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幕末京都逍遥 その104 「光縁寺(新選組墓所)」

前々稿で紹介した壬生寺に、新選組隊士の墓がありましたが、そこから西へ400mほどのところにある光縁寺にも、新選組隊士の墓があります。


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山門の横には、「新選組之墓」と刻まれた石碑があります。


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山門の柱にも、「新選組之墓所」の文字が。


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光縁寺の門前近くには新選組の馬小屋があったそうで、毎日、門前を隊士たちが往来していました。

ある日、総長の山南敬助が山門の瓦の家紋に目をやると、山南家の家紋と同じ「丸に右離れ三つ葉立葵」であることに気づきます。

上の石碑の上にある家紋ですね。

これが縁となって、山南は光縁寺の住職良誉と親しくなり、山南の紹介で切腹した隊士たちがここで弔われ、埋葬されることになったといいます。

そして、その山南自身もここに眠っています。


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いちばん左が山南敬助の墓です。


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新選組の初期メンバーのひとりで、局長の近藤勇、副長の土方歳三に次ぐ総長という立場にありながら、首脳陣との確執が生じ、最後は切腹させられた山南敬助。

その確執の原因は諸説あって定かではありませんが、元治2年(1865年)2月、山南は「江戸へ行く」置き手紙を残して行方をくらませました。

新選組の法度で脱走は切腹とされていました。

山南の脱走を知った近藤と土方は、すぐさま追手を差し向けます。

その追手は沖田総司ひとりでした。

沖田は山南から弟のように可愛がられていたといい、その沖田ならば、山南も無駄な抵抗はしないだろうという土方の思惑があったともいわれます。

また、別の説では、近藤と土方が山南を発見しても逃してやるよう沖田に言い含めていたが、山南自ら沖田に声をかけてきて捕縛されたという話もありますが、真相はわかりません。

沖田とともに京に戻った山南は、元治2年2月23日(1865年3月20日)、「その101」で紹介した前川邸の一室で切腹して果てます。

享年33。

介錯は山南の希望により、沖田が務めたといいます。


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山南の墓石の側面には、柴田彦三郎河合耆三郎の名が刻まれています。

合祀されているようですね。

2人とも切腹させられた隊士です。


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こちらは松原忠司をはじめ12名の隊士の墓です。

松原忠司は新選組四番隊組長で、「親切者は山南と松原」という言葉が伝わるほど、温厚な人柄で知られました。

新選組の記録では病死とされていますが、その死については諸説あります(何らかの理由で切腹したが未遂に終わり、平隊士に降格されたという点は多くの説に共通します。一説には銃殺とも)。

司馬遼太郎の短編『壬生狂言の夜』では、誤って殺めてしまった浪人の妻と恋仲になり、そのことを知った土方歳三に陥れられて心中に追い込まれるという設定でした。

もちろん、司馬氏の創作ですが。


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山南敬助の墓の横には、「沖田氏縁者」と刻まれた墓石があります。

過去帳に記載があるのみで真実はわからないそうですが、沖田総司の京都時代の恋人ではないかという声があとをたたず、昭和51年(1976年)にこの寺の住職が供養のために建てたそうです。

ただ、わたしがここを訪れたときの住職さんは、この墓は山南敬助と恋仲だった遊女の明里の墓ではないかと推理されていました。

山南は切腹の間際、駆けつけた明里と格子戸越しに最期の別れを交わしたという逸話が伝えられます。

住職いわく、山南の切腹の際、介錯の沖田に明里のことをよろしくと頼み、その約束を守った沖田が、明里を自分の縁者ということにしてここに葬ったんじゃないかと。

なんともドラマチックな推理ですが、沖田もこの3年後に病でこの世を去ります。

ってことは、明里はその前に死んじゃったってことになりますね。

山南の後を追った?

なんか、物語ができそうです。


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本堂には、山南や他の隊士たちの位牌がありました。

本当にここに眠っているんですね。

ちなみに、住職さんの話によると、大河ドラマで山南敬助を演じられた堺雅人さんも、ここを参られたそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2018-07-31 23:59 | 幕末京都逍遥 | Comments(2)  

