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幕末京都逍遥 その61 「凝華洞跡(京都御苑)」

京都御所建礼門の南側にあったとされる凝華洞跡を訪れました。

ここは、かつて会津藩主の松平容保が、仮宿舎とした場所と伝えられます。


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元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変」(蛤御門の変)の際、京都御所を守っていたのは会津藩と薩摩藩でした。

その会津藩主の松平容保は、当時、京都守護職を務めていたので、事実上、薩会軍の大将だったわけです。


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ところが、容保は禁門の変の半年ほど前からを患っており、変当日も、両肩を家臣に抱えられながらの戦だったといいます。

そのため、朝廷の配慮によって凝華洞を仮宿舎としたそうです。

凝華洞は、江戸時代中期の後西天皇(第111代天皇)が、退位後の仙洞御所とした場所だそうで、そのような場所を仮宿舎として容保に与えたことからみても、孝明天皇(第121代天皇)が、いかに容保を頼りにしていたかがうかがえます。


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現在、凝華洞跡は小高い丘になっており、松の大樹が聳えます。

樹齢はわかりませんが、あるいは、往時を知っているかもしれません。


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凝華洞跡のすぐ北側に、御所南側の正門「建礼門」が見えます。

文久3年(1863年)の八月十八日の政変の際、かけつけた壬生浪士組がこの門を警護し、その功から、3日後の8月21日に「新選組」の名を賜ったとされるゆかりの門です。


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by sakanoueno-kumo | 2018-05-24 01:25 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

日大アメフト部の悪質タックル騒動に思う。

日本大学アメリカンフットボール部の悪質タックルの問題が連日話題になっていますね。

わたしはアメフトという競技にまったく知識がなく、今回のようなラフプレイが極めてあり得ないことなのか、それとも、今回のプレイがあまりにも露骨すぎただけで、似たような反則ギリギリのプレイは頻繁に行われていることなのか、門外漢のわたしにはわかりません。

ただ、ハイレベルなスポーツの世界において、必ずしもフェアプレイが絶対でないことは想像できます。

例えば野球では、相手チームの強打者を潰すためにビーンボールとも言える厳しい内角攻めを行うのは常套手段だといいますし、実際、元西武ライオンズ名球会入りを果たした東尾修投手は、ビーンボールの投球経験を自ら認めています。

クルトスワローズ古田敦也捕手も、何度も投手にビーンボールを要求して乱闘騒ぎを起こしていますし、自身も、その報復で頭にぶつけられています。

また、サッカーでも、ボールをキープしていない選手に潰しともとれるファールを行い、レッドカードを食らった選手は数多くいます。

今回の騒動で、元プロ野球選手Jリーガーの肩書きを持つキャスターが、神妙な顔つきで日大の悪質タックルを批判する姿を見ると、正直、失笑してしまいます。

お前ら、どの口がそれ言ってんねん!・・・と。


ただ、今回の問題は、そのあとの対応にあるとわたしは思います。

今回のラフプレイの是非はともかく、日大アメフト部は、この反則作戦に失敗しました。

作戦の失敗の責任は兵卒ではなく指揮官にあります。

今回の悪質タックル問題の責任は、すべて内田正人前監督にあると断言していいでしょう。

作戦に失敗した指揮官は、その責任を取って腹を切るのが武士道です。

ところが、この内田という指揮官は、口では自身の責任だと言いながら、実際には自身の保身のみに執着してその責任を兵卒である選手や直属の部下であるコーチに擦り付けようとしています。

見苦しいですね。


まだ子供と言ってもいい若干20歳の当事者の選手が、あれほど潔く自身の罪を認め、包み隠さず誠意をこめて真実を語ったのに対し、本来若者の模範となるべき地位名声もある立派な大人が、自身の保身のみに執着して嘘で固めた発を続ける。

同じ大人として、恥ずかしい限です。

でも、裏を返して言えば、若者と違って大人は、たとえ見え透いた嘘をつき通してでも守らなければならないしがらみを背負っているということかもしれません。

そう考えれば、人は大人になればなるほど、汚れていということですね。

ということは、人の世は性善説が正しいということでしょうか?


