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幕末京都逍遥 その156 「戊辰役東軍戦死者埋骨地(愛宕茶屋埋骨地)」

下鳥羽から桂川沿い鳥羽街道4kmほど南下したにも、「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻まれた墓碑があります。


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かつてこの地には鳥羽街道の愛宕茶屋があったそうで、その傍に愛宕神社の分祀されたがあったそうです。

鳥羽・伏見の戦いの際、この場所でも激しい戦闘が繰り広げられたと伝わり、ここに墓碑が建てられました。

この墓碑も前稿で紹介した悲願寺墓地内のものと同じく、明治40年(1907年)に京都十七日会によって挙行された東軍戦死者四十年祭典の際に建てられたものだそうです。


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ここに眠っているのは、慶応4年1月5日(1868年1月29日)に戦死した東軍兵35名だそうです。

1月5日といえば、戦いが始まって3日目で、あの岩倉具視が作ったとされる偽の「錦の御旗」を新政府軍が掲げた日です。

あるいは、錦旗を見て戦意を喪失して敗走中の兵だっかたもしれませんね。


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石碑の前は、かつての鳥羽街道が今も通っており、その前には桂川の堤防があります。


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堤防の上から墓碑を見下ろします。


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墓碑の後ろには、枝打ちされてはいますが大きな銀杏の巨樹があります。

幹の太さから見て、結構な樹齢ではないでしょうか?

あるいは、ここで戦死した35名の最期を見届けていたかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-10-31 21:08 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第40話「波乱の新政府」 ~廃藩置県~

 明治4年(1871年)7月14日、明治政府によって廃藩置県の詔が発令され、すべての藩が廃止されます。同時に、知藩事に任命されていた旧藩主たちすべても解任されて東京に集められ、代わって政府が選んだ適任者が、県令(現在の県知事)として配置されました。


 ここで、版籍奉還から廃藩置県の流れについてふれておきます。明治政府は、幕藩体制下の封建制から近代的な中央集権国家をつくるため、支配していた土地(版)人(籍)を天皇に返還させたのが版籍奉還でしたが、しかし、代わりに旧藩主を旧領地の知藩事に任命し、その下には、縮小されたとはいえ相変わらず武士団が存在し、年貢の取り立ても、知藩事が行っていました。結局のところ、便宜上、版籍を奉還したものの、かたちとしてはあまり変わっておらず、明治政府の力は依然として弱いものでした。このままでは、いつクーデターを起こされるかわからない。政府は、もっと地方の力が弱まる政策を必要としていました。

 この頃、旧天領や旗本支配地などは、政府の直轄地として「府」「県」が置かれ、政府から知事が派遣されていました。東京府、大阪府、京都府の3府と、現在まで名称が残っている県としては、兵庫県、長崎県などがそれにあたります(現在の区画とは大きく異なります)。この制度を全国に統一させようというのが「廃藩置県」でした。イメージ的に、廃藩置県によって初めて府や県ができたように思いがちですが、実は、「府」「県」「藩」が同時にあった時期があるんですね。これを「府藩県三治制」といいます。中央集権と地方自治が入り混じった複雑な時期だったんですね。


 e0158128_19334109.jpg政府としては、一刻もはやく廃藩置県を発令したかったのですが、それには、まず、直轄の軍隊をつくる必要がありました。廃藩置県の荒療治を断行するには、それ相応の反作用が予想されるわけで、それを抑えつけるだけの軍事力が不可欠。それには、徴兵制が必要だと唱えたのが、長州藩出身の大村益次郎でした。この案に政府参議の木戸孝允は賛同しますが、同じく参議の大久保利通らは、いきなりそんな強引なことをすれば、たちまち戦になるとして、反対の立場をとります。その後、両派は連日激論を交わしますが、結局、大久保らの主張する慎重論に収まり、薩摩・長州、土佐三藩による御親兵の設置が決まりました。このときの心境を木戸は日記にこう綴っています。


 「わが見とは異なるといえども、皇国の前途のこと、漸ならずんば行うべからざることあり」

 自分の意見とは違うが、すこしずつ前進させていかなければならない、ということですね。我慢強い木戸らしい述懐です。

e0158128_15131733.jpg その後、大久保による政府内の構造改革を経て、洋行帰りの山縣有朋を兵部少輔にすえて御親兵を設置。廃藩置県を断行するお膳立ては整いましたが、さらにこの政策を強固なものにするために、大久保は鹿児島に引っ込んでいた西郷隆盛に中央政府への出仕を求めます。人望のある西郷を押し立てて、その威光を借りて改革を断行しようと考えたんですね。このあたりが、大久保の政治家としてのスゴイところです。この頃の大久保の言葉が残っています。