西郷どん 第28話「勝と龍馬」 ~第一次長州征伐と勝海舟~

 わずか1日だけの戦闘で終わった禁門の変から4日後の元治元年7月23日(1864年8月24日)、朝廷より一橋慶喜に対して長州藩追討の命令が下ります。これを受けた慶喜は、翌日、西国諸藩に出兵令を出します。つまり、長州藩は正式に「朝敵」となったわけです。長州藩にとっては前年の八月十八日の政変で失った覇権を取り戻すための挙兵が、逆に、自分たちの首を絞める結果になったわけですね。ドラマでも少し触れていましたが、さらに、8月5日には、前年の馬関海峡における砲撃事件の賠償交渉が遅々として進まないことに業を煮やした英仏米蘭の四ヵ国連合艦隊17隻が馬関海峡に姿を現し、壇ノ浦砲台に向けて砲撃を開始。長州藩はコテンパンにやっつけられました。まさに、泣きっ面に蜂とはこのことでしょう。このときの長州藩は、国内外すべてを敵に回した究極のいじめられっ子でした。


e0158128_15131310.jpg 西国諸藩に出兵令を出した幕府は、尾張藩前藩主の徳川慶勝征長総督に据え、10月末に進軍を開始し、11月中旬には攻撃を開始することを決定します。薩摩藩軍賦役を務めていた西郷吉之助(隆盛)も、当然、薩摩兵を率いて従軍することになるのですが、ところが、進軍開始を目前にした10月24日、西郷は総督の慶勝に対して長州藩を降伏させる腹案を進言します。具体的には、禁門の変を指揮した三家老の切腹、それに従った四参謀の斬刑、藩主親子の蟄居謹慎など、「長人(長州人)を以って長人を処置させる」という寛大案でした。禁門の変以降、長州藩内でも政権交代があり、この時点では、幕府恭順路線に転換していました。西郷はこれより少し前に下交渉のための人物を派遣し(ドラマでは中村半次郎(桐野利秋)川路正之進(利良)でしたが、実際に派遣されたのは高崎五六でした)、長州が恭順姿勢にあることを事前リサーチしていました。この西郷の進言を受けた慶勝は、異例にも西郷を参謀格に抜擢し、長州藩の処遇を一任します。ドラマでは、一橋慶喜が慶勝は「飾り」だとして西郷に全権を与えていましたが、実際には、西郷を大抜擢したのは慶勝でした。


 この西郷の策によって、長州征伐は戦わずして決着をみます。このときの西郷の心中については、後世にさまざまな解釈をよんでいます。薩長同盟はまだ1年以上先のことですが、いずれ長州と手を結ぶかもしれないことを想定して布石を打った、という見方や、西郷はこのとき既に幕府の末路を予見していた、とか、あるいは、すでに西郷は雄藩の連合政権を着想していた、などなど、どれも結果を知っている後世から見た解釈という感じもしますが、いずれにせよ、ここで戦争して長州藩を叩くのは得策ではないと考えたのでしょうね。ここで下手に恨みを買うより、長州人自らに裁いてもらった方がいい。長州藩内部がもめていることを知り、それを利用したわけです。西郷はこの時期から、巨大な政治家としての手腕があらわれはじめます。


e0158128_17121459.jpg もっとも、ドラマのように西郷は最初から長州征伐に反対だったわけではなく、長州征伐の命令が下された当初は、武力行使論でした。そのことは、元治元年9月7日(1864年10月7日)付で国元の大久保一蔵(利通)に宛てた書簡中に「是非兵力を以て相迫り、其の上降を乞い候わば、僅かに領地を与え、東国辺へ国替迄は仰せつけられず候ては、往先御国(薩藩)の災害を成し、御手の延び兼ね候儀も計り難く」と記していることからもわかります。では、その後、なぜ、西郷に心境の変化があったのか・・・。そこで、よく言われるのが、勝麟太郎(海舟)との出会いですね。


 西郷と勝の出会いは9月中旬頃だったといわれますから、この大久保宛ての書簡のすぐあとのことですね。このとき幕府の軍艦奉行だった勝は、幕臣の身でありながら幕府中枢の悪態をさんざんについた上で、雄藩諸侯の合議制による共和政治の構想を西郷に吹き込んだといいます。西郷はこの会談で大いに目からうろこが落ちたようで、珍しく興奮した手紙を国元の大久保宛に送っています。西郷はこの勝との出会いによって、「倒幕」を意識するようになったといわれます。


e0158128_14540330.jpg その勝の門人・坂本龍馬と西郷の最初の出会いは正確にはわかっていませんが、おそらくは勝の紹介だったでしょうから、たぶん同じ頃だったでしょう。ふたりの出会いについては、晩年の勝が語った『氷川清話』での話がよく知られていますね。西郷と会見して神戸に帰ってきた龍馬が、勝に西郷のことを報告しようとしないので、「ニ、三日は、坂本より云い出すのを待ちたれども、遂に堪りかねて『西郷はだうだ』と軽く問ひかくるや」龍馬はこう言ったといいます。


