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国宝天守となった松江城を歩く。 その5 「内堀~塩見縄手~三ノ丸」

「その4」の続きです。

シリーズ最後は、松江城内堀に沿って歩きます。

まずは、二の丸下段の芝生公園北東の内堀に架かる北惣門橋です。


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この橋は、江戸時代には内堀東側にあった家老屋敷と城内を結ぶ重要な通路だったそうです。

明治時代の中頃に石造りのアーチ橋に変わったそうですが、平成になって再び絵図や文献史料を参考に復元したそうです。


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長さ18.54m(九間四尺五寸)、幅3.82m(二間)あります。


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このまま内堀沿いに歩きます。


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北側の内堀です。


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内堀の外側に沿うように走る道です。

城下町では、縄のように一筋に長くのびた道のことを「縄手」といいますが、寛永15年(1638年)に松江に入府した藩祖松平直政の町奉行・塩見小平衛がここに居をかまえ、異例の栄進をした家柄であったので、その栄進をたたえてこの通りを「塩見縄手」と呼ぶようになったそうです。

昭和61年(1986年)には「日本の道100選」に選定されています。


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いまも景観を損なわない日本家屋が並びます。


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武家屋敷です。


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こちらは、田部美術館

武家屋敷跡を利用したようなたたずまいですが、昭和54年(1979年)に日本の代表的建築家・菊竹清訓氏の設計によって建てられたものだそうです。


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そして、美術館の隣には、松江にゆかりの深いラフカディオ・ハーンこと小泉八雲寓居跡があります。


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小泉八雲はギリシャ生まれのアイルランド人で、明治23年(1890年)、アメリカの出版社の人間として来日したのですが、そこですっかり日本が気に入ってしまい、新聞社を辞めて日本に移り住みます。

その後、松江にあった島根県尋常中学校英語教師として赴任し、そして翌年、日本人の小泉セツという女性と結婚しました。

そのときの新居が、この武家屋敷跡だったそうです。


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その後、八雲は熊本・神戸・東京と居を移しながら日本の英語教育の最先端で尽力するとともに、日本文化をいろいろ見聞します。

そして明治29年(1896年)に東京帝国大学英文学講師となったことを機に、日本に帰化して小泉八雲と名乗るようになりました。


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寓居跡の前の公園には、八雲の胸像があります。


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ちなみに「八雲」という名の由来は、出雲国にかかる枕詞の「八雲立つ」に因んで名付けたといわれています。


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小泉八雲寓居跡からさらに内堀沿いに西に進んだところにある新橋です。


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そして城の北西搦手虎口に架かる稲荷橋


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さて、内堀北面の塩見縄手を離れて、今度は東面を内堀沿いにに下って歩きます。

観光客を乗せた木船が見えます。


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石垣は「切込みはぎ」ですね。


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内堀南側にやってきました。

「その2」で紹介した中櫓南櫓が見えます。

写真左に見える橋は、二ノ丸と三ノ丸を結ぶ千鳥橋


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中櫓です。


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南櫓です。


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そしてこちらが千鳥橋

江戸時代には「御廊下橋」と呼ばれ、城の中心部と藩主の館あった三ノ丸御殿を結ぶ重要な橋で、当時は屋根がかかっていたそうです。

現在の橋は屋根はありませんが、北惣門橋と同じく絵図などの史料を参考に平成6年3月に復元されたものです。


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そして千鳥橋の南側が三ノ丸跡

現在は島根県庁の庁舎が建てられていますが、敷地内の一画に、「松江城三丸舊趾」と刻まれた石碑が建てられています。


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さて、5回に渡って巡ってきた松江城シリーズですが、ひとまずこれで終わりとします。

国宝になる以前からずっと来たいと思っていたのですが、今回、ひょんなことから機会を得ることができ、堪能できました。

今度は桜の季節に訪れてみたいですね。

最後に、日本100名城スタンプを載せておきます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-01-31 21:03 | 島根の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

国宝天守となった松江城を歩く。 その4 「天守内部」

「その3」国宝となった松江城天守の外観を堪能したので、いよいよ内部に攻め込みます。


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開門された附櫓の入口から入ります。

この日、テレビ局が撮影に来ていました。

誰とは言いませんが、女優さんが来られていました。


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まずは地階から。

附櫓入口から階段を登ってきたのに、なぜかここは地下1階なんだそうです。

地階は籠城戦になった時の水や塩、米などを確保するための食糧庫でした。


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中央には深さ24メートルの井戸があります。

天守内に井戸があるのは珍しいのだとか。


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柱に祈祷札が打ち付けられていますが、これは模擬札を使って再現したものです。

というのも、平成27年(2015年)の国宝指定の決め手になったのは、松江城完成を示す「慶長拾六年在銘松江城天守祈祷札」2枚が発見されたことで、築城時期が確定したことでした。

また、築城する際の地鎮のための「松江城天守鎮物」3点(槍・祈祷札・玉石)、2階までが完成した際の「松江城天守鎮宅祈祷札」4枚、これら9点が、附指定物として国宝になったとのことです。


