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幕末京都逍遥 その123 「岩倉具視幽棲旧宅」

洛北の旧岩倉村地区やってきました。

この村には、幕末、都から追放された岩倉具視幽棲した屋敷がありました。


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現在、その屋敷は国の史跡に指定されています。


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門の前には、「岩倉具視幽棲宅」と刻まれた石碑があります。


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文政8年(1825年)に参議正三位・堀河康親の次男として生まれた具視は、天保9年(1838年)に公卿・岩倉具慶の養子になります。

安政元年(1854年)には孝明天皇(第121代天皇)の侍従となり、次第に朝廷内において台頭し、発言力を増してきました。

若き日の具視は攘夷派で、幕府の推し進める日米修好通商条約の調印に反対して「廷臣八十八卿列参事件」の中心人物となりますが、その後、幕府との調和の必要性を悟り、公武合体をすすめるため、孝明天皇の妹・和宮親子内親王の将軍家への降嫁を推進ます。

このとき具視は、将軍・徳川家茂から直筆の誓書を提出させることに成功し、孝明天皇から直々にその功労を労われました。

具視の推し進めた公武合体は、あくまで朝廷主導の公武合体であり、一貫して朝廷権威の高揚に努めていたのですが、ところが、尊皇攘夷派は具視を佐幕派の巨頭と見るようになり、尊攘派の圧力によって失脚に追い込まれます。


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文久2年(1862年)8月に蟄居処分となって朝廷を去った具視は、落飾して西賀茂の霊源寺や洛西の西芳寺に身を隠しますが、同年10月に長男の岩倉具綱がここ岩倉村に住居を用意してくれたので、移り住みました。

以降、洛中への帰参が許される慶応3年(1867年)11月まで、この地で5年間も蟄居生活を送ることとります。


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岩倉村に移り住んだ当初は、藤屋藤五郎廃屋を借りて住んでいましたが、その後、元治元年(1864)大工の藤吉の居宅(現在の附属屋)を購入し、主屋繋屋を増築して住居としたのが、この屋敷です。


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その主屋です。


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茅葺の質素な外観の建物で西側に玄関である式台を設け、玄関、6畳の次の間、床の間のある6畳の座敷と東西一列に部屋が並ぶ間取りで、南側に縁側を設けています。


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慶応3年(1867年)になると、土佐の坂本龍馬中岡慎太郎、薩摩の大久保利通など倒幕派の志士たちが頻繁に具視のもとへ訪れるようになりますが、彼らとの面会は、この主屋で行われていたと伝わります。


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障子は具視の孫である東伏見宮周子が御所から譲り受けたものだそうで、外側から見ると普通の障子ですが、内側から見ると、変わったデザインになっています。


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主屋は、その東伏見宮周子によって昭和7年(1932年)に「鄰雲軒」と名付けられました。


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主屋の玄関


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主屋の北側にある附属屋です。

具視がここに移り住んだ当初は、この附属屋だけだったそうです。


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附属屋の中。


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主屋と附属屋の間の中庭


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主屋西側の中門と正門


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その中門をくぐると、主屋南側のがあります。

庭の向こうに、何やら墓石のような石碑が見えます。


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岩倉村瘞髪碑(遺髪碑)だそうです。

具視の遺髪が埋葬されているそうです。


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碑文は具視の右腕だった井上毅によるものです。


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遺髪碑の北隣には、具視の子息・岩倉具定、岩倉具経の碑もあります。

碑文は、大久保利通の子息・大久保利武によるものです。


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遺髪碑の東側には、具視手植のものと伝わる松の巨木があります。


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最後に、岩倉具視の遺品類や明治維新関係文書などを展示・収蔵するために昭和3年(1928年)に建設された「対岳文庫」です。

「対岳」とは具視の雅号で、ここ岩倉村に対峙する雄大な比叡山を見て名付けたそうです。

岩倉村で幽棲すること5年、王政復古の大号令とともに、具視は再び中央政界に復帰するべくここ岩倉村をあとにします。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-31 16:30 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その122 「忠成公(三条実万)隠棲地碑(薬師堂)」

