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幕末京都逍遥 その85 「赤松小三郎の墓(金戒光明寺)」

金戒光明寺の墓地内には、會津墓地以外にも多くの歴史上の人物の墓がありますが、幕末の人物でいえば、「その53」で紹介した信州上田藩士の赤松小三郎の墓があります。


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赤松は大政奉還の約半年前の慶応3年(1867年)5月に、二院制の議会の創設、選挙による議会政治、内閣総理大臣(赤松の訳語では「大閣老」)以下6人の大臣を議会が選出するという議院内閣制度など、現代にも通じる具体的な新国家構想が書かれた「建白七策」を提唱した人物として知られ、また、薩摩藩が長州藩と武力討幕計画を固めるなか、内戦の危機を回避しようと、薩摩の西郷隆盛小松帯刀、幕府の永井尚志らとギリギリまで交渉していました。

しかし、彼の考えがあまりにも開明的でありすぎたため単純攘夷思想の志士たちらの理解を得ることができず、慶応3年9月3日(1867年9月30日)、京都から上田に帰る途中に待ち伏せていた中村半次郎(桐野利秋)らに暗殺されました。

赤松はかつて薩摩藩からの要請で薩摩藩邸において学教授を務めていたこともあり、中村半次郎も受講者のなかにいました。

赤松も、かつての教え子に殺されることになろうとは、思いもしなかったでしょう。


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赤松を殺した実行犯が中村半次郎だったということは、大正8年(1919年)に旧薩摩藩士の有馬藤太が口述したことで明らかになりますが、その証言が確証されたのは、昭和47年(1972年)に半次郎の『京在日記』の散逸部分が発見され、半次郎本人が赤松暗殺を日記に克明に綴っていたことが判明したためでした。

半次郎はその日記で、「幕奸だから斬った」と記述しています。

ただ、実行犯である半次郎が独断で行ったのか、あるいは半次郎に指示した人物がいたのかは定かではありません。


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暗殺から3日後の9月6日、赤松の遺骸はここ金戒光明寺に葬られました。

そして12月6日に建てられた墓石には、「薩摩受業門生謹識」として薩摩藩門下生が、赤松に対する称賛と死を悼む言葉を刻みました。


先生姓源諱某赤松氏称小三郎信濃上田人

也年甫十八慨然志於西洋之學受業同國佐

久間修理及幕府人勝麟太郞東自江戸西至

長崎游方有年多所發明後益察時勢之緩急

専務英學於其銃隊之法也尤精嘗譯英國歩

兵練法以公于世會我邦兵法採用英式旦夕

講習及聘致先生於京邸取其書更使校之原

本而肆業焉今歳之春   中将公在京師也

召見賜物先生感喜益尽精力而重訂書成十

巻上之   公深嘉称速命剞○将以有用於

天下國家也蓋先生平素之功於是乎為不朽

可不謂懿哉不幸終遭緑林之害而死年三十

有七實慶應三年丁卯秋九月三日也受業門

人驚慟之餘胥議而建墓於洛東黒谷之塋且

記其梗概以表追哀意云爾

         薩摩受業門生謹識


当時の墓石は風化による傷みが激しく、平成23年(2011年)に新しい墓石が建てられました。

元の墓石は、故郷の信州上田にある赤松小三郎記念館に記念碑として保管されているそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-30 14:35 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その84 「会津墓地(金戒光明寺)」

前稿で紹介した金戒光明寺の敷地内に、幕末に京のまちで命を落とした会津藩士たちが眠る墓地があります。

参道の高麗門横には、「會津藩殉難者墓所」と刻まれた石碑があります。


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道中には、「会津墓地参道→」と刻まれた誘導碑が到るところに建てられています。


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そして、ここが会津墓地の入口


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金戒光明寺のホームページによれば、敷地面積は約300坪だそうで、文久2年(1862年)から慶応3年(1867年)の6年間に京都で命を落とした237霊と、慶応4年(1868年)1月に勃発した鳥羽伏見の戦い戦死者115霊を祀る慰霊碑があります。


