人気ブログランキング |

<   2018年 09月 ( 25 )   > この月の画像一覧

 

幕末京都逍遥 その141 「坂本龍馬避難の材木小屋跡」

「その138」で紹介した寺田屋で伏見奉行所の捕り方の襲撃を受けた坂本龍馬三吉慎蔵は、からくも脱出に成功しますが、龍馬は数日前から風邪をひいていてがあり、また、襲撃時の戦闘によって負傷した指の傷がかなり深く、出血多量による極度の貧血も重なって動けなくなります。

やむを得ず、川端の材木小屋を見つけて密かに忍び込み、身を潜めました。

現在、その材木小屋があったと推定されている場所には、「坂本龍馬、避難の材木小屋跡」と刻まれた石碑が建てられています。

石碑は寺田屋から直線距離にして400mほど北西にある大手橋の傍にあります。

普通に大人の足で歩けば5~6分の距離ですが、そこで力尽きるほど龍馬は弱っていたんですね。


e0158128_20561485.jpg


材木小屋の棚の上に隠れていたふたりでしたが、このとき奉行所が派遣した幕吏50人とも100人とも言われ、負傷した身で見つからずに逃げおおせるのは不可能でした。

もはや助かる道はなしと覚悟した三吉は龍馬に、ここで武士らしく切腹して果てようと進言します。

しかしそれを聞いた龍馬は、こう答えました。


「死ハ覚悟ノ事ナレバ、君ハ是ヨリ薩邸ニ走附ケヨ。若シ途ニシテ敵人ニ逢ハゝ必死夫レ迄ナリ僕モ亦タ與所ニテ死センノミト」


意訳すると、「死ぬ覚悟ができているのならば、君はこれより伏見薩摩藩邸へ走ってくれ。もし、その途中で敵に会えばそれまでだ。僕もまた、この場所で死ぬまでだ。」といったところでしょうか。

「生き死には天にまかせろ。切腹して果てるのも、敵に首を討たれるのも、死ぬことに変わりはない。ならば、体の動く限り生きることを考えろ。」ということですね。

このエピソードは、『三吉慎蔵日記抄録』の中に記されている話で、後年の三吉が語ったものです。

龍馬の死生観を窺えるエピソードですよね。

龍馬にまつわる数々のエピソードのなかで、私の最も好きな話です。


e0158128_20562308.jpg


龍馬に説得された三吉は、川で染血を洗い、わらじを拾って旅人に身を変じ、伏見薩摩藩邸に駆け込んで救援を求めました。

薩摩藩邸へはすでにお龍が知らせていたので、その留守居役だった大山彦八は、薩摩藩の旗印を掲げたを出して龍馬を救出に向かい、無事助け出しました。

その川が、下の写真です。

石碑のすぐ東に流れています。


e0158128_21061065.jpg


伏見薩摩藩邸はこの川を500mほど北上した場所にありました。

材木小屋のあった場所は、『三吉慎蔵日記抄録』では濠川の左岸南方にあったと伝えており、ここ大手橋付近の説と、もう少し薩摩藩邸に近い土橋付近の説があるそうです。

伏見観光協会などでは、大手橋の説をとってこちらに碑を建てたそうです。


e0158128_21071239.jpg


このとき京の薩摩屋敷にいた西郷隆盛は、翌朝この知らせをうけ、彼を知るまわりの者たちも生涯見たことがないほどの怒気を発したといいます。

そして、おそらく伏見奉行所が龍馬たちの引き渡しを要求に来るであろうと見た西郷は、兵力に訴えてでも拒否するという方針を示し、薩摩藩自慢の英国式一個小隊をつけ、吉井幸輔(友実)に指揮官を命じ、伏見薩摩屋敷の警護にあたらせ、さらに、龍馬の負傷を聞いて藩医・木原泰雲も同行させました。

このときの薩摩の行動に対して、「実に此仕向けの厚き、言語に尽す能はず。」と、『三吉慎蔵日記抄録』に記されています。

龍馬と三吉のギリギリの「大脱出」物語

このとき龍馬が三吉に言った言葉が、龍馬をあと1年10カ月の間生かすこととなり、三吉慎蔵にいたっては明治34年(1901年)まで生かすことになります。

龍馬にとって三吉は命の恩人であることは間違いないですが、三吉にとっても、龍馬は命の恩人といえるかもしれません。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-09-30 02:05 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その140 「伏見竜馬通り」

史跡ではありませんが、伏見には「伏見竜馬通り」と名付けられた商店街があります。


e0158128_20463099.jpg


この付近は伏見宿の本陣・脇本陣・旅籠・船宿が軒を連ね、大いに賑わった町でした。

この通りは、はじめ本陣木津屋の前の図子(づし・小路のこと)だったことから、木津屋図子とも呼ばれ、のちに南納屋町とも称しました。


e0158128_20493409.jpg


江戸時代、伏見は水運陸運の要衝でしたが、一方で、情報収集の町でもありました。

この情報伝達業者が、江戸、大坂、京、伏見の4都市にて公許された「通日雇(とおしびよう)」と呼ばれる公用逓送、いわゆる御用定飛脚が店を連ねていました。

安栄年間刊行の『伏見かがみ』には、14軒の通日雇が記されているそうです。

「その137」 「その138」で紹介した船宿の寺田屋には、諸国の情報が船客より多く寄せられていたでしょうから、坂本龍馬をはじめ多くの志士たちがここに出入りしていたのは、そうした情報収集の目的もあったのでしょう。


e0158128_20493741.jpg


商店街の歴史は古く、中書島遊郭ができた約300年前にさかのぼります。

この遊郭で働く遊女たちに着物日常雑貨を売る店の並びが、この商店街の原型だそうです。

平成8年(1996年)から、石畳ガス灯風街路灯が設置され、また、外観を京町家風に作りかえるなどの景観の整備が行われ、「竜馬通り商店街」と名付けられました。


e0158128_20494047.jpg


龍馬や新選組のグッズを販売している龍馬館

この日、Tシャツと缶バッジを衝動買いしてしまいました。


e0158128_20512443.jpg


こちらは龍馬を描いた店舗シャッターアート

「伏見+アートフェスティバル」というイベントの一環で、「幕末維新回廊」をテーマに京都造形芸術大とのコラボで描かれたそうです。


e0158128_20512756.jpg


景色は変わっているでしょうが、龍馬たち幕末の志士たちも闊歩したであろう商店街。

今なお続いているというのがいいですね。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-09-29 00:16 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その139 「お登勢の墓(松林院)」

