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越前松平家の福井城跡を歩く。 その2 ~結城秀康~

「その1」の続きです。

福井城本丸跡に建つ県庁庁舎ビルの前には、初代福井藩主の結城秀康の像があります。

結城秀康は徳川家康の次男で、「関ケ原の戦い」の翌年にあたる慶長6年(1601年)に越前68万石を与えられ入国し、慶長11年(1606年)にここ福井城を築城しました。

この騎馬石像は、平成14年(2002年)4月に秀康の入国400年を記念して、3,800万円かけて建立されたものだそうで、ひとつの石で仕上げられています。

ただ、その製作費ほどの価値を感じないというか・・・。

以前の拙稿で紹介した三木城※参照)や法界寺別所家霊廟※参照)にある別所長治像と同じ匂いがします。

三国志の騎馬武者って感じが・・・。


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甲冑に身を固めた勇ましい騎馬像ですが、実は、秀康はその生涯で一度もこのような姿で勇猛果敢に戦ったことがありません。

その理由は、秀康に武者としての能力がなかったわけではなく、その生い立ちにありました。


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秀康の生母・於万の方(長勝院)は、家康の正室・築山殿侍女だった女性で、家康は於万の懐妊を知ると、築山殿の嫉妬を恐れて他家に避難させて出産させます。

そこで生まれた秀康を家康はなぜか疎んじ、3歳になるまで対面しなかったといいます。

その後、織田信長の命によって築山殿は暗殺され、長男の信康切腹に追いやられると、普通なら次男の秀康が後継ぎになるはずが、家康は三男の秀忠を嫡子とします。

家康が秀康を疎んじた理由は諸説ありますが、正確なことはわかっていません。


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その後、豊臣秀吉の時代になると、家康は秀康を豊臣家に人質として送ります。

実子のいなかった秀吉は、秀康をわが子のように可愛がったといいます。

「秀康」という名は、秀吉の「秀」と家康の「康」から名付けられたものですね。

その名の通り、秀康は徳川家と豊臣家の架け橋になろうとしていました。

なるはずでした。

ところが、秀吉に実子・鶴松が誕生すると、秀吉は鶴松をわずか生後4ヶ月で豊臣氏の後継者として指名し、そのため、秀康は他の秀吉の養子同様に、他家へ養子に出されることとなります。

それが、下総国の名家・結城氏でした。

ここに、結城秀康の名が誕生します。


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結城家当主として関東に下った秀康を、家康は丁重に扱いました。

しかし、秀吉の死後も家康は秀康を戦地に送ろうとはせず、関ヶ原の戦いの際にも留守居を命じました。

その理由は、嫡子・秀忠以上の働きをされては困るからだったと考えられます。

そして戦後、秀康は越前北ノ庄67万石に加増、移封されました。

一見、一族としての優遇にも見えますが、しかし、仮に秀康がその気になったとしても、徳川幕府を倒せるほどの身上でもない。

しかも、当時の越前国は雪深く、ひとたび冬になれば身動きがとれません。

家康は、加増という名目で秀康を雪国に閉じ込めたんですね。


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秀康は、ここ福井城が落成した翌年の慶長12年(1607年)に死去します。

死因は梅毒だったともいわれますが、詳しくはわかっていません。

秀康の武将としての器量は一流だったといわれ、剛毅で体躯も良く、天下人たる資質を十分に備えていたと伝わりますが、ついにその短い人生において何ら偉業を達成することなくその不遇の生涯を終えました。

秀康は父の家康より秀吉を慕っていたといいます。

一説には、秀康はその死の直前、嫡子・忠直に対して、「もし、徳川が秀頼様を害するようなことあらば、必ず秀頼様のお味方をしろ」遺言した、なんて逸話もあるくらいです。

しかし、忠直は父の遺言を守らず、徳川方に属して大阪城を攻めました。

そのおかげで、福井藩松平家は明治維新までの約270年間17代にわたって、徳川家の親藩として継続することになります。

でも、もし秀康が大坂の陣まで生きていたら・・・あるいは、この騎馬像のような勇姿を、豊臣方武将として見られたかもしれません。

なんて、想像たくなっちゃうのは、わたしだけでしょうか?