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会津松平家が神道であった関係で、約7割の人々が神霊として葬られているそうです。


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「鳥羽伏見戦死者道志るべ」と刻まれた石碑です。


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そして、その奥にあるのが、鳥羽伏見の戦い戦死者115霊を祀る慰霊碑です。


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こちらには、元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)で落命した22人の墓石が、一段高く積み上げられた台の上に3ヵ所に分けて葬られています。


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どの墓石にも「元治元年甲子年七月十九日」と刻まれています。

まぎれもなく、禁門の変での戦死者ですね。

禁門の変というと、どうしても長州藩士が壊滅的に戦死したという方ばかりに目がいきますが、戦争である以上、当然、薩摩・会津側にも戦死者はいたわけです。


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それ以外の墓でいえば、元治元年6月10日(1864年7月13日)に起きた明保野亭事件の責任をとって切腹した柴司の墓があります。

明保野亭事件とは、池田屋事件残党探索を行なっていた新選組に応援として派遣された柴司が、浪士潜伏の情報のあった東山の料亭「明保野亭」に踏み込み、現場にいた土佐藩士・麻田時太郎を負傷させた事件です。

当初は柴の行為は会津藩から正当な職務行為と認定されましたが、その後、負傷した麻田が土佐藩から士道不覚悟として切腹させられたため、土佐藩士の一部が不公平と反発して事態は紛糾、会津藩と土佐藩の衝突になりかねない事態となり、これを重く見た柴は、明保野亭事件の責任を自発的に取るかたちで自決を決意し、2日後の6月12日に、兄の介錯で切腹しました。

享年21。

明保野亭は現在も営業されており、「その21」で紹介しています。


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こちらは、京都会津藩筆頭公用人の野村左兵衛の墓です。


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会津藩主・松平容保京都守護職就任の要請があったとき、家臣たちは猛烈に反対したといいます。

いわば無政府状態に陥っていた京都で守護職を務めるということは、薪を背負って火に飛び込んでいくようなもの、自ら死地に身を投じるなどもってほほか・・・と。

しかし、政事総裁職松平春嶽が会津藩祖・保科正之「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在」との家訓を引き合いに出したため、容保はついに承諾せざるを得なくなります。

これを聞いた会津藩の家臣たちは、「これで会津藩は滅びる」と、肩を抱き合って慟哭したといいます。


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この会津墓地に眠る藩士たちは、容保が京都守護職に就いていなければ、ここに眠ることはなかったでしょう。

さぞかし無念だったでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-29 02:09 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その83 「金戒光明寺(京都守護職本陣)」

通称「くろ谷さん」の愛称で親しまれる金戒光明寺にやってきました。

ここは幕末、京都守護職会津藩の本陣となった場所です。


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現地の説明板によると、鎌倉時代の承久5年(1175年)に法然上人が、比叡山西塔の黒谷にならって、この地にを結んだのが始まりとされているそうです。

上の写真は参道にある高麗門

「京都守護職本陣」と記された表札が掲げられています。


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その表札です。

「奥刕會津藩松平肥後守様」とは、言うまでもなく幕末の会津藩主・松平容保のことですね。


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下の写真は高麗門から東へ100mほど坂を上ったところにある山門です。

応仁の乱焼失して万延元年(1860年)に再建されたものだそうで、ちょうど容保たちが入ったころは、新築間もないときだったということですね。


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幕末、尊王攘夷派過激志士たちによる天誅押し込みなどの騒乱が京のまちに横行していました。

幕府はそうした状況を見かね、京都守護職という軍事職の新設を決めます。

そこで白羽の矢が立てられたのが、会津藩と容保でした。

もともと京都には、朝廷の監視を任務とする京都所司代が置かれていました。

通常、10万石前後の譜代大名が任命される役職でしたが、「天誅」と称したテロの嵐が吹き荒れる京都の治安は、所司代レベルの力で抑えられる域を超えていました。

そこで幕府は、23万石の会津藩の武力を持って京のまちを鎮撫しようと考えたのです。


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容保に京都守護職就任を求めたのは、政事総裁職松平春嶽と、当時、将軍後見職を務めていた一橋慶喜(のちの徳川慶喜)でした。