寺田屋から300mほど南西にある松林院の墓地に、幕末の寺田屋の女将・お登勢の墓があります。


e0158128_20425237.jpg


6代目寺田屋伊助の妻・お登勢は、放蕩者だった伊助の死後、寺田屋の女将となって店を切り盛りしました。

もともとお登勢の実家は近江国大津の旅館だったらしく、子供の頃から女将になるためのスキルを十分に磨いてきた女性だったのでしょうね。

お登勢が女将となってから寺田屋は薩摩藩の定宿となり、たいへん繁盛していました。

「その137」で紹介した文久2年(1862年)の寺田屋事件の後には、薩摩藩から見舞金が入るとすぐに畳や襖を取り換えて営業を再開したといいます。

なかなかのやり手だったということがわかりますね。


e0158128_20425721.jpg


こちらが、お登勢の墓です。


e0158128_20441228.jpg


彼女が坂本龍馬から姉のように慕われていたというのは有名ですね。

龍馬は実の姉・乙女に送った手紙のなかで、お登勢のことを「この人、学問ある女で人物也」と評しています。

また、龍馬の頼みで、のちに妻となるお龍養女として店に置き、お龍の母親や妹たちまで金銭面で援助するなど、義侠心の厚い女性でした。

お龍は龍馬の死後、明治に入ってからも一時期お登勢を頼っており、一説には、お龍の2度目の結婚を世話したのもお登勢だったとも。

お龍は晩年の回顧談で、「龍馬の死後、親切だったのは西郷さんとお登勢さんだけだった」とも語っています。

生来、世話好きな女性だったのでしょうね。

明治10年(1877年)死去。

享年48。


e0158128_20400626.jpg


「その137」 「その138」で紹介した寺田屋の庭には、お登勢明神が祀られています。

没後100年のときに祀られたそうで、龍馬とお龍を結んだことから、若い男女の守り神となったそうです。


e0158128_20401006.jpg


その横には、お登勢の由来碑があります。

ここでは、お登勢が大勢の志士たちを庇った偉業を称える文が刻まれています。

彼女も、幕末の志士のひとりと言っていいんじゃないでしょうか。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-09-28 01:54 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その138 「寺田屋 その2」

「その137」に続いて寺田屋です。

本稿では、慶応2年1月23日(1866年3月9日)に起きた寺田屋事件、いわゆる坂本龍馬襲撃事件を追います。


e0158128_19575832.jpg


この事件が起きたのは、坂本龍馬が尽力したとされる「薩長同盟」が締結された翌々日のことでした。

この時点では、まだ幕府側には薩長同盟の事実は漏れていませんでしたが、坂本龍馬が長州の桂小五郎(木戸孝允)と組んで何かを企てているというのは察知されており、天下のお尋ね者となっていました。


e0158128_20234455.jpg


22日、京都二本松薩摩藩邸において薩長同盟の締結を見届けた龍馬は、翌23日の夜、このころ龍馬の護衛として行動を共にしていた長府藩士・三吉慎蔵の待つ寺田屋に戻ってきます。

あるいは、寺田屋に入っていく龍馬の姿を幕吏は確認していたのかもしれません。


e0158128_20253546.jpg


この事件については、三吉慎蔵の日記『三吉慎蔵日記抄録』などにも詳しいのですが、事件当日の様子においての最も詳細な史料としては、龍馬が土佐にいた実兄・坂本権平に宛てた手紙に勝るものはありません。

描写が実に細やかで面白く、ここでは、わたしの駄文で説明するよりも、その龍馬の手紙の文章をそのまま紹介することにしたいと思います。


上に申す伏見の難は、去正月廿三日夜八つ時半頃なりしが、一人のつれ三吉慎蔵と咄して、風呂より上り、もふ寝やうと致し候所に、ふしぎなるかな(此時二階に居り申候)人の足音のしのびしのびにに階下を歩くと思ひしに、ひとしく六尺棒の音からからと聞ゆ。折から兼てお聞に入れし婦人(名は龍、今は妻といたし居り候)走せ来り云よふ、

「御用心なさるべし、敵の襲ひ来りしなり。槍持ちたる人数、梯子段を上りし也」

と、夫より私も立ちあがり、袴着んと思ひしに次の間に置候。その儘、大小差し、六発込の手筒をとりて後なる腰かけに凭る。つれなる三吉慎蔵は袴を着て大小とりはき、是も腰掛にかゝる隙もなく、一人の男、障子細目にあけ内を窺ふ。見れば大小さし込みなれば、

「何者なるや」

と問ひしに、つかつかと入来れば、直ぐ此方も身構へなしたれば、又引き取りたり。

早次の間にみしみしと物音すれば、龍に下知して次の間のうしろの唐紙とりはづさして見れば、早二十人計も槍もて立ならびたり。其時暫く睨み合ふ所に、私より

「如何なれば、薩州の士に無礼はするぞ」

と申したれば、敵人口々に

「上意なるぞ。坐れ々々」

と罵りつゝ進み来る。此方も一人は槍を中断に持つて私の左に立たりける。私思ふやう私の左に槍を持て立てば、横を打たると思ふ故、私が立替り、其左の方に立ちたり。其時銃は打金をあげ、敵の十人計も槍持ちたる一番右の方を初めとして、一つ打たりと思ふに其敵は退きたり。此間、敵は槍を投突きにし、又は火鉢を打ちこみ色々して戦ふ。私の方には又槍もて防ぐ。実に家の中の戦ひ、誠にやかましくて堪り申さず。又一人を打ちしが、中(あた)りしやわからず。