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今回は秀康像だけで終わっちゃいました。

福井城シリーズは、「その3」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-02-28 00:11 | 福井の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

越前松平家の福井城跡を歩く。 その1 ~内堀、石垣~

過日、福井県を訪れた際に福井城跡に立ち寄りました。

福井城は、徳川家康の二男で初代福井藩主となった結城秀康が慶長11年(1606年)に築城し、約270年間17代にわたって越前松平家の居城となった城ですが、現在は石垣の一部だけが残っているだけで、その跡地には福井県庁の庁舎、県会議事堂県警察本部などがあります。


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写真は南東の堀と巽櫓跡の石垣です。

現在残っている堀は内堀で、県庁などのある石垣の内側は本丸跡

二ノ丸、三ノ丸は都市化されており、その遺構を見ることはできません。


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こちらは北東艮櫓跡の石垣。

内堀の幅の広さに、かつての福井城がいかに巨大な城であったかがうかがえます。


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こちらは北西天守台跡の石垣。


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福井城の石垣は横のラインが通った「布積み」と呼ばれる「切込接ぎ」の工法で、これは当時、第1級の城だった二条城江戸城などと同じ積み方です。


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さらに福井城の石垣の特徴としては、すべて足羽山の笏谷石という同じ石が使われていることで、石が小さく、運びやすく加工しやすい「切り石」ばかりが使用されているそうです。


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内堀西側山里口御門には、屋根付きの橋・御廊下橋が復元工事中でした。


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現地説明板によると、福井城本丸内には政庁と藩主の居住部分を合わせた床面積1千坪を超える御殿がありましたが、歴代藩主のうち、昌親(吉品)、重冨、治好、慶永(春獄)、茂昭の5人は、西三の丸御座所に居住していたとされ、藩主が政庁であった本丸と西三の丸御座所とを往復するための専用の橋が、この御廊下橋だったそうです。


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現在行われている復元工事は、明治初期に撮影された写真を元に忠実に再現されているそうです。


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その御廊下橋から内堀にそって南下した隅の坤櫓跡の石垣。


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坤櫓跡から東を見ると、本丸南面の内堀に架かる御本城橋が見えます。


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こちらがその御本城橋。

福井城大手門にあたります。


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内堀外周を1周したところで、御本城橋を渡って本丸跡に入ります。


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御本城橋を渡ったところの左には御門跡、右には瓦御門跡の石垣があります。

当時は枡形門の構造になっていましたが、現在は石垣が取り壊されています。


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門を入ると、本丸跡中央に県庁の庁舎が聳えます。

県庁がかつての城跡にある県は他にもたくさんあります。

戦国時代と違って江戸時代のお城は、言ってみれば各藩の政庁だったわけで、明治になって「藩」「県」になっても、行政の機能をそのまま引き継いで県庁になったわけですね。


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さっき通った瓦御門跡の石垣の上は、散策路となっていました。

せっかくなので登ってみることに。


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登り口にある説明板です。


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石垣の上は桜並木になっています。

ここを訪れたのは平成29年(2017年)5月21日だったのですが、桜の季節だったら綺麗だったでしょうね。


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で、こちらが瓦御門の石垣の上。

かつてはここに櫓があったわけです。


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石垣上から内堀を見下ろします。


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瓦御門裏手には、雁木が残っています。

雁木とは石垣や土塁に昇降するために付設された石階段のことで、近代城郭ではよく見られる遺構ですね。


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さて、長くなっちゃったので、「その2」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-02-26 23:59 | 福井の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第8話「敵は幾万」 ~ストックホルムへ~

 かくして日本初のオリンピック選手に選ばれた金栗四三三島弥彦でしたが、問題はその旅費でした。当時、嘉納治五郎が会長を務める大日本体育協会は発足したばかりで、財政の余裕があるはずがありません。そこで嘉納は、国費による援助を文部省に求めますが、まだオリンピックという祭典の認知度が低かったこの時代、遊びのようなものに国費を使うなどあるまじきこととして門前払いでした。当時、日露戦争で使った莫大な戦費により日本は借金まみれで、緊縮財政により財布のひもが固かったんですね。日露戦争は、勝利とは多分に表面上のことで、ポーツマス条約において日本はロシアから賠償金はまったくとれず、財政はたちまち困窮を極めており、国内各地で政府に対する不満が爆発して暴動が起きていました。


e0158128_19143806.jpg そんな情勢のなか、日本初のオリンピック選手の渡航費、滞在費は、すべて自腹ということになります。その費用を試算してみると、およそ1800円から2000円ほどかかるといいます。当時、教師の初任給が18円から20円ほどだったといいますから、ほぼ10年分の収入に相当する金額です。今の価値でいえば、4000万円近い金額でしょうか。子爵の家柄の三島弥彦はともかく、かつては地元の名家だったとはいえ、いまは熊本の田舎で農業を営む金栗家にとっては、容易に出せる額ではありません。金栗は、一時は参加を辞退しようかとも考えていたといいますが、そんな彼の背中を押したのが、兄の応援だったといいます。ドラマで描かれていたとおり、兄は、「たとえ田畑を売ってでも渡航費を捻出するから、思いっきり走ってこい」と、弟の四三を励ましたそうです。昔の長兄って、弟妹のためなら身を削ってでも尽力を惜しまない人が多かったと聞きます。現代の希薄な兄弟関係とはぜんぜん違いますね。兄は弟妹を慈しみ、弟妹は兄を敬う。いつからなくなったんでしょうね、そういう兄弟の絆