 「今日のままにして瓦解せんよりは、むしろ大英断に出て、瓦解いたしたらんにしかず」

 何もせずに失敗するよりも、大勝負を打って失敗したほうが、よっぽどいいじゃないか!・・・ってことですね。さすが、決断力と行動力の人です。


ドラマでは、なぜか廃藩置県の強硬に推し進めていたのは大久保ひとりで、木戸をはじめ他の政府首脳たちは慎重論を唱えていたように描かれていましたが、実際には逆で、最も廃藩置県に積極的だったのは木戸を始めとする長州藩閥で、大久保は、廃藩置県の必要性は理解していたものの、自身の出身藩である薩摩藩のお家事情などを考慮して、当初は慎重な姿勢を示していました。しかし、ひとたびやると決めたら、そこからは心を鬼にして徹底的に断行するのが大久保流です。事実、ドラマでも描かれていたように、明治3年12月18日(1871年2月7日)に勅使・岩倉具視とともに鹿児島入りした大久保は、国父・島津久光大激論を交わしたといいます。そして、これが大久保の最後の帰郷となりました。かつての主君と事実上決別した大久保は、このとき、二度と鹿児島の地を踏まない覚悟をしていたのかもしれません。


e0158128_15131310.jpg 廃藩置県推進派にとって、もうひとつの壁は西郷でした。実質、西郷は薩摩藩士族のリーダーであり、西郷の賛同なくしてこの改革を推し進めることは容易ではありません。しかし、その肝心の西郷が、この件を同意しないのではないかという見方が推進派に強くあったようです。というのも、薩摩藩は他藩に比べて武士の数が断然多く、したがって、廃藩を実行すれば失職する者が他藩より多く出ることは目に見えていました。士族の救済問題に人一倍熱心であった西郷が、士族の特権を全面的に否定するような策に賛同するはずがない。だれもがそう思っていたのですが、この件を山縣有朋が西郷に同意を求めに行ったところ、「木戸さんが賛成なら、よろしいでしょう。」と、意外にもあっさり同意したため、逆に山縣がうろたえたというエピソードがあります。また、後日、廃藩置県後の処置をめぐって政府内で議論が乱れ始めたときも、遅れて来た西郷が、「もし各藩において異議が起こるようであれば、兵をもって撃ち潰すほかありません」との一言を発したことで、議論がたちまち収まったというエピソードもあります。ドラマで、遅れてきた西郷が大久保に賛同したことで議論が収束したシーンがありましたが、おそらく、この逸話をアレンジしたものでしょう。西郷の発言力、影響力の大きさが窺える話ですね。


 では、なぜ西郷はこの荒療治にあっさり賛同したのでしょう。このときの心境を語った書簡などが残されていないため、西郷の心のうちはわかりません。士族の失業は西郷の望むところではなかったでしょうが、明治維新という革命の創作者として、最後の仕上げともいえる廃藩置県の必要性は、西郷とて理解し得ないことではなかったということでしょうね。


 こうして水面下で準備が整えられ、明治4年(1871年)7月14日、ほとんどクーデターの如く廃藩令が下され、藩が消滅しました。意外にも、懸念された暴動のようなものは、ほとんど起こりませんでした。何の前触れもなく電撃的に行われたため、呆気にとられた感じだったのかもしれません。それと、諸藩側の事情としても、戊辰戦争以来の財政難に行き詰まっていた藩が多く、廃藩は渡りに船といった感もあったようです。政府は、藩をなくす代わりに、諸藩の抱える負債を引き継ぐかたちとなりました。いろんな意味で、絶妙のタイミングでの革命だったのかもしれません。

 この革命を知った英国の駐日公使ハリー・パークスの感想が、アーネスト・サトウの日記に残っているそうです。

 「欧州でこんな大改革をしようとすれば、数年間戦争をしなければなるまい。日本で、ただ一つ勅諭を発しただけで、二百七十余藩の実権を収めて国家を統一したのは、世界でも類をみない大事業であった。これは人力ではない。天佑というほかはない」

