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江戸城を歩く。 その1 「和田倉門~巽櫓~桔梗門」

東京のド中心部にある天皇陛下のお住まい、皇居

江戸時代は徳川幕府の政庁・江戸城だったことは誰もが知るところだと思います。

ただ、そのすべてが皇居となっているわけではなく、皇居として使用されているのはかつての西の丸のみで、江戸城の中心部にあたる本丸、二の丸、三の丸の一部は、皇居東御苑として一般公開されています。

過日、東京を訪れた際、丸1日フリーの日が出来たので、じっくり時間をかけて江戸城を歩いてみました。


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皇居1周は約5kmで、都民のランニングコースとして親しまれていますが、実は、現在の皇居を囲う濠はかつての内濠で、徳川時代の江戸城の外郭は、西は四谷から東は浅草まで、北は水道橋から南は虎ノ門までありました。

面積にして約230万㎡、とてつもなく広い面積を誇る日本最大の城だったんですね。

幕府の政庁ですから、日本最大でなければならなかったのでしょう。


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江戸城の歴史は、長禄元年(1457年)に太田道灌が築城した居城に始まるといわれています。

その頃の江戸城はごく小さな城でした。

その後、豊臣秀吉より小田原北条氏の旧領を与えられた徳川家康が江戸に入り、荒廃していた道灌の城を改築して居城としますが、当時の徳川家は豊臣政権下の一大名に過ぎず、規模もそれほど大きくなく、家康の性格もあって質実剛健なつくりだったといいます。

慶長8年(1603年)に家康が幕府を開くと、天下普請と称して全国の諸大名に散財させ、大坂城に負けない豪壮な城の拡張に着手し、やがてその事業は2代将軍・徳川秀忠、3代将軍・徳川家光に引き継がれ、寛永13年(1636年)に内外郭合わせてほぼ全容を完成させました。

それが、皇居として現在に伝わる江戸城です。


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写真はJR東京駅から大手筋をまっすぐ西へ歩いたところにある和田倉門和田倉橋です。


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和田倉橋を渡ります。

この橋より内側は、大手門桔梗門(内桜田門)から入場する大名や武士が通行する橋で、一般人は通ることができませんでした。


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橋を渡ると、枡形虎口になっています。


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ここ訪れたのは平成30年(2018年)4月7日、ソメイヨシノはだいぶん散っていましたが、この桜は満開でした。

八重桜かな?


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桜の横に櫓台跡、向こうに聳えるのはパレスサイドホテル


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桜の向こうに櫓が見えます。


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こちらがその櫓。

「巽櫓」です。

別名「辰巳櫓」「桜田櫓」「桜田巽二重櫓」とも言います。

江戸城に現存する唯一の隅櫓です。


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かつて江戸城には多くの櫓がありましたが、現在残っているのは、西の丸の伏見櫓、本丸の富士見櫓、そして、ここ三の丸の巽櫓の3つだけです。

狭間石落としが備わっている実戦的な櫓です。

関東大震災で損壊したのち、解体して復元されたそうです。


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前の濠は、桔梗濠

濠の奥に見えるのが桔梗門で、その向こうに見える櫓は、本丸南の富士見櫓です。


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こちらが桔梗門です。

桔梗門は慶長19年(1614年)に造られたそうで、門名の由来は、最初に江戸城を築いた太田道灌の時代に、この近くに泊船亭があったと伝えられ、道灌の家紋の桔梗紋から付けられたといわれているそうです。

別名、「内桜田門橋」とも呼ばれています。


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こちらが本丸南の富士見櫓

富士見櫓は明暦の大火(1657年)で天守とともに焼失しましたが、その後、再建。

天守が再建されなかったため、富士見櫓が天守の代用として使用されたと言われています。

江戸時代、将軍がここから富士山や品川の海を眺めたと伝えられます。


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さすがに江戸城はデカイ!

次稿に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-11-30 00:11 | 東京の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

ブログ開設10周年のご報告。

唐突ですが、本日は手前味噌なご報告です。

2008年11月より続けてまいりました当ブログですが、

今月でなんと10周年を迎えることとなりました。

これもひとえに皆々様のご厚情あってのことと、厚く御礼申し上げます。

この間に起稿した拙文数は1,635稿、いただいたコメント数は2,773件(このうち約半分は自身の返答ですが)、この10年間に当ブログに訪問していただいた件数は788,359件(11月29日0:00現在の訪問者数)でした(これはユニークユーザー数なので、同じパソコンから1日に何度アクセスいただいてもカウントは1ということになります)。

どなた様も、素人のとりとめもない駄文にお付き合いいただき、まことにありがとうございました。


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ブログを始めた当初は、大河ドラマのレビューを中心に時事ネタスポーツネタなどいろいろやっていたのですが、最近は、めっきり史跡巡りレポートのブログになっちゃっています。

というのも、十数年続けていた土日の少年野球のコーチを3年前に退かせてもらって、次なる休日の過ごし方を探していたところ、なんとなく、史跡巡りでもはじめてみようかと思ってはじめてみると、これが結構ハマってしまって・・・。

誰にも鑑賞されず、誰の迷惑にもならず、ひとりで気まぐれにブラブラと逍遥(嫁も娘も付き合ってくれませんし、息子は東京行っちゃいましたし)。

交通費くらいしか金もかかりませんし、こんな楽しい時間はないなぁと。

で、その備忘録として、ブログに起稿する。

なかなか、いい趣味なんじゃないかと(自画自賛)。


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そんなわけで、10周年を記念して、ブログスキンの画像を2011年から使用してきた神戸の夜景(上の写真)から姫路城に変えてみました。

大河ドラマと史跡めぐりのブログですから、やはり、わが兵庫県の誇る世界遺産の姫路城かな、と。


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それにしても、軽い気持ちで始めたブログが、正直ここまで長く続くとは思いもしませんでした。

人生を振り返っても、10年以上続けたことなんて、そうそうありません。

個人的には、いまの仕事と3年前に辞めた少年野球のコーチくらいでしょうか?