前稿で紹介した葉山観音から西へ300mほど歩いたところある薬師堂に、「忠成公隠棲地」と刻まれた大きな石碑があります。

忠成公とは、幕末の公卿・三条実万の諡号。

あの明治の元勲・三条実美のお父さんです。


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清華家の三条家に生まれた実万は、光格天皇(第119代天皇)・仁孝天皇(第120代天皇)・孝明天皇(第121代天皇)に仕え、議奏、武家伝奏、内大臣などを歴任しますが、久邇宮朝彦親王(青蓮院宮・中川宮)近衛忠凞と親しく、安政5年(1858年)の日米修好通商条約調印には強く反対の立場をとります。


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また、将軍継嗣問題では一橋派に与して関白・九条尚忠と対立し、さらに、いわゆる戊午の密勅の降下にも参画したとして、幕府大老・井伊直弼による安政の大獄で失脚。

落飾、謹慎を命じられ、洛南上津屋村に隠棲したのち、安政6年3月27日(1859年4月29日)、一乗村のこの地に移ってきました。

しかし、ほどなく病に倒れ、約半年後の安政6年10月6日(1859年10月31日)に薨去します。

毒殺説なんかもあったりしますが、享年58ですから、当時の寿命を考えると、普通に病没だったんじゃないでしょうか。


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志半ばでこの世を去った実万でしたが、その遺志は息子の実美に受け継がれ、明治の元勲となります。

息子の栄達は、父の無念があったからこそだったでしょう。


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ここを訪れたのは平成30年(2018年)3月31日、桜が綺麗でした。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-30 23:45 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その121 「葉山観音(一燈寺)・梅田雲浜旧蹟碑」

洛北の一条寺にある葉山観音を訪れました。

正式には一燈寺といいます。

ここは、かつて梅田雲浜が住んでいたと伝わるお寺です。


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一燈寺は、江戸時代前期、後水尾天皇(第108代天皇)の皇女の朱宮光子内親王(元瑤禅尼)観世音菩薩を信仰し、堂宇を整備したのが始まりとされています。

東山三十六峰のひとつである葉山の中腹にあることから、「葉山観音」と呼ばれてきました。


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平成25年(2013年)の豪雨で境内に土砂崩れがあり、現在も復興されないまま立入禁止になっています。


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柵の間から中を覗くと、ルーシートに覆われた状態で放置されていました。


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境内には、「梅田雲浜旧蹟碑」と刻まれた石碑があります。

幕末、梅田雲浜の一家が、一時期、ここの堂守小屋に住んでいました。


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梅田雲浜は若狭国小浜藩出身の儒学者で、8歳にして藩校・順造館に入り、その英明さは大いに期待されましたが、頭脳が切れすぎたせいか、立場をわきまえずにものを言うところがあり、藩主への建言が幕府批判と取られ、藩籍を剥奪されてしまいます。

その浪人中に住み込んでいたのが、ここ一燈寺でした。

生活はたいへん苦しかったようで、西郷隆盛が雲浜を尋ねてここを訪れたときには、着ていた着物を質に入れて酒を買い、もてなしたといいます。


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その後、雲浜は「その45」で紹介した屋敷に移住し、そこで安政の大獄によって捕らえられ、獄中死します。

その墓は、「その12」で紹介した安祥院にあり、東山霊園に慰霊碑があります。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-29 23:59 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

西郷どん 第32話「薩長同盟」その2 ~薩長盟約~

 昨日の続きです。

 慶応2年1月21日(1866年3月7日)、小松帯刀寓居の「御花畑御屋敷」において、薩長同盟が成立しました。これまで何度も大河ドラマで描かれてきた薩長同盟のくだりですが、今回もいつもどおりの通説に沿った設定で描かれるのかと思いきや、坂本龍馬が最初から同席していたり、いるはずのない伊藤俊輔(博文)がいたり、大山格之助(綱良)有村俊斎(海江田信義)が怒鳴り込んできたりと、トンデモな展開でしたね。今までにない薩長同盟を描こうという趣旨だったのかもしれませんが、ちょっとやり過ぎだったんじゃないでしょうか。大事な回ですからね。なので、ここでは通説に沿って解説します。