 こうして261藩は解体され、1使3府302県となり、同じ年の11月には1使3府72県に改編されます。パークスが大絶賛した無血革命でしたが、武士すべてが失業という荒療治の反動は、この後ジワジワと押し寄せてくることになります。



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by sakanoueno-kumo | 2018-10-29 21:49 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その155 「戊辰役東軍戦死者埋骨地(悲願寺墓地)」

「154」で紹介した法傳寺から少し北上したところにある悲願寺墓地内に、鳥羽・伏見の戦いで戦死した東軍兵の埋葬地があります。


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鳥羽・伏見の戦い後、この付近で戦死した兵の遺骸がそのまま放置されていたそうで、それを見かねた下鳥羽の人々が、この墓地の一隅に穴を掘り、焼け残った家の梁や柱を集めて戦死者の遺骸をその上に積み、荼毘に付したうえで丁重に埋葬したそうです。

自分たちの家も戦災で焼けていたにもかかわらず、昔の人は皆、殊勝な人ばかりですね。

まあ、遺体がそこら中に散乱していたら、誰でもそうするでしょうか?


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ここに葬られたのは233名だそうです。

鳥羽・伏見の戦いでの東軍の戦死者は279人といいますから、その大半がここに眠っていることになりますね。


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墓碑には「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻まれています。

同じ文字が刻まれた墓碑がここ以外にも複数存在しますが、いずれも、明治40年(1907年)に京都十七日会によって挙行された東軍戦死者四十年祭典の際に建てられたものだそうです。

十七日会は徳川家康の命日である十七日(元和2年4月17日)にちなんだ徳川家恩顧者の会だそうです。


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ここ悲願寺墓地の歴史は古く、奈良時代の高僧・行基が改装を行ったとされているそうです。

この墓地は寺所有の墓地ではないのですが、格式が高い墓地ということで、「寺」の称号が与えられたのだとか。

かつてはここより南にありましたが、昭和59年(1984年)の都市計画によって、現在の場所に移転され、そのときに鳥羽伏見戦の戦死者の遺骨も改葬されたそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-10-28 08:04 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その154 「戊辰東軍戦死之碑(法傳寺)」

「その153」で紹介した下鳥羽にある石碑のすぐ近くにある法傳寺の正門横に、戊辰戦争のの発端となった鳥羽・伏見の戦いで戦死した東軍兵を供養する石碑があります。


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もともと法傳寺は鳥羽街道沿いにあり、石碑の建つ正門前でも激しい戦闘が繰り広げられたといいます。

その縁から、東軍が使用した短銃、砲弾、太刀、槍の穂先、東軍戦死者名簿なども所蔵しており、毎年8月には慰霊祭が行われているそうです。


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この碑は、京都で初めて東軍慰霊祭が大々的に行われた明治30年(1897年)の三十回忌の年に建立されたそうです。


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石碑には、「戊辰東軍戦死之碑」と刻まれています。

揮毫は、空海の書法を究めた名筆家として知られた宮小路康文

東軍=旧幕府軍ですね。

会津の人たちはいまでも薩長軍=官軍、幕府・会津軍=賊軍という表現を嫌うそうで、あくまで東軍、西軍というそうです。

先祖が長岡藩士だという作家の半藤一利氏も、その著書では東軍、西軍という呼称にこだわっています。

たしかに、ある日突然、偽の錦の御旗が翻って賊軍とみなされたわけですから、納得できるはずがなかったでしょうね。

「東軍」と刻まれたこの石碑の発起人は、おそらく旧幕府側の人たちだったんじゃないでしょうか。


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石碑の上手には「支那事変・大東亜戦・戦没者之碑」と刻まれた石碑が並び、下手には「戦死者埋骨東北悲願寺墓地」と刻まれた標識の碑があります。

次稿では、その悲願寺墓地を訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-10-27 00:50 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その153 「鳥羽伏見の戦い 下鳥羽戦跡」

慶応4年1月3日(1868年1月27日)の夕方に始まった鳥羽・伏見の戦いは、日没を迎えてもなお戦闘は続きました。

兵力は旧幕府軍が約1万5000だったのに対し、新政府軍は約5000と明らかに劣勢でしたが、それを補える高性能の武器を揃えていたこと、また陣形、戦術ともに新政府軍が勝っていたことなどから、旧幕府軍は死傷者が続出し、やむなく下鳥羽方面に退却します。