あっ、あと、一応結婚生活も(笑)。

そもそも、「坂の上のサインボード」という屋号もsakanoueno-kumoというハンドルネームも、特に思案したわけでもなく、なんとなく思いつきでネーミングしたもので、こんなことになるのなら、もっと真剣に考えればよかったと後悔しています。

まあ、特に肩に力が入っていなかったから、これだけ続いたといえるかもしれませんけどね。


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そんなわけで、まだまだしばらくは続けていくつもりでいますので、どなたさまも、これからも懲りずにお付き合いいただければ幸せです。

今後ともよろしくお願いします。



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by sakanoueno-kumo | 2018-11-29 00:02 | コネタ | Trackback | Comments(6)  

西郷どん 第44話「士族たちの動乱」その3 ~私学校の創設~

昨日の続きです。

明治6年の政変によって西郷隆盛下野し、明治6年(1873年)11月10日に鹿児島に帰郷しますが、このとき、西郷に追従するかたちで多くの官僚、軍人が辞職しました。その人数は、鹿児島県だけでも数百名に及んだといいます。代表的なところでは、桐野利秋、篠原国幹、淵辺群平、別府晋介、河野主一郎、辺見十郎太などで、彼らは、朝命で東京に残るよう命令されていたにも関わらず、それを無視して西郷とともに帰郷します。特に篠原などは、天皇から直々に在職を要請されましたが、それでも西郷に追従しました。それだけ西郷の人望の厚さがうかがえますが、同時に、この時期はまだ、後年のように天皇の威光が絶対的だったわけではなかったことがわかります。政府は、これを黙認せざるを得ませんでした。そして、下野した西郷が陸軍大将の職を固辞したにもかかわらず、政府は陸軍大将としての月給をその後も西郷に支給し続けました。政府は、よほど西郷の威望と薩摩士族の軍事的圧力を恐れていたのでしょう。


 帰郷した西郷は、農作業に勤しむかたわら、健康面を考えて湯治狩猟に取り組み、心身を癒す日々を送っていました。その一方で、西郷を追って帰郷した将兵たちの多くは、時勢を慷慨するばかりで無為に日々を過ごす者がほとんどだったといいます。このままでは鬱憤がたまる一方で、不測の事態も起こりかねない。そこで西郷は配下と相談し、彼らを教育するための学校を設立します。これが、有名な私学校です。


e0158128_22232804.jpgただ、一説には、西郷はそれほど私学校の運営に積極的に関与しようとはせず、むしろ、熱心だったのは、桐野、篠原、そして洋行帰り村田新八だったといいます。村田は、明治6年の政変の際は欧米視察中で日本にいませんでしたが、帰国して西郷の下野を知ると、辞職して鹿児島に帰郷しました。西郷に追従した薩摩人で、洋行帰りは村田だけでした。征韓論政変を大雑把に言えば、欧米を目の当たりにした洋行組と、日本を出たことのない留守組対立と見ることができますが、その論でいえば、ただ一人当てはまらないのが村田でした。西郷と縁の深い実弟の西郷従道や従兄弟の大山巌らですら、西郷の征韓論にははっきりと反対の立場を示し、追従して下野することなく東京に残りましたが、この村田だけは、大久保利通が認めるほどの人物でありながら、官を捨てて野に下りました。かと言って、欧米をこの目で見てきた村田は、桐野や篠原のように妄信的な政論を唱えるようなことはなく、なぜ、村田が下野してこの私学校に加わったのか、今もって謎です。村田さえいればと考えていた大久保は、村田の帰郷を聞いて呆然としたと伝えられます。


 e0158128_15131310.jpg私学校は、銃隊学校、砲兵学校、賞典学校からなっており、このうち、銃隊学校と賞典学校を篠原国幹が、砲兵学校を村田新八が、それぞれ監督者となりました。入校した人数は銃隊学校が500人以上、砲兵学校が200人以上で、少人数の賞典学校では将校の育成が行われました。そして私学校の教育方針は、西郷自身がまとめ、揮毫して壁に掲げました。


一、道を同じうし、義相協(かな)うを以て暗に集合せり。故にこの理を益研究して、道義においては一身を顧みず、必ず踏み行うべき事。


一、王を尊び民を憐れむは学問の本旨。然らばこの天理を極め、人民の義務にのぞみては一向(ひたすら)難に当たり、一同の義を立つべき事。


 つまり、道義、尊王、愛民の精神を極めろ、ということですね。敬天愛人スローガンとする西郷らしい教えだといえます。ただ、この精神論だけでは、西郷がこの学校を設立して何をしようとしていたのかはわかりません。一説には、不平士族の暴発を抑えるため、つまり士族を統御するための組織だったともいわれ、また別の説では、近い将来発生するであろうロシアとの軍事衝突に備えての組織だったともいいます。結局のところ、西郷の真意がどこにあったのかは定かではありませんが、やがてこの組織が、西郷を死地へと導いていくことになります。