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1階です。


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松江城の構造のいちばんの特徴は、そのにあります。

姫路城のような中心を貫く大黒柱はなく、2階分を貫く通し柱を効果的に配置するとともに、上層の重さを分散させながら下層に伝える構造となっています。


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その説明書きです。

よく考えられていますよね。


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天守を支える柱には、1面だけ、あるいは2面、3面、4面に板を張って、鉄輪で留められているものが数多く見られます。

これは「包板(つつみいた)」と呼ばれ、天守にある総数308本の柱のうち130本に施してあったものだそうで、割れ隠しなど不良材の体裁を整えるためのものと考えられているそうです。


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こうして眺めると、包板を使った柱がたくさんあります。


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1階には、松平直政(松平初代藩主)の初陣像が展示されています。


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なぜか大河ドラマ『真田丸』のポスターをバックにしたが。


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この軍扇は、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の際、14歳で初陣した松平直政の若武者ぶりを讃えて、敵将の真田信繁(幸村)が投げ与えたものと伝えられるそうです。

ホントかなあ・・・。


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その他、1階には甲冑などが多数展示されています。


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階段は桐製だそうです。

板の厚さ約10cm、階段幅は106cmで、階段を引き上げたり防火防腐のために桐を使ったものだそうで、他の城では見られない特殊なものだそうです。


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2階です。


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同じく2階も展示品がずらり。

現存12天守のなかでも2番目の面積を誇る松江城ですから、展示スペースも広い。


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石落としです。


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3階です。


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少し狭くなってきました。


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隠し部屋かな?


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4階です。


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狭間ですね。


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そして最上階の5階です。


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最上階は「天狗の間」と呼ばれ、四方を展望できる望楼式です。


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最上階からの南側の眺望です。


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南側本丸広場を見下ろします。


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こちらは東側の眺望。


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北側の眺望。


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そして西側の眺望です。


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最上階には、国宝指定書が展示されていました。


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さて、国宝天守を制覇しましたが、あともう一回だけ松江城シリーズを続けます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-01-30 21:33 | 島根の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第4話「小便小僧」 ~長距離走の練習法~

e0158128_19143177.jpg 金栗四三が入学した東京高等師範学校(現在の筑波大学)は、スポーツの奨励に熱心な嘉納治五郎校長の方針により、春と秋の年2回、校内長距離走のイベントが催されていました。春には三里(約12km)、秋には六里(約24km)を全校生徒が走ります。ドラマでは描かれていませんでしたが、嘉納校長自身も、巻脚絆姿で学生と共に走ったと伝えられます。上位入賞者には校長からメダルが贈られたそうですが、入賞できなかった選手たちも、ゴール地点まで走りきれば、ビール食べ物が振る舞われ、教授も学生も入り混じって語り合える園遊会のような場が設けられていました。スポーツで汗を流し、そのあとは互いを労い合って親睦を深める。このわずか30数年前まで超髷を結ってを差した侍の時代だったことを思えば、嘉納校長の方針というのは、当時としては実に進歩的な考えだったといえるでしょう。まだ、「スポーツ」という言葉自体、一般にはほとんど浸透していない時代ですからね。


e0158128_19143806.jpg ドラマで、小便をしていてスタートに間に合わず、遅れてスタートしたため3位でゴールインした金栗でしたが、トイレを探して迷ったためにスタートが出遅れたというエピソードは実話のようです。もっとも、そのときは3位ではなく、25位でのゴールだったようです。といっても、全校生徒600人中の25位ですから、立派な成績ですけどね。3位入賞二度目の挑戦となった秋の大会のときでした。タイムは1時間46分20秒で、1位の選手と40秒差でのゴールでした。上位入賞者のほとんどが徒歩部(現在の陸上部)の上級生だったなかで、専門的な練習を積んでいない1年生の金栗の3位入賞は学校始まって以来のことだったようで、全生徒を驚かせました。おそらく、嘉納校長も、このとき始めて金栗の存在を知ったのではないでしょうか。


 2年生になって金栗は徒歩部に入部しました。2年生の春の大会では、もはや校内に金栗の敵はおらず、ぶっちぎりの優勝だったようです。その後も金栗は連続優勝を続け、記録も毎回更新していったといいます。この当時、日本人初のオリンピック出場に向けて準備を進めていた嘉納治五郎としては、この金栗の走りを見て、「あるいはこの男なら世界に通用するかもしれない」・・・そう思ったかもしれません。


 金栗2年生秋の明治44年(1911年)11月18日、嘉納治五郎が会長を務める大日本体育協会主催のオリンピック国内予選競技会が開催されることが発表され、金栗もこれに出場することが決まりました。距離は十里(約40km)。現在の42.195kmに定まるのは、もう少し後の時代のことで、当時のマラソンの距離は正確に定まっておらず、だいたい40km前後というアバウトなものだったそうです。オリンピックでは第1回大会からマラソン競技が行われていましたが、当時の日本に40kmを超える距離を走った経験のある選手など一人もおらず、未知の領域でした。


