人気ブログランキング |

<   2018年 12月 ( 25 )   > この月の画像一覧

 

大久保利通終焉の地「紀尾井坂の変」跡地にて。

大久保利通が殺されたのは明治11年(1878年)5月14日でした。

場所は紀尾井坂付近だったといわれ、その地名をとって、この事件を「紀尾井坂の変」と呼びます。

紀尾井坂とは、現在の参議院清水谷議員宿舎前の坂道です。

江戸時代、このあたりは紀州徳川家、尾張徳川家、井伊家の大名屋敷があったことから、その頭文字をとって「紀尾井」と呼ばれるようになったそうです。

ただ、実際に大久保が襲撃されたのは紀尾井坂ではなく、少し先へ進んだ清水谷のあたりだったことが現在では立証されているそうです。

現在、その近くの清水谷公園内には大久保の哀悼碑が建てられています。


e0158128_18301584.jpg


事件当日の午前8時、大久保は明治天皇に謁見するために裏霞ヶ関の自邸を出発し、赤坂の仮皇居に向かいました。

共は下僕で馭者の中村太郎と、同じく下僕で馬丁の芳松の二人だけでした。

本来なら、大久保邸から赤坂仮皇居に向かうには、紀尾井坂を通るより赤坂見附を通ったほうが近道だったのですが、なぜか大久保はこのコースを選びました。

その理由は、赤坂見附は人通りが多くて危険だから、あえて人通りの少ないこの道を選んだと言われていますが、暗殺団がこの道で待ち伏せしていたことから考えれば、大久保は日常的にこの紀尾井坂コースを使っていたのでしょう。


e0158128_18304154.jpg

大久保を乗せた馬車が紀尾井町一丁目に差し掛かったとき、2人の書生が現れて通路を遮りました。

馬丁の芳松が馬車を降りて、脇によって道をあけるよう注意しますが、そのとたん、男たちは刀を抜き、いきなり馬の前脚を薙ぎ払いました。

この襲撃を合図に身を潜めていた4人の男が一斉に飛び出してきました。

刺客は全部で6人

芳松は背中から斬りつけられるもそれをかわし、助けを呼びに馬車を離れました。

馭者の中村は馬車から飛び降りたところを、刺客に一刀のもとに斬り下げられ、即死しました。

刺客たちは馬車によじ登り、中にいた大久保に斬りつけました。

このとき大久保は書類に目を通していたといい、一説によると「待て!」といって書類を風呂敷に包んだといいます。


大久保の最後のことばは、「無礼者!」という一喝だったといいます。

その後、大久保は馬車から引きずり出され、めった切りに斬りつけられました。

そして最後のトドメは喉に短刀が突き刺され、その短刀は地面にまで達していたといいます。

大久保は全身16ヶ所に刀を受けていましたが、その大半は頭部に集中していたといいます。

事件直後に現場にかけつけた前島密の証言によると、大久保の遺体は「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」状態だったといいます。

さすがに、ドラマや映画ではそこまで描けません。


e0158128_18305083.jpg


実行犯は、石川県士族の島田一郎、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一、および島根県士族の浅井寿篤の6名、いずれも太政官政治に不満を持つ不平士族でした。

彼らにとってこの襲撃は暗殺ではなく、政治でした。

なので、大久保を殺害するとすぐに自首しています。

彼らは、大久保さえ斃せば、やがて天下は転覆して世直しされると信じていました。


e0158128_18310021.jpg


この大久保襲撃については、まったく寝耳に水だったわけではなく、事前に予想できたことでした。

彼らは闇討ちのような卑怯な行為ではないことを主張するため、事件の4、5日前に大久保に宛てて殺害の予告状を送っています。

しかし、これを見た大久保は顔色ひとつ変えることなく、まったく意に介する様子もなかったといいます。


また、島田らが石川県を発ったとき、石川県令がすぐさま警戒すべきことを内務省に通報しており、そのことは大久保の耳にも届いていました。

さらに内務省は、警視庁に大久保内務卿の護衛を要請しますが、大警視の川路利良は、その必要はないとして、「加賀の腰抜けに何ができるか」と、相手にしなかったといいます。

これは、薩摩人特有の他藩蔑視の通癖が露骨に出た言葉ともいえますが、この当時、政府の要人警察が護衛するという習慣がまだなかったことと、他の大官に護衛がついていないのに、大久保だけに護衛をつけるのは、世間体から見て大久保を臆病者にすることになり、大久保を侮辱することになるといった思いもあったようです。

明治維新から10年以上が経ったこの時代でも、大官は役人である以前に、ひとりのサムライだったんですね。


e0158128_18311051.jpg


有名な話ですが、大久保は事件当日の朝、自邸に挨拶に訪れた福島県令の山吉盛典に対して、まるで遺言とも取れる明治30年計画を語ったといいます。

それによると、明治元年から10年を創業の時期として、戊辰戦争士族反乱などの兵事に費やした時期、次の10年を内治整理・殖産興業の時期、最後の10年を後継者による守成の時期と定義し、自らは第2期まで力を注ぎたいと抱負を述べるものでした。

しかし、結局は第2期の入り口で凶刃に倒れたわけです。


また、どういうわけか、大久保はこの日、西郷隆盛からもらった古い手紙を2通、懐に忍ばせていたといいます。

それは、いずれも二人が蜜月の間柄だった頃の手紙で、この手紙を持参していた話は、事件後ほどない5月27日付の東京日日新聞に報ぜられています。

大久保がどういう意図で手紙を持参していたかはですが、大久保は西郷を死に至らしめたことでよほど悩み苦しんでいたようで、自分と西郷とは、かつて深い絆で結ばれていたということを、しきりに人々に話したがっていたといいます。

あるいは、近々自分が殺されるかもしれないことを想定し、その死後、自分と西郷との友情関係世に知らしめるために手紙を持ち歩いていたのでしょうか。

その真偽はいまとなっては確認しようがありません。


e0158128_18312320.jpg


作家・司馬遼太郎氏は、その著書『翔ぶが如く』のなかで、大久保の死についてつぎのように述べています。


「結局は大久保とその太政官が勝ち、西郷がほろびることによって世間の士族一般の怨恨や反乱への気勢は消滅したかにみえた。大久保とその権力はほとんど絶対化するかの勢いになった。日本における政治風土として、権力が個人に集中してそれが絶対化することは好まれず、それに対する反対勢力が相対的に公認されている状態が好まれる。権力が個人に集中して絶対化した例は日本の歴史でまれであったが、遠くは織田信長の末期、近くは井伊直弼の大老就任後がそうであったであろう。結局は爆走する絶対権力をとどめる方法がないままに暗殺者がそれを停止させることが、ほとんど力学現象のようにして生起する。」


大久保の死も、あるいは歴史の必然だったのかもしれませんね。


e0158128_18313027.jpg


また、作家の半藤一利氏はその著書『幕末史』のなかで、


「戊辰戦争のつづきといえるこの明治の権力をめぐってガタガタした十年間は、古代日本人的な道義主義者の西郷と、近代を代表する超合理主義の建設と秩序の政治家大久保との、やむにやまざる「私闘」であったといえそうです。」


と述べておられています。

しかし、わたしは、西郷は道義主義者だったと思いますが、大久保が超合理主義者だったとは思いません。

むしろ、西郷以上に情に厚い熱血漢だったと思っています。

ただ、その情は、西郷のように人に対してではなく、「国家」に向けられた。

彼は、彼らが作った新国家という作品を、どんなことをしても守りたかった。

その国家建設に抗おうとする勢力は、たとえそれが竹馬の友であっても、容赦なく叩き潰した。

これは、大久保の政治家としての信念だったのでしょう。

日本近代史において、大久保利通ほどの信念の政治家は、それ以前もそれ以後もいないとわたしは思っています。


e0158128_18314109.jpg


西郷隆盛が西南の城山に散ったのが、この8ヶ月前の明治10年(1877年)9月24日、さらにその4ヶ月前の5月26日には、大久保、西郷と並んで維新三傑の一人に挙げられた木戸孝允もこの世を去っていました。

わずか1年足らずの間に、維新の象徴的存在だった3人が揃ってこの世を去ったわけです。

ひとつの時代が終わりを告げました。




ブログ村ランキングに参加しています。

よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-12-30 00:34 | 東京の史跡・観光 | Comments(2)  