要請を受けた容保が頑なに固辞しますが、春嶽が会津藩祖・保科正之「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在」との家訓を引き合いに出したため、ついに承諾せざるを得なくなります。

文久2年(1862年)8月1日のことでした。

これを聞いた会津藩の家臣たちは、「これで会津藩は滅びる」と、肩を抱き合って慟哭したといいます。


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上の写真は御影堂(大殿)

昭和19年(1944年)の再建だそうです。


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こちらは阿弥陀堂

慶長10年(1612年)に豊臣秀頼によって再建されたものだそうです。


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そして、境内東の墓地にある三重塔(文殊塔)

寛永10年(1633年)の建立だそうで、重要文化財です。


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会津藩はこの地を本陣として、藩兵1000人が常駐し、1年おきに国元の藩士と交代しました。

その後、京都守護職は、大政奉還後の王政復古の大号令まで6年間つづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-28 00:34 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その82 「吉田松陰拝闕詩碑」

「その80」で紹介した平安神宮の大鳥居の西側、京都府立図書館の敷地に、吉田松陰が詠んだとされる詩碑があります。

松蔭と京都の縁はあまり印象にないですが、この碑に刻まれた詩は、松蔭の著『長崎紀行』によれば、江戸から長崎へ向かう道中の嘉永6年10月2日(1853年11月2日)京都御所を拝したときに詠んだものだそうです。

嘉永6年といえば、ペリー提督率いる黒船艦隊がはじめて浦賀に来航した年。

松蔭はそれを目の当たりにして衝撃を受け、その後、師の佐久間象山の勧めもあって外国留学を決意し、長崎に寄港していたプチャーチンロシア軍艦に乗り込もうと考えて長崎に向かうも、船が予定より早く出航してしまったため、望みを果たせませんでした。