いずれにせよ、今回の騒動で、ひとりの前途ある若の人生に傷を残す結果となったことは間違いありません。

相手チームのクオーターバックを潰という指示は、同時にその選手のことも潰すことになるという認識が、内田前監督や井上コーチにあったかどうか・・・。

無様な会見で醜態をさらした指揮官ですが、今後、世論が彼らを潰すことになるでしょう。

あまりにも大きな代償を払う結果となったタックルでしたね。

スポーツであれ戦争であれ、無能な指揮官ほど害になるものはありません。

せめて、その後始末ぐらいは、至誠を尽くしてあたってほしいものです。



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by sakanoueno-kumo | 2018-05-23 23:32 | 時事問題 | Trackback | Comments(1)  

幕末京都逍遥 その59 「近衛邸跡(京都御苑)」

京都御苑の北西の端にある、「近衛邸跡」を訪れました。

近衛家は藤原氏の流れをくむ藤原北家近衛流の嫡流にあたり、五摂家(近衛、鷹司、九条、一条、二条)のひとつです。

「幕末」と呼ばれる時代の当主は近衛忠煕で、前稿で紹介した九条尚忠のあと、関白に就任します。


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幕府第13代将軍・徳川家定の正室となった天璋院篤姫は、近衛忠煕の養女となったあと、徳川家に嫁ぎました。

篤姫は薩摩藩島津家の分家・今和泉島津家の出身で、将軍家に嫁ぐため、まずは本家で薩摩藩主の島津斉彬の養女となり、名を源篤子と改め、その後、江戸に向かう途中に京都に立ち寄り、近衛忠煕の養女となって、名を藤原敬子と改めます(この際、の名は君号となり、篤君(あつぎみ)となりました)。


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篤姫が忠煕の養女となったのは、忠煕の正室が斉彬の姉・郁姫だった縁からでした。

篤姫が京都に滞在したのは1週間ほどだったといいますが、たぶん、ここ近衛邸に滞在したのでしょうね。

ちなみに、篤姫の教育係で知られる幾島は、もとは忠煕の正室・郁姫付きの上臈だった女性で、ここ近衛邸で共に暮らしていました。


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近衛忠煕は安政4年(1857年)に左大臣となりますが、将軍継嗣問題一橋派に属し、戊午の密勅のために献策したため、「安政の大獄」により失脚し、落飾して謹慎に追い込まれます。

その後、復帰して関白に就任しますが、翌年に辞職し、以後は孫の養育に専念し、明治31年(1898年)、90歳まで長寿します。


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近衛邸跡にある池の畔には、「糸桜」と呼ばれる樹齢60年の枝垂れ桜があります。

ここを訪れたのは7月だったので、桜の写真はありません。

きっと綺麗なんでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2018-05-22 23:45 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

西郷どん 第19話「愛加那」 ~奄美大島に対する苛政~

 奄美大島に流された当初の西郷吉之助(隆盛)は、島の生活に馴染めず苛立ち戸惑いに満ちた日々を送っていたようで、島民に対してもあまり良い感情を抱いていなかったようですが、一方で、島民に対する薩摩藩の不当な処遇を目の当たりにし、義憤を覚えるようになります。西郷が本土の大久保利通税所篤に宛てた安政6年2月13日(1859年3月17日)付の書簡には、次のように記されています。


「何方においても苛政の行われ候儀、苦心の至りに御座候。当島の体誠に忍びざる次第に御座候。松前の蝦夷人さばきよりはまだ甚敷御座候次第、苦中の苦、実に是程丈けはこれある間敷と相考え居り候処驚き入る次第に御座候」