現在、その下鳥羽の桂川に面した道路沿いに、「鳥羽伏見戦の跡」と刻まれた石碑が建てられています。


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開戦から1日経った1月4日も、ここ下鳥羽付近で激戦が繰り広げられ、一時は旧幕府軍が盛り返しますが、ここで新政府軍は「錦の御旗」を掲げるんですね。

錦の御旗は、新政府軍が天皇の軍隊であることを示すもので、この時点で、すなわち新政府軍は官軍、旧幕府軍は天皇に逆らう賊軍ということになりました。

これを見た旧幕府軍の兵たちの士気は大きく低下し、またたく間に総崩れとなりました。


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この「錦の御旗」ですが、実は朝廷からもらったものではなく、岩倉具視が勝手に作った代物だと言われていますね。

いずれ始まるであろう旧幕府との開戦に備えて、岩倉が秘書官の玉松操に調べさせた資料を参考に、薩摩の大久保利通や長州の品川弥二郎らと相談して作ったものだと言われています。

実物は誰も見たことがないわけですから、それらしければいいということで、大久保利通の愛妾のおゆうが祇園で買ってきた錦紗銀紗の布を長州に運んで、2ヶ月がかりで完成させたもので、いわば捏造品だったわけです。


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偽物であれ何であれ、かつて南北朝時代でも足利尊氏が戦局を有利にするために御旗を利用したように、このときの錦の御旗も絶大な効力を発揮します。

そもそも、本来この戦いに朝廷は関係なく、薩長と旧幕府の私闘だったのですが、この錦の御旗を掲げたことにより、戦いを「義戦」にしたわけです。

自分たちから喧嘩を吹っかけておいて、相手が挑発に乗ってきたら、「正義」を主張する。

ずるいですね。

それにしても、御旗の納品がよく間に合いましたね。

もうちょっと製作が遅れていたら、戦いは違った結末を見ていたかもしれません。

そう考えれば、歴史は薩長の策謀に味方したということかもしれませんね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-10-25 00:47 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第39話「父、西郷隆盛」その2 ~版籍奉還~

 昨日の続きです。

 薩摩藩と長州藩が中心で発足した明治新政府は、旧幕府や戊辰戦争で敵対した諸藩の領地を接収し、これを直轄地としましたが、全国にはまだまだ諸藩が独立したかたちで存在しており、それぞれの藩には藩主がいて、その家臣たちがいます。すなわち、各藩には幕藩体制から続いた兵力がそのままとなっていたわけです。一方の明治新政府には、これを守る軍隊はありません。新政府からすると危なくてしょうがない状態だったわけで、まず新政府のやるべきことは、藩をつぶし、中央政権としての軍隊を持つことでした。しかし、それは容易なことではありません。


e0158128_19334109.jpg そんなとき、姫路藩主の酒井忠邦が、「藩の名称を改め、すべて府県と同じにし、中興の盛業を遂げられたい」との提案を持ち込みます。この案に木戸孝允が飛びつきます。諸藩から無理やり権力を奪い取るのではなく、皇国日本をつくるためという名目で、藩主自ら領地と人民を朝廷にお返しする。その代わり、藩主は旧領地の知藩事(現在の知事)になり、行政を担います。つまり、小国の国王から、大国の役人になるということですね。いわゆる版籍奉還です。木戸は、戊辰戦争前から封建制打破を考えており、これを実現するにはこの方法しかないと立ち上がり、それには、まずは新政府の中心的藩である長州藩と薩摩藩が率先してやらねばならないと考え、藩主・毛利敬親を説得します。幕末以来、長州藩は藩主が木戸ら藩の参政のやることに口を出す習慣がほとんどなく、このときも、木戸の申し出がすんなり通ります。


e0158128_15131733.jpg そして木戸は、中央における薩摩藩の代表・大久保利通を説得しますが、大久保は、版籍奉還の必要性は理解しますが、木戸ほど積極的ではありませんでした。それは、二人の出身藩の違いにあったといえるでしょう。藩主は多分にお飾りで、幕末からすでに封建的気分から脱却しつつあった長州藩と、島津久光という封建制の打破など絶対認めるはずのない保守派の国父が君臨する薩摩藩では、抱えている事情が違ったんですね。