そのときの長崎行きの途中に寄った京都で詠んだ詩ということですね。


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<碑文>

山河襟帯自然城東来無不日憶神 京今朝盥嗽拝 鳳闕野人悲泣

不能行上林零落非復昔空有山河無変更聞説 今皇聖明徳

敬天憐民発至誠鶏鳴乃起親斎戒祈掃妖氛致太平従来 英皇不

世出悠々失機今公卿安得天詔勅六師坐使 皇威被八紘人

生若萍無定在何日重拝天日明

右癸丑十月朔日奉拝鳳闕粛然賦之時余将西走入海

丙辰季夏二十一回藤寅手録


<読み下し>

山河襟帯・自然の城、東来日として神京を憶はざるはなし、

今朝盥嗽(くわんそう)して鳳闕を拝し、野人悲泣して行くこと能はず、

上林零落・復た昔に非ず、空しく山河の変更なき有り、

聞説(きくなら)く今皇聖明の徳、天を敬ひ民を憐み至誠より発す、

鶏鳴乃ち起き親ら斎戒し、妖氛を掃ひて太平を致さんことを祈る、

従来英皇世(よゝ)出で(給は)ず、

悠々機を失す今の公卿、安んぞ天詔を六師に勅して、坐(ざ)ながら皇威をして八絋に被らしむるを得ん、

人生は萍の若(ごと)く定在なし、何れの日にか重ねて天日の明(あきらか)なるを拝せん。

右は癸丑十月朔旦(嘉永六年十月一日)鳳闕を拝し奉り、粛然として之を賦す、時に余将に西走して海に入らんとす

丙辰季夏(安政三年夏の末) 十一回(猛士)藤寅手録


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<大意>

京都は山河にかこまれ、おのづから他とは異なる地になっている

江戸へ来てからも、一日としてこの神聖な京都を思わぬ日はない

この朝身を清め御所を拝した

政治に無縁のわたしも悲しみのあまり動くことができない

というのは朝廷の権威と権力が地に落ちて昔に戻ることはなく

周囲の山河だけが変わりなく残っているのがいたましいからだ

もれうけたまわれば、今上天皇は最上の徳をお持ちで

天を敬い人民をいつくしみ誠を尽くしておられる

日出には起きて身を清め

日本にたれこめた妖気をはらい太平をもたらすことを祈られると

いままでこのような英明な天皇はいなかったというのに

役人どもはのんべんだらりと時間つぶしをやっているだけ

なんとかして天皇の詔勅をうけたまわり精鋭なる全軍を動かし

思うままに天皇の権威を世界におよぼしたいものだ

なんて思っていてもわたしはゆくえも知れない浮草の身

ふたたび御所を拝する日が来るだろうか


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この詩については、『長崎紀行』以外にも、一部の文字が異なるかたちでいくつか伝わるそうですが、この碑に刻まれた詩は、が安政3年(1856年)に山縣有朋の父・山縣有稔のために旧作を揮毫したものだそうで、後年、有朋が「この書は松陰先生の精神を体現したものであり、私蔵するべきではない」と考え、明治15年(1882年)に宮中に献納したそうです。

そして、松蔭の50回忌にあたる明治41年(1908年)10月、京都府教育会によって建碑されました。

石碑の裏の説明文は、松下村塾の門下生で、この当時子爵となっていた野村靖が書いたものです。


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「その78」で紹介しましたが、松陰は生前、京都に尊攘堂を建てて勤王の志士を祀り、人々の心を奮い立たせようという志を抱いていたといいます。

その志は叶いませんでしたが、没後50年にして、自身の勤王の志を詠んだ詩が京都のまちに建とうとは、夢にも思わなかったでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-26 23:35 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

西郷どん 第24話「地の果てにて」 ~徳之島、沖永良部島への流島~

e0158128_15131310.jpg 文久2年(1862年)4月、国父・島津久光の命に背いたことで捕縛されて国元に護送された西郷吉之助(隆盛)村田新八は、すぐさま流島処分が言い渡され、同年7月、西郷は徳之島へ、村田は喜界島へとそれぞれ流されます。このときのことを西郷は、同年8月20日付で奄美大島に住む木場伝内に宛てた書簡のなかで、「三十日も我家に在らずして又遠島と申すは、誠に稀成るものに御座候」と嘆いています。わずか半年ほど前に奄美大島から帰藩したばかりで、ゆっくりする間もなく下関、京へと旅立ったかと思えば、また島流しの身になったわけですから、自身の信念を貫いた結果とはいえ、我ながら情けないという思いだったに違いありません。


ついでに記すと、吉之助が流罪になったことにより、次男の西郷吉二郎と四男の西郷小兵衛は役職を解かれ、三男の西郷信吾(従道)寺田屋事件に関わっていた罪として謹慎を命じられました。これにより、西郷家の知行家財はすべて没収となり、残された家族はたちまち困窮することになります。西郷家にとっては、どん底の時代だったといえるでしょう。「兄さぁ、なんちことをしちょっとよ!」と思ったことでしょう(薩摩弁、あってますか?笑)。


e0158128_15135174.jpg 前回の奄美大島での生活と違い、今回は罪人としての服役ですから、当然、知行などがあるはずもなく、島での生活は厳しいものになるはずでした。ところが、西郷にとって嬉しい出来事がありました。愛加那の来訪です。彼女は、2歳半になった菊次郎と生まれたばかりの長女・菊章(のちの菊子)を連れて8月下旬に徳之島にやってきます。菊章が生まれたのは、ちょうど西郷が鹿児島から島に向かう渡海中の7月2日だったといいます。徳之島は、奄美大島の南西約40kmの洋上に浮かぶ島で、しかも愛加那が住んでいた龍郷は、奄美大島の最北端の村でした。生後1ヶ月余りの首もすわらない赤ん坊を連れての渡海は、いくら海に慣れていた島人とはいえ、容易ならざることだっただろうと想像します。それだけ、愛加那の西郷に対する想いが強かったということでしょうね。西郷にとって、この再開は欣喜雀躍たる思いだったに違いありません。