曰く、「北海道松前藩によるアイヌ民族に対する政策よりもひどいもので、忍びざるを得ない。これほど酷い扱いだったとは思ってもみず、実に驚いた。」と。


 薩摩藩が奄美大島での砂糖の生産に介入するようになったのは、元禄年間(1688年~1704年)頃からだとされています。それまでは、年貢で納められた砂糖を他藩に売り捌いて藩の利益としていましたが、極度の藩財政の悪化に直面し、島民に対して過酷な砂糖生産のノルマを課すようになっていきます。さらに19世紀に入ると、第8代藩主の島津重豪放漫財政によってさらに財政は悪化。それを立て直すべく調所笑左衛門広郷が登用されると、その財政改革の一環として、奄美大島、喜界島、徳之島の三島での砂糖の総買い入れ制を布きます。つまり専売制ということですね。これにより薩摩藩は莫大な利益をあげることになりますが、島民に対する処遇はいっそう悲惨さを増すことになります。


 島民の砂糖は法外に安く買い上げられ、一方で、本土からの物品は市場の5倍から10倍といった法外な高値で藩から配当されました。そのため、島民は老いも若きも日の出から日没までも働き詰めで、にも関わらず、食べるものもままならず、有害な蘇鉄を食糧にしていたといいます。「働き方改革」「最低賃金」もありません。ほとんど植民地の奴隷状態ですね。ドラマで、前藩主・島津斉彬民のための善政を主張する西郷に対して、「わたしらは、民のうちにはいってなかったんだ」という愛加那の台詞がありましたが、まさしく、薩摩藩にとって島民は「民」ではなかったのでしょう。


 また、藩の役人や島在中の役人の暴力を伴う圧政と、私腹を肥やすためのごまかしも酷かったようで、血気盛んな西郷が怒りを顕にしたといいます。終生、不正を心底毛嫌いした西郷ですからね。当然の怒りだったでしょう。現に、西郷が悪代官を懲らしめたというエピソードが残されています。


e0158128_15135174.jpg 島での暮らしも半年以上が過ぎた安政6年11月8日(1859年12月1日)、島で西郷の身の回りの世話をしていた龍家の娘と結婚します。ドラマでは「とぅま」という名で呼ばれていましたが、幼名は於戸間金(おとまがね)といい、「於」は尊称、「金」は加那の古称なので、名は「とま」といいました。ドラマのとおり、結婚時に西郷が「愛」の名を与え、愛加那と名を変えます。


 ドラマで、「わたしをアンゴにしてほしい」と愛加那が言っていましたが、「アンゴ」とは「島妻」という意味です。つまり、島にいる間だけの現地妻ということですね。これに対して西郷は、島妻ではなく本妻になってくれと言っていましたが、そこはドラマですからね。実際には、やはり島妻であり、決して対等な立場での結婚ではありませんでした。現に、結婚後3年近くが経過した頃の西郷の書簡に、愛加那のことを「召し使い置き候女」と記しています。島妻は相手の男が本土に帰ると、同行できません。それでも、西郷は、結婚したあとも復権して鹿児島へ帰ることを期待し続けました。西郷にとって愛加那は、最初から現地妻だったんですね。


 ただ、これを非情だとするのは、現代人の感覚ですね。当時、島に流された武士が島妻を娶るのは普通のことで、島妻を差し出す側も、それなりの見返り、利益供与があったとされます。まあ、そう言ってしまうと、ドラマにはなりませんが。


 いずれにせよ、島妻とはいえ、愛加那との結婚で西郷の心身はずいぶん癒やされたようで、西郷は愛加那を心から愛しんだといいます。波乱万丈の西郷の人生のなかで、束の間の安らぎの時間でした。


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by sakanoueno-kumo | 2018-05-21 15:18 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その58 「九条邸跡(京都御苑)」

前稿で紹介した「鷹司邸跡」の西隣にあった「九条邸跡」を訪れました。

九条家は藤原氏の流れをくむ鎌倉時代の公卿・九条兼実を祖とする家系で、五摂家(近衛、鷹司、九条、一条、二条)のひとつです。

「幕末」と呼ばれる時代の当主は九条尚忠で、前稿で紹介した鷹司政通のあと、関白に就任します。


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安政5年(1858年)の日米和親条約締結にあたり、関白だった尚忠は幕府との協調路線を推進して条約許可を求めますが、不安をつのらせた若手の攘夷派公家たちの猛烈な反発を受け、中山忠能をはじめとする合計88名の攘夷派公家たちが、ここ九条邸前で抗議の座り込みを行いました。