 また、これもドラマで描かれていたとおり、学友や後援会など多くの人々からの寄付金も集まり、その金額は1500円ほどに達したといいます。「国威発揚」がスローガンだったこの時代。当時の人々にとっては、金栗と三島の渡航は、兵隊さんを戦地に送り出す心境だったのかもしれません。


e0158128_16513466.jpg 明治45年(1912年)5月15日、東京高等師範学校講堂において、大日本体育協会主催の歓送会が開かれました。このとき、金栗、三島両選手に、日の丸の大国旗が送られました。この日の丸を掲げて、ふたりはストックホルムの入場式を行進することになります。そして、翌日の5月16日、彼らはストックホルムに向けて旅立ちました。当時、今の赤煉瓦の東京駅はまだ建設中で、出発は新橋駅から。新橋駅には、金栗の学友たち百数十名が集まったそうです。三島は紺の洋服にカンカン帽という出で立ちで到着。同行する大森兵蔵監督と、その夫人・安仁子も揃って、駅前は大いに賑わったといいます。ドラマでは汽車に乗り遅れていた嘉納治五郎団長でしたが、実際には、当初から一行とは遅れて6月6日に出発し、アメリカを視察したのちにストックホルムに入る予定でした。金栗、三島両選手を乗せた汽車が動き出すと、学生たちは、今話のサブタイトルになっている軍歌『敵は幾万』を歌って見送ったといいます。そして万歳三唱。このときの2人の心境は、このように語ったと伝えられます。


 「日本運動界の全責任を帯びて出場することであれば、自分等は斃れて後止むの大決心で臨み、決して国体を辱めざることを期す」(『大日本体育協会史』大日本体育協会編)


 ドラマでは、女性記者に無理やりそう語らされていましたが、まさに国威発揚の時代。日の丸を背負う重圧は、現代の比ではなかったでしょうね。


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by sakanoueno-kumo | 2019-02-25 00:20 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

赤穂高取峠の早駕籠像に見る、浅野内匠頭刃傷沙汰の報せにかかった労力と経費。

前稿までシリーズ5回に分けて赤穂城跡めぐりを紹介してきましたが、その帰路、赤穂市と相生市の境にある高取峠にある駕籠かきの像が目に入り、立ち寄ってみることにしました。


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駕籠かきが4人いるので、早駕籠のようですね。


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説明板によると、この早駕籠は元禄14年(1701年)3月14日に江戸城松之廊下で勃発した浅野内匠頭長矩刃傷沙汰を知らせるための使者が乗った駕籠だそうです。


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事件が起きたのは3月14日。

第1報の使者は早水藤左衛門萱野三平の2人でした。

彼らが江戸を発ったのは当日の未の下刻(午後3時半頃)で、赤穂城に着いたのが3月19日の寅の下刻(午前5時半頃)だったといいますから、江戸から155里(約620km)の距離を、わずか4日半で走行したことになります。

1日に140kmほど進んだことになりますね。

普通にだだ走るだけでも大変なのに、駕籠を担いで走るわけですからね。

しかも、ジョギングシューズじゃなく、わらじで。

どのくらいの頻度で担ぎ手が交代するのかはわかりませんが、おそらく昼夜ぶっ通しで走らないと不可能なスピードで、ちょっと想像を絶しますね。


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それと、駕籠かきは駅ごとに交代するでしょうが、乗ってるほうは変わらないですから、4日半ぶっ通しでこの狭い駕籠のなかというのも、エコノミー症候群になりそうです。


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早水と萱野が持ち帰った報せは、刃傷沙汰のみでした。

しかし、浅野内匠頭長矩はその日のうちに切腹させられましたから、ふたりはそれを知らずに江戸を発ったわけです。

そのため、長矩の切腹と赤穂藩の取り潰しを報せる早駕籠が、その日の夜更けに江戸を発っています。

その第2報の使者は原惣右衛門大石瀬左衛門でした。


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ここで少し俗な話しをすると、この2回の報せをするために、どれほどの労力経費がかかったのでしょう?

今でも、もし東京から赤穂までタクシーで行ったら、ちょっと想像つきませんが、たぶん10万円20万円ではきかないんじゃないでしょうか?