 ところが、その喜びもつかの間、この直後、薩摩藩当局から西郷の沖永良部島への移島命令が届きます。その理由はわかりませんが、薩摩藩における沖永良部島への流島刑は、死罪に次ぐ重罪を意味していました。久光の怒りのほどが窺えますね。あるいは、ドラマのように、西郷への怒りの感情が再燃するような出来事があったのかもしれません。もちろん、ヒー様が久光を侮辱したというのは、ドラマの創作ですが。


 西郷と愛加那の再会は、わずか数日間で終わりました。潔く藩命に従って沖永良部島に移送された西郷でしたが、そこでの流島生活は過酷を極めました。獄舎はわずか二間四方(約3.6m四方)しかなく、しかも、がその中にあったため、四六時中悪臭が漂い、そのなかで食事も摂らなければならない環境でした。西郷はこの劣悪な状況のなかで、みるみる憔悴していきます。その西郷を助けたのが、ドラマにも出てきた島役人の土持政照でした。西郷の人柄に魅せられた土持は、老朽化を理由に獄舎の立て替えを代官に訴え、自費で獄舎の横に民家を建て、そこを座敷牢として西郷を移らせます。そのおかげで西郷の体力は急速に回復しました。のちに土持は西郷と兄弟の約を結ぶ関係になります。人間、ピンチを乗り越えられるかどうかの瀬戸際には、やはり、人間性がものを言うんですね。西郷、半端ないって!(笑)。



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by sakanoueno-kumo | 2018-06-25 22:19 | 西郷どん | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その81 「京都守護職屋敷門」

平安神宮の西側にある観光バスの駐車場に、古い門だけがポツリとあります。

この門は、幕末の京都を警備した京都守護職屋敷門が移築されたものだそうです。


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京都守護職の屋敷は、現在の京都府庁と京都府警察本部のあたりにありました。

明治に入って、その跡地には京都府庁の庁舎が建てられ、明治32年(1899年)にこの地に建てられた大日本武徳会の本部道場「武徳殿」の正門として、この門が移築使用されたそうです。

現在、武徳殿は都市武道センターとなっています。


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京都守護職とは、言うまでもなく会津藩主の松平容保です。

幕末、尊王攘夷派過激志士たちによる天誅押し込みなどの騒乱が京のまちに横行し、既存の奉行所所司代のみでは防ぎきれないと判断した幕府が、洛中の治安維持御所、二条城警備などを担う役割として、京都守護職という臨時の軍事職を設置します。

そこで白羽の矢が立てられたのが、会津藩と容保だったんですね。

容保に京都守護職就任を求めたのは、政事総裁職松平春嶽と、当時、将軍後見職を務めていた一橋慶喜(のちの徳川慶喜)でした。

要請を受けた容保が頑なに固辞しますが、春嶽が会津藩祖・保科正之「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在」との家訓を引き合いに出したため、ついに承諾せざるを得なくなります。

文久2年(1862年)8月1日のことでした。

これを聞いた会津藩の家臣たちは、「これで会津藩は滅びる」と、肩を抱き合って慟哭したといいます。


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京都守護職屋敷門ということは、容保はもちろん、近藤勇土方歳三新選組の面々も、この門をくぐったかもしれませんね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-23 23:57 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その80 「平安神宮」

平安神宮にやってきました。

平安神宮は幕末の戦乱で荒廃した京都の街の復興のシンボルとして明治28年(1895年)に創建された神社で、主祭神は桓武天皇(第50代天皇)と孝明天皇(第121代天皇)です。

つまり、平安京最初の天皇最後の天皇を祀った神社です。


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上の写真は参道の大鳥居

高さ24.4mあるそうで、国の登録有形文化財に登録されています。


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平安神宮が創建された明治28年(1895年)は、平安遷都1100年の記念の年にあたり、創建当初は平安遷都を行った桓武天皇のみが祭神とされました。

