明治4年(1871年)7月14日、明治政府によって廃藩置県の詔が発令され、すべての藩が廃止されます。同時に、知藩事に任命されていた旧藩主たちすべても解任されて東京に集められ、代わって政府が選んだ適任者が、県令(現在の県知事)として配置されました。
ここで、版籍奉還から廃藩置県の流れについてふれておきます。明治政府は、幕藩体制下の封建制から近代的な中央集権国家をつくるため、支配していた土地(版)と人(籍)を天皇に返還させたのが版籍奉還でしたが、しかし、代わりに旧藩主を旧領地の知藩事に任命し、その下には、縮小されたとはいえ相変わらず武士団が存在し、年貢の取り立ても、知藩事が行っていました。結局のところ、便宜上、版籍を奉還したものの、かたちとしてはあまり変わっておらず、明治政府の力は依然として弱いものでした。このままでは、いつクーデターを起こされるかわからない。政府は、もっと地方の力が弱まる政策を必要としていました。
この頃、旧天領や旗本支配地などは、政府の直轄地として「府」や「県」が置かれ、政府から知事が派遣されていました。東京府、大阪府、京都府の3府と、現在まで名称が残っている県としては、兵庫県、長崎県などがそれにあたります(現在の区画とは大きく異なります)。この制度を全国に統一させようというのが「廃藩置県」でした。イメージ的に、廃藩置県によって初めて府や県ができたように思いがちですが、実は、「府」と「県」と「藩」が同時にあった時期があるんですね。これを「府藩県三治制」といいます。中央集権と地方自治が入り混じった複雑な時期だったんですね。
政府としては、一刻もはやく廃藩置県を発令したかったのですが、それには、まず、直轄の軍隊をつくる必要がありました。廃藩置県の荒療治を断行するには、それ相応の反作用が予想されるわけで、それを抑えつけるだけの軍事力が不可欠。それには、徴兵制が必要だと唱えたのが、長州藩出身の大村益次郎でした。この案に政府参議の木戸孝允は賛同しますが、同じく参議の大久保利通らは、いきなりそんな強引なことをすれば、たちまち戦になるとして、反対の立場をとります。その後、両派は連日激論を交わしますが、結局、大久保らの主張する慎重論に収まり、薩摩・長州、土佐三藩による御親兵の設置が決まりました。このときの心境を木戸は日記にこう綴っています。
「わが見とは異なるといえども、皇国の前途のこと、漸ならずんば行うべからざることあり」
自分の意見とは違うが、すこしずつ前進させていかなければならない、ということですね。我慢強い木戸らしい述懐です。
その後、大久保による政府内の構造改革を経て、洋行帰りの山縣有朋を兵部少輔にすえて御親兵を設置。廃藩置県を断行するお膳立ては整いましたが、さらにこの政策を強固なものにするために、大久保は鹿児島に引っ込んでいた西郷隆盛に中央政府への出仕を求めます。人望のある西郷を押し立てて、その威光を借りて改革を断行しようと考えたんですね。このあたりが、大久保の政治家としてのスゴイところです。この頃の大久保の言葉が残っています。
「今日のままにして瓦解せんよりは、むしろ大英断に出て、瓦解いたしたらんにしかず」
何もせずに失敗するよりも、大勝負を打って失敗したほうが、よっぽどいいじゃないか!・・・ってことですね。さすが、決断力と行動力の人です。
ドラマでは、なぜか廃藩置県の強硬に推し進めていたのは大久保ひとりで、木戸をはじめ他の政府首脳たちは慎重論を唱えていたように描かれていましたが、実際には逆で、最も廃藩置県に積極的だったのは木戸を始めとする長州藩閥で、大久保は、廃藩置県の必要性は理解していたものの、自身の出身藩である薩摩藩のお家事情などを考慮して、当初は慎重な姿勢を示していました。しかし、ひとたびやると決めたら、そこからは心を鬼にして徹底的に断行するのが大久保流です。事実、ドラマでも描かれていたように、明治3年12月18日(1871年2月7日)に勅使・岩倉具視とともに鹿児島入りした大久保は、国父・島津久光と大激論を交わしたといいます。そして、これが大久保の最後の帰郷となりました。かつての主君と事実上決別した大久保は、このとき、二度と鹿児島の地を踏まない覚悟をしていたのかもしれません。
廃藩置県推進派にとって、もうひとつの壁は西郷でした。実質、西郷は薩摩藩士族のリーダーであり、西郷の賛同なくしてこの改革を推し進めることは容易ではありません。しかし、その肝心の西郷が、この件を同意しないのではないかという見方が推進派に強くあったようです。というのも、薩摩藩は他藩に比べて武士の数が断然多く、したがって、廃藩を実行すれば失職する者が他藩より多く出ることは目に見えていました。士族の救済問題に人一倍熱心であった西郷が、士族の特権を全面的に否定するような策に賛同するはずがない。だれもがそう思っていたのですが、この件を山縣有朋が西郷に同意を求めに行ったところ、「木戸さんが賛成なら、よろしいでしょう。」と、意外にもあっさり同意したため、逆に山縣がうろたえたというエピソードがあります。また、後日、廃藩置県後の処置をめぐって政府内で議論が乱れ始めたときも、遅れて来た西郷が、「もし各藩において異議が起こるようであれば、兵をもって撃ち潰すほかありません」との一言を発したことで、議論がたちまち収まったというエピソードもあります。ドラマで、遅れてきた西郷が大久保に賛同したことで議論が収束したシーンがありましたが、おそらく、この逸話をアレンジしたものでしょう。西郷の発言力、影響力の大きさが窺える話ですね。
では、なぜ西郷はこの荒療治にあっさり賛同したのでしょう。このときの心境を語った書簡などが残されていないため、西郷の心のうちはわかりません。士族の失業は西郷の望むところではなかったでしょうが、明治維新という革命の創作者として、最後の仕上げともいえる廃藩置県の必要性は、西郷とて理解し得ないことではなかったということでしょうね。
こうして水面下で準備が整えられ、明治4年(1871年)7月14日、ほとんどクーデターの如く廃藩令が下され、藩が消滅しました。意外にも、懸念された暴動のようなものは、ほとんど起こりませんでした。何の前触れもなく電撃的に行われたため、呆気にとられた感じだったのかもしれません。それと、諸藩側の事情としても、戊辰戦争以来の財政難に行き詰まっていた藩が多く、廃藩は渡りに船といった感もあったようです。政府は、藩をなくす代わりに、諸藩の抱える負債を引き継ぐかたちとなりました。いろんな意味で、絶妙のタイミングでの革命だったのかもしれません。
この革命を知った英国の駐日公使ハリー・パークスの感想が、アーネスト・サトウの日記に残っているそうです。
「欧州でこんな大改革をしようとすれば、数年間戦争をしなければなるまい。日本で、ただ一つ勅諭を発しただけで、二百七十余藩の実権を収めて国家を統一したのは、世界でも類をみない大事業であった。これは人力ではない。天佑というほかはない」
こうして261藩は解体され、1使3府302県となり、同じ年の11月には1使3府72県に改編されます。パークスが大絶賛した無血革命でしたが、武士すべてが失業という荒療治の反動は、この後ジワジワと押し寄せてくることになります。
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