この当時の駕籠も同じで、決して安い交通機関ではありませんでした。

少し時代があとになりますが、天保年間(1830~44年)ごろの町駕籠の運賃は1里あたり400文(約1万円)ほどと言われ、担ぎ手が4人だと、その倍かかりました。

となると、155里の距離を1里2万円で計算すると、なんと310万円

かけることの早水、萱野、原、大石の4人ですから、このとき4人が使った早駕籠代は1,240万円ってことになります。

長距離割引があったかどうかはわかりませんが、深夜割増もあったかも。

お家の一大事ですからそんなこと言ってられなかったでしょうが、大きな出費ですよね。

これ、必要経費で落ちますかね?


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あと、どれだけの労力を費やしたかを考えてみると、駕籠かきがどれくらいの頻度で交代するのかわかりませんが、たぶん、1回のチームが走行できる距離は20kmくらいが限界なんじゃないでしょうか?

となれば、620km進むのに、31回交代したことになります。

かけることの1チーム4人ですから、ひとりの早駕籠に対して述べ124人が担いだことになり、さらに早水、萱野、原、大石の4人ですから、なんと担ぎ手の総人数は496人

すごい労力ですね。

長矩がもうちょっと我慢していれば、これほどの無駄な労力と経費はかからなかったわけです。

もちろん、お家断絶四十七士の死といった不幸に比べれば小さなことですが、そんな小さなことひとつ取ってみても、やっぱ、藩主の行動としては、浅はかだったといえるのではないでしょうか。


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ちなみに歴史の話を少しすると、早駕籠に乗って帰国した早水、萱野、原、大石の4人のうち、萱野以外は四十七士に名を連ねて吉良邸討ち入りに参加し、武士としての本懐を遂げることになりますが、萱野三平は、赤穂城開場後に父から吉良家と繋がりの深い大島家へ仕官するよう強く勧められ、同志との義盟や旧主への忠義と父への孝行との間で板ばさみになって苦しみ、切腹して果てます。

無念だったでしょうね。


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わたしがここを訪れたのは桜が満開の4月9日でしたが、彼らを乗せた早駕籠がこの峠を通過したのは、旧暦の3月19日、いまの暦で言えば4月21日でした。

昔の気候でいえば、あるいは桜がまだ咲いていたかもしれませんね。

ふと、立ち寄った高取峠で、そんなことを思いながら赤穂をあとにしました。




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by sakanoueno-kumo | 2019-02-23 11:55 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

桜満開の赤穂城を歩く。 その5 「水手門、塩屋門」

「その4」の続きです。

シリーズ最後は、赤穂城二ノ丸南側の水手門跡からスタートです。


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かつて赤穂城の南はヨシ原が広がる干潟に面していて、満潮時には海水が石垣に迫るほどだったそうです。

ここ水手門は、赤穂湾に出るための船着き場だったそうです。


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こちらはその説明板。


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現在、水手門の南には水堀があります。

海はこれより1km以上南。

往時とはまったく地形が変わってしまっています。

地面に見られる四角い礎石跡は、おそらく門の痕跡なんでしょうね。


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外から見た水手門跡です。

突堤の下に雁木があるのがわかりますね。

時代劇なんかを見てると、ああいった雁木の石段に船をつけてますよね。


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突堤は現在、城の外と中を結ぶのような役割になっていますが、往時の突堤は、防波堤の役割でした。


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突堤から見る石垣越しのが綺麗です。


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水手門を出て、城跡外周をぐるっと歩いて三ノ丸西側にやってきました。

写真は西隅櫓台跡の石垣。

往時はこの台の上に二重櫓があったそうです。

ただ、その横の石垣が無残に倒壊しています。


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こちらは西隅櫓台の少し北にある塩屋門跡

赤穂城搦手門にあたります。

枡形虎口の形状ですが、高麗門だけで櫓門はなく、奥に太鼓楼があったそうです。


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その案内板です。

古写真にその姿が見られます。


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説明板によると、元禄14年(1701年)3月14日に藩主・浅野内匠頭長矩が起こした刃傷沙汰で、その第1報を持った早水藤左衛門萱野三平と、そして切腹と赤穂藩の取り潰しを知らせる第2報原惣右衛門大石瀬左衛門が入ったのがこの門だったそうで、また、4月19日の城の明け渡しの日に、備中国足守藩第5代藩主の木下公定が通ったのも、この門だったそうです。


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塩屋門の片隅には、歌人・良寛の歌碑が。


山おろしよ いたくなふきそ しろたえの ころもかたしき たびねせし夜は


良寛が諸国行脚の途中、赤穂に立ち寄った際に詠んだ歌だそうですが・・・スミマセン、意味がわかりません(笑)。

和歌のわかる人、誰か解説してください。


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塩屋門とは真反対の三ノ丸東側にある、清水門にやってきました。