その後、皇紀2600年にあたる昭和15年(1940年)に、平安京最後の孝明天皇が合祀されたそうです。


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写真は正面玄関にあたる應天門

重要文化財です。

平安京が創建された明治28年(1895年)、京都では平安遷都1100年を記念して内国勧業博覧会が開催されました。

應天門はそのモニュメントとして、桓武天皇が開いた当時の平安京の正庁、朝堂院の應天門を模して建てられました。


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振り返ると、遠くに大鳥居が見えます。


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そして、應天門をくぐると、正面に社殿が見えます。

左から白虎楼・西歩廊・大極殿・東歩廊・蒼龍楼です。

これらの社殿も、内国勧業博覧会の目玉として平安京遷都当時の大内裏を復元したものだそうですが、スケールは8分の5の規模だそうです。

当初は実際に大内裏があった千本丸太町朱雀門が位置するように計画されたそうですが、用地買収に失敗し、当時は郊外だったこの地に、縮小サイズで復元されたそうです。


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こちらが中央の大極殿

重要文化財です。

社殿のなかの正殿で、即位、朝賀をはじめ国の主要な儀式が行われる中枢だそうです。

「大極」とは、宇宙の本体・万物生成の根源を示す言葉で、不動の指針・北極星に比定され、天皇の坐す御殿を意味するそうです。


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こちらは西の白虎楼

重要文化財です。


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こちらは東の蒼龍楼

同じく重要文化財です。


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昭和51年(1976年)1月6日、日本の新左翼による放火で本殿・内拝殿など9棟が焼失してしまいました(外拝殿である大極殿は延焼をまぬがれている)。

その当時、これらの建物は文化財指定を受けていなかったため、再建のための国からの補助金が降りなかったそうですが、全国からの募金により、本殿や内拝殿は3年後に再建されたそうです。


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現在はこの朱塗りの社殿の美しさで京都を代表する観光名所のひとつとなっています。

わたしが訪れたこの日も、外国人だらけでした。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-22 22:36 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その79 「菊屋峯吉(鹿野安兵衛)の墓(了連寺)」

前稿前々稿で紹介した京都大学キャンパスのすぐ近くに百万遍知恩院があるのですが、その塔頭の了蓮寺に、鹿野安兵衛という人物の墓があります。

鹿野安兵衛は幕末、菊屋峯吉といいました。

そう、あの坂本龍馬中岡慎太郎の暗殺の第一発見者の少年、峯吉です。


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菊屋峯吉は「その24」で紹介した書店・菊屋の長男で、龍馬や慎太郎から「峰やん」と呼ばれて可愛がられていました。

菊屋は慎太郎の京都における活動の拠点となっていました。

峯吉は龍馬に頼まれて団子売りに身をやつし、新撰組の屯所に偵察に行ったこともあったといいます。


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龍馬と慎太郎が近江屋で暗殺された当日、峯吉は龍馬に鶏肉を買ってくるように言付けられたために難を逃れたとという話は有名ですね。

峯吉が鶏肉を買って近江屋に戻ると、既に龍馬は絶命し、慎太郎も瀕死の重傷を負っていました。

峯吉はすぐさま「その76」で紹介した陸援隊の屯所に走り、事件を報せます。

その後、土佐藩の田中光顕、谷干城らが現場に駆けつけるのですが、この峯吉の証言というのが、矛盾点が多くてめいているんですよね。

まず、何より不可思議なのは、龍馬たちの死を知った峯吉が、すぐさま裸馬に飛び乗って陸援隊屯所まで報告に行ったという点です。

陸援隊屯所は近江屋から4kmほど北にありました。

なぜ、目と鼻の先に土佐藩邸があったのに、わざわざそんな遠くまで報せに行ったのでしょう?