いわゆる「廷臣八十八卿列参事件」です。

その中に、下級公家だった岩倉具視がいました。


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と称して参内を辞退した九条尚忠に対して、岩倉は面会を申し込みますが、同家の家臣たちは病を理由にこれを拒否。

しかし、岩倉は面会するまでこの場を動かず、根負けした尚忠は、明日返答する旨を岩倉に伝えました。

岩倉が九条邸を退去したのは午後10時を過ぎていたといいます。

その結果、孝明天皇(第121代天皇)は条約締結反対の立場を明確にし、以後、幕府からの勅許の要請を頑なに拒否することとなります。


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勅許を得られなかった責任を取る形で、幕府老中の堀田正睦は辞職に追い込まれ、孝明天皇の怒りを買った関白・九条尚忠も内覧職権を一時停止されました。

しかし、その後、幕府は大老・井伊直弼の独断で条約を締結し、同年、「安政の大獄」を開始。

88人の公家の中からも、多くの処罰者が出ることになります。


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現在、九条邸跡には九条池と呼ばれる池があり、美しい庭園が残されています。


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池の向こうに見える2階建ての建物は、茶室の「拾翠亭」です。

およそ200年前の江戸時代後期に建てられたものと伝えられています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-19 23:42 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その57 「鷹司邸跡(京都御苑)」

京都御苑内南端にある「鷹司邸跡」にやってきました。

鷹司家は鎌倉期に藤原氏から分かれた公家で、五摂家(近衛、鷹司、九条、一条、二条)のひとつです。

「幕末」と呼ばれた時代、鷹司政通・輔煕父子が関白を務めていました。


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鷹司政通は、文政6年(1823年)に関白となり、以後、黒船来航から日米和親条約締結後の安政3年(1856年)まで30年以上関白を勤めました。

孝明天皇(第121代天皇)からの信頼も厚く、関白を退いたあとも、異例の太閤の称号を贈られます。

当初は開国論に立って日米和親条約締結を主張する立場をとりますが、開国政策に不安をつのらせた若手の攘夷派公家たちが「廷臣八十八卿列参事件」を起こすと、一転して攘夷派となります。

これが幕府の怒りに触れるところとなり、「安政の大獄」に連座して落飾し、出家します。


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政通の子・輔煕も「安政の大獄」で処分されて出家しますが、その後、赦免されて還俗し、文久3年(1863年)には近衛忠煕の後を受けて関白に就任します。

しかし、同年に起きた「八月十八日の政変」三条実美らの帰京の運動をしたため、12月に免じられます。


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また、翌年に起きた「禁門の変」(蛤御門の変)に際しては、ここ鷹司邸に久坂玄瑞寺島忠三郎ら長州藩兵が立て篭もりました。

ギリギリまで慎重論を主張していた久坂は、戦いが始まってもなお、朝廷への嘆願をあきらめておらず、鷹司邸に入って孝明天皇への取り次ぎをすがりますが、輔煕はこれを拒絶。

このときすでに玄瑞の部隊は包囲されており、万策尽きた玄瑞は、共に行動していた同じ松下村塾同門の寺島忠三郎と邸内で刺し違えて自刃します。

玄瑞は自刃する直前、同じく腹を斬ろうとしていた同門の入江九一を制止し、急ぎ帰国して藩主父子の上洛を阻止するよう依頼しますが、不運にもその九一も、直後に鷹司邸の裏門で待ち伏せていた福井藩兵に槍で顔を突かれ、その衝撃で両眼が飛び出し、見るも無惨な死体となって転がりました。