上野戦争に散った彰義隊の墓

前稿で紹介した西郷隆盛像のある上野恩賜公園には、彰義隊の墓があります。

彰義隊とは、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜側近の旧幕臣を中心として結成した有志隊で、ここ上野が舞台となった上野戦争における佐幕側部隊です。


e0158128_14092115.jpg


鳥羽・伏見の戦いに敗れた慶喜は、江戸城に戻ると朝廷に対して恭順の意を示し、ここ上野にある寛永寺謹慎しますが、その慶喜の護衛江戸警備の名目で結成されたのが彰義隊でした。

もっとも、表向きの名目は慶喜の護衛と江戸警備ですが、実情は、慶喜の恭順姿勢に不満を抱く強硬派の集団でした。

頭取には渋沢成一郎、副頭取には天野八郎が投票によって選出され、幹事には本多敏三郎伴門五郎が就きました。

隊士には旧幕臣のみならず、町人博徒侠客も参加し、たちまち1000人を越える規模になります。


e0158128_14092510.jpg


慶応4年3月13日(1868年4月6日)、新政府軍の参謀・西郷隆盛と、旧幕府軍の陸軍総裁・勝海舟との歴史的会談が行われ、その約1ヶ月後の慶応4年4月11日(1868年5月3日)、江戸城は無血開城されることになり、慶喜も水戸にて謹慎することで決着します。

しかし、それに不満を持った彰義隊は、徹底抗戦を主張し、上野寛永寺に立て籠もります。

この不穏な空気を重く見た勝海舟は、再三、彰義隊の解散を促しますが、彼らは聞き入れることはなく、その後、彰義隊のなかでは慎重派だった渋沢成一郎が離脱して天野八郎ら強硬派がイニシアチブを取ると、ますます過激さを増していきます。


e0158128_14093664.jpg


京都に本陣を布いていた新政府軍は、関東での事態を重く見、西郷や勝では抑えきれないと判断して、大村益次郎を送り込んで指揮を執らせます。

江戸に入った大村は、たちまちにして陣形を整え、そしてとうとう5月15日(7月4日)、上野に結集した彰義隊3000人に対して、新政府軍2万人が総攻撃を開始。

その圧倒的な戦力の差から、開戦から1日も経たずに彰義隊は壊滅しました。


e0158128_14092901.jpg


この戦いにおける記録上の戦死者は、彰義隊105名、新政府軍56名といわれています。


e0158128_14093342.jpg


彰義隊士の遺体は、しばらく上野山内に放置されていたそうですが、三ノ輪円通寺の住職仏磨らによってこの地で茶毘に付されました。

説明板によると、正面の小墓石は、明治2年(1869年)に寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだそうで、のちに掘出されたそうです。

後ろの大墓石は、明治14年(1881年)12月に、元彰義隊士の小川興郷(椙太)らによって建てられたものだそうで、彰義隊は明治政府にとって賊軍だったため、政府をはばかって彰義隊の文字はありませんが、旧幕臣の山岡鉄舟の揮毫による「戦死之墓」の字が刻まれています。

その後、小川家によって墓所は守られてきましたが、現在は歴史的記念碑として、東京都が維持管理しています。


e0158128_14094054.jpg


彰義隊の墓が建てられたのが明治14年(1881年)で、西郷隆盛像が建てられたのが、その16年後の明治30年(1897年)。

同じ上野恩賜公園内に敵対した西郷隆盛の像と彰義隊の墓が隣接しているわけですが、今は問題ないとして、明治の頃は、関係者はどんな心境だったのでしょうね。

少なくとも、彰義隊の遺族は快くは思っていなかったんじゃないでしょうか。

もっとも、大村の像じゃなかっただけ、マシだったかもしれませんね。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-12-29 00:37 | 東京の史跡・観光 | Comments(0)  

上野の西郷さん

明治維新150年にあたるメモリアルイヤーの今年、平成30年(2018年)の大河ドラマは『西郷どん』でしたが、その第1話のオープニングに登場した上野恩賜公園西郷隆盛像についての起稿です。

今年の春、たまたま東京に行く機会を得たので、ついでに足を運んできました。


e0158128_13442250.jpg


周知のとおり、西郷隆盛がこの世を去ったのは明治10年(1877年)9月24日、西南戦争における反乱軍としての戦死でした。

そのため西郷は「逆賊」汚名を着せられることになりますが、維新最大の功労者である西郷の名声は死後も落ちることはなく、名誉回復を求める声が高まるなか、明治22年(1889年)、明治天皇の意向や黒田清隆らの尽力もあり、大日本帝国憲法が公布される大赦によって「逆賊」の名を赦され、正三位の位が追贈されます。

これを受けて、西郷の旧友である吉井友美が西郷像の建立を計画。

御下賜金(天皇から賜ったお金)や有志が集めた寄付金を資金として、明治26年(1893)に起工、明治30年(1897年)に竣工したのが、この「上野の西郷さん」です。


e0158128_13442600.jpg


なぜ上野に西郷像が建てられたかというと、当初は皇居内に建てる計画だったそうですが、一時は朝敵となったことを理由に猛反対する声が上がり、やむなく、かつて西郷が指揮官として功を上げた上野戦争の舞台であり、皇室の御用地である上野に建てられることになったそうです。


e0158128_13442982.jpg


また、その姿についてですが、当初は騎馬像として設計されたものの資金が足りず、次に、陸軍大将の正装である軍服姿の立像で計画され、雛形まで出来あがっていたそうですが、これも、とある筋からの猛反対が起こり、結果、現在の着流し姿になったそうです。

反対派の理由は、西郷の高い人気を背景に反政府的機運を醸成しかねないとのことで、西郷から武人としての牙を抜き、犬を連れて歩く人畜無害な人物というイメージを民衆に定着させようとする政治的意図があったとされます。

おそらくそのとおりだったでしょうね。


e0158128_13443379.jpg


除幕式の際にはじめて銅像を見た西郷夫人の糸子が、「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかった)」と言って周囲を慌てさせたという有名なエピソードがあり、このことを理由に、この銅像は西郷に似ていないといも言われますが、糸子の言葉の真意は、「うちの人はこのような着流し姿で人前に出る人ではなかった」といった意味だったとも言われ、その真偽はわかりません。

まあ、夫人から見れば顔も違って見えたかもしれませんが、この除幕式には実弟の西郷従道も出席しており、また、この銅像の製作においては、西郷をよく知る吉井友美黒田清隆樺山資紀らも深く関わっていたわけで、まったく似ていないというわけでもなかったでしょう。

奥さんからすれば、どこか仕上がりに気に食わない部分があったのかもしれません。


e0158128_13443663.jpg


逆賊の汚名は返上されていたとはいえ、西郷が反乱軍を指揮した事実は変えようのない歴史です。

その反乱軍の総大将である人物の銅像が、同じ政権下で、死後わずか20年で建てられたという例は、世界中探しても類を見ないそうです。

また、その銅像が日本の首都のもっとも人の目につきやすい場所に建てられたということも、諸外国からすれば理解できないことだったようで、さらに、その除幕式に政府の要人が出席するということを聞いた在日の西洋人は、西洋諸国ではあり得ないこととして驚愕したといいます。

それだけ西郷隆盛という人物が、当時から比類なき英雄として愛されていたということの表れでしょうが、一方で、その西郷の盟友でありながら最後は西郷と敵対する立場となった大久保利通の像は、没後100年経った昭和54年(1979年)にようやく鹿児島の地に建てられましたが、西郷を死に至らしめたとの理由で大久保は死後100年経っても不人気で、銅像建設にも反対運動が大きく、竣工当日も、厳重な警備体制だったそうです。

同じく維新の立役者であり、近代日本の礎を築いた二人なのに、この差は気の毒ですね。

大久保贔屓のわたしとしては、釈然としない思いです。


e0158128_13444059.jpg


一般に、西郷は自ら反乱を望んだわけではなく、不平士族の怒りの捌け口を作るため、不平士族に担ぎ出される形で自分の命を預けたのが西郷の最期だったと言われています。

しかし、この解釈は、必ずしも正しいとは言いきれません。

実際、挙兵に至る経緯からその最期に至るまで、西郷自身の心情を吐露した史料は残されておらず、すべては後世の想像にすぎません。

「西南戦争は桐野利秋が起こしたいくさで、西郷はその神輿に乗っただけだ」と言ったのは、戦後、西郷の汚名返上に奔走していた勝海舟の言葉で、西郷を尊敬しながらも政府軍として敵対せざるをえなかった将校たちも、「そうであってほしい」という思いが、不世出の英傑である西郷を死に至らしめたことを正当化する口実になったともいえます。