e0158128_21461967.jpg 慶応2年(1866年)1月8日、京都で薩摩と長州の会談が始まります。薩摩側は小松帯刀、桂右衛門、島津伊勢の3家老と、西郷吉之助(隆盛)、大久保利通、吉井幸輔、奈良原繁らの出席がわかっていますが、長州側は桂小五郎(木戸孝允)ひとりでした。この席には、坂本龍馬中岡慎太郎土方楠左衛門(久元)もいませんでした。ここまで斡旋したのだから、あとは当事者同志に任せるといったところだったのでしょう(お見合いみたいですが)。ところが、会談が始まって10日が過ぎた1月20日、京に入った龍馬は愕然とします。協定はまとまらぬまま、桂は帰ろうと身支度をしていたのです。桂がいうには、西郷らは毎日接待に気を使い、ご馳走攻めにはするものの、一言も両藩の協定について口火を切ろうとしない・・・とのこと。「ならば、なぜ長州から口火を切らぬ。」と龍馬が尋ねると、「それは出来ぬ。」と桂はいいます。曰く、両藩の立場が違う・・・と。その理由を後年の桂の回顧録『木戸孝允自叙ノ要領』から抜粋すると、

「薩州ハ公然天子ニに朝シ、薩州ハ公然幕府ニ会シ、薩州ハ公然諸侯に交ル」と。
 つまり、合法的に天子とも幕府とも諸侯とも交われる立場の薩摩に対して、孤立無援の長州から協定の口を開くということは、助けてくれというのと同じだ・・・というんですね。これを聞いた龍馬は激怒します。いつまで「藩」の体面にこだわっているのか、と。
 「拙者らが両藩のために寝食を忘れて奔走するのは、決して両藩のためではない。一意国家を思えばこそだ。しかるに貴兄らは足を百里の外に労し、両藩の重役相会しながら今日まで為す事もなく日を送るのは、はなはだ心得ぬことではないか。」と。
 のちに龍馬は、亀山社中の中島作太郎に、「おもえば自分は生まれてこのかた怒ったことがなかった。しかしあのときばかりは、度を失うほどに腹が立った。」と語っています。

e0158128_14540330.jpg 桂は龍馬の怒りを理解できなくはなかったでしょうが、感情がそれを許さなかったのでしょう。感情は理屈ではありません。これまでの長州人の苦しみを考えれば、理屈ではどうにもならない意地がありました。その意地を貫くためなら、長州は滅んでもかまわない・・・とまで桂はいいます。
「薩州、皇家ニ尽スアラバ、長州滅スルトイヘドモ亦天下ノ幸ナリ」と。
 長州は面目にこだわりはしたが、「天下」のことを考えていないわけではない。薩摩が生き残り、皇国のために奮闘してくれるならば、長州は滅んでもかまわない、と。この言葉を聞いた龍馬の態度は、また『木戸孝允自叙ノ要領』の文章を借りると、
「龍馬、黙然タルコト稍久シク、桂ノ決意牢固トシテ容易ニ動カスベカラザルヲ察知シ、マタ敢ヘテ之ヲ責メズ。」とあります。

龍馬は桂の立場を理解しました。

 その足で龍馬は、西郷のもとに駆けつけます。薩長両藩の提携は、その目前に際して、感情の整理が必要だったんですね。龍馬は西郷に対して、薩摩と長州のおかれた立場があまりにも違いすぎることを説きます。そして、この期に及んでなおも藩の体面と威厳を保とうとする薩摩を責めました。西郷は龍馬の説くところを理解します。そして翌日、もう一度桂と会い、西郷から長州との提携の議をもちだしました。同席したのは、薩摩側から西郷、小松、長州側から桂、そして仲介人として龍馬の4人でした。


e0158128_15131310.jpgこれが、これまで通説となっている薩長同盟の経緯ですが、ただ、この話は、桂が後年に語った回顧録のみを史料としたものであり、史実かどうかはわかりません。木戸が多少話を盛っているかもしれませんしね。また、薩長両藩とも互いのメンツにこだわって同盟話を切り出さずに暗礁に乗り上げかけたときに、遅れて来た龍馬が西郷一喝し、同盟が成立したという話がよく知られていますが、これも、「西郷を一喝した」という記録はどこにも存在せず、木戸の回顧録にもありません。後世の脚色のようですね。龍馬が遅れて来たのは事実で、龍馬が来てからすぐに同盟が成立したのも事実ですから、龍馬が同盟の成立に何らかの役割を果たしたのは事実かもしれませんが。