 40kmを走り抜くための力をつけるには、どのような練習をすればいいか。悩んだ金栗は、東京高師の卒業生ランナーの菅野新七という人物を訪問して練習法をたずねます。そこで聞いたアドバイスというのが、こうでした。


 「走るときに汗が出る。汗が出ると疲れるから、なるべく汗を出さないようにしろ。そのためには、なるべく水分を摂らず、服を着込んで練習し、汗抜き法をやれ。体内の水分を全部出してしまうと体が軽くなり、走りが楽になる」


 ドラマでは「油抜き」と言っていた手法です。「汗抜き法」とも言っていたようです。ひどいアドバイスですね。ところが、金栗はこのアドバイスを真剣に信じ、しばらくは水分を断って練習を続けました。しかし、効果はいっこうに出ないばかりか、体調を崩してしまってやめたようです。当時の日本のスポーツにおける知識のレベルというのは、その程度のものだったということですね。


 もっとも、練習中に水を飲むなという教えは、その後もずっとスポーツ指導のなかでは伝統的に引き継がれ、昭和の終わり頃まで続いていました。現在52歳のわたしは、高校時代陸上部だったのですが、わたしが高校生だった昭和50年代後半でも、「水を飲むと早くバテる」といわれて練習中の水分補給は厳禁でした。もっとも、先輩やコーチの目を盗んで、顔を洗うふりをして水道水をがぶ飲みしてましたけどね(笑)。ただ、これはわたしのような三流選手だけでなく、当時のトップアスリートでも同じだったようで、あの元マラソン選手の瀬古利彦さんも、早稲田大学の陸上部時代、夏場の練習中でも水を飲ませてもらえず、隠れて小川の水を飲んだというエピソードを後年語っておられました。箱根駅伝で優勝を狙おうというような名門校ですら、昭和の終わり頃までそんな間違った指導法だったようです。スポーツの大前提が根性論だった時代の話ですね。まあ、確かに根性は鍛えられたかもしれませんが。


 さて、次回はいよいよ第1話のエンディングで描かれていたオリンピック国内予選競技会が描かれるようです。


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by sakanoueno-kumo | 2019-01-28 16:21 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

国宝天守となった松江城を歩く。 その3 「本丸~天守」

「その2」の続きです。

まずは南側から本丸へ向かいます。

下の写真は二ノ丸上段から本丸へ向かう二ノ門跡


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石段を登ると枡形になっています。


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そして本丸の入口、一ノ門


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一ノ門を潜ると本丸広場

国宝となった天守が南向きに聳えます。


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この日は天守の門が開く前の午前7時半から訪れたので、まだ人がほとんどいません。


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天守をいろんな角度から見てみましょう。


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松江城現存12天守のなかで、唯一の正統天守と言われています。

正統天守とはどういうものかというと、天守の中段正面の千鳥が羽を広げたような三角形の部分を入母屋破風といい、この様式は安土城に始まって大坂城→岡山城→萩城→松江城へと続く天守の形だそうです。

このなかでは、松江城だけが復元城じゃないことから、「唯一の正統天守」ということになるんですね。

もっとも、姫路城も別の意味で正統天守と言われています。

その正統天守とは、天守閣から360度見渡せる望楼型で、5重以上の構造であること。

この条件でいえば、姫路城と松江城が正統天守となります。


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別名「千鳥城」とも呼ばれる城の外壁は大部分が黒塗りの下見板張りで、厳かなたたずまいですね。

外層5層、内部6階建ての構造で、天守の平面規模では現存12天守のなかで2番目、高さでは3番目、古さでは5番目だそうです。


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「その2」で、ぎりぎり井戸にまつわる石垣の奇妙な伝説の話をしましたが、ここ天守台の石垣にも、「人柱」の伝承があります。

その伝承によると、松江城築城時、天守台の石垣を何度積んでも崩れてしまったそうで、人柱を立てればうまくいくのでは、と考えた堀尾家の家臣たちは、盆踊りに集まった人々の中から踊りの上手な美しい娘を有無もいわさず連れ去り、そのまま人柱として生き埋めにしてしまったそうです。

そのおかげかどうか、石垣の崩落はなくなり、無事、天守は完成しました。

ところが、それ以来、城下で盆踊りをすると天守が鳴動するという怪異が起こり、やがてそれは人柱にされた娘のたたりとのうわさが領内に広まり、以来、松江では盆踊りを踊らなくなったといいます。

その後、城の完成を待たずに堀尾吉晴病死し(息子の忠氏は着工前に死去)、そして残された藩主の堀尾忠晴も実子に恵まれることなく若くして病没し、堀尾家は無嗣断絶となってしまいます。

堀尾氏が改易となると、寛永11年(1634年)に若狭小浜から京極忠高が入城しますが、忠高もわずか3年後に無嗣のまま死去し、断絶してしまいます。

そんな背景から、松江城天守には人柱にされた娘のたたりがあると、当時の人々は思ったのでしょう。


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その後、寛永15年(1638年)に徳川家康の孫にあたる松平直政が信濃松本より18万6千石で入城。