玄瑞25歳、忠三郎22歳、九一は28歳でした。


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その後、鷹司邸は火を放たれて焼失します。

一説には、「どんどん焼け」と呼ばれる禁門の変時に発生した京都の過半を焼き尽くした火災は、ここ鷹司邸からはじまったとも言われます。

変の翌日に西郷隆盛大久保利通に宛てた書簡には、鷹司邸内へ逃げ込んだ長州兵を砲撃で火攻めにしたところ、堪りかねて敵兵は早々に逃げ去ったと記されています。

それが本当なら、京都まちを焼き尽くしたのは西郷ということになりますね。

まあ、それだけではなかったんでしょうけど。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-18 22:47 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その56 「清水谷家の椋(京都御苑)」

前稿で紹介した蛤御門を潜って100mほど東へ進んだ御所の南西の角のあたりに、「清水谷家の椋」と呼ばれるムクノキの巨樹があります。

元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変」(蛤御門の変)の際、長州藩の豪傑・来島又兵衛が、この木の下で自刃したと伝えられます。


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「清水谷家の椋」という名称は、この木のあたりに公家の清水谷家の屋敷があったことに由来します。

幹周は約4mあり、樹齢約300年と言われています。


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長州藩きっての武闘派として知られる来島又兵衛は、若年者が多かった幕末の長州藩士のなかでは、長老格でした。

何より猛々しさを重んじる又兵衛は、幕末より戦国時代に生まれたほうが似つかわしい人物で、藩士からの人望も厚かったようです。

禁門の変に際して、ギリギリまで慎重論を主張する久坂玄瑞に対して、怒気を飛ばして論破したのがこの又兵衛で、その気質のとおり、彼が強硬派の急先鋒でした。

変当日の又兵衛は、風折烏帽子に先祖伝来の甲冑を着込み、自ら遊撃隊600名の兵を率いて会津藩の守る蛤御門に猛然と攻めかけます。


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勇猛果敢な又兵衛の突撃によって、一時は長州軍が押しまくる展開となりましたが、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢は逆転

その薩摩藩兵の指揮官は、西郷吉之助(隆盛)でした。

西郷は馬上の又兵衛さえ討てば長州軍は撹乱すると見、配下の川路利良に狙撃を命じました。

しばらくして又兵衛は、胸を撃ち抜かれて落馬

死を悟った又兵衛は、自ら槍で喉を突いて自刃します。

それが、このムクノキの下だったと伝えられます。

享年47。


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ムクノキの向こうに見える塀は、御所の外塀です。

当時も同じように塀があったのかどうかはわかりませんが、御所の目の前で朝敵の汚名を着せられたままの討死は、さぞ無念だったに違いありません。

西郷のねらいどおり、この長州軍きっての豪傑の死から、長州軍の潰走が始まりました。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-17 23:36 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その55 「蛤御門(京都御苑)」

京都御苑外郭九門のひとつである「蛤御門」にやってきました。

元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変」の際、最も激戦地となった門として知られ、同変のことを「蛤御門の変」とも呼ばれることで周知の場所です。


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「蛤御門」の名称の由来は、御所の火災の際、滅多に開くことのなかった門がこの時だけは開いたため、固く閉じていたものが火にあぶられて開いたことをハマグリになぞらえて、「蛤御門」と呼ばれるようになったそうで、本来の正式名称は「新在家御門」なんだそうです。

その由来となった火災については、宝永の大火(1708年)後とする説と、天明の大火(1788年)後とする説が挙げられているそうです。


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現在の蛤御門は、明治10年(1877年)から明治16年(1883年)にかけて行われた大内保存および京都御苑整備事業によって移設されたもので、それ以前は現在よりも30mほど東の位置に、南を向いて建てられていたそうです。


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元治元年7月19日(1864年8月20日)、伏見、山崎、天龍寺の陣を出た長州藩兵は、まず、福原越後、益田右衛門介、国司信濃の3人が率いる隊が三方から京へ出撃しますが、対する会津藩兵桑名藩兵の守りは固く、行く手を遮られます。

そんな戦況のなか、来島又兵衛率いる隊が強引に突っ込んで御所の中立売御門を突破。

ここ、蛤御門に殺到しました。


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又兵衛の部隊は門扉を突き破って突入し、大激戦を演じます。