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by sakanoueno-kumo | 2018-11-28 00:03 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)  

西郷どん 第44話「士族たちの動乱」その2 ~佐賀の乱~

 昨日の続きです。 

 新政府に対する不平士族たちの反乱の狼煙は、まず九州の佐賀において上がります。佐賀は、いわゆる「薩長土肥」の一角として維新政府に人材を輩出していましたが、その実は薩長主導のもとその風下に立たされており、佐賀人はその憤懣を募らせていました。そんな背景のなか、明治6年の政変によって、江藤新平、副島種臣が政府からはじき出されたことが導火線となり、明治7年(1876年)2月1日、3000人近い士族が武装蜂起します。


 当時、佐賀には「征韓党」「憂国党」という2つの政治党派がありました。「征韓党」は、西郷隆盛や江藤新平が主張した征韓論を支持する党派で、「憂国党」は、維新政府の近代化そのものを否定し、政体をかつての封建制に戻せと主張する集団でした。この2つの党派はもともと国家観文明観が異なり、目指すところが違っていたのですが、新政府に対する憤懣という一点のみで同調し、ともに決起することになります。しかし、主義主張で共闘すべきスローガンを共有していなかったため、両党は司令部も別々でした。


e0158128_22240827.jpg 当時、東京にいた江藤新平は、佐賀士族たちの武装蜂起の報せに驚愕し、急いで佐賀に帰郷します。同じく、同郷で天皇の侍従や秋田県の初代権令などを務めた島義勇も、佐賀に向かいます。当初、2人の帰郷の目的は、反乱士族たちをなだめるためだったといいます。しかし、先に佐賀に入った島が憂国党の首領に担がれ、遅れて2月11日に佐賀に入った江藤も、島と会談して翌12日に征韓党の首領に担がれます。こうして、政治的主張の全く異なるこの征韓党と憂国党が共同して反乱を起こすことになるんですね。江藤が佐賀に帰郷することを決意したとき、同郷の大隈重信大木喬任らは、いま帰郷すると反乱軍の神輿に担がれる可能性が高いと憂慮して必死で説得しましたが、江藤は聞く耳を持たず、不平士族たちを説得する自信があるとして強行しましたが、結果は、大隈たちの心配どおりとなりました。あるいは、江藤自身、こうなることは想定済みだったかもしれません。


 e0158128_15131733.jpg佐賀士族挙兵の報せが東京の大久保利通の耳に入ったのは、まだ江藤が佐賀に入っていない2月3日でした。大久保はすぐさま陸軍大輔の西郷従道に手配を命じ、熊本鎮台に出兵を下令しました。司令官は谷干城少将。このとき佐賀に向かった政府軍の総兵力は約5400人だったといい、これは、この時期の日本軍の可動兵員数の半数にあたりました。また、海軍からも軍艦2隻が出動します。そしてさらに、大久保は自らも九州に出向き、反乱の鎮圧に当たります。このとき大久保は、佐賀における軍事、行政、司法三権全権の委任を受けての佐賀入りでした。つまり、現代で言えば、軍の司令長官警察庁長官最高裁判所の裁判長内閣総理大臣をすべて兼ねた状態だったということで、これは、あらゆる事柄において、すべて大久保の独断で専決できるということでした。たとえ一時的だったとはいえ、大久保ひとりが国家権力のすべてを掌握したかたちだったんですね。大久保は、この政変以後の最初の士族反乱を、完膚なきまでに潰したかったのでしょうね。


 戦いの詳細は省きますが、反乱軍は一時、優勢に立ったこともありましたが、結局、半月ほどで鎮圧されました。江藤は戦場を離脱し、鹿児島に向かいます。鹿児島には、江藤とともに下野した西郷がいました。もともと江藤らの武装蜂起の背景には、いま佐賀が決起することによって、薩摩、土佐を中心とした全国の反政府勢力が続々と呼応して立ち上がり、天下を挙げた大動乱に持ち込んで政府を転覆させるという狙いがあったとされます。その最も頼みの綱は、全国の不平士族の期待を一身に受けた薩摩の西郷でした。江藤は、その西郷に助力を求めるため、薩摩に向かったわけです。


 e0158128_15131310.jpgドラマでは、江藤が西郷の自宅を訪れていましたが、通説では、江藤と西郷が会ったのは鹿児島県の南端の指宿にある鰻温泉だったと言われています。江藤は熱弁を振るって西郷に薩摩士族の旗揚げを促しますが、西郷は動じることはありませんでした。西郷にしてみれば、敵前逃亡ともとれるかたちで士卒を残して戦場を離脱してきた江藤に対して、苦々しく思っていたのかもしれません。薩摩隼人の倫理としては、敗軍の将は士卒とともに潔く死ぬべきだと思うのが普通でした。しかし、江藤には江藤の正義があって、鹿児島まで落ち延びてきた。これも、西郷には理解できなかったわけではなかったでしょう。このとき西郷は、江藤に対して島津久光庇護を受けるよう勧めたといい、しかし、それは江藤のプライドが許さないことで、西郷の忠告を容れませんでした。このとき西郷は、珍しく声を荒げて「拙者がいうようになさらんと、当てが違いますぞ」と、叫んだといいます。この西郷の怒号を、たまたま聞いた宿の女将のハツが、この言葉をのちのちまで語り伝えています。