其敵一人は、果して障子のかげより進み来り、脇差をもて、私の右の大指のもとをそぎ、左の大指のふしを切りわり、左の人さし指の本の骨ぼしをきりたり。前の敵猶迫り来る故、又一発放せしに、中りしや分らず、私の筒は六丸込みなれど、其時は五丸込みてあれば、実にあと一発限りとなり、是大事と前を見るに、今の一戦にて少し沈みたり。一人のもの、黒き頭巾着てたちつけ穿き、槍を平青眼のやうに構へ、近く寄りて壁に沿うて立ちし男あり。夫を見るより又打金あげ、私のつれの、槍もて立ちしに、其敵は丸に中りしと見えて、唯ねむりたほれるやうに、前に腹這ふやうに斃れたり。

此時も又、敵の方はドンドン障子を打ち破るやら、からかみを踏み破るやらの物音すざましく、然れども一向手許には参らず。此時、筒の玉込めんとて六発銃の(れんこん型の絵あり)此のうやうの物を取り外し、二丸までは込みたれども、左の指は切られてあり、右の手も傷めて居り、手元思ふやうに成らず、つひ、手よりれんこん玉室取り落としたり。下を探したれども元より布団は引さがし、火鉢やら何やら何かなげ入れしものと交り、どこや知れず、此時は敵はとんとん計りにて此方に向ふものなし。其れより筒を捨て、私のつれ三吉慎蔵に

「筒は捨てたぞ」

と云えば、三吉曰く

「夫なれば猶敵中につき入り、戦ふべし」と云う。けれども私曰く

「此間に引取り申さん」

と云えば、三吉もとりたる槍を投げ捨て、後の梯子段を降りて見れば、敵は唯、家の見世の方ばかり守りて進むものなし。

夫より家のうしろのやそひを潜り、後の家の雨戸を打破りて這入りたれば、実に其家は寝呆けて出たか、ねやが延いてあり、気の毒にありけれど、其家の建具も何も引きはづし、うしろの町に出んと心掛けしに、其家も随分大きなる家にて中々破れ兼ね、右両人して散々に破り、足もて踏破りたり。夫より町に出でゝ見れば、人は一人もなし、是れ幸と五町計り走りしに、私は病気のあがりなりければ、どうも息切れあゆまれ申さず。

此時思ひしに、男子はすねより下に長きものはすべからずと、此時は風呂より上りしままなれば、ゆかたを下に着て、其上に綿入れを着て袴なしなり。着物は足にもつれ、ぐづゝしよれば敵が追ひつく。横町にそれ込みて、お国の新堀と言う様な所に行きて、町の水門よりずび込み、其家の裏より材木の棚の上にあがりて寝たるに、折あしく犬が実に吠えて困り入りたり。そこに両人とも居りしが、ついに三吉は先づ屋敷(伏見薩摩屋敷のこと)に行くべしとて立出でゝ屋敷に入り、又屋敷の人も共に迎ひに来て私も帰りたり。私の傷は少々なれども、動脈とやらにて、あくる日も血が走り止めず、三日計り小便に行くも目がまひました。此夜彼龍女も同時に戦場を引きとり、すぐざま屋敷に此由を告げしめ、後に共々京の屋敷に引取る。


まるで実況中継のようなこの手紙は、当夜の様子を実に詳細に伝えてくれています。

九死に一生を得るという一大事にもかかわらず、この手紙ではその恐怖などはまったく記述されておらず、むしろコミカルな印象さえ感じられます。

負傷した指でピストルの玉込めを替えようとして落としてしまい、それを探し回る龍馬の姿を想像すると、壮絶な場面にもかかわらずつい吹き出してしまいそうになりますよね。

近隣の家の雨戸を破って入るとその家の人は寝呆けていたとか、材木屋の屋根の上で寝ていると犬が吠えて困ったとか、龍馬の人生最大のピンチだったはずの悲壮感は微塵にも感じられません。

龍馬ならではの文章で、後世の愛すべき龍馬像が集約された手紙といっていいでしょう。


e0158128_20265664.jpg
e0158128_20280716.jpg


そして、この事件におけるあまりにも有名なエピソードは、のちに龍馬の妻となるお龍が、入浴中に幕吏に包囲されていることに気づき、風呂から一糸まとわぬ姿で2階へ階段をかけ上がり、龍馬に危機を知らせたという話ですね。

写真は、その風呂釜だそうです。


e0158128_20031118.jpg


こちらは、お龍が駆け上がった階段だそうです。


e0158128_20030581.jpg
e0158128_20172545.jpg
e0158128_20172876.jpg


ところが、この「一糸まとわぬ」というのは、実際のところはわからないようです。

上述した龍馬の手紙には、「裸」とは書かれていませんよね。

明治32年(1899年)のお龍自身の回想録『千里駒後日譚』では、「濡れ肌に袷を一枚引っかけ」と語っており、また、明治16年(1883年)の坂崎紫瀾『汗血千里駒』では、「浴衣をうちかけた」とあります。

「裸」という言葉が確認できるのは、三吉慎蔵が後年自身の活躍をまとめた記録『毛利家乗抄録』に、「龍馬の妾全マ浴室ニ在リ、変ヲ見テ裸体馳セ報ズ」とあり、「裸体」という記述が見られるのですが、同じく三吉の日記『三吉慎蔵日記抄録』には「坂本の妾二階下ヨリ走リ上リ」とあるのみで、お龍の姿については書かれていません。

実際のところはどうだったのでしょうね?・・・て、お龍が裸だったかどうかは、歴史的にどうでもいいことではありますが・・・。

龍馬ファンとしては、実に興味深いところではあります。


e0158128_20300113.jpg
e0158128_20301526.jpg
e0158128_20352268.jpg


建物内には、龍馬関係の史料が所狭しと展示されています。


e0158128_20353987.jpg
e0158128_20354256.jpg
e0158128_20354659.jpg
e0158128_20354930.jpg
e0158128_20355247.jpg