 「なるほど西郷といふやつは、わからぬやつだ。少しくたたけば少しく響き、大きくたたけば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だらう。」


 あまりにも有名なエピソードですね。つまり、簡単にいえば、「つかみどころのない大人物」だといいたかったのでしょう。また、この龍馬のこの言葉の続きに、「残念なのはこれを突く撞木が小さかった」と、自分を西郷という鐘を突く撞木に例えて表現した言葉が有名ですが、これは上記『氷川清話』『追賛一話』などの勝の記録にはまったく記されておらず、出典がわかりません。おそらく後世に作られた脚色話と考えていいでしょう。


 龍馬との面会が西郷にどれほど印象を残したかはわかりませんが、勝との出会いは、明らかに西郷のその後に大きな影響を与えたようです。ふたりの歴史的会見はこの3年後のことですが、このときの会見も、歴史を大きく動かした瞬間だったといえるでしょうか。



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by sakanoueno-kumo | 2018-07-30 17:15 | 西郷どん | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その103 「新徳寺(清河八郎演説の地)」

前稿で紹介した壬生寺の東側の坊城通りを挟んですぐ向かいに、新徳寺というお寺があります。

ここは、は新選組にまつわる最初の大舞台となった場所です。


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新選組誕生の発端は、文久2年(1862年)に庄内藩郷士・清河八郎の献策を幕府が受け入れ、第14代将軍・徳川家茂の上洛の警護の名目で浪士を募集したことに始まります。

集まった230名余りの浪士たちは、翌文久3年(1863年)春、「浪士組」として将軍上洛に先がけて西上します。

しかし、これは清川が画策した謀略でした。

藩の後ろ盾を持たない清川は、幕府を出し抜いて、幕府の名で浪士を集め、これを天皇配下の兵力にして討幕勢力を作ろうとしたのです。

すごいことを考えたものです。


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浪士組が京に入ると、清川は230名余りの浪士たちを集め、熱弁をふるいます。

いわく、「われわれの上洛の真の目的は将軍警護にあらず、尊王攘夷の先鋒にある!」と。

清河の熱弁にうたれた200名はこれに賛同、翌日、清河は朝廷に建白書を提出することに成功します。

おそらく、清川には集団を扇動するカリスマ性があったのでしょうね。

その大演説の舞台となったのが、ここ新徳寺でした。


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しかし、少数ながら清川の扇動に異を唱えた者たちがいました。

それが、近藤勇・土方歳三・沖田総司・山南敬助・井上源三郎・永倉新八・原田左之助・藤堂平助ら武蔵国の試衛館組の8人と、芹沢鴨・新見錦・平間重助・平山五郎・野口健司ら水戸藩浪士の5人、計13名でした(17名説、24名説もあり)。

清川ら在京浪士組は在京20日余りで再び江戸に戻ることになりますが、近藤、芹沢ら13名は、あくまでも将軍警護のための京都残留を主張。

これが、やがて新選組へと発展していくんですね。

その歴史のターニングポイントとなった場所が、ここ新徳寺でした。


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残念ながら新徳禅寺は一般公開されていませんが、境内はほぼ当時のままだと言われています。

このお堂が、清川の大演説のステージだったのでしょうか?

いろいろ想像が掻き立てられます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-07-28 08:49 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その102 「壬生寺(壬生塚)」

前々稿で紹介した八木邸のすぐ南に壬生寺というお寺があるのですが、その境内に、新選組の隊士を祀る壬生塚があります。


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壬生寺は正暦2年(991年)、園城寺(三井寺)の僧・快賢が創建したと伝わります。

ご本尊に延命地蔵菩薩像(重要文化財)が安置されているほか、水掛け地蔵夜啼き地蔵など、多くのお地蔵様をおまつりしていることから、「お地蔵さんの寺」として知られています。


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ここが壬生塚の入口です。

参拝料は100円です。


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お堂を抜けると、池があり、その池の中州に壬生塚があります。

赤い橋を渡ると、何やら石碑が見えます。


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『あゝ新選組』の歌碑です。

歌うは昭和の大歌手・ミッチーこと三橋美智也さん。

・・・スミマセン、生まれてないので知りません。

ヒットしたんでしょうか?