 結局、西郷の助力を得ることができなかった江藤は、土佐に渡って林有造、片岡健吉らの協力を得ようとしますが、これも失敗し、それでも諦めない江藤は、岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みますが、その途上、政府の差し向けた追手に捕らえられて縄に付きます。江藤の逮捕は、手配写真が全国にバラ撒かれていたために速やかに捕らえられたといいますが、この写真手配制度は江藤自身が司法卿を務めていた明治5年(1872年)に確立したもので、その制定者である江藤本人が被適用者第1となったという皮肉な結果となりました。


 捕らえられた江藤は、東京での裁判を望みましたが、江藤の身柄は佐賀に護送され、4月8日から2回に分けて簡単な取り調べを受けたのち、4月13日、除族の上、梟首の刑を申し渡され、その日のうちに刑が執行されました。通常、士族は梟首という屈辱にみちた惨刑を受けることはありませんでしたが、このときの判決は、「除族の上」という判決を付け加え、つまり、士族を廃めさせた上でさらし首にするという強引な判決でした。これは、大久保の発案だったと言われています。大久保は、何が何でも江藤を惨刑に処することによって、全国に燻る不平士族への見せしめにしたかったのでしょう。4月9日の『大久保日記』には、「江東、陳述曖昧、笑止千万、人物推して知られたり」と書かれており、また、処刑執行された13日の日記には、「江藤、醜態、笑止なり」と記しています。大久保は自身の日記が後世の学者に読み解かれるであろうことを見越して、後世の印象操作もここで行っていたようなんですね。この、かつての同志であった江藤に対する残酷な処置が、後世に大久保利通という人物を冷酷で非情な人物と印象づけている所以でもあります。


 江藤の首は、処刑場から4km離れた千人塚に晒されました。そのさらし首の写真が撮影され、大久保の指示によって全国にバラ撒かれたといいます。これも、不平士族に対する見せしめだったのでしょう。そのさらし首の写真は、いまでも画像検索すると出てきます。ネット上でさらされている以上、未来永劫さらされ続けることになるでしょう。これも、大久保の計算だった・・・ってことはないでしょうが。


 江藤新平辞世

 「ますらおの  涙を袖にしぼりつつ  迷う心はただ君がため」


 明日の稿につづきます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-11-27 00:14 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)  

西郷どん 第44話「士族たちの動乱」その1 ~喰違の変と愛国公党~

 明治6年の政変によって西郷隆盛を始めとする征韓派下野しますが、この政府分裂は世の不平士族たちをいっそう刺激することとなり、当時、盛んになり始めていた新聞雑誌などでも、激しく新政府を言論攻撃するようになります。その攻撃の矛先は、政変を指導した大久保利通岩倉具視に向けられました。


 明治7年(1874年)1月14日、宮中での晩餐会を終えて帰路についていた岩倉が、何者かによって襲撃されました。場所は赤坂喰違見附。この頃、皇居はこの前年の火災によって焼け落ちており、赤坂の迎賓館が仮皇居となっていました。そのため、江戸城二重橋前あたりに自宅が会った岩倉は、毎日この喰違見附を通るのが通勤コースとなっていたんですね。テロリストは、それを知って待ち伏せしていました。


e0158128_11234954.jpg 岩倉は馬車に乗っていましたが、襲撃団はいっせいに馬車に飛びかかり、なかの岩倉に刀を浴びせました。岩倉は眉の下を斬られ、横なぐりの刀が入りましたが、幸い帯に差していた短刀が、これを防ぎました。岩倉はとっさに馬車から転がり落ち、そのまま江戸城(当時は東京城)外堀に転がり落ちて、水の中に潜って顔だけを水面から出し、息を殺して身を隠したといいます。その間、何度か刺客がすぐ側を通ったといいますが、岩倉は動揺することなくひっそりと潜んでいました。さすがは幕末に何度も命を狙われた経験を持つ岩倉です。公家出身のなかでは、異端といえる度胸の持ち主でした。これが三条実美だったら、動揺して慌てふためいている間に、簡単に斬り殺されていたでしょう。岩倉がただ倒幕派志士たちに担がれただけのお飾りだったわけではないことがわかりますね。ドラマの岩倉は、ちょっとカッコ悪すぎじゃないでしょうか?


 e0158128_15131733.jpg報せを受けた大久保は、不平士族による政府高官の襲撃という事態を重く見、ただちに警視庁大警視川路利良に早急な犯人捜索を命じます。そして事件の3日後、犯人は逮捕されますが、捕まった犯人は士族の武市熊吉を始めとする9名で、いずれも土佐士族でした。土佐系の高官は、先の政変で板垣退助、後藤象二郎以下、ほとんどが官を辞してしまい、政府にとどまったのは佐々木高行谷干城などわずか数人で、その結果、土佐系士族のほとんどが新政府に不満を持つ野党となりました。これが、のちの自由民権運動につながっていくんですね。