こちらは、戦闘時の刀傷だそう。


e0158128_20123860.jpg
e0158128_20123590.jpg


庭にも龍馬の銅像やら石碑やらが数多くあります。


e0158128_20091921.jpg
e0158128_20092429.jpg


寺田屋を取り巻いた幕吏は50人とも100人とも言われます。

事件は午前3時頃のことだったといいますが、幸運だったのは龍馬と三吉が薩長同盟の祝杯だったのか、床に入っていなかったこと。

上述したお龍の機転もあって、襲撃までに未然に察知して身を整えることができたため、からくも逃げおおせることが出来ました。

いくら手練のふたりであっても、寝込みを襲われたり不意をつかれていたら、ひとたまりもなかったでしょう。

この幸運が、龍馬をあと1年10カ月の間生かすこととなります。


e0158128_20092978.jpg


龍馬はこの襲撃の際に左手の指に傷を負いました。

この傷はよほど重傷で、こののち負傷した指は自由がきかなかったといいます。

有名な龍馬の立姿の写真は左手を懐に隠していますが、あれは、負傷した左手を隠していたためともいわれます。

この負傷は、最初にあびせられた太刀を左手に持っていた拳銃で受け、その際に負ったものだといいます。

その後も終始拳銃で応戦していて、この北辰一刀流免許皆伝の腕を持つ龍馬が、応戦中一度も刀を抜くことがなかったと、三吉の日記に記されており、このエピソードが、のちの物語などにある、龍馬の刀に対する姿勢のイメージを作ったものでしょう。

でも、このとき龍馬は拳銃で幕吏を2人射殺しています。

決してドラマなどで描かれているような人命尊重の人だったわけではありません。


e0158128_20093208.jpg


ちなみに、この寺田屋の建物ですが、かつては当時の建物がそのまま残されているとされていましたが、最近の調査で、当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の建物は、明治に入ってから再建されたものだったと公式に認められたそうです。

じゃあ、刀傷弾痕、お龍さんの風呂釜は?・・・ということになりますが、無粋な詮索をするのはやめます。

ロマンということで・・・。

ちなみにちなみに、ここ寺田屋は現在でも旅館として営業されており、宿泊できるそうです。

かつては龍馬フリークで知られる武田鉄矢さんが、毎年龍馬の命日にここに泊まられていたそうで、それを知っていた島田紳助さんが、仲間と共に新選組の格好をして襲撃した、なんてエピソードも。

余談中の余談ですが。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-09-27 00:35 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

西郷どん 第36話「慶喜の首」その2 ~西郷隆盛と山岡鉄舟の会談~

昨日の続きです。

徳川慶喜逃亡によって鳥羽・伏見の戦いが沈静化すると、新政府は、当初設置していた征討大将軍を同月末に廃官とし、新たに旧幕府勢の討伐を担当する役職、組織として、東征大総督、東征大総督府を設置しました。このとき、総司令官である東征大総督に任命されたのは有栖川宮熾仁親王で、方面軍司令官である東海道、東山道、北陸道の先鋒総督参謀には、いずれも公家が任命されました。しかし、お公家さんの役職はいわばお飾りで、実質的な指揮権

は、参謀に次ぐ下参謀に任命された西郷吉之助(隆盛)にありました。


 一方、江戸城に戻ってきた慶喜は、朝廷に対しての恭順姿勢を表明します。この間、幕府役人の中では、勘定奉行・小栗上野介忠順や海軍総裁・榎本武揚、歩兵奉行・大鳥圭介らは徹底した抗戦論を主張し、慶喜と共に大坂城から江戸へ下ってきた会津藩主の松平容保や桑名藩主の松平定敬も、しきりに再挙を訴えます。しかし、陸軍総裁・勝海舟や会計総裁・大久保一翁らが熱心に謝罪恭順を慶喜に説き、結果的に海舟らの主張が抗戦派を抑え、慶応4年(1868年)2月21日、慶喜は上野の寛永寺大慈院に入り謹慎します。以後、勝海舟や大久保一翁に全権を委ね、新政府軍との交渉にあたらせます。

e0158128_15131310.jpg さらに、上野の輪王寺宮や前将軍・徳川家茂の御台所で天皇の叔母にあたる静寛院宮(和宮)、13代将軍徳川家定の御台所で薩摩藩出身の天璋院(篤姫)らが必死になって慶喜の助命と徳川家の存続運動に奔走します。新政府側では、岩倉具視は慶喜の謝罪の誠意が現れるならば、その助命と徳川家存続は認めるとの内意をもらしていたようですが、そのころ西郷隆盛は、慶喜助命の嘆願に対して、
 「慶喜退隠の嘆願、甚だ以て不届千万、是非とも切腹までには参り申さず候ては相済まず、必ず越土(越前、土佐)などよりも寛論起こり候わんか。しかれば静寛院(和宮)と申しても、やはり賊の一味と成りて退隠ぐらいにて相済候事と思しめし候わば、致し方なく候に付き、断然追討あらせられ度き事と存じ奉候。かくまで押し詰め候処を寛に流し候ては、再び、ほぞをかむとも益なき訳に到り候わん。」
 と、あくまで許すべからずとの過激な意思を大久保利通宛の手紙に書いています。その大久保もまた、
「天地容るべからざる之大罪なれば天地之 間を退隠して後初めて兵を解かれて然るべし」
 といっています。少なくともこの時点では、西郷と大久保の間では慶喜の助命という選択肢はなかったようです。