 しかし、最終的には大久保も木戸案に同意し、明治2年6月17日(1869年7月29日)に版籍奉還は勅許されます。その内容は、知事家禄の総額を、藩の実収の一割に抑えるべきこと、および、藩士の禄制改革を指示し、藩士は一律に「士族」と称することとし、知藩事(旧藩主)と藩士との主従関係も、制度的にないものとしました。すなわち、士族は皆、藩の縛りがなくなって天皇に仕える身となったわけで、中央政府が諸藩の有能な人材を徴用するにあたっても、藩主の許可を必要としなくなったわけです。


e0158128_11283315.jpg ドラマでは描かれていませんでしたが、翌年の1月、大久保は一度、鹿児島に帰郷しています。その目的は、久光と西郷隆盛を政府に呼ぶための交渉でした。久光は政府の基本的な方針、特に、封建制廃止の方向に反対し、また、版籍奉還による旧藩主の処遇にも、強い不満を抱いていました。久光は、旧来の幕府独裁政治は拒否したものの、封建体制そのものの存続を望んでいました。そんな久光を中央に呼び寄せようというのは、ひとつには、久光と薩摩藩士たちを切り離す意味もあったでしょう。この頃、長州でも藩の兵制改革に反対する奇兵隊らの一部の隊士による暴発事件が起きていました。中央政府に否定的な久光が鹿児島にいたら、強引な改革に不平を持つ士族たちが久光を担ぎ、何をしでかすかわからない。猛獣を東京というに入れてしまおうとしたんですね。しかし、久光は病気を理由にこれを断固として断り、また、西郷の引出しにも失敗します。


 版籍奉還は、制度的には藩主の土地所有権がなくなり、藩士たちとの主従関係もなくなりましたが、形としては、藩主は知藩事と名を変えてそのまま残り、その下には相変わらず武士団がいます。一方の中央政府には、未だ直轄の軍隊といえるものがありません。これでは、完全な意味での封建制打壊とはいえず、新国家を作るには、もっと荒療治が必要だったんですね。すなわち、廃藩置県です。この大改革を実現するために、政府はどうしても維新最大の功労者である西郷の声望を必要としました。こうして西郷が東京へ駆り出されます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-10-23 21:06 | 西郷どん | Trackback | Comments(4)  

西郷どん 第39話「父、西郷隆盛」その1 ~西郷の帰郷~

 明治元年10月13日(1868年11月26日)に奥羽から東京へ凱旋した西郷隆盛は、新政府の面々の引き止めを振り切って鹿児島帰郷しました。翌年5月には函館五稜郭の鎮圧のために出征しますが、その後も、新政府入りを頑なに拒み、鹿児島に帰ります。このとき、西郷は維新風雲の志士のなかで、藩主、公卿以外の一藩士としては最も高い永世2000石の賞典禄を賜り、正三位に叙せられました。名実ともに維新最大の功労者となったわけです。


e0158128_15131310.jpg では、なぜそんな維新の象徴的存在だった西郷が中央政府入りしなかったかといえば、これには、様々な理由が考えられます。まず挙げられるのが、健康上の問題。明治元年(1868年)11月初旬に帰郷した西郷は、40~50日ほど日当山温泉湯治生活を送っています。これは、戊辰戦争での疲れを癒やす目的もあったかもしれませんが、この期間の長さから見ても、この時期、西郷は体調を損ねていたようです。この頃から西郷は肥満が著しくなり、それが起因する病気怪我に悩まされていました。


 その健康上の理由に加えて、西郷が窮屈な役人生活を嫌っていたことも大きな理由のひとつだったでしょう。西郷が自らの心情を詠んだ漢詩などには、宮仕えや都会暮らしを厭う性分が多分に観てとれます。もともと西郷には出世欲というものがあまりなく、元来が革命家、そして軍人であり、革命が成ったあとの細かい実務には余り関心がなかったようで、また、性格的にも向いてもいなかったようです。


 また、諸藩の薩摩藩に対する嫌疑を避けようとする考えもあったでしょう。ドラマで、中央政府への憤懣を訴える若い薩摩藩士たちに対して、「東京には一蔵どんがいるから大丈夫だ」といった台詞を吐いていましたが、まさしく、中央政府の中心となって動かしていたのは大久保利通であり、もし、自身が中央政府入りすれば大久保と西郷の両名が二人揃って中央政府の中枢に座る形になり、そうなると、長州藩をはじめ諸藩からの反感を買うことは免れ得ない。中央政府内の調和のため、そして薩摩藩への批判回避のためにも、西郷は身を引いたんですね。