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奥に誰かの胸像が見えます。


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これがその胸像です。

香取慎吾さん・・・じゃなかった、泣く子も黙る新選組局長の近藤勇です。


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前から思っていたのですが、サッカー日本代表ゴールキーパーの川島永嗣選手に似てませんか?


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胸像の横には近藤勇の遺髪塔があります。


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胸像のもう一方の横には、新選組ファンが書いた絵馬がずらり。


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こちらは、芹沢鴨平山五郎の墓。

新選組の内部抗争によって近藤一派に芹沢鴨が暗殺された話は有名ですが、そのとき一緒に殺された平山五郎は、あまり知られていません。

平山は芹沢と同じく水戸藩出身で、副長助勤を務めていました。


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芹沢と平山の墓の横には、隊士7名の合祀墓があります。

祀られているのは、阿比原栄三郎、田中伊織、野口健司、奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門、葛山武八郎の7人。

あまり有名じゃない人ばかりですね。

このうち、奥沢、安藤、新田は池田屋事件で討死したといわれ、野口と葛山は規律違反切腹、阿比原と田中は詳細不明です。

多数の隊士が命を落としていったなかで、なぜ、この7人が合祀されているのか不明です。


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そして、こちらは勘定方の河合耆三郎の墓。

この人は、新選組を題材にした物語ではよく採り上げられる人物なので、有名ですね。

帳簿で不始末を起こして切腹させられたといわれますが、粛清に至る経緯は諸説あって定かではありません。


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こちらは慰霊塔


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そして、こちらは顕彰碑です。


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ここ壬生寺の境内では、新選組の兵法調練場に使われたといい、また、ここで隊士が壬生狂言を観賞したり、新選組が相撲興行を壬生寺で企画し、寺の放生池の魚やすっぼんを採って料理し、力士に振る舞ったという逸話も残っているそうです。

また、一番隊組長の沖田総司が、境内で子供たちを集めて遊んでいた、なんて話も。

新選組にとって、ここ壬生寺は憩いの庭のような場所だったのかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-07-26 23:12 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その101 「旧前川邸跡(新撰組壬生屯所跡)」

前稿で紹介した八木邸跡から坊城通りを挟んですぐ東側に、旧前川邸跡があります。

ここも八木邸と同じく、初期の新選組の屯所となった屋敷です。


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文久3年(1863年)春、第14代将軍・徳川家茂の警護のために清河八郎率いる浪士組が上洛しますが、隣の八木邸と同じく、ここ前川荘司の屋敷もその宿舎のひとつとして使われました。

その後、八木邸に分宿していた十数名だけが京に残って新選組の前身である壬生浪士組となりますが、やがて人数が増えると八木邸だけでは手狭となり、ここ前川邸や南部邸(現存していない)なども屯所とするようになります。

そのなかでも前川邸の屋敷は最も広く部屋数も多かったようで、多くの隊員が生活していました。

やがて、浪士組が会津藩御預となると、前川邸は本格的に屯所として使われ始め、前川荘司一家は油小路六角にあった前川本家の両替店への避難生活を余儀なくされたといいます。

ほとんど乗っ取りですね(笑)。

前川邸を手に入れた新選組は、討幕派からの守りを固めるため、屋敷に手を加え、城塞化していきました。

屋敷を取り囲む塀は、ほとんどが板塀から土塀に改築し、長屋門には、監視のための出格子を取り付け、母屋の納戸からは、坊城通りへ脱出するための抜け道も作られたそうで、いまも抜け穴は残っているそうです。


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文久3年9月16日か18日(1863年10月28日か30日)、八木邸で芹沢鴨近藤勇一派によって粛清されますが、土方歳三ら刺客メンバーは、芹沢が島原遊郭からの帰還し、部屋の明かりが消えるのをここで見届けてから八木邸に討ち入ったといいます。

そして、翌日の芹沢の葬儀も前川邸で行われたと伝わっているそうです。

それから間もない文久3年9月26日(1863年11月7日)、長州の間者だった御倉伊勢武荒木田左馬之介が、前川邸の縁側で月代を剃っていたところを斎藤一林信太郎斬殺され、楠小十郎は門前で原田左之助殺害されました。

また、その年の暮れ、芹沢派の生き残りだった野口健司が、前川邸の綾小路通に面した一室で切腹したといいます。


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翌年の元治元年6月5日(1864年7月8日)、小道具の「桝屋」の主に扮していた攘夷派志士の古高俊太郎が逮捕され、過酷な拷問を受けて白状したことから、池田屋事件に発展しますが、その拷問が行われたのも、ここ前川邸の土蔵だったといいます。