 慶応4年2月12日(1868年3月5日)、西郷は独断で薩摩藩兵を率いて京都を出発。2月28日には東海道の要衝である箱根を占領し、三島を本陣としたのち、いったん駿府に引き返し、そこで開かれた軍議の席で、江戸総攻撃を3月15日に実行することを決定します。この状況をなんとか打破したい勝海舟は、旗本の山岡鉄舟と会談し、そこで、江戸薩摩藩邸焼き討ち事件の際に捕縛した薩摩藩士の益満休之助を同伴して駿府に行き、直に西郷と会って徳川家の救済を嘆願する案を提示され、勝はこれを了承します。そして勝の書状を携えた山岡は、3月9日、敵陣の駿府に益満を伴って乗り込みました。


e0158128_17533117.jpg このとき、山岡の見事な立ち居振る舞いに感服した西郷は、すぐさま山岡と膝詰めでの談判を開始したといいます。山岡は勝から預かった手紙を提出するとともに、慶喜の恭順謝罪の意志が真実であること、もし官軍が江戸を攻撃すれば、日本にとってどれだけ大変なことになるかわからないと主張し、穏便な処置がなされることを請いました。西郷はただちにその意味を察し、山岡をしばらく待たせて参謀会議を開き、慶喜謝罪の七条件を山岡に示します。その内容は、第一に慶喜を備前藩にあずける。第二に江戸城明け渡し。第三、第四、軍艦兵器をいっさい引渡し。第五に城内居住の家臣は向島にて謹慎。第六に慶喜の妄動をたすけた者の謝罪の道をたてる。第七に幕府で鎮撫しきれず暴挙するものあらば、その者のみを官軍が鎮定する。以上の七条が実行されるなら、徳川家存続は寛大に処置する・・・というものでした。山岡はこの条件を勝のもとに持ち帰ります。


 かくして西郷と勝の歴史的会談につながっていくのですが、なんか、ドラマでは天璋院と会っていましたね。いうまでもなく、西郷と天璋院が面会したという記録はありません。同時期に天璋院が慶喜の助命を嘆願する長文の書状を西郷に送ったのは事実で、さすがの西郷も天璋院からの嘆願とあらば、多少、心を動かされたかもしれませんが、あくまで江戸無血開城最大の功労者は勝と山岡です。なんか、天璋院に手柄を持っていかれそうな予感が・・・。次週を観てみましょう。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



by sakanoueno-kumo | 2018-09-26 03:14 | 西郷どん | Comments(0)  

西郷どん 第36話「慶喜の首」その1 ~鳥羽・伏見の戦い~

慶応4年1月2日(1868年1月26日)、薩摩藩との戦いを決意した徳川慶喜は、朝廷の判断を仰ぐために1万5千の大軍を大坂から京へ進めます。これに対して薩摩藩を中心とした新政府軍は、鳥羽の鴨川に架かる小枝橋から東にある城南宮に向けて東西に長い陣を布いて北上軍への備えとし、また、伏見の御香宮にも砲兵部隊を配置します。3日午前、旧幕府軍と新政府軍が小枝橋で接触します。旧幕府軍を率いていたのは大目付滝川具挙でした。滝川はこの1週間前の慶応3年12月25日(1868年1月19日)に起きた江戸の薩摩藩邸焼討事件の報を慶喜にもたらし、江戸での薩摩藩士の横暴を説き、旧幕府軍を強硬論に導いた人物でした。


滝川は立ちふさがった新政府軍に対して「将軍様が勅命で京に上がるのだから通せ」と要求します。ところが、ここを守備していた薩摩藩の椎原小弥太は、「朝廷に確認するまで待て」と、行く手を阻みます。そこから長時間にわたって「通せ」「通さない」押し問答が繰り返され、このままでは埒が明かないとしびれを切らした滝川は強行突破を試みますが、これに対して新政府軍が発砲し、これをきっかけに戦闘がはじまります。この砲声は3kmほど南の伏見にも届き、それを合図に同時スタートのように戦闘が始まりました。後年、西郷隆盛がこのときのことを回顧して、「鳥羽一発の砲声は百万の味方を得たるよりも情しかりし」と語って笑ったという有名なエピソードがありますが、まさに、西郷にとっては待ち望んだ開戦でした。こうして鳥羽・伏見の戦いの火蓋は切られます。


 戦のあらましは長くなるのでここでは省略しますが、徳川方の指揮不統一戦術の拙さが相まって、旧幕府兵、会津兵、桑名兵ともに各所で後退を余儀なくされ、初日の戦いは薩長軍の優勢で終わりました。この初日の戦況が、結果的に決め手となります。

 開戦の報が届いた京都では、すぐさま御所で会議が開かれ、大久保利通の意向を受けた岩倉具視は、仁和寺宮嘉彰親王を軍事総裁職兼任・征討大将軍に任命し、錦旗・節刀をさずけることと、諸藩に慶喜討伐を布告することを求めますが、慶喜を朝敵とすることに異論が続出し、なかなか結論が出ませんでした。しかし、前線から薩長軍優勢の報告が入ると、会議の空気が一変し、慶喜討伐が決定します。薩摩・長州が官軍、旧幕府軍をはじめ会津、桑名が賊軍に転落した瞬間でした。翌日、仁和寺宮が錦旗を掲げて東寺まで進み、ここに慶喜討伐の大本営を置きます。錦旗とは、新政府軍が天皇の軍隊であることを示すもので、この時点で、すなわち新政府軍は官軍、旧幕府軍は天皇に逆らう賊軍ということになったわけで。これまで形勢を展望していた諸藩も、これを見た途端になだれを打って旗幟を鮮明にしていきます。ここに、鳥羽伏見の戦いの大勢は決したといえます。まさに、「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉どおりの展開だったわけですね。