ここは、他の門とくらべて小さな門に見えます。


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説明板によると、元禄14年(1701年)4月19日、幕府に城を明け渡したあと、大石内蔵助良雄が退城したのがこの門だったそうです。


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清水門南側には、二重櫓が建っていた二ノ丸東北櫓台があります。

やけに石垣がきれいなので、たぶん復元かと思われます。


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その向かいには、米蔵をイメージしたという歴史博物館があります。


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清水門北側の堀と石垣です。

桜が綺麗ですね。


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で、城跡を1周して「その1」で紹介した大手門に戻ってきたのですが、この日は「春の義士祭」というお祭りの日だったようで、大手門から女性四十七士の行列が出来ました。

毎年4月の第2日曜日に開催されているそうです。

せっかくなので写真を掲載します。


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先頭を歩くのが大石内蔵助良雄とすれば、その後ろを歩く女性の槍の先に吊るされた白布の包が、吉良上野介義央の首でしょうね。


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思わぬパレードに遭遇したところで、赤穂城シリーズを終わります。

最後に、日本100名城スタンプを載せておきます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-02-22 02:03 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

桜満開の赤穂城を歩く。 その4 「元禄桜苑」

「その3」の続きです。

赤穂城本丸の東側にある厩口門を出て、二ノ丸南に向かいます。

写真は、本丸側から見た桜と厩口門の高麗門


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天気が曇りじゃなかったら、もっと綺麗だったでしょうね。


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門の外にも桜が見えます。


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こちらは本丸の外から見た厩口門。


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正保2年(1645年)に入封した浅野長直によって築かれた赤穂城ですが、浅野家は3代当主の浅野内匠頭長矩刃傷事件が起こり、改易となります。

城は一旦、お隣の播磨龍野藩主・脇坂安照の預かりとなりますが、その後、下野国烏山藩より永井直敬が3万3,000石で入封。

しかし、直敬はわずか4年で転封となり、代わって備中国西江原藩より森長直が2万石で入部。

以後、明治4年(1871年)の廃藩置県までの12代、165年間、森家が赤穂城主を務めます。


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説明板によると、この門が厩口門と呼ばれていたのは浅野家時代で、森家の時代には「台所門」と呼ばれていたそうです。


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その厩口門もしくは台所門から内堀に沿って南に向かいます。


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桜並木が見えてきました。

石垣が切れている部分は、前稿で紹介した刎橋門跡です。


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こちらが二ノ丸側からみた刎橋門跡。


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そのまま南に進むと、内堀最南端に隅櫓跡の石垣があります。

横矢掛けの形状をしています。


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本丸西側の二ノ丸は市民憩いの芝生広場公園として整備されており、元禄桜苑と名づけられた花見の名所となっています。


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この日は天気が良くなかったので、あまり花見客はいませんでしたが、たぶん、いつもはもっと賑わっているのでしょう。


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水面に映る逆さ桜


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晴れてたらもっと綺麗だったでしょうね。


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元禄桜苑の最北端には、「その2」で紹介した二ノ丸庭園に入る西仕切門があります。

ただ、二ノ丸庭園は整備中のため、平成29年(2017年)4月現在、この門はまだ閉じられたままです。


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元禄桜苑最南端には、南沖櫓台があります。


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土塁を登ってみました。

南沖櫓台の外側には、現在外堀が巡らされていますが、かつてはこの先はだったそうです。


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南沖櫓台から見た土塁と桜です。


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南沖櫓台の東側にある水手門跡の向かい側に、米蔵があります。

この米蔵の建物は復元で、現在は休憩所になっています。

説明板によると、古絵図や古文書によると、かつてこの場所に2棟ないし3棟の米蔵があったそうです。


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さて、本丸、二ノ丸と攻略しましたが、もう1回だけシリーズを続けます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-02-20 16:49 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第7話「おかしな二人」 ~華麗なる一族・三島家~

 今話はオリンピック代表となった2人の話。オリンピックに行きたくてもお金の工面がつかない金栗四三と、お金はあってもオリンピック出場には難色を示す三島弥彦。2人の両極端な境遇の対比が面白かったですね。


e0158128_16513466.jpg金栗とともにオリンピック代表となった三島弥彦は、当時のスポーツ界のスーパースターでした。東京帝国大学の法科生で、当時の成人男性の平均身長が155cm前後だった時代に170cmを超える長身で、東京帝大に行く前の学習院の学生時代には、野球部エースにして主将ボート部でも活躍し、東京帝大入学後は柔道二段乗馬もたしなみ相撲も強く、スキー、スケートにも長けていたとか。まさにスポーツ万能を絵に描いたようなスーパーアスリート百獣の王、霊長類最強男子だったようです。