又兵衛自身は風折烏帽子具足、陣羽織を身にまとい、その出で立ちは元亀・天正の戦国武将さながらだったといいます。

そんな又兵衛の奮闘もあって、一時は長州軍が押しまくる展開となりましたが、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢は逆転

その薩摩藩兵の指揮官は、西郷吉之助(隆盛)でした。

西郷は馬上の又兵衛さえ討てば長州軍は撹乱すると見、配下の川路利良に狙撃を命じました。

しばらくして又兵衛は、胸を撃ち抜かれて落馬

死を悟った又兵衛は、自ら槍で喉を突いて自刃します。

享年47。

西郷のねらいどおり、この長州軍きっての豪傑の死から、長州軍の潰走が始まりました。


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門には、複数の弾痕がいまも残っています。


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おびただしい数の弾痕が、その激戦のほどを雄弁に語ってくれます。

このなかには、あるいは川路利良の撃ったものもあるかもしれません。


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戦いはわずか1日で終わりましたが、落ち延びる長州勢とそれを追う幕府勢の放った火で、晴天続きで乾燥状態にあった京のまちは、たちまち火の海と化します。

その戦火は3日に渡って燃え続け、堀川と鴨川の間、一条通と七条通の3分の2が焼き尽くされました。

『甲子兵燹図』に描かれたそのさまは地獄絵図さながらで、命からがら逃げおおせた人々も、山中から呆然と市中の火の海を眺めるばかりだったといいます。

一説には焼失戸数は4万2千戸ともいわれ、253の寺社、51の武家屋敷が焼けました。市民は家を失い、家族と離れ離れになり、まちは蝿のたかる死体が積み上がりました。

後世に伝わる「禁門の変」「蛤御門の変」といった呼び名は、戦を起こした当事者であるのちの明治政府が、この戦いをなるべく小さくみせるためにつけた名称で、当時の呼び方では、干支をとって「甲子(きのえぬ)の戦争」といわれたそうです。

戦争でいちばん辛い思いをするのは何の罪もない庶民だということですね。

21世紀のいまも変わらない事実です。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-16 23:10 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(4)  

幕末京都逍遥 その54 「京都御所」

京都御所にやって来ました。

言うまでもなく、明治維新までの天皇のお住い(内裏)ですね。

延暦13年(794年)に桓武天皇(第50代天皇)が平安京に遷都して以来、1000年以上の長きに渡って天皇のお住いは京都でしたが、当初の内裏は現在の京都御所よりも1.7km西の千本通り沿いにあったといわれ、現在の京都御所の場所は、「土御門東洞院殿」と言われた里内裏(内裏が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏)のひとつで、元弘元年/元徳3年(1331年)、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が京都を脱出した後に鎌倉幕府が擁立した光厳天皇(北朝初代天皇)がここで即位されて以降、明治2年(1869年)に明治天皇(第122代天皇)が東京に移られるまでの538年間、皇居として使用されてきました。


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写真は、京都御苑南から望む京都御所です。

はるか遠くに見えるのが、御所南面の入口「建礼門」です。


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こちらがその「建礼門」です。

御所の正門にあたる入口で、天皇が臨幸の際に開かれます。

文久3年(1863年)の八月十八日の政変の際、かけつけた壬生浪士組がこの門を警護し、その功から、3日後の8月21日に「新選組」の名を賜ったとされるゆかりの門です。


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建礼門のある御所南側の塀です。

東西約250mあります。


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上の写真は、東南にある「建春門」です。

唐破風の屋根で、勅使の出入りに用いられたそうです。


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こちらは北面にある「朔平門」


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他にも皇后門、清所門、宜秋門があるのですが、ごめんなさい、写真撮ってませんでした。

現在、御所の一般公開の出入り口は清所門となっています。

御所内のすべてが公開されているわけではありませんが、順路に従って見ていきましょう。


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写真は「御車寄」です。

公卿をはじめとする高位の貴族などが、天皇との対面のために使用した玄関だそうです。


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こちらは「諸大夫の間」

参内した公家や将軍家の使者の控室で、身分に応じて部屋が決まっていて、写真の右側にいくほど身分が高く、「虎の間」「鶴の間」「桜の間」と、ふすまの絵にちなんで呼ばれています。