古高に対する拷問は、2階から逆さ吊りにされて足の甲から五寸釘を打たれ、貫通した足の裏の釘に百目蝋燭を立てられて火をつけられるなどの過酷さだったとか。


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そして、さらに翌年の元治2年2月23日(1865年3月20日)、新選組総長の山南敬助切腹したのも、ここ前川邸だったといいます。

山南が切腹したのは坊城通に面した出窓の奥の一室だったと伝わり、山南の切腹を知って駆けつけた島原の遊女・明里が、その格子戸越しに最期の別れを交わしたという逸話が伝えられます(もっとも、現在ではこの逸話は子母沢寛による創作の可能性が高いといわれています)。


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旧前川邸は、現在も居住されており、一般公開はされていません。

ただ、週末だけ、新選組ファンのために一部公開してグッズ販売などをされています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-07-25 23:13 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その100 「八木邸跡(新撰組壬生屯所跡)」

二条城から1kmほど南下した洛西の壬生地区にやってきました。

壬生といえば、やはり新選組ですね。

そこで最初に訪れたのは、新選組の最初の屯所となった壬生村の郷士・八木源之丞の屋敷跡です。


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文久3年(1863年)春、第14代将軍・徳川家茂の警護のために清河八郎率いる浪士組が上洛しますが、その宿舎のひとつとして使われたのがここ八木家の屋敷でした。

清河ら浪士組のほとんどは、在京20日余りで再び江戸に戻りますが、ここに分宿していた芹沢鴨、新見錦、近藤勇、土方歳三ら十数人は、引き続き京都の警備のため残留します。

これが、のちに新選組となるんですね。


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入口には「新選組遺蹟」と刻まれた石碑があります。

側面には「昭和六年七月」とあります。


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その奥には、「新撰組屯所遺蹟」と刻まれた立派な石碑が。


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そして門の前には「誠」指籏が掲げられ、道中には説明板があります。


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ここから先は有料で、写真撮影はNGです。

見学料は1000円、抹茶付きです(笑)。


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新選組の前身、壬生浪士組の時代、彼らは近藤勇の一派芹沢鴨の一派に分かれていました。

そして彼らがここに居着いて半年ほどが過ぎた文久3年9月16日か18日(1863年10月28日か30日)、芹沢鴨が近藤一派によって粛清されます。

この現場となったのも、ここ八木邸でした。

刺客メンバーは諸説ありますが、土方歳三、沖田総司は確実に入っていたようです。

屋敷内には、そのときのものと伝わる刀傷が鴨居などに残っています。

写真で伝えられないのが残念。


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芹沢の死後、壬生浪士組は新選組と名を改め、池田屋事件以降は200名を超す集団へと成長し、慶応元年(1865年)夏に西本願寺に屯所を移しますが、それまで、ここが新選組の拠点でした。

まさに、新選組発祥の地といっていいでしょうね。

現在、屋敷は新選組ゆかりの建築として京都市指定有形文化財に指定されています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-07-24 23:59 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

西郷どん 第27話「禁門の変」 ~蛤御門の変~

今話はあまりにも史実とかけ離れた内容でしたね。まずは史実の解説から。


「八月十八日の政変」によって、長州藩を中心とする尊王攘夷派は都を追放されていましたが、京・大坂に潜伏していた残党と提携しながら、しきりに失地回復をはかり、ふたたび都への進出と勢力の奪還を目指していました。といっても、長州藩内が必ずしも挙党一致だったわけではなく、京都に乗り込もうとの進発論の急先鋒は、来島又兵衛、真木和泉らでしたが、久坂玄瑞高杉晋作らは慎重論を唱えており、桂小五郎(木戸孝允)は反対論でした。そんな情勢のなかで、元治元年6月5日(1864年7月8日)に起きた「池田屋の変」の報がもたらされます。来島や真木ら進発論派がいきりたったことは言うまでもありません。6月中旬から翌月上旬にかけて、長州藩の益田右衛門介、福原越後、国司信濃の三家老は諸隊を率いて東上、真木和泉をはじめ久坂玄瑞、入江九一らも行をともにし、7月中旬、長州藩兵および諸藩尊攘志士らは伏見、嵯峨、山崎方面に集結しました。


e0158128_19212335.jpg元治元年7月19日(1864年8月20日)、伏見、山崎、天龍寺の陣を出た長州藩兵は、まず、福原越後、益田右衛門介、国司信濃の3人が率いる隊が三方から京へ出撃しますが、対する会津藩兵桑名藩兵の守りは固く、行く手を遮られます。そんな戦況のなか、来島又兵衛率いる隊が強引に突っ込んで御所の中立売御門を突破。蛤御門に殺到しました。