三島弥彦が生まれた三島家は元薩摩藩士で、父の三島通庸は、あの西郷隆盛大久保利通が結成した精忠組の一員でした。その後、西郷に見出され鳥羽・伏見の戦いなどで活躍し、維新後は大久保に取り立てられて明治政府に出仕し、複数の県令(いまで言う県知事)を経て警視総監を務め、子爵を授けられた家柄でした。その父は弥彦が2歳のときに亡くなりますが、弥彦の兄・三島彌太郎日銀総裁になり、父と同じく子爵を授けられます。彌太郎は徳富蘆花の小説『不如帰』の登場人物、川島武夫のモデルと言われていますね。彌太郎の最初の妻は大山巌の娘で、二人目の妻は四条隆謌侯爵の娘です。


 弥彦のもうひとりの兄・豊沢弥二の妻・のお姉さんの夏子の孫にあたるのが、作家で割腹自殺したあの三島由紀夫です。また、その夏子の養祖父にあたるのが、幕末の徳川幕府大目付だった永井尚志。永井は幕臣として榎本武揚土方歳三とともに五稜郭の戦いで最後まで薩長軍に抗った人ですね。あの坂本龍馬暗殺される前日に永井と会っており、龍馬暗殺の黒幕説のひとりでもあります。


 また、弥彦の姉・峰子は、大久保利通の次男・牧野伸顕に嫁いでおり、その娘婿が昭和の名総理・吉田茂。その孫が、元総理で現財務大臣の麻生太郎氏です。また、その麻生太郎氏の妹が、皇室の寛仁親王妃信子さま。先ごろ亡くなられたヒゲ殿下こと三笠宮殿下お妃さまです。さらに、弥彦の妻となる文子の祖父は、幕末の名君・佐賀藩主の鍋島閑叟です。こうして見ても、弥彦の生まれた三島家というのは、まさに華麗なる一族だったんですね。


 そんな名家に生まれた貴公子の弥彦は、オリンピック出場要請を受けた当初、「たかが駆けっくらをやりに外国くんだりまで出かけるのは、東京帝大の学生にとってどれほどの価値があるのでしょうか?」と、東京帝大総長に相談したといいます。その帝大総長の励ましに後押しされ、卒業試験延期をも決して、オリンピック出場の意を固めたそうです。こうして、日本初のオリンピック選手2人が出揃いました。いよいよ日本のオリンピック史の幕開けです。


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by sakanoueno-kumo | 2019-02-18 01:32 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

桜満開の赤穂城を歩く。 その3 「本丸」

「その2」の続きです。

いよいよ赤穂城本丸を攻めます。

写真は本丸門

発掘調査の遺構に基づき、明治時代の古写真絵図を参考にして平成8年(1996年)に総工費6億7,000万円をかけて完全復元したそうです。


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本丸門は枡形虎口の形状で、手前に高麗門、奥に櫓門が見えます。

大手門では高麗門だけが復元されていましたが、こちらは櫓門もあります。

やはり、高麗門と櫓門がセットで揃うと見事ですね。

THE城門!って感じです。


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説明板によると、奥の脇戸付櫓門一の門で、木造本瓦葺入母屋造り、幅13m、高さ11mあるそうです。

手前の高麗門が二の門で、木造本瓦葺切妻造り、幅4m、高さ6mだそうです。


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説明板には古写真が掲載されています。


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本丸門の左右に伸びる内堀です。


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一の門の高麗門をくぐると、枡形ニの門の櫓門が見えます。

枡形内は思った以上に狭く、これは攻めにくい。


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ニの門の横の石垣の上には狭間が並び、向かいには雁木があります。

ここに閉じ込められたら、上から撃たれ放題

まさに袋のネズミですね。


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櫓門をくぐると、櫓の内部無料公開の看板が。

これはラッキー。


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本丸側から見た櫓門です。


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そして、こちらがその内部。

往時はここに門番が詰めていたのでしょうが、今は史料展示コーナーになっています。


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櫓門から左右に伸びる土塀には、様々なかたちをした狭間があります。


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櫓門から本丸の敷地を見下ろします。

コンクリートで整備された部分は御殿跡で、表御殿、裏御殿、台所の3ブロックに分かれます。

奥の緑の部分は庭園で、その左側に見える石垣が天守台です。


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御殿跡に降りてきました。


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本丸の案内図と説明板、御殿の見取り図です。


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地面には、その間仕切りを示した石盤が埋め込まれていて、たいへんわかり易い。