この直政のときに、人柱伝説は鎮静することになります。

赴任後、初めて天守の最上階にある天狗の間に登った直政の目の前に、人柱に立った娘の亡霊が現れ、「この城はわらわのもの」と言ったそうです。

これを聞いた直政は、「ならば、このしろをくれてやろう」と娘の亡霊に返答し、湖で捕まえた魚のコノシロ(この城)を供えたところ、それ以来、娘の亡霊は姿を見せなくなり、やがて噂も消えていったといいます。


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オチはダジャレか~い!と突っ込みたくなる話ですが、人柱の伝承が事実かどうかはわかりませんが、直政にまつわるエピソードは、亡霊を退散させたという話を流布させて、新しい藩主となった松平家は、今までの藩主とは違うというところを領民に示す狙いがあったのではないでしょうか。

以後、松江城は松平氏10代の居城として明治維新まで続きます。


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天に聳えるは木彫銅張りで、向かって左が雄で鱗があらく、右が雌。

高さは2.08mあり、日本現存の木造ものでは最大だそうです。


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こちらが入母屋破風ですね。


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この入口が突き出した構造を附櫓といい、天守入口の防備をかたくするためにとり付けた櫓で、入口に鉄延板張りの大戸があり、入ると桝形の小広場が二段あって、侵入しにくいようになっています。


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越前松平氏の家紋です。




天守ばかりではなく、本丸広場も歩いてみましょう。

まずは、本丸東側の多門跡


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こちらは西側の多門跡


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こちらは本丸西北角の乾櫓跡


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こちらは本丸東北角の祈祷櫓跡

ここは、松江城の築城前には荒神を祀ったがあったといわれ、その塚を他の場所に移して櫓を建てたところ、たびたび石垣が崩れたため、この櫓で祈祷が行われたと伝わります。

つまり、上述した人柱伝説が事実ならば、人柱となった娘はこのあたりに埋められたということになりますね。


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そしてこちらが、本丸搦手門にあたる北ノ門です。


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そのすぐ西側にある奥去口門跡


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本丸南側の石垣は「打込みはぎ」でしたが、北側の搦手門付近は「野面積み」でした。

造った時代が違うということはないと思うのですが、なんででしょうね。


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そうこうしているうちに、天守入口が開門されました。

次稿はいよいよ国宝天守の内部を攻めます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-01-26 09:45 | 島根の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

国宝天守となった松江城を歩く。 その2 「二ノ丸上段~中曲輪」

「その1」の続きです。

松江城二ノ丸上段に登ってきました。

本丸下の石垣を見上げると、国宝となった天守が見えます。


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ここを訪れたのはゴールデンウィークの4月30日。

ツツジが綺麗な季節です。


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三ノ門跡です。


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三ノ門を入ると、「その1」で紹介した馬溜跡西側の石垣の上に出ます。


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こちらは常番所跡


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二ノ丸上段は本丸南側の一段低い平地で、江戸時代には中央に御書院があり、松平家二代藩主・松平綱隆の時代まで藩主の居住となっていたそうです。

御書院の北には御殿女中の居住である局長屋、南には御月見櫓があり、他に大広間、御式台、御作事小屋、番所、井戸がありました。

また石段に沿って二ノ門、三ノ門、定御番所、御門東之櫓、下雪隠、太鼓櫓、腰掛、中櫓、南櫓がありました。


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こちらは石垣のいちばん北側にある太鼓櫓


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たしかに、中に太鼓がありますね。


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こちらは太鼓櫓のすぐ南側にある中櫓


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中櫓内の窓から馬溜跡を見下ろします。


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こちらはいちばん南にある南櫓


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太鼓櫓、中櫓と違って中は2階建てになっています。


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二ノ丸上段には、明治10年(1877年)創建の松江神社が鎮座します。

主祭神は松平直政(松平初代藩主)で、合祀神に徳川家康(東照宮)、配祀神が堀尾吉晴(松江開府の祖)、松平治郷(第七代藩主)となっています。


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松江神社の南隣にある興雲閣です。

この建物は、明治36(1903年)に山陰地方に明治天皇をお迎えするために松江市が建設したもので、明治40年(1907年)5月には皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)が泊まられています。


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興雲閣の前には、そのときの嘉仁親王お手植えの松が聳えます。


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続いて本丸北側の中曲輪跡にある、馬洗池です。

読んで字のごとく、馬を洗った池ですね。


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馬洗池の側に、「ぎりぎり井戸跡」という変わった名称の井戸跡がありました。

その伝承によると、松江城築城時、表鬼門の石垣がいくら積んでも崩れたそうで、堀尾吉晴は最も崩れの酷い個所を徹底的に掘らせたところ、頭がい骨とそれを貫く錆びた槍の穂先が現れたそうです。