e0158128_11234954.jpgこの「錦の御旗」ですが、実は朝廷からもらったものではなく、岩倉具視が勝手に作った代物だと言われていますね。いずれ始まるであろう旧幕府との開戦に備えて、岩倉が秘書官の玉松操に調べさせた資料を参考に、大久保利通や長州の品川弥二郎らと相談して作ったものだと言われています。実物は誰も見たことがないわけですから、それらしければいいということで、大久保利通の愛妾のおゆうが祇園で買ってきた錦紗銀紗の布を長州に運んで、2ヶ月がかりで完成させたもので、いわば捏造品だったわけです。偽物であれ何であれ、かつて南北朝時代でも足利尊氏が戦局を有利にするために御旗を利用したように、このときの錦の御旗も絶大な効力を発揮します。そもそも、本来この戦いに朝廷は関係なく、薩長と旧幕府の私闘だったのですが、この錦の御旗を掲げたことにより、戦いを「義戦」にしたわけです。自分たちから喧嘩を吹っかけておいて、相手が挑発に乗ってきたら、「正義」を主張する。ずるいですね。それにしても、御旗の納品がよく間に合いましたね。もうちょっと製作が遅れていたら、戦いは違った結末を見ていたかもしれません。


e0158128_17320084.jpg ちなみに、この戦闘中に西郷の実弟、西郷従道が負傷したというのは実話です。従道はこの戦いに薩摩藩小銃五番隊の監軍として従軍していました。従道が受けた銃弾は頭部だったようで、ドラマでは描かれていませんでしたが、このとき駆けつけた中村半次郎(桐野利秋)が、もう助からないと早合点し、「武士の情け」とばかりに介錯しようとしたところを、従道は重傷の身に鞭打って桐野の刃をかわし、かろうじて逃れたという逸話が残っています。その後、従道はイギリス人医師のウィルスによる麻酔手術で奇跡的に助かり、同年のうちに戦線への復帰も果たしました。もし、このとき桐野に介錯されていたら、のちの海軍大将、元帥、参議、元老としての従道の活躍は存在しなかったといえます。よくぞ逃れたものです。


薩長軍が錦旗を掲げたことにより賊軍となった旧幕府軍は、その後も各地で奮戦はするものの、敗色は覆い隠せませんでした。そして極めつけとなったのは、幕府の命令で山崎を守っていた津藩兵が、6日朝、旧幕府軍に向けて砲撃を開始したこと。味方であるはずの津藩の裏切りで、旧幕府軍の士気は一気に下がり、全軍総崩れとなります。

 開戦以来ひきつづき敗報ばかりを受け、さらに錦旗が掲げられて朝敵にされたことで戦意を失っていた徳川慶喜は、6日の津藩の寝返りによる幕軍総崩れを知ると、江戸へ帰って再起をはかる決意をかため、6日夜、ひそかに大坂城を脱出し、海路江戸へ向かいます。このとき、老中はじめ京都守護職の松平容保や京都所司代の松平定敬も、慶喜の厳命により、家臣たちを置き去りにして江戸へ向かうことを余儀なくされました。翌朝、主君に欺かれたことを知った大坂城中の将兵たちが、呆然自失となったことは言うまでもありません。

e0158128_19210653.jpg このときの行動が、後世に徳川慶喜という人物の評価を下げた最大の要因であるといっていいでしょう。戦の総指揮官という立場にありながら敵前逃亡したわけですから、やむを得ない評価かもしれません。このあたりが、「百の才智があって、ただ一つの胆力もない。」といわれるところでしょうか。ただ、その一幕だけを切り取ってみればそうかもしれませんが、結果的に彼が敵前逃亡したことによって、その後の内乱は最低限の局地戦ですみ、その結果、多くの人命を失うことなく、新政府樹立へのプロセスをスムーズにし、日本の植民地化を目論む欧米列強につけ入る隙を与えませんでした。それが慶喜の意とするところだったかどうかは別として、結果的に我が国を危機から救ったことは間違いありません。幕末維新の最大の功労者は徳川慶喜だった・・・とは、少し過大評価かもしれませんが、もう少し高く評価してあげてもいいんじゃないでしょうか。


鳥羽・伏見の戦いだけでずいぶん長くなっちゃいました。どうも、前半のスローな展開のツケがたまって、ここに来て1話に多くの歴史を詰め込みすぎですね。当ブログでも、1回ではとてもまとめられない。ということで、明日に続きます。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



by sakanoueno-kumo | 2018-09-24 17:42 | 西郷どん | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その137 「寺田屋 その1」