 逮捕された9名は、同年7月9日、司法省臨時裁判所において裁かれ、全員が斬首刑の判決を受け、同日、伝馬町牢屋敷にて首を落とされました。


 e0158128_19013010.jpgまた、ドラマでは描かれていませんでしたが、同じ頃、西郷とともに下野した征韓派の板垣、後藤、江藤新平、副島種臣の4人の前参議が、由利公正などの同志とともに連署して、政府に対して民撰議院設立建白書を提出しました。主唱者は板垣で、その内容は、有司専制(一部の藩閥政治家数名で行われている政治)を批判し、民選の議会開設、つまり、選挙によって選ばれた議員による議会の設立を要望するものでした。そして、それと前後して、板垣たちは愛国公党を結成します。これが日本最初の政党と言われています(もっとも、2ヶ月後に解散していますが)。当初、板垣はこの結党に西郷も誘ったといいますが、西郷はその主旨には賛同しつつも、それが言論で実現するとは思わないとして、連署には加わらなかったといいます。西郷は大久保政府を批判する行動には加担したくなかったか、あるいは、板垣主導ではなく、自身の主導で事を起こしたかったのか、それとも、このときすでに、別の方法で政府を倒すことを視野に入れていたか・・・。今となっては確かめようがありません。


 こうして、各方面で新政府に対する不満が暴発し始めていました。やがて、それが士族の反乱へと発展してくことになります。その魁となったのが、佐賀の乱でした。

 続きは明日の稿にて。


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by sakanoueno-kumo | 2018-11-26 01:04 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その167 「臥雲山即宗院」

「その164」で紹介した東福寺の塔頭のひとつである臥雲山即宗院は、薩摩藩ゆかりの寺院として知られています。


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即宗院は、南北朝時代の元中4年(1387年)に薩摩国の守護大名だった6代目・島津氏久の菩提を弔うため創建されました。

その後、永禄12年(1569年)に火災で焼失しますが、慶長18年(1613年)、島津家久よって再興され、以来、薩摩藩の畿内菩提所となりました。


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即宗院が建立される以前は、関白・藤原兼実が晩年に営んだ山荘「月輪殿」があったとされます。

その名残を感じさせる庭園は現在京都市名勝に指定され、紅葉の名所としても知られています。


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幕末、島津斉彬の養女として第13代将軍徳川家定に輿入れすることとなった篤姫も、薩摩から江戸にむかう途中の嘉永6年10月5日(1853年11月5日)に、ここを訪れたという記録が残っています。


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境内の奥へと進むと、かつて採薪亭という茶亭があった場所があります。

安政の大獄の嵐が吹き荒れた安政5年(1858年)、ここにあった採薪亭で西郷隆盛と清水寺塔頭・成就院の住職・月照が、たびたび密議を交わしていたと伝えられます。


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採薪亭の跡地には「西郷隆盛密議の地」と書かれた説明書が立っています。


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ここ即宗院は、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで薩摩軍の屯所となりました。

鳥羽・伏見の戦いから会津戦争までの薩摩藩士の戦死者は524名とされています。

西郷隆盛は、その戦死者を弔うための薩摩藩士東征戦亡之碑を、ここ即宗院に建立します。


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その碑は、境内の裏山にあります。


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石段を登りきると石の鳥居があり、その奥の玉垣に囲まれた空間に石碑があります。


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正面には、西郷隆盛が藩士の霊を供養するために斎戒沐浴し、524霊の揮毫を行ったという石碑が5基、整然と並びます。


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これらすべて、西郷の揮毫といわれています。

この中には、西郷隆盛のすぐ下の弟で西郷従道の兄にあたる西郷吉二郎の名が刻まれているというのですが・・・。


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ありました・・・って、よく見ると「西郷宗次郎」となっていますね。

別人なのか、あるいは変名なのか、それとも誤記なのか・・・でも、弟の名前を間違えたりしないですよね。


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いちばん奥には、篆額「東征戦亡之碑」と記された石碑が建ちます。

その下の碑文は漢文なので詳しくはわかりませんが、「慶應之役其」という書き出しから想像するに、戊辰戦争の概要を記した文章だと思われます。

で、文末を見ると・・・。


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「西郷隆盛 謹書」とあります。

西郷の本当の名は「隆永」で、「隆盛」は父の名を間違って登録してしまったものだったため、西郷は終生、手紙などで「隆盛」の名を使ったことはなかったといいますが、公式な文書などでは、「隆盛」と記していました。


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過日、大阪歴史博物館で行われていた「西郷どん展」を観覧してきたのですが、そこで、ここ「薩摩藩士東征戦亡之碑」の設計図が展示されていました。

そこで紹介されていた文によると、除幕式に西郷は参列し「南洲翁の姿はフロックコートに白羽二重の帯に草履を履き、大小を手挟み、しずしず霊前にしばしもくとう、おもむろに祭文を読まれ、しばらくして、涙、滂沱として慟哭また慟哭、声なく全軍の士また貰い泣き、また慟哭」と、西郷の下僕だった永田熊吉が回想しています。


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せっかくなので石碑の前で記念撮影。


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この奥にある墓地には、人斬り新兵衛の異名で知られる田中新兵衛や、生麦村で大名行列を横切る英国人に斬りつけた奈良原喜左衛門、イギリス公使・パークス襲撃事件で負傷しながらも襲撃犯からパークスを守った中井弘などの墓があるそうですが、一般の方の墓もあるということで、残念ながら観光客は立入禁止でした。

最後に、石段を降りる際に目の前に広がっていた紅葉に彩られた景色をアップします。


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さて、明治維新150年にあたる年を記念して、今年2月から「幕末京都逍遥シリーズ」を続けてまいりましたが、本稿をもってひとまず終わりにさせていただきます。