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コンクリートもただ敷き詰めているだけじゃなく、板間はの形状、畳の間はの形状をしていて、実にディテールにこだわった再現でした。


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そして、こちらが奥の天守台です。


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赤穂城は、正保2年(1645年)に常陸国笠間から入封した浅野長直が、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元年(1648年)より13年以上の歳月を費やし、寛文元年(1661年)に完成したものです。


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つまり、太平の世になってからの城で、この時代に築かれた城の多くは、徳川幕府への遠慮で天守が築かれませんでした。

赤穂城もその例外ではなく、天守台のみ築かれて、その上に天守が築かれることはありませんでした。


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天守台の上は芝生が敷き詰められています。

当初は5層天守の造営の計画もあったといいますが、それほど大きな面積ではありません。


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天守台から北側の御殿跡を見下ろします。

向こうに見えるのが二の門の櫓門。

往時は建物があったわけですから、門は見えなかったでしょうね。


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こちらは、天守台の西側にある表御殿大池泉と庭園です。

桜並木が見えるのは、本丸を囲う石垣内堀の外です。

天気が良かったら、綺麗な眺望だっただろうなぁ。


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天守台を降りて庭園を歩きます。

この池も、発掘調査に基いて復元されたものです。


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本丸南側にある刎橋門跡


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その名称のとおり、かつてここにははね上げ式の橋があったそうで、二ノ丸と通じていました。

向こうに見える桜並木は、二ノ丸です。


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さて、本丸をあとにして、「その4」は二ノ丸の桜を観にいきましょう。




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by sakanoueno-kumo | 2019-02-16 11:18 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

桜満開の赤穂城を歩く。 その2 「二ノ丸庭園」

「その1」の続きです。

赤穂城三ノ丸武家屋敷跡を過ぎて二ノ丸門を通る手前に、山鹿素行の銅像があります。

山鹿素行は赤穂藩初代藩主の浅野長直に千石で召し抱えられた儒学者、兵学者で、赤穂城の築城にも参画した人物です。


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説明板によると、赤穂城築城時には二ノ丸虎口縄張りを一部素行が変更したとされます。

だから、ここ二ノ丸門の前に銅像があるんですね。


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山鹿素行は家中で兵法を教え、あの大石内蔵助良雄も門弟のひとりだったといいます。

その後、大石たちが吉良邸討ち入りを成功させたことで、山鹿流「実戦的な軍学」という評判が立つことになったそうです。

その後、山鹿流兵法は幕末まで伝授され、吉田松陰松下村塾でも教材となりました。


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土台の銅板は漢文なので、よくわかりません。


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そしてここが、その二ノ丸門です。

今はただの道ですね。


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案内板です。

往時は切妻式櫓門が構えられていたそうです。


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こちらの案内板では、文久2年(1862年)12月9日に起きた文久事件が紹介されています。

文久事件とは、藩政改革を唱える急進派家臣の一派が、国家老の森主税と側用人の儒学者・村上真輔を赤穂城の門前で暗殺したことに端を発する事件で、その暗殺が行われたのが、この附近だったそうです。

本来は下級武士が藩の重臣を暗殺すれば大罪ですが、このとき、藩内の対立抗争の背景で急進派は賞賛され、逆に被害者であるはずの森主税や村上真輔の遺族が閉門の処分を受けることになります。

しかし、これを納得できない遺族たちは、事件から9年後の明治4年(1871年)2月30日、暗殺者たちが潜んでいた高野山に押しかけ、ついにそのをとりました。

世にいう「高野の仇討ち」です。

この事件がきかっけとなり、明治政府は「仇討ち禁止令」を発令するに至ります。

そのため、この事件は「日本最後の仇討ち」と言われているんですね。

高野の仇討ちといい忠臣蔵といい、赤穂は「仇討ち」のお国柄ですね。


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二ノ丸門を過ぎると、立派な土塀屋敷門が目に入ります。


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説明板によると、この門は家老の大石頼母良重屋敷門の復元だそうです。

大石頼母邸良重は大石内蔵助良雄の大叔父にあたる人で、浅野長直に重用され、長直の娘を妻に迎えて、ここ二ノ丸に屋敷をかまえていたそうです。


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平成10年(1998年)から3年ほどかけた二ノ丸発掘調査で屋敷跡の痕跡が多く見つかったそうで、その遺構に基いて復元されたそうです。


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門の横には、同じく復元された二の丸庭園の案内板がありました。

ここも、発掘調査をもとに平成14年(2002年)から約14年の歳月と約12億円をかけて修復したもので、ここを訪れた平成29年(2017年)4月現在もまだ整備中でした。