また、一般に、薩長同盟の締結によって薩摩・長州両藩がともに幕府に対抗することを確認し、明治維新に向けての大きな転換点となった重大な同盟という認識ですが、実は、歴史家の間では、この同盟は薩長間に大きな温度差があったのではないか、と見られています。というのも、それほど重要な会談でありながら、その内容はその場で記録されず、正式な盟約書も残されていません。ドラマでは薩長の間で合意文書が交わされていましたが、あれはドラマの創作です。現在伝わっている6ヶ条の内容は、会談の翌日に木戸孝允が、同席していた坂本龍馬に宛てて確認のために送った書簡によるもので、その書簡の裏面に木戸の要請で龍馬が朱書をしたものだけです。そのことから、長州側にとっては、この会談の持つ意味は大きかったものの、薩摩側からすれば、「同盟」というほど大袈裟なものではなく、単に意思確認をしただけだったのではないか、とも見られ、しかし、会談による何らかの成果を持ち帰りたかった木戸が、書簡に龍馬の裏書きを求めたのではないか、と考えられています。確かに、正式な盟約書が存在したのなら、龍馬の朱書きなんて必要ないですもんね。そんな観点から、「同盟」といわれるだけの内実を有していないという理由から、学会では「薩長盟約」という表現が用いられています。


薩長間の温度差はあったかもしれませんが、この同盟(盟約)によって幕末の歴史が大きく動いたことは間違いありません。歴史はいよいよ「倒幕」の道をたどることになります。



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by sakanoueno-kumo | 2018-08-28 22:59 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第32話「薩長同盟」その1  ~非義の勅命は勅命にあらず~

e0158128_17375658.jpg「非義の勅命は勅命にあらず」


 2度目の長州征伐勅命が下った際の大久保利通の有名な言葉ですが、ドラマでは省かれていましたが、この言葉に至るまでに、大久保は長州再征中止を訴える朝廷工作に奔走していました。


慶応元年(1865年)9月、上京していた大久保は、長州再征の決議は諸侯の衆議で決めるべきだと、内大臣・近衛忠房山階宮晃親王に説いてまわりますが、しかし、20日から21日明け方にかけての朝議で、一橋慶喜の強硬な主張によって長州再征が内決します。これを知った大久保は、尹宮朝彦親王(中川宮)のもとに駆けつけ、長州再征には諸侯のほとんどが反対しているため、再征を勅許しても大半の諸侯は出兵しないだろうといい、そうなれば、諸侯の大半が長州藩と同じく朝敵となってしまうが、それでもいいのか、と迫りました。しかし、朝彦親王に大久保の訴えを聞き入れる力はなく、それでも執拗に食い下がる大久保に辟易とした朝彦親王は、その圧力に押され、関白・二条斉敬宛の直書を書かされます。


e0158128_20093839.jpg 朝彦親王の直書を持った大久保は、すぐさま二条関白邸を訪れ、参内前の関白を引き止めて朝議を改めるよう3時間あまりに渡って議論して食い下がったといいます。関白は大久保の訴えに理解は示したものの、すでに内決しているためどうにもならないと答え、逆に、どうしたら良かろうと大久保に尋ねる始末だったといいます。大久保はここまで関白を追い込んでいました。この押しの強さは、西郷吉之助(隆盛)にはない大久保の真骨頂といえるでしょう。その後、大久保に捕まっていたため遅刻して参内した二条関白は、長州再征をもう一度考え直すよう提案したようですが、一橋慶喜の強硬な反対によって朝議が停止され、その後、孝明天皇叡断によって長州再征の勅許が下りました。天皇直々の決定とあらば、大久保としてもこれ以上は手の打ちようがありませんでした。翌22日の朝、大久保は朝彦親王の邸を訪れ、こう言い放ったといいます。


 「朝廷是限り」


 かつては同志だった朝彦親王に対する決別の捨て台詞ですね。この朝のことは『朝彦親王日記』に記されているので、実話と見ていいでしょう。後年、大久保は岩倉具視三条実美といった公家出身の人物と深く関わりながらも、心から信用することはなかったといいますが、この頃の経験からきたものだったかもしれません。