又兵衛の部隊は門扉を突き破って突入し、大激戦を演じます。又兵衛自身は風折烏帽子具足、陣羽織を身にまとい、その出で立ちは元亀・天正の戦国武将さながらだったといいます。そんな又兵衛の奮闘もあって、一時は長州軍が押しまくる展開となりましたが、乾門を守っていた薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢は逆転。その薩摩藩兵の指揮官は、西郷吉之助(隆盛)でした。西郷は馬上の又兵衛さえ討てば長州軍は撹乱すると見、配下の川路利良に狙撃を命じました。しばらくして又兵衛は、胸を撃ち抜かれて落馬。死を悟った又兵衛は、自ら槍で喉を突いて自刃します。享年47。西郷のねらいどおり、この長州軍きっての豪傑の死から、長州軍の潰走が始まりました。


e0158128_15131310.jpg ドラマでは、西郷は来島のみを倒して幕引きさせようと目論んでいたところに会津兵が加勢してきて長州兵を壊滅させていましたが、史実ではまったくの真逆、西郷率いる薩摩兵が加勢したことによって形勢が逆転して長州兵が壊滅したのです。ましてや、この時点での西郷が、「長州と戦うつもりはない」などと言うはずがありません。たしかに、当初の西郷は、会津と長州の私戦として日和見をする考えだったようですが、その後の情勢を見て考えを変え、会津に加勢する策に方針転換したのは、ほかならぬ西郷でした。


ドラマ中、一橋慶喜が長州藩兵を京都から追い落とす命令を下すよう朝廷工作を行っていましたが、あれは史実です。慶喜は、これが受け入れられないと職を辞するとの脅しをかけていました。これに困った朝廷は、薩摩藩軍賦役の西郷を呼び出して意見を求めますが、このとき西郷は慶喜の意見を支持し、長州側が暴発し、命が下れば兵を出すと返答しています。この西郷の決断によって、禁門の変の薩摩兵の参戦の方針が決まったわけです。


 また、変後すぐに大久保一蔵(利通)に宛てた西郷の書簡には、「薩摩兵のみで長州兵を打ち破った」自慢げに記した上に、その後、「鷹司邸内に逃げ込んだ長州兵を火攻めにしたところ、敵兵は堪りかねて逃げ去った」と伝えています。これのどこに、戦を避けようという意思が見て取れるでしょうか? さらに、同じ時期に書かれた西郷の書簡には、長州藩兵を侮蔑した文章も見られます。西郷が長州藩に対して寛大な態度をとるようになるのは、この後の第一次長州征伐からのことで、それも、決して戦争反対といったヒューマニズムの観点からではなく、あくまで政治的判断によるものです。


 わたしは、史実史実揚げ足取りのような批判をするのは好きではありませんし、ドラマである以上、フィクションは不可欠だと思っています。ですが、やっていいことと悪いことがあり、今話は明らかに度が過ぎています。そもそも、慶喜との関係自体ありえない設定ですが、それはまあ目をつぶるとしても、この時点で桂小五郎(木戸孝允)と通じて、しかも、二人揃って慶喜に和平を願い出るなんて、やりすぎにもほどがあります。これは脚色ではありません。完全なる歴史の歪曲であり、先人に対する冒涜です。西郷は好戦家だったという通説に対して、それを否定する海音寺潮五郎氏のような見方もありますが、ここまでは酷くない。2010年の『龍馬伝』もそうでしたが、主人公を非戦論者聖人君子に描けばいいという浅知恵な妄想。ひどすぎます。この調子だと、先の戊辰戦争西南戦争の描かれ方も思いやられます。


 スミマセン。ちょっと興奮してしまいました。禁門の変の解説に戻ります。


戦いはわずか1日で終わりましたが、落ち延びる長州勢とそれを追う幕府勢の放った火で、晴天続きで乾燥状態にあった京のまちは、たちまち火の海と化します。その戦火は3日に渡って燃え続け、堀川と鴨川の間、一条通と七条通の3分の2が焼き尽くされました。『甲子兵燹図』に描かれたそのさまは地獄絵図さながらで、命からがら逃げおおせた人々も、山中から呆然と市中の火の海を眺めるばかりだったといいます。一説には焼失戸数は4万2千戸ともいわれ、253の寺社、51の武家屋敷が焼けました。市民は家を失い、家族と離れ離れになり、まちは蝿のたかる死体が積み上がりました。