吉晴はすぐさま神主を招いて二夜三日にわたって大祈祷を行わせ、工事を再開して石垣はやっと完成したそうです。

「ぎりぎり」とは、頭のつむじを指す方言だそうで、掘った所が城の中心だったので、「ぎりぎり井戸」と名付けられたそうです。


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こちらはその横にある本丸搦手への登り口。

「水の手門」とも「ぎりぎり門」とも呼ぶそうです。


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さらに馬洗池のさらに北には北ノ丸があり、松江護國神社松江稲荷神社が鎮座するのですが、今回は割愛します。

次稿はいよいよ本丸に登ります。




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by sakanoueno-kumo | 2019-01-24 21:42 | 島根の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

国宝天守となった松江城を歩く。 その1 「大手門~二ノ丸下段」

過日、島根県の松江城に行ってきました。

松江城は現存天守12城のひとつとして知られ、平成27年(2015年)、姫路城、松本城、彦根城、犬山城に続いて、わが国5か所目の国宝天守に指定されたことが記憶に新しいかと思います。


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松江にはこれまで何度か訪れたことがありましたが、ゆっくり城見物をする機会に恵まれなかったため、今回がはじめてです。

国宝になったわけだし、城好きとしては、やっぱ見とかないとだめかなぁと。


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大手門跡の正面には、松江城を築いた堀尾吉晴の像があります。


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堀尾吉晴は、慶長5年(1600年)関ケ原の戦いの功により、遠州浜松から出雲・隠岐24万石の大名として広瀬の月山富田城に入城します。

しかし、月山富田城は急峻な山奥の中世以来の山城だったため、交通も不便で城下町を形成する土地もなく、時代にそぐわない城でした。

そこで吉晴は、宍道湖のほとりの標高28mの亀田山に築城を計画。

慶長12年(1607年)に着工し、5年間にわたる難工事のすえ、慶長16年(1611年)に完成しました。

それが、ここ松江城です。


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もっとも、堀尾吉晴は落成間近の慶長16年(1611年)6月に急死しており、息子の堀尾忠氏もそれ以前に急死していたことから、松江城の初代城主は吉晴の孫・堀尾忠晴となりました。


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上の写真は大手門跡です。

枡形になっていますね。


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大手門横にある案内マップ

現在、城跡公園となっているのは内堀を入った二ノ丸からで、三ノ丸は街になっています。


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大手門を入ってすぐの馬溜跡です。


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馬溜跡の西側には高さ13mの石垣がありまず。

その上にある櫓は、向かって右が太鼓櫓、左が中櫓です。


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馬溜跡にある井戸跡


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松江城の二ノ丸は上段下段に分かれています。

馬溜跡北側には、東西100m南北210mの広大な二ノ丸下段が広がります。


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現在は芝生公園になっていますが、江戸時代には米蔵がたくさんあり、北に屋敷地、南には御破損方・寺社修理方があったそうです。


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説明板です。


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二ノ丸下段から上段に登る石段の途中には、推定樹齢350年というクスノキの巨樹が。


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石段の途中の石垣


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松江城の石垣は「打込みはぎ」といって、石切り場で切り出した石の平坦な面の角をたたきつき合わせやすくした積み方で、慶長年間に築かれた城によく見られる工法です。


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二ノ丸下段だけで長くなっちゃったので、上段は次稿に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-01-23 22:30 | 島根の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第3話「冒険世界」 ~東京高等師範学校入学~

e0158128_19143806.jpg 明治43年(1910年)4月、金栗四三東京高等師範学校(現在の筑波大学)に入学しました。同校はその名のとおり教師を育成する学校で、金栗の専攻は地理歴史でした。同校は創立以来、代々軍人が校長を務めてきていたそうで、そのため、学生を兵隊と同じように扱い、徹底した規律で縛るといった校風だったようです。鬼教官による軍隊さながらの体罰教育が当たり前のように行われ、寄宿舎では先輩たちによる私的な鉄拳制裁が日常茶飯事だったといいます。これについては、この時代のみならず、昭和の時代まで続いていましたし、平成の現代においても、スポーツの強豪校などでの体罰教育が問題になったりしていますが、その原点は、この時代に多くの軍人あがりが教育者となったことにあるようです。


 そんな同校の校風も、嘉納治五郎が校長に就任してからは、軍隊色を排除する改革が少しずつ行われ、金栗が入学したこの頃にはずいぶんとマシにはなっていたようです。海外渡航の経験が豊富な嘉納は、欧米の自由で個性を大切にする教育現場をよく知っており、個性を敵視するような規律一辺倒の軍隊式指導方針や、鉄拳制裁によって統制をとるやり方に疑問を持っていました。学校側からすれば、力で抑圧すれば学生を管理しやすい。しかし、それは恐怖で従順になっているだけで、それでは強く健全な精神を育めるとは思えない。嘉納はそう考えたようです。