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龍馬暗殺の実行犯とされる今井信郎の供述では、「襲撃現場に書生がいた」との証言があり、また、同じく実行犯とされる渡辺篤の証言にも、「現場に13、4歳くらいの少年がいたが、机の下に首を突っ込んで怯えており、子供だったのでそのまま見逃した」とあります。

これらの史料から、歴史家・菊池明氏はその著書のなかで、実は峯吉は襲撃の際、現場にいたのではないか、という大胆な推理をされています。

その上で、なにか大きな秘密を知ってしまったのではないか・・・と。

現在伝わる龍馬と慎太郎の襲撃時の話は、事件発生後に現場に駆けつけた田中光顕や谷干城らが、意識のあった慎太郎から聞いた話しだと言われていますが、自らも襲われて瀕死の重症を負っていた慎太郎としては、あまりにも克明過ぎる証言をしています。

龍馬はまず初太刀で横なぎに斬られて、床の間に置いていた刀を取ろうとした際に背中を斬られ、刀を手にしてごと相手の太刀を受け止めるも、そのまま額に太刀を受け、これが致命傷となって死んだ・・と。

自分も襲われているのに、そんなに詳しく観察できるものでしょうか?

本当に慎太郎が語った話しなんでしょうかね。

実は、証言したのは峯吉だっだとか?


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維新後、峯吉は明治10年(1877年)の西南戦争で、当時、熊本鎮台司令長官だった谷干城のはからいで、会計軍夫として従軍しています。

一介の本屋の息子が、10年後には政府軍の会計軍夫です。

なんか、匂いませんか?


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峯吉こと鹿野安兵衛は、大正7年(1918年)、68歳でこの世を去ります。

あるいは、龍馬と慎太郎暗殺の真相を知っていたかもしれない峯吉。

いまは、そのとき駆け込んだとされる陸援隊屯所のすぐ近くに静かに眠ります。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-21 23:53 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その78 「尊攘堂」

前稿と同じく京都大学キャンパス内に、「尊攘堂」という名称の洋館があります。

ここは、元長州藩士で子爵となった品川弥二郎が、師の吉田松陰遺志を継いで建造したものに由来します。


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「尊攘」とは、言うまでもなく「尊皇攘夷」のことですね。

吉田松陰は生前、京都に尊攘堂を建てて勤王の志士を祀り、人々の心を奮い立たせようという志を抱いていましたが、それを果たせずに刑死します。

松蔭は死を前にして、その志を門人の入江九一に託しますが、その入江も、元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)で落命し、松蔭の遺志は遂げられませんでした。


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入江と共に松下村塾の門下生だった品川は、後年、この話を知り、師の遺志を果たそうと決意。

明治20年(1887年)にドイツから帰国すると、高倉通錦小路に尊攘堂を建造し、勤王志士の霊を祀り、志士の殉難の史料、遺墨、遺品などを収集し、祭儀を営み、一般の参拝を許し、収蔵品を観覧させました。

これが、初代の尊攘堂でした。


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品川の死後、明治34年(1901年)に所蔵品は京都帝国大学に寄贈され、明治36年(1903年)、大学構内に二代目の尊攘堂が新築されます。

それが、この尊攘堂です。


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平成10年(1998年)に国の登録有形文化財として登録されています。


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この石碑は、昭和15年(1940年)10月に皇紀2600年を記念して建てられ、 第二次世界大戦が終わった昭和20年(1945年)8月21日に一度撤去されたそうです。

その後、ながらく所在が不明となっていたそうですが、平成25年(2013年)3月1日、構内で遺跡の立合調査を行った際、樹木の根元に放置された状況で置かれているこの石碑が偶然発見されたそうです。


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石碑は、正面に「尊攘堂」、側面には「皇紀二千六百年記念」と刻まれ、反対側の側面にはこの建物の由来が刻まれています。

平成26年(2014年)12月、元あった場所に近い位置に設置されたそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-20 23:37 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