そう考えれば、西郷の人物像は、その死後、必要以上に美化され、英雄化していったといえなくもありません。


e0158128_13444373.jpg


作家・司馬遼太郎氏は、その著書『翔ぶが如く』のなかで、つぎのように述べています。


「政治家や革命家が一時代を代表しすぎてしまった場合、次の時代にもなお役に立つということは、まれであるといっていい。西郷は倒幕において時代を代表し過ぎ、維新の成立によって局面がかわると後退せざるをえなくなったという当然の現象が、一世を蓋っている西郷の盛名と同時代に存在しているひとびとには、容易にわからなかった。」


この銅像が建ったときの西郷は、その銅像以上に巨大化された存在になっていたのかもしれません。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-12-27 14:22 | 東京の史跡・観光 | Comments(0)  

江戸城を歩く。 その10 「半蔵濠~半蔵門~桜田濠」

「その9」の続きです。

北の丸の2ヶ所の門を過ぎると、西側の千鳥ヶ淵に沿って南下し、西の丸西側の半蔵濠沿いに歩きます。


e0158128_18245130.jpg


が残っていました。


e0158128_18245718.jpg


菜の花も綺麗です。


e0158128_18302142.jpg


半蔵濠の向こうに門が見えます。


e0158128_18302846.jpg


西の丸西側の半蔵門です。


e0158128_18303269.jpg


半蔵門は、寛永4年(1627年)に大手門と正反対の裏手に位置する搦手門として建造されました。

現在の門は、東京大空襲で焼失したため和田倉門高麗門を移築したものだそうです。


e0158128_18303586.jpg


半蔵門の名称の由来は諸説ありますが、旗本の服部半蔵正就がこの門の警護を担当したことに由来すると言われています。

一般に服部半蔵で知られる人物は、正就の父・服部半蔵正成です。

ちなみに、物語などに出てくる忍者の服部半蔵は、さらにその父にあたる人物ですが、本当に忍者だったかどうかは定かではありません。


e0158128_18325215.jpg


この門内は、江戸時代には吹上御庭と呼ばれ、隠居した先代将軍や、将軍継嗣などの住居とされていました。

現在の半蔵門は、主に天皇・皇族の日常の出入口に用いられており、13万坪の吹上御苑には天皇の住居である御所などがあります。


e0158128_18372819.jpg


半蔵門から南の濠は桜田濠といい、「その3」で紹介した最南端の桜田門まで続きます。


e0158128_18373140.jpg


美しい景色が続きます。


e0158128_18373459.jpg


濠というより、雄大な川のようです。

わたしは、この半蔵門から桜田門までの景色が最も好きです。


e0158128_18412882.jpg


振り返ると、国会議事堂が。


e0158128_18411113.jpg


桜田門が見えてきました。


e0158128_18411451.jpg


この時点で時間は17時半。

朝9時頃から歩くこと8時間以上、たっぷり1日かけて江戸城をめぐりました。

歩行距離34km、歩数は4万8千歩に及びました。

われながら、よく頑張ったなあと・・・。

最後に、日本100名城スタンプを載せておきます。


e0158128_18443238.jpg




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-12-26 17:49 | 東京の史跡・観光 | Comments(0)  

江戸城を歩く。 その9 「九段坂公園~靖国神社」

北の丸まで来たので、その北側にある3人の像について触れておきましょう。

「その8」で紹介した田安門の北側にある九段坂公園に、2人の像があります。


e0158128_16525848.jpg


まずはこの人。

品川弥二郎子爵です。


e0158128_16530140.jpg


品川弥二郎は長州藩足軽の家に生まれ、15歳で松下村塾に入門。

吉田松陰の門下生となります。

松陰の死後は高杉晋作らと共に尊皇攘夷運動に奔走し、文久2年(1862年)イギリス公使館焼討事件にも参加しています。

元治元年(1864年)の禁門の変では八幡隊長として参戦し、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀をつとめます。

維新後、明治3年(1870年)に欧州留学し、帰国後は、内務大書記官、内務少輔、農商務大輔などを歴任。

その後、駐独公使、宮中顧問官、枢密顧問官をへて、明治24年(1891年)に1次松方正義内閣では内務大臣に就任しますが、翌年の第2回衆議院議員総選挙において、次官の白根専一とともに警察を動員して強力な選挙干渉を行ない、死者25人を出してしまった経緯を非難され、引責辞職に追い込まれます。

晩年は、吉田松陰の遺志を継ぎ京都に尊攘堂を創設し、勤王志士の霊を祀るとともに、志士の史料を集めました。


e0158128_16530448.jpg


と、まあ、経歴をまとめれば立派ですが、実際には大した人物ではありません。

俗に明治政府は薩長の連合政府だったと言われますが、幕末、西郷隆盛大久保利通など主要な人物がすべて生き残っていた薩摩藩に対して、長州藩は、高杉晋作久坂玄瑞などの大物がほとんど死んでしまい、ビッグネーム木戸孝允(桂小五郎)くらいでした。

そこで、薩長の均衡を保つため、繰り上がり当選のように明治政府の要職に着いたのが、伊藤博文山縣有朋井上馨、そして、この品川弥二郎でした。

なので、どうしても小物感が拭いきれません。


e0158128_16574185.jpg


九段坂公園にはもうひとり、大山巌元帥の騎馬像があります。


e0158128_16574438.jpg


西郷隆盛の従兄弟にあたる大山巌は、維新後は欧州に留学し、征韓論に敗れて下野した西郷ら薩摩藩出身者に代わって、薩閥の首領としての地位を確立しました。

その後は陸軍卿、参謀本部長、陸軍大臣など要職を歴任し、陸軍内においては長州閥の山縣有朋と勢力を2分します。

明治27年(1894年)の日清戦争では陸軍大将として第二軍司令官に就いて旅順攻撃を担当。

その後、元帥となり、明治37年(1904年)の日露戦争では満州軍総司令官として指揮を執りました。


e0158128_16574761.jpg


品川弥二郎の像が建てられたのは明治40年(1907年)、大山巌の像が建てられたのは大正8年(1919年)だそうです。

なぜ、この場所にこの2人の像が建てられたのかはわかりませんが、これも薩長の均衡を保つためでしょうか?


e0158128_17000132.jpg


九段坂公園から歩道橋を渡ると、靖国神社があります。

靖国神社についてはここでは詳しく触れませんが、その大鳥居をくぐってド正面に建てられた大きな像は、長州藩士の大村益次郎です。


e0158128_17054318.jpg


猪突猛進型の熱血攘夷志士を多く排出した長州藩士のなかで、大村だけは異質な存在で、蘭学者だった彼は、はじめから攘夷が不可能であることを知っていました。

もし、幕末の世に生まれていなければ、学者としてその人生を終えたことでしょう。


e0158128_17054644.jpg


ところが、木戸孝允によって見出された大村は、第二次長州征伐でその才能を発揮し、大政奉還後の戊辰戦争では司令官として新政府軍勝利の立役者となり、その後、太政官制における兵部省の初代大輔を務め、事実上の日本陸軍の創始者となりました。

新政府の軍部の最高位である兵部大輔となった大村は、旧式の封建軍隊にかわる洋式の近代兵制の創立を推し進めますが、広く国民から徴兵するという大村の国民皆兵論は、士族の特権を脅かすものとして、多くの元武士たちの反感を買っていました。

そして、その不平士族によって暗殺されます。


e0158128_17055092.jpg


大村像は明治26年(1893年)に完成した日本初の西洋式銅像で、高さ12mあります。

今では高層ビルが立ち並びますが、戦前は、異様な高さで目立っていたそうです。


e0158128_17055549.jpg


靖国神社は、戦前は陸軍省の管轄でした。

そのいちばん目立つ場所に、日本陸軍の創始者である大村の像が建てられたということは、靖国神社がどういう政治的意図を持った神社であるかが理解できます。

まあ、あまり言うと炎上するので、このへんにしときます。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-12-25 21:08 | 東京の史跡・観光 | Comments(2)  