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門を潜ると、広大な庭園が広がります。


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「錦帯池」と呼ばれる池と、あずまやです。


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庭園は約1.5ヘクタールあるそうですが、わたしが訪れた1年前の時点では、4割に当たる約6,000㎡程度の公開でした。


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石垣に上ると、外堀が見下ろせます。


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北側の山には、「赤」の文字が。

夜にはイルミネーションで光るそうです。


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二ノ丸庭園の南を見ると、土塀の向こうにが広がります。

二ノ丸庭園は大石頼母屋敷門のあった東仕切門と、南側に通じる西仕切門があるのですが、平成29年(2017年)4月現在は、整備中のため西仕切門は開けられていませんでした。

なので、向こう側の桜並木に行く前に、本丸に向かうことにします。

続きは「その3」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2019-02-14 23:51 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

桜満開の赤穂城を歩く。 その1 「大手門~武家屋敷跡」

過日、播州赤穂城跡を訪れました。

赤穂といえば、「時は元禄15年、師走半ばの14日・・・」でお馴染みの赤穂浪士を誰もが思い浮かべるかと思いますが、あの浅野家の居城だった城です。

赤穂城は、正保2年(1645年)に常陸国笠間から入封した浅野長直が、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元年(1648年)より13年以上の歳月を費やし、寛文元年(1661年)に完成したものです。

わたしがここを訪れたのは平成29年(2017年)4月9日、桜が満開の赤穂城を歩きます。


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写真は大手門太鼓橋です。

昭和30年(1955年)に復元されたものだそうです。


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その北側には、同じく昭和30年に復元された隅櫓があります。


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大手門の高麗門をくぐります。

復元だからだと思いますが、扉がありません。


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門をくぐると、石垣で枡形が形成されています。


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おそらく、往時は櫓門があったのでしょう。

発掘調査で確認された礎石位置を示す板(白い四角の部分)が地面に埋め込まれています。


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石垣は切込み接ぎですね。


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枡形虎口を進むと、奥に番所跡があります。

櫓門を通る人を検問する門番が詰める場所で、今でいえばガードマンの詰所ですね。

その右側に見えるのが、外からの写真で大手門の横にあった隅櫓。


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桜が綺麗です。


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番所を過ぎて二ノ丸へ向かう途中に、武家屋敷跡が連なります。

まず目に入るのが、近藤源八宅跡長屋門


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「長屋門」とありますが、現存している建物は長屋部分のみで、門は残っていません。

じゃあ、なんで「長屋門」なんでしょう?


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内部から見た源八長屋門です。

たぶん、最近改修されたんでしょうね。

壁も瓦も綺麗です。


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近藤源八正憲は甲州流兵法の学者で、禄高1000石の重職を担っていました。

源八の父は赤穂城の縄張りを進めた近藤三郎左衛門正純で、源八の妻は、あの大石内蔵助良雄の叔母にあたるそうです。

浅野刃傷・赤穂藩改易時にはかなりの高齢だったと見られ、仇討ちの義盟には加わりませんでした。


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そして、こちらが大石内蔵助良雄邸長屋門です。

内蔵助については、ここで改めて説明するまでもないですよね。


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説明板によると、浅野家筆頭家老の大石家三代が57年にわたって住んでいた屋敷の正門で、主君・浅野内匠頭長矩刃傷事件を知らせる江戸からの急使がたたいたのも、この門だったそうです。


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門の前には、「史蹟 大石良雄宅跡」と刻まれた石碑が立ちます。


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大石家の邸跡には、現在、大石神社があります。

大石神社については、平成24年(2012年)の当ブログ(赤穂四十七義士を祀る大石神社に初詣。)の稿で紹介しておりますので、今回はスルーします。


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あと、建物は存在しませんが、城跡内には多くの武家屋敷跡があります。

全部を説明していたら終わらないので、写真のみ紹介。


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四十七士の片岡源五郎右衛門宅跡。


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同じく四十七士の間瀬久太夫正明屋敷跡。


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こちらも四十七士の磯貝十郎左衛門屋敷跡。


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こちらは脱落組の鈴田重八屋敷跡。


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こちらも脱落組の田中貞四郎屋敷跡。


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こちらは、最初から大石たちとは意見を異にしていた大野九郎兵衛屋敷跡。


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こちらは藩医の寺井玄渓屋敷跡。


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素性がよくわからない神尾専右衛門邸跡。


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武家屋敷跡だけでずいぶん長くなっちゃいました。

最後に武家屋敷公園の桜を紹介して、「その2」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-02-13 23:23 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)