e0158128_19143177.jpg 暴力を使わずとも生徒の心身を鍛える方法はある。嘉納は鉄拳制裁を禁じ、その代わりにスポーツを奨励しました。嘉納は授業の教科に体育を加え、柔道のコースを設けました。また、柔道部、剣道部をはじめ、撃剣部、弓技部、器械体操部、相撲部、ローンテニス部、フートボール部、ベースボール部、自転車部、ボート部、徒歩部、游泳部、卓球部、ラ式フートボール部などを設け、全生徒にいずれかの部活動に所属することを求め、放課後は体力の増強に務めるよう促しました。現在でも日本では小学校から大学まで体育の授業が行われていますが、これは、世界的に見ると珍しいそうですね。また、中学校以上で行われている部活動も日本特有のもので、このシステムを作ったのも嘉納であり、それを普及させたのは、嘉納が育てた東京高等師範学校の卒業生たちでした。現在、わたしたちが当たり前だと思っている学校の体育教育の淵源は、ここから始まったものだったんですね。


 話は変わって、ドラマ中、海軍兵学校の受験に失敗して軍人の夢が絶たれた金栗が教師を目指すという目標を掲げたとき、「乃木大将にはなれずとも、治五郎先生を目指そうとは見上げたやつだ!」と兄が讃えていましたが、この時代、軍人政治家の世界は相変わらず薩長閥の勢力で形成されていましたから、もし金栗が兵学校に合格していたとしても、軍人として出世するのは難しかったでしょう。当時、いわゆる幕末の官軍に属さなかった地方出身の秀才たちの多くが、比較的藩閥の影響が少なかった教育者の道を選びました。東京帝国大学(現在の東大)の歴代総長のほとんどは、旧賊軍や旗本出身の人ですからね。その意味では、金栗は兵学校に落ちて良かったといえたかもしれません。


 e0158128_17120770.jpgまた、金栗と一緒に上京した友人の美川秀信は、ドラマでは文学を志す若者という設定のようで、2人が郷里をあとにするとき、見送りにきた金栗の兄が、「将来の嘉納治五郎と夏目漱石だ!」と言って励ましていましたが、当時、文学の道を選んだ若者も、幕末に賊軍となった地方出身の秀才たちが多かったようです。夏目漱石も旧幕府旗本の家の生まれですし、漱石の友人だった正岡子規も、小説『坂の上の雲』で描かれているとおり、親藩の伊予松山藩の武家の生まれでした。また漱石のライバルだった森鴎外も、幕末に中立を保っていた津和野藩の藩医の家の出身でした。藩閥のコネに肖れない秀才たちの立身出世の道は険しかったようですが、そのおかげで、漱石や鴎外といった明治の文豪が生まれたともいえるかもしれません。


 この美川秀信という人物のことはよく知らないのですが、金栗と同郷の友人だったというのは実話のようですね。ただ、文学を志していたかどうかは定かではありません。調べてみると、金栗と共に上京したその年の夏休み、2人で揃って故郷に帰省し、その途中、2人は富士山の登山を試みましたが、準備が不十分だったため、7合目で断念したというエピソードが残されているそうです。ドラマでは、2人の帰省は描かれていましたが、富士山の登山のエピソードは描かれなかったですね。ドラマの美川はチャラ男キャラのようですから、富士山を登ろうといった気概ある青年だとキャラ崩壊になるからでしょうか。


 さて、次回はいよいよ金栗が長距離走に目覚めるようです。



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by sakanoueno-kumo | 2019-01-21 17:19 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(4)  

江戸湾を守った海上の砲台「品川台場」を歩く。 その2

「その1」に続いて、東京湾に浮かぶ砲台跡「品川台場」を歩きます。

土塁の上を一周してみました。


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土塁上は遊歩道になっています。


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台場の南端の土塁上に、砲台跡並んでいました。


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もっとも、これは往時のものではなく、後世に作られたレプリカだそうです。

ここが台場公園として開園したのは昭和3年(1928年)だそうなので、あるいは、そのときに作られたものかもしれません。


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兵装については史料によって多少の相違があるようですが、ここ第3台場には、36ポンド砲が配置されていたとされています。


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砲口の方角にはヒルトン東京お台場グランドニッコー東京台場のビルが見えます。

その近くに、かすかに自由の女神が見えます。

やはり、品川台場の仮想敵国はアメリカだったようです(笑)。


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フジテレビ社屋が見えます。

ミーハーでスミマセン。


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前稿で紹介したとおり、嘉永6年(1853年)6月の黒船来航によって急遽計画されて着工した品川台場でしたが、実は、それ以前からもここに海防施設を作る計画はあったようで、これより遡ること15年前の天保9年(1838年)にも、のちに築造される品川台場とほぼ同じ計画の設計図が作成されていたことが明らかになっています。

これは、その前年に起きた「モリソン号事件」など、日本沿岸に外国船が出没する事態が相次いだため、当時の幕府老中・水野忠邦が江戸湾を中心とする全国の海岸防備の強化を進めるよう命じたものでした。