後世に伝わる「禁門の変」「蛤御門の変」といった呼び名は、戦を起こした当事者であるのちの明治政府が、この戦いをなるべく小さな局地戦にみせるためにつけた名称で、当時の呼び方では、干支をとって「甲子(きのえぬ)の戦争」といわれたそうです。戦争でいちばん辛い思いをするのは何の罪もない庶民だということですね。21世紀のいまも変わらない事実です。だからこそ、戦史は美化せず、できるだけありのままに描かねばなりません。今回の禁門の変は、近年の大河ドラマ史上最低の禁門の変でした。



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by sakanoueno-kumo | 2018-07-23 19:32 | 西郷どん | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その99 「妙蓮寺(禁門の変時の刀傷)」

前稿で紹介した浄福寺から1kmほど北上したところにある妙蓮寺にも、幕末の刀傷が残されています。


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妙蓮寺は鎌倉時代の僧・日像によって創建された寺院で、全盛期には1km四方の境内に27ヶ院を有する大寺院でしたが、天明8年(1788年)の天明の大火災によってそのほとんどが焼失し、山門鐘楼を残すのみとなりました。

その後、寛政元年(1789)より復興して今日に至ります。


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鐘楼本堂です。


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本堂です。


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本堂前にある御会式櫻です。

ここを訪れたのは平成30年(2018年)3月17日でしたが、早咲きの桜が花を開いていました。


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そして、本堂奥の庫裏内の柱に、刀傷が残されています。


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こちらがその刀傷


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その伝承によると、元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)の際、長州兵がここに逃げ込み、落ち武者の捜索に訪れた薩摩藩兵(一説には新選組)によって柱に刀痕が残されたといいます。


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また、別の説では、妙蓮寺は禁門の変後に薩摩藩の野戦病院となったそうで、その後、慶応2年(1866年)に坂本龍馬の仲介で薩長同盟が締結したことを知った新選組が、怒ってここ妙蓮寺に押しかけ、山門で押し問答となりますが、天皇ゆかりの菊の御門を奉じていたため、その怒りを柱に残したといわれてます。

方丈小玄関に残る刀傷は、近藤勇・土方歳三・沖田総司らがのことしたと言われているそうで・・・。


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前述の説はともかく、後述の説は、眉唾ものでしょうね。

当時、薩長同盟は極秘に行われたもので、新選組ごときが知り得たとは思えませんし、その薩長同盟自体、長州藩ほど薩摩藩は重要視していませんでした。

ましてや、仮に新選組が知り得たとしても、単なる野戦病院だったここに押しかける理由が見当たりません。

そんな疑問を妙蓮寺の事務の方に投げかけたところ、苦笑されていました(笑)。

おそらく、禁門の変時の刀傷という説のほうが正しいのではないでしょうか。

なんでも新選組や坂本龍馬に結びつけて観光客を呼び込むというのは、あまり感心できません。


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写真は庫裏内の庭園です。

「十六羅漢の石庭」と呼ばれます。

また、写真撮影は禁止ですが、奥書院の四間に現代絵画家・幸野楳渓筆の「四季の襖絵」があります。



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by sakanoueno-kumo | 2018-07-22 19:40 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その98 「浄福寺(薩摩藩屯所跡)」

西陣にある浄福寺を訪れました。

ここは薩摩藩ゆかりの寺で、薩摩藩の屯所として利用されたと伝わります。


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写真は東門です。

見てのとおり朱塗りの門で、地元では赤門と呼ばれ、寺の名称も赤門寺と呼ばれたりするそうです。


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浄福寺と薩摩藩との縁は、天正20年(1592年)、豊臣秀吉朝鮮出兵に反対して自害に追い込まれた島津歳久が、ここに葬られたことに始まります。

鹿児島の竜ヶ水にて自害した歳久の首級は、肥前名護屋城にいた秀吉のもとに届けられ、首実検ののち、京都に送られて一条戻橋に晒されました。

ところが、ちょうどその時期に、歳久の従兄弟に当たる島津忠長が入京しており、大徳寺玉仲和尚と図って晒されていた歳久の首級を盗み出し、ここ浄福寺に埋葬したといわれます。