 翌23日、大久保は西郷に宛てて事の顛末を伝える長文の手紙を送っています。


「もし朝廷これを許し給ひ候はば、非義の勅命にて、朝廷の大事を思ひ、列藩一人も奉じ候はず、至当の筋を得、天下万民御尤もと存じ奉り候てこそ、勅命と申すべく候へば、非義の勅命は勅命に非ず候ゆゑ、奉ずべからざる所以に御座候」


ここで、「非義の勅命は勅命にあらず」が出てくるんですね。たとえ勅命といえども、万人が承服できない非正義のものならば、それは勅命ではない・・・と。大久保の覚悟のほどが窺える言葉ですね。と同時に、この当時の天皇観は、後世のそれほど絶対的な存在ではなかったことがわかります。彼らは「尊皇」スローガンに立ち上がった志士たちでしたが、天皇は尊ぶべき存在ではあっても、必ずしも従うべき存在ではなかったんですね。のちにこの手紙は、坂本龍馬によって長州藩の面々にも届けられます。幕府とも朝廷とも決別した薩摩藩が長州藩と手を組むのは、当然の流れだったといえるかもしれません。


 やっぱり長くなっちゃいました。薩長同盟のくだりは明日の稿にて。


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by sakanoueno-kumo | 2018-08-27 20:11 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その120 「圓光寺(村山たか墓所)」

前稿で紹介した金福寺でその生涯を終えた村山たかは、その本寺である圓光寺に葬られました。


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圓光寺の開基は徳川家康とされています。

慶長6年(1601年)、家康は国内教学の発展を図るため、下野足利学校第9代学頭・三要元佶(閑室)禅師を招き、伏見に圓光寺を建立して学校としました。

その後、相国寺内に移され、に寛文7年(1667年)に現在地に移されたそうです。


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山門をくぐると、いきなり視界に枝垂れ桜が飛び込んできます。


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見事な枝垂れ桜です。


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品種に詳しくはないのですが、八重桜に似ているように思います。

ソメイヨシノエドヒガンなどより、鮮やかなピンクです。


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こちらは瑞雲閣


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そして本堂です。


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こちらは坐禅堂


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鐘楼


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そして、その奥にある墓地に、村山たか女墓があります。

こちらがその墓石です。


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たかは明治9年(1876年)に67歳で亡くなりました。

若き日の井伊直弼と情交を結び、直弼が幕府大老となると、大老の元カノとして京都に潜み、直弼のスパイとして働いたと伝わる村山たかですが、長らく、彼女と直弼の具体的な関係は不明でした。

ところが、平成23年(2011年)の末に京都市東山区の井伊美術館で直弼がたかへ宛てた手紙が発見され、その手紙は直弼が20代後半に書かれたものと思われ、藩の反対でたかと会えなくなった際の辛い心情が綴られていました。

この手紙によって、伝承が事実だったことが立証されました。


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若き日のたかは、芸妓となってシングルマザーになったと思えば直弼の愛人になり、直弼と別れると直弼のブレーンだった長野主膳と男女の関係になったともいわれ、恋多き女というイメージですが、直弼の死後はとなってその菩提を弔いながらストイックな晩年を過ごします。。

彼女が悪女だったのかどうかはわかりませんが、きっと、魅力的な女性だったのでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-26 00:22 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その119 「金福寺(村山たか隠棲地)」

前稿で紹介した詩仙堂から200mほど南下したところにある金福寺は、幕末の女スパイ・村山たかが晩年を過ごした隠棲地と伝えられます。


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金福寺は貞観6年(864年)に慈覚大師円仁の遺志により、安恵僧都が創建したと伝えられる古いお寺です。

その後、荒廃していましたが、元禄年間(1688年~1704年)に圓光寺鉄舟によって再興されました。

その後鉄舟と親しかった松尾芭蕉が、京都に旅行した際に庭園の裏側にある草庵を訪れ、風流を語り合ったとされたため、のちに芭蕉庵と名付けられたそうですが、その後、荒廃していたため、芭蕉を敬慕する与謝蕪村とその一門が安永5年(1776年)に再興しました。


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幕末、幕府大老・井伊直弼スパイとして働いた村山たかが尼として入寺し、ここで生涯を閉じました。