西郷どん 総評

 「幕末」と呼ばれる時代はいつからいつまでを言うのか、という話題になったとき、その始まりは「黒船来航」からという意見で概ね一致しますが、その終わりとなると、ある人は「王政復古の大号令」だといい、別の人は「戊辰戦争の終結」だといい、いやいや「廃藩置県」だろうという人もいれば、「西南戦争の終結」まで幕末は続いていたという人もいて、なかなか解釈が定まりません。


 わたしの個人的意見を述べさせてもらうと、「幕末」「幕」「幕府」「幕」と解釈すれば、幕府政権の終わり、すなわち大政奉還から王政復古の大号令にかけてとなるのでしょうが、古い時代の「幕引き」、新しい時代の「幕開け」という意味での「幕」と考えれば、わたしは侍の時代にピリオドが打たれた西南戦争の終結までが幕末ではなかったかと思います。で、その幕末の最初から最後まで登場するのが、今年の大河ドラマ『西郷どん』の主人公である西郷隆盛です。


 たとえば、幕末の志士のなかで人気ナンバーワン坂本龍馬を主人公にした場合、物語は大政奉還で終わってしまいます。司馬遼太郎さんはその大政奉還を大きなクライマックスに見立てて、あの名作『竜馬がゆく』を生み出しましたが、実際には、大政奉還は確かに大きな節目ではありましたが、維新改革の観点で言えば序章にすぎません。また、もうひとりの人気者である高杉晋作などは、さらに早く死んでしまうため、彼を主人公とする『世に棲む日日』は、これから歴史が大きく動くというところで物語が終わっちゃうので、大河ドラマにはし難いでしょう。その点、西郷隆盛の物語は、黒船来航から西南戦争まで、幕末の始めから終わりまですべて描ける。戦国三英傑の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を比べたとき、その後世の人気度でいえば1信長、2秀吉、3家康という順番になるかと思いますが、物語にすると、家康ものが俄然面白い。というのは、桶狭間の戦いから大坂夏の陣まですべて描けるからに他なりません。その論でいえば、幕末はやはり西郷なんですね。


e0158128_22363584.jpg


 で、そんなミスター幕末・西郷隆盛を主人公にした大河ドラマは、30年前の『翔ぶが如く』以来、2度目の作品となります。わたしは、『翔ぶが如く』はわたしの知る限り3本の指に入るほどの名作だったと思っているので、どうしても、それとの対比になっちゃうのですが、今年の大河ドラマ『西郷どん』は、わたしにとってどうだったかといえば、正直に言って名作とはいえない残念な作品となりました。同じ西郷を主人公とした伝記ドラマであるはずの『翔ぶが如く』と『西郷どん』は、似て非なるものだったと言わざるを得ません。


 その理由はいくつも挙げられますが、いちばんの理由は、取捨選択のマズさと創作稚拙さでしょう。西郷の志士としての生涯は長く、しかも濃い。それ故に史実に縛られること大で、また、伝承レベルの逸話も数多くあることから、それをすべて描こうとすれば、47話ではとても足りない。だから、割愛しなければならないのは仕方がないことですが、その取捨選択があまりにも下手で、理解しがたいものでした。少しでも歴史を知っている人であれば、きっと、何でここをスルーしちゃうんだ?と思ったことは一度や二度ではなかったのではないでしょうか? それが最も顕著に表れているのが、時系列の構成。全47話中、戊辰戦争までの幕末期が38話あったのに対し、維新後の明治期はたった9話。当然ですが、明治期のひとつひとつの歴史的出来事の描き方は粗雑となり、無理やり短縮したり解釈を変えることによって、とても歴史ドラマといえるものではなくなってしまいました。ちなみに、先述した『翔ぶが如く』では、幕末編が29話で、明治編が19話でした。これでも、もっと明治期を描いてほしかったと思ったほどでしたから、このたびの9話というのが、いかに短縮されていたかがわかるかと思います。


 では、その分、幕末期の話が充実していたかといえば、決してそうとは言えず、逆に無駄な話が多かった。それをいくつか挙げていくと、まず、島津斉彬の死までが長かった。たしかに、斉彬は西郷の生涯にとって欠かせない重要な登場人物ですが、西郷と共に過ごした時間は短く、西郷の志士としての長い生涯においては、序章に過ぎません。しかし、今回のドラマでは、斉彬の死までに実に16話も費やしています。しかも、たいして面白くもない創作話をたくさん盛り込んで。明らかにここは無駄だったでしょう。あるいは、斉彬役に超ビッグなハリウッドスターをキャスティングしたため、早く死んでもらうわけにはいかなかったのでしょうか? だとすれば、本末転倒な話ですね。民放の月9ドラマだったら、俳優さんありきで物語が構成される場合も多々あるでしょうが、歴史ドラマにおける俳優さんはあくまで影武者であって、重点をおくべきは、歴史上の人物です。


 それから、篤姫とのラブコメ話もいらなかった。篤姫と西郷の関係は、篤姫の輿入れ時に、その輿入れ道具の調達を任された、ただそれだけの関係です。フィクションがダメだと言ってるわけではありません。ドラマが100話あるんだったら、そういう遊びの回があってもよかったでしょうが、限られた尺のなかで、大事な歴史のエピソードを削ってまでも描かなければならなかったとはとても思えません。それと、ヒー様との意味不明な友情話も不要。あれ、何が描きたかったのか、わけがわかりません。あと、西郷と何ら関わりがなかったであろうジョン万次郎の話もいらなかったですし、それから、坂本龍馬の出番も多すぎた。わたしは、スマホの待受画面を坂本龍馬にするほどの龍馬ファンですが、だからといって、何でもかんでも龍馬人気に肖ろうとする傾向は好きではありません。坂本龍馬の人生にとっては西郷との出会いは重要な出来事だったかもしれませんが、西郷の人生にとっては、坂本龍馬はそれほど重要な人物ではありません。薩長同盟のくだりで少し登場すればいい程度の存在です。龍馬とのエピソードを描くくらいなら、西郷に大きな影響を与えた橋本左内藤田東湖(今回のドラマには登場すらしなかった)との関係を、もっと描くべきだったんじゃないでしょうか? これらの無駄な回をなくすだけでも、ずいぶん幕末編を短縮できたでしょうし、その分、明治編をもっと丁寧に描けたように思います。


それから、人物の描き方についてですが、開明派が賢者で、保守派が愚者という解釈も、相変わらず短絡的すぎるような気がします。例えば島津久光などは保守派の代表のような人物ですが、決して愚人というわけではなく、あと半世紀ほど早く生まれていれば、名君として後世に名を残していたかもしれません。一方で、島津斉彬勝海舟といった開明派は、時代が違えば、奇人変人扱いだったかもしれず、実際に斉彬も勝も、当時の社会のなかでは、敵が多く理解者は少ない存在でした。特に斉彬は、西郷というフィルターを通してみれば名君だったでしょうが、そのあまりにも革新的な考えを実行するために、振り回され、翻弄され、酷使されて使い捨てられた家臣もたくさんいました。斉彬と久光、どちらが薩摩藩にとって名君だったかは、一概には言えないんです。ドラマですから、ある程度分かりやすくするために善悪で描かれるのは仕方ないにしても、賢愚で描くのは、そろそろ見直してほしいと思います。


e0158128_20152636.jpgで、西郷の人物像についてですが、彼の場合、これまで多くの物語などで描かれてきた西郷がそうであったように、結局はつかみどころがない開明的なのか保守的なのか、賢人なのか愚人なのか、革命家なのか政治家なのか軍人なのか、西郷の言動や行動をいくら検証しても、ついぞ見えてこないんですよね。ある人は、西郷は自身が起こした革命を自らの死によって完成させたといい、またある人は、もう一度革命を起こして維新をやり直そうとしていたといい、また別の人は、自らの役目を終えたあとの死に場所を探して彷徨っていたと説きますが、どれも、そうともとれるし、でも腑に落ちません。司馬遼太郎さんは維新前の西郷と維新後の西郷とを、まるで別人と評しているのに対し、海音寺潮五郎さんは、維新前と維新後でまるで人が変ってしまうことなどあろうはずがないといっています。かつて司馬さんが執筆した『翔ぶが如く』を読んだ海音寺さんが、「司馬君でもまだ西郷を描ききれていない。」と評したという話がありますが、それほど、西郷という人物は、計り知れない人なんですね。