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こちらは「新車寄」。

大正4年(1915年)、大正天皇(第123代天皇)の即位礼が行われた際、馬車による行幸に対応する玄関として新設されたものだそうです。


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こちらは、御所南面の建礼門を潜ってすぐの場所にある「承明門」

紫宸殿正門にあたります。


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承明門の向こうに紫宸殿が見えます。


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そして、こちらがその「紫宸殿」

京都御所において最も格式の高い正殿であり、即位礼などの重要な儀式がここで行われたそうです。

建物は安政2年(1855年)の造営だそうですが、伝統的な儀式が行われるように平安時代の建築様式で建てられています。

慶応4年(1868年)には、明治天皇がここで「五箇条の御誓文」を示されたそうです。


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こちらは紫宸殿の北西にある「清涼殿」

かつては天皇の住居だったそうですが、天正18年(1590年)に御常御殿に住居が移ってからは、主に儀式の際に使用されました。


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こちらは「小御所」

江戸時代は将軍や大名などの武家との対面や儀式の場として使用された場所で、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に発せられた「王政復古の大号令」の際、将軍・徳川慶喜および徳川家の処置を定めた「小御所会議」が行われた場所です。

明治天皇を「幼い」と発言した土佐の山内容堂に対し、岩倉具視「無礼者!」と一括したエピソードは有名ですね。

また、その岩倉具視に対して西郷隆盛が、短刀一本あれば片が付く」と言って反対派と差し違える覚悟を迫ったという逸話も、ここでのことです。


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こちらは小御所の北にある「御学問所」

慶応3年12月9日(1868年1月3日)、ここで明治天皇が「王政復古の大号令」を発せられました。

ちなみに、建物前のスペースは「蹴鞠の庭」だそうです。


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そして最後に、こちらが「御常御殿」

天正18年(1590年)以降の天皇のお住いでした。

「幕末」と言われる時代、ここにお住いだったのは孝明天皇(第121代天皇)でした。

この孝明天皇が大の外国人嫌いだったため、尊王攘夷派象徴的存在となり、やがてその思想が討幕の勢力となっていくのですが、当の孝明天皇自身は討幕の意志など毛頭なく、大の佐幕家だったんですね。

ここに、幕末の動乱のややこしさがあります。


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御常御殿前の庭園です。

この庭を眺めながら、孝明天皇は何を思っていたのでしょうね。

まさか、平安京が自身の代で終わることになるとは、夢にも思っていなかったことでしょう。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-15 22:56 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第18話「流人 菊池源吾」 ~奄美大島流島~

 安政5年11月16日(1858年12月20日)未明、護送中の船から錦江湾に身を投げた西郷吉之助(隆盛)月照でしたが、その後、海中から引き揚げられたふたりのうち、月照だけが命を落とし、西郷は奇跡的に蘇生する結果となりました。息を吹き返した西郷は、その後、数日間にわたって何度も海水を吐き出し、回復に1か月近くかかったといいます。このとき意識のない西郷の枕頭で看病にあたったのが、同志の税所喜三左衛門(篤)でした。


 意識を取り戻した西郷は、自分だけが生き残ってしまったことに酷く心を痛めます。また、自殺を図るにあたって、確実に死ねる刀を使わずに入水という女子のしそうな手段を選んだことも、大いに後悔しました。西郷が刀を使わなかった理由は、僧侶の身体に刃を向けるのが憚られたからと、後年語っています。いずれにせよ、この出来事が、西郷の心中に大きな傷跡として残ったことは言うまでもありません。このときの西郷の心中は、この約1か月後に熊本藩の長岡監物に宛てた書簡に窺えます。