山門横には、たかが創建したとされる弁天堂があります。


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20歳で祇園の芸妓となったたかは、男児を出産するもシングルマザーとなり、子供を連れて生まれ故郷の彦根に帰りますが、そこで、当時、部屋住みとして過ごしていた井伊直弼と出会って男女の関係となります。

直弼は彦根藩第14代藩主・井伊直中十四男で、本来は藩主の座に就く可能性はほとんどゼロに近い境遇でした。

だから、芸者崩れと情交を結んでも、誰も咎めたりはしなかったのでしょうね。


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ところが、直弼はその後、数奇な運命によって藩主の座に就き、さらに、幕末の混乱した政局のなか、幕府大老職に就任します。

たかは捨てられました。


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しかし、その後、たかは直弼のブレーンだった長野主膳に保護され(一説には男女の仲となり)、安政の大獄の際には京都にいる反幕府勢力の情報を江戸に送るスパイとして暗躍します。

彼女が主膳に送ったタレコミの手紙が何通も残っているそうです。

たかは日本の政権に属した女性工作員としては、史上初めて名をとどめる存在となります。


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安政7年3月3日(1860年3月24日)に起きた桜田門外の変で直弼が暗殺されると、文久2年(1862年)にたかも尊攘派の志士たちに捕らえられ、三条河原に3日3晩生き晒しにされましたが、女性ということで殺害は免れます。

しかし、息子の多田帯刀は母親のかわりに土佐藩の岡田以蔵らによって斬殺され、首を晒されました。


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その後、たかは出家してここ金福寺に入り、明治9年(1876年)に67歳で亡くなるまでの14年間を尼僧としてここで過ごします。


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本堂内には、たかにまつわる品々が展示されています。

上の写真は、「たか女晒し者の図」


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こちらは、たかが59歳のときに刺繍した壇引だそうです。


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たかの筆跡だそうです。


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こちらは、長野主膳の妻・多起に宛てた書状だそうです。


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境内の裏山には、たかの参り墓があります。

彼女の本墓は圓光寺にありますが、ここ金福寺にも、彼女の菩提を弔うための本墓の土を埋め、彼女の筆跡を刻んで参り墓としたそうです。


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たかは、舟橋聖一の小説『花の生涯』ヒロインとして、昭和になってその名を広く知られるようになりました。

『花の生涯』は、NHK大河ドラマの第1作目となった作品でもあります。

自称大河フリークのわたしですが、さすがにこの作品は生まれる前なので知りません。


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金福寺には、芭蕉庵や与謝蕪村の墓などもありますが、幕末シリーズとは関係ないので、また別の機会に紹介します。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-25 00:59 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(5)  

幕末京都逍遥 その118 「詩仙堂」

洛北の一乗寺地区にやってきました。

まず初めに訪れたのは、詩仙堂

江戸初期の石川丈山が寛永18年(1641年)に造営、隠棲した山荘跡で、国の史跡に指定されています。

ここに、長州藩御楯組のメンバー、久坂玄瑞寺島忠三郎の位牌が安置されています。


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久坂と寺島は、元治元年7月19日(1864年8月20日)に起きた「禁門の変」(蛤御門の変)で落命しました。

激情型過激派志士が多かった長州藩士のなかで、ギリギリまで慎重論を主張していた久坂は、戦いが始まってもなお、朝廷への嘆願をあきらめずに公卿の鷹司輔煕に篭って孝明天皇への取り次ぎをすがりますが、やがて薩摩・会津軍に包囲され、万策尽きた久坂は、ともに行動していた寺島と刺し違えて自刃します。

玄瑞25歳、忠三郎22歳でした。


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その後、ふたりの遺体は、「その69」で紹介した福井藩の京の菩提寺である上善寺に葬られたという説と、ここ詩仙堂に葬られたという説があり、定かではありません。

ただ、上善寺には伝承しか残っていませんが、ここ詩仙堂にはふたりの位牌があるそうですから、こちらの方が信憑性があるといえるでしょうか。


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明治に入り、太政官布告によって改葬され、今は「その5」「その6」で紹介した京都東山霊山に墓があります。

また、久坂の墓は、地元・山口県にもあります。

もっとも、東山の墓に遺骨が埋葬されているのかはわかりません。


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ふたりの遺体が一時的でもここに埋葬されていたのだとすれば、どのような縁があったのでしょうね。