167稿に渡った幕末史跡ですが、これを巡るのに、約2年かかりました。

1日で4~5ヶ所まわっていたのですが、30~40回は京都に足を運んだんじゃないでしょうか。

神戸から京都は、同じ関西ではあっても決して近くはなく、交通費も結構かかります。

われながら、よくやったなあと・・・。

楽しかったですけどね。

ただ、結構くまなく調べたと思っていますが、わたしの知らない幕末史跡が京都にはまだ残っているかもしれません。

そのときは、また続きをやろうと思いますので、その際はまたお付き合いください。




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by sakanoueno-kumo | 2018-11-24 03:50 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その166 「退耕庵(戊辰役殉難士菩提所)」

「その164」で紹介した東福寺の塔頭のひとつである退耕庵は、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで、東福寺とともに長州軍のが布かれた場所です。

そして戦後、長州藩戦死者の菩提所となりました。


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現在、山門の横には、「戊辰役殉難士菩提所」と刻まれた石碑が建ちます。


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駒札の説明書きによると、退耕庵は貞和2年(1346年)東福寺第43世住持性海霊見によって創建され、応仁の乱の災火により一時荒廃しましたが、慶長4年(1599年)に安国寺恵瓊によって再興されたそうです。


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茶室・作夢軒は、再興の際に恵瓊によって建てられたもので、豊臣秀吉の没後、ここで、恵瓊、石田三成、宇喜多秀家らが、関が原の戦いの謀議を行ったと伝えられているそうです。

それはすごい。


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ここが長州藩戦死者の菩提所となったのは、恵瓊が住持したということで毛利家との縁も深かったのかもしれませんね。


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維新後、「その78」で紹介した尊攘堂を建てて勤王の志士を慰霊に力を注いでいた品川弥二郎は、長州と退耕庵との浅からぬ縁に鑑み、明治27年(1894年)退耕庵維持会を作って後援していたそうです。

ここの本堂には、「その165」で紹介した防長藩士の墓に眠る48人の位牌が安置されています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-11-23 01:46 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第43話「さらば、東京」その4 ~明治6年の政変<西郷と大久保の決別>~

 e0158128_15131310.jpg昨日の続きです。

 辞表を提出した西郷隆盛は、まもなく日本橋小網町にあった家を引き払い、隅田川の枕橋近くにあった越後屋喜右衛門の別荘に身を隠しました。越後屋喜右衛門は旧徳川時代に庄内藩御用達だった人物で、その縁で、この当時西郷家の面倒をみていました。西郷はここに数日間滞在し、釣り詩作揮毫などをして過ごしたと言われています。西郷は東京を去ることを決意し、あるいは最後になるかもしれない東京での生活を、ここで心に刻んでいたのかもしれません。西郷は、政府を去った自分がいつまでも東京にいると、自分を担ごうとする血気の集団が騒ぎ出して何をしでかすかわからない、そう考えていたのでしょう。西郷は、「西郷隆盛」という人物が政治に与える影響力の大きさをいちばんよく知っていたといえるかもしれません。


 西郷は、彼を慕う桐野利秋ら取り巻きの面々にも、一言も報せることなく東京を去ります。ただ、ひとりだけ別れの挨拶をしにいった人物がいます。大久保利通でした。


 e0158128_15131733.jpg10月28日、西郷は突然、大久保の邸を訪れます。そこには先客がいました。伊藤博文でした。伊藤は気を使って、「拙者ははずしましょうか?」といいますが、西郷はかまいませんと言って伊藤に会釈し、大久保と向き合ったといいます。そして西郷は大久保に対して、これから鹿児島に帰る旨を伝え、「後のことは、よろしゅう頼ん申す」と言いました。すると大久保は、これまで誰にも見せたことがないほどの怒気を表し、「そいは吉之助さぁ、おいの知ったこつか!! いつでんこいじゃ。いまはちゅう大事なときにお前さぁは逃げなさる。後始末はおいがせんならん。もう、知ったこつか!」と、激しく罵倒したといいます。これには西郷も気を悪くしたらしく、珍しく激しい口調で「知らんとはどういうこつか!」怒りを顕にし、そのまま立て上がって出ていきました。大久保はよほど腹が立っていたらしく、玄関まで見送るということさえしなかったといいます。これを終始、側で見ていた伊藤がさすがに見かね、西郷が退去したあと、「アンナ場合にアンナ挨拶は善くない」と大久保をたしなめると、大久保は先刻とは別人のような疲れを見せて、「私もそう思います」と、小声でいったといいます。


 このエピソードは、後年、伊藤がハルビンで命を落とす直前に、新聞記者に語った回顧談です。伊藤は、西郷のことをあまり良く思っていなかったのか、後年になっても西郷の思い出をあまり語ろうとしなかったといいますが、このときの光景はよほど印象深かったのか、複数の場所で人に語っています。また、西郷の死後、大久保自身が前島密に対して語ったところでは、このとき大久保が懸命に西郷の帰郷を止めたのに対し、西郷は頑なにこれを拒絶したため、頭にきた大久保が「然らば勝手にせよ」と言ったと回顧しています。このあたりのエピソードの微妙な違いは今となっては確認のしようがありませんが、このとき、二人が喧嘩別れのような別れ方をしたのは間違いなさそうですね。