e0158128_11283315.jpg それと、もうひとつ、薩摩藩国父の島津久光との関係を無視できません。久光は王政復古クーデターから戊辰戦争当初は西郷たちに協力的でしたが、その後、凱旋兵士が帰国して改革を強硬に要求しだすと、様相が変わってきます。元来、久光は頑強な保守家であり、彼が最も嫌うのは、身分秩序を乱す行為でした。そんな久光との関係を見たとき、もし、西郷が中央入りするとなると、いわば「朝臣」の身分となり、西郷をあくまで「藩臣」身分として自己の管轄下に押しとどめておきたい久光の、さらなる怒りを買うことは避けられないでしょう。西郷は久光に対し、鹿児島に引っ込むことで、自分にはなんら他意がないことを示そうとしたのではないかと考えられます。事実、あれほど東京での役人勤めを嫌った西郷でしたが、明治2年(1869年)2月に藩主・島津忠義が自ら日当山温泉まで来て藩政への復帰を求めると、あっさりとこれを引き受け、藩の参政となります。藩のお役目を担うことで、久光の怒りを鎮めようとしたのでしょう。また、久光より高くなってしまった正三位位階も、朝廷に返上を上申しています。かつては久光に対して「地ゴロ」と暴言を吐くほど攻撃的だった西郷でしたが、この頃は、東京の大久保のほうが、不屈の精神力だったようですね。


 そんなこんなで、理由はひとつではないでしょうが、西郷はひとまず鹿児島に引っ込みます。しかし、その生活は2年ほどで終わり、また東京に呼び戻されることになります。


e0158128_19271405.jpg 菊次郎が出てきましたね。鹿児島に帰ってきた西郷は、体調不良と久光からの圧力で辛い生活を送っていましたが、そのなかで、唯一嬉しい出来事は、奄美大島から息子の菊次郎を呼び寄せ、同居するようになったことだったでしょう。菊次郎は万延2年(1861年)生まれでしたから、このとき数えで9歳でした。最後に会ったのが2歳のとき、それも、徳之島での数日間だけでしたから、おそらく菊次郎に父の記憶はなかったでしょうね。後年に菊次郎が母・愛加那宛に描いた手紙によると、このとき西郷は、息子の目から見れば「甚だ御悦び遊ばされ」とあります。同じ時期、西郷は鹿児島郊外の武村に大金をはたいて家屋敷を購入しています。家を買い、離れて暮らしていた息子を引き取り、この時期の西郷は、このまま鹿児島で生涯を送る気だったことがわかりますね。しかし、歴史はそれを許しませんでした。


 西郷のことばかり述べてきましたが、この間の情勢の動きにも目を向けねばなりません。続きは明日の稿にて。


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by sakanoueno-kumo | 2018-10-22 19:28 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その152 「城南宮」

「その150」で紹介した小枝橋から300mほど東にある城南宮は、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いの際、薩摩軍が陣を布いた場所です。


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鳥羽街道を北上してきた旧幕府軍に対して、薩摩藩を中心とする新政府軍は、ここ城南宮から小枝橋方面に東西に長い陣を布いて北上軍への備えとしました。


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境内には、鳥羽・伏見の戦いを説明する駒札が建てられています。


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この大鳥居からの参道に、薩摩軍の大砲がズラリと並んでいたと伝えられ、明治に入って描かれた合戦絵巻にも、ここに大砲が並んでいる様子が描かれています。

「その150」でも紹介しましたが、鳥羽・伏見の戦いの戦端は、薩摩軍が放った一発の砲によって開かれました。

その最初の砲は、ここ城南宮に置かれた砲だったという説もあります。


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ニノ鳥居です。


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舞殿です。


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わたしがここを訪れたとき、本殿は改修工事中でした。


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後年、西郷隆盛が鳥羽・伏見の戦いを回顧して、

「鳥羽一発の砲声は百万の味方を得たるよりも情しかりし」

と語って笑ったという有名なエピソードがありますが、薩摩は、自分たちが起こした革命を完成させるため、手に入れた権力を盤石にするために、どうしても戦争がしたかったんですね。

だから、一旦は恭順を公言していた旧幕府軍を挑発し、無理にけしかけて戦争に持ち込みます。

しかも、偽の錦旗まで用意して。

これって、すでに瀕死の状態にある日本に対して、戦争を終らせるためといって原爆を投下したアメリカ軍と同じですよね。

歴史を否定するつもりはありませんが、歴史を歪曲して賛美するのも好きではありません。

鳥羽・伏見の戦いは「義戦」ではありません。

薩長と旧幕府との「私戦」です。




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by sakanoueno-kumo | 2018-10-20 00:01 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その151 「鳥羽離宮跡」