ここを造営した石川丈山は徳川家康の家臣でしたから、ここは、徳川家に縁の深い寺院でした。

丈山は90歳までこの山荘で悠悠自適の風雅な暮しをしたそうで、その一室の壁に、狩野探幽に描かせた中国の詩仙36人の肖像と詩があることから、いつの頃からか「詩仙堂」と呼ばれるようになったそうです。


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室内は撮影禁止ですが、庭園はOKでした。


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ここを訪れたのは平成30年(2018年)3月31日。

桜の綺麗な季節でした。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-24 00:53 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その117 「妙法院(七卿西竄紀念碑)」

前稿で紹介した智積院のすぐ北隣にある妙法院に、七卿西竄紀念碑があります。

「七卿」とは、八月十八日の政変で京を追われた追われた尊王攘夷派の公卿7人のことです。

世にいう「七卿落ち」ですね。


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写真は山門です。


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上の写真は国宝に指定されている庫裏です。

桃山時代に作られた国内最大級の建物だそうで、豊臣秀吉方広寺大仏殿「千僧供養」を行った際に、台所として使用されたと伝えられています。


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こちらは唐門です。


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そして大玄関


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庭園内にある七卿西竄紀念碑です。


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文久3年8月18日(1863年9月30日)に公武合体派が起こしたクーデター、世にいう「八月十八日の政変」で、長州藩士と尊王攘夷派の公卿が京から追放されますが、その際、一旦ここ妙法院に入り、今後どうすべきかを話し合ったといいます。


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七卿のメンバーは、三条実美、三条西季知、東久世通禧、壬生基修、四条隆謌、錦小路頼徳、澤宣嘉の7人で、いずれも尊王攘夷派の公家でしたが、このうち公卿の列にあるのは三条実美と三条西季知の2人だけで、二卿五朝臣といった言い方をされる場合もあります。


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この石碑は、有栖川宮威仁親王篆額を得て大正元年(1929年)9月に建立されたものだそうです。


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石碑の斜め向かいにある宸殿です。

妙法院に入った七卿は、この宸殿で密議を行ったと伝わります。

話し合いの結果、いったん長州藩に落ち延びることに決定し、19日早朝、久坂玄瑞に率いられて出発しました。

雨が降っていたといいます。


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その後、七卿のなかの錦小路頼徳は元治元年(1864年)に病没し、澤宣嘉は生野の変で挙兵したのちに脱出して四国伊予小松藩周辺に匿われ、その後、長州に脱出、あとの五卿は第一次長州征伐の後に筑前国太宰府に移されます。

やがて王政復古の大号令によって赦免されると、三条実美は太政大臣内大臣、澤宣嘉は外務卿、三条西季知は参与神宮祭主、東久世道禧は枢密院副議長貴族院副議長となるなど、それぞれ明治政府の要職に就きました。

そんな七卿の原点が、ここ妙法院だったわけです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-22 23:19 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

西郷どん 第31話「龍馬との約束」その2 ~西郷すっぽかし事件~

 昨日の続きです。

 このとき西郷吉之助(隆盛)坂本龍馬を同行して鹿児島に帰国したのは、幕府からの征長出兵命令を拒否する藩論をまとめるためでした。この少し前に西郷が国元に宛てた報告書のなかに、つぎのような文章があります。


「いつ迄も共和政治をやり通し申さず候ては、相済みまじく候間、能々(よくよく)御勘考下さるべく候。若(もし)、此策を御用ひこれなく候はゞ、断然と割拠の色を顕はし、国を富すの策に出でず候はでは相済申すまじき候義と存じ奉り候。」