 そんな評価の難しい西郷ですが、素人のわたしなりに思う西郷像は、パートナーがあってこその西郷だったんじゃないかと思っています。つまり、西郷は維新第一の英雄となりましたが、自身の強烈な指導力で牽引するヒトラーのようなカリスマ革命家ではなく、誰かにサポートされて、もっといえば、誰かに操られて、その事績を成し得た珍しいタイプの革命家だったといえます。その西郷を操っていたのが、若き日は斉彬であり、革命期は大久保利通だったんじゃないかと。「操っていた」というと聞こえが悪いですが、決して彼らが西郷を見下していたというわけではなく、斉彬や大久保にはない人間的魅力を西郷は持っていて、その西郷の人間力を大久保たちは利用し、また、助けられてもいた。そんなギブアンドテイクの関係が成立していて、英雄・西郷隆盛が作られていったのではないかと思います。実際、斉彬は若き日の西郷を評して、「西郷を使いこなせるのは自分だけだ」と言っていたといいますし、斉彬亡きあと、ともすれば暴走しかねない西郷の手綱をさばいていたのは、大久保でした。西郷は西郷ひとりの力で西郷となったわけではなく、斉彬、大久保がいてこその西郷だったのではないかと。


 ところが、征韓論政変以降、西郷をいい意味で操る人間がいなくなり、西郷が身を預けたのが、桐野利秋別府晋介といった若いぼっけもんたちだった。彼らに西郷を操れるだけの能力はなく、神輿に担ぎあげるのが精一杯だった。これが、西郷の不幸だったといえるでしょう。ひるがえって考えれば、結局、西郷はその人生において自らの意思で能動的に行動したことは一度もなく、斉彬に使われ、大久保に操られ、最後はぼっけもんたちに担がれるという傀儡の生涯だったんじゃないかと。ちょっと西郷ファンには申し訳ないですが。


 今回のドラマの西郷は、これまでにないエネルギッシュな西郷でしたね。それはそれで悪くはなかったと思いますが、残念ながら西郷の生きた歴史、西郷が行った功績がほとんど描かれていなかったため、ただエネルギッシュな良い人、というだけでした。歴史上の英雄というのは、善きにせよ悪しきにせよ清濁併せ呑む人物だったからこそ英雄たり得たわけで、そこが偉人たちの魅力でもあります。そんな歴史上の英雄のなかでは、珍しく西郷は道義を重んじる人格者ではありましたが、西郷とて決して聖人君子ではありません。だから、ドラマ内の「皆が腹いっぱい食える世の中にしたい」というあの台詞を聞くたび、興ざめしていました。そんな、世のため人のために生きてませんよ、人は皆。西郷は道義主義者でしたが、彼の道義はあくまで当時の武士階級の道徳であり、士族至上主義でした。幕末期の西郷は薩摩藩の立場を守るために活動し、明治期の西郷は、薩摩士族のために働いた。ひいては、それが自身のためでもあったんです。決して、世のため人のためといった綺麗事で幕府を倒したわけではありません。自分たちのためです。民百姓のことなんて、眼中になかったと思いますよ。


 それらの人物像歴史解釈、フィクション部分を見ても、どうにも稚拙な描き方に思えてならない今年の大河ドラマでした。勘違いしないでほしいのは、わたしは、フィクションがダメだと言っているわけではありません。でも、全47話という限られた尺のなかで構成するわけですから、そこは、センスが問われるところだと思います。歴史ドラマといえどもエンターテイメントですから、フィクションは不可欠だと思いますし、そこには独自解釈があってもいいでしょう。ですが、歴史ドラマにおけるフィクションは、作り手の知識に裏付けされたセンスが必要だと思います。本作品の原作の林真理子さんと脚本の中園ミホさんに、どれほどの知識の裏付けがあるのかは知りませんが、想像するに、幕末維新の歴史も、西郷隆盛という人物のこともあまり知らずに、執筆依頼があってからにわか知識を放り込み、その程度の知識で作品を書かれたんじゃないでしょうか。


何年か前に、NHK-BSの『英雄たちの選択』で西郷隆盛が採り上げられたとき、パネラーで林真理子さんが出演されておられましたが、そのとき、林さんはあまり西郷のことを知っておられない様子でした。たぶん、あのとき既に大河作品の執筆依頼があって、にわか勉強中だったのでしょうね。ただ、残念ながら、にわか知識で書けるほど、西郷隆盛の生涯は単純じゃないです。どれだけ売れっ子の作家さんであっても、歴史ドラマは、歴史に精通していなければ書けないと思いますし、書くべきではないとわたしは思います。歴史の知識が浅い人が歴史ドラマを書くと、フィクションも的外れでトンチンカンなものになります。ピカソは、写実画を極めた上であの画風に行き着いたのです。デッサン力のない者が抽象画を書いても、ただの下手な絵でしかありません。歴史をしっかりと勉強した人にしかフィクションの歴史は書けないのではないでしょうか。


 というのも、ここ近年、やたらと女性の脚本家さんの作品が続きますよね。女性が主人公の作品だけならまだしも、それ以外も、2008年の『篤姫』以降の11作品中、8作品が女性の脚本家さんです。これ、どういうことでしょう? 女性がダメだとは言いませんが、この比率は明らかに偏っています。ここからはわたしの想像ですが、偏見かもしれませんが、男性の脚本家さんは、大河ドラマの脚本の難しさがわかるから、歴史にそれほど精通していない人は、オファーがあっても容易に引き受けないんじゃないかと。ところが女性の脚本家さんは、その難しさを考えず、にわか知識だけで安直にオファーを引き受けちゃうんじゃないかと。わたしの勝手な想像ですが、11作品中、8作品が女性というのは、どう見ても普通じゃないですよね。その背景には、そんな事情が隠されているように思えてなりません。それが、近年の大河の質の低下を引き起こしている原因じゃないかと。だとすれば、幕末維新じゃないけど、大河ドラマも根本的な改革が必要な時期に来ているのかもしれません。


 いささか辛口な批判ばかり述べてきましたが、最後に、鈴木亮平さんの西郷隆盛は良かったと思います。ここだけで言えば、『翔ぶが如く』の西田敏行さんより良かったかも。西田さんも良かったのですが、いかんせん背丈が・・・。その点、鈴木隆盛は申し分ない体躯と存在感でしたし、もちろん演技も、特に後半は本物の西郷もこんな感じだったんじゃないかと思えてくる程でした。それだけに残念、というしかありません。


 気がつけば、ずいぶん長文になってしまいました。厳しい意見ばかり吐いてきましたが、毎週面白いと思って観ておられた方には申し分ありません。それだけ今年の大河ドラマには期待していたということで、ご容赦ください。それでは、このあたりで『西郷どん』のレビューを終えたいと思います。毎週のぞきにきていただいた方々、時折訪ねてきてくれた方々、コメントをくださった方々、本稿で初めてアクセスいただいた方々、どなたさまも本当にありがとうございました。


●1年間の主要参考書籍

『西郷隆盛』 家近良樹

『大久保利通と明治維新』 佐々木克

『西郷内閣』 早瀬利之

『西郷隆盛101の謎』 幕末維新を愛する会

『幕末史』 半藤一利

『もう一つの幕末史』 半藤一利

『西郷と大久保二人に愛された男 村田新八』 桐野作人・則村一・卯月かいな

『翔ぶが如く』 司馬遼太郎

『歳月』司馬遼太郎

『西郷隆盛』 海音寺潮五郎

『西郷と大久保』 海音寺潮五郎


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



by sakanoueno-kumo | 2018-12-21 00:07 | 西郷どん | Comments(6)  