「その150」で紹介した小枝橋の石碑が建つ場所のすぐ南側に、鳥羽離宮跡があります。

鳥羽離宮は平安時代後期に白河天皇(第72代天皇)、鳥羽天皇(第74代天皇)、後白河天皇(第77代天皇)院政を行った御殿があったところです。

ここも、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦い時には戦場となりました。


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現在、鳥羽離宮跡は鳥羽離宮公園として整備されています。


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公園の北側に、かつて鳥羽離宮の庭園の築山だった「秋の山」という小さな丘があるのですが、その傍に、説明板と案内板が設置されています。


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前稿で紹介した小枝橋での戦端が説明されています。

ただ、気になったのは最後の一文


新しい時代「明治」、ここ伏見から始まったともいえます。


とあります。

「その146」でも述べましたが、わたしは、鳥羽伏見の戦いを含む戊辰戦争は、する必要のなかった戦争だと思っています。

なので、この鳥羽・伏見の戦いがあったからこそ日本は近代国家を築けたかのような表現は好ましく思えません。

わたしなら、こう記します。

「翌年の函館五稜郭の戦いまで続く凄惨な内戦は、ここ伏見から始まりました。」と。


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説明板の横には、鳥羽・伏見の戦いの布陣図碑があります。


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秋の山の頂には、鳥羽・伏見の戦い顕彰碑が建てられています。


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碑文は漢文なのでよくわかりませんが、薩摩藩出身の元官僚で、黒田清隆内閣総理大臣だったときにはその秘書官を務めてのちに貴族院議員となった小牧昌業撰とありますから、おそらく、鳥羽・伏見の戦いを賛美する文章が刻まれているのでしょう。

公園では少年野球の子どもたちが元気いっぱいに汗を流していました。

かつて、ここで多くの無用の血が流れたなんて、彼らは知らないでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-10-18 23:23 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その150 「鳥羽伏見の戦い勃発地(小枝橋)」

伏見から3kmほど北上した鳥羽地区に移動します。

名神高速道京都南ICから少し南下して西へ折れると、南北に流れる鴨川にあたるのですが、そこに小枝橋という鴨川に架かる橋があります。

この橋は、鳥羽・伏見の戦い戦端が開かれた場所と伝わります。


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慶応4年1月2日(1868年1月26日)、薩摩藩との戦いを決意した徳川慶喜は、朝廷の判断を仰ぐために1万5千の大軍を大坂から京へ進めます。

その進軍ルートは2つ、会津藩・桑名藩・新選組「その147」で紹介した伏見奉行所を目指し、旧幕府軍鳥羽街道を北上して洛中を目指しました。

これに対して薩摩藩を中心とした新政府軍は、ここ小枝橋から東にある城南宮に向けて東西に長い陣を布いて北上軍への備えとし、また「その146」で紹介した伏見の御香宮にも砲兵部隊を配置します。


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3日午前、旧幕府軍と新政府軍が、ここ小枝橋で接触します。

旧幕府軍を率いていたのは大目付滝川具挙でした。

滝川はこの1週間前の慶応3年12月25日(1868年1月19日)に起きた江戸の薩摩藩邸焼討事件の報を慶喜にもたらし、江戸での薩摩藩士の横暴を説き、旧幕府軍を強硬論に導いた人物でした。


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滝川は立ちふさがった新政府軍に対して「将軍様が勅命で京に上がるのだから通せ」と要求します。

ところが、ここを守備していた薩摩藩の椎原小弥太は、「朝廷に確認するまで待て」と、行く手を阻みます。

そこから長時間にわたって「通せ」「通さない」押し問答が繰り返され、このままでは埒が明かないとしびれを切らした滝川は強行突破を試みますが、これに対して新政府軍が発砲し、これをきっかけに戦闘がはじまります。


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この砲声は3kmほど南の伏見にも届き、それを合図に同時スタートのように戦闘が始まりました。

こうして鳥羽・伏見の戦いが起こります。


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現在の小枝橋です。

当然ですが、いまは鉄筋コンクリート製です。


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当時の小枝橋は、ここより少し南に架かっていたそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-10-17 23:12 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)