 「私事、土中の死骨にて、忍ぶべからざる儀を忍び罷り在り候次第、早御聞き届け下され候わん。天地に恥ケ敷儀の御座候え共、今更に罷り成り候ては、皇国のために暫く生を貪り居り候事に御座候」

(私は一旦死んだ人間であり、土の中の死骨に等しく、その恥を忍んでいる身であるが、しばらくは皇国のために命を長らえている)


e0158128_15131310.jpg 一時は月照の後を追おうとした西郷でしたが、結局、いましばらく生き延びることを決意しました。なぜ、そう決意したのかはわかりませんが、ただ、いえるのは、このときの西郷にとって、生きる道を選択するということは死ぬことよりよほど勇気がいる決断だったであろうということです。この時代の一流の武士にとって、自殺を図って死にきれなかったということほど恥ずかしいことはありません。ましてや西郷の場合、共に身を投げた月照が死に、自分だけが生き残っています。これは、武士としてあまりにも恥ずかしいことだったといえ、月照の後を追って死んだ方がよほど楽だったに違いありません。ところが、西郷は生き恥を晒す道を選んだ。その背景には何があったのか、あるいは、主君・島津斉彬の死に際して殉死しようとしていた西郷を説得した月照のような人物がいたのか・・・。あるいは、ドラマのように大久保正助(利通)だったかもしれませんね。


 もっとも、このときの心の傷は生涯を通して癒えることはありませんでした。これより先、西郷は、どこか死を急ぐような、死を願望し続けたようなところがありますが、それは、このときに始まったとも思われます。ドラマ中、西郷が自身のことを「亡霊のようなもの」と言っていましたが、西郷にとって、このあとの人生は、ずっと「土中の死骨」だったのかもしれません。


 西郷の蘇生の報せを受けた薩摩藩家老の新納久仰は、西郷の措置を以下のように決定します。まず、捕吏の目を誤魔化すために、西郷は死亡したことにする。もし幕府サイドが死体の検分を望んできたら、近々に死んだ別の罪人の死体を差し出す。そして、西郷本人は、事態が落ち着くまで名前を変えて奄美大島に潜ませる。島での生活費は、藩の費用で賄う、というものでした。守旧派で月照の庇護を拒んだ新納久仰でしたが、この西郷に対する措置は、あきらかに西郷を守ろうとしている意図が窺えます。つまり、この流島処分罪人扱いではなかったということですね。西郷は菊池源吾と名を変え、安政6年正月10日(1859年2月12日)に鹿児島の山川港を出発し、翌々日に奄美大島の龍郷村阿丹崎へ到着します。以後、足掛け3年に及ぶ西郷の奄美での生活が始まります。


 奄美に着いた当初の西郷は、奄美の気候島人とのやりとりなどで非常に苦労していたようです。奄美到着後に初めて出した大久保宛の書簡によると、


 「一日晴天と申すなるは御座無く雨勝ちに御座候。一体雨はげしき所の由に候得共、誠にひどいものに御座候」


と、1日として晴れが続かない奄美の冬期特有の気候に悩まされていたようです。また、初めて接する島人との関係も最初は芳しくなかったようで、


 「誠にけとう人にはこまり入り申し候。矢張りはぶ性にて食い取ろうと申すおもいばかり、然しながら、至極御丁寧成る儀にて、とうがらしの下なる塩梅にて痛み入る次第に御座候」


と、愚痴をこぼしています。「けとう(毛唐)人」とは島人への蔑称であり、「はぶ性」とは、島人が西郷を恐れ、物陰から常に覗っている様子を、奄美の毒蛇ハブに見立てた皮肉たっぷりの表現でした。この文面からも、西郷が島人に対して好意的な感情を抱いていなかったことが窺えます。このときの西郷は、斉彬や月照の死による悲しみや、流島処分となった自身の現状に憤りを感じ、自暴自棄になっていたのかもしれません。そんな西郷の荒んだ心を癒したのが、島の女性・とぅまでした。のちの愛加那ですね。彼女については、次週に譲ることにします。



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by sakanoueno-kumo | 2018-05-14 00:37 | 西郷どん | Trackback | Comments(4)