伏見にやってきました。

「幕末」「伏見」といえば、まず訪れなければならないのは、船宿の寺田屋でしょう。

寺田屋は大阪と京都をを結ぶ通船の京側の発着点にあり、西国雄藩の志士たちの足溜りとして幕末当時はたいへんな賑わいだったと伝えられます。


e0158128_19273210.jpg


幕末、ここ寺田屋ではふたつの大きな事件が起きています。

ひとつは、文久2年4月23日(1862年5月21日)に起きた薩摩藩士の同士討ち事件

もうひとつは、慶応2年1月23日(1866年3月9日)に起きた坂本龍馬襲撃事件です。

どちらも「寺田屋事件」「寺田屋騒動」と呼ばれ、幕末史を語る上で必須とされます。

まず本稿では、文久2年の寺田屋事件を追っていきましょう。


e0158128_19285574.jpg


玄関の前に建つ石碑には、「伏見寺田屋殉難九烈士之碑」と刻まれています。


e0158128_19380062.jpg


こちらの石碑は、正面に「史蹟 寺田屋」、向かって左側面に「坂本龍馬先生遭難の趾」、右側面に「薩摩藩九烈士殉難の趾」と刻まれています。


e0158128_19402554.jpg


事件の1週間前の4月16日、薩摩藩の国父・島津久光1000人の家臣を率いて上洛します。

その目的は、朝廷、幕府、雄藩の政治的提携を企図する幕政改革、いわゆる公武合体の実現のためで、これは、亡き兄・島津斉彬の遺志でもありました。

しかし、斉彬の生前の頃とは違って、桜田門外の変以後、世論は「倒幕」「佐幕」かの時代に突入しており、久光の上洛は、倒幕派の志士たちを大いに刺激することとなります。

久光の上洛は日本中の尊攘派志士たちの希望の光でした。


e0158128_19402888.jpg


薩摩藩内の尊王攘夷派グループ精忠組のメンバーで、過激派として知られていた有馬新七もそのひとりでした。

有馬は、藩主の「諭告書」が出されたのを受けて脱藩突出策を中止した大久保一蔵(利通)らに対し、かねてから不満を募らせていました。

つまり、突出策を捨てきれないでいたんですね。

有馬は久光に従って京に入りましたが、水面下で諸藩の過激派志士と結び、久光の上洛を背景に京都にて武力蜂起し、一気に倒幕勢力を形成しようと目論んでいました。


e0158128_19435093.jpg


ところが、倒幕の意思などまったくない久光は、朝廷との面会で浪士鎮圧の命を受けます。

もともと秩序を重んじる保守的な久光は、かねてから過激派の行動を苦々しく思っていました。

久光は有馬たち過激派志士の行動を「暴発」として抑え込もうとします。

この展開に驚愕した有馬たち過激派は、憂国の念から憤激し、幕府と協調路線をとる関白・九条尚忠と京都所司代・酒井忠義を襲撃し、そのを久光に奉じることで、否が応でも久光を倒幕へ向かわせようと画策します。

4月22日、久留米藩の真木和泉と密談した有馬は、23日に計画を実行することで合意。

そして当日、薩摩藩の定宿だったここ寺田屋に集まることで決まります。


e0158128_19511469.jpg


この情報をキャッチした久光は、精忠組のメンバーである奈良原喜八郎(繁)、大山格之助(綱良)ら剣に覚えがある鎮撫使9名を選び、「場合によっては切り捨てても構わぬ」と言い含めて寺田屋に派遣しました。

寺田屋に着いた奈良原たちは、当初はで有馬たちと面会して説得にあたりましたが、やがて、双方激高して激しい斬り合いに発展します。

有馬は剣の達人だったといいますが、狭い室内での斬り合いだったため刀が折れてしまい、鎮撫使の道島五郎兵衛に掴みかかって壁に押さえつけ、近くにいた仲間の橋口吉之丞「我がごと刺せ」と命じ、背中から刀で貫かれて相手共々絶命しました。

その後、2階にいた志士たちも降りてきて加勢しようとしますが、これを見た奈良原は刀を投げ捨てて両手を広げてこれに立ち塞がり、「待ってくれ、君命だ、同志討ちしたところで仕方がない」と懸命に訴え、ようやく騒動は沈静化します。

このとき説得に応じて投降したメンバーの中には、西郷信吾(従道)、大山弥助(巌)、篠原冬一郎(国幹)らがいました。

いずれも帰藩のうえ謹慎を命じられています。


e0158128_19511896.jpg


この戦闘で寺田屋にいた6名(有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵)が死亡、2名(田中謙助・森山新五左衛門)が重傷を負い(のちにこの2名も切腹)、鎮撫士側は、有馬と共に橋口に突き刺された道島五郎兵衛のみが死亡しました。

この悲劇によって、久光は朝廷より大きな信頼を得ることになったわけですから、なんとも皮肉な話ですね。


e0158128_19472614.jpg


寺田屋の庭に建つ寺田屋騒動記念碑です。

それにしても、寺田屋内の展示品は圧倒的に坂本龍馬関連のものが多く、薩摩藩同士討ち事件に関連するものが少ない。

たしかに、観光客のほとんどが龍馬ファンなのでやむを得ないのかもしれませんが、歴史的には、薩摩の寺田屋事件の方がはるかに重大な事件です。

もうちょっとスポットを当ててほしいですね。


次回、その龍馬の寺田屋事件を追います。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-09-23 01:14 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その136 「禁門の変十七烈士之墓」

天王山の登山道の中腹に、「禁門の変十七烈士之墓」があります。

前稿で紹介したように、元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変(蛤御門の変)」の際に山崎天王山に長州軍の本陣が布かれましたが、その際にこの地で命を落とした長州藩士以外の志士たちの墓です。


e0158128_20341335.jpg


戦いは1日で決し、長州軍の惨敗で幕を閉じますが、落ち延びる長州兵を追って幕府軍の追撃が山崎まで進軍してきます。


e0158128_20360218.jpg


長州兵とともに山崎まで退いた久留米藩士の真木和泉守保臣は、敗軍に長州に落ちのびて再挙を期すように告げ、長州藩主力兵たちを見送った真木以下17名は、禁裏のある京都の地を去るに忍びないとして天王山に登り、7月21日、金の烏帽子に錦の直垂、水干の衣を着て、鉄砲を撃ち、殿軍をつとめました。

その後、陣屋に退却し、最後は火をかけて全員割腹自刃したといいます。

このときの模様は、新選組の記録に残っているそうです。


e0158128_20361684.jpg


その17名の墓が、この「禁門の変十七烈士之墓」です。


e0158128_20422745.jpg


埋葬されている志士17名を列挙すると、


土佐・千屋菊二郎菅原孝健

土佐・松山深蔵橘正夫

宇都宮・岸上弘安臣

宇都宮・廣田精一執中

土佐・能勢達太郎平成章

肥後・小坂小二郎源雄宗

久留米・加藤常吉任重

土佐・安藤真之助強怒

久留米・真木和泉守平保臣

久留米・松浦八郎寛敏

久留米・池尻茂四郎懋

筑前・松田五六郎

肥後・加屋四郎藤原時雄

肥後・中津彦太郎藤原義直

肥後・酒井荘之助

肥後・宮部春蔵

肥後・西嶌亀太郎


だそうです。


e0158128_20424105.jpg


真木和泉の墓石です。

辞世「大山の 峰の岩根に埋めにけり わが年月の大和魂」


e0158128_20434151.jpg


彼らが自刃してから150年以上経ちますが、山の風景はきっと当時とそう変わらず時がとまったままで、いまでも彼らの無念の叫びが聞こえてきそうです。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-09-22 01:04 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その135 「離宮八幡宮・大念寺・宝積寺(禁門の変長州軍本陣)」