 ただ、ここで考えたいのは、西郷が結果的に自分を政府から追い出した大久保のところだけに別れの挨拶をしに行ったということでしょう。西郷にとって大久保は、竹馬の友であり、幕末から維新にかけて苦楽を共にしてきた唯一無二の戦友でした。自分のことを最もよく理解しているのは大久保だという思いがあり、どれだけ政見を違えて政敵となっても、大久保を畏敬する気持ちに変わりはなかったのでしょう。また、大久保も、常に沈着冷静で感情的に人を罵ることなどなかった彼が、西郷に対してのみ、伊藤が見たこともないような怒気を表したわけで、裏を返せば、それだけ大久保にとっても西郷は特別な存在だったということの表れだったでしょう。伊藤には喧嘩別れのように見えたこのときの二人でしたが、二人なりのお互いを認めあった別れの挨拶だったのかもしれません。


 この日を境に、西郷は大久保に向けて書簡を発することは一度もありませんでした。文字通り、この日がふたりの永遠の別れとなります。



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by sakanoueno-kumo | 2018-11-22 02:33 | 西郷どん | Trackback | Comments(4)  

西郷どん 第43話「さらば、東京」その3 ~明治6年の政変<政局の結末>~

 昨日の続きです。

 ドラマでは閣議1日で終わっていたかのようでしたが、実際には10月14日の閣議では結論に至らず、翌15日、改めて閣議が開かれました。しかし、通説では、この日、西郷隆盛は閣議を欠席したといいます。その理由は、自身の言い分は前日の閣議ですべて吐き尽くしたと判断し、採否は太政大臣をはじめとする他のメンバーに委ねたのではないかと言われています。この欠席が、西郷にとって功を奏することになるんですね。あるいは、自分がその場にいないほうが、自分の意見が重みを増すといった西郷の計算だったかもしれません。


 この日の閣議では、まず参議一同に対する意見陳述が求められ、その結果、『大久保日記』によれば、大久保利通を除く参議一同が西郷を支持する意見を表明したといいます。なかでも副島種臣板垣退助がとくに西郷の朝鮮派遣を強く求める態度を示しました。これに対し大久保は、猛烈に前日に主張した反対論を主張し、副島や板垣と激論を交わします。その結果、この日も閣議が紛糾したため結論を見ず、最終決定を三条実美岩倉具視の両人に任せることになりました。そして二人は別室で話し合いますが、ここで、優柔不断な態度を示していた三条が、にわかに西郷を支持する側にまわります。前稿で紹介した閣議前の西郷の脅しの手紙がきいていたのかもしれません。西郷を敵に回すということは、西郷を慕う薩摩系近衛兵たちを敵に回すことでもあり、争いごとを好まない三条には、大久保のような命をかけた覚悟などできなかったのでしょう。いずれにせよ、ここに西郷の朝鮮への派遣が本決まりとなり、あとは、手続き上、天皇に上奏して裁可を待つだけとなりました。


 e0158128_15131733.jpgこれに怒ったのは、大久保でした。大久保は参議に就任して西郷と対決するにあたって、事前に三条と岩倉に対して、くれぐれも意見を翻さないよう証文を取っていたといいます。幕末以来、大久保は公家の優柔不断さをよく知っており、もし、今回も土壇場で梯子を外されるようなことになったら、自身の政治生命も断たれることになる。大久保は二人を信用していなかったんですね。ところが、その心配どおり、やはり、土壇場で裏切られました。怒った大久保は、閣議が開催されるはずだった17日の早朝に三条邸を訪れ、参議の辞表を提出します。これには三条はよほどショックを受けたようで、『大久保日記』によれば、「よほど御周章の御様子に候」皮肉たっぷりに記しています。また、この大久保の辞表に追随するかたちで、木戸孝允と岩倉も辞表を提出しました。この事態を受けた三条は、今度は西郷を呼んで決定した閣議の内容を再検討するよう懇願しますが、当然、西郷はこれを拒絶します。こうなると、三条はもうどうしていいかわからなくなり、やがて重圧に耐えかねて錯乱状態になり、人事不省に陥ってしまいました。


 e0158128_11234954.jpgここから、また大久保、岩倉ら征韓論反対派の巻き返しが始まります。大久保は直ちに一策を講じ、同郷の黒田清隆を動かして宮中工作を図り、天皇から岩倉に太政大臣代行を命じるよう働きかけました。そして、その工作は見事に成功します。


 岩倉の太政大臣代行の就任を知った西郷は、10月22日に板垣退助、副島種臣、江藤新平三参議とともに岩倉邸を訪れ、15日の閣議決定通りに天皇に上奏するよう要請します。しかし、岩倉は、閣議での決定事項とともに自分の考えも同時に天皇に上奏すると応えました。彼らは、代行者が自分の意見を述べるのはおかしいとして岩倉を執拗に恫喝しますが、岩倉は一歩も引かず、そして岩倉の生涯で最も凄みのある台詞を吐きます。


「わしの目の黒いうちは、おぬしたちの勝手にはさせぬぞ!」


 有名なシーンですね。これ、描いてほしかったなあ。


 この岩倉の決死の覚悟を見た西郷は、もはや勝ち目はないと判断して席を立ちます。一同が岩倉邸を出るや西郷が振り返り、一笑してこう言ったとされます。


 「右大臣、よく踏ん張りもしたな」


 これまた有名なシーンですね。このときの西郷の姿を、板垣は生涯忘れられなかったと語っています。これも描いてほしかったなあ。


 かくして西郷ら征韓派の敗北が決定しました。西郷は10月24日、参議の辞表を提出。その翌日には、板垣退助、江藤新平、副島種臣、後藤象二郎の4参議も辞表を提出します。その後、大久保、木戸の辞表が却下され、ここに、いわゆる明治6年の政変は幕を閉じることとなります。