ところが、幕府も諸藩もこの時期、天保の飢饉(1833年~36年)の余波にあって厳しい財政難に陥っており、大規模な土木工事を遂行できるだけの力がなかったんですね。

そんなこんなで計画が宙に浮いたまま年月が過ぎ、そうこうしていると、マシュー・ペリー提督率いるアメリカ艦隊が訪れ、大慌てとなったわけです。


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ペリー艦隊の帰国後、幕府はすぐさま砲台工事に着工。

当初の計画では海上に11基の台場を築造する計画でしたが、財政難などの理由で完成したのは第1~3台場、第5・6台場および御殿山下台場6基のみで、第4、第7台場は建設途中で中止、残りは未着手のまま終わりました。


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明治維新後、6基の台場は陸軍省東京市など所管が二転三転し、昭和に入ると跡地の一部は民間に払い下げられました。

その過程で第3台場第6台場だけが残され、現在に至ります。

現在に残る第3台場と第6台場は、大正15年(1926年)に国の史跡に指定され、昭和3年(1928年)にここ第3台場が台場公園として開園します。


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第3台場の西側に浮かぶ第6台場です。

こちらは立入禁止です。

第6台場は現在、草木が覆う自然豊かな島となっていて学術的にも貴重な史跡として保全されています。


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第6台場の横に見えるのはレインボーブリッジ

レインボーブリッジの歩道から第3、6台場ともに俯瞰できるそうですが、この日は時間がなく、断念しました。


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第3台場のレインボーブリッジ側には、「史蹟 品川臺場参番」と刻まれた石碑があります。

昭和2年(1927年)に建てられたもののようです。


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黒船来航で海防の必要性に駆られ、超突貫工事で築かれた品川台場でしたが、その後、日米和親条約が締結さたことで、結果的にこの砲台が火を吹くことはありませんでした。

それでも、何の役にも立たなかったかといえば、そんなことはなく、2度目に来航したペリー艦隊は、この砲台を見て江戸湾への入港を諦め、横浜に進路を変えてそこで日米和親条約を結ぶことになります。

ある程度の抑止力にはなったようですね。

軍備というのは、「備えて使わず」がいちばん望ましいわけで、その意味では、無駄な築造ではなかったといえます。

現在の自衛隊も、「備えて使わず」の組織であってほしいものです。


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最後に、「続・日本100名城」のスタンプを載せます。

このスタンプラリーが始まったのが昨年(平成30年・2018年)の4月6日の城の日からでしたが、このスタンプを押したのが2日後の4月8日。

100名城の最初のスタンプでした。




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by sakanoueno-kumo | 2019-01-18 22:22 | 東京の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

江戸湾を守った海上の砲台「品川台場」を歩く。 その1

平成29年(2017年)4月6日、日本城郭協会から「続・日本100名城」が発表されましたが、そのなかに、ひとつだけ趣を異にした存在があります。

東京湾に浮かぶ砲台跡「品川台場」がそれです。

「城跡」というカテゴリーに入れていいのかどうか、でも、「砦」という意味では同種とみなしていいともいえますが・・・。

とにもかくにも、名城の仲間に加わったので、過日、東京を訪れた際に立ち寄ってみました。


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写真はお台場ビーチから撮影した東京ベイエリアです。

海に浮かぶ緑の空間が、その台場です。

その向こうに見えるのがレインボーブリッジ


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ズームします。

豪壮な石垣の上に土塁が盛られているのが見えます。

その様相は、まさに海に浮かぶ要塞、城跡と言っていいのかもしれません。


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「お台場」の愛称で全国に知られている東京ベイエリアは、港区台場を中心に複数の区にまたがって東京湾に広がる埋立地ですが、東京湾の埋め立ては近年始まったものではなく、徳川家康による江戸幕府が開かれて以来、長い年月をかけて少しずつ進められてきた事業で、幕末までの260余年の間に海岸線のかたちは大きく変わりました。


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その海岸線に、軍事施設として台場の造営工事が始まったのは嘉永6年(1853年)8月のことでした。

というのも、この年の6月、マシュー・ペリー提督率いるアメリカ艦隊が江戸湾の浦賀沖に姿を表し、江戸幕府に開国をせまってきたんですね。

いわゆる「黒船来航」です。

ペリーは幕府に通商を目的とする開国を要求し、その回答猶予として翌年春の最来航を約束して帰国しますが、これに脅威を感じた幕府老中首座の阿部正弘が、伊豆韮山代官の江川英龍に命じて海上砲台の建設を開始します。

それが、この品川台場です。


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当時は第1台場から第6台場までありましたが、現在残るのは第3、第6台場の2ヶ所だけで、そのうち第3台場が「台場公園」として整備されています。


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第3台場はお台場ビーチと陸続きになっているので、歩いていけます。


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第3台場の入り口です。


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横に目をやると、向こうにフジテレビ社屋が見えます。

東京人でないわたしにとっては、お台場=フジテレビといった印象が強いです。

ミーハーですね。


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階段を上がって土塁を登るとすぐに、案内板が設置されています。


