しんだといいます。波乱万丈の西郷の人生のなかで、束の間の安らぎの時間でした。


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by sakanoueno-kumo | 2018-05-21 15:18 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)