 文中、「割拠」という言葉が使われています。「割拠」とは、戦国時代で言うところの群雄割拠のようなもので、つまり、幕府から独立して藩単位での独立国家化の方針のようなものと考えていいでしょう。「倒幕」といった過激な言葉はまだ出てきませんが、明らかに幕府を見限り始めていたことがわかりますね。そして、もう一藩、幕府を見限って「割拠」しようとしていた藩がありました。長州藩です。長州藩の場合、すでに事実上「割拠状態」といっても良かったでしょう。となると、「割拠」を藩論としていた薩摩と長州が手を結べば・・・という機運が高まり始めるんですね。のちの薩長同盟締結が、坂本龍馬と中岡慎太郎がやってのけたアクロバット的な芸当のように描かれることが多いですが、実はそうではなく、誰もが着想できた自然な流れだったといえるでしょう。彼らは、単にその橋渡し役として歴史に選ばれたに過ぎなかったわけです。


e0158128_17092730.jpg 薩長の手を結ばせるために奔走し始めた中岡たちは、西郷が上京する際、何としても下関に立ち寄らせようと考え、中岡が鹿児島に赴いて西郷を説得し、龍馬と土佐藩士の土方楠左衛門(久元)の二人は下関で桂小五郎(木戸孝允)を説得します。しかし、桂は容易に受け入れません。当然のことでした。そもそも、長州が瀕死の状態にあるのは、薩摩が土壇場で会津と組んだからで、長州人からすれば、薩摩人は恨んでも恨みきれない相手だったからです。前年の禁門の変以来、長州藩兵は履物に「薩賊会奸」などと書きつけて踏みつけるようにして歩いたとされ、その遺恨は藩全体に浸透していました。そんな中、薩摩と手を組むことを承諾したとなれば、長州藩内で桂が命を狙われかねません。しかし、このまま何も手を打たなければ長州藩は立ち行かなくなるということも、桂は十分にわかっていました。そんな桂だからこそ、龍馬は説きに説き、ようやく納得した桂は、下関で西郷を待つと約束し、龍馬とともに慶応元年(1865年)閏5月21日まで待ちます。


ところが、下関に姿を表したのは、顔面蒼白となった中岡ひとりでした。西郷は来なかったんですね。ドラマでは、中岡の要請を鹿児島にいた時点で丁重に断り、その名代として有村俊斎(海江田信義)に書状を託して下関に向かわせていましたが、史実は違います。西郷は確かに中岡の説くところを了承して下関へ向かったのですが、閏5月18日、佐賀まで来たとき、急に「幕府征長に反対する朝議を固めるのが先決」と言い出し、中岡がいくら説得しても断固として動かず、中岡を佐賀に下ろし、京へ直行してしまいました。有名な西郷のすっぽかし事件です。なんでドラマでは変えちゃったんでしょうね。


e0158128_15131310.jpg 西郷がすっぽかした理由については、明快な史料が残っておらず、ことの真相は謎のままです。たしかにこの時期、幕府14代将軍・徳川家茂が大軍勢を率いいて上洛しており、長州再征をめぐる動きが緊迫していたのは事実でした。しかし、歴史家さんなどの見解によれば、ぐさま西郷が上洛しなければならないほど急を告げる情勢でもなかったと説きます。では、なぜ西郷は突然すっぽかしたのか。龍馬とともに桂を説得した土方の回顧談によると、このとき西郷の説得にあたっていた中岡は、西郷を「ようやく納得させて」下関に向かわせたといいます。この「ようやく」というのが事実なら、この時点では、西郷は長州と手を結ぶことにそれほど積極的ではなかったということになります。長州と手を結ぶとなると、藩主父子の承諾も取り付けなければなりません。きっとそれは、容易ならざることだっただろうと想像できます。そんなこんなで、一旦は押し切られて承諾したものの、途中で煩わしくなったのかもしれませんね。まあ、わかるような気がしないでもないです。


 ただ、結果として下関で待っていた桂と龍馬は、文字通り「待ちぼうけ」を食らってしまいました。桂が激怒したのはいうまでもありません。この西郷すっぽかし事件によって、薩長同盟計画は振り出しに戻ります。


 薩摩と長州が手を結ぶには、もう少し時間が必要だったのでしょうね。これまでの歴史を鑑みると、中岡や龍馬も、少し事を急ぎ過ぎたのかもしれません。薩摩と長州はまだ「和解」もしていなかったわけですからね。その「和解」を飛び越え、いきなり「提携」すなわち「同盟」に進もうとしたわけで、これが失敗だったといえるかもしれません。薩長が手を結ぶまでには、まだあと8ヵ月ほどの時間が必要でした。



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by sakanoueno-kumo | 2018-08-21 23:45 | 西郷どん | Trackback | Comments(6)