西郷どん 第47話「敬天愛人」その4 ~紀尾井坂の変~

 シリーズ最後です。

 ドラマは西郷隆盛の物語でしたが、西郷の生涯を語るには、西郷の死の約8ヶ月後に起きた出来事まで語らなければ完結しません。すなわち、大久保利通の死です。大久保は明治11年(1878年)5月14日、東京の紀尾井坂付近において不平士族たちによって殺されました。


e0158128_15131733.jpg事件当日の午前8時、大久保は明治天皇に謁見するために裏霞ヶ関の自邸を出発し、赤坂の仮皇居に向かいました。共は下僕で馭者の中村太郎と、同じく下僕で馬丁の芳松の二人だけでした。本来なら、大久保邸から赤坂仮皇居に向かうには、紀尾井坂を通るより赤坂見附を通ったほうが近道だったのですが、なぜか大久保はこのコースを選びました。その理由は、赤坂見附は人通りが多くて危険だから、あえて人通りの少ないこの道を選んだと言われていますが、暗殺団がこの道で待ち伏せしていたことから考えれば、大久保は日常的にこの紀尾井坂コースを使っていたのでしょう。襲撃団は、周到な準備のもと、事に及んでいます。


大久保を乗せた馬車が紀尾井町一丁目に差し掛かったとき、2人の書生が現れて通路を遮りました。馬丁の芳松が馬車を降りて、脇によって道をあけるよう注意しますが、そのとたん、男たちは刀を抜き、いきなり馬の前脚を薙ぎ払いました。この襲撃を合図に身を潜めていた4人の男が一斉に飛び出してきました。刺客は全部で6人。芳松は背中から斬りつけられるもそれをかわし、助けを呼びに馬車を離れました。馭者の中村は馬車から飛び降りたところを、刺客に一刀のもとに斬り下げられ、即死します。刺客たちは馬車によじ登り、中にいた大久保に斬りつけました。このとき大久保は書類に目を通していたといい、一説によると「待て!」といって書類を風呂敷に包んだといいます。


大久保の最後のことばは、「無礼者!」という一喝だったといいます。その後、大久保は馬車から引きずり出され、めった切りに斬りつけられました。そして最後のトドメは喉に短刀が突き刺され、その短刀は地面にまで達していたといいます。大久保は全身16ヶ所に刀を受けていましたが、その大半は頭部に集中していたといいます。事件直後に現場にかけつけた前島密の証言によると、大久保の遺体は「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」状態だったといいます。さすがに、ドラマではそこまで描けません。


実行犯は、石川県士族の島田一郎、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一、および島根県士族の浅井寿篤の6名、いずれも太政官政治に不満を持つ不平士族でした。彼らにとってこの襲撃は暗殺ではなく、政治でした。なので、大久保を殺害するとすぐに自首しています。彼らは、大久保さえ斃せば、やがて天下は転覆して世直しされると信じていました。


この大久保襲撃については、まったく寝耳に水だったわけではなく、事前に予想できたことでした。彼らは闇討ちのような卑怯な行為ではないことを主張するため、事件の4、5日前に大久保に宛てて殺害の予告状を送っています。しかし、これを見た大久保は顔色ひとつ変えることなく、まったく意に介する様子もなかったといいます。


e0158128_21495406.jpgまた、島田らが石川県を発ったとき、石川県令がすぐさま警戒すべきことを内務省に通報しており、そのことは大久保の耳にも届いていました。さらに内務省は、警視庁に大久保内務卿の護衛を要請しますが、大警視の川路利良は、その必要はないとして、「加賀の腰抜けに何ができるか」と、相手にしなかったといいます。これは、薩摩人特有の他藩蔑視の通癖が露骨に出た言葉ともいえますが、この当時、政府の要人警察が護衛するという習慣がまだなかったことと、他の大官に護衛がついていないのに、大久保だけに護衛をつけるのは、世間体から見て大久保を臆病者にすることになり、大久保を侮辱することになるといった思いもあったようです。明治維新から10年以上が経ったこの時代でも、大官は役人である以前に、ひとりのサムライだったんですね。


有名な話ですが、大久保は事件当日の朝、自邸に挨拶に訪れた福島県令の山吉盛典に対して、まるで遺言とも取れる明治30年計画を語ったといいます。それによると、明治元年から10年を創業の時期として、戊辰戦争士族反乱などの兵事に費やした時期、次の10年を内治整理・殖産興業の時期、最後の10年を後継者による守成の時期と定義し、自らは第2期まで力を注ぎたいと抱負を述べるものでした。しかし、結局は第2期の入り口で凶刃に倒れたわけです。


また、どういうわけか、大久保はこの日、西郷隆盛からもらった古い手紙を2通、懐に忍ばせていたといいます。それは、いずれも二人が蜜月の間柄だった頃の手紙で、この手紙を持参していた話は、事件後ほどない5月27日付の東京日日新聞に報ぜられています。大久保がどういう意図で手紙を持参していたかはですが、大久保は西郷を死に至らしめたことでよほど悩み苦しんでいたようで、自分と西郷とは、かつて深い絆で結ばれていたということを、しきりに人々に話したがっていたといいます。あるいは、近々自分が殺されるかもしれないことを想定し、その死後、自分と西郷との友情関係世に知らしめるために手紙を持ち歩いていたのでしょうか。その真偽はいまとなっては確認しようがありません。


 作家・司馬遼太郎氏は、その著書『翔ぶが如く』のなかで、大久保の死についてつぎのように述べています。


 「結局は大久保とその太政官が勝ち、西郷がほろびることによって世間の士族一般の怨恨や反乱への気勢は消滅したかにみえた。大久保とその権力はほとんど絶対化するかの勢いになった。日本における政治風土として、権力が個人に集中してそれが絶対化することは好まれず、それに対する反対勢力が相対的に公認されている状態が好まれる。権力が個人に集中して絶対化した例は日本の歴史でまれであったが、遠くは織田信長の末期、近くは井伊直弼の大老就任後がそうであったであろう。結局は爆走する絶対権力をとどめる方法がないままに暗殺者がそれを停止させることが、ほとんど力学現象のようにして生起する。」


大久保の死も、あるいは歴史の必然だったのかもしれませんね。


 また、作家の半藤一利氏はその著書『幕末史』のなかで、


 「戊辰戦争のつづきといえるこの明治の権力をめぐってガタガタした十年間は、古代日本人的な道義主義者の西郷と、近代を代表する超合理主義の建設と秩序の政治家大久保との、やむにやまざる「私闘」であったといえそうです。」


 と述べておられています。しかし、わたしは、西郷は道義主義者だったと思いますが、大久保が超合理主義者だったとは思いません。むしろ、西郷以上に情に厚い熱血漢だったと思っています。ただ、その情は、西郷のように人に対してではなく、「国家」に向けられた。彼は、彼らが作った新国家という作品を、どんなことをしても守りたかった。その国家建設に抗おうとする勢力は、たとえそれが竹馬の友であっても、容赦なく叩き潰した。これは、大久保の政治家としての信念だったのでしょう。日本近代史において、大久保利通ほどの信念の政治家は、それ以前もそれ以後もいないとわたしは思っています。


 西郷隆盛自身が語ったとされる言葉に、こんな言葉があります。


「もし一個の家屋に譬うれば、われは築造することにおいて、はるかに甲東(大久保利通)に優っていることを信ずる。しかし、すでに建築し終わりて、造作を施し室内の装飾を為し、一家の観を備うるまでに整備することにおいては、実に甲東に天稟あって、われらの如き者は雪隠の隅を修理するもなお足らないのである。しかし、また一度、これを破壊することに至っては、甲東は乃公(おれ)に及ばない」


 自分は既存のものを破壊して新しいものを造ることにおいては、大久保には負けない。しかし、新しくできたものを整備して完成させる能力においては、大久保の足元にも及ばない、と。幕府を倒して新政権を樹立させた一番の立役者は、まぎれもなく西郷隆盛でしたが、その新政権を盤石なものに仕上げるのは、大久保しかいない。この言葉がいつ発せられたものかはわかりませんが、西郷自身もそう思っていたんですね。その意味では、大久保の死は、西郷の本当の意味での死だったといえるかもしれません。


さて、最終稿はすいぶん長文になってしまいましたが、本稿をもって大河ドラマ『西郷どん』のレビューは終わりとさせていただきます。1年間、拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。近日中には総括を起稿したいと思っていますので、よければご一読ください。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



by sakanoueno-kumo | 2018-12-20 00:22 | 西郷どん | Comments(6)  