それから280年、浄福寺は薩摩藩と深い結び付きを持つようになります。


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時代は進んで幕末の慶応3年(1867年)4月、薩摩藩国父の島津久光西郷隆盛を従え、兵700人を引き連れて入京しますが、その際、二本松の藩邸(参照:その69)ではすべてを収容しきれず、ここ浄福寺の本堂や庫裏を宿舎として利用したと伝わります。


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その本堂です。


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そして、こちらが庫裏


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庫裏の入口の軒屋根を支える柱には、複数の刀傷があります。

これは、ここに駐屯していた薩摩藩兵がつけたものだといわれています。


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たしかに、どう見ても鋭利な刃物でつけたと見られる傷ですね。

それにしても、柱を斬りつけるなど、気性が荒い藩士がいたものです。


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司馬遼太郎の作品のなかで、浄福寺の薩摩藩士のことを書いた『薩摩浄福寺党』という短編があるのですが、そのなかで、司馬氏は次のように書いています。


「薩摩藩では、錦小路(参照:その42)にふるくから藩邸があったのだが、これでは足りないため、現在の同志社大学のあたりに二本松藩邸を造営し、それでもまだ不足があったので、西陣の浄福寺の客殿、本坊などが借りあげられたのである。この浄福寺を寮としているのは二十人ばかりの下級藩士で、年も若く、妙に乱暴者ばかりがあつまった。自然たれがいうともなく、「浄福寺党」という異名で呼ばれた。」


なるほど、ここにいた兵は、皆、乱暴者だったようです。


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上述した島津歳久の首ですが、280年間ここ浄福寺に埋葬されていましたが、明治5年(1872年)、歳久の末裔に当たる日置島津家14代島津久明が首を掘り起こして鹿児島に持ち帰り、また、鹿児島の帖佐の総禅寺に埋葬してあった胴体も同時に掘り起こし、共に竜ヶ水の平松神社(心岳寺)に改葬したそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-07-20 22:41 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その97 「古高俊太郎遺髪墓(福勝寺)」

前稿前々稿で紹介した教善寺・浄圓寺から北東に300mほどのところにある福勝寺に、古高俊太郎遺髪墓があります。

古高は攘夷派の志士で、池田屋事件の発端となった人物です。


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古高俊太郎は近江国大津出身で、京都に移住したのち梅田雲浜に師事し、尊皇攘夷思想を学びます。

その後、同士のひとりだった湯浅五郎兵衛の依頼で、湯浅喜右衛門の養子となり、小道具の「桝屋」を継いで枡屋喜右衛門と名乗ります。

その「桝屋」のあった場所は「その42」で紹介しています。


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小道具の「桝屋」の主となった古高でしたが、それは表向きの仮の姿で、密かに武器を集めて尊攘派を援助するなど、諜報活動の大元締めとして活動していました。

しかし、元治元年6月5日(1864年7月8日)、新選組に踏み込まれて捕縛され、武器弾薬を押収された上に、諸藩浪士との書簡血判書が発見されてしまいます。

新選組屯所に連行された古高は、近藤勇土方歳三から直々に厳しい取り調べを受け、当初は口を閉ざしていたものの、2階から逆さ吊りにされて足の甲から五寸釘を打たれ、貫通した足の裏の釘に百目蝋燭を立てられて火をつけられるなどの過酷な拷問を受け、ついに力尽きて自白します。

その内容は、数十人が徒党して、風向きを考えた上で御所に火を放ち、佐幕派公卿の中川宮朝彦親王を幽閉して京都守護職の松平容保ら佐幕派大名を殺害し、天皇を長州へ連れ去ろうという超過激な計画で、しかも、近々市中で同志の集会があることも判明します。

その会場が、池田屋だったわけです。

そして、あの池田屋事件につながるんですね。


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池田屋事件後も古高は「その90」で紹介した六角獄舎に繋がれていましたが、同じ年の禁門の変の際における火災で獄舎近辺まで延焼、火災に乗じて逃亡することを恐れた役人により、判決が出ていない状態のまま他の囚人とともに斬首されました。

享年36。


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処刑された古高の遺骸は遺族の元へは帰らず、明治元年(1868)、妹の智恵が兄の遺品である衣類遺髪を埋めて墓碑を建てました。

それが、この墓だそうです。

その10年後に遺骨はほかの処刑者たちとともに発見され、「その88」で紹介した竹林寺に埋葬されました。

また「その7」で紹介した東山霊山墓地にも、慰霊碑があります。




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by sakanoueno-kumo | 2018-07-19 23:21 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)