京都府と大阪府の境に位置する山崎天王山にやってきました。

このあたりは、元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変(蛤御門の変)」の際に長州軍の本陣が布かれた地域です。


e0158128_11260439.jpg


前年の八月十八日の政変によって京を追い出されていた長州藩は、名誉回復のチャンスをうかがっていましたが、元治元年6月5日(1864年7月8日)に池田屋事件が起きると、藩内進発派の藩士たちは烈火のごとくいきり立ち、ついに総勢2000の兵を京都に向かわせます。

そのとき、本営となったのが、「その128」で紹介した嵯峨天龍寺伏見長州藩邸、そして、ここ山崎天王山でした。


e0158128_11274019.jpg


山崎に陣取ったのは、長州の久坂玄瑞や久留米の真木和泉守保臣をはじめ300名でした。

彼らは、天王山、離宮八幡宮、大念寺、宝積寺などに布陣します。


e0158128_19072958.jpg


上の写真は天王山を登りはじめてすぐの場所にある大念寺です。


e0158128_19074526.jpg


それほど大きなお寺ではありませんが、ここも、長州の宿営となりました。

そのせいで、戦火に巻き込まれて伽藍は焼失し、再興されたのは明治12年(1879年)になってからだったそうです。


e0158128_19103106.jpg


大念寺からさらに坂を登ると、宝積寺という広い敷地を持つ立派な寺院があります。

ここも、長州軍の宿営となりました。


e0158128_19195277.jpg


ここは大きな寺院なので、大勢の兵が収容できたと思われます。

真木和泉もここにいたようです。


e0158128_21130211.jpg


上の写真は、天王山の麓にある離宮八幡宮です。

貞観元年(859年)創建という古い神社ですが、ここも、長州軍の屯所が置かれ、社殿は戦火に巻き込まれて焼失してしまいました。


e0158128_21151030.jpg


このとき離宮八幡宮と一緒に周辺の商家もことごとく焼失しました。

ほとんど山崎のまち全体が焼き払われたようです。

山崎が火の海と化したのは、変の翌日でした。

つまり、長州藩兵の残党狩りと、長州藩兵を宿営させた寺社に対する処罰で火を放たれたわけです。


e0158128_21252656.jpg


後世に伝わる「禁門の変」「蛤御門の変」といった呼び名は、戦を起こした当事者であるのちの明治政府が、この戦いをなるべく小さな局地戦みせるためにつけた名称で、当時の呼び方では、干支をとって「甲子(きのえぬ)の戦争」といわれたそうです。


e0158128_11144056.jpg


山崎天王山といえば、もう一つ、戦国時代の羽柴秀吉明智光秀が激突した山崎合戦の舞台としても知られています。

山崎合戦シリーズも以前起稿していますので、よければ一読ください。

   ↓↓↓

山崎合戦ゆかりの地


「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-09-20 23:59 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その134 「村岡局(津崎矩子)墓所(直指庵)」

「その133」で紹介した村岡局(津崎矩子)が、晩年を過ごしたという直指庵が北嵯峨にあります。

JR嵯峨嵐山駅から2kmほど北上した人里離れた山のふもとにある小さなお寺です。


e0158128_18352538.jpg


山門です。


e0158128_18370744.jpg


直指庵は正保3年(1646年)に独照性円没蹤庵を建てたのに始まります。

名前の由来は、独昭が黄檗禅の正統さを「直指伝心」することを旨としたことによると伝わります。

その後、荒廃していましたが、村岡局が浄土宗の寺として再興しました。


e0158128_18371259.jpg


直指庵は紅葉の名所としても知られていますが、わたしがここを訪れたのは12月9日、ちょっと遅かったですね。

あと1週間早く来ていれば、美しい庭の景色が見られたでしょう。


e0158128_18383717.jpg


本堂です。

茅葺屋根を持つ古民家のようなお堂です。


e0158128_18384334.jpg


中は撮影禁止だったので、外観だけ。


e0158128_18404229.jpg


待合です。


e0158128_18404563.jpg


こちらは地蔵堂


e0158128_18404942.jpg


そして、地蔵堂を上った場所に、村岡局の墓があります。


e0158128_18440053.jpg


村岡局は明治6年(1873年)、88歳でこの世を去りました。

当時としてはかなりの長寿ですね。


e0158128_18440430.jpg


「女傑」「女丈夫」「烈女」などと称される村岡局ですが、彼女の女傑ぶりは作り話ではなく、彼女をよく知る梅田雲浜久邇宮朝彦親王(中川宮)の書簡などにも記されているほど、当時から伝説の女性だったようです。

たとえば、篤姫の義母の代理として江戸幕府13代将軍・徳川家定輿入れに付き従った際には、将軍や諸大名の面前で七汁二十二菜のご馳走を平らげたうえで、近衛家の家臣1人を将軍の側に置かれたいと述べて一同を驚嘆させたといいます。

彼女はもちろん篤姫の義母などではなく、江戸城に登城するのもこのときが初めてでした。

よほど肝の座った女性だったことがわかります。

このとき、将軍から三つ葉葵の紋を散らした打ち掛けを頂戴したそうですが、のちに安政の大獄で捕らわれたとき、その評定所白砂の上にその打ち掛けを着て座ったといいますから、さすがに幕府の役人も彼女の扱いに困ったと伝わります。

豪胆かつ頭の切れる聡明な女性だったことがわかりますね。


e0158128_18440875.jpg


晩年はここ直指庵で、付近の子女の教育に尽くしながら穏やかな日々を送ったといいます。


e0158128_18465845.jpg


直指庵から1kmほど南下した大覚寺大沢池の畔に、村岡局の顕彰碑があります。

近衛忠熙の篆額だそうです。


e0158128_18470207.jpg


もともと彼女は大覚寺門跡の家来・津崎左京の娘としてこの辺りで生まれ、兄の津崎元矩は大覚寺門跡の諸大夫だったのですから、その縁でここに顕彰碑が建てられたのでしょう。


e0158128_18470683.jpg


明治24年(1891年)、従四位が追贈されました。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-09-19 23:57 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)