西郷どん 第23話「寺田屋騒動」 その2 ~薩摩藩士同士討ち事件~

 昨日(その1)の続きです。


 捕縛された西郷吉之助(隆盛)村田新八が鹿児島に護送された約2周間後の文久2年4月23日(1862年5月21日)、京のまちを震撼させる大事件が起きます。後世に「寺田屋事件」あるいは「寺田屋騒動」と呼ばれる薩摩藩士の同士討ち事件。幕末史を語る上で必須とされる大事件です。


e0158128_11283315.jpg 事件の1週間前の4月16日、薩摩藩の国父・島津久光1000人の家臣を率いて上洛します。その目的は、朝廷、幕府、雄藩の政治的提携を企図する幕政改革、いわゆる公武合体の実現のためで、これは、亡き兄・島津斉彬の遺志でもありました。しかし、斉彬の生前の頃とは違って、桜田門外の変以後、世論は「倒幕」「佐幕」かの時代に突入しており、久光の上洛は、倒幕派の志士たちを大いに刺激することとなります。久光の上洛は日本中の尊攘派志士たちの希望の光でした。


薩摩藩内の尊王攘夷派グループ精忠組のメンバーで、過激派として知られていた有馬新七もそのひとりでした。有馬は、藩主の「諭告書」が出されたのを受けて脱藩突出策を中止した大久保一蔵(利通)らに対し、かねてから不満を募らせていました。つまり、突出策を捨てきれないでいたんですね。有馬は久光に従って京に入りましたが、水面下で諸藩の過激派志士と結び、久光の上洛を背景に京にて武力蜂起し、一気に倒幕勢力を形成しようと目論んでいました。


ところが、倒幕の意思などまったくない久光は、朝廷との面会で浪士鎮圧の命を受けます。もともと秩序を重んじる保守的な久光は、かねてから過激派の行動を苦々しく思っていました。久光は有馬たち過激派志士の行動を「暴発」として抑え込もうとします。この展開に驚愕した有馬たち過激派は、憂国の念から憤激し、幕府と協調路線をとる関白・九条尚忠と京都所司代・酒井忠義を襲撃し、そのを久光に奉じることで、否が応でも久光を倒幕へ向かわせようと画策します。4月22日、久留米藩の真木和泉と密談した有馬は、23日に計画を実行することで合意。そして当日、薩摩藩の定宿だったここ寺田屋に集まることで決まります。


e0158128_20170202.jpge0158128_20165813.jpgこの情報をキャッチした久光は、精忠組のメンバーである奈良原喜八郎(繁)、大山格之助(綱良)ら剣に覚えがある鎮撫使9名を選び、「場合によっては切り捨てても構わぬ」と言い含めて寺田屋に派遣しました。寺田屋に着いた奈良原たちは、当初はで有馬たちと面会して説得にあたりましたが、やがて、双方激高して激しい斬り合いに発展します。有馬は剣の達人だったといいますが、狭い室内での斬り合いだったため刀が折れてしまい、鎮撫使の道島五郎兵衛に掴みかかって壁に押さえつけ、近くにいた仲間の橋口吉之丞「我がごと刺せ」と命じ、背中から刀で貫かれて相手共々絶命しました。その後、2階にいた志士たちも降りてきて加勢しようとしますが、これを見た奈良原は刀を投げ捨てて両手を広げてこれに立ち塞がり、「待ってくれ、君命だ、同志討ちしたところで仕方がない」と懸命に訴え、ようやく騒動は沈静化します。このとき説得に応じて投降したメンバーの中には、西郷信吾(従道)、大山弥助(巌)、篠原冬一郎(国幹)らがいました。いずれも帰藩のうえ謹慎を命じられています。


この戦闘で寺田屋にいた6名(有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵)が死亡、2名(田中謙助・森山新五左衛門)が重傷を負い(のちにこの2名も切腹)、鎮撫士側は、有馬と共に橋口に突き刺された道島五郎兵衛のみが死亡しました。この悲劇によって、久光は朝廷より大きな信頼を得ることになったわけですから、なんとも皮肉な話ですね。


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by sakanoueno-kumo | 2018-06-19 00:10 | 西郷どん | Comments(2)