 明治6年の政変だけで3稿もかかっちゃいました。これでも、ずいぶん割愛したつもりです。これだけの人間模様が展開された物語の核と言ってもいい出来事なのに、ドラマではあまりにも簡素化して単純化した描き方になっていました。残念ですね。

 まだ書き足りないので、明日、もう一稿だけ、西郷と大久保の決別をやります。



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by sakanoueno-kumo | 2018-11-21 01:28 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)  

西郷どん 第43話「さらば、東京」その2 ~明治6年の政変<10月14日の閣議>~

e0158128_15131310.jpg昨日のつづきです。

明治6年(1873年)10月14日、正院にて閣議が開かれました。当初は10月12日に開かれる予定でしたが、急遽、副島種臣参議に加わるなどのゴタゴタがあって、2日延期されました。岩倉具視の帰国以来、征韓論反対派は水面下で激しく裏工作に動いていましたが、西郷隆盛を中心とする賛成派は、これといった政治工作はしていませんでした。西郷にしてみれば、自身の朝鮮国使節の件は8月17日の閣議で決まったことであり、すでに天皇への上奏も終えており、覆ることはありえないと高をくくっていたのかもしれません。それでも、ここに来て少し不安になってきたのか、12日の閣議が延期という通達が届くと、西郷は三条実美に手紙を送り、もし、今になって朝鮮使節の件を取り消すようなことになれば、「勅命軽き場に相成り候」と批判したうえで、「実に致し方なく、死を以て国友へ謝し候」と、脅しをかけました。西郷も、少し焦っていたのかもしれません。


 この日の閣議の席に連なったのは、太政大臣・三条実美、右大臣・岩倉具視、そして、西郷隆盛、板垣退助、大隈重信、大木喬任、後藤象二郎、江藤新平、大久保利通、副島種臣の8人の参議でした。木戸孝允は病気により欠席。このなかで、西郷、板垣、江藤、後藤、副島が征韓派で、岩倉、大久保、大隈、大木が反対派、どっちつかずが三条でした。


 閣議が始まると、まず、岩倉が西郷の朝鮮国即時派遣に反対の意を表明しました。岩倉が反対したのは即時の派遣で、つまり延期論でした。本来は渡韓そのものを中止にしたかったのでしょうが、摩擦を回避するための一時的な方便だったのでしょう。こう言われると、板垣らのような開戦論者にとっても、戦争をするには準備不足は明らかだったので、いったんは西郷を除く全員が岩倉の延期論に同意します。しかし、西郷はただひとり納得せず、自身の朝鮮国への即時派遣をあくまでも主張したため、事態は紛糾します。


 e0158128_15131733.jpgその西郷に真っ向から立ちはだかったのが、大久保でした。大久保は、西郷の渡韓は朝鮮との開戦につながる恐れが濃いと主張し、西郷の遣使に反対します。その理由として、日本の民情社会がまだ不安定であること、戦争のための財源がないこと、着手中の政府事業を中断せざるを得なくなること、武器弾薬外国に依存せざるを得ず、輸入が増大すること、そして、何より、たとえ朝鮮と戦争して勝利し、朝鮮を植民地として領有するようなことになっても、今の日本には朝鮮の国土を保有していく力はない、というものでした。つまり、朝鮮との戦争に勝っても負けても、日本にとって何ひとつ得なことはない、と言うんですね。後世から見れば、大久保の主張は実によく将来を見据えた論旨を展開したと言わざるを得ません。


大久保には、このあとの日本の国作りのビジョンがはっきりとありました。そのためには、たとえ竹馬の友である西郷と袂を分かつことになろうとも、引き下がるわけにはいかない。西郷に対してここまでハッキリとものが言えたのは、この席では大久保だけだったでしょう。さすがは鋼鉄の意思の人です。一方、西郷を中心とする征韓派の面々の主張には、そのあとの展望がいささかも語られていません。ただ、朝鮮の非礼を唱えて征韓を主張する、いわば観念的、感情的思考からくる征韓論であり、将来的展望がまったく示されていないんですね。ドラマでの大久保は、「西郷に勝ち、今の政府をぶっ壊したい」と言って不気味な笑みを浮かべていましたが、そんな個人的な勝ち負けや政局争いをしたわけではなかったでしょう。大久保とて、本音は西郷との対立を避けたかった。でも、大久保が描いた天下国家の体制を実現するには、いま目の前で国家を滅ぼそうとする暴論を唱える西郷(少なくとも大久保にはそう感じられていたでしょう)たち征韓派は、排除する必要があったのでしょう。西郷と大久保では、見えている景色が違ってきていたんですね。


 作家・司馬遼太郎氏はその著書『翔ぶが如く』のなかで、この征韓論争についてこう述べています。


 「政策論争が堂々と行われ、政局でも権力欲でもなく純粋に政策が焦点として争われたのは、日本政治史上稀にみる事件だった。」


 そうかもしれませんね。

 明日に続きます。

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by sakanoueno-kumo | 2018-11-20 02:41 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)