西郷どん 第47話「敬天愛人」その3 ~西郷死す~

 昨日の続きです。

 明治10年(1877年)9月24日早朝、政府軍は西郷隆盛らの籠もる城山を包囲しました。政府軍は兵力の差で西郷軍を圧倒していましたが、それでも、その包囲網は幾重にも連ね、さらになどで囲って防御用の陣地を構築するといった念の入れようだったといいます。これは、政府軍の参軍・山縣有朋慎重すぎる性格が濃厚に反映していたと見られます。前稿で紹介したように、山縣は前日に西郷に宛てて畏敬の念を込めた手紙を送りましたが、それはあくまで個人的な西郷に対する友情の証であり、政府軍の総帥という立場では、これ以上この戦いを長引かせたくない、是が非にも今日の戦いで決着をつけたいという思いでこの日を向かえたのでしょう。


 午前4時頃、3発の号砲を合図に政府軍の総攻撃が開始されました。これを聞いた西郷は、きっと、「今日が死ぬ日か」と思ったに違いありません。政府軍の戦術は、五個旅団を総攻撃に当て、残りの三個旅団に警戒を命じるというものでした。


 e0158128_15131310.jpgこの総攻撃を受けて、西郷らは洞窟前に整列し、岩崎谷に進撃して敵方を迎え撃つことに決します。この時点で、西郷軍本隊の兵力は、西郷隆盛、桐野利秋、村田新八、桂久武、池上四郎、別府晋介、辺見十郎太など、約40人になっていました。しかし、政府軍は西郷軍が岩崎谷に兵力を集中させるであろうことをあらかじめ予測しており、第4旅団の主力を岩崎谷に投入していました。この読みは見事に的中し、西郷軍の将兵は、敵弾の雨のなかに次々と命を落としていきます。


 一説には、政府軍の総攻撃が開始されて間もなく、西郷の身辺を警護していた辺見十郎太が西郷に対して切腹を勧めたものの、その時点では西郷はこれを受け入れなかったといいます。西郷は、その前後の言動からみても、自決などという考えはなかったようで、あくまで戦死にこだわっていたようです。それは、戦国武士的な気概を尊ぶ薩摩武士の美徳でもあったかもしれませんし、何より、自殺という行為は、西郷の行動哲学である「敬天愛人」に反するものだったからとも考えられます。人は天命というものを天から与えられ、それに従って生きている。彼は彼の義を貫くために戦いに及んだ。だから、その死は自決ではなく戦死でなければならない。そう考えていたのではないでしょうか。


 e0158128_17565901.jpgしかし、やがて西郷は島津応吉久能邸門前でに敵弾を浴びます。これにより、西郷は自力での歩行は困難となりました。西郷の理想は最後まで戦って戦死することでしたが、事ここに至り、自らの命運が尽きたことを悟った西郷は、負傷して駕籠に乗っていた別府晋介を顧みて、こう言って介錯を乞うたといいます。


「晋どん、もう、ここらでよか。」


 西郷はそう呼びかけると、東方(明治天皇の住む皇居の方角)に向って手を合わせて跪座しました。これを見た別府は「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫び、泣きながら西郷の首を落としたとされています。享年51。島津斉彬に認められて以来、四半世紀に及んだ彼の長い長い志士人生が幕を閉じました。


 ドラマでは、西郷の介錯のシーンは描かれなかったですね。この西郷の最期については、西郷軍の生き残りである加治木常樹という人物の目撃談によるものですが、別の説では、桐野利秋が西郷を射殺したという説もあり、その真偽は定かではありません。ただ、現存する政府軍の屍体検査書には、「頭体離断」と記されており、生きている間か死んだあとかはわかりませんが、誰かが西郷の首を落としたことは間違いありません。ドラマで介錯のシーンを描かなかったのは、諸説ある西郷の死を曖昧なままにしたのかもしれませんし、あるいは、西郷の望んだ戦死による最期を遂げさせたのかもしれませんね。


 西郷の死を見守っていた桐野や村田ら配下の者たちは、その後、次々に突撃し、敵弾に斃れました。あるいはこの戦争の実質的首魁だったかもしれない桐野は、最後まで塁上に身を晒して凄まじいばかりの勇戦を見せたといいますが、最後は額を打ち抜かれて戦死しました。そして総攻撃が始まって約3時間後、西郷軍の主だった者は全員討ち死にし、戦いは終焉を向かえます。


 結局のところ、西郷にとって西南戦争とはなんだったのでしょう。よく言われるのは、西郷は不平士族たちの憤懣を一身に受け止め、彼らに身を預けて戦いに一身を投じることで、自身が作り上げた明治維新を完結させたとする解釈があり、今回のドラマでも、その解釈に則った描かれ方でした。しかし、わたしには、それは多分に西郷を罪人にしたくないという後世の心情が作り出した虚像のように思えてなりません。西郷は、西郷なりに思うところがあって挙兵した。それは不平士族たちのためではなく、自身の思う国家を創るため、もう一度維新をやり直すための決起で、壮士たちの暴発によってその決起が少し早まってしまったものの、挙兵当初の西郷は、決して負けるとは思っていなかった。自身の声望を以てすれば、現行政府を覆すことも難しくはない、そう思っての決起だったんじゃないかと思います。しかし、その見通しは甘かった。そして、結果的に、自身の本意ではなかったにせよ、自身の死によって侍の時代が終焉を向かえ、維新を完結させることになったんじゃないかと。


 作家・司馬遼太郎氏は、その著書『翔ぶが如く』のなかで、このように評しています。


 「西郷とその徒の死は、前時代からひきついできたエネルギーの終焉であったであろう。そのエネルギーというのはただに江戸期だけではなく、室町期あるいはさらに鎌倉期からひきつがれてきているなにごとかであったかもしれない。」


 西郷が死んだ明治10年(1877年)9月24日以降、夜空にひとつの星がひときわ大きく輝くようになりました。この星の正体は、楕円形の軌道を描いてこの年の秋に地球に接近していた火星だったのですが、天体の知識に乏しかった当時の人々はこの星を「西郷星」と名付け、崇めたといいます。また、同時期に火星に寄り添って輝いていた土星を「桐野星」とも呼んだとか。当時の人々が、いかに西郷たちの死を悼んだかということがわかるエピソードですね。西郷はその死後も、星になって人々の心に宿ったんですね。


 さて、西郷の死を以て最終稿としたかったのですが、もうひとつ、語らなければならないことがありますね。大久保利通の死です。明日、もう一稿だけお付き合いください。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



by sakanoueno-kumo | 2018-12-19 01:27 | 西郷どん | Comments(0)  

西郷どん 第47話「敬天愛人」その2 ~鹿児島への帰還~

 昨日の続きです。

 政府軍の虚を衝いて可愛岳の突破に成功した西郷隆盛率いる西郷軍は、九州の中央を貫く山脈の尾根伝いに百里余りの険しい道を突き進み、明治10年(1877年)9月1日に鹿児島に入りました。2月の決起以来、実に199日ぶりの帰還でした。2月の決起時には1万数千人いた西郷軍兵士の数も、このときには400人を切るまでに減っていました。


 当時、城山私学校には政府軍の新撰旅団の一部がいましたが、辺見十郎太らが私学校を襲撃してこれを占領すると、同日中に西郷軍は鹿児島市街地をほぼ制圧し、当時、新たに鹿児島県令に就任していた岩村通俊は脱出を余儀なくされました。そして翌日に西郷が城山の岩崎谷(洞窟)に入ると、ここを西郷軍の本営として、徹底抗戦の構えを見せるとともに、鹿児島県下の士族らに決起を求めます。しかし、呼びかけに応えて駆けつけようとした者たちのほとんどは各地で政府軍や警察に捕縛されたため、西郷軍の兵力が増すことはありませんでした。


 e0158128_15131310.jpgやがて、約5万人もの政府軍が鹿児島に入り、西郷軍の籠もる城山や私学校を包囲します。5万対4百。その兵力の差は歴然としていました。もはや全滅は必至となったこの段階で、「西郷先生の一命だけは助けたい」という声が、西郷軍内部で巻き起こりました。特に、辺見十郎太、河野主一郎らが中心となり、政府軍に西郷の助命を嘆願すべきとの意見を主張します。しかし、当の西郷は、これを一蹴します。当然だったでしょう。開戦以来、多くの将兵を戦死させてしまった総大将として、自分ひとりが生き残るなど、あり得ない選択だったに違いありません。しかし、西郷を失うのは国家の損失と考えた河野らは、新政府軍の参軍・川村純義と会い、挙兵の正当性を主張したいと西郷に申し出、その許しを得ます。川村は西郷の親戚にあたり、河野はその川村のに訴えて、西郷の助命を実現させようと考えたんですね。