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平面図のアップです。

面積は約30,000㎡だそうです。


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土塁に囲われた台場の内部は一段低くなっていて、現在は芝生広場として子どもたちがボール遊びなどをしていましたが、かつてはここに兵舎が建てられ、大量の弾薬が保管された軍事拠点でした。


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芝生の中央に見える礎石のような場所が、かつての兵舎跡です。


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下に降りてみましょう。


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兵舎(陣屋)跡の礎石です。

向こうにフジテレビ社屋が見えます。


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兵舎は居住施設というより一種の休憩所のようなものだったようで、守備兵は小舟で台場に渡り、交代が来るまでのあいだここに詰めていたそうです。


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こちらはかまど跡です。

往時はここで兵たちの食事が作られていました。


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もっとも、このかまどは江戸時代のものではなく、後世になって作られたものだそうです。

ここが台場公園として開園したのは昭和3年(1928年)だそうなので、あるいは、そのときに作られた復元品なのかもしれないですね。

それでも、90年以上前のものですから、立派な史跡です。


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こちらは弾薬庫跡です。


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弾薬の格納庫ですから、砲撃を受けた際に誘爆を防ぐために石室になっており、往時は内部に木造の収納室を設ける二重構造になっていたそうです。


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長くなっちゃったので、「その2」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-01-17 23:10 | 東京の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第2話「坊っちゃん」 ~金栗四三の生い立ち~

e0158128_19143806.jpg ドラマ前半の主人公である金栗四三は、は明治24年(1891年)8月20日、熊本県の春富村に生まれました。男4人、女4人の8人兄弟の7番目でした。「四三」という名は、父・金栗信彦43歳のときの子だったからと伝えられます。安直な命名ですが、この当時の名前なんて、一部のインテリ階級を除けば皆、似たような名付け方だったのでしょう。子供の名前に思いを託すなんて思想はなかったんですね。もちろん、キラキラネームもありません。四三の場合、読みも「シソウ」「シゾウ」のどちらか定かではなく、パスポートはSHIZOと記載されていたそうですが、本人のサインはShisoだったそうです。これも、その時代でもよくあることだったようですね。(実際、わたしの死んだ父も、名前の読み方が祖父と祖母で違っており、母も、どっちが正しいか知らないといっていました)。


 生家はもともと代々造り酒屋を営んでいましたが、父・信彦が病弱だったため、四三が生まれる数年前に廃業したいました。その遺伝からか、四三も幼い頃からひ弱で、よく病気をしたといいます。のちに日本初のオリンピック選手になるような片鱗は、どこにも見当たりませんでした。


 そんな四三にアスリートとしての要素が現れはじめたのは、高等小学校に進学してからのことだったといいます。当時、尋常小学校と呼ばれた義務教育は4年間で、その後、成績が優秀な子は4年間の高等小学校に進学しました。いまで言う小学5年生から中学2年生の時期ですね。四三の家は比較的裕福で、四三自身も成績優秀だったことから、高等小学校に進学したのですが、彼の村に高等小学校はなく、片道6km離れた大原村相谷にある玉名北高等小学校まで通わなければなりませんでした。この通学路を、四三は4年間、走って通ったといいます。この往復12kmの通学が、四三を日本代表のマラソン選手導いた下地だったといわれています。


 もっとも、このようなエピソードはよく耳にする話で、かの増田明美さんも、小学校の6年間に約3km近い通学路を毎日歩いていたことが、のちの増田選手を作ったといった話を聞いたことがあります。でも、四三の時代、同じような環境で通学していた子供はたくさんいたでしょうし、増田さんの時代でも、田舎に行けば珍しい話ではなかったでしょう。じゃあ、それらが皆、長距離選手としての要素を身に着けたかといえば、もちろんそんなことはありません。四三も増田明美さんも、おそらく元からアスリートとしての高いポテンシャルが備わっていたのでしょうね。


 明治37年(1904年)2月に日露戦争が勃発。その翌年に父の信彦が死にました。しかし、長兄の実次が学費を引き受けてくれて、四三は玉名中学校に進学しました。この当時の中学校は、いまの高校です。成績優秀だった四三は2年生に特待生となります。当時の中学校は5年制でしたが、成績次第では4年生から上級学校に進学できました。そこで、四三は海軍兵学校を受験します。日露戦争に勝利した直後のこの当時、軍人はエリートの憧れの職業だったということもありましたが、兄に学費を頼っていた四三は、国費で通える学校を選びたかったのでしょう。となると、それは軍人になるか教師になるかしかありませんでした。そこで四三は軍人になる道を選びますが、海兵といえば難関中の難関で、4年生で合格するのは至難のわざでした。玉名中学校では特待生だった四三でも、結果はあえなく不合格。結局、軍事になることは諦め、教師になるべく翌年に東京高等師範学校を受験して合格します。そこの校長を務めていたのが、四三の人生を変えることとなる嘉納治五郎だったんですね。もし、前年に海兵に合格していれば、四三が日本初のオリンピック選手になることはなかったでしょう。人の運命って、何が災いして何が幸いするかなんて、誰にもわからないものですね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-01-15 22:39 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)