 9月23日、河野主一郎と山野田一輔の両名が下山し、川村と面会しました。ふたりは挙兵の正当性を主張し、西郷の助命を訴えました。これを受けた川村は、挙兵の正当性は認めなかったものの、西郷の助命については否定も肯定もせず、まずは降伏することと通告し、その旨を伝えるために山野田ひとりを城山に帰します。川村も、できることなら西郷の命を助けたいという思いはあったのかもしれませんが、しかし、同時に川村は、降伏しなければ翌日に総攻撃することも通告しており、同日夕方までにその回答を求めました。しかし、帰陣した山野田から報告を受けた歳号は、「回答の必要なし」として降伏勧告を一蹴します。ここに、24日の最終決戦が決定しました。ドラマでは、東京にいる大久保利通から西郷軍に対して降伏勧告の手紙が届けられていましたが、あれは、たぶん、この川村の降伏勧告をアレンジしたものでしょう。


 このとき、政府軍総裁の山縣有朋が山野田に持たせた西郷宛の手紙が有名です。長文なので全文を紹介することはできませんが、その中で山縣は、自身の西郷に対する畏敬の念を綴ったのち、こう記しています。


 e0158128_22143981.jpg思ふに、君が多年育成せし壮士輩は、初めより時勢の真相を知り、人理の大道を履践する才識を備へたる者なるべけれど、かの不良の徒の教唆により或はその一身の不遇によりてその不平の念を高め、遂に一転して悲憤の念を懐き、再転して叛乱の心を生ずるに至りしならん。而してその名を問へば則ち曰く、西郷の為にするなりと。情勢既にここに至る。君が平生故舊に篤き情は、空しくこれを看過してひとり餘生を完うするに忍びざりしにならん。されば、君の志はじめより生命を以て壮士輩に與へんと期せしに外ならざりしならん。君が人生の毀誉を度外に置き、天下後世の議論を顧みざるもの故なきにあらず。嗚呼君の心事まことに悲しからずや。有朋ここに君を知る深きが故に、君が為に悲む心また切なり。然れども事既にここに至る、これをいふことも何の益かあらん。


 曰く、あなたはこの暴発は本意ではなかったであろうが、あなたを慕う壮士たちの暴挙をあなたの名望をもってしても抑えきれず、自身だけが穏やかな余生を送るということができない情の厚いあなたは、一身を彼らに与えたのであろうとわたし(山縣)は思っている。あなたの心をわたしは深く理解でき、まことに悲しい。しかし、事ここに至ってしまった、と。そして、さらにこう続けます。


 君何ぞ早く自謀らざるや。


 西郷さん、なぜあなたは早く自殺しないのか!・・・と。


 願くは君早く自ら謀りて、一は其の挙の君が素志にあらざるを明にし、一は両軍の死傷を明日に救ふ計を成せよ。君にして其の謀る所を得ば、兵も亦尋で止而己。


 願わくば、早くあなた自身が自らの命を絶ち、一つにはこの挙があなたの本意ではなかったことを証明し、そして、もう一つには、これ以上、両軍の犠牲者を出さないためにも、まず、あなたが自決すべきである。そうすれば、外の兵たちも皆、戦いをやめるだろう、と。そして、最後に、


 涙を揮て之を草す。不得尽意。頓首再拝。


 と、結んでいます。山縣の西郷に対する畏敬の念がひしひしと伝わってくる手紙です。この手紙は、西郷の死後、政府軍の兵が西郷の洞窟に入った際に発見されたといいます。敵将敵将に対して総攻撃の前日にこのような手紙を送ったということ自体、例のないことでした。西郷はこの手紙を読んで、どんな思いを抱いたのでしょうね。

 「その3」に続きます。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



by sakanoueno-kumo | 2018-12-18 02:02 | 西郷どん | Comments(0)  

西郷どん 第47話「敬天愛人」その1 ~可愛岳越え~

 明治10年(1877年)2月に始まった西南戦争は、3月の田原坂の戦いを峠に西郷軍の敗色が濃厚となり、九州各地を転戦したのち、8月16日、延岡の北方にあった長井村において西郷隆盛自ら軍の解散を布告します。ところが、それでも、西郷を慕う私学校以来の約400人弱が行動を共にすることを希望し、そこで西郷は、配下の辺見十郎太らの進言を容れ、残った兵と眼前に聳える可愛岳を超えて長井村を脱出し、再起を目指すことになります。可愛岳は標高728mで険阻な断崖絶壁の山でしたが、全軍を3つに分けて17日深夜に登山を開始。地元の木こりや猟師を先導役にして絶壁をよじ登るなど、その進軍は困難を極めました。


e0158128_15131310.jpg当初、西郷は山駕籠に乗っていましたが、100kg以上あったとされる西郷の巨体を運ぶのは容易ではなく、急斜面では西郷も駕籠を降り、雑兵たちと同じように四つ這いになって切り立った崖をよじ登ったといいます。行軍中、私語は厳禁とされていましたが、このとき西郷は、四つ這いで岩肌をよじ登りながら、「夜這んごつある(夜這いのようだ)」とつぶやいて周囲を笑わせたと伝えられます。この一言で緊張が解けた、と生き残りの人たちがのちに語っていますが、この最悪の局面でこのようなジョークを言えるところが、西郷の常人にはない人間的魅力なんでしょうね。


 その西郷の魅力について、このときの有名なエピソードがあります。長井村で解散令を出されたあとも西郷に付き従っていた兵のほとんどは旧薩摩藩士でしたが、なかには少数ながら鹿児島以外の者も残っており、そのなかに、旧中津藩士増田栄太郎という人物がいました。増田は中津隊を率いていましたが、西郷の解軍の令に接し、配下に中津へ帰るよう諭したうえで、自身はこのまま西郷に付き従う旨を伝えます。困惑する配下に増田は、こう言いました。


「自分は隊長という立場上、西郷という人格にしばしば接した。 諸君は幸いにも西郷を知らない。自分だけが職務上これを知ったが、知った以上、もはやどうにもならぬ」


 そう言って増田は涙を流したといいます。「もはやどうにもならぬ」とは、どういう意味かと更に尋ねると、増田は涙ながらにこう答えました。


 「吾、此処に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば、一日の愛生ず。三日先生に接すれば、三日の愛生ず。親愛日に加わり、去るべくもあらず。今は善も悪も死生を共にせんのみ」


 増田とて、それほど西郷と深く接したわけではなかったでしょう。しかし、そんな増田にここまで言わせてしまう西郷の魅力というのは、後世の私たちには計り知れない部分です。西郷と増田は、主従関係でもなければなにか特別な恩義があるわけでもない。解軍の令が発せられた以上、もはや勝ち目のない西郷と運命をともにする義理などどこにもないわけです。しかし、この人のために死にたい、増田はそう思ったのでしょうね。これほど人を惹きつける魅力を持つ人物というのは、おそらく同時代においては西郷しかいなかったでしょう。作家・司馬遼太郎氏もその著書『翔ぶが如く』のなかでこのエピソードを採り上げ、このように評しています。


 「増田の言葉は、西郷という実像をもっとも的確に言い中てているかもしれない。(中略)要するに西郷という人は、後世の者が小説をもってしても評論をもってしてもとらえがたい箇処があるのは、増田栄太郎のいうこういうあたりのことであろう。西郷は、西郷に会う以外にわかる方法がなく、できれば数日接していなければその重大な部分がわからない。」


 苦心惨憺の末、西郷軍約400人は18日の日の出の頃に可愛岳頂上付近の中の越に到達しました。可愛岳の南側は断崖絶壁でしたが、北側は比較的緩やかな斜面で、その眼前には政府軍の第一旅団、第二旅団の本営が置かれていました。これを見た辺見らは、すぐさま敵方の本営を襲撃して弾薬などを分捕ります。政府軍にしてみれば、西郷軍の可愛岳突破はまったくの想定外だったようで、狼狽して為す術もなかったようです。

 「その2」に続きます。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



by sakanoueno-kumo | 2018-12-17 00:37 | 西